先週の 4月7日で、私たち家族がここフィリピン・ネグロス島に移り住んで、丸8年が経過しました。当時、私の年齢は50歳と半年。28年間勤めた日本の某大手電機メーカーを、前年の末に早期退職。転勤族、とまでは行かないけれど、比較的勤務地替えが多く、引っ越しを伴った異動が4回。大阪を起点に横浜や福岡を転々。
日本国内最後だった福岡市中央区の賃貸マンションを引き払い、翌日のマニラへのフライトに備えてホテル日航福岡に一泊したのが、2013年の4月5日。夕食は、つい近くのラーメン屋さんへ。それも博多ラーメンではなく、関西系の天下一品。やっぱり学生の頃から慣れ親しんだ味ですから。
福岡〜マニラのフィリピン航空便は、午後の遅い時間帯で、マニラ到着後ネグロスへの乗り継ぎが翌朝。ニノイ・アキノ国際空港近くのパサイ市内のホテルに泊まりました。桜の季節から、暑さの盛りのフィリピンだったので、空港のターミナルビルを出た時は、とても蒸し暑く感じたのを覚えています。
それから約1年間、家内が事前に探してくれた借家に仮住まい。2LDKのそこそこの広さだったので、冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの主だった家電製品や、ある程度の数の家具も買い揃えました。
国際引っ越しは日通に依頼し、あまり大きくない棚やテレビとオーディオ、今も愛用している自転車などなどが1ヶ月かかって到着。何と言ってもたいへんだったのは、千冊以上の書籍でした。
移住の数年前から、日本人の建築家にお願いして、設計は済んでいた自宅。大工さん探しや、申請が結構時間がかかり、着工したのは、半年経った10月。隣島のボホールで大きな地震があったり、スーパー台風ヨランダが来たり、工事以外にも印象に残る出来事が満載の1年でした。
そして、日本人学校を作るほどの邦人がいないネグロスなので、小学校1年から地元の学校に通い始めた息子は、もう中学生。家内は、その学校の斜め向かいにある、フィリピン教育省のシライ市分室に就職。
私は当初、テニスをやってましたが、数年で何となく縁がなくなりました。その代わりでもないけれど、ブログ執筆やイラスト描き、ボイストレーニングに筋トレ・サイクリング等々。2年半前からは地元の方言、イロンゴ語を習ったり。家内が働き始めてからは、家族のための料理も担当。
一昨年は、自宅の二期工事に相当するゲストハウスを、自分で設計と現場監督をやって完成させ、これで移住の生活も、完全に軌道に乗った感じ。幸いにも、コロナ禍の影響は最小限で、ほとんど生活の質を落とすことなく、日々を過ごしております。
とまぁ、今のところネグロス島への移住は、家族全員にとって成功したと言えるでしょう。
そういうタイミングなので、今回は、リタイア後、フィリピンに移住する日本人の向き不向きについて考えてみたいと思います。(後編に続く)
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