2023年9月8日金曜日

復讐するは我にあり

 タイトルに使った文言は、新約聖書の一節。ローマ人への手紙の中でパウロが語った言葉です。あなたを迫害する者のために祈りなさいと諭し、徹底して耐え、悪に対して悪で応えてはいけないと戒めます。さらに、自らの手による復讐を禁じ、復讐は神によって為されると続くわけです。つまり「我」とは神さまのこと。

日本では、昭和38年(1963年)に起こった連続殺人事件に材を取った、佐木隆三さんの小説の題名に使われたことで有名になりました。これは、あまりにも理不尽で理解不能な殺人動機に、佐木さんが被害者側の視点で書くしかないと、考えたからだそうです。ただ、本来の意味ではなく、あたかも復讐を肯定して、強く念じる言葉として理解した人がほとんど。まぁ、聖書に馴染みのない人なら、ちゃんと説明されないとそう思うのも無理はないでしょう。

と、聖書の講釈のような書き出しになってしまいましたが、まるでこの言葉を地で行くような体験をしたというお話。実は私、社会人になった頃から、深刻なトラブルを起こした相手が、それほど時を経ずに、意に沿わない異動や辞職になったり、不測の病になるということが多いんですよ。もちろん喧嘩した相手がすべてそうなるというわけではなく、こっちにも非があるなと思える場合は、何も起こらない。

覚えている範囲で数えてみると、ちょっと異常なまでに指示が細かく、それが原因で深夜に及ぶやり直しが日常茶飯事だった上司が、いきなりの左遷。見方によってはそうかも、ではなく、誰がどう考えたって、なぜそんな地方都市に転勤させるか?という類のもの。

次は、人を怒らせるのが趣味みたいな同僚。吐き出す言葉のほとんどすべてに毒を含んでいて、相手へ皮肉や侮蔑なしに会話ができないという、ある意味天才的な人物。あれほど上からも下からも嫌われた人には、会ったことがありません。彼の場合は、内臓に致命的な病気が見つかり、医師に長生きはできないと告げられたそうです。

一番ひどかったのが、エゲつないパワハラで、私を半年の休職に追い込んだ上司。このオっさんの被害者は私だけでなく、何人もの部下が心を病んだり転職したりが相次ぎました。さすがに事態を重く見たさらにその上の管理職に、辞職を勧告されたんでしょうね。ほどなくオっさんの姿は、社内から消えました。

これ以外にも心当たりはあるのですが、10年以上経っても差し障りがあって書けない人もいます。

そして50歳で早期退職してフィリピン移住。日本でのドロドロの人間関係から逃れて、遠くネグロス島の片田舎までやって来たので、もうこれで終わりかと思ったら、やっぱり続きがあったんですよ。

まずは、たまたま購入した宅地のすぐ近くで活動していた日本のNGO。最初はボランティアで協力してたんですが、このNGOを現地で仕切っていた日本人マネージャーというのがとんでもない人物。公私の区別が全然できず、NGOで雇ったローカルスタッフを飲食店で働かせてその上前をハネたり、部下と肉体関係を持ったり。

仕事の約束は守らないし貸した金は返さない。私は早々に縁を切りましたが、結局はNGOの代表にクビを切られたそうです。またその怨みつらみをSNSに垂れ流したりしてました。

フィリピン人相手でも同様のことがあって、すぐ裏手の豪邸のオーナー。宅地の真ん中で闘鶏を飼育して、鶏を鍛えるためと称して昼夜関わりなく大音量の音楽。数ヶ月に一度は広大な庭で闘鶏大会を開催。迷惑を通り越して災害のレベル。宅地で闘鶏って、フィリピンでも違法なんですよ。

ところが半年もした頃でしょうか。突然、たくさんの鶏がいなくなり音楽もパタっと止みました。どうしたのかと思ったら、当のオーナーがパーキンソン病で寝たきりになってしまったそうです。なので養鶏も闘鶏も廃業。

直近の話題では、コロナ禍の最中にモメた近所のオジさん。これはブログにも書いた通り、買った宅地を畑にして野菜作り。それだけなら良いんですが、フィリピンあるあるで、デカいスピーカーを持ち込んで轟音を響かせながらの畑仕事。警備員に頼んで苦情を入れたら逆ギレされて、バランガイ訴訟になってしまいました。これはバランガイ・キャプテン(町内会の会長みたいな要職)が上手に取り成してくれて、大事には至りませんでしたが。

そのオジさん、しばらく姿を見ないと思って先日その畑の前を通ったら、あれほど通い詰めたご自慢の畑がすっかり草ぼうぼう。もう怖いので詳しくは聞いてませんが、やっぱりどこか具合が悪くなったらしい。

ということで、私が本気で相手の不幸を念じたりしたことはないんですが、なぜか結果としてこうなることが多いという、ちょっとオカルトじみたお話でした。



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