第3回の日本・フィリピン交流史は、前回の高山右近から一気に時代を下って、明治時代のお話。
ベンゲットは、ルソン島の中央付近、観光地として有名な「夏の首都」バギオが位置する、フィリピン国内の州(プロビンス)の一つ。ただし、バキオ市はベンゲット州には属さず、独立した行政区分なんだそうです。
「ベンゲット移民」は、1903年(明治36年)、マニラ〜バギオ間の全長41キロの道路建設のため、フィリピンに渡った日本人移民のこと。土木作業者・石工・現場監督・通訳を含む、総勢5,100名が、この工事に参加しました。江戸時代初期の鎖国令以来、閉ざされていた日本・フィリピンの交流は、このベンゲット移民で約260年ぶりに再開したというわけです。
当時フィリピンは、スペインから独立したのも束の間、わずか数年でアメリカの植民地となってしまいました。そして首都マニラの暑さを嫌う、新しい支配者のアメリカ人が、バギオを避暑地とするために直通道路の建設を計画。延べ3万人の労働者を動員。その半数がフィリピン人で、日本人は全体の2割。その他アメリカ人や中国人、インド人、イギリス人が作業に従事。
着工から5年、日本人が参加してから2年後の1905年(明治38年)に道路は完成し、アメリカによるフィリピン統治政府の代表者、ケノン少佐に因み、ケノン道路と命名。しかし、技術的な準備不足、過酷なジャングルでの労働環境などが災いし、日本人労働者の半数近い700名が、事故や病気で命を落としました。
現在のケノン道路(日本の占領時代にベンゲット道路と改名)の写真を見ても、山肌を這い回るような姿から、建設は困難を極めたことが容易に想像できます。110年前の、フィリピンへの移住者としては私の大先輩たち。家族を祖国に残し、異郷の地で亡くなった方々の心中を察すると、涙が出そうになりますね。
出典:まにら新聞
ところで、明治36〜38年というと、日本はまさにロシアとの戦争の真っ最中。対外輸出できる製品といえば絹糸や工芸品ぐらいしかなく、貧しい農家では口減しのために、娘を売春宿に売り渡す人身売買が、公然と行われた頃。
軍艦すら国内で造れず、イギリスなどに発注。欧米列強に追いつこうと必死になっているものの、まだまだ国力は貧弱で、三等国の扱いを受けていました。つまり、現在とは逆で、仕事を求めて日本人がフィリピンへ出稼ぎに。しかも命懸けの厳しい労働に就くしかないような時代だったのです。
そして、難工事をやり遂げて生き残った人々には、その後も苦難が続きます。工事が終わって失業者になっても、貯金すらないケースが多かった。彼らは、帰国しようにも旅費がなく、言わば「元祖・困窮邦人」となって、マニラに残留するしかありませんでした。
それにしても、現在の日本では、同時期のハワイやアメリカ、南米への移民について、多少知る人はいても、フィリピンへの移民、ましてやベンゲット移民の名を聞くことさえ稀。かく言う私も、フィリピンに縁があり、この地に移り住むことがなければ、関心も持たなかったでしょう。
さて、マニラに残された困窮邦人。その窮状を救ったのが、後に「ダバオ開拓の父」と呼ばれた、太田恭三郎という兵庫県出身でマニラ在住の日本人実業家でした。次回は、ダバオでの日本人移民について投稿します。
ケノン道路の展望台にある記念プレート
参考文献:戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略
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