2020年9月23日水曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史7「からゆきとジャパゆき」

前回投稿した、キリノ大統領による、モンテンルパ刑務所に戦犯として収監されていた、元日本兵105名への恩赦が行われたのが1953年。この頃には、フィリピンはアメリカからの復興支援を受けるなどして、年平均6%の経済成長を遂げ、ビルマ(現ミャンマー)やスリランカと並んで、アジア期待の星でした。60年代には、一人当たりの国民所得が、日本に次いでアジア2位。今では信じがたいことながら、当時フィリピンは「アジアの優等生」と呼ばれたそうです。

そうした状況を暗転させたのが、マルコス大統領による20年間の独裁政権。同じ独裁でも、マハティールリー・クアンユーらの、優れた指導者によって大いに経済を発展させた、マレーシアやシンガポールとは対照的。リー・クアンユーが「私なら3年でフィリピンをシンガポール並みにしてみせる」と言ったのに対し、マルコスは「私なら3ヶ月でシンガポールをフィリピン並みにしてやる」という小咄もあったぐらい。

マルコスはフィリピンを私物化し、長期に渡る政治腐敗は、自由競争を妨げ、貧困は蔓延しました。その結果、国民の1割に当たる1000万人が、職を求めて国外へ。優等生から一転して、1980年頃のフィリピンは「アジアの病人」と揶揄されるまでになってしまいました。

その時期に、バブル経済を謳歌していた日本を目指して、フィリピンから大挙押し寄せたのが、エンターティナーの名目で入国ビザを取得したフィリピン女性たち。日本の流行語にまでなった、いわゆる「ジャパゆき」です。

1980年、私は高校3年生。ジャパゆきの語源である「からゆき」の意味は、明治から昭和初期に、主に九州出身で、マニラを含む東南アジアの港湾都市に娼婦として売られていった日本女性のことだと知っていました。笑えないジョークだけど、ずいぶん上手いネーミングだと感心したことを覚えています。

日本・フィリピン交流史の第三回「ベンゲット移民」でも触れたように、日本からフィリピンへ労働者を送り出していたのが、約100年の時を経て、立場が逆転したわけです。

からゆきさんから、100年後のジャパゆきさんたちも、実際にはセックスワカーへ流出するケースが多発。大金を稼いで帰国する女性がいる一方で、暴力団の介在などもあって、不法滞在の上に強制労働や売春強要など、悲惨な状況に陥る女性も少なくなかった。

しかし、負の側面ばかりではなく、意外なと言うか当然にと言うか、数多くのフィリピン女性と日本男性のカップルが生まれることに。現在フィリピンに住む日本人男性の中には、80年代にフィリピン女性と結婚した人もおられます。ある意味、戦後の日比交流のパイオニアと言ってもいい。

また、水商売関係だけでなく、当時日本でデビューした正真正銘のフィリピン出身のエンターティナーがいましたね。ジャズシンガーのマリーンさん、女優のルビー・モレノさんなど。ちなみに私の家内は、モレノさんと同い歳。(顔は全然似てませんが)

今では、90年代生まれの日比ハーフのタレントがたくさん活躍されています。大相撲の高安関もお母さんがフィリピン人。

その後、日本国内の人権活動や、入国審査の厳格化により、以前のような被害者は減り、「ジャパゆき」は死語と化しつつあります。最近、英語留学でネグロスにやって来た若い人の中には、この言葉を知らない人もいるぐらい。生まれる前のことだから、仕方ないですね。

次回は、日本・フィリピン交流史の最終回「再逆転」を投稿する予定です。


参考文献:
ニューズウィーク日本版「アジア経済の落ちこぼれ、フィリピン
日経ビジネス「アジアの病人の目覚め
ウィッキペディア
 「からゆきさん
 「ジャパゆきさん



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