2020年9月13日日曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史2「ユスト高山右近」

高槻市 城跡公園に建立された右近像


前回に引き続き、日本・フィリピン交流史です。今日はその第2回。
少々ヒネりが効きすぎだった第1回の杉谷善住坊に比べると、ご存知の方も多いと思われる、高山右近(たかやま・うこん)のお話。

またまた、昔のNHK大河ドラマ「黄金の日日」を持ち出して申し訳ないことながら、私が、この有名なキリシタン大名のことを知ったのは、この番組を通じて。DVDで見直してみると、登場した時は「高山重友」になってたんですね。


「右近」の名前が浸透していますが、その諱は、友祥、長房、重友、などが伝わっていて、右近は本名ではなくニックネームとか芸名みたいなものなんでしょうか。この投稿では右近で通します。

10歳でカトリックの洗礼を受け、霊名ユスト(またはジュスト)を名乗った高山右近。神さまにも人にも、とことん真面目な態度で接し、物事を突き詰めて考える性格だったらしい。その右近が、与力(厳密な主従ではなく、補佐役か客将みたいな関係)として仕えていた荒木村重が、主君・織田信長に対して叛乱を起こした時のこと。

従わなければ、当時の領地、高槻(現・大阪府高槻市)を焼き払い、キリシタン信者を皆殺しにすると、信長からの脅しを受けた右近。村重への忠義と板挾みになった彼は、周囲の反対を押し切って、領地を信長に返上。領民の命乞いのため、単身出頭するという、ちょっと信じられない行動に。

ドラマでは、舞台俳優でテレビ初出演だった鹿賀丈史さん演じる右近が、白い死装束に身を包み、闇に紛れて一人歩く姿がとても印象的でした。完全に殉教者のイメージ。今でも右近を思う時、私の頭の中のスクリーンに映し出されるのは、若い頃の鹿賀丈史さん。

私は、30歳を過ぎてからカトリック信徒になり、にわかに興味を持って、高山右近関連の書籍を読み始めました。実は、フィリピンに移住する少し前まで、右近所縁の高槻市内の教会に所属。また住んでいた茨木市(高槻市と隣接)や、私のカトリック入信のきっかけとなった教会がある伊丹など、すべて右近と深い関わりのある土地。

徳川家康の世になってからの右近は、キリシタン禁制下で棄教を拒み、ついにはフィリピンへ亡命。400年の時を隔てながらも、とても偶然とは思えないほど、右近と私の行動範囲は重複。信仰の篤さでは比べものにならないものの、やっぱり親近感を覚えてしまいます。

さて、フィリピンでの高山右近。1614年12月、当時スペインの占領下だったマニラに到着。カトリック関係者には、すでに有名人だった彼は、熱狂的な歓迎を受けました。民間でここまでの国賓待遇だった日本人は、90年代フィリピンで大ヒットしたアニメ「超電磁マシーン ボルテスⅤ」の主題歌を歌った、堀江美都子さんのフィリピン渡航まで、例がなかったかも。

しかし、フィリピンへの長旅と酷暑の気候は、63歳の右近には厳しすぎたようで、マニラ到着後わずか1ヶ月余りの、翌年2月3日に病死。右近の死後24年経った1639年、徳川三代将軍・家光の時代に南蛮船入港禁止令(いわゆる鎖国)が発せられました。その後200年以上、オランダ・清国との限定的な接触を除き、外国との交易は禁じられ、始まったばかりの日本・フィリピン交流も完全に途絶。

時は移って1976年(昭和54年)、高山右近が結んだ縁により、マニラ市と高槻市は、姉妹都市となり、かつて日本人町のあったマニラ市内パゴ地区に、日比友好公園と高山右近の像が建設されました。一時は廃墟同然となったものの、アロヨ大統領時代に再整備され、現在に至っています。

そして2016年、日本カトリック信徒の長年に渡る活動が結実し、ユスト高山右近は、バチカンによって「福者」(聖人に次ぐ、カトリックでの徳と聖性を持つとされる人物の称号)に列せられました。


次回は、一気に時代を下って、明治時代の日比交流について投稿します。


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