今日の投稿は、日本・フィリピン交流史の第4回。
ルソン島のマニラ首都圏、ビサヤ諸島のセブ・マンダウエ・ラプラプ各市で構成されるメトロ・セブ、そしてミンダナオ島にあって、フィリピン第三の人口を擁する経済圏がダバオ市です。イスラム教徒が多い地域として知られ、16世紀から始まったスペインの侵略に最後まで抵抗。19世紀まで独立を守り続けました。その結果、皮肉なことに、近代化が遅れてしまったダバオ。そんなダバオの発展のきっかけになったのが、20世紀初頭の日本人開拓者によるマニラ麻(アバカ)栽培の農園経営だったと言われています。
その原産地から名付けられたマニラ麻は、バナナ同様の多年草。その葉柄(葉を支える柄の部分)から採取される繊維は、植物繊維としては最も強靭。1800年代から船舶用のロープの材料として用いられてきました。また、現在の日本の紙幣は、マニラ麻などの繊維を特殊加工して作った和紙が使われているそうです。
遠目にはバナナと見分けがつかないマニラ麻
手前には乾燥中の繊維
出典:Wikipedia
出典:Wikipedia
このマニラ麻に目をつけたのが、明治時代、マニラに住んでいた日本人実業家の太田恭三郎という人物。彼は、相当な先見の明があったんでしょうね。前回投稿したケノン道路建設のために来比した日本人労働者(通称ベンゲット移民)。道路完成後に失業し、帰国する旅費もない困窮邦人となってしまいます。太田は、そんな彼らを率いて1905年(明治38年)にダバオへ移住。同胞救済と新規事業立ち上げの一石二鳥を狙いました。結果から言うと、この目論見は大成功。
もちろん最初からトントン拍子ではありません。当初、約200ヘクタールの土地を買収し、そこでマニラ麻の植え付けを始めようとしたところ、外国人であることを理由に耕作が許されず、州から退去命令を受けてしまいました。そこで太田は一計を案じます。
土地を無償で政府に還付し、収穫物の10パーセントを政府に納付する耕地請負制度を提案。官有地を租借するという形で、ダバオでのマニラ麻栽培開始にこぎ着けました。
その後、日本人移民によるダバオでのマニラ麻事業は軌道に乗り、約30年後の1939年(昭和14年)には、フィリピン全体の在留邦人2万9千人のうち、ダバオ在住者は1万8千人にまで増加。そしてその多くがフィリピン人女性を妻に迎え、フィリピン生まれの移住2世は、1万人を数えました。
1937年(昭和12年)のダバオ州での国籍別農業投資額を見ると、フィリピン人の約3200万ペソ(65.6%)を除けば、日本からの投資額は約1000万ペソ(20.7%)でダントツの2位。3位のアメリカ、約285万ペソ(5.9%)を大きく引き離しています。マニラ麻の生産量は、フィリピン全体の半分強をダバオ産が占め、さらにその7割が日系事業者によるもの。
こうして、ベンゲット移民から約30年。フィリピンの日本人移民たちは、成功者として確たる地位を築くに至りました。
最近でこそフィリピンで日本人が多いのは、マニラやセブですが、明治以降の日比交流の源流は、バギオやダバオへの移民。特にダバオでは、今でも日本に親近感を持つ人が多い。以前ダバオ市長を務めたドゥテルテ大統領も大の親日家。私たち現代のフィリピン在留邦人は、はるか明治時代の先人たちが築いた、遺産の余光に与っているとも言えます。
しかし、日比の蜜月時代は長続きはしませんでした。1941年(昭和16年)12月、日本はフィリピンの宗主国だったアメリカに奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発。フィリピンへ移住した日本人とその家族には、過酷な運命が待ち受けることに。
次回は、戦場となったフィリピンでの日本人について投稿します。
参考文献:
戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略
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