2022年10月24日月曜日

ある日本人の死

前回投稿した、ダイアナさんとの3年ぶりの再会。積もる話は多々あれど、かなりショッキングだったのが、共通の友人である日本人男性が、コロナ禍前に亡くなっていたという件。

この方、仮にMさんとしておきます。

私より少し年長のMさんと知り合ったのは、ここネグロス島のシライ市。私たち家族が移住してきた直後なので、2013年の4月。Mさんは、当時シライを拠点に活動していた、日本の某NGOのボランティアに参加中でした。

華々しい学歴・職歴とは裏腹に、プライベートの生活には問題を抱えておられたようで、ネグロス渡航も、そこからの現実逃避。たまに食事などご一緒する時には、どうしてもそっちの話題になってしまいました。

下戸の私は、直接見たことはないけれど、辛いことを忘れるためとばかりに、相当な酒量だったとか。フェイスブックの投稿で「浴びるほど飲んだ」とか「痛飲」なんて表現が、かなり頻繁に登場するぐらい。おまけに今時珍しいほどの愛煙家。

しばらくは、日本の連休の度にNGO行事に参加していたようですが、やがて現地駐在の日本人マネージャーと大喧嘩。そのマネージャーというのが、お金・時間・異性のすべてにだらしない人だったので、まぁ衝突するのも仕方ないかとは思うものの、「こうあるべき」的な思考をしがちなMさんのこと。真正面から言い合いになっての、喧嘩別れだったようです。

その後も、NGOとは無関係に「第二の故郷ネグロス」と思い定めて、かなり頻繁にフィリピン通い。数年後には、日本での生活に見切りを付けて、ネグロスにて年若い女性と結婚。我が家から車で15分ほどの場所に一軒家を購入されました。

こう書くと、なかなか羨ましい新生活なんですが、正しいと思ったことを曲げない、フィリピンにあっては、いささか生き難い性格。最初から問題が多いことが分かっているはずの、守衛がいない、しかも貧困地区と隣接する宅地に住んで、隣近所に苦情を言ったり、宅地内で頻発する犯罪に備えてと、奥さん名義で拳銃を購入したり。

さらには、当初は同居していたお義父さんを、追い出したかと思えば、奥さんの知り合いだからと雇った、ライセンスのない配線工とトラブル。仕事がひどいとクビにしたのはいいけれど、仕返しを恐れて我が家に一時避難したこともありました。

どうも、敢えて困難な道を選んで、厄介事に巻き込まれるパターンが多い人で、わざわざマニラで深夜にタクシーに乗って、ホールドアップを食らった経験もあったそうです。

私もどちらかと言うと、物事はキッチリ進めたい几帳面な性格なので、Mさんの苛立ちは理解はできます。それでも、ストレスの多い日本から離れて移り住んだはずのネグロス島。違うところでストレス溜めていては、まったくの本末転倒だと思うんですよね。

電気屋と揉めた後は、さすがに「他人には頼らない、迷惑はかけない」という、超日本人的思考を少しは改められたのか、Mさんに先立って自宅を建てた私に、アドバイスを求めてこられました。

ここから話が発展して、購入した自宅の間取りが悪くて、住みにくくてしょうがないとのご要望にお応えして、私が図面を引いてリノベーション。大工さん、配線工、塗装屋、全部ご紹介。

ようやく工事が終わって、喜んでもらえたと思ったのも束の間、ある日フェイスブックを見ると、癌治療のために日本へ帰国したとの投稿が。可哀想なことにネグロスの自宅には、新妻が一人残されて、心配のあまり毎日泣き暮らし。何度か家内を連れて、慰めに行ったりもしました。

奥さんの話によると、ネグロスでも相変わらずの酒量で、思い詰めて家にあった酒瓶を隠したりしたことも。本人さんに指摘したことはないけれど、私と同年代にしては見た目が老け過ぎだったし、いつも顔色は土気色。

そしてMさんは、手術後に癌が再発。奥さんも後を追って渡航しましたが、相変わらず酒は飲み続けている。...という投稿があった後はプツリと音信が途絶えて、アカウント自体が削除されてしまいました。これがコロナ禍が始まる前年のこと。それから3年後の先週、ダイアナさん経由で、治療の甲斐もなく他界されたと知った次第。

日本に住もうがフィリピンに移住しようが、あるいは健康的な生活の有無と関係なく、癌になる時はなるもの。とは言っても、さすがにMさんは、側から見ていても自暴自棄に過ぎました。おそらく私が、もっともらしい忠告をしたとしても、それを聞き入れるようなMさんではなかったでしょうけど。

それでも、ご近所さんで友達付き合いもさせてもらっていただけに、とても残念で寂しい話です。


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