2023年6月8日木曜日

いかに50歳で日本から脱出したのか 前編

 前回はなぜ私が、50歳で日本の企業を早期退職して家族でフィリピンに移住したかを、ツラツラと書き記しました。今回はその実行編です。

フィリピンへの移住を思いついたのは30代の終わり頃。フィリピン人の家内と一緒になって数年経ったぐらいの時期です。実はちょうど海外担当を外れて、日本国内市場に仕事が移ったタイミング。当時の海外業務は、開発は日本で行なっていたものの、最終決定権は現地法人の社長にありました。輸出は縮小して現地に工場と生産技術、企画・営業機能を移してましたからね。

つまり、その社長と数名のブレイン的な部長さんで、実質的な仕事が回っている状況。極端に言うと、国内でまったく理解されなくても、現地の社長がゴーサインを出せば問題なし。これは実に快適な環境でした。プレゼンがすべて英語だったのも大きいでしょう。なぜなら参加する日本人スタッフはノン・ネティブが多くて、微妙なニュアンスが分からないこともあり、発言も返答も変な含みがなくストレート一本。次までに何をすればいいのかの答えが出ているので、ストレスも少なかった。

そこから180度違う日本向け業務。前回恨みを込めて書いたように、物事が決まらない上に、やり直そうにも指示が曖昧すぎて、謎解きのような会議の連続。精神的に疲弊しまくっていた時にフト浮かんだのが、家内の故郷フィリピンへの移住でした。

さて、そこからが人生の分かれ道。「ここではないどこか」的な願望は誰でも持つでしょうけど、本気で実現の道を模索する人は少数派。私はどうやら、その変わり者の一人だったようで、思い立ったが吉日が如く、早速フィリピン・ネグロス島での生活をシミュレーションを始めました。

シミュレーションと言ってもそれほど大層な話ではなく、日々の生活の金勘定。食べ物や気候、言葉と生活習慣は、仕事や家内の里帰り同行で長期滞在の経験があるので、適応できるかどうかは体感的に分かってました。

何ヶ月か考えた末に、50歳まではちょっと無理という結論に到達。インターネットでのビジネスが今ほどの広がりはなかった当時、40歳直前の私が持っていた職業スキルと言えば、日本企業の中でしか通用しないものばかり。私が料理人だとか美容師だったなら、すぐにでもビザ取得に走り出してたんですけどね。もちろん手に職があっても、フィリピンでの起業はそれほど簡単ではありませんが。

ただ逆に言うと、ある程度のまとまった資金があって、住宅を始めとする生活基盤を確立して、年金支給の65歳まで食いつなぐ前提ならば、50歳からが最適。マニラやセブでは無理でも、家内の実家シライならば、年間100万円もあれば、みじめにならない程度の生活レベルは維持できそう。実はこの読みがまんまと当たって、あれから20年経って景気がよくなり物価が上がったフィリピンでも、シライに住んでいる限りは、まだかなり余裕があるぐらい。

さて、そこから50歳までの10年も、相変わらずの我慢の日々だったのですが、ぼんやりした夢ではなく、実行を見据えた移住計画があったお陰で、なんとか凌ぐことができました。やっぱり人間には希望が必要なんですね。また具体的なビジョンがあると自然と頭のアンテナが張り巡らされて、将来に繋がる情報を得たり、素晴らしいその道の先達の方々と出会えたり。

結果的に焦って走り出さず、十年の助走期間があったのはプラスに作用しました。まぁ十年はちょっと長すぎで、二〜三年ぐらいで良かったんですけど。

ということで、移住までの十年で何をしたかを書く前に、ざっと1,500字も費やしてしまったので、次回に続きます。



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