2025年3月10日月曜日

またもや騒音と戦う日々

 向かいの家で、騒音大会が始まったのが、ちょうど私のミンダナオ滞在から帰宅した頃なので、かれこれ2ヶ月近く経ちます。騒音大会なんて大袈裟に書いてますが、要するに向かいの家のオーナーが代わって、リノベ工事が始まったということ。

以前のオーナーは、夫が「サトウさん」という日本人。ただしかなり高齢だったようで、若いフィリピン人妻にお金だけ出して家を建てて上げたはいいけど、結局一度も住むことなく他界したらしい。私も会ったことがありません。

その若かった奥さんも、娘が高校を卒業するぐらいなので、すっかり中年女性。その後再婚して、いろいろ商売をやってたようなんですが、コロナ禍やらがあってお金に窮して、結局は前夫の遺産である家を売っぱらってしまった次第。

実を言うと、このオバさんはかなり迷惑な隣人でした。元々山間部の出身らしく、フィリピンの田舎の人あるあるで、頻繁に親戚を呼んでの大宴会。それが週末の深夜に及び、閑静な住宅地の真ん中で下手なカラオケはガナる。養鶏業を営む新しい旦那さんが来てからは、庭で大量の雄鶏を飼って、喧しいことこの上なし。

せめて敷地の周囲に壁でも作ってくれればマシなものを、お金がないので庭が剥き出し。その庭も手入れもせずに放置して、完全にジャングルに戻っている有様。さらに、そこから出る落ち葉で焚き火をするもんだから、風向きによっては、こちらにも煙もくもく。もう、これ以上はないというほど迷惑千万なので、出ていってくれてホっとしてます。

問題は、次のオーナーがどんな人物かというところ。さすがに600平米ほどの家付のロットを買ったぐらいなので、それなりに裕福で、おそらく前のオーナーよりはマシだろうと思います。ただ差し当たって困っているのは、リノベ工事の騒音。

まず工事は、ジャングル状態の雑木の伐採から始まりました。これが丸三日間チェーンソー使いまくり。ただ切り倒すだけじゃなく、運び出しができるように、細かく切断するのですごく時間がかかります。その間、脳みそを掻き回されるようなエゲつない騒音。

それが終わったと思ったら、チェーンソーほどではないけれど、グラインダーやらハンドドリルの轟音。それだけなら、我慢するしかないと諦めもつきます。ところが、わざわざデっかいスピーカーを持ち込んで、朝から夕方までディスコ並みの大音量BGM。フィリピンなら珍しくもないとは言え、ここはサブディブジョンとかビレッジと呼ばれる、それなりにお高い高級住宅地。宅地のルールでも「大音量の音楽は禁止」となっています。

極め付けは、ステイ・インつまり工事の敷地内に住み込みの大工さんなので、夜も音楽流すんですよ。それだけでなく、カラオケまで始める始末。これはアカんやろ。

この手のトラブルは初めてではなく、向かいとも裏とも両隣とも、一通り揉めてきた移住13年目の私。こういう時は、外国人である私が直接文句を言うと、確実に相手が感情的になって大喧嘩になるので、今回は、メイドさんや家内、二人が不在の時は、宅地のガードマンに頼んで、音楽を止めるか音量を下げるように「お願い」してもらいました。

ツラいのは、ただうるさいだけでなく、家内が私の不快感をまったく理解してくれないこと。他のことに関しては、日本とフィリピンの感覚差をあまり感じたことがないし、なかなかのインテリの彼女。むしろフィリピン人離れしている性格のはずが、騒音に関しては、以前から平行線なんですよね。

それでも苦情申し立ては効果的で、少なくともその日のうちは、音楽「だけ」は静かになります。ところが、学習能力がないのか、記憶力が希薄なのか、翌日から数日後には同じことの繰り返し。仕方がないので、こちらも同じ対応。どうやら、ずっと同じ大工ではなく、メンバーの入れ替わりがあるようで、イタチごっこが延々と続く有様。


それにしても、一から建て直すわけではないのに、ずいぶんとチンタラ仕事やってますね。時々観察してみると、頭数が多い日は、とかく私語が増えます。それも、まるで酔っ払いの集会か?というような大声で怒鳴り合っているみたいに。音にダラシ無い大工は、あまり技能も高くない感じ。あるいは日当仕事で、長引けば長引くほど、手取りが増えるのかも知れません。冗談みたいですが、日曜日まで出てきてるのを見ると、案外これは当たってる気が。

ということで、そろそろ乾季に入り、晴天が続いて暑くなってきたネグロス島。間の悪いことに、工事現場の真正面に私の書斎があるので、日中は締め切ってエアコン使うしかありません。壁は仕上げ段階なので、せいぜいもう2〜3週間程度でおしまいなんでしょうけど、とにかく一日も早く、以前の静けさが戻ってほしい。騒音に対してだけは、私のフィリピン移住で持った、後悔に近い感情です。



2025年3月2日日曜日

飼い犬ゴマの受難

我が家で「ゴマ」と名付けた犬を飼い始めたのが2017年。生まれたての仔犬だったゴマも、もう8歳。 人間ならば立派な中高年で、下手をするとアラ還の私と同世代なのかも知れません。何度もこのブログで取り上げているので、犬好きの方は、こちらから過去の投稿をご覧ください。

そのゴマが、先日、急に餌を食べなくなりました。気が向かないと朝ごはんをスキップすることがあっても、夕方には何もなかったかのように、ガツガツと完食するのが常。なので「ああ、またか」程度で特に気にも留めてなかったのが、今回は丸二日も絶食のハンガーストライキ状態。それだけでなく、なにやら出血してる。よく見ると、睾丸の一部が腫れて、そこから血が滲みだしています。そして明らかに元気がない。

いつもなら、家の前を人や他の犬が通っただけで、ものすごい勢いで吠えまくり、庭の端から端まで全力疾走する奴が、その日は、ずっとヘタリこんだまま。う〜ん、これはヤバいかも。

びっくりして「犬」「睾丸」「出血」でグーグルさんにお伺いを立ててみたら、中高年で去勢をしていないオス犬は、生殖器周りの病気になりやすいとのこと。恐ろしいことにガンの可能性もあるらしい。

特に自慢できるような犬でもない、どちらかと言うと、あまり賢いとは思えない駄犬のゴマ。ただ健康だけが取り柄で、たまに変な咳したり、食べた餌を吐いたりすることはあっても、すぐに回復。数年前には近所の犬と大喧嘩して、流血の惨事になったものの、1年後には同じ犬とリターンマッチで、今度はリベンジを果たしたり。そんなゴマなので、今まで一度も獣医さんの世話になったことがありません。

もともと私たちの住むネグロス島のシライ市内には、信頼できるペット・クリニックがなかったのもありますが、最近ようやくマトモなクリニックができたんですよ。義妹のジーナのペットで、小型犬の「コフィ」が病気になった時、きちんと治療してもらって快癒したそうです。なので、さすがに今回は、ゴマを獣医さんに診てもらわないとダメな状況。

そんなこんなで、明日は病院へ連れて行こうという晩は、朝になって冷たくなってたらどうしようなんて、悪い想像ばかりしてました。心配になって、頻繁に撫でてやったりしたものです。死にそうになったからと、急に優しくするなんて、あまり良い飼い主とは言えませんね。

明けて、ピカピカの青空が広がる土曜日の朝。お〜い、生きてるか〜?とばかりに窓を開けたら、気のせいか妙に元気になってる。(ちなみにゴマは外飼いです。)もしかしてと思い、試しに餌を少量与えてみたら、以前のようにアッという間に完食。病院に連れて行かれるのが嫌で、カラ元気を装ってるのかと思うほど。


まるで、コメディのような展開ですが、念のために股間を確かめたら、まだ腫れてはいるものの出血は止まった様子。正直なところ、私も家内もできれば病院には行きたくなかったので、しばらく様子を見ることにしました。

ところが様子を見るも何も、朝からムダ吠え全開で走り回り、すっかり以前のやかましさに戻ったゴマ。夕方には元気に散歩して、ちょっと多めに盛った餌も平らげました。前日までの弱った姿はなんやったんや?

ということで、それから1週間が経過して、睾丸の腫れもほぼ治り、食事も散歩も通常運転。この話を私のイロンゴ語の家庭教師バンビにしたら、腹を抱えて大笑い。ほんと、病院嫌いの子供のような反応でしたからね。とは言え、健康になったのはおおいに結構。おかしなもので、それ以降、あれほど鬱陶しく感じていた深夜や早朝のムダ吠えも、あんまり気にならなくなりました。




2025年2月24日月曜日

近所のリゾート・ホテル

 今日は、このブログでは珍しく、観光情報っぽいことを書きます。

そもそも、海外からの観光客にアピールするような観光地があんまり無い、ネグロス島の西側、私の住むネグロス・オキシデンタル(西ネグロス州)。もちろん皆無というわけではなくて、とびきりきれいなビーチのあるラカウォンとかダンフガンや、温泉リゾートのマンブカルに、おらが街シライの山間部には、マウンテンリゾートのパタッグもあります。

ただ、どこも規模は小さくて、フィリピン国内ではそこそこ有名でも、日本では「知る人ぞ知る」的な場所ばかり。さらに州都バコロドとなると、マスカラ・フェスティバルは全国区レベルで、毎年10月ごろには国内からの観光客がたくさん来るものの、場所ではなく行事。

もちろん人口50万人を数える地方都市バコロドなので、ホテルはたくさんあります。移住前に定宿にしていたルクソール・プレイス(ここは潰れちゃいました)とか、私たちが結婚披露宴を催したシュガーランド。最近ではエル・フィッシャーにセダ、ラディソンなど、マニラやセブにもあるチェーン・ホテルもバコロドに進出。どこも設備もサービスも悪くない3〜4つ星。プールや大きなパーティ会場もあります。

とは言えどこもアーバンホテル。日本にある、そこそこ良いホテルと大差はありません。かれこれ10年以上も西ネグロス在住の私も、バコロドにはリゾートと呼べるホテルは、無いもんだと思い込んでおりました。ところがあったんですよ、絵に描いたようなリゾートホテルが。

場所はバコロドのやや南寄りにある、現在は廃港になった旧バコロド空港のすぐ近く。海に面したパルマス・デル・マール・カンファレンス・リゾート・ホテル。ずいぶん長ったらしい名前ですが、地元では「パルマス」で通っているようです。「カンファレンス(会議)」と入っているのは、純然たる観光客よりも、公的機関が会議やセミナーに使われることが多いから。何を隠そう、フィリピン教育省勤務の家内も、仕事で何度か泊まったことがあります。ただ私は、そんな近くではなく、もっと遠くだと思ってました。まさかバコロド市内だったとは。


なぜ私が、パルマスを知ることになったかと言うと、日本在住のフィリピン人でバコロド生まれの友人、ダイアナ・ハバ女史の誕生日パーティがここで行われたから。1970年代生まれなので、今年63歳の私より10歳若いだけながら、日本とフィリピンを股にかけて多種多様なビジネスを展開。時々失敗して痛い目も見てるそうですが、日本でのフィリピン人支援や、フィリピンを紹介するいろんな催事にも参加していて、その人脈の広さは、ちょっと驚くほどです。

このダイアナさん、弱い立場の人を放っておけない、フィリピノ・ホスピタリティを体現したような人。すでに関係が破綻した日本人パートナーの高齢両親を、何の見返りもなく介護し続けたり、東日本の震災で困窮する在日フィリピン人を助けたり。それでいて明るいし常に前向き。側から見ていても、フィリピンと日本のどちらでもファンが多い。彼女のことについては、以前にも何度かこのブログで触れています。

実は今回、ダイアナさんの誕生日だけでなく、日本から視察に来られた三人のクライアントさんの歓迎会も兼ねています。実はこの仕事に私も関わっておりまして、フィリピン側のスタッフ紹介的な意味もあったんでしょう。こちらについては、実務が動きだしたら詳しく書きたいと思ってます。

パルマス・リゾートでのパーティに話を戻します。

このホテルは、今年が創立20周年とのことなので、それほど古いわけでもありません。ちょうど私の息子と同い歳。今ではプールが三つもあって、いかにも南国風なバーやレストランがあり、客室は3棟もありますが、当初は今の1/3ぐらいのサイズだったらしい。パーティは、新しい方のプールサイドで、約30人ほどのお客さんが集まりました。ほとんどがダイアナと同世代のオバちゃんばかり。まぁ賑やかなことこの上なし。

フィリピンのパーティには欠かせない豚の丸焼き「レッチョン・バボイ」が食卓に上り、私は例によって歌唱担当。70年代なので最初にアバの「ダンシング・クイーン」を歌ったら、すごく盛り上がりました。最後は金髪のウィッグとセクシーな衣装に身を固めた、トウの立った三人娘(?)が、マドンナの「マテリアル・ガール」を踊ってお開き。ホテルの敷地内なので、午後10時には撤収です。

私は、その夜のうちに帰れない距離ではなかったものの、深夜にバコロド市内を運転するのも面倒で、一泊して翌朝帰宅に。当然自分で払うつもりが、ダイアナが気を使って、先払いで一番良いスイーツを取っておいてくれました。一人で寝るには広すぎるなぁと思ってたら、一緒に来てたダイアナの妹二人とその娘さんが一人が一緒。なんだ、そういうことか。

誤解のないように書き添えておきますと、さすがのスイート・ルームなので、部屋は二つに仕切れる作りになっていて、ベッドも私が使ったダブル以外に、シングルが三つ、ちゃんと用意されてました。




翌朝は前夜に続いて良い天気で、プールサイドでゆっくり朝ごはん。海がすぐ近くなんですが、残念なことにバコロド周辺ってきれいなビーチがないんですよ。なので海沿いなのにプール・リゾート。それでも雰囲気はすっかりトロピカル。お腹いっぱいになって、大ぶりのカップでコーヒーを飲むと、ここが自宅から車で1時間もかからない場所とは、ちょっと信じられない感じでした。次回は、カミさんを連れてきましょうかね?


2025年2月18日火曜日

なぜかミンダナオ 最終回 MCL創設者・松居友さんのこと


松居 友 著「サンパギータの白い花

 前回の更新からちょっと間が空いてしまいましたが、引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、私が4泊5日でお世話になったミンダナオ子供図書館(MCL)創設者の松居友(まつい とも)さんについて。

実は私、ツイッター経由で知り合った日本人スタッフの梓さんの伝手で、MCLを訪問するまで、日本人が立ち上げたNGOだとは、まったく知りませんでした。てっきりフィリピン人が自ら作った組織に、梓さんがその趣旨に共感して参加したのだと思い込んでいた次第。確かに今現在は、フィリピンのNGOとなっているものの、そもそも松居さんが、ミンダナオの先住民のマノボ族の困窮を見るに見かねて、親を亡くしたり家庭が崩壊して学校に通えない子供たちを、奨学生としてご自分のアパートで世話をしたのが事の始まり。詳しくは「松居友プロフィール」をご覧ください。

最初に私が松居さんと、MCLのダバオ事務所でお会いした時には、そんな予備知識ゼロ。ただ、たいへん穏やかな人柄の中に、ただならぬ「凄み」のようなものを感じ、深夜にもかかわらず話し込んでしまいました。後になってMCL創立の経緯を知り、そりゃ凄いはずだと膝を打ちつつ、失礼なことを言っちゃったんじゃないかと、冷や汗を流してしまいました。

松居さんは「創設者」と呼ばれることを潔しとはされないようで、図書館の運営は、すべてスタッフのお陰と仰います。しかし松居さんがいなければ、MCLは存在していません。その功績で、マノボ族の酋長に選ばれたとのことですから、人々の信任の厚さはたいへんなもの。

さて、そんな松居さんにお会いした時に思い出したのが、私が敬愛して止まない司馬遼太郎さんのエッセー集「以下、無用のことながら」に収録された「並外れた愛 柩の前で」の一節。これは、ジャーナリストであり、ノンフィクション作品「サイゴンから来た妻と娘」で知られ、1986年に夭折された、近藤紘一さんへの弔辞として書かれた文章です。以下少々長くなりますが、引用します。


君は、すぐれた叡智のほかに、並はずれて量の多い愛というものを、生まれつきのものとして持っておりました。他人の傷みを十倍ほどに感じてしまうという君の尋常ならなさに、私はしばしば荘厳な思いを持ちました。そこにいる人々が、見ず知らずのエスキモー人であれ、ベトナム人であれ、何人であれ、かれらがけなげに生きているということそのものに、つまりは存在そのものに、あるいは生そのものに、鋭い傷みとあふれるような愛と、駆けつい抱きおこして自分の身ぐるみを与えてしまいたいという並はずれた惻隠の情というものを、君は多量にもっていました。それは、生きることが苦しいほどの量でした。


私は、近藤さんの全著作を繰り返し読むようなファンだったので、おそらく近藤さんの人となりは司馬さんの描写した通りなのだろうと思う反面、正直なところ、そんな人が実在するのか?司馬さんの盛りすぎじゃないとかとの疑念もありました。ところが、ほぼその描写通りの方がおられたんですよね。

私は常々、ボランティアという行為は自分のためにするもの、と考えております。身も蓋もなく言ってしまうと「褒められたい」からする。でもそれが悪いということではなく、困っている人を助けたい、悲しんでいる人を喜ばせたい(たとえそれが束の間であっても)と思うのは、人間の本能に近い感情。そのためには、喜ばせるための技術が必要だし、それをちょうど良いタイミングと量で提供しないと、しばしば逆効果にもなる。

つまり、単に自分がやりたいからやる、ではなく、それなりの知恵や経験が必要で、決して簡単なことではありません。継続的にやるなら尚更です。そこまで考えてやるなら、自己満足も売名行為も大いに結構。

ところが松居さんのマノボの人々への思いは、司馬さんの言葉を借りれば「生きるのが苦しくなるほどの、並はずれた惻隠の情」。やりたいからやるなんて、生ぬるい気持ちではなく、人々を見捨てれば、自分の身が焼かれるほどの感情が激っているんだろうと推測します。もちろんこれは、私のような凡人が真似ることができない領域。神さまは、ごく稀に、このような魂を持った方を、この世にお遣わしになるようです。


ということで、9回に渡って投稿してきた、私のミンダナオ滞在シリーズはこれで終わりです。ここまで読んでいただいた方、長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。


2025年2月13日木曜日

なぜかミンダナオ その8 ビサヤ語は侵略者の言葉

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情の話です。かなり刺激的なタイトルですが、実際にこう語る、ミンダナオの先住民の方がいるそうなんですよ。

このシリーズ投稿の最初に、ミンダナオの歴史について簡単にたどった通り、ざっと島の3/4を占めるビサヤ語やイロンゴ語話者がマジョリティの地域。これは歴史的には新規入植者。第二次大戦後と言いますから、せいぜい80年しか経っていません。実は以前から、なぜフィリピン中央部の言葉であるビサヤやイロンゴを話す人たちが、南部のミンダナオに多く住むのか疑問に思っていました。ちなみにミンダナオの最大の都市ダバオの市長を長く務めた、ドゥテルテ前大統領もビサヤ語が母語。家内によると、彼の喋る英語やタガログ語は、ベタベタのビサヤ訛りなんだとか。

こういう経緯があるので、ビサヤ語ほどではないものの、私が訪問したミンダナオ子ども図書館(MCL)周辺には、私が住む西ネグロスの言葉であるイロンゴを解する人が多い。なので、イロンゴに訳した日本の歌を歌ったわけです。まぁ言葉がどうこうより、子供たちにすれば聴き慣れないメロディだったので、ノリはイマイチでしたけど。

とは言え、一緒に食事の用意をした時には、私のイロンゴが結構通じて面白かった。お互いに第二・第三言語なので、かえって分かりやすいし聴きやすい。これは以前に仕事でヨーロッパに行った時、イギリス人とより、ドイツ人やイタリア人との英語会話が通じたのと似てます。ただ、最初はイロンゴで話しかけても、ところどころでビサヤ語が混ざり、聞き返しているうちに結局英語、なんて感じにもなりました。

ところでミンダナオのビサヤ語って、発祥の地であるセブやその周辺のビサヤ(セブアノ)とは、語彙や言い回しがかなり違うそうです。と言うのは、入植者は必ずしもセブからだけではなく、フィリピンの他地域からの人もいるので、タガログやその他のフィリピンの諸言語が混ざっている。私にはまったく分かりませんが、同じ言葉を話してるはずのセブから来た人が、戸惑ったりすることも。

このようにミンダナオは、いろんな意味での多言語地域なんですが、少なくとも私が滞在したMCLでは、ビサヤ、イロンゴ、ミンダナオ土着の言葉でMCLの子供たちが話すマノボなど、どの言語を母語としていても、みんな平和に暮らしています。食材の買い出しに行った公設市場では、私がイロンゴを話すとみんな面白がって、周囲にいた人たちがすぐに言葉をスイッチしてました。

ところが残念なことに、ミンダナオ全島がそうではなく、今も地域によっては、言葉の違い、あるいは宗教の違いを理由にする争いが続いてるとのこと。他島の住民かつ外国人である私には、それについてどちらにも批判的なことは言えませんし、ビサヤやイロンゴを「侵略者の言葉」として忌み嫌う先住民の人がいるのも、仕方ないのかも知れません。

それだけでなく、私がたいへんだなぁと思うのは、こういう環境で勉強する子供たち。特にマノボ出身だと、まず普通に街へ出て買い物をするだけでも、ビサヤ語を覚えないとなりません。さらに学校ではフィリピンの公用語である英語とタガログ(フィリピノ)語を教科としての学習が必須。教科書は公用語で書かれているので、それが不得手だと全教科で成績が悪くなる。いやもうこれは、虐待に近い。せめて公用語は英語だけにしてあげてよと、お願いしたくなります。実際、小学校一年からフィリピンで育った息子など、幸い英語は問題ないけれど、フィリピノ語には悪戦苦闘の12年。

この状況を間近に見ていると、日本語だけで高等教育が受けられるのは、なかなか素晴らしいことだと再認識。日本が明治時代以降いち早く近代化に成功し、20世紀初頭にヨーロッパ諸国に列するところまで行けたのは、母語か比較的母語に近い単一の共通語で、教科書を編纂できたのが大きかった。おそらくどんな方言であっても、書き言葉の漢字を共有してたのも重要だったでしょう。

ということで今日は、言葉の観点からミンダナオ滞在を振り返ってみました。次回は遂に最終回、MCL創設者の松居友(まつい とも)さんについての投稿です。



2025年2月12日水曜日

なぜかミンダナオ その7 タガログ語で歌う

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちの前で、日本人である私がタガログ語の歌を歌ったというお話。

急に思いついたわけではなく、30代の頃からカトリック教会の聖歌隊の一員として、ずっと歌ってはいたんですよ。それだけではなく、一時はアマチュアコーラスグループに所属して、クラシックの声楽曲を練習したり。一応ホールを借りて、ハイドン作曲の「テレジア・ミサ」を人前で披露するところまでは演りました。もちろんソリスト(独唱者)ではなく、バックコーラスの一員で、当たり前にノーギャラですが、一回でも聴衆を前に歌う経験があると、病みつきになるもんですね。「役者と乞食は三日やったら止められない」なんて言いますが、多分、歌手とかミュージシャンも同じなんでしょう。

その後も日本にいる間は、所属教会で歌い続け、月に一回ぐらいは「答唱詩編」も担当。これは何のこっちゃというと、その週の聖書の一部を朗読した後、そこにメロディをつけて歌う。これが、先唱のソロと出席者全員の掛け合いみたいに歌います。小さなチャペルでも100人ぐらいは集まるので、先唱者になるとなかなか緊張するんですよね。そのおかげで、人前で歌う度胸は鍛えられたというわけです。

そしてフィリピン移住。さすがに人口の八割以上がカトリックなので、ミサで少々大声で歌っても「聖歌隊へ是非!」なんて声は掛かりません。ものすごく信者層が厚い上に、歌うのが大好きな国民性。大聖堂で歌ってる人など、その中から手を挙げた、ほぼプロのレベルの歌い手ばかり。日本だと、そもそもの信者数が少ない上に高齢化が進み、聖歌隊の成り手が少なくて、転勤先で新しい教会に行くと最初のミサの後に100%の確率でお声えがけがあったものなんですが。

それでも毎週のミサでは、英語やタガログ語、時には地元の方言イロンゴ語の聖歌も、耳で覚えて歌ってました。ちなみに私、歌が好きなわりには楽譜が読めないんですよ。その上日本と違って、全員に「典礼聖歌集」みたいな歌詞と楽譜が記された冊子があるわけでもなく、事前練習もできない。ミサ当日にひたすら聴いて覚えるしかないわけです。さすがに最近では、オーバーヘッドプロジェクターで、歌詞だけは見られるようになりました。

ところが5年前のコロナ禍。ミサに行けなくなっちゃったので、週一の歌う機会が奪われてしまい、仕方なくYouTubeでカラオケ音源を集めて歌詞を印刷し、一人で「ボイストレーニング」と称して歌の練習を始めました。

なかなか孤独な趣味なんですが、始めてみると面白く、何より毎日1時間近くも歌ってると声も出るようになる。最初は途中で息切れしたり、高音部で声がかすれてた曲が、普通に歌えるようになると、ではもう少し難しそうな曲に...とチャレンジ。そうこうしているうちに、レパートリーは100曲以上になりました。日本語・英語だけでなく、タガログ語によるOPM(オリジナル・フィリピノ・ミュージック つまりタガログ語の歌謡曲)や、ラテン語のミサ曲やイタリア語、さらには、家庭教師にイロンゴ語の訳詞を書いてもらった日本の流行歌。

コロナ禍が下火になった後も、習慣になったボイトレはずっと続けていて、今では親戚や友達のパーティで歌ったりしてます。その話は何度もこのブログでも取り上げました。これって日本で同じことしようとしたら、それこそ落語の「寝床」に出てくる、義太夫を無理やり聴かせる長屋の大家さんみたいに、迷惑がられるかも知れませんが、フィリピンではとにかくウケる。まぁ私が歌い出さなくても、パーティがカラオケ会場になっちゃうのはよくあるパターン。



ミンダナオまで持参した愛用の譜面台
楽譜ではなく歌詞カードですが

延々と書いてきましたが、そんな背景があったので、今回のMCL訪問に際しても、夕食後の歓迎会と送別会に思いっきり歌いました。曲目は英語や日本語、タガログ語に前述のイロンゴ語訳の歌などなどでしたが、結果的に一番盛り上がったのは、みんなが知ってるアップテンポな曲。特にビートルズの「オブラディ・オブラダ」と、アバの「ダンシング・クーン」が全員で合唱になるほどの大騒ぎ。私はマイクを使わず歌うスタイルなので、自分の歌声が聴こえないほどでした。なぜかフィリピンでは、すごく若い世代でも1970〜80年代のポップスをよく知ってるんですよね。

あと、日本人スタッフの梓さんにいただいたのが「日本人がタガログやイロンゴで歌うと喜びますよ」というアドバイス。イロンゴ訳の歌はイマイチでしたが、タガログ語の「マイ・ブーカス・パ(フィリピン版 明日があるさ)」は、しんみりと聴き入ってくれました。

ちなみに夕食後のミニ・コンサート。私が一方的に歌うのではなく、子供たちもギターの伴奏で歌ったり踊ったりしてくれました。元々それがメインで、ゲストがこんなに歌い倒すのはわりと珍しかったようです。

ちょっと失敗したのは、歌う前に喋りすぎちゃったこと。MCL創設者の松居さんやそのご子息、スタッフの梓さんに、たまたまMCLに滞在中だった日本の学生さんたちと、久しぶりのまとまった日本語会話。こうなるとつい喋り続けてしまうんですよ。何時間ものお喋りの後に歌うのは、喉への負担が大きかった。

というわけで、やや「日本爺さんの自己満足」の気配があったものの、全体的には子供たちが楽しんでくれたようなので、まぁ上手くいったかなと思います。

次回は、ミンダナオ島の複雑な言語事情についてのお話です。



2025年2月5日水曜日

なぜかミンダナオ その6 フィリピンの食生活

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。5日間にわたって、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちと、食事を一緒に作って食べるという経験しました。日頃、フィリピンの家族のために、地元の食材を使った食事を毎日用意しているので、料理したり食材を買い揃えるという行為は、特別新しい経験ではなかったのですが、日々の食事を支えるスタッフや子供たちのリアクションには、いろいろと考えさせられました。

まず前々回にも書いた通り、決して潤沢な予算があるわけではないMCLで、何十人もの食べ盛りの子供たちに食べさせるためには、いかに安く食材を入手するかが一番の課題。そのために、寮母さんたちは毎週の買い出しに市内の市場やスーパーを駆けずり回っておられます。それでも、食卓に並ぶおかずを見ていると、品数も量も十分とは言えないなぁというのが、私の率直な感想。

もちろん、子供たちが生まれた環境からすれば、とにかく三度の食事にはありついているので、もし食事内容について質問したとしても、少なくとも不満はないし、文句を言ったらバチが当たる...という感じなんだろうとは思います。日本人スタッフの梓さんによると、1日1度の食事さえ難しいような家庭から、新しく入ってきた子供の場合、最初のうちは食べきれないほどのご飯を自分の皿に盛ってしまう。そして他の子供が食べ終わった後も、黙々と食べ続けるなんてことも。

ちなみにフィリピンでは、貧困層とまではいかなくても、経済的に余裕ない人は、僅かなおかずでたくさんのご飯を食べるスタイルが一般的。以前の我が家のメイドさんが典型的にこれ。通いなのでお昼だけは、私が家族に作ったものを一緒に食べてましたが、例えば前夜のカレーの残りを出すと、山盛りのご飯に、ちょっぴりのカレー。時々食べすぎて、午後からの仕事に支障が出るほど。

なので、私が追加で作った料理を、みんながすごく喜んでくれたのは、料理の出来や味つけ以前に、単純に食べられる量が増えたというのも大きいでしょう。さらに、日頃なかなか口にできない食材、例えばシチューに入れたマッシュルームとか、お好み焼きにトッピングした刻んだエビなどが嬉しい。朝食に出したサンドイッチでは、中身の卵よりパンそのもの。MCLでは3食とも米が基本ですからね。一緒に食べててそう言われると、心の中で「そこか〜い」ってツッコみつつも、なんだ不憫になってしまいました。

蛇足ながら、最後の昼食に作ったスパゲティ・ナボリタン。寮母のジョイさんが「テースティング(味見)」と称して、食事前にけっこうな量を食べてたのが可笑しかった。



市場にてジョイさんとツーショット

その反面、バリエーションの幅が少なくても、MCLでは野菜や肉のバランスも、それなりに考えられた献立なので、まだ救われてます。かつて私が接したことのある貧困層の食生活は、まったくお話になりません。

そもそも食育どころか、親がまともな教育を受けていないこともあり、子供が好むものだけを与えるなどして、虫歯だらけだったり、極端な偏食家に育ってしまうケースがとても多い。つまり、肉と白米だけしか食べない、逆ビーガンな人たち。なので、お金に困っているのに肥満だったり、糖尿病や心臓発作で亡くなる人がどれだけ多いか。平均寿命が日本より約15年から20年も短いのは、新生児の死亡率の高さや医療の不備もありますが、日頃の食生活が影響している側面も無視できないと思います。

ちなみに、おかず少なめでご飯大盛りって、なんだか既視感があるなと思ったら、私の母がよく話してくれた子供時代の食生活。それも、戦時中や終戦直後の食糧配給制の時代ではなく、かなり食料事情が改善してきた昭和20年代の後半から30年あたり(1950年頃)。まずは米増産!ということで、白いご飯だけは腹一杯食べられるようになったけど、毎日お肉とか毎朝卵はまだちょっと届かず。たまに「今日はすき焼き」なんて言われると、みんな大喜び。子沢山も今のフィリピンに似ていて、母は6人、父は8人の兄弟姉妹だったそうです。

意外なところで、父母が子供の頃、毎日食事を作っていたであろう祖母たちの苦労に思いを馳せてしまいました。ということで、MCLでの料理編はこれで終わり。次回はフィリピンの子供たちの前で、変な日本人がタガログ語の歌を歌った話です。



2025年2月3日月曜日

なぜかミンダナオ その5 キューピーすごい


MCLでの食事風景

   前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。第5回でやっと今回のメインイベントとも言える、お好み焼きを作った話に辿り着きました。

今までツラツラ書いてきた通り、ミンダナオ子供図書館(MCL)のみなさんのために、何を作ったら喜ばれるかはずいぶんと考えました。実は当初、そばやうどんの麺類とか、ハンバーグにトンカツなどの、日本でポピュラーな献立も頭に浮かびまました。でも以前に書いた通り、あまり日頃の味覚から遠い食材だと拒否反応が出るだろうし、そもそも豚肉はNG。なんとか日本らしさ(というより関西らしさ?)があって、フィリピンの子供の口も合うかと、捻り出した案がお好み焼き。

結局MCL滞在中、夕食は3回作って、最初がクリームシチュー、2夜目がルンピア(春巻き)、最後の夕食にお好み焼きというフォーメーションにして、まずはクリームシチューがスマッシュヒット。続くルンピアは、元々こちらでも人気料理だし、MCL子供たちも時々作っているそうです。おそらく具材はシンプルな感じだろうと思いますが、それでも結構手間はかかるんですよね。

逆に言うと、皮を巻く作業はみんなに手伝ってもらえるということ。さらに巻きやすいように、ダバオのSM(大型ショッピングモール)で、中国製のちょっと高くて大きい春巻きの皮25枚入りを3パック買っておきました。これなら簡単には破れないし(市場で売ってる丸い皮は、安いだけあって破けやすい)歩留りは良いはず。

なので、私が注力するのは中身の具材のみ。にんじん・インゲン豆・タケノコ代わりのじゃがいも、ニンニク&生姜と、椎茸代わりのマッシュルームを、鬼のように細かく刻み、隠し味の缶入りツナフレーク。これに小麦粉とオイスターソースを水で溶いたものを加え、でっかい中華鍋で炒めます。出来上がった具材を食堂のテーブルに運んで、その日の料理当番全員に手伝ってもらって皮巻き大会。この共同作業がとても楽しくて、なかなかの連帯感。

いつもは丸い皮が、今回は四角いものに変わったので、最初子供たちは「?」となってましたが、私が一個だけ見本を巻くと、あっという間にコツを飲み込んで、速攻で75個のルンピアが巻き上がりました。ここまで来れば、揚げるのは皆さん慣れているのでお任せ。


まぁ食べ慣れたルンピアなので、評判が良いだろうとは思ってましたが、予想以上のバカ受け状態。食事が終わったあと、別棟に住んでおられる、MCL創立者のご子息の方(日本人)が、スタッフから分けてもらって一個口にされたところ「すごく美味しい」と感激され「鰹節でも入ってるんですか?」と聞かれました。たしかにツナは入ってますけどね。

明日はお好み焼きですと言うと、なんだか妙にテンションが上がって「楽しみにしてます!」。うわっ、これはプレッシャー。こう書くと、私が料理の腕を自慢してるいたいですが、ずっとフィリピンに住んでると、ちょっとした日本の味が、とても美味に感じるものなので、そこは差し引いて考えないといけません。

そしてお好み焼きの日。まず前日、市場で買った大きなキャベツを刻むところから。さすがにこれは、みんな初めて見る料理なので、「このオっさん、今度は何を作るんだろ?」とばかりに興味津々。いよいよ焼き始めるという頃には、カマドの周りに数人の子供が観客みたいに集まって来て、ひっくり返すと拍手喝采。ちなみに豚玉ではなくエビ玉です。

ここからが懸案のマヨネーズととんかつソース。いきなり全部かけちゃうと「美味しくない」となった時に取り返しがつかないので、小皿に少し取って混ぜて、一人づつ味見をしてもらうことにしました。結果は取り合いになるほどの盛況。一番ちっちゃな女の子などは、皿に残ったマヨネーズとソースを、持ってたスナック菓子につけて、きれいに拭き取って食べてました。フランス料理か?

こうして焼き上げた17枚は、これまた瞬殺で完食。たまたまこの日は、MCL創立者の松居友(とも)さんも、フィリピン人の奥さんと一緒に食卓に。「ピザって言うからそう思って食べたら、まるでお好み焼きですね」。受け入れらやすいようにと「ジャパニーズ・ピザ」って説明しましたが、間違いなくお好み焼きです。

中でも一番喜んでいただいたのが、松居さんの奥さん。日本の生活が長かったそうで、懐かしい味に再会した、という感覚だったんでしょうね。


お好み焼きの日の料理当番の皆さん。向かって左上は寮母さん。

それにしても、キューピーのマヨネーズは偉大です。私がフィリピンに移住した頃には、すでに輸入食材として出回っていたキューピー。最初はベトナム製の甘いものも併売されてましたが、いつの間にかそちらは見かけなくなり、今店頭に並んでいるのは、フィリピン製。ただし味は紛うことなく日本のマヨネーズ。家内の親戚にキューピーファンがいるぐらい。

ということで、移住して12年。ずっと料理担主夫として台所に立ち続けてきたのは、この日のための伏線だったのか?と思うほどの充足感でした。フィリピンでの食生活については、まだまだ書きたことがあるので、この続きは次回へ。



2025年2月2日日曜日

なぜかミンダナオ その4 薪で調理のクリームシチュー

  前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、いよいよ現地で調理です。

ダバオで日本のマヨネーズやとんかつソースを買い込んで、市内のジョリビー(フィリピンでNo.1のファストフードチェーン)でお昼。お腹いっぱいになって、いざ目的地ミンダナオ子供図書館(MCL)キダパワンへ。

実は、ダバオから車で3時間って、狭くて曲がりくねってアップダウンの激しい、山道みたいな道路を想像してたんですよ。ところが案に相違して、片側2車線から4車線もある、まるで日本の高速道路。もちろん信号や交差点もあるので、自動車専用道ではないものの、ほぼ全行程ゆるやかな傾斜があるぐらいの、快適なドライブでした。ただ一箇所だけ「内戦」の片鱗を垣間見たのは、中間辺りのチェックポイント。そこにはフィリピン軍のものと思しき、濃緑色に塗装された装甲車が一台停まってました。

そしてキダパワン市内。これまた、どこか治安が悪いんや?というような、ごく普通のフィリピンの地方都市。相変わらず道は広くて汚い感じが微塵もない。野菜やお肉を買うために立ち寄ったローカルの公設市場など実に広々としていて、ざっと見た感じ、私の住むシライの市場の2倍はありそうで、並んでいる食材も豊富。やや内陸に位置するキダパワンでも、毎日新鮮な海産物が届けられているとのこと。さらに、イスラムでは御法度の豚肉も当たり前に売られてます。やっぱりここでも、マジョリティはカトリックなんですねぇ。


この市場で、鶏一羽丸ごとをナタで細かく切ってもらい、さらに獲れたてのエビを2キロ購入。その他諸々の野菜を買って、MCLに着いたのは夕方の4時頃でしたでしょうか? 事前に写真で見ていたの同じく、MCLは緑に覆われた敷地にゆったりと何棟かの建物がありました。この写真のイメージで、よほどの田舎かと思い込んでいたんですが、実際には隣が住宅地。聞くところによると、キダパワン市内に最後に残ったイスラム教徒のマノボ族の土地を、譲り受けたものなんだそうです。


出典:ミンダナオ子供図書館日記

さて、到着早々荷解きもそこそこに、たくさんの食材を両手に抱えて、早速MCLの調理場へ。待っていたのは、スタッフの寮母さんと、その日の料理当番の子供たち。8畳から10畳はある離れのような建物で、広くて明るくて想像してたよりずっと清潔。ただし煮炊きはガスではなく、薪をくべるスタイルのカマドが4つ。外では中学生ぐらいの女の子が斧を振るって、今日使う薪を慣れた手つきで割っています。

薪で火を起こすのは、子供の時、キャンプで飯盒を使った時以来。さすがにこれは子供たちに任せて、その日の献立クリームシチューに取り掛かった次第。


料理当番の子供たち


包丁とまな板、鍋の類は普通に揃ってるし、大きなヤカンに入った食用油、塩コショウに味の素もあるので、私はひたすら野菜を刻んで、大鍋に放り込んで煮るだけ。味付けもダバオで買った10缶のポタージュスープと卵を入れて完了で、初日は楽勝でした。ちょっと引いてしまったのは、食器代わりにプラスチックの洗面器使ってたこと。もちろん食事専用なんだろうとは思いますけどね...。

ずいぶんたくさん作ったつもりのシチューも、40人の子供に分けるとなると、一人分の量は知れたもの。おかずはそれだけではなく、元々用意してあった献立もあるので大丈夫なんですが、美味しい美味しいと秒殺で完食いただいて、とりあえずホッとしました。ちなみに子供たちが薪で炊いたご飯も美味しかったです。みんな「お焦げ」という日本語を知ってて、それが大好物。

初日の感触では、夕食だけでなく朝やお昼も行けそうだったので、翌日もう一度、市場への買い出しに同行して追加の食材を買うことにしました。この日は、別の寮母さんのジョイおばさんが買い出し担当。昨日の市場だけかと思ったら、少しでも安く上げるためにと、野菜はここ、鶏肉はここ、調味料は...という具合に、市内を転々と回りました。なんだか涙ぐましい努力。このジョイさんは、元MCLの奨学生。卒業を待たずにギブアップしたけれど、結婚・出産の後MCLに戻って、今の仕事をしているそうです。彼女もイスラム教徒で、外出時には髪をショールで隠してました。

買い出しから戻ると、短い休憩を挟んですぐに昼食作り。それ以降、私が作ったのは、チキンアドボ(鶏肉の酢醤油煮込み・フィリピンの定番家庭料理)、ルンピア(フィリピン式春巻き)、翌朝のたまごサンドイッチ、カロカロ(炒飯)、お好み焼きに、スパゲティ・ナポリタン。

おかげ様で、どれも喜んで食べてくれて、たくさん残されたどうしようという心配は、杞憂に終わりました。むしろ、もっと量を作ってあげた方が良かったかなと後悔するぐらい。中でも春巻きとお好み焼きは、子供たちだけでなくスタッフにも大好評。ということで、その詳細は、次回に続きます。



2025年1月30日木曜日

なぜかミンダナオ その3 お好み焼きどうですか?

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちのために、食事を作るお話。

貧困、内戦からの避難、あるいは親がいない、家庭が崩壊してしまった等々、諸般の事情で学校へ通いたくても通えない子供たちに奨学金を支給し、三度の食事と寝泊まりする場所を提供するという、ミンダナオ子供図書館。子供たちの年齢は、下は小学生高学年から上は大学生まで。私がお邪魔した時には、総勢約40名ほど。当初の予定では、子供図書館に2泊だったので、夕食を2回作ろうという腹積もりでした。

ところがさすがのフィリピン、セブパシフィック。数日前になって帰路のフライトが突然のキャンセル。しかも、私の住むネグロス島シライ市の最寄りバコロド空港からミンダナオのダバオまでは、この便を含む1往復しかありません。仕方がないので帰りを伸ばして翌日に。結果的に夕食は3回となりました。

ちなみにこの食事作りは義務でも何でもなく、私が勝手に思いついた押し掛けボランティア。MCLのゲストであれば、宿泊も食事も基本的に無料です。一般的には、何かしらの支援物資を持って来る人もいるだろうし、近隣の村落や学校をまわって、地域の人たちとの交流を図ったりのアクティビティに参加したりするゲストも多い。私は少々、変則的な訪問者でした。

さてMCLでの料理ということで、真っ先に考えたアイデアはカレー。これなら大鍋で煮込めるし、具材を切ったりする作業は、当番の子供たちと分担もできる。でも、これはあっさりと日本人スタッフの梓さんが却下。というのは、日本製のカレールーは、ラードなどの豚肉由来の成分が入ってる。以前にもカレー作ろうとしたゲストがいたけれど、豚肉を食べることが禁じられたイスラムの子供やスタッフもいるので、絶対にダメ。同じ理由で料理酒やみりんも使えません。

それでは、とばかりに提案したのが、鶏肉を使ったクリームシチュー。実は私がフィリピンに移住してからの定番メニューで、ルーの代わりに地元のスーパーで売ってる缶入りのポタージュスープを入れます。ひょっとしたら、日本製のルーで作るより美味しいんじゃないかと思うぐらい。これならフィリピンでも、ココナッツミルクを使った郷土料理に風味が似ていて、多分拒否感はないだろうと、採用決定。

二日目は、フィリピンでもお馴染みの春巻き。こちらではルンピアと呼ばれ、日本のものよりちょっと小振りながら、中国がルーツのほぼ同じ料理。でもせっかく作るんだから、細かく刻んだ野菜やマッシュルームだけでなく、缶詰のツナフレークを使ったアレンジをすることに。このオリジナル春巻きも自宅でフィリピンの親戚や友達に何度も作っていて、とても評判が良い一品。

そして最後の夜は、お好み焼きにトライ。最初の二つは勝算バリバリで、まず失敗はしないだろうと踏んでいますが、お好み焼きはちょっとしたチャレンジ。お好み焼きやたこ焼きの、関西粉もん系は、ラーメンやカレーと並んで、フィリピンでも都市部なら日本食レストランのメニューで普及しているので、まぁ大丈夫だろうとは思うものの、今回食べてもらうのは、貧困層出身の子供たち。ネグロスでも何回か経験しましたが、こういう子たちって、食に関してはとっても保守的。

何と言っても、日頃の食べてる物の種類がそんなにないし、ジョリビーの甘ぁいスパゲティが、この世で一番美味しいという感覚だったりします。梓さん曰く、以前、味噌汁やおにぎりを試してみたけれど、結果はイマイチで、特に味噌汁は、笑いながら美味しいと言いつつも、ほとんど残されちゃったそうです。

そこで、とりあえずはキャベツをたくさん刻んで、小麦粉と卵、水を混ぜて焼きますが、最後のソースは様子を見て、口に合わなければオイスターソースに差し替えることにしました。

これで準備する食材も決まりましたが、限られたMCLの予算に、押し掛けボランティアが負担をかける訳にはいきませんので、食材調達はスタッフに同伴をお願いしつつ、費用は自前ということに。


ダバオ市内のSM 出典 Davao Life is Here

ネグロスから夜到着のダバオで一泊してから、まずは、同地のショッピングモールで、キダパワン(MCLの所在地)では入手困難であろう食材を購入。普通にSMやアヤラ(大型ショッピングモール)があるので、キューピーのマヨネーズやとんかつソースは楽勝で見つかりました。その他には缶詰のスープ(10缶!)やらちょっと大きめの春巻きの皮など。ついでにテフロン加工のしっかりしたフライパンも。何しろ40人分(+スタッフの分)でたくさん作るので、焦げ付いたりすると時間が勿体ないとの読み。

ということで、MCLにたどり着く前に、またもやかなりの文章量になってしまったので、続きは次回へ。



2025年1月28日火曜日

なぜかミンダナオ その2 MCLの日本人スタッフ


ミンダナオ子供図書館の正門

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、訪問先のミンダナオ子供図書館(Mindanao Children's Library 略称MCL)で働いておられる、日本人スタッフの方の話。

フィリピン人の家内と一緒になって27年、家内の実家がある、ここネグロス島に移住してからでも、もう13年目に入ろうという私ですが、ミンダナオには縁がなく、親戚も知り合いもいません。況してやミンダナオ子供図書館については、まったく未知でした。それが、4泊5日でお邪魔することになったのは、兎にも角にもツイッターがあったればこそ。

このブログにしてもそうなんですが、在外邦人にとってインターネットは貴重な情報交換の場。昔の海外移住者にすれば、夢のまた夢だったようことが普通に行われるネット界隈。離れた島に住んでいても、発信さえしていればすぐに同好の志が見つかるし、日本国内のニュースや映画、テレビドラマも視聴できる。音楽や書籍だって速攻で入手可能で、何ならアマゾンから(購入内容に制限はあるものの)日本の商品も買える。

なので他の国や地域と同様に、在フィリピン邦人の場合も、ツイッター内に自然発生的にできたコミュニティがあります。もちろん全員が仲良し子好しな訳はなく、ブロックの応酬があったり、トラブルの原因になったりもするでしょうけど、ここを通じて有益な出会いが多々あるのも事実。ちなみに同じSNSでも、フェイスブックよりツイッターの方が、相対的に使用者の年齢が若く、より多様な人たちが集まっている印象がありますね。

そして、MCLの職員である、宮木梓さんと知り合ったのは自然な流れ。しばらくのやり取りで分かったのは、私と梓さんの共通点。私が20年ちかく歳上なものの、同じ兵庫県のお生まれというだけでなく、私と家内が日本で14年間住んでいた、大阪府茨木市内の大学に通われてました。どうやら時期もダブっているようで、こりゃどこかでニアミスしてたかも知れません。

ここまでだったら「ちょっとした偶然」で終わりですが、同じフィリピンに移住し同じように配偶者がフィリピン人。ともに男の子を一人授かり、なんと一時はネグロスにもおられたとのこと。何より実際にお会いして話したのは、お互いに変わり者だという点。そりゃそうでしょうね。最近は増えたとは言え、まず日本から永住前提の海外移住というがかなり思い切った決断だし、しかも敢えてフィリピン。それもマニラやセブなどの大都会ではなく、ミンダナオやネグロスの、さらにその田舎であるキダパワン(MCLの所在地)とシライを選んだのは、紛れもなく変わり者。

もちろんこれは、多少の自虐を含むものの、自らの選択は必然で後悔はないし、少なくとも今現在は、それぞれの暮らしを幸せだと感じているからこそ言えること。

しかしながら、梓さんとツイッターで知り合って、すぐにMCL訪問となったわけではありません。やっぱりネグロスから見てもミンダナオは「ちょっとヤバい」感があったし、所属しておられるNGOが、地元の人たちへの物質的・経済的支援のみならず、ガチで子供たちを預かって寝食を共にし、ほぼ親代わりの世話をするスタイル。日本からの訪問者は歓迎とは言え、多額の寄付や支援物資を送れるような身分ではないし、学生でもない私にすれば、とても興味はあったけれど、それなりに覚悟と準備は必要でした。

そこで考えたのが、まず食事の支援。ネグロス移住後、かれこれ10年以上も家族のための料理担当主夫をしているので、地元の食材を使って、一般的なフィリピンの人たちが好みそうな料理を作るのには、そこそこ自信があります。時々梓さんが投稿するツイッターの写真を拝見するに、三度の食事はちゃんと摂っているけれど、調理は子供たちの当番制自炊が基本。食べ盛りな年齢にすれば、もう少し品数や献立の幅があれば喜んでくれるかなぁ、と思ったわけです。

そしてもう一つは歌。もう30年近く前に、カトリック教会の聖歌隊から出発して、移住後は暇に任せて、毎日ボイストレーニングと称したカラオケ練習。プロの歌手には遠く及びませんが、人前で歌ってもなんとか場持ちはできるレベル。レパートリーは英語とOPM(Original Philipino Music つまりタガログ語のポップソング)を含めて、100曲ぐらいあります。

その上、西ネグロスの方言であるイロンゴ語を解する人もいるキダパワン。こういう時のためにと、イロンゴの家庭教師に頼んで、日本の歌のイロンゴに翻訳し練習してきました。それでなくても歌って踊ってが大好きなフィリピン人なので、これは喜んでくれるでしょう。

というわけで、自分としては満を持してという感じで、年末年始と春節の大混雑を外しての1月中旬、ネグロスからミンダナオへの渡航となったわけです。料理と歌の評判はどうだったか...は、次回に続きます。



2025年1月25日土曜日

なぜかミンダナオ その1 ミンダナオに行って来ました


ダバオ市街地 出典:ダバオ市公式サイト

 はなはだ唐突ながら、1月の中旬から下旬にかけて4泊5日で、ミンダナオ島に行ってきました。フィリピン人の家内も行ったことがない島で、今回は国内旅行では珍しく私一人で。島と言っても、北海道より少し大きく、フィリピンでもルソンに次ぐ国内第二の面積で、人口は近畿地方全体よりも多い2,625万。最大の都市のダバオだけでも150万もの人が住み、圧倒的に過密なマニラ首都圏を別にすればセブ市よりも大きく、日本なら名古屋に相当するような、フィリピン南部の要衝です。

目的地は、このダバオからさらに車で3時間ほど西の、キダパワン市にある「ミンダナオ子供図書館(Mindanao Children's Library 略称MCL)」。およそ20年も前に作られた施設で、創設者はなんと日本人。図書館と名付けられていますが、貧困や家庭の事情で学校に通えない地元の子供たちを支援する、寄宿舎というか学生寮のような場所です。その詳細は後述するとして、ますはミンダナオについての予備知識。

多少フィリピン事情を知っている人なら「ミンダナオ=危険」のイメージが先立つでしょう。実際、数年前のドゥテルテ大統領の治世時には、イスラム系反政府勢力との紛争激化を理由に、約二年半に渡り一部の地域に戒厳令が布告されていたし、それよりはるか以前のスペインによる植民地時代から、難治の島とされてきました。

もちろん難治というのは、飽くまでも支配者側のスペインや、スペインに続いてフィリピンを占領したアメリカ側の見方。要するにカトリックでもプロテスタントでもない、14世紀から連綿と続くイスラム文化の地で、16世紀(日本の戦国期)に、あっけなくスペインに併呑された北部のルソンや中部ビサヤ諸島とは異なり、19世紀半ばまで徹底抗戦して独立を守り続けました。

ところがそれが裏目に出て、20世紀以降の近代化に遅れを取ってしまい、結果的にアメリカ資本による大規模な農業搾取を受けることになったのは、歴史の皮肉というしかありません。また、比較的台風被害が少なく、バナナなどの栽培の最適地だったのも一因。ちなみに、ダバオは、明治時代に多くの日本人が移住し、マニラ麻の栽培で富を築いたのは有名な話。私も以前の投稿で書いておりますので、興味のある方はこちらをどうぞ。(ダバオ産のマニラ麻 日本・フィリピン交流史4

そして第二次大戦後も、ミンダナオ先住民の苦難は続きます。

統治者側の都合で、クリスチャンの数を増やしてガバナビリティを高めようと、ビサヤの各地から多くの移民がやって来た結果、今では半分以上がセブ発祥のセブアノ(ビサヤ)語話者。さらにそれに続いて、今私が住んでいる西ネグロスなどからの移住もあって、場所によってはイロンゴ(ヒリガイノン)話者も多く、先住民の言語であるマギンダナオなど諸語は、マイノリティとなってしまいました。

つまり、かつてのスペイン・アメリカの支配から脱したはずが、今度は同じフィリピン人から支配されているに等しい状況。また、大規模なプランテーションの大多数の労働者は、低賃金で酷使され、いつまでたっても貧困から抜け出せない。この辺りの事情は、同じくサトウキビのモノカルチャー経済に依存するネグロス島とも似ています。

こんな具合に、何世紀も押さえつけられていれば、武装蜂起して独立しようと思う人が出てくるのも仕方ないでしょう。私が訪問したMCLは、まさにこうした地域に近く、紛争や長年の搾取の影響による貧困で、修学機会に恵まれない子供たちのための施設です。

ただ、ドゥテルテさんの登場で、事態は好転の兆しを見せているのも事実。まず1988年から断続的に合計7期ダバオ市長を務めたドゥテルテさんは、フィリピンでも最悪レベルの治安だったダバオを、まるで映画「アンタッチャブル」のエリオット・ネス捜査官の如く、拳で殴りつけるような改革を進め、今では東南アジアでもトップクラスの治安の良い街に変身させました。

さらに大統領就任後の2017年には、反政府武装勢力と政府軍が5ヶ月に及ぶ激しい戦闘(マラウィの戦い)を経て、ほぼ反政府側を掃討。前述の戒厳令の理由がこれ。この時、私たちはすでにネグロス島で暮らしてましたが、毎日のようにテレビ報道で政府軍の戦死者の顔写真と名前が公表され、戦地に我が子を送り出した父母の心中を想って、とても辛かったのを覚えています。

こうした経緯で、現在のミンダナオはかなり平静を保っていて、島内各地の空港にも普通に旅客機が発着。特にダバオを中心とした島の東南部は、他のフィリピンの多くの地域同様、日本の外務省が出している「危険レベル」は一番低い1。なので私も渡航ができました。とは言えキダパワンを含むコタバト州は渡航中止勧告のレベル3。「死んでも知らんぞ」と脅かされて、何かあっても日本お得意の「自己責任」。

このためダバオから先、MCLの敷地の外は、MCLのスタッフが必ず同行し単独行動禁止。これは5日間厳守しました。まぁ実際は、キダパワンの市街地や市場に行っても、ネグロスとほとんど変わらない平和な場所でしたが。これは昼間しか見てないからかもしれません。

ということで、肝心のミンダナオ子供図書館の話になる前に、前置きがすっかり長くなってしまったので、続きは次回の投稿とさせていただきます。



2025年1月14日火曜日

相変わらずなフィリピンのインフラ


出典:OPTICO

 年末年始、気楽なフィリピンでの退職生活でも、それなりにバタバタしたら、もう1月の半ば。日本では成人式も終わり、ラニーニャが原因かとも言われている、大寒波と豪雪だそうですね。フィリピンでは雪じゃなくて雨続きの1月。例年ならそろそろ乾季が近づいて、天候が安定する時期のはずなんですが、やはり世界的に気象が狂っているようで、もう何が普通か分からない。去年の乾季は異常に暑くて長かったし。

さて、ようやく前年9月から続いたクリスマスシーズンも最終盤のフィリピン。大抵の家ではまだツリーを出したままで、そろそろ仕舞おうかというタイミング。我が家でも11月にはツリーを出して、年明け早々には片付けました。ただ、家内が寂しがるので、電飾のない卓上におくような小さなツリーは、まだリビングに置いてあります。

ということで、去年の話で恐縮なんですが、クリスマス前最後の週末、突如としてインターネットがダウン。システム障害ではなくても、数時間毎ぐらいでプツプツ切れたりするので、最初はそれかと思ってしばらく待ちましたが、何時間たってもモデムのLEDは赤点滅のまま。プロバイダーのPLDT(フィリピン長距離通信)に連絡して、一応返事はあったものの、例によって対応は遅い。

PLDTユーザーの親戚宅ではアクセスできてるそうなので、少なくとも広域障害ではありません。なので修理が来るのを待つしかないんですが、案の定土日はお休み。結局48時間後の月曜日朝に業者が二人でやって来て、家の敷地内の配線ボックスを点検したら、蟻の巣になっていて、開口一番「バイゴン(フィリピンの殺虫剤)を貸してください」。修理自体はほんの30分ほどで完了し、何事もなかったかのようにあっさりネットが復旧。

その日のうちに復旧しなかったのは久しぶりで、自分たちの生活がどれだけインターネットに依存しているか、改めて実感させられました。まずSNSが使えないのは当然として、以前にも書いたとおり、最近ケーブルTVを解約してテレビは全部ネット。ネトフリにユーチューブ、ニュースはNHKワールドにフィリピンGMA。その他には時々アマプラも。

そして一番困ったのが、高三の息子のオンライン日本語教室。毎週土曜日朝に2時間、日本人の先生と結んで、日本語作文を学んでます。これが、フィリピンにしては高額で、月8,000ペソですから、日本円だとざっと2万円強。1回とぶと結構な損害なので、息子は親戚の家でネット難民。

さらに私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)学習にも支障が出ました。と言うのは、コツコツと新しい語彙を、ブログを利用して自家製の日本語-イロンゴ語辞典にしてるので、ネットが使えないと辞書を使えません。仕方がないので、宿題のイロンゴ日記は、間違いだらけのイロンゴと英語混じり。まぁ、地元の人同士でも英語混じりの会話は普通で、そんなに変な感じはなかったですけど。ちなみに英和 / 和英はオフラインでも使えるものを、携帯にインストールしてます。

ただよく考えたら、これが普通の土日ではなくクリスマス休暇中だったら、下手すると1月の2日か3日ぐらいまで、放置されてたかも知れません。48時間で済んだのはラッキーだったのかも。

ところでインターネットに限らず、相変わらず脆弱なフィリピンのインフラ。停電はクリスマス以降だけでも、すでに計画内外合わせて3回もありました。幸い私たちの住むシライ市の水道は、電力に依存しないシステムなので断水は滅多にないけれど、隣のタリサイは停電するとポンプも止まり、停電と断水はワンセット。

交通に関しては、そもそもネグロス島に旅客鉄道はないし、自家用車がなければ州都バコロドへは、「黄色い棺桶」(つまり死亡事故が多い)と陰口を叩かれる真っ黄色のボディのセレスバスか、真っ黒な排気ガスを吐く旧式ジプニーしかありません。コロナ禍前ごろから実用化された電動ジプニーは、田舎のシライまで来てないし、カーシェアのグラブも、最近はなぜか、なかなかつかまらない。

ということで、雨続きで気が滅入ってるせいか、年明け早々ネガティブ満載の投稿になってしまいました。