2025年11月12日水曜日

停電1週間超 台風ティノの後遺症

 先週の火曜日(2025年11月4日)25号台風ティノがネグロス島を直撃して、もう八日が過ぎました。ちょっと驚く事に、私たちの住む宅地は、まだ電力が復旧してません。同じネグロス電力管内のバコロド市やシライ市でも、早い所では翌日の夜には電気が戻り、2〜3日後には、幹線道路沿いの主要部分で元通り。

ところが厄介なのは、中心部からやや離れた地区や、我が家のある宅地のような、世帯数がそれほど多くないサブディビジョン。同時多発的に電柱が倒れたり、大きな倒木のせいで電線が切れたり。電力会社の修理スタッフや交換部品のストックなどのリソースは限られているので、どうしても修理の優先順位は低くなってしまいます。

その上さらに面倒なことに、我が家の直接の停電原因は、この近辺でも一際大きな樹木が根こそぎになって、コンクリート製の電柱2本を巻き添えにぶっ倒しちゃったこと。まず、この馬鹿デカい倒木を小さく切って、修理用の車両が入れるようにしなければなりません。

その間、頼りになるのが、家庭用の発電機。今年の1月に、母屋とゲストハウスに2台の発電機を新調しておいて、本当に良かった。音は静かだし、電子レンジや炊飯器程度なら問題なく使用可。一台がガソリン満タンで10リッター入って、12時間稼働。なので、だいたい起きてる間は、ほぼ普通に電気が使えます。

ただし、1日20リッターのガソリン代は決して安くなく、毎日1,200〜1,300ペソ(約3,200円)がぶっ飛ぶ勘定。数日で通常の1ヶ月の電気代を超えてしまいます。そんなに払っても、温水シャワーやエアコンは、電力オーバーで使えないので、何日もとなると後期高齢者の両親がいる我が家では、なかなか厳しいものがあります。

そして被災後6日後の月曜日、やっと倒木の処理が完了しました。これについては電力会社ではなく、警察が緊急対応したようで、「PULISYA(警察)」と印刷されたTシャツを着た警官たちが、チェーソーをブイブイさせながら、作業してくれてました。

本格的な修理が始まったのは、さらにその翌日の月曜日。ちょうど1週間目に、ようやく待望の新しい電柱や部品を積んだトラックと、何人ものネグロス電力のスタッフが到着。昼過ぎから始まった作業は夕刻には終了。電柱に隣接する世帯では、電気が戻ったとの歓声が上がり、さて次は我が家の番だと思ったんですが、これが待てど暮らせど電気は戻らず。すでに修理は終わって、誰もいなくなってます。


実は、ちょうど我が家への送電ができるようになったのと、ほぼ同じタイミングで、シライ全市の広域停電が発生していたとのこと。まったく「何じゃそりゃ〜」です。そこから、さらに待つこと3時間。夕食が終わって、すっかり暗くなってから、今度こそ本当に、電力会社からの送電が復旧しました。ここまでざっと1週間と半日。

その晩は、久々にエアコンつけて夜更かし三昧。発電機を停めちゃうので、毎晩10時には消灯してたんですよね。さらに息子と二人で夜食のラーメンまで食べて、心安らかに眠りについて、翌朝は爽やかな起床...のはずが、朝になったら、また停電しとる。「何じゃそりゃ〜」

今回のは広域停電でもないし、昨日の修理に何らかの不備があったのか、我が家の周囲数軒のみの停電。当然、ネグロス電力のホームページにも情報は無し。仕方がないので、家内に頼んで通報してもらい、またぞろガソリンの追加購入で、朝のルーティーンの発電機への給油。あ〜あ、元の木阿弥とは、まさにこれ。

ということで、今も発電機の電力を頼りにネットに接続して、この文章を書いている次第。一体いつになったら、完全復旧するのやら。こういうのが精神的に一番堪えますねぇ。


【後記】この投稿をした直後に、まるで「どっかで読んでたんか?」みたいなタイミングで、電気が戻りました。ただ、大喜びでSNSに書いたりすると、またシレっと停められそうなので、淡々とご飯の用意したり買い物いったり。念の為に発電機は2台とも満タンにしておきました。それから10時間ほど経って、久しぶりに熱いシャワーも浴びて。どうやら、今度こそ大丈夫なようですねぇ。やれやれ...。


2025年11月5日水曜日

ネグロス直撃 25号台風ティノ

 前回の投稿が地震で、今回が台風。もう勘弁してくれよって感じです。地震はともかく、昔から台風被害の多いフィリピンなので、最近、中規模程度以下の台風に関しては、ブログで取り上げてませんでした。

ところが今回のTino(ティノ)は別格。いわゆる「スーパー台風」ではなかったんですが、問題は進路。フィリピン中部のビサヤ地方の心臓部を東西に横断した格好で、大都市のセブだけでなく、パナイ島の州都イロイロ、そして私たち家族の住むシライと隣街の州都バコロドを直撃。久しぶりに、台風の目に入って吹き荒れてた風雨が一瞬静まる、というのを経験しました。

11月3日の月曜日、日本では文化の日の祝日に「これはシライ直撃だ」とビビっていたら、瞬く間に接近して、翌日の火曜日の朝から強風と豪雨。ひとたまりもなくネグロス電力管内、つまりネグロス島の東半分が停電し、午後には台風が上陸するという電撃パンチ。ただ動きが早かったので、暗くなる前に風雨が収まってくれたので、一部道路が冠水していたものの、何とか発電機用のガソリン20リッターを買いに行くことができました。

本当なら前日には分かっていたんだから、買い置きしておけって話なんですが、完全に舐めてました。それとつい1週間前に12時間の計画停電があったばかりなので、在庫が払底してたってのもあります。

それでもまだ、翌日には電気は戻るだろうとタカを括っていたところ、ガソリンスタンドまでの道のりで、被害の大きさを目の当たりにしました。いたるところで街路樹が根こそぎになり、それに引っかかる形で、電柱は倒れるはケーブルは垂れ下がるは。確かに風が強いとは思ってたものの、見える範囲の自宅の周囲では、そこまでのエラいことにはなってません。しかも、当てにしてたガソリンスタンドが軒並み閉まってて、やっと営業してるスタンドを見つけたのが5件目。事ここに至って、ようやく事態の深刻さを認識した次第。

ネグロスでも相当な被害だったんですが、セブでは車が流されるほどの洪水だったらしい。前回の地震でもセブ島北部は大被害だったので、つい日本の能登半島の惨状を思い出してしまいました。ちょっと前まで、セブは自然災害が少ないって、言われてたはずなんですけどねぇ。

そして迎えた、台風一過の今朝(11月5日)。本来この日は「シンコ・デ・ノビェンブレ」のネグロスの祝日。1898年、フィリピン全土に先立って単独でスペインを追い払い、ネグロス共和国を樹立したという記念日。なので元々、学校も職場も休み。台風当日は休みだったメイドさんも出勤してくれて、家族で後片付けの1日となりました。

私はの分担はというと、いつものように食事担当に加えて、発電機の運用。どう楽観的に考えても、電力の復旧まで数日はかかりそうなので、まずはメイドさんにお願いして、追加のガソリン購入。これがなかなか帰ってこない。案の定、どこも発電機の燃料用にと、長蛇の列ができてたそうです。幸いにもATMは開いてたので、当面のガソリンと食料には困らない程度の現金はゲット。

とは言え、お金があっても品薄でガソリンを買えなくなる可能性もあるので、3時間稼働して2時間止めるという時間限定で様子を見る事にしました。台風が過ぎて暑くなってきたので、高齢の母にはかわいそうなんですが、扇風機無しで2時間我慢してもらうしかありません。ちなみに家庭用の発電機なので、エアコンやシャワー用のヒーターも使用不可。不便なことです。仕方がないので、解凍した豚肉や封を切っていたベーコン、スパムの類を一気に料理して、今夜は、時ならぬ「お肉祭り」の夕食になりました。

ということで、このブログを執筆中もまだ電気は戻っておらず、もう停電が36時間を超えました。こっちでは停電のことを「ブラウン・アウト」と言って、発電力不足による計画停電やってた時代の呼称が残ってますが、今回のは正真正銘の「ブラック・アウト」。それでも、一部では前日の深夜に復旧してた場所もあるそうなので、何とか明日中には...と思っております。

2025年10月20日月曜日

自然災害大国フィリピン

 前回は...と言っても三週間ぐらい経っちゃいましたが、私が住んでいるネグロス島の東隣りのセブであった地震の話を投稿しました。マグニチュード6.9で、震源近くのボゴ市では震度6弱の揺れがあったそうです。日本に比べると貧弱な建築施工が一般的なフィリピンなので、あちこちで建物が倒壊し、70名を超える死者が出てしまいました。大規模な地震では付き物の余震も頻発。ここネグロスでもベッドに横になって時など、僅かながら揺れを感じたりしました。

そして翌週の10月10日の朝。またセブの余震かなと思ったら、今度はミンダナオ島西の海底を震源とした、マグニチュード7.4の大地震。しかも同じ日の夜に、本震と同じぐらいの規模の余震が発生しました。ただでさえ地震慣れしてないフィリピンの人々なので、さぞや恐ろしかったでしょうね。その後、ネットに大量投稿された地震発生時の防犯カメラ映像などを見ると、日本人でもパニックになりそうな揺れ。おそらくこちらも、震度6ぐらいはありそうでした。

日本ほど地震情報が頻繁に出ないフィリピンですが、唯一速報に近いレベルで発信しているのが、PHIVOLCS(フィリピン火山地震研究所)。実は以前、ツイッターでフォローしたら、沖合が震源で陸地では無感の地震まで投稿するので、タイムラインが地震情報だらけ。鬱陶しくなってフォローをやめてたのを、セブの地震の後は、余震チェックのために再開。つまり、日本ほど毎年のように大きな被害は出なくても、フィリピンは決して侮れない地震頻発国なんですよね。

さて、それ以降は、ネット上での日本語情報としてはほぼ発信がないけれど、今月に入ってからネグロスの西隣にあるギマラス島で、最大マグニチュード4程度の地震が頻発。さらに、昨年(2024年)6月に大規模噴火した、ネグロスの主峰カンラオン火山の活動が、再び激しくなっています。先週の深夜にも火山性の地震があって、夜中に目が覚めてしまいました。

これはまったくの素人の想像なんですが、ビサヤ諸島からミンダナオにかけての、比較的狭い範囲で地震や火山噴火が頻発しているのは、やっぱり何らかの関係があるんでしょうか。

ところがそれだけに止まらないのが、日本と同様の自然災害大国フィリピン。まるで地震とタイミングを合わせたように、9月から10月にかけて、ナンド(Nando)、オポン(Opong)、パオロ(Paolo)、ラミル(Ramil)と立て続けに台風が襲来。そのすべてがビサヤ諸島の西を通ってルソンに向かうパターンで、ネグロス島を直撃はしないものの、毎回、大雨に見舞われています。

特にラミル(台風24号)は、まだネグロスからかなり離れている時期から、ここ西ネグロスに豪雨をもたらし、州都バコロドでは主要な道路が冠水。息子が通うバコロド市内のラサール大学も、ほぼ1週間のオンライン授業となったほど。毎年10月にバコロドで行われるマスカラ・フェスティバルのパレード当日も朝から大雨でした。(それでも延期や中止にならないのが、お祭り命のフィリピン人。)

ちなみに最近、フィリピンの政治家による1兆ペソ(約2兆6千億円)もの洪水対策予算の横領という、信じられないような汚職事件が明るみに出て、下手するとまた革命が起こるんじゃないかというぐらい不穏な情勢になってます。その直後の洪水なので、税金をマトモに使っていれば、もう少し被害もマシになってたんじゃないかとの話も。

とは言え地震と火山噴火に関しては、本格的にキツいのが起こったら、ちょっとやそっとの対策を打っても、どうしようもありません。日本同様の自然災害大国に住んでいる者の宿命ですね。



2025年10月5日日曜日

年度末のセブ北部大地震

 今年度(2025年)もまさに最終日、あと数時間で日付が変わるという9月30日の夜、セブ島最北端に近い海底を震源に、マグニチュード6.9の大地震が発生しました。この6.9という数字、2011年の東日本大震災の9.0という、史上最強レベルの強さに比べれば、大したことないと思われるかも知れませんが、1995年の阪神淡路大震災の本震がマグニチュード7.3でしたから、決して侮れない規模。

地震があった時間は、私は2階の書斎でパソコンに向かっていて「お、久しぶりにちょっと強いのが来た。」という受け止め。震度3かひょっとしたら4ぐらいはありそう...。これ以上強くなったら、デスクの下に隠れようかと考えているうちに、揺れは収まりました。ドーンという揺れではなく、比較的周期の長いユッサユッサという感じだったので、震源はネグロス島内ではなく、ちょっと遠くでかなり強い地震があったか?

ちなみに私は阪神淡路大震災の時、比較的震源に近い兵庫県尼崎市の実家にいました。おそらく震度6以上はあったろうと思われる揺れ。まさしく「ドーン」と来ました。家具はほぼすべて倒れ、ガラスや陶器の食器類は大半が割れる被害。ただ新築直後の鉄骨3階建ての自宅は倒壊を免れ、火災もなく、私も家族もかすり傷程度で済んだのは本当に幸運でした。

そういう経験があるおかげで、今回の地震もパニックになることなく、そこそこ冷静に対処できましたが、地震慣れしていないフィリピン人の家内はそうはいきません。完全に動転して家から飛び出し、私が呼びに行った時は、停電の暗闇の中、庭の隅っこで震えていました。

すぐに発電機を始動して、ネットで情報収集したところ、震源は私たちが住むネグロス島シライ市からは、ざっと100キロ以上はなれた隣島セブの北部。震源に近いボゴという街では相当な被害が出たようで、後になって流れてきたニュースによると70名以上の犠牲者が出たとのこと。

ここまでの震災は、私たちが移住した年、2013年のセブ島の隣、ボホールで発生したマグニチュード7.2の地震以来。この時シライ市内では、今回よりやや弱めの揺れを感じましたが、当時のメイドさんは同じように真っ青になって家の外に飛んで逃げてました。

ところで、今回の地震に伴うネグロス島での停電。地震で設備が破損したりということではなく、ビサヤ地方の広域をカバーしているナショナル・グリッド(電力会社)が、緊急事態で送電を止めたのが原因。約2時間ほどの点検の後、電力が復旧しました。

さて、フェイスブックやユーチューブでは、地震発生直後から続々と被害を伝える動画が投稿。西ネグロスの州都バコロドでは、建物の倒壊を恐れて多くの人たちが路上に溢れいる姿。家内とまったく同じ行動なんですが、これは笑い事ではなく、フィリピンの建築物って、厳しい耐震基準を満たした日本のそれに比べとても脆弱。そりゃびっくりして外に飛び出すのも分かります。実際、2013年の地震でも、多くの建物が倒壊しましたから。

また今回の地震は、観光地として名前の通ったセブということで、日本でもかなり早い段階で報道されたらしく、日本の私の友人からも安否確認の連絡があったほど。ただ、大都市であるセブ市とその周辺は、シライと同じく震源から遠かったので、揺れたとはいっても被害はほぼありませんでした。しかしながら、土地勘のない海外の災害への反応の常として、あたかもセブ全島が大被害だったかのように、勘違いした人も多かったようです。「島」と言っても四国の1/3ぐらいあるんですけどね。



2025年9月17日水曜日

言語ドッキリ

 ここ最近、ユーチューブでよく見るのがKazu Languagesというチャンネル。これは、10カ国以上の言語をネイティブ並みに喋る日本人、カズマさんという20代の若者が主催。OmeTV(オメTV)なる、初対面同士がビデオ通話を楽しむアプリで、いろんな国の人たちの母語を喋って「言語ドッキリ」を仕掛ける趣向。

このカズマさんが、なかなか今風のイケメンで、主に若い女性たち(10代から20代)を驚かせるのが面白くて、ほとんど同じパターンの繰り返しながら、飽きずに何時間も見てしまいます。

10カ国以上と書きましたが、日々新しい言語に挑戦されているそうで、13とか16とか徐々に増えてくる。別チャンネルのインタビューでは、びっくりネタに使える程度の、挨拶プラスαまで含めたら、何十カ国にも及ぶとのことで、これはとんでもない才能の人が現れたものだと感心しております。ちなみに、三つ以上の言語を操る人のことを、ポリグロット(polyglot)と呼ぶそうです。

何がすごいって、勉強始めて数ヶ月とか半年で、ネイティブに褒められるほど(リップサービスがあるとは言え)の発音の確かさと、いきなりスラングで振られても、ちゃんと聞き取って気の利いた返しができてるところ。それも英仏独などのヨーロッパ系のメジャーな言語だけでなく、中国語(マンダリン)、韓国語、インドネシア語、アラビア語などのアジア系、さらには、アフリカの少数言語など、そんな言葉があったのかというレベルの言語までカバー。ちなみにフィリピンの公用語であるタガログ語も、かなりできるらしい。

立場を逆にすれば、中央アジアかどこかの、かろうじて国名を知ってるぐらいの国で、日本に来たこともない若者が、突如、流暢な関西弁を喋り出したようなもの。何しろ標準ドイツ語に加えてスイスのドイツ語やら、エジプトのアラビア語とか、方言まで熟知してます。

ここから急に話のレベルが落ちてしまって恐縮ですが、一応私も三つの言葉を喋るので、ポリグロットと言えなくもない。母語の日本語に加えて、英語と、今住んでるフィリピン・ネグロス島の方言イロンゴ語(別名ヒリガイノン語)。日本語以外は、ちょっと怪しいながら、日常会話には困らない程度には喋れます。

なので、初対面のネグロスの人に、英語からいきなりイロンゴ語にスイッチして驚かせたり笑わせたりする「言語ドッキリ」の醍醐味は経験済み。特に箸がコケても面白い年代の若い女性が相手だと、転げ回るほど笑われたりします。まぁ私の発音が面白いってのも、多分にあるんでしょうけど。

それにしても一般的な日本人の外国語音痴ぶりって、私が子供の頃から言われてました。原因は間違いなく受験英語として言葉を教えるスタイルの旧態依然ぶり。このブログでも何度書いた通り、小学校1年から、ネイティブの教師に会話中心で教えてもらったら、あっという間に新時代到来なんですけどねぇ。

ところがカズマさんの動画を見ていて思うのは、動画系のSNSやアプリの登場で、言語学習の分野で革命が起こっているということ。ただの独学ではなく、初心者でも対象言語のネイティブ話者と、実地で会話練習ができちゃうんですから。カズマさんは桁外れの天才だとしても、彼のやり方は凡人が真似しても得るところが多い。

現代のネット社会では、別に10言語を目指さなくても、そこそこ社交的で変な羞恥心を捨てられる人なら、一つや二つの外国語は、それほど無理しなくても習得できる環境が整っている。さらにすごいのがAIの進化・普及に伴ったネット上の自動翻訳。英語のような超メジャー言語だけでなく、最近はイロンゴ語の充実ぶりが凄まじい。早速、私のイロンゴ学習で活用しまくりで、イロンゴの家庭教師が驚くほどのレベルに達しています。

もう5年ぐらい前から、毎週イロンゴで日記というか週報みたいなA4一枚の宿題を書いて、先生に添削してもらってます。自動翻訳を使う前から、まず英語で書いてイロンゴに翻訳するスタイル。これは言語間の相性の問題で、同じヨーロッパ系のスペイン語からの借用語が多いせいか、日本語に比べると英語で1対1直訳できる単語が多いんですよ。

このやり方はグーグル翻訳でも有効で、出てきたイロンゴ文を読んだ先生が「誰かに代筆してもらった?」と疑うほど。まぁ代筆には違いないんですけど。

ということで、私が20代ぐらいの頃にこの環境があったら、カズマさん並みは全然無理でも、今喋れる3言語に加えて、タガログ語とスペイン語ぐらいはモノに出来てたかもしれません。若い人が羨ましい限りです。



2025年9月16日火曜日

88歳の母 驚異の回復

 前回の投稿で、フィリピンの我が家で介護中の88歳の母が、とうとうオムツ着用になってしまったという話をしましたが、驚いたことにその母が、赤ちゃん状態から戻ってきました。

一時期、施設に入所していた時に、要介護3になってオムツ付けていました。そこから自力排泄できるようになって、フィリピンに渡航できるまでに回復した実績はあったんです。とは言え、あれからもう数年が経ち、確実に老化は進行している母。正直もう最後までオムツは手放せないかと、諦めておりました。

私自身を含めた一般的な感覚として、中高年から老年期にかけて、若い頃できていたことが徐々できなくなった場合、大抵はもう元には戻らないもの。例えば長時間のスポーツとか、途中覚醒なしに8時間以上眠ったりとか。あるいはかつて食べていた量を食べたら、ひどく胃もたれしたり。

記憶力や認知力も同じですね。衰えの速度をがんばって鈍化させられても、残念ながら不可逆的に、できることが減っていってしまう。なので、母の場合も同じで、しかも一度回復したからと言っても、二度三度は無理だろうなと考えた次第。

ところが、元々母がそういう体質だったのか、それとも今のフィリピン・ネグロス暮らしが良い影響を与えたのか、ここ1週間ほどは大人用オムツとも縁が切れてます。私がホッとした以上に、これが分かった時の家内の喜びよう。メイドのグレイスと共に、直接介護をしてくれている家内なので、嬉しさもひとしお。

さて、その老人には良さそうなネグロス島の我が家での暮らし。具体的にどこが良いのか考えてみました。まずは、暑過ぎず寒さもない気候。これを書いているのは9月なんですが、日本はまだ「危険な暑さ」なんて予報が出てます。今回の父母の滞在は、3月からで、4〜5月の乾季は例年並みの暑さでした。それでも、大阪の狂ったような酷暑に比べれば「昔の日本の夏」レベル。緑の少ないマニラ首都圏などに比べても、避暑地と言ってもいいぐらいの涼しさ。7〜8月は雨季なので、日によっては扇風機さえ要らない天気。

次に考えられるのは、父母のために一戸建ての離れを用意したこと。これは介護する側にも大きいポイントで、相互のプライバシーを保てるし、耳が遠くなってテレビを大音量で付けっぱなしでも大丈夫。当事者の父母もかなり気楽だろうと思います。

そしてこれが一番大事だろうと思うのが、毎日の食事。若い頃から食べるのが大好きな母で、風邪ひいて多少熱があろうとも、食欲だけは衰えたことがない。60代の頃に骨折で入院して、退院祝いにと餃子の王将に連れていったら、下痢をするほど食べ過ぎたという人。さすがに今はそれ相応の食事量ながら、キッチリ三度食べてデザートのパパイヤやドラゴン・フルーツも完食。

誠に手前味噌で恐縮ながら、何より、私が食事担当なのは大きい。移住後10年ですっかり食事担当主夫が板につきました。フィリピンに移住して食べ物に慣れずに困っているという話を時々聞きますが、これは自炊すれば無問題。なぜなら、野菜・魚・肉などなど、たいていの食材は日本と同じか近いものが手に入るし、キッコーマンの醤油も味の素も、キューピーのマヨネーズだってあります。

そもそも母の手料理で、育ててもらった私なので、味付けや献立は母譲り。料理を教えてもらったことはないけれど、自然とそうなってしまう。おかげで、毎食「おいしい、おいしい」と食べてもらえてます。考えてみたら、食事自体もさることながら、夕食時には孫の顔をみられるのも、楽しみの一つなんでしょうね。

ということで、何とか元の生活に戻って、住み込み介護士を雇う話もペンディング。この調子で、最後の瞬間まで今と同じぐらいの元気さで、生き切ってもらいたいものです。


2025年9月11日木曜日

おむつの衝撃

 とうとうこの状況が来てしまいました。後期高齢者の母が半分寝たきりになって、かれこれ5年。私のフィリピン・ネグロス島の自宅に、父と一緒に引き取って世話をし始めてからでも足掛け3年になって、母がおむつの常時着用状態に。

きっかけは先月、母が下痢になってベッドで便を漏らしてしまい、自力でトイレに行けないことが発覚。もう来年90歳になろうという人なので、仕方ないと言えば仕方ないけれど、自分を産み育ててくれた母が、ここまで弱ってしまうのを目の当たりにすると、やっぱり衝撃を受けるもの。

ところが、義理の娘である家内と、介護の訓練を受けてきたメイドのグレイスの対応は見事でした。すぐ近所のスーパーで大人用おむつを購入し、嫌な顔もせずにテキパキと処理。まぁ、この状況を見越して父母専用の一戸建ての離れを建てて、介護の経験がある人を雇ったわけなので、想定内ではありました。

さらに年寄りや病人には手厚いと言われるフィリピンの国民性。まだ日本に住んでいた20年ほど前、ゴルフ場で骨折して入院した母のために、毎日病院に通って入浴の介助をした家内の行いは、それを身をもって証明したような出来事でした。なので、この二人には本当に感謝しつつも、ある意味、手筈通りに事が進んでいるとも言えます。

お陰さまで、母の下痢は数日で快癒。一時は家内ともども、デング熱のような厄介な病気だったらどうしようと心配しましたが、比較的早くに食欲が戻ったので、入院についてはせずに済みました。やれやれ。

それでも完全に元には戻らず、おむつは手放せないまま。実は一旦は要介護3で、日本の老人ホームに入っていた母。そこではおむつ着用だったそうなんですが、ケアマネージャーさんも驚く奇跡の回復で、なんとか飛行機に乗れるまでになり、今に至っています。それを考えると、また自力で下の世話をできる状況になるかも知れません。

下痢で寝込んでいる時は、まったく目の焦点も定まらず、完全に「寝たきり老人」だったのが、以前と同じく食事時には、父に支えられながらも、ちゃんと歩いてダイニングまで来て、健常者と同じメニュー(つまり私が用意する家族用の食事)を普通に食べてます。つい先週には、グレイスに散髪してもらって小ざっぱり。表情もしっかりしてきて、もう「呆けた顔」ではありません。

ただ問題は、おむつ必須だと日本への一時帰国は難しくなること。当初の予定では、半年に一回程度は帰国して、医師による健診や薬の処方などと考えてましたが、場合によっては、まだ頭も足腰もしっかりしている父のみ帰国、という選択肢も考えざるを得ません。そうなると、今は通いのグレイスだけではなく、住み込みの介護士を雇う必要もあります。(ちなみにネグロス島での介護士を雇う費用は、高くても月5万円ぐらい)

最近フィリピンでは、観光ビザのルールが変わって、手続きさえすれば3年は延長できるので、まだしばらくは大丈夫。また日本での介護に比べれば、はるかに恵まれている状況なんですが、それでも親が死ぬのを待っているような感じで、気分的は暗くなりがちですね。

ということで、私と同世代の50〜60代の方々には他人事ではない話題なので、この件に関しては、今後も投稿を続けたいと思います。


2025年8月15日金曜日

敗戦80年に想う

 「敗戦80年に想う」と題したものの、私はまだ還暦を過ぎて数年なので、当然、先の大戦は経験しておらず、両親や祖父母、親戚や学校の先生から話を聞いただけの者です。それでも、物心つくかどうかの幼少期から、繰り返し聞かされた戦中・戦後の悲惨な体験。それに加えて、映像や書物、さらにはマンガなどで、トラウマになるほど心に刷り込まれているので、やはり八月十五日には、いろんなことを考えてしまいます。特に太平洋戦争での最大の激戦地の一つだった、フィリピンに住んでいれば、尚更です。

ちなみに私の両親は、敗戦時に8歳と9歳。母は大阪から親戚の住む長野県に疎開していたので、直接の空襲被害は受けなかったものの、父は大阪大空襲を間近に見ています。今に至るまで、当時のことはまったく話しませんが。

幸いにも、祖父母も叔父や叔母にも、戦死したり空襲で亡くなった人はいないものの、誰に聞いても食糧難は本当にたいへんだったとのこと。確かに、小学生ぐらいで満足に食べ物を口にできないって、その後の人格形成にも影響が出たと思います。この世代の人たちって、サツマイモやカボチャは、子供の頃に一生分食べたから、もう見たくもないって言いますからね。

さて、今年は80年目という節目なので、ネットで眺めているだけでも、実にいろんな記事や言説が流れてきます。さらに、ウクライナやガザでの終わりの見えない殺戮が続き、一つ間違えば核兵器が実戦で使われるかも知れません。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、昨年(2024年)のノーベル平和賞を受賞したのも、その可能性のヤバさが理由なのは、まず間違いないところ。

ここで唐突ですが、「ダウンフォール作戦」ってご存知でしょうか?訳すれば「破滅」の意味にもなる物騒な名称ですが、これは、1945年から46年(昭和20〜21年)にかけて、アメリカ軍が計画していた、日本本土への上陸作戦。まず45年11月に九州南部に上陸領(オリンピック作戦)し、そこを根拠地としてさらに翌年に、関東平野一円を占領(コロネット作戦)する予定でした。

この作戦は、原爆使用やソビエト連邦の参戦などがあり、日本政府がポツダム宣言(無条件降伏勧告)を受け入れて実施されなかったんですが、もしこれが現実になっていたら、私は生まれていなかったかも知れないし、その後の歴史もまったく違っていたでしょう。何しろ推定の日本側の死者が500万から1,000万(民間人含む・諸説あり)で、当時の総人口の7〜15%がいなくなる計算でした。

そしてここからがポイント。こういう話は日本人としては想像するのも苦痛だし、大戦末期の日米の圧倒的な戦力差からすると、巨人が虫けらを踏み潰すようなイメージなんですが、アメリカ軍の責任者や為政者の立場で考えたら、決してそんな簡単な話ではなかった。

例えばサイパンや硫黄島も沖縄も、その上陸と占領には、当初のアメリカの見込みよりはるかに長い期間を要し、多くの死傷者を出しています。もちろん日本側の被害に比べれば、ずいぶん少ないものの、沖縄だけで1万人以上の兵員が失われてますから、これが日本の本土となったら、大雑把に見積もっても、その何十倍の損耗は覚悟したでしょう。また、特攻や民間人まで動員した、相手からすれば狂信的としか思えない日本の戦い方を目の当たりにして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する兵士も多かった。

実際には大雑把どころか、アメリカらしく事前に綿密な調査と研究が行われ、戦力分析だけでなく、予定戦場の地質まで調べたそうです。そして導き出された米軍の被害予測が、少なくとも戦死者25万人。場合によっては100万という見方もありました。史上最大の上陸戦と評されたノルマンディさえ比較にならぬ数字に、当時のアメリカ大統領トルーマンがビビったのも無理からぬ話。

「私は生まれなかったかも」と書きましたが、これはアメリカ側でも同じように考えた人も多く、もし戦争が長引いていれば、父は戦死して復員せず、その子供である私は存在しなかっただろうと。

こういう背景を知ると、後にアメリカ人が核使用を正当化する際の「原爆は、何万人ものアメリカ兵の命を救った」という常套句も、必ずしも詭弁や言い逃れとは、思えなくなってきます。念の為に書きますが、だから広島や長崎の犠牲は仕方なかった、など言ってるのではないですよ。民間人への無差別爆撃は、当時であっても明白な戦争犯罪だし、とても許される行為ではありません。

私が問題だと思うのは、こういった事実や数字が日本の学校で、まったく教えられていないこと。被害者として、戦争がいかに悲惨で、繰り返してはいけないというのは、私の世代は、嫌というほど教わりました。しかし、なぜ当時の為政者が戦争を始めたか、その背景や経緯はどうだったか、などなど、感情に訴えるだけでなく、歴史的にどうだったかの視点がなさ過ぎる。これでは、現実にどうすれば戦争をしなくて済むのか、その具体的な行動指針も考えられない。

実は私がまだ大学生だった頃に「昭和16年夏の敗戦」という、その後都知事になった猪瀬直樹さんの著書を読みました。それによると真珠湾攻撃の半年前に、対米戦争やっても勝ち目はないとの分析結果が、当時の内閣直轄の組織だった、総力戦研究所で出てたんですよね。それも、ほぼ史実を予言するような形で。

にもかかわらず、その結果を無視して全面戦争をやってしまい、もっと悪いことに、国が滅びるかというほどの負け方をしてもなお、冷静に知的に、その教訓から学ぼうとしないのはなぜなのか? 私たちが受けた平和教育が無駄だとは思いませんが、それと並行して、当時の世界情勢や日本の軍事力の実態、日本政府や軍部の指導力、帝国憲法の問題点など、冷徹な乾いた目で見定めて、少なくとも高校できちんと教えるべきじゃないでしょうか?

ところが、軍事について語ろうとしただけで感情的になって、軍国主義だの右翼だのレッテルを貼られてしまうのが戦後教育の現実。挙げ句の果てが、「あの戦争は軍部の暴走」という一種の思考停止で片付けて、それ以上考えることもしなくなる。これは憲法9条についても同じで、問題点を論じるどころか、その話題に触れることすらタブー。

その結果、戦略的にまったく割の合わない特攻や集団自決を、美辞麗句で飾り立てるような人が、政治家の中からさえ出たりします。それに異を唱えると「お前はそれでも日本人か?」ですからね。特に今回の参議院選で、参政党から候補者の発信には、目を覆いたくなるものがありました。

ということで、書いているうちに熱くなってしまい、ずいぶんな量になってしまいました。その上、フィリピンやネグロスのことからも離れちゃったし。これは、猛烈な反発があるかも知れません。でもこの件については、昔からずっと考えてきたし、これからも考え続けるんだろうと思ってます。



2025年8月13日水曜日

日本語教師を辞めた顛末

 今年(2025年)5月に、満を辞して始めたオンラインの日本語教師の仕事が、3ヶ月保たずにパーになってしまいました。実は、このブログが1ヶ月以上も間が空いてしまったのも、それが原因。

理由は一つだけではないんですが、まず一番大きかったのが、マネージメントが雑すぎること。元々この仕事は、フィリピン・バコロド(西ネグロスの州都)生まれで、現在日本在住の50代のフィリピン女性Dさんからのオファー。前々回の投稿でも書いた通り、同じく日本に住んで仕事をしている、あるフィリピン人からDさんへの依頼で、姪っ子に日本で仕事を手伝ってもらいたいから、日本語を教えてほしいとのこと。これは日本語教育だけでなく、来日のためのビザ取得の代行業務の一環です。

当初の計画では、今年の1月からバコロド市内に日本語学校をオープンして、約20名ぐらいの生徒の先生をするはずだったのが、ほとんど説明もなくズルズルとなし崩し的に延期。結局、しばらく学校は無理だからオンラインで一人だけ、給料は1/4で、となったのが5月の半ば。

まぁ、こちらは教職の経験がないので、実務研修を兼ねてと思って引き受けたものの、これが実に難儀な仕事。というのは、生徒さんがいつ日本に渡航して、どんな仕事をする予定で、いつまでにどの程度の日本語レベルが必要かといった、基本的な情報が全然なし。仕方がないので、こちらから根掘り葉掘り質問しなければなりません。

ところが、Dさんから訊いた話と、生徒さんの言う内容が食い違う。Dさんからは、8月末、つまり3ヶ月で150時間の授業を終えたいとの要望が、生徒さんはドタキャンの連続。このままでは間に合いませんと生徒さんに言ったら、別に8月じゃなくても構わないと、焦る素振りもありません。

それだけでなく、他の生徒さんも増やしたいみたいなことを、断片的に言ってくるDさん。でもフォローの情報は皆無。その話が無くなったのか、継続で検討中なのか、途中経過がまったくありません。もちろんメインの日本語学校オープンの見通しも分からないまま。8月に入って、いよいよスケジュール的にヤバいとなって「このままでは先生の仕事を続けるのは無理です。」とメッセージしたら二日遅れの返事で「身内が入院してしまい、なかなか連絡ができません」とのこと。

それはたいへん気の毒なことなんですが、それを理由にマネージメントを放棄されては、現場にいる身としては堪ったものではありません。そんなことがあるなら、せめてすぐに教えてほしかった。

この状況に追い討ちをかけるように、相変わらずモチベーションが超低空飛行の生徒さん。週に14時間の予定が、ドタキャンしまくりで、最後の方は週にたった3時間しか授業ができず。また、まったく平仮名を覚えてくれないので、毎回、教科書にローマ字の振り仮名を振って、英訳まで追加で授業素材準備。これだけで授業1回分で2時間はかかってしまう。そして開始直前の30分前とかに「今日は外食するから休みます」「今日は疲れたので無理です」みたいなメッセージが来ると、心底ガッカリします。

トドメが、生徒さん宅の環境の悪さ。とにかくうるさくて、生徒さんの声が聴き取れず中断もしばしば。というのは、なぜか授業の時間になると決まって、同居している叔母さんが部屋の掃除を始める。それもかなり大掃除に近いような感じでドッタンバッタン。さらに、隣室で他の誰かが大音量でテレビを見てるし、小さな子供たちが絶叫してる。とても集中して授業ができる環境ではありません。

せめて授業の間だけでも静かにするように頼めないの?と、生徒さんに訊いても、どうやら親戚宅に居候しているような身分らしく「ごめんなさん、でもそんなこと頼めないです」。よ〜く考えたら、フィリピンから外国に出稼ぎにいくような人って、この生徒さんに限らず、大家族で狭くて劣悪な環境に住み、学習能力も決して高くないことが多いんでしょうね。

ということで、先が見えず毎日ストレスだけが溜まっていくのでは、わざわざフィリピンの田舎に移住した意味がなくなってしまうので、今回の仕事は辞めることにしました。まぁ安いとは言え、一応3ヶ月は給与生活でをして、久しぶりに「次の給料日が待ち遠しい」感覚を味わえたので、良い経験ができたと思うことにします。



2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。



2025年6月30日月曜日

茹で過ぎパスタ好きの国で、頑張る日系レストラン



バコロド市内にオープンした ぼてぢゅう
 コロナ禍以降、私たちが住むフィリピン・ネグロス島でも、すっかり経済成長のペースが戻った感じ。それを裏付けるかのように、昨年辺りから州都バコロドで、日系レストランが開店ラッシュを迎えてます。

元々日本人が多い(数万人規模)マニラやセブなどに比べ、微々たる数だったバコロドの日系レストラン。私たちが移住した13年前には、「いなか」「海星」ぐらいしかなく、7〜8年前に「維心」というラーメン屋さんが出来た程度。もちろん私も全部把握しているわけではないので、もう少しあるかも知れません。

こういう日本食レストランで、ありがちなのが、当初は日本クオリティを再現してたのが、なし崩し的に味も価格もローカライズされるパターン。その後、日本人客が来なくなっても、お店が無くなっていないなら「なんちゃって日本食」で、それなりに成功してるんでしょうね。

そんな中、比較的最近バコロドに出店したのが、ラーメンの一康流。すでにフィリピン国内だけで8店舗を展開中で、かなりの知名度はあるようです。オープン時には、バコロド初の本格的なラーメン専門店なので、かなりの頻度で通いました。ただ残念なことに、これもローカライズが原因なのかどうか、スープの味がずいぶん薄くなっちゃったんですよ。私の口には合わなくなったので、コロナ禍以降は、まったくのご無沙汰。

そして昨年(2024年)頃から、突如、カレーのCoCo壱、三ツ矢堂製麺、和民、そしてUCCカフェのバコロド2号店などが続々とオープン。今年に入ってからは、大阪発祥の「ぼてぢゅう」がやって来たという活況。調べてみたら、ぼてぢゅうのフィリピンでの店舗数は何と113店。これは日本国内の47店舗の3倍近い。

私は関西出身なので、ぼてぢゅうはよく知ってますが、この勢いだと、日本の他地域よりフィリピンの方が、名前の通りがいいんじゃないですか?フィリピンでもお好み焼きやたこ焼きの類いは、以前から人気があるんですが、それにしても「何故」と思いますね。まぁ、日本人として関西人として、フィリピンでお好み焼きがメジャーになるのは、嬉しい限りですが。

ところで肝心の味はどうでしょう?たまたま最近ユーチューブで見た、ホリエモンと和民のCEOである渡邉美樹(わたなべみき)さんとの対談。それによると、最初は日本オリジナルを押し付けてたそうなんですが、今ではフィリピン人シェフのアドバイスに従って、アレンジをしているとのこと。

確かに実際にバコロドの和民へ行って食べてみると、味はもちろんのこと、盛り付けやメニューの詳細まで、いかにもフィリピン受けしそうな日本食、という感じにまとまってました。そもそも日本だったら、居酒屋さんにラーメンや餃子、お寿司は、普通置いてないですよね。居酒屋と言うより、コンパクトな「くいだおれ」に近い感じ。

この傾向は、ぼてぢゅうも同じだし、フィリピン人オーナーが始めたような、小規模な「なんちゃって日本食」レストランでも同様。日本レストランに、ラーメン・餃子・唐揚げ・寿司がないと、フィリピンのお客さんは納得しないようです。

ただ前述のように、ローカライズも度を過ぎると、日本人だけでなくフィリピン人も離れていってしまう。と言うのは、昔に比べると、日本からの輸入食材や調味料は簡単に入手できるし、それほど裕福でなくても、日本に旅行して本物の日本の味の体験者が増えています。

なので、どの程度までフィリピン・ローカルの味やサービスに寄せるかは、かなり匙加減が難しいそうです。分かりやすい例で言うと、なぜか茹で過ぎパスタが大好きで、安い店だとグダグダに柔らかく、甘いソースでベチャベチャのスパゲティが出てきちゃう国。だからと言って、マニラの丸亀製麺のうどんはグダグダではなく、それなりにコシがありますからね。



フィリピンの親戚が作ったカルボナーラ(上)
私が作ったボロネーゼ(下)

ということで、地方都市バコロドですら、益々充実していく日本食レストラン。次は、天下一品のラーメンや家族亭の天ぷら蕎麦が食べたいなぁ。

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いけれど、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。



2025年5月29日木曜日

家庭教師バンビ 奇跡の人生大逆転

 フィリピンの総選挙や私の日本語教師デビュー、そして向かいの家の騒音で揉めた5月も、あっという間に残り数日。私の引退生活では珍しく、かなりの多忙感がある1ヶ月でしたが、最後はちょっとハッピーな話題を。

2021年の12月からなので、かれこれ3年半も私のイロンゴ語の家庭教師をしてくれているバンビ。現役の高校教師で、家庭の事情や病気などで教育機会を逸してしまった生徒さんへの、出張授業を専門とするALS(Alternative Learning System)の専任者。加えてギターやピアノが弾けるので、所属するプロテスタント教会では、讃美歌の伴奏したり行事のスタッフになったり。その忙しい合間を縫って、週一回、私の家で2時間のイロンゴ・レッスンをお願いしてます。

そんな彼女も不惑を過ぎて、体調にいろいろ問題が出てくる年頃。生理不順で、時々とてもしんどそうにしてましたが、昨年末、勤務先の教育省シライ分室にて、大量の不正出血。救急車で病院に搬送されるほどで、そのまま数日間の入院となってしまいました。クリスマスには、バンビの生徒さんと一緒にクリスマス・キャロルを歌おうという計画もすべてキャンセル。ようやく職場に復帰して、私に家に来てくれたのは、その数週間後でした。

バンビの不運はこれだけではありません。数年来シライ市内で同棲していた彼氏との関係が破綻。聞くところによると、この男性は既婚者でマニラに妻子がいるんだとか。バンビは辛抱強く、彼が結論が出すのを待っていたんですが、優柔不断な態度を続ける彼に嫌気がさして、とうとうお別れになったそうです。

それだけでなく、職場でもいろいろ問題が発生。仕事の内容にはいつも真面目に取り組むんですが、どうも時間や予定のマネージメントが不得手。イロンゴ・レッスンもよく遅刻したり、直前になって別の日に変更になったり。まぁバンビに限らず、フィリピンあるあるとは言え、おそらく体調不良とも重なって遅刻が続いたんでしょうね。上司との関係がかなりこじれちゃったらしい。

なぜそんなことまで分かるかというと、バンビは教育省で働く家内の職場の同僚。家内とは昔からの知り合いで、いろいろ相談もされる仲。つまりその縁で、家庭教師になってもらったわけです。

こういうことが同じ時期にどっと押し寄せてきたので、私も家内も気の毒に思い、バンビのレッスンの後、昼ごはんや夕食を一緒に食べたり。「この後、ご飯食べる?」と聞くと、たいていすごく嬉しそうに「ありがと〜」と返ってきます。こういうところが、8人兄弟姉妹の末っ子らしく可愛げがあるんですよね。上司とは上手くいかなくても、生徒さんには人気があるわけです。

さて、そんな災難続きのバンビ先生。ここ数ヶ月ほどは、週末、子供にギターを教えることになったとかで、ずっとバックアップ要員の姪っ子、エイプリルが私の家庭教師。エイプリルも気立てが良くてインテリ、しかも美人なので、私にとっては悪いことではないものの、やっぱりちょっと寂しい。


昨年(2024年)の誕生日に贈った
バンビの似顔絵イラスト

ところが週末に忙しいのは、ギターを教えることだけが理由じゃなかった。バンビの姉で、我が家のメイド、グレイスおばさんによると、何とバンビに新しい彼氏ができたんですよ。しかも、そのお相手は、ずっとバンビを心配していた牧師さんによる紹介。ということは、同じ教会所属で同じ信仰を持つチャーチメイト。

まだ会ったことはないですが、バンビと同世代の40代で、子供はいるけど未婚のシングル・ファーザー。ただし飲料水店の経営するまじめな自営業者で、大金持ちとまでは行かなくても、収入は安定しているようです。なるほど、どおりで最近になって急に、自宅のフェンスの修理をしたり、エアコンを購入しようなんて話が出てきたわけだ。以前は、すいぶん前に亡くなった父親の借金返済や、前の前の彼氏に買ってあげたバイクのローンやらで、いつも金欠病だったんですよ。

さらにめでたいことに、近々結婚まで考えてるとのこと。裕福な結婚相手を見つけたからといって「人生の大逆転」なんてタイトルをつけたら、まるで金目当てみたいで失礼ですが、今までのバンビの受難を思うと、そうも言いたくなります。何より、エイプリルやグレイスによると、今とても幸せそうなんだとか。

信心深くて、フェイスブックにやたら新約聖書の一節を投稿したりするバンビ。長い試練の時を経て、ようやく神さまの祝福が、我が家庭教師の上に降り注いだようです。日取りは未定ながら、結婚式にはぜひ呼んでもらいですねぇ。




2025年5月25日日曜日

AIで書いた苦情申し立て

 前回からの続きで、向かいの家との騒音紛争に、ようやくケリが着いたお話です。

4ヶ月続いた向かいの家のリノベ工事も、5月の半ばにやっと終わったようで、久しぶりに窓を開けて涼しい風を室内に送り込めるようになりました。...と思ったら、今度は、まるで狙ったように、我が家に一番の至近距離の角で、雄鶏を飼い始める始末。こいつが、朝の4時とか5時に鳴き始めて、私を叩き起こしてくれます。こうなると、もう年齢的に二度寝ができず、昼寝をしようにも、明るいうちは15分から30分間隔で時を告げるので、寝付くことができない。

さらに追い討ちをかけるように、まだ若干の仕上げの残り作業があるらしく、時々数人の大工がやってきて、またもや大音量音楽。ある日の午後、ついにブチキレて直接大工に「止めてくれ」と言ったら(一応英語で「プリーズ」はつけました)「文句があるなら警察を呼べ」と逆ギレ。

ここまでの4ヶ月、苦情を入れるにしても、一般的なフィリピン人の騒音に対する感覚の違いを理解した上で、私なりに紳士的に対応してきたつもりでした。ただ、ここに家を建てたのは、静かな暮らしが売りの宅地だったし、ちゃんとルールもあります。残念ながら、ここまで敵意・悪意を剥き出しにされたら、しかるべき筋に訴え出るしかありません。

ということで誠に遺憾ながら、バランガイ訴訟に踏み切る前の最後の手段で、クラブハウスのマネージャーからのアドバイスに従って、英文書簡による苦情申し立てをすることにしました。ほんと、やりたくなかったんですけどね。

さて、仕方なく書くことになったとは言え、どうせやるなら当てつけのように格調高い英語でビビらせてやろうと、まず日本語でそれなりの文章を自作。それを今流行りのAI(無料)に「丁寧な英語で」と但し書きを入れて翻訳してもらいました。瞬時にそれらしい英文が出てきたので、AIさんお礼を言って、今度はそれを、ほぼ英語ネイティブの息子に校正を依頼。進学先の大学が決まって、この7月1日まで余裕かまして夏休み中だし、もともと英語は得意中の得意なので、AI並みに直しの入った文章が完成。ここまで2時間もかかってません。

ちなみにこの文章を、私のイロンゴ語の家庭教師のエイプリルに見せたら、きれいな英語に驚いてました。

それを3通印刷して署名し封筒に入れて、一通は翌朝家内に頼んで向かいの家の住人へ、もう一通はクラブハウスのマネージャーへ、最後の一通はそのマネージャーに頼んで、マニラに住む宅地のオーナーに宅配便での送付をお願いしました。

結局そこまでしなくても、向かいの住人(オーナーの息子)が、手紙を受け取ったその場で、びっくりして家内に謝罪。前日、私に悪態をついたのは、貧乏大工かと思ったらその住人の従兄弟だったそうです。要するに、工事中の昼間は住人が不在で、事情を知らない従兄弟が一人で作業してたとのこと。当然、宅地のルールなんて知らないだろうし。

さらに、翌日から雄鶏の鳴き声もピタリ。どっかへ売ったのか、シメておかずにしちゃったのか。その鶏を直接飼育していた庭師だか使用人だかのおじさんも、それから姿を見なくなりましたね。夜間は明かりがついているので、住人はいるんでしょうけど、昼間はまるで廃屋のような静けさ。

ということで、結果オーライのめでたしめでたしだったんですが、改めて思ったのは、この国で静かに暮らすって、単に場所にお金をかけるだけでなく、場合によってはそれ相応の努力が必要なのだということ。聞くところによると、この宅地に500軒もある家のオーナーの名義って、ほとんどがOFW(フィリピン海外労働者)なんだそうです。

つまり、昔ながらの富裕層や外国人が住むようなビレッジと違い、成金の小金持ちが住民の大部分。まぁ私も似たようなものなので、偉そうには言えませんが、何代も高級住宅地に住み、マナーやルールを身につけた住民は、まずいないってこと。

もうひとつ後日談めいた話をすると、最近、私が始めたオンライン日本語教師。現在3人の生徒さんがいるんですが、どの家も、背後で犬が吠えたり鶏が鳴いたり。果ては隣家の子供の泣き声で、時々生徒さんが何を言ってるか聴き取りにくかったり。

やっぱりフィリピンの一般庶民の感覚では、音楽がうるさいと苦情を言う日本人の方が、常識外れで厄介な存在なんでしょうかね?(溜息)



隣家との騒音紛争の結末

 今年の1月中旬から続いていた、向かいの家との騒音紛争(?)が、先日ようやく収束しましたので報告します。

まぁ他人さんからすれば、まったくどうでもいい話だし、こんなことでストレスを溜めるのも馬鹿馬鹿しいんですが、当事者の私にとっては、一時的とは言え不眠による体調不良にまで追い詰められたので、かなり深刻なお話。

もう一度背景をおさらいしますと、私の住んでいるのは、フィリピンでも比較的高級住宅地の部類に入るセント・フランシスという名前の、ビレッジとかサブディビジョンと呼ばれる場所。500世帯もの人々が暮らすと言いますから、人口は数千人にもなるちょっとした街。そして、ひとつの区画は150平米(約45坪)もあって、家によっては2〜4区画を買って家を建てています。我が家も4つ分の土地なので、600平米。普通に日本の宅地だとすれば「豪邸」レベルでしょう。

つまり、一軒一軒の間隔が広くて、人口が多くても敷地全体が広大なので、普通に住めば隣家の騒音など気にならないはず。サブディビジョンのローカル・ルールでも、屋外でのカラオケなどの大音量音楽や、雄鶏の飼育は禁止されています。日本に比べれば格安の地価ながら、ネグロスの物価からするとやっぱり高嶺の花なので、連日連夜庭でカラオケするような、どっちかと言うと貧乏人っぽい人はいません。

ところが厄介なのは、今回のお向かいさんのような、工事で大工が入ってくる場合。すごく差別的な書き方になってしまいますが、フィリピンの大工さんって基本的に貧乏人ばかりなんですよ。というのは、総じて肉体労働の価値は低く見られるフィリピン社会。日本のような、腕の良い職人さんは尊重されるような文化があまりない。そもそも給料が安すぎる。ぶっちゃけ高校も出たかどうかみたいな、教育がなくて、騒音に対する感覚がまったく異次元の人が多い。

なので、わざわざバイクに大きなスピーカーを積んで来て、作業中に頭が割れそうなボリュームで音楽をかけるのが、彼らにすれば当たり前。もちろん私だって、パソコンで作業する時などBGMを流したりしますが、室内かヘッドフォンで聴くか、それなりの周囲への配慮はします。一般的な日本人が相手なら、言うまでもない話。

こんな感じで、狭い道一本挟んだだけの10メートルも離れない場所で、朝から夕方までディスコミュージックみたいなのを聴かされたら、そりゃ病気になっちゃいますよ。ただでさえグラインダーやドリルの騒音がすごいのに。

なのでその都度、宅地の警備員やメイドさんに頼んで、音楽を止めてもらうようにお願いし続けてたわけです。もっとも当座は静かになっても、翌日とか数日後には、忘れちゃうのかワザとなのか、また同じことの繰り返しですが。途中からは、宅地の管理事務所に相当する、通称「クラブ・ハウス」のマネージャーの協力も仰ぎ、事態は鎮静の兆しを見せてきたのが、前回までの投稿の経緯でした。

ということで前振りだけで、結構な量になっちゃったので、この話は次回に続きます。



2025年5月21日水曜日

日本語の先生を始めました

なんと、62歳のジィさんになって、先生の仕事を始めてしまいました。

実は以前、ボランティアで地元の大学生にちょっとだけ日本語を教えたり、隣街の大学で日本での就職について1時間だけ講義をしたり、という経験があるので、まったくの初めてではないものの、レギュラーで毎日は人生初。ただ、元々日本ではデザイナーをやってた関係上、プレゼンテーションは必須業務でした。人前で何かしらの説明をして、ご理解をいただくことに関しては、一応プロ。加えて関西生まれの「人を笑わしてナンボ」のサービス精神も旺盛なので、教師に不向きなわけでもありません。

さて、どうして日本の企業を早期退職して、10年以上も経ってから再就職に至ったのか? これは、昨年の11月にちょっと書いた(62歳の再就職)通り、日本に長く住み、日本人の旦那さんとの間に4人の子供もいる、10年来の友人ダイアナさんからのオファー。生まれがネグロス島のバコロドのダイアナ女史。日本での幅広い業務経歴を通じて、多くの会社経営者との人脈があり、昨今の日本の労働力不足から、フィリピン人就労の斡旋を依頼されたのが事の発端です。つまり、日本で働きたい人に、基礎の日本語を教えるのを手伝ってほしいという内容。

11月の投稿では、もう最初のクライアントさんが決まっていたはずが、その後、二転三転。何社さんかとは話がまとまったものの、すぐに人を集めて日本語クラス開始...とはならないのがフィリピンの難しさなんですよ。

フィリピンと多少でも縁のある方ならよくご存知の通り、フィリピン経済はOFW(Overseas Filipino Workers 海外フィリピン人労働者)に大きく依存じています。特に中近東へのOFWが多く、我が家のメイドさんも2代続けて元中近東OFW経験者。当然のようにトラブルもあって、賃金未払いや過重労働などが後を絶たない。ひどい場合には、OFWが虐待で殺されたり、性的暴行を受けたりの報道も、時々見聞きします。

さすがにこれはヤバいということで、最近はフィリピン政府の対応も厳格になりました。外国への就労斡旋には、非常に厳しい資格審査があり、許可が出るまで何ヶ月もかかる。当然、就労先の企業との契約内容もチェックされるので、雑なことやってると、普通にフィリピン国内の事務所が閉鎖されたり。つい最近もマニラやダバオで、日本への就職を前提とした日本人経営の語学学校が、この処分を喰らったところ。

なので、ダイアナの方針としては、フィリピン国内での応募者への日本語教育は基本的にタダ。費用は、私のような教師への報酬も含めて、全額クライアントの日本企業に請求するスタイルです。これなら安全な反面、許可が下りるまでずいぶん待たされるのが痛し痒し。昨年末にオファーがあって、授業開始まで半年近くかかったのは、こういう理由からです。

先週の金曜日(2025年5月13日)、ようやく始まったレッスンも、ダイアナがバコロド市内に建てた、生徒さんの宿泊施設まで兼ねた学校ではなく、まずはオンライン授業。しかも生徒さんはたった一人。というのはこの方、先行的に管理職に就こうという28歳の女性なんですが、マニラ在住でオフィス勤務中。寮に入って毎日、日本語一筋、とはいかない事情があります。なのでダイアナの配慮で、いきなり初対面の教師と1対1もやりにくかろうと、臨時でダイアナの妹と姪っ子が生徒として参加。二人ともいずれは日本で働きたいと思っているらしいので、一石二鳥の作戦です。

報酬は最初の提示の1/4で、毎晩7時頃から2時間半の週5日。週末だけ昼間に4時間というスケジュール。まぁ、ほぼ教師歴ゼロの私の実地研修で、最初はダイアナ先生のアシスタントみたいな感じ。土曜日の4時間をいきなり「私は東京出張なのでよろしく」と丸投げされた時は焦りましたが、やってみれば何とかなりました。まだまだ疲れますけど。

ということで、ついに始まってしまった私の再就職。一般的に初心者がN4(初級)レベルになるまで、300時間が必要とのことで、今のペースだと今年の10月まで、ざっと半年ぐらいはかかりそう。少なくともその間は、仕事にあぶれることはありません。とりあえずは、できる範囲で全力投球という感じです。



2025年5月19日月曜日

選挙が終わって1週間

 早いもので、三年毎に行われるフィリピンの総選挙が終わって1週間。実はその間、私は日本語教師の仕事が始まって、何かとバタバタしておりました。それ以外にも、いろんな出来事が重なって大忙し。そっちはそっちで傍目には面白いネタなので、次回・次々回に投稿するとして、今回は選挙結果のお話。

さて前回、殺人事件にまでなってしまった、ここネグロス島シライの市長選。地主階級の金持ちで前職のゴレツ氏と、貧困層に生まれ、砂糖工場の警備員から身を起こし、市会議員を経て当選した叩き上げの現職ガレゴ氏。この二人の一騎打ちとなりました。対立の構図が実に鮮明で、それぞれの支援者も行動が過激になった結果なんでしょうね。投票当日の朝、ゴレツ氏の選挙事務所前で、買票行為を監視していたガレゴ氏側のスタッフ数名が銃撃を受け、2名が死亡。犯人として逮捕されたのが、ゴレツ陣営に与していた、市内のバランガイ・キャプテン(町内会長)でした。

このような、一触即発の状況下での投票なので、下手に僅差だったりしたら、さらに流血の惨事が拡大しないかと、たいへん不安でした。私自身には投票権はなくても、家内と息子が、事件現場近くの投票所へ投票に行きますからね。小学校の先生で義妹のジーナも、とても怖かったとのこと。

ちなみに、シライ市の場合、投票所は市内各所の小学校が利用されます。投票所には、両陣営から、不正を監視するスタッフが配置され、我が家のメイドのグレイスおばさんと、私の家庭教師でグレイスの妹バンビが、ボランティアで参加。この二人名字がゴレツ。つまり候補者の親戚なんですよ。

当日は月曜ですが、ほとんどの会社やオフィスはお休み。早朝はシニア専用で、その後一般有権者を受付。昼食後に投票した家内によると、多くの人々が午前中に済ませてしまって、家内と息子が行った頃には、もうガラガラだったそうです。いずれにしても、混乱がなくて良かった。

投票用紙は、日本と違って候補者名を書くのではなく、印刷された候補者の横の丸印を塗りつぶすマークシート方式。間違いがないように、ちゃんと説明員も傍に待機。そして最近では、専用の読み取り機が各投票所に設置されているので、日本並みとまでいかなくても、ひと昔まえに比べれば、結果判明までの時間は画期的に早まってます。

ところで、数日前から投票所で準備していたバンビによると、この100万ペソもする読み取り機が、毎年新品になっていて「税金の無駄遣いだ」と憤慨してました。フィリピンのことなので、毎回多額の賄賂が、動いているんでしょうね。

ということで当日の深夜には、公式結果が発表されて、前評判通り、ガレゴ氏が大差で当選となりました。圧勝と言うほどではないですが、4万6千対3万だったので、さすがに負けたゴレツ陣営も、騒ぎ出すことはなかった模様。フィリピンでは大統領選と同じく、副市長への投票もありますが、こちらもガレゴ側の勝利。

こうして2連敗となったゴレツ氏。すっかり気落ちしたらしく、アメリカで看護師として働く奥さんを頼って、渡米するんだそうです。それにしても元市長でも、奥さんが出稼ぎするんですね。

一方、フィリピン全土の注目が集まる、ドゥテルテ一族。現大統領ボンボン・マルコスと深刻な対立中で、上院の過半数を抑えなければ、弾劾の憂き目を見る副大統領サラ・ドゥテルテ。投票結果はボンボンが優勢となりましたが、旗色を明確にしていないボンボン側の議員がいて、結局まだ、どうなるかは分からない。

それより驚いたのが、現在オランダ・ハーグの国際刑事裁判所に身柄を拘束されている、サラの父ドゥテルテ前大統領が、なんとダバオ市長に当選。有罪の確定前ならば立候補できるし、副市長に次男のセバスチャン・ドゥテルテが選ばれたので、市長不在でも代理として職務を行えるとのこと。こっちは、新たな争いの火種が撒かれたような状況になっています。

さて、めでたく二度目の当選が決まったシライ市のガレゴさん。副市長も市会議員も全部総取りになって嬉しくてしょうがない。毎晩花火は上がるは、大音量の音楽が響き渡るはの、祝勝会が続いてます。選挙運動は夜10時までの制限があったのに、祝勝会は無制限デスマッチ。うるさいこと、この上なし。おかげで、このところ寝不足なんですよね。



2025年5月12日月曜日

選挙で殺人

 長い長い選挙戦が一昨日で終わり、昨日の日曜日は、大音量の音楽を流す選挙カーから、ようやく解放されました。相変わらず、向かいの家が工事を継続中なので、まったく静かになってないんですけど、まぁ、多少はマシになったと言うことで。

その空白の24時間を経て、本日5月12日(2025年)は、3年に一度のフィリピン総選挙の投票日。今回は中間選挙なので大統領選はなく、中央や地方の各議会議員や首長の改選が行われます。

現在中央は、波乱の政局真っ最中。ボンボン・マルコス大統領と大喧嘩中の副大統領サラ・ドゥテルテ。その政治生命が、上院の議席をどっちの陣営が過半数取るかで左右される一大決戦。もしサラ側が負ければ、上院によって決定される弾劾によって、副大統領職を追われるだけでなく、3年後の大統領選にも立候補できなくなります。

サラの方が、金に清潔イメージがあって、犯罪や麻薬に対して毅然とした対応ができそうなので、一般のフィリピン国民の支持率が高い。やっぱり、フィリピの憲政史上最大と呼べる大改革を成し遂げた、父ロドリゴ・ドゥテルテの再来を待ち望む人が多いんでしょうね。(その副作用も甚大でしたが)

とは言うものの、ここフィリピンでは一介の居候外国人に過ぎない私。選挙権はないし、今後帰化しようとも思わないので、国全体の政治の行方には関心はあっても、それほど真剣に考えてるわけではありません。

ところが市政となると、地方在住者への影響が大きい。市長の個性で良くも悪くもいろいろ変わるんですよ。良い方向だと、近所の土剥き出しだった道路が舗装されたり、州都バコロドの学校へ通う、シライ市民向けの無料送迎バスのサービスが新設されたり。日本でも最近は、兵庫県明石市の泉房穂前市長や、福岡市の高島宗一郎市長のように、はっきり分かる改革をする人が出てきましたのは、良い兆し。ちなみ、例として上げた件は、現シライ市長のガレゴさんの功績。

そのガレゴ市長と、対立候補のゴレツ前市長の一騎打ちで迎えた市長選の朝、なんと選挙絡みの殺人事件が起こってしまいました。

このガレゴ市長、フィリピンでは非常に珍しい貧困層出身の政治家で、前回の選挙では、買票に頼らず僅差でゴレツ氏を破って初当選。当初は有力支持者(要するに地主などの富裕層)の顔色伺いの朝令暮改連発で、市政の行く末が案じられましたが、最近はかなり安定してきて、貧困層向けの政策が支持されているようです。

ところが、同じ西ネグロス州のバコロド市長やその他の有力市長が結託した「金持ち市長連合」みたいな連中とは、はっきりと距離を置いたため、銀行からの融資停止という、明らかな嫌がらせを受けて、新市庁舎建設工事がストップしたり。

さすがにシライの有権者も馬鹿じゃないらしく、どっちが市民の方を向いて政治してるかは、理解している。選挙活動も清潔路線のガレゴ市長が優勢に展開。焦ったゴレツ陣営か、あるいは背後にいると噂される影のキングメーカーからの指示なのか、まだ分かりませんが、投票日当日の今朝早く、ガレゴ市長のボランティア選挙運動員2名が射殺されました。

速報でフェイスブックに投稿された、地元マスコミの記事によると、買票阻止のために、ゴレツ氏の選挙事務所前で監視活動をしていた、ガレゴ側のスタッフ数人が、乗りつけたバンからの発砲で死傷。なんと、まだ救急車も来ていないタイミングで、大量に出血して路上に倒れている被害者を写した動画まで公開されてました。


警察によって封鎖された事件現場 出典:Bombo Radyo Bacolod

すでに明るくなってからで、目撃者も多かったらしく、数時間で犯人は逮捕。驚くべきことに、同じシライ市内のバランガイ・キャプテン(町内会長)の犯行だったそうです。

それにしても、仮にゴレツ側が仕掛けたとしても、なぜこんな、どう考えても得票を有利にできるとは思えないやり方をしたんでしょう。しかもすぐに足がついちゃう杜撰この上ない始末。すごく穿った見方をして、ガレゴ市長の自作自演と考えてみても、選挙戦で有利だったガレゴさんには、まったくメリットがありません。

ところで、私にとってこの事件が生々しいのが、現場の選挙事務所が、家内の実家のすぐ近く。私も何度も前を通ったことがある、よく知っている道路。何なら、自宅から歩いて行ける距離。さらに我が家のメイドさんや、その妹の私の家庭教師が、ゴレツ側の監視員として、投票所に詰めています。もちろん午後からは、家内と息子も投票へ行きました。

ということで、ドゥテルテ前大統領の治世では、マニラ首都圏を始め治安が良化したと言われるフィリピン。ところが現大統領になってからは、主に日本人を狙った悪質な拳銃強盗が多発したりしてるし、地方でも、今回の事件は、まるで1960〜70年代のマルコス時代に戻ったような犯罪。毎回、選挙翌日は、その結果をめぐって騒動になるのが常ですが、今回は、それを上回る大騒ぎが起こるかもしれません。


2025年4月30日水曜日

昭和は64年もあったんやで

 もう過ぎちゃいましたが、今年も日本はゴールデン・ウィークで、「昭和の日」を迎えました。昭和37年生まれの私には、やっぱり今でも「天皇誕生日」と言った方が、なんとなく馴染む感じがしますね。生まれてから30歳近くになるまで、ずっとその呼び名だったもので。1989年の昭和天皇崩御の後、一旦は「みどりの日」なる、意味不明な位置付けになって、その後2007年に今の名前に落ち着きました。つまり、21世紀生まれの若い人たちにすれば、昭和の日が刷り込まれているんでしょう。

その「昭和」なんですが、フィリピン在住の身の上なので、ネット上の話題を見てそう思うだけながら、最近やたら「昭和」って言葉を目にする気がします。特に今年は昭和100年。余計にそうなんでしょう。私がまだ保育園児だった1968年が明治100年で、記念切手が発行されたのを覚えています。明治帝の誕生日だった11月3日は、今でも「文化の日」として、国民の祝日の地位を保持。大正は短過ぎたのと、いろいろ事情があるらしく、明治や昭和のような記念碑的痕跡がありません。

それはともかく、昭和のお話。一番頻繁に引き合いに出されるのが、セクハラ・パワハラの犯罪報道や、犯罪まで行かなくても、嫌がる若手社員を無理やり飲み会や社員旅行に連れて行く慣習についての記事。つまり、これらすべてが昭和的な悪しき伝統、みたいに語られるわけです。ポジティブな方向の代表格が「バブル期」や「高度経済成長」のイメージ。今開催中の万博や数年前の東京オリンピックは、良くも悪くも昭和の成功体験の再現。

ただ、私と同世代か少し上の人たちが、同じような違和感を持つと思うのが、64年間もあった昭和を、あまりにステレオタイプに語り過ぎという点。

例えば戦前と一括りにしても、昭和元年(1925年)から10年辺りまでは、まだ日中戦争前で、大正時代の大恐慌からの回復期。電気が普及し始めたり、ラジオ放送が始まったりで、意外と明るい時期だったようです。そこからの変わり目が、二・二六事件。以降、軍部への傾斜が進み、昭和20年(1945年)の敗戦までが、映画やドラマでお馴染みの、軍人や憲兵が威張り倒した暗黒時代。それも極端になるのは、最後の数年だけかも知れません。ちなみに私の両親は、共に昭和11年(1936年)生まれです。

この時代を描いた映画として、私が出色の出来だと思ったのが、アニメ「この世界の片隅で」。太平洋戦争が激化した昭和18〜9年以降でも、庶民はしかめっ面して、四六時中、我慢してわけはなく、時には大笑いもし、痴話喧嘩もして、普通に生きていました。もちろん私が生まれる前の話なんですが、大阪の下町暮らしだった母や親戚が戦後語った当時の話が、まさに「この世界の片隅で」のイメージで、広島弁を大阪弁に置き換えれば、よく似た雰囲気。ただ小学生で食べ盛りだった母は、いつも空腹だったとこぼしてましたけど。

敗戦直後の10年間となると、食糧危機やインフレで生活は決して楽じゃなかったんでしょうけど、戦争からの解放感で、全体としては明るい時代だったようですね。6人兄弟姉妹だった母もご多分に漏れず貧乏でしたが、周囲がほとんど同じような貧乏人ばかりだし、日々の生活に一生懸命で、自分たちが不幸だとは思わなかったそうです。

その次の、昭和30〜40年代(1960年代)が、前述の高度経済成長時代。映画で言うと「三丁目の夕日」。この映画と原作のコミックが、昭和の「正のイメージ」を作っちゃったと思われます。まぁノスタルジックに描けば、昔は良かったってことになるし、物語としてはその方が面白い。でも実際に当時を生きた私にすれば、嫌なこともいっぱいありました。

特に私は、公害や交通戦争で有名な兵庫県尼崎市に育ったので、友達が交通事故にあったり、メダカ採りをしてた小川がドブになったり、夏場、光化学スモッグで外で遊べなかったり。もっと身近な話だと、便所が汲み取り式で、今思えば臭気がすごかった。

一番暗かったのが、1970年代のオイルショックの頃。私が小学生から高校生になるぐらいまで影響が続きました。その不況の真っ只中、建築業界で働いていた父は、国内の仕事に行き詰まりドバイへ海外出向。ドバイと言っても、今の未来的な街並みが出現する、はるか前で、その基礎を作りに行ったようなもの。現地でも苦労したそうですが、ドバイにいる間に日本の会社が倒産してしまい、残された家族は、社宅から追い出されそうになったりしました。この経験があるので、フィリピンで家族の残して中近東へ出稼ぎするOFW(海外フィリピン人労働者)の話には、つい過剰反応してしまいます。

私も子供ながら、この時期は毎日すごく不安で、世間で流行っているのはパニック映画や「ノストラダムスの大予言」に代表される、この世の終わりや人類滅亡の大合唱。私が初めて自分の小遣いで観た映画が「タワーリング・インフェルノ」ですからね。「宇宙戦艦ヤマト」の第一回が、小学生の私に衝撃的だったのは、ガミラスの遊星爆弾、つまり核攻撃で人類が滅亡の危機に瀕しているという描写が、当時の子供向けマンガ(アニメというジャンル名が定着したのは、ヤマト以降)にしては、あまりにリアルだったから。

こういう比較は、就職氷河期世代に配慮を欠きすぎるかも知れませんが、世の中の不況感、不安感、名状しがたい不穏な雰囲気は、失われた30年よりずっと深刻だった記憶があります。

そういう経緯なので、私が大学に進学する頃のバブルの浮かれ騒ぎは、リアルタイム的には自然な反作用でした。就職した頃なんて、週に2回ぐらい終業後にディスコやビリヤードに行ってたし、数年上の先輩は、車を毎年買い換えると豪語。1年落ちぐらいなら、そこそこの値段で売れるので、ちょっと上乗せするだけでグレードアップできると言うわけです。私だけでなく、父は黒のベンツSDLというバカデカい外車に乗り、母でさえ株に手を出してたほど。

まさに、あの時代の「イケイケドンドン」感覚を体現してたのが、今袋叩きに遭っているフジテレビというわけです。フジの企業体質はちょっと極端に過ぎますが、今ならセクハラで糾弾される行為も、表立って認められていないにせよ、ことさら珍しくもありませんでした。ただ、アルコールがダメな私は、飲み会や社員旅行の強制参加は本当に嫌でした。その分の手当が出るならまだしも、プライベートな時間を潰される上に費用が自腹って、どんな罰ゲームなんだ。

そんな一種の狂騒状態のピークで、昭和が終わりました。1989年の1月7日の天皇崩御の報を聞いたのは、当時付き合っていた彼女のアパートの部屋。土曜日の早朝で、前夜から泊まっていた私は、まだ彼女とベッドの中。我ながら、若気の至りでしたね。

ということで、いかに昭和が長く変化に富み、単一のイメージでは語り尽くせない時代かを書こうとして、結局、自分史になってしまいました。今回は、あんまりフィリピンは関係なくて申し訳ありません。


新幹線と侍とガンダム

 ここ最近、フィリピン・ネグロス島に住んでるのに、日本のアニメや映画を一生懸命観ております。というのは、日本や諸外国に比べて、ほとんど10年か、それ以上遅れて、ブロードバンド化を果たした西ネグロスの州都バコロドとその周辺。バコロドの隣街である、ここシライ市でも、やっと数年前に光ケーブルが敷設され、現在、我が家の通信速度は、200〜300Mbps程度。時々止まったり、停電もあるものの、やっと本来のパフォーマンスで、ネットフリックスやアマゾン・プライム、ユーチューブの高画質映像が楽しめるようになりました。

単に、絵と音がきれいになっただけでなく、2020年代に入った頃から、日本製コンテンツが俄然面白くなってきた印象。アニメに関しては、もっと以前から日本国外からの評価も高く、ここフィリピンでも「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」「進撃の巨人」に「薬屋のひとりごと」「SPY×FAMILY」「葬送のフリーレン」などなど、私が観てる番組だけでも枚挙に暇がないほど。ネトフリ経由でフィリピンでも視聴できるので、地元の友人や親戚とも、共通の話題で盛り上がることができます。

もう一作品、「宇宙戦艦ヤマト」と並んで日本アニメのバイブル的存在の「機動戦士ガンダム」。最新作の「ジークアクス」が、第1作の本歌取りのようなストーリーなので、今頃になって、比較的若い人たちが、テレビシリーズのファースト・ガンダムを観始めたらしい。私もそれにちゃっかり便乗して、ほぼ半世紀ぶりに再視聴。まぁ、技術的なこと言い出せばツッコミどころは満載ながら、今では伝説になってしまったセリフが多いぐらい、脚本が素晴らしい。

とまぁ、ガンダムを語り出すとキリがないので、今回は、実写の日本映画やドラマが面白くなってきたというお話。

言うまでもなく、この流れはネットフリックスの影響が大きいでしょう。まず予算とスケジュールの感覚が、昔ながらの日本の放送局とは桁が違うレベル。それにスポンサーの意向や芸能プロダクションの思惑に縛られないので、作り手が本当にやりたいテーマで、最適な俳優を選べるのもある。実際、実力はあっても、スキャンダルで干されていた人が、重要な役所で出演してますからね。

もちろん、このような条件が揃ったから、いきなり質の高い映画やドラマができたわけではなく、長年に渡って培われてきた、日本の映像作りの下地があったからこそ。今まで、せっかくの世界レベルだったポテンシャルが、抑圧されてたんだ思います。敢えて書くまでもなく、例えば黒澤明さんや伊丹十三さん、宮崎駿さんなど、どの国に持って行っても、絶賛されるクリエーターは存在してますから。

さて、そのネトフリでの日本作品ですが、ネットで見ている限り、大きな話題になり始めたのは、コロナ禍前の「全裸監督」、その後の「サンクチュアリ」辺りじゃないでしょうか? ネトフリ制作ではないですが、それと並行するように、庵野秀明監督の一連の「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」の「シン」シリーズ。そして一番最近で、私がドハマりしたのが「地面師たち」。

ただフィリピンでは、どれも日本国内ほどの話題にならなかったようです。と言うのは、とてもエロティックだったり暴力的だったり。あるいは、1950〜70年代の人気映画や番組のリメイクのため、オリジナルをまったく知らないフィリピンの若い世代には、とっかかりが無さ過ぎた。つまり分かりやすくて、家族で観られるというのが、とても大事な要素。

ところが、これを一気にひっくり返しそうなのが、つい先日、配信が始まった「新幹線大爆破」。内容的には「シン新幹線大爆破」(語呂は良くないけど)と呼びたいほど、旧作への敬意と愛に溢れつつ、新解釈と新表現で、フィリピンの観客にも十分アピールできる仕上がりになってます。

それだけでなく、外国から熱い視線集める、日本観光のシンボルともいうべき新幹線が主役だし、すっかり有名になった、日本的な時間厳守・高品質のサービスが、そこかしこに登場する。しかも旧作同様にJRの運転士や車掌が、英雄的に扱われてますからね。パニック映画でありながら、これほど日本や日本人をポジティブに描いた作品も珍しい。

これなら、JR東日本が全面協力したのも頷けます。CGやセットが上手く組み合わされてたそうですが、やっぱり本物の質感は素晴らしい。正直、旧作では、ストーリーがシリアスで緊迫感に溢れていただけに、ミニチュアだと気づいた瞬間に、ちょっと冷めてしまったものです。少なくとも新作では、どこまでが本物でどこからが作り物か、判別できませんでした。

案の定、ユーチューブに投稿された、英語字幕付き予告編を、私のイロンゴ語の家庭教師のバンビやエイプリルに見せたら、大喜びのテンション爆上がり。「絶対観ま〜す」だそうです。

他には、これまた日本ではたいへんな話題になった「侍タイムスリッパー」。ネトフリとは違い、予算の少なさをアイデアと情熱でカバーした佳作。ある意味、「ゴジラ-1.0」も、そういう側面があったそうなんですが、いずれにしても、フィリピンの人たちに自慢できるような日本の作品が続けてヒットする状況は、喜ばしい限り。

唯一残念なのは、VPNを使わずに、普通にフィリピンで鑑賞できるコンテンツの数が、まだまだ十分とは言えないこと。ネトフリでも、ファーストガンダムは地域限定だし、侍タイムスリッパーやシンゴジラは、今の所、アマプラなどでしか観られません。

ということで、いろいろ書きたい放題に書きましたが、フィリピン移住直後の12年前は、これほど夢のような環境が実現するとは、想像もできませんでした。本当に、良い時代になったものです。



フィリピンの大学受験

2013年4月に、家族でフィリピン・ネグロス島に移住した私たち。今月(2025年4月)でちょうど干支一回りの12年が経ちました。当時7歳だった息子も、もうすぐ二十歳。いよいよ高校を卒業して、大学入学という時期に差し掛かっています。

息子は、移住時に小学1年生だったので、そのままいけば、地元の小学校に2年生に編入のはず。家内が選んだのが、私立の英語で授業をする小中高一貫の学校。移住早々に編入試験を受けに行きました。

すでに英語は、家内の絵本読み聞かせなどのお陰で、そこそこ話せたし、他の教科も問題ないと思っていたら、フィリピノ語にまったく歯が立たない。日本では優等生だった負けず嫌いの息子は「難し過ぎる!」と途中で泣き出しちゃったらしい。まぁ、いくら小2レベルとは言え、よく考えたら、今までほとんど接点のない言語。日本でも友達や親戚が来たり、電話で家内が話すのは、ネグロス島の方言のイロンゴ語だったしなぁ。

そこで校長先生の提案は、フィリピノ語以外は大丈夫だから、1年遅らせて1年生からやり直しではどうですか?というもの。実はフィリピンでは、それぞれの子供の家庭の事情や、発育状況に合わせて、入学時期が1年ぐらい前後するのは、よくある話。日本でも最近は、早生まれは何かと不利で、その後の人生にも影響が出るなんて、脅しのような風説が流布されているので、こういう柔軟性は大いに結構。

さて、ここからは親馬鹿の自慢話になってしまうんですが、その後メキメキと頭角を現した息子。年に4回ある定期考査では、毎回、英語や科学(理科)、算数などの主要教科で、学年1位とか2位の賞状やメダルを貰ってくる。全教科の平均点が90点台を下回ったことがありません。唯一フィリピノ語だけは7〜80点台で、一度だけ追試があったものの、それもご愛嬌という感じ。

勉強ができるからか、あるいは、数少ない日系の子供で珍しいからか、小学低学年の頃は、やたら女の子にモテました。拙い手書きの、メモみたいなラブレターを貰ったりしたことも。その後も、州都バコロドで定期開催される、学校対抗のクイズ大会(一種の模擬試験みたいなもの)に何度も出場。そんな感じの12年間で、特に反抗期のようなものもなく、気がついたら、もう高校の卒業式も終わりました。

次が、大学受験となるわけですが、まず目指したのが、フィリピンの最高学府と言われる、国立のフィリピン大学(通称UP)。なぜかラテン語やモンゴル語、韓国語にロシア語などを、ユーチューブで「自習」するのが大好きで、フィリピン大学で言語学を勉強したいとのこと。以前に、セブに家族旅行した際に泊まった韓国系ホテルの館内で、ハングル表記をすらすら読んだのには驚きました。

UPの入試というのは、ちょっと変わっていて、10カ月も前の前年8月に、各地に設けられた特設会場で1日だけの試験があります。ちなみにUPのキャンパスは、マニラ首都圏、セブ、イロイロ、ダバオなど、各地に点在。家内は、マニラで4年学んだあと、イロイロに隣接するミアガオのキャンパスで、私と結婚するまで研究員として働いていた、UPの卒業生です。

さらに変わっているのが、UPの試験結果が判明するのは、半年以上も後の4月。競争率10倍の難関だったし、息子も「半分ぐらいしか分からんかった」。なので、年が明けてからは、地元の公立・私立合わせて3校を受験することになりました。

そのうち二つの国立のフィリピン工科大学と、州立のカルロス・ヒラド記念大学は、すでに合格が判明。四つ目の私立セント・ラサールは、2段階式で一次試験はオンラインで選抜。今、息子は一次を通過して、二次試験の開催を持っているところです。他にも別に、奨学金の試験もあったので、全部で6回のお受験。もうベテランの域ですね。

そして、まだ最後のラサールが終わっていない時点で、UP合格の嬉しい知らせが届きました。板書された合否発表を見に行ったり、郵送での通知ではなく、登録したアドレスにメールが来るんですね。最近は、日本でもそうなのか?

こうなると、当然UPに行くのかと思って、マニラでの一人暮らしをどうサポートしようかと思い悩んでいたら「ラサールに合格したら、そっちに入学したい」んだそうです。何でも、UPの言語・文化学部より、ラサールのコミュニケーション学部の方が、息子の学びたいことのイメージに合っているらしい。UPを蹴って地方の私立校を選ぶなんて、勿体無いなぁと思い、今流行りのAIさん(ツイッターのGrok)にお伺いを立てたら、UPが東大ならば、ラサールは早稲田・慶應に匹敵する名門私立校との回答。へぇ〜、それは知らんかった。


バコロド市内にあるセント・ラサール大学

ということで、次の注目は、ラサールの二次試験結果と奨学金が貰えるかどうか。フィリピンでは国公立なら基本、授業料はタダなんですが、私立だとお金がかかります。もちろん日本の私立大に比べれば大した金額ではないものの、そりゃ安いに越したことはありません。

現在フィリピンは2カ月間の夏休み中。6月にはすべての学校で新学期が始まりますから、それまでには、息子の進学先も確定する見込み。結果が分かり次第、このブログでも報告しますね。


2025年4月26日土曜日

バランガイ訴訟寸前、隣の騒音

 まだやってんのかいな?と言われそうですが、今年1月から始まった、向かいの家のリノベーション。そこから出る騒音で、延々と揉め続けております。

これは、お隣さんが土地と家を売り払って、その後の新しいオーナーが元凶。普通に工事の騒音だけなら(それでも相当うるさいですが)まだしも、作業用BGMとばかりに、大きなスピーカーで連日の大音量音楽を鳴り響かせる。折しも乾季真っ只中で、真夏のような暑さなのに、窓も開けられない。私が使っている書斎は、運悪く工事現場の真正面。昼間は締め切って、エアコン全開するしかありません。

以前も投稿したように、メイドさんや宅地の警備員にお願いして、何度も苦情を入れてもらいました。その都度、一旦(音楽だけは)静かになるものの、翌日には元の木阿弥で同じ事の繰り返し。さらに、庭の整備と周囲のフェンスだけで終わりかと思ってたら、なんと離れを新築し始めました。あと1〜2週間の我慢だと自分に言い聞かせてたのに、それから1カ月以上経っても、まだまだ終わりそうにないのが、現時点の4月末。とうとう工期が3カ月を超えてしまいました。

ところでこの話、一般的なフィリピンの住宅地ならば、音楽を鳴らして何が悪い?というフィリピン的常識が通用するんでしょうけど、ここは、1区画が数百万円もするお高〜いサブ・ディビジョン。フェンスで隔離され、十人以上の警備員が常駐し、住民は、決して安くはない管理費を支払っています。そしてサブ・ディビジョンのルールとして「大音量の音楽は禁止」が謳われている。実際、工事でもない限り、訪ねてきた友人や親戚が驚くほど、フィリピン離れした静けさ。私の購入動機の一つが、この静かな環境なんですよ。

こんなイタチごっこが続き、とうとうセント・フランシス・サブ・ディビジョンの管理事務所である、通称クラブハウスに直訴。幸いなことに、ここの責任者である40代ぐらいの女性マネージャーは、私の窮状を理解し、とても親身になって相談に乗ってくれました。

向かいのロットの新オーナーは、マニラ在住で休暇用の別荘代わりにここを買ったという大金持ち。マネージャー女史は、マニラまで何度も電話して私の代わりに苦情を入れたり、時には自ら現場に足を運んで大工と直接話してくれたり。そのオーナー自身がここに来た時には、私との直接の話し合いをアレンジしてくれました。

さて、その新しいお隣さんなんですが、おそらく私と、そう年も違わない初老の男性。これが実に嫌なオッさんで、フィリピンの金持ちによくいるような、尊大で冷笑的で、自分より裕福でないと値踏みした相手には、敬意のカケラも見せないという手合い。なまじっか頭が良くて、言葉使いは丁寧なだけに、余計ムカつきます。

最初は全然話が噛み合わなくて、自分の家で音楽を聴くのは私らの権利でしょ? 全然うるさいと思いませんけどね。もっと高い二重窓でも付けたら? そんなに静かなのが良いなら、墓場に住んだらどうですか? なんて具合。そもそも、私の方を見ない。同席したマネージャーの方だけを向いて喋ってる。こんなあからさまな侮辱は、さすがに初めてです。

ところが、どうやらサブ・ディビジョンのルールは知らなかったようで、クラブハウスの壁にデカデカと貼られている箇条書きを指差されて、しばらくバツの悪そうな顔。そこから態度が一転して、ちゃんとこっちを向いて「ごめんね、できるだけのことはするから。」となり、交渉は終わりました。

ちなみに私は、終始低姿勢。もう移住以来最大の忍耐力を行使。というのは、話がもつれた時は、ここからバランガイ(町内会)訴訟、場合によっては裁判所へ、なんて事になる可能性もあるので、少なくともクラブハウスのスタッフは、「被害者」であることを強調し、味方につけておくのが得策、という考えがありました。

それにしても、この気分の悪さは初めてじゃないなと思ったら、昔いた大企業の部課長で、これとよく似た奴が何人かいたんですよね。下手に金や権力を握ると、人間というのは、どこに住んでいても、同じようになってしまうらしい。

これが4月中旬の聖週間前。このまま終われば、めでたしめでたしだったのが、イースター明けで工事再開して、そこから数日したら、以前にも増して大音量BGMまで再開してしまいました。それに苦情を入れたら、今度はオーナーの息子が、何をトチ狂ったのか、爆音エレキギターでヘタクソなヘビメタっぽい演奏を始める始末。これは明らかに意趣返しですね。しかもかなり子供っぽい。

さっそくまたもやクラブハウスのお世話になって、マネージャーからマニラのオーナーに電話。現場には警備員が駆けつけて、地獄の演奏会はお開きとなりました。

その時のマネージャーさんからのアドバイスは、まず書面でもう一度苦情を入れて、それでもだめだったらバランガイ・オフィスに行くべきです、とのこと。今これを書いているのは土曜日の午前中で、音量はだいぶ控えめになったとはいえ、相変わらず音楽は流れてる。一応様子見の格好ですが、ひどくなるようなら、月曜日はバランガイ・キャプテンに相談になるかも知れません。あんまり気は進みませんけどね。


2025年4月24日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 美貌のシングルマザー

 約半年ぶりに、美女図鑑の新作です。

今回のモデルは、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の家庭教師、エイプリル嬢。名前の通り4月生まれの彼女の誕生日プレゼントで、似顔絵イラストを描いたわけです。ちなみに前作のモデル(やはり誕生日祝い)が、エイプリルの叔母で、同じく私の家庭教師バンビ。元々バンビは、フィリピン教育省・シライ事務所で働く家内の同僚で、現役の高校教師。勤務のない週末を利用して、週に2時間、私にイロンゴ語を教えに来てくれてます。

ただ、とても多忙なバンビ先生。時々時間外勤務もある上に、隣街タリサイ市にあるプロテスタント教会の熱心な信徒。ギターやピアノが弾けて、催事があるとスタッフとして招集されるので、頻繁に私の授業が飛びます。そのためのバックアップとして、エイプリルにお声がかかったという次第。

今年(2025年)に入ってからは、ただでさえ忙しいバンビは、教会の子どもたちにギターを教え始めたとのことで、週末が塞がってしまいました。なので私のイロンゴ語レッスンが、平日の業務終了後になり、授業のあとに私が作った晩ご飯を、家族と一緒に食べたりしてましたが、さすがに毎週これだと大変。結果的にここ1カ月ぐらいは、毎週エイプリル先生のお世話になってます。

さて、エイプリルは、今年の誕生日で29歳のシングルマザー。結婚して男の子一人を授かったものの、旦那さんのメンタル・ヘルスに問題が生じて、同居が難しくなり別居。フィリピンでは法的に離婚が認められていないので、別居(セパレート)と呼んでますが、これは事実上の離婚。その後、中近東に出稼ぎに行くというプランもありましたが、諸般の事情で断念。年齢のわりには、いろいろ苦労してるんですよね。

ここまでなら、フィリピーナあるあるなお話。ところがエイプリルの場合、フィリピンでは比較的めずらしい読書家のインテリ。私の授業でも、事前の入念な下調べを欠かしません。その上、毎日ランニングをして健康維持をする努力家で、さらになかなかの別嬪さん。父娘ほど歳の離れたオッさん生徒としては、なんとか幸せになってほしいと、祈らずにはいられません。

そして以前にも投稿しましたが、叔母のバンビは男運が悪くて、つい最近、二度目のパートナーとの生活が破綻。亡くなったお父さんの借金や、なぜかその前の彼氏のバイクのローンまで背負って、経済的もずいぶん苦しいようです。ついでに書くと、バンビの姉でエイプリルの母親であるグレイスは、我が家のメイドさん。グレイスも、早くに夫に先立たれ、海外出稼ぎでエイプリルを含む二人の子供を大学卒業まで育て上げた苦労人。

つまり、このゴレツ一家の3人の女性へ日頃の感謝の意味で、昨年10月のバンビの誕生日から、今回のエイプリル、次の予定がグレイスと、3連作の2作目というわけです。

イラスト似顔絵は、相変わらずの着物か浴衣を着てにっこりのパターン。これって、フィリピンでは、100%の確率でモデルさんが大喜びなんですよ。そもそもセルフィー大好きなフィリピン女性。さらにアニメの影響で、日本的なものには興味津々。まぁ一種のコスプレみたいな受け止めなのかも知れません。京都を訪れる外国人観光客に、着物や浴衣のレンタルサービスが大人気なのと同じ感覚なんでしょう。

ということで、たまたま誕生日前日に授業があったので、イラストをプリントアウトして額装したものを、エイプリルに手渡し。予想通りの大ウケでした。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2025年4月23日水曜日

炊飯器と発電機2台を買い替えた話

 先月(2025年3月)は、何かとモノがぶっ壊れた1カ月でした。数日前に投稿した自転車の買い替えもそうだし、その直後には、もっと生活に密着した製品が次々と不調。

まずは炊飯器。これは10年前に、家内が仕事で日本出張した際に、関西空港の免税店で買って来てもらった五合炊き。主に爆買い中国人を当てこんだと思われる、パナソニック・ブランドの「日本製」。当時は、ネグロスの家電量販で並んでる炊飯器って、どれも安物ばかり。それに比べればタイマー炊飯や、白米以外にお粥で玄米などの炊き分けもできるし、一番助かるのは早炊き機能。まぁ日本なら当たり前なんですけどね。

それから10年。さすがの日本製も内釜のコーティングが剥がれてきて、炊き上がったご飯の一部が固くバリバリに。炊飯の機能自体は問題ないだけに勿体無いけれど、相変わらずダメダメなフィリピンのアフターサービス。マニラとかセブならおそらくパナソニックのサービスセンターがあるんでしょうけど、僻地ネグロスでは、まず無理。調べてはみたものの、そもそも日本製なので、フィリピンでサービスパーツが入手できないようです。買えたとしても、内釜って結構高いんですよね。

まぁ10年も使ったし、本来の使命は果たしてくれたと割り切って、新しい炊飯器の購入となった次第。でもネグロスでマトモなのがあるか? 結果から言うと、州都バコロドの一番大きな量販店で、パナソニック・ブランドのものを見つけました。やっぱりフィリピン経済が好調で、コロナ禍からも完全復活した結果か、これ以外にも、それなりに高級・高機能な製品が並んでました。フィリップスの五合炊きなんてのもあって、ちょっと悩んだんですが、結局家内と相談の上、店頭では一番高価だった十合炊きに決定。ちょうど自転車と同じ10,000ペソ(約2万5千円)也。


早速買ったその日からフル稼働で、見るからにハイテクな外観は格好良いものの、操作が全部タッチパネルで文字表示も小さい。日本国内市場では「ユニバーサル・デザイン」を標榜していた会社のわりには、私のような老眼持ちに優しくないですね。ちなみにフィリピン移住前は、パナソニックでユーザーインターフェイスのデザイン担当だったので、ちょっとびっくり。案の定、メイドのグレイスおばさんに操作方法を教えるのも一苦労。

とは言え、ご飯の炊き上がり具合はまったく問題なく、さらに内釜のコーティングがずいぶん進化していて、ご飯のこびり付きがほとんどない。洗うのも楽だし。テレビや携帯では、中国/韓国メーカーの後塵を拝している日本ブランドですが、この手のハード・ウェアでは、まだまだ頑張ってますね。

それとほぼ時を同じくして、母屋と離れで2台使っている発電機が両方とも不調。まだ購入後6年ぐらいしか経ってないのに、電圧が不安定で炊飯器が使えないし、一旦エンジンを止めると、半日ぐらい間を置かないと再起動できない。ついに一台がガソリン満タンなのに、停電の真っ最中に動かなくなりました。実はこれまでも、ガソリン漏れやら何やらで、何度も修理してたんですよ。ちょうど真夏に差し掛かり、日本から高齢両親を受け入れようという時期だったので、2台とも思い切って新しいのを買う事しました。

ちなみに、ネグロスでの電力事情は、これほど経済事情が好転しても、私が初めてこの島に来た四半世紀前とほぼ同じ。30分から数時間の停電は頻繁にあるし、一月に一度ぐらいは、メンテナンスと称した12時間もの計画停電。発電機がないと、相当不便なことになってしまいます。

ということで、こちらは昔から充実した品揃えの、前回購入したのと同じ店で、同じメーカーのものを選びました。ただ、それなりの技術革新があったようで、発電量はちょっと大きめでエンジン音は小さめ。ついでに値段も上がっていて、2台で10万円近い出費になりました。痛たた...。


そしてお約束のように、新しい発電機を設置してから1カ月も経つのに、これを使うような停電は、まだ発生していません。



2025年4月22日火曜日

教皇フランシスコ死去


出典:PGurus

 何度もこのブログに書いて、一部の読者の方には鬱陶しがられるぐらいですが、私はカトリック信徒でございます。それも30歳をいくつか過ぎてフィリピンと縁ができてから、今私が住むネグロスの教会で洗礼を受けたという変わり種。そんな俄か信徒のせいか、カトリックの総本山であるバチカンの体制や、日本の高齢化が著しい教団に対しては、少々斜に構えて見る癖が抜けない。そんな私でも、全世界のカトリック14億6千万人のリーダーたる、教皇死去のニュースには、粛然とせざるを得ません。

もうご高齢だし、何度も入退院を繰り返しておられたのも周知の事実なので、正直なところ「来るべき時が来てしまった」感はあります。しかし教皇フランシスコは、清貧を貫いたアッシジの聖フランシスコの名を継いだ方であるだけに、私のような末端の不良信徒ですら親しみを覚えるほど。まさに信徒うちでの愛称である「パパさま」に相応しい、飾らないお人柄でした。私だけでなく、おそらく世界中の信徒から愛惜の念が寄せられていることでしょう。

当然、人口の八割がカトリックのフィリピンでは、死去の知らせと同時に、各種の報道だけでなく、フェイスブックでも個人からの哀悼の投稿が溢れました。

ところで、キリスト教にあまり馴染みのない方には、意外に思われるかも知れませんが、少なくとも私の知る限り現代のバチカンは、過去を反省し自己変革をしようとする姿勢があります。その動きは決してスピーディとは言えないし、顕著になったのは1960年代前半の第2バチカン公会議や、1978年即位のヨハネ・パウロ2世以降ですが、亡くなったフランシスコ教皇は、その流れを汲む方だったと思います。

古くは地動説を唱えたガリレオへの迫害について、あるいは第二次大戦中、ナチスの残虐行為の黙認などには、公式に過ちを認めて謝罪しています。まぁ何十年、何百年も経ってからの謝罪に意味があるのか、という批判はもちろんありますけど。

最近の事例で言うと、世界各地で発覚したカトリック聖職者による信徒(特に未成年者)への性的虐待や、同性カップルへの対応などが、ずいぶんと物議を醸しました。残念ながら、こうした問題は解決には程遠い時点で、教皇は天に召されてしまいました。おそらくパパさまは、苦悩されたんじゃないでしょうか。公式のご発言内容が揺れ動いたのは、その裏返しなのかも知れません。

対照的にカトリックに比べて、日本では明るくて開明的なイメージのあるプロテスタント。フィリピンではマイノリティながら、確固たる地位を占め教会の数も多い。私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の歴代6人の家庭教師のうち、今お世話になっている2人を含め、なんと4人がプロテスタント。どの人も決して石頭ではないんですが、こと性的少数者や進化論、ビッグバンのような宇宙論になると、途端に話が噛み合わなくなります。

つまりカトリックが、このようなイシューに柔軟な姿勢を取っているのに対し、聖書の記述を文字通りに信じる、いわゆるファンダメンタリストの立場。もちろん一口にプロテスタントと言っても、宗派・会派によってすごく幅があるので、たまたま私が知り合った人たちがそうだったんでしょうけど。おそらくフィリピンのプロテスタント信者の方々は、カトリックに失望して改宗、というケースが多いので、教義や信仰がより先鋭化する傾向があると思います。

ちなみにフランシスコ教皇が、先代のベネディクト16世の生前退位を受けて即位されたのが、2013年の3月。私たちがフィリピンに移住したは、その数週間後の4月初旬だったので、偶然ながら、私たちのフィリピン暮らしは、パパさまと共にあったことになります。つまりちょうど12年の在位期間。即位当時、すでに76歳になっておられました。さらにただの偶然ながら、今ネグロスの自宅で同居中の、私の両親と同い年なんですよね。あの年齢で死の間際まで、現代のローマ教皇という激務にあったというのは、ものすごい精神力と言う他はありません。

ということで俗世の関心事は、次の教皇はどなたに?となってしまうんですが、有力候補と目される4人の中に、ルイス・アントニオ・タグレというフィリピン出身の枢機卿がいます。年齢は、私より5歳上の67歳。実は、前回のコンクラーヴェ(教皇選挙)でも有力視されていたとのこと。私個人の希望としては、ぜひアジア出身者初の教皇になっていただきたいと思っています。