2018年2月12日月曜日

キリノ大統領の決断 日本・フィリピン交流史6

前回の、戦時下の日本人移民についての投稿に続き、今日は、戦後、拘留されていた日本兵への恩赦で有名な、キリノ大統領のお話。実はこのエピソード、半年ほど前に別の主題で、すでにこのブログで取り上げております。しかし、日比交流を語る上では、どうしても省略することができないと思い、若干構成を変えて、再投稿することにしました。


日本にもフィリピンにも、戦争の傷跡がまだ生々しく残る、1948年(昭和23年)。エルピディオ・キリノ氏が、第6代フィリピン大統領に就任。1945年のマニラ市街戦で、彼は妻アリシアと子供たちを失いました。日本兵に殺害されたとも、米軍の爆撃の巻き添えになったとも言われています。いずれにしても、日本軍のフィリピン侵攻がなければ、起こらなかった悲劇。



第6代フィリピン共和国大統領
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino
出典:Lahing Pinoy

1953年(昭和28年)キリノ大統領は、日本からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。国全体が反日感情に煮えたぎっているような時期、これは驚くべきことだったと思います。

その背景には、朝鮮戦争で日本の協力を得るため、アメリカからの政治的な圧力もあったかも知れない。しかし私は、聖書にある「主の祈り」の一節「我らが人を許す如く、我らの罪をも許し給え」こそ、キリノ大統領の決断に最も大きな影響を及ぼしたと信じます。

それにしても、これは苦渋の選択だったでしょう。生半可なカトリック信徒である私には、とても真似ができません。この恩赦と同時に、キリノ大統領からフィリピン国民に、次のようなメッセージが発せられました。

自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末長く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。


戦勝国が敗戦国のリーダーや兵士たちの罪状を、「人道に対する罪」として裁いたことは、茶番に過ぎないし、非戦闘員である女性や子供まで焼き殺した、アメリカを含む連合国側に裁く資格があったとは到底思えません。とは言え、何の非もない肉親や友人を殺されたフィリピン国民には、日本人の存在自体が憎しみの対象だったことでしょう。それを考えるとキリノ大統領の行為は、もう神の領域。

キリノ大統領については、これだけネットに情報が溢れているのに、現在日本での知名度は高いとは言えません。そして日本国内で顕彰の碑が建立されたのが、なんと一昨年(2016年)6月。恩赦から60年以上も経過しています。

幸いなことに、現在フィリピンでの対日感情は、すこぶる良好。こうした状況の源流を作ったのがキリノ大統領。彼が、後世での栄誉を期待したはずはないと分かっていても、この忘却ぶりは、日本人としては寂しい限り。カトリックの教えに基づく、フィリピン人の許しの精神は、私のようなフィリピン在留邦人も、その恩恵に浴しているのです。


主の祈り 全文

天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国が来ますように
御心が天に行われるとおり
地にも行われますように
私たちの日毎の糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に落ち入らせず
悪からお救いください

国と力と栄えとは、永遠にあなたのもの

アーメン


次回はさらに時代を下って、1980年代。日本の社会問題にまでなった、フィリピンからの出稼ぎ女性労働者「ジャパゆき」について投稿します。

参考文献
ウィッキペディア「エルピディオ・キリノ
まにら新聞「日本人戦犯帰国60周年


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