2018年2月9日金曜日

戦火に引き裂かれた絆 日本・フィリピン交流史5


今日は、前回のダバオでの日系移民についての投稿に続き、日本・フィリピン交流史の5回目です。


あの戦争が終わって、すでに今年(2018年)で73年。当時小学生だった、私の親の世代も80代。マニラ市街戦レイテ沖海戦に次ぐ、太平洋戦争でのフィリピン第三の激戦地と言われたネグロス島も、そんなことがあったとは思えないほど平和。

息子が通う現地の小学校には、日系、アメリカ系、中国系...。さまざまな国籍の親を持つ子供たちが、何のわだかまりもなく、毎日の勉強やクラブ活動に勤しんでいます。私の祖父母が若かった頃、双方の国が敵味方に分かれて殺し合っていたとは、とても信じられません。

戦争当事国ではなかったフィリピン。まだ独立も果たせず、アメリカの統治下で、日本に対しては何の恨みもなかったでしょう。国内には、ダバオやマニラなどに、3万人近い日本人移住者も暮らしていました。

日本軍の奇襲による最初の標的は、ハワイのオアフ島・真珠湾に停泊中だったアメリカ海軍の太平洋艦隊でしたが、これは完全に意表をついた作戦。日本が仕掛けるなら、最初はフィリピンだというのが、開戦前の大方の予想。この攻撃の第一報がワシントンに届いた時、真珠湾ではなくフィリピンの間違いだろう、と疑いの声が上がったほど。

そして日本軍は、宣戦布告の約2週間後の1941年(昭和16年)12月22日、ルソン島上陸。さらに10日後の1942年1月2日に、首都マニラを占領しました。その後、バターン半島、コレヒドール島、ミンダナオ島での激戦を経て、当初見込みの3倍以上の150日もの時間を費やして、同年6月フィリピン全土を制圧。

マニラ陥落時の日本の第14軍司令官の本間雅晴中将(戦後「バターン死の行進」の責任を問われ、戦犯として銃殺)は、「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し、違反者は厳罰に処すとの訓示を行ったにもかかわらず、その直後に、占領下のマニラ大学で女子学生たちが、日本人将校によって強姦されたとの日本側の証言が残っています。

1945年(昭和20年)の日本の無条件降伏までの3年余り。ゲリラ討伐に名を借りた、日本の兵士による組織的な虐殺や、暴行・略奪が相次ぎます。ネグロス島でも、80歳以上の人々の中には、家族や親戚、友人を日本人に殺害された、忌まわしい記憶と共に生きる人も。太平洋戦争中、100万とも110万とも言われるフィリピン人が命を落としました。

家内の叔母と結婚し、私と家内の橋渡し役をしてくれたMさん。Mさんはネグロス生まれの日比ハーフ。戦前に出稼ぎで日本からネグロスに渡ったお父さんと、フィリピン人のお母さんの間に生まれました。

フィリピンでの戦争は、Mさんの運命を大きく狂わせることに。愛する妻も、営々と築き上げた財産もすべて捨て、Mさんのお父さんは、小学生だったMさんを連れて敗戦国日本へ引き揚げ。これが夫婦の今生の別れとなりました。帰国した時には日本語が話せなかったMさん。当時の話をすると、今でも目に涙を浮かべます。

一方、フィリピンに留まった日本人は、ジャングルや山中など、人目につかない場所での生活を余儀なくされました。その子供たちは、日本人を父に持つことを隠すため、両親の婚姻証明や出生証明を焼き捨て、母方の姓を名乗り、国籍も取得できない状態になった人も多く、その数、現在生存している人だけでも1,200名を数えます。

中には、自分が生きていたら家族の迷惑になると、手榴弾で自爆した日本人もいました。家族は墓を建てることすらできず、バラバラになった遺骸を自宅の床下に埋めたと言います。


一昨年(2016年)1月。今上天皇がフィリピンをご訪問された際、約90名のフィリピン残留日本人の方々を接見されました。そこには、今なお無戸籍のまま放置された方もおられ、陛下が一人づつ手を握られて、「大変でしたね」とのお言葉に号泣する人も。先の大戦は、日本とフィリピンの国同士の絆だけでなく、両国にまたがる家族の絆も容赦なく引き裂きました。現在に至るまで、癒えることのない傷を残したまま。


次回は、戦後間もない頃、歴史的な決断を下したことで有名な、キリノ大統領について投稿します。


参考文献:
ウィッキペディア
 フィリピンの戦い(1941-1942年)
 フィリピンの戦い(1944-1945年)
まにら新聞「自爆で家族を死守した父」
現代ビジネス「陛下の前で涙を流した彼らは何者か」


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