2023年4月30日日曜日

完全復活・観光地セブ

さて前回からまた一週間以上もブランクが空いてしまいましたが、引き続き4月中旬のセブ旅行について。

昨年はコロナ禍の影響で、バコロド〜セブのフライトは一日一往復のお昼のみで、通常の倍近い値段。それが今回はようやく以前と同等の頻度と価格に戻ってました。つまり早朝、お昼、夕方の三回に増便となり、価格も一人約1万円程度。しかも以前にドタキャンの仕打ちに遭ったセブパシフィックだけでなく、フィリピン航空(PAL)も復帰。

サービス面では、どっちもどっちながら、さすがに直近で痛い目を見たセブパシは敬遠して、超久しぶりのPALに乗りました。昨年の日本一時帰国では、格安のキャセイパシフィックの香港経由を使ったので、結果的にPALは、コロナ禍以降初めてとなります。

早朝のセブ行きは、朝6時バコロド発。まだ暗い4時半に起きて、車で15分の空港へ。実はバコロド空港の名前は付いているものの、場所は私の住むシライ市内で、しかも一本道の渋滞知らずの超至便な立地。2泊だけなので、駐車場に車を預けても1,000円ちょっと。

お陰さまで、まずまずの天候にも恵まれて、定刻通りに7時にはセブ・マクタン空港に到着。せっかくなので、空港の国内線ゲートから徒歩5分にある高級リゾートホテルのウォーターフロントで、朝食を頂くことにしたのは、以前にも投稿した通り。

 お腹いっぱいになった後は、今夜宿泊予定のホテルへ。まだ午前中なのでチェックインはできませんが、取り敢えず荷物を預かってもらうことに。空港と同じマクタン島内にあるホテルは、コロナ禍以降にオープンの真新しさ。ウォーターフロントとは格が違うものの、こちらも値段の割には決して悪くはありません。

それにしても、韓国人観光客が増えましたね。去年はまだ渡航規制があって、空港内の免税店も歯抜け状態。大型ショッピングモールも閑散...とまでは行かなくても、シーズンを考えると静かなものでした。

さらに、どうもこのホテル、オーナーが韓国人らしい。建物内の標識や注意書きが全部ハングルだし、レストランのビュッフェには当たり前のように、キムチと金属製の箸が置いてある。だからダメだと言いたいのではなく、同価格帯の100%ローカルに比べると、サービスの質が良いということです。

10年ほど前は、地元のフィリピン人からも「コリアン・インベーション」(韓国の侵略)と揶揄されてたのが嘘のように、若い人やカップル家族連れが増えて、ずいぶんとマナーもよくなりました。と言うのは、1980〜90年代の日本人同様、以前はあからさまな買春目的のオっさんの団体が多かったんですよ。

これは国籍関係なく言えるんですが、この手の観光客は、声も態度もデカいのが常。運悪くレストランや空港の待合いで遭遇しちゃったらもう災難。特に日本人の場合、真昼間の公共の場で、前夜の「武勇譚」を恥知らずに語りあったりされると、聞きたくないのに意味が分かってしまう。子供を連れてたりすると、その場を立ち去るしかありませんでした。


昨年(2022年)オープンのランダース・セブ

それはさて置き、初日は家内のたっての希望でランダースへ。ランダース(Landers)とは、S&Rと並ぶ、フィリピン最大手の会員制スーパーマーケット。要するに日本のコストコで、今や経済成長著しいフィリピンでは、各地で新規オープンラッシュ。

数ヶ月もすると、バコロドにもできる予定のランダース。早々と会員になった家内は、予行演習とばかりにセブのランダースに突撃となった次第。ここで買ったバーモントカレーで、翌日カオハガン島でカレーを作った話は、すでに投稿しましたね。

カオハガン訪問を挟んだ最終日は、地元の友人夫妻の案内で、最近できたSMシーサイドへ。国内最大規模を誇るだけあって、ほんの数時間歩き回っただけでへとへと。単に広いだけでなく、前述の韓国人観光客だけでなく、ローカルのお客さんで大賑わい。コロナ禍からの完全復活どころか、もうそれ以上の景気の良さ。移動も渋滞が多くて、夕刻、空港に戻ったころには、疲れてきっておりました。



2023年4月28日金曜日

フィリピンで思う成功者の定義


 私がツイッターでフォローしている有名な日本人というと、ホリエモン、泉 房穂・元明石市長、河野太郎デジタル相、鴻上尚史さん、病理医ヤンデルこと市原 真さん...多士済々に渡るのですが、今日は「ひろゆき」で知られら西村博之さんのツイートについて。

わざわざ人の神経を逆撫でしたり、炎上させてその火に油を注ぐなど、何かと話題になる人ながら、発言そのものは結構マトモなことが多い。先日も「なるほど」と思わせるような呟きがありました。それが、ひろゆき流の成功者の条件、のような箇条書き。

①働く必要がなくなった
②やりたいことをやるだけで暮らせている
③イヤイヤ満員電車に乗って通勤する必要がない 
④“人生超楽しい!”って思い続けている
⑤誰かをうらやましいと思わない

驚いたことに、この成功者の条件って、今の私にほぼ当てはまってるんですよ。③だけが変に具体的なのは、おそらくよっぽど嫌だったんでしょうね。私も30年近くこれをやりましたが、あれは本当に嫌でした。気持ちはよく分かります。

まず、50歳で早期退職して早や十年。やりたくない事ってまったくしてませんねぇ。もちろん満員電車にも乗らない、っちゅうかネグロスには電車がない。いつも「超」までは行かなくても、基本、毎日楽しいことが多いし、他人を羨むことってほぼない。そもそも、そういう思考にならない。

こう書くと、今現在の日本で、したくもない仕事をしに毎日満員電車に揺られ、楽しいことは少なく、周囲を羨んで生きている人にとっては、さぞや腹立たしいことでしょう。

結局のところ、満足できる生活を送るために必要な最小限のお金があって、そこそこ健康で、何より自分で選んだ生き方をしてるってことでしょう。大金持ちであることが条件ではないし、最近は若い時ほどの食事の量も不要。酒もタバコもやらず、性欲も普通に満たされております。

そして一番大事だと思うのは、自分で自分の機嫌を取る技術。人によっては、働く必要がなくても仕事っていうケースもあるかも知れないし、趣味が生き甲斐の人は多いと思います。趣味で自分の機嫌を取るのも、ある程度の知識や経験が不可欠。突然、絵を描くとかスポーツを始めても、楽しめるまではそれなりの練習が要りますからねぇ。

と、ここまで考えてハタと膝を打ったのは、自分の意思で日本を離れてフィリピンに住んでる人達って、②から⑤ぐらいまで、結構この条件を満たしているんじゃないかということ。例えば、前回前々回と投稿したカオハガン島のヨシエさん。

側から見れば、ずいぶんと不便な生活に見えるだろうし、誰にでも勧められる生き方ではありません。しかし、実際にお会いしてお話を伺った限りにおいて、笑顔がまぶしいほど幸せそう。私同様に、日本で暮らしてた頃にはなかった、生きている実感みたいなものがあるんだろうと思います。少なくとも「やらされてる感」は皆無。

まぁ①の「働く必要がなくなった」が大きくて、これさえあれば人間関係に悩むこともない。でもフィリピンで働いている日本人って「これがやりたいからフィリピンまで来た」という人が多い気がします。つまり働くことが、それほど苦じゃない。今から日本で働きたいですか?って訊いたら、ほとんどの人が「フィリピンの方が良い」と即答しそう。

ということで、このひろゆき流の成功者の条件。勝ち組・負け組みたいな言い方より、人それぞれの価値で決められる分、私はとても気に入ってます。自己満足と言われようが、自分が幸せなら成功してるんですよ。



2023年4月26日水曜日

カオハガン島で作るバーモントカレー

 別にリゾートに行ってまで自炊することもないんですが、今回のカオハガン島訪問は、私にすれば観光というより、ツイッターで知り合った友人宅にお邪魔するっていう感じだったもので、つい、お昼はカレー作りますねって連絡しちゃいました。

日本からのボランティアで、地元の人たちにカレーやたこ焼きなど、日本的な料理を振る舞う話は、時々耳目に触れることがあって、実は私も10年近く前、セブ市の隣街タリサイの某スラムに滞在した時、最後にカレーを作ったことがあります。

カレーを選ぶのは、特に日本で人気のメニューというだけでなく、ルーさえ調達できれば、大抵はローカルマーケットで手に入る材料で作れるから。玉ねぎ、ニンジン、じゃがいも、豚肉等々。ただ私の場合、すり潰したニンジンを入れるので、卸金だけは持参。それも飛行機の手荷物で引っかからないよう、百均でプラスティック製のを買いました。

肝心のルーは、いつも使っているゴールデンカレー辛口。ちなみにネグロス島では、ほぼ欠品なしにいつでも売ってるゴールデンカレー甘・中辛・辛口に加えて、時々入荷するのが、ジャワカレー、こくまろ、バーモントカレーなど。以前には日本語表記そのままのパッケージに、英語で説明書きされたシールを貼り付けてるだけだったのが、最近は各社とも、ちゃんと多言語表記版。やっぱり日式カレーの人気は、フィリピンでも広まってるんですね。

ただ、気になってたのは、辛すぎるとヨシエさん以外の人たちの口に合わないかもということ。韓国製の辛ラーメンが普通に売ってるので、辛さに対する耐性が全然ない人ばかりでもないんでしょうけど、まだまだ一部の人たちの嗜好品。バーモントの甘口を買うのを忘れてたんですよ。

ところがフィリピン第二の大都会セブは侮りがたし。たまたま前日に行ったランダース(フィリピン版のコストコみたいな会員制の大型スーパー)で、売ってましたよバーモント。ということで当日の朝、近くの市場に行って必要な野菜と豚肉を買い込んで、勇んでカオハガン上陸となった次第。

一体どんな場所で調理することになるのか、ずっと気にはなってたんですが、これがまったくの杞憂。20畳はあろうかという業務用の堂々たるキッチンがあって、調理道具完備。さらに賄いのおばさん一人と、ヨシエさん自らが手伝ってくれて、自宅で調理するよりずっと楽ちん。棚を見るとジューサーやコーヒーメーカーまである。ただし使える電力が限られていて、卸金はしっかり活用しました。

家内と息子がシュノーケリングに行ってる間に、食事の準備は完了。もちろんカレーだけではなく、賄いさんが用意してくれた地元料理も食卓を飾ります。気になるカレーの出来栄えは、初めてのキッチンで作ったわりには上々の仕上がり。ヨシエさんだけなく、後で島民の方々も喜んで食べていただいたそうです。



午後からは私的にはメインイベントのミニ・コンサート。要するに一人カラオケをみんなに聴かせようってことなんですが、マイクは使わない地声だけ。2〜3曲も歌って、ウケなければ早々に退散の予定が、予想以上にお客さんが集まってくれました。しかもビートルズの楽曲が大好きなんですねぇ。


特設ステージと化したビーチのカフェ

見たところ半分は子供でそれ以外はせいぜい30代まで。なんで半世紀も前の「抱きしめたい」とか「ツイスト&シャウト」を知ってるんでしょう?やっぱりラジオなのかなぁ。

自分で歌い倒しておいて言うのも何ですが、意外にもカラオケに毒されているカオハガン。いや、島民の方々ではなく、アイランドホッピングでやって来る観光客がすごいんですよ。土曜日だったこともあり、それを目当てにビーチで鮮魚や海産物を売っているいるので、島の経済は潤うものの、厄介なのは上陸せずに船上からカラオケの騒音だけを残していく連中。



上陸料金が発生するのを嫌い、目の前に停泊させて大音量のカラオケ。これが例によって、聴くに耐えない歌唱レベルばかり。まぁだいたい酔っ払いの歌なんて、日本でもそんなものとはいえ、歌うんなら傍迷惑にならないボックスにでも行ってくれ。

これはカオハガンに限らず、フィリピンで人の集まる観光地ではどこでもそう。「これがフィリピンの文化」だと、ドヤ顔で語るオっさんもいますが、もしそうなら、何て薄っぺらで恥ずかしい文化なんだろう。住まわせてもらっている外国人としては、最大限フィリピンの習慣には敬意を払うものの、こればかりは受け入れが難しい。

ということで、もしこれからカオハガンへとお考えのみなさま。スケジュールが許すなら、土日は避けた方がいいですよ。それ以外は、ほんとにいい所ですから。



2023年4月25日火曜日

やっと会えたよカオハガン島のヨシエさん

 今回の二泊三日のセブ旅行。銀婚式祝いと並んで主目的のひとつが、カオハガン島に住む日本人、ヨシエさんにお会いすることでした。

島のオーナーが日本人ということで、フィリピン・セブの邦人界隈では有名なカオハガン島。正確には、外国人の土地所有が禁じられているフィリピンなので、地元のビジネスパートナーか法人名義での購入なんだと思いますが、実際に出資したのが崎山克彦さん。私の父より一つ年上の方です。

そのカオハガン島には、現在日本人が二人定住されていて、そのうちの一人がヨシエさん。現地で知り合ったご主人と共に、一男二女の子育て真っ最中のお母さんにして、ユーチューバー。そんな在比邦人の名士である彼女とは、ツイッターで知り合いました。

実は、このカオハガン訪問。昨年の同じ時期に計画していたはずが、乗る予定だったバコロド〜マクタンのフライトが、何と当日早朝に欠航。セブパシフィックが提案した代替便は、マニラ経由しかなく、到着が夜になってしまう。これではドタキャンするしかなかった。

本来なら全額支払いのはずが、事情を勘案して無料取り消しに応じてくれたヨシエさんの優しさには、感謝しかありません。

そんなわけで、満を持しての1年越しの再トライ。お陰さまで朝6時発、7時着のフィリピン航空は定刻通りで、待ち合わせの9時までの時間を埋めるために、空港近くのウォーターフロント・ホテルで、ちょっと贅沢な朝食を摂ったのは、前回投稿した通り。

天候にも恵まれて...っちゅうか、真夏の日差しが照りつけるマクタン島・マリゴンドンの小さな船着場は、人でいっぱい。ここからアイランド・ホッピング(島巡り)の船が、たくさん出てるんですね。そして観光客だけでなく、飲料水や食料を積んだトライシクルが続々と到着。

ちょっと時間より早く着いたものの、日本人は私たちだけだったからか、日本語で書かれた「〇〇様」の紙を持った出迎えの人とはすぐ会えて、まったくのノートラブルでカオハガン島へ。乗っけてもらった船は、例によって漁船みたいな小さなボートで、島民と思しき高校生5〜6人が便乗してました。

ここからが意外に遠いカオハガン。陸路だったら車で10分もかからない距離なんでしょうけど、乗客だけでなく水タンクも満載。前方に見えてる島影がなかなか近づいてこないもどかしさ。時折、底が見えるほどの浅瀬を行く時は、座礁しないよう速度を落とし、船頭さんが穂先に立ってバランス取ったり。約30分ぐらいの船旅でした。


こっちから見えてるってことは、当然島からも船は見えてるわけで、到着のかなり前から、浜辺ではヨシエさんが手を振ってお出迎え。いや〜ユーチューブで拝見した通りの背景とチャーミングなお姿、そして声。(当たり前か)

ミクシィの頃からオフ会の常として、生まれて初めて会ったのに、全然初対面とは思えない。なんなら昨日何食べたかも知ってるし。

さて、島の佇まいはと言いますと、それこそホームページやユーチューブで紹介された通り。私も、フィリピンとの付き合いはもう30年近くになるし、都会も田舎も、金持ちも貧乏人の暮らしもだいたいは見たことがあるので、こちらも予想通り、というか懐かしい感じすら覚えたぐらい。

ちょっとだけ違うかなと思ったのは、カオハガンのキャチフレーズ「何もなくて豊かな島」。何もないどころか、溢れるほどに人がいっぱいいるじゃないですか。歩いて回っても15分くらいの土地に、700名もの島民がいるそうで、人口密度だけ比べれば、私の住むシライ市の建て込んだ住宅地と変わりません。 

それでも、足元が砂で乾いているので、よくありがちな悪臭や不潔さが皆無なのが、さすがトロピカル・アイランド。それに来客用の建物に限れば、きれいな水洗トイレはあるし、たくさんの調理道具のある広いキッチンも完備。小さいながらオフィスだってある。

ということで、その日の夕刻まで過ごしたカオハガンでの出来事は、次回に続きます。



2023年4月20日木曜日

セブの週末・コンドミニアム大炎上

 いやもうびっくりですよ。1年ぶりに家族旅行で訪れたセブで、コンドミニアムの大火災に遭遇するとは。

今回のセブ行きは、二泊三日。ちょうど昨年の今頃に、失効していた息子の日本パスポートの申請と受け取り以来。その時は二人だけだったので、家内を含めて三人で泊まりがけ旅行というのは、考えてみればコロナ禍以降初めて。

面倒だったのは、気候は真夏なのに学校は夏休みではなかったこと。3年に渡る学校閉鎖で、すっかり学期スケジュールが狂ってしまい、今は8月前後に休み期間が移行。教育現場からは「こんなに暑いのに、授業なんてやってられるか」と非難轟々なのに、管轄役所の教育省は「変更の予定はない」と木で鼻を括ったような塩対応。ちなみに冷房完備の学校なんて、少なくともここネグロス島のシライ市内では、聞いたことがないなぁ。

だからと言って、雨季真っ只中の8月に旅行したら、リゾートを楽しむどころか、大雨でホテルから出られないなんてことにも。やっぱり4月・5月が出かけるにはベストシーズン。

なので、当の教育省勤務の家内は、遊びに行くのは職場には内緒。学校にも尤もらしい理由を申請して金曜日は休みにしました。とは言え、ほんとうは皆んな分かっていて「表向きは」ってだけなんですけどね。

さて、当日は6時発のフィリピン航空の早朝便で、7時にはもうマクタン・セブ空港に到着。折角なので、国内線の出口から徒歩5分にある、ウォーターフロントというお高ぁ〜いホテルのビュッフェで食事。

一人700ペソ(約1,500円)で食べ放題は、こっちの感覚だと相当な値段ですが、料理とサービス、場所のクオリティを勘案すれば、十分の納得プライス。これぞアーバン・リゾートの朝食ってヤツを満喫しました。家内は元を取ろうと「これだとまだ400ペソ分しか行ってない」とか言って、サラダやフルーツをガっついてましたけど。

いきなり高級路線に走ったのは、この旅行が私たちの銀婚式祝い(25周年)を兼ねていたから。もうバックパッカーやる年齢ではないし、あんまり貧乏臭いのも何ですし。

さてその夜は、銀婚式祝いのメインイベントとして、セブ在住の美しき日本人の友人Mさんと一緒に、セブ市内の日本料理レストラン「宮内」へ。聞くところによると、ここのオーナーシェフは、以前からMさんのお知り合い。日本人コミュニティがある大都市って、こういうところがいいですね。

宮内へ行く前に立ち寄ったのが、家内の幼馴染のオフィス。このブログに度々登場するマジョリーは、今やフィリピン最大の健康保険会社の偉いさん。ホテルの上層階にある職場に招かれました。プライベートのトイレがある個室で執務って、すごいなぁ。そしてその窓から見えたのが、もうもうと立ち昇る火災の黒煙。

ちょっと待ってぇな。それって今から行くレストランの方角やんか。


グーグルマップで調べると、同じ方角どころか、ほとんど隣接したコンドミニアム。後で知ったのは、2棟あるうちのまだ建設中の1棟の35階から出火。溶接作業の火花が、大量に保管されていた塗料に燃え移ったのが原因で、上から下までほぼ全焼。消防車の梯子が18階までしか届かないから、放置して鎮火を待つしかなかったということらしい。

Mさんからはメッセージが来ていて、お店は問題なく営業中とのこと。家内は怖がって「場所を変えましょう」と言いますが、変えるにしてもまずはMさんと落ち合わないと。

さぁ、それからがちょっとした難行苦行。何しろ、セブ島中の消防士が集結したんか?というほどの消防車の数で、幹線道路は大渋滞。距離は1キロあるかどうかだし、歩い方が早い。でもフィリピンの歩道って、バリアフリーを鼻で笑う凸凹のアップダウン。その上暑いし、沿道は野次馬で人集り。

家族三人、30分ほども歩いたでしょうか。時々泣きが入りそうな家内を励ましつつ、到着したレストラン宮内。炎上中のコンドは、炎が見えるぐらいの距離ながら、想像したほど近くはないし、こっちが風上だったので、煙や悪臭は皆無。予定通りにMさん夫妻と落ち合って、久しぶりの日本食をお腹いっぱい満喫。



帰りは、Mさんのフィリピン人の旦那さんが、ちょっと離れたITパークに駐めた車で、ホテルまで送ってもらい、楽をさせていただきました。途中見えた火事場は、まるでビルそのものが巨大な松明のよう。こりゃ、タワーリング・インフェルノやなぁ。

幸い、死者や怪我人はなかったものの、翌日になっても燃え続け、被害総額は40億ペソに上るそうです。火災が多いこの国で、私も何度か延焼中の家屋を目撃したことはありますが、こんな特大級は初めて。強烈な印象を残した銀婚式祝いでした。



コロナ後の風邪引き

 前回更新から丸十日も間が空いてしまいました。というのは先週金曜日から二泊三日で、隣島セブへの家族旅行。それだけじゃなく、有り難くないお土産に風邪を貰ってきてしまい、三日ほど寝込んでたのがその理由。これを書いている今も、熱はないものの、若干の咳と鼻詰まり、お腹はユルいし全身の節々に倦怠感が残ってます。

実は帰りのセブ〜バコロドの飛行機に乗る前から不調で、突然のくしゃみと鼻水。ちょうど、花粉症のような症状が突発で来てしまいました。ただ、ゲートが開く頃には頃にはマシになって、搭乗を拒否られることもなく、何とかバコロド・シライ空港に到着。フライトそのものは、伊丹〜徳島ぐらいの距離なので、正味飛んでるのは30分程度。

念の為に書き添えますと、ワクチンは3回接種済みで、機内ではずっとマスクは着用してましたよ。

今は真夏のフィリピン。三日ぶりの帰宅後、蒸し上がったような屋内の空気を入れ替えるために、全部の窓と扉を開け放ってから、荷解きをする力もなくベッドに倒れ込んで寝落ち。一応、コンタック600だけは服用したので、くしゃみは治り、泥のようにそのまま眠ってしまいました。この時には発熱もしてたんでしょうねぇ。

時節柄、周回遅れのコロナ罹患か?との恐れも。もし検査して陽性だったら、同じ便の乗客は全員隔離なのか? それより家内も息子も職場や学校に行けなくなる? 等々の心配事が頭をぐるぐる。

幸い、10時間も眠ったおかげで、翌朝には症状がかなり緩和し、食事の用意も自分でできました。どうやらコロナではなかったらしい。たださすがに、弁当は作る気力がなく、二人はキャンティーンで昼食。さらに晩ご飯のおかずは、家内に頼んでイナサル(鶏肉の串焼き)とポークバーベキュー。こうなると、通いとは言え、メイドさんがいてくれると大助かり。大量の洗濯物を片付けてくれました。

結局、月曜から水曜までは、料理以外はほぼ横になって過ごす羽目に。ひょっとしてコロナでも、軽症ならこういう風邪みたいなこともあるのかと思って、ネットで調べてみたら、「軽症」でも、38度越えの発熱に、トイレに行くのさえ誰かの助けが必要なほどの倦怠感なんですね。そう言えば、昨年、コロナに感染した日本の従妹は、高熱でベッドで寝ていることさえできず、フローリングの床で眠ったそうです。これでも入院はできない「軽症」。

よく考えてみたら、コロナ禍が始まった2020年以降、外出時のマスク・外出後の手洗い徹底の効果か、コロナはもちろん風邪すら引かなかった。微熱であっても、発熱したのって5年ぶりぐらいじゃないでしょうか。さらに60歳という年齢もあって、症状の割にはずいぶんシンドく感じました。

そして、高校生の息子はまったく大丈夫だったのが、火曜日から家内がダウン。こちらも典型的な風邪の症状で、結局二日間の欠勤。明日(金曜日)が、フィリピンの祭日なのは、ラッキーでした。

ということで、順序が逆になりましたが、次回はセブへの家族旅行について投稿します。



2023年4月10日月曜日

国際結婚悲喜交々 子供のアイデンティティ

 国際結婚シリーズの三回目は、子供のアイデンティティーについて。結婚しても子供がいない夫婦もいるし、結婚しなくてもシングル・マザー / ファーザーはおられると思いますが、そこはあんまり突っ込まないでください。

18年前に、新横浜の産科医院で息子が生まれた時から気になっていたのが、このアイデンティティー。というのは私自身が日本生まれの日本育ち、だけでなく母が大阪市都島で父が東大阪出身かつ、私が高校を卒業するまでずっ〜〜っと兵庫県尼崎市。どこも「下町」とか「ガラが悪い」と思われている土地ばかり。いわゆる「コテコテ」の関西弁地帯。

少しだけ言い訳しておきますと、尼崎と言っても、ダウンタウンの松本さんと浜田さんの地元は、JR尼崎駅近辺。半世紀前には尼っ子でさえビビる、阪神・尼崎と並ぶガラの悪さで有名だった場所。それに比べて私の実家の最寄り駅は、阪急の塚口駅。世界的に有名になった、テニスの伊達公子さんが通われていた、園田学園のすぐ近くで、周囲は裕福な世帯も多かった。(今はJRも阪神もすっかりきれいになって、特にガラが悪いってことないですよ)

さらに大学は京都市立芸術大学で、就職先が大阪の門真に本社がある電機メーカー。要するに、改めてアイデンティティーがどうこう言う必要もない純粋培養。自ら関西サラブレッドを自称するぐらい、社会人になるまで外の世界を知らない田舎者でした。

こんな調子なので、英会話を学んでもイギリス人の先生からは「君の英語は関西訛りだ」と言われるし、海外出張でプレゼンしても、つい関西のノリで笑いを取りに行ってしまう。脱線ついでに書きますと、フィリピンの在留邦人には関西人が多いとの評判ですが、おそらく人数はそれほどでもない。ただ一人一人の存在感が過剰で、2〜3人に会えば、まるで10人ぐらい居たような、強烈な印象が残るからでしょう。

何が言いたかったかと言うと、それほどまでに自分のアイデンティティについて、意識はするものの思い悩んだ経験が皆無。世にいう「アイデンティティ・クライシス」なんて、想像すらできない。そんな人間が、日比ハーフの父親として子育てするわけですから、大袈裟に書くと、未踏の大地に踏み出す冒険家の心境でした。

ただ結果的には、もうすぐ18歳の息子を見るに、取り立てて自分のアイデンティティについて悩んだりはしていない様子。これは私や家内の、育て方が良かったと自慢しているのではなく、フィリピンの地方都市という環境が良かったように思います。

まず、幸か不幸か、息子の見た目はフィリピンの子供からは、まったくの日本人。家内にしても、移住してからの息子のクラスメートに「マダムは、イロンゴ語喋れるんですねぇ。」と感心されるほど、マレー系やスペイン系とはほど遠い、東アジア的な風貌。生粋のネグロス島民なんですけどね。

おそらくそのお陰で、小一まで住んでた日本では、出自を理由にした差別はまったく無かった様子。まぁ、敢えてこちらから説明しなければ、外見も喋り方も、特別変わった子供ではなかったし。これが中学生ぐらいなら、いろいろ問題も起こったかも知れません。

そうなる前に、家族で引っ越したフィリピン・ネグロス島。

こちらでは目立ちまくる顔つきと言葉が、逆に息子のアドバンテージになったのは幸いでした。例外はあるものの、一般的にフィリピンでは対日感情がとても良好。いじめられるどころか、学校の人気者になってしまいました。最近はそうでもないですが、当初は同級生だけでなく、ずいぶん年上の女の子からも注目されたそうです。

私が想像するに、アイデンティティ・クライシスに陥る子供って、父母のどちらの国にいても、ネガティブな扱いを受けるからじゃないでしょうか。私もハーフの知人が何人かいますが、どこに行っても外人扱いだとこぼしてました。特に日本は、日本で生まれ育って完璧な日本語を話しても、外見だけで他所者と決めつけられがち。それが差別だと気づいてないから、尚のこと始末に負えません。

ということで、子供のアイデンティティに関する限り、日比のハーフならばフィリピンで育てる方が、結果的に必要のない苦労をさせなくて済んだように思いますね。



2023年4月9日日曜日

国際結婚悲喜交々 義理親との距離感

 国際結婚シリーズの第二回は、義理親との付き合い方。と言っても、私はこの件で、そんなに苦労しているわけではありません。家内と一緒になってから、最初の15年は日本暮らし。義両親と顔を合わせるのは、年に一度の里帰り時で、せいぜい1週間程度。

家族で家内の実家がある、ここフィリピン・ネグロス島に引っ越した10年前には、既に義母は他界。すっかり好々爺となった義父とも、同居しているわけでもなく、そもそも揉める理由がない。

ただ、最初の日本人が相手だった結婚では、直接の離婚原因ではなかったものの、私の実母と前妻は最後には修復不可能の関係でした。一応二世帯住宅で水回りは別にしていたとは言え、やっぱり同居そのものに無理があったんでしょうねぇ。

同じ母でも、フィリピン人嫁に対してまったく別人のように穏やか。最初からそうだったわけではなく、当初結婚に大反対だったのが、母の怪我〜入院に際して、家内が毎日病院通いで入浴の手伝いをするなど、献身的な介護以降の手のひら返し。これは国籍の違い云々ではなく、個人同士の相性の問題なんだと思います。

そして最近は、時々SNSで目にする国際結婚での義理親との不協和音。

おそらくこちらも、必ずしも国際結婚だから...ではなく、世界共通で起こりがちな、子供の配偶者との感情的な対立が根本。私も、自分の子供が成人になろうかという年齢になって、ようやく多少の想像はできるようになりました。

特に息子の母、娘の父ならば「子供を取られてしまう」との理不尽な思いに、一瞬でも囚われたことがないと言ったら、嘘になる気がします。少なくとも寂しい気持ちにはなるでしょう。「花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」的な感傷は、国や時代が変わっても大差はないはず。

当然ながら、フィリピン人同士の結婚でも、義理親との喧嘩はよくある話。つい最近も、コロナ禍で長く外出できなかった、上記の義父。そのイライラが募った結果、同居していた義理の娘(つまり私の義妹、以前に彼女のイラストも描きました。)と関係が険悪化して、わざわざ家内が仲裁に入ったこともありました。

同郷人でもこうなるんだから、親としての感情にプラスして、人種や国籍、生まれ育った地域などの、変えられない属性への差別意識があると、さらに問題がややこしくなる。私の母など、はっきり口に出して「息子が何でフィリピン人なんかと結婚するんや。相手が白人ならともかく。」と言い放ったものです。ここまで正直だと、当事者としては清々しいぐらい。

母の場合は、以前にフィリピン人に会ったことすらなく、完全に思い込みだけ。それだけに顔を合わせて家内の人となりに接してからは、ずいぶんと態度が軟化し、上記の入院事件後は「ウチの嫁は、エエ嫁や」と180度の変わりよう。単純な性格の母親でよかった。

しかしながら、こんな人はかなり珍しい部類で、多くの場合、自分の中の差別感情は、無意識のうちに否定してしまうもの。偏見や差別からではなく、相手のためを思ってと当人が本気で信じての言動なので、反論されると自分が全否定されたような過剰反応。もう書いてるだけで面倒になってきた。

こうなると、お互いを「敬して遠ざける」しかない、というのが私の結論。一般的に、フィリピン人に比べて、内向的・自照的に反省しがちな、多くの日本人には分が悪いかもしれませんが、どっちが悪いのでもなく、相性が合わないだけのこと。大家族が普通のフィリピンで、郷に入っては郷に従うしかないと流されるのではなく、これだけは自分の意思を通さないと、精神を病んでしまいます。

あ〜、やっぱり面倒臭い話になってしまってすみません。



2023年4月6日木曜日

国際結婚悲喜交々 どっちの言葉で話する?

 ここ数年ぐらい、ツイッター経由で、フィリピン人パートナーを持つ知り合いが増えて、パパになった、ママになったと幸せな知らせを聞くことも多くなりました。それ以外の国との国際結婚で、子育て中カップルも何組かおられるし、少子化対策には国際結婚の奨励を、なんて短絡的なアイデアさえ浮かんでくるぐらい。

冗談はさて置き、母語が異なる両親にとっては、産まれてくる我が子に何語で接するかは、なかなか切実な問題。この話題は以前にも投稿した通り、あんまり雑にやると、どの言語も母語として定着しない、マルチ・リンガルならぬセミ・リンガルという、子供の論理的思考に支障を来たすような状態になることもあるらしい。

まぁ普通に考えて、小学校の3、4年生になるぐらいまでは、日常会話は一つの言語の方がいいんでしょうね。少なくとも家の中では、日本語なら日本語だけ、英語なら英語だけ。ただし、子供によって個人差はすごくあるだろうし、戦時中の日本みたいな「英語は敵性言語だから使用厳禁」という過剰反応はしない方がいい。

今年18歳になる息子の場合、生まれて小学校1年が終わるまでが日本。その後、高校生の現在までがフィリピンで育ちました。その間、幸い家内が日本語に慣れてくれたお陰で、家庭内はほぼ日本語で統一。とは言え、幼児の頃から家内が英語の絵本の読み聞かせをしたり、フィリピン人の親戚や友人が頻繁に訪ねてきたり。基本は日本語で、周囲には英語やフィリピンの言葉が普通にある、といった環境でした。

そして気になる学校は、小・中・高校一貫で、授業の言葉は英語という私立校。もちろんイロンゴ語(西ネグロスの方言)とフィリピノ語(タガログ語を母体にした公用語)も必須で、息子はイマイチ苦手。全教科の平均点が90点以上なのに、フィリピノだけ追試になったりすることも。

まぁ、これはある程度しょうがないと思います。学習すべき言葉が4つというのは、いくら何でも多過ぎ。一つ得意科目があるだけでも御の字なので、親としては、落第さえしなければそれで良いと言う態度を通しました。フィリピン大学卒のインテリの家内は、結構教育ママぶりを発揮してますけどね。

そういう方針の結果、少なくとも日本語と英語は、高校生としてはまずまず悪くない理解度。ハリーポッターを両国語で普通に読めるし、オンライン日本語教室で日本史のテストの点も平均以上。元々お喋りは苦手であんまり社交的な性格ではないのは、持って生まれた資質。こればかりは、無理強いするようなことではありません。

ひとつだけ書き加えるとすると、父親が日常的に多忙過ぎて、子供との会話が皆無なんていうのは問題外。せめて毎夕食時の数分ぐらいは、ちゃんと話をするのが大前提。

さて、子供のことは置いといても、夫婦間のコミュニケーションはどうするか。

配偶者がヨーロッパ出身だと、英語圏ではなくても結婚以来10年20年ずっと英語という夫婦は結構多いらしい。私と家内も、最初の数年は英語オンリー。相互理解が図れるのが英語だけだったので、そうなりますわなぁ。

とは言え、結婚以来15年住んだ日本は、日本語が分からないと不便この上ない。家内には公文(くもん)の在日外国人向けの日本語コースに通ってもらったら、あっという間に敬語を使いこなすレベルに到達。

一般的には女性の方が言語能力は高いなんて言いますが、それだけでなく、住んでいる国の言語状況に左右される話。仮に私たちが最初からフィリピンに住み、かつ英語がまったく通じない環境だったら、私が地元の言葉をある程度喋れるようになったと思います。それが夫婦間の日常語になったかどうかは分かりませんけど。

かれこれ私たちの結婚生活も25年。今月末には銀婚式を迎える今になって思うに、良好な夫婦関係を保つことと、どちらかの母語を使うことは別問題。場合によっては母語で会話したばかりに、言葉尻にカチンとなって、しなくてもいい喧嘩になったりもします。



2023年4月5日水曜日

移住して10年経ちました

私たち家族がここフィリピンに移住してから、 丸10年が経過しました。2013年4月6日の福岡発マニラ行きのフィリピン航空。家内と結婚してから15年で、その大半は大阪府下の賃貸マンション暮らしだったんですが、私の転勤によって、最後は福岡からの出発。午後の便しか無くて乗り継ぎが間に合わずマニラで一泊。ネグロスに着いたのは翌日の4月7日となった次第。

本当なら、若干の寒さが残る日本から真夏のフィリピンではなく、両国の気温差が一番小さな6月ぐらいが望ましかったんですけど、私の退職のタイミングやまだ小一だった息子の学校の関係もあり、日本の新年度に合わせることになりました。なので、マニラに着いた時は暑かったなぁ。

渡航の1ヶ月前には、家内が先発して仮住まいの借家をキープ。小さいながらも2LDKだったので、空港からそちらに直行する手もあったものの、まだ何もない空っぽの状態。取り敢えずの家財道具が揃うまではと、数日は家内の実家に泊めてもらいました。


最初の1年間住んだ借家
そして翌日から、早速隣街の州都バコロドにある大型ショッピングモールで、家具と電化製品の買い出しツアー。まるで新婚時代を再現してるようで、私も家内もかなり舞い上がっていたのを覚えています。仮の新居に注文した物が届く頃には、もう家の新築は止めて、このままそこに住もうかとさえ思いました。

とは言え、やっぱり手狭だし、隣家はなぜか毎日曜の朝にプロテスタント系の新興宗教が集会をやってる。牧師さんの説教にやたら絶叫が多く、それに煽られて信者が号泣するという、危ない集団。その反対側では、若いカップルが平日の昼間っから熱烈な愛の交換をしちゃうので、子供を育てるにはまったく不向きな環境。

そこから夢のマイホーム着工まで、いろんな手続きや大工さん集めで、結局半年ぐらいかかってしまった。実はこのブログを書き始めたきっかけが、自宅建設工事の記録。ご興味のあるかたは、そっちを読んでみてください。(フィリピンで家、建ててます

ちなみに建設資金として、日本での貯金と退職金のほぼ全額を、フィリピンの大手銀行メトロバンク大阪支店経由ですでにシライ支店の家内と私の共同口座に送金済み。後から支店長さんにから聞いたところでは、結構な話題になってたらしい。資産が数億、数十億ペソの大金持ちがいたり、出稼ぎで大金をやり取りする銀行でも、日本から一度に千万円単位の送金っていうのは珍しい。

翌年には自宅は無事竣工し、3年前には二期工事でゲストハウスも完成。若干心配していた生活費も、家内が役所勤めを始めたりで、私が年金もらえるまでの残り5年は、何とか無理せず持ち堪えられる見込み。まぁいろんな事がありましたが、少なくとも移住という選択を後悔するような羽目には陥ってません。控えめに言ってもかなり幸福な生活だと、10年前の私に教えたいぐらい。

その間には、思いもしなかったポジティブな想定外も多かった。相変わらず停電は多いものの、インターネットがブロードバンド化して、ネットフリックスやアマゾンプライムが視聴可能。日本の映画やドラマが普通に観られるようになりました。

さらには、田舎、田舎と馬鹿にしてたシライ市内でも、大手のスーパーやショッピングモール、建材店、電気製品の量販店などが相次いで開店。移住当初はいちいちバコロドまで行ってた買い物の半分以上は、市内で事足ります。

結構嬉しかったのは、こっちの建材店で洗浄便座を見つけた時。何とつまらないことでと、笑うなかれ。最近では、ウォシュレットがないから、海外生活は無理と言う若者がいるぐらいなんです。ついでに日本のアマゾンにネットで注文すると、食品・医薬品以外なら数日後にちゃんと届く。これは単に私が知らなかっただけですけど。

そして何よりも家族三人、大病や大怪我もなく、健康に歳月を重ねられたのは、まったくもって神さまに感謝です。



鬱に響いた教授のピアノ 追悼・坂本龍一


坂本龍一さんのインスタグラムより

 このところ、1970〜80年代に青春時代を過ごした世代にとっては、ショックを受けるような訃報が相次いでおります。改めてご紹介するまでもない、世界的な作曲家にして、超絶的な腕前のピアニストである坂本龍一さんが亡くなりました。享年71。1952年のお生まれとのことで、私より、ちょうど10歳年上でした。

高校から大学にかけての最も多感な時期、YMOから始まって「オネアミスの翼」「戦場のメリークリスマス」のサウンドトラックなどは、レコードからダビングして、カセットテープが擦り切れるほど聴いたものです。フィリピンに住んでいる今も、iPhoneのプレイリストに全部入れているぐらい。

中でも、戦メリの楽曲をピアノ一本でセルフカバーしたアルバム「Coda」がお気に入り。実は当時の私、どちらかと言うとポップスよりもクラシック音楽が好きで、ドビュッシーのピアノ曲にはかなりハマっておりました。

この Coda は、映画音楽とかポピュラーミュージックと言うより、ドビュッシーやエリック・サティに連なる、クラシックの傑作だと思ってたら、当の坂本さんは、自らはドビュッシーの生まれ変わりじゃないかと思うぐらい、傾倒されてたんですね。

その後私は、就職・結婚して迎えた30代。仕事でのストレスに加えて離婚などなど、精神的に追い詰められて、抑鬱状態で医者通いの毎日を送る羽目に陥りました。そんな時、眠れない夜の入眠剤代わりに聴いていたCDが、坂本さんの「1996」。上記の戦メリのテーマを含む、過去の作品をピアノ・バイオリン・チェロのトリオで演奏したもの。

本当に気持ちがダメな時って、音楽さえ受け付けないんですが、ちょっと持ち直して来た時でも、音量の大きなシンフォニーや、ビートの効いたロック・ポップスは厳しい。その点、1996に集められた楽曲は、メロディも演奏も天上的な安らぎをもたらしてくれて、大抵は最後の曲を聴く前に眠りにつくことができました。

月日は流れて、フィリピン・ネグロス島に移住して、鬱が完治した今となっては、さすがに熱帯の日差しの中で聴くと、少々辛気臭く感じてしまうんですけどね。

それにしても、ネットに流れてくるものだけでも、坂本さんを偲んで書かれた文章がたくさん。その誰もが挙げる「私の坂本龍一」的な一曲やアルバムが見事にバラバラ。それだけ彼の活動領域は多岐に渡り、そのどれもが歴史に残るほどのインパクトを有していたってことなんでしょうね。

オネアミスの翼では、日本の雅楽やインドネシアのガムラン音楽を取り入れて、それが映像にぴったりな上に、単独の楽曲としても完成されているという、ほとんど神業みたいなこともされてました。なので、YMO時代のほんの一部だけを切り取って、電子音楽の代表選手みたいな書き方をされると、すごく違和感を覚えてしまいます。

そんな音楽家としての天賦の才に加えて、類い稀なる美貌の持ち主。映画「ラストエンペラー」では、その音楽で米国アカデミー賞は始めとして、数々の栄冠に輝いた坂本さんですが、元々は俳優として同作に出演したのがきっかけ。若い頃の坂本さんって、まったくのヘテロセクシャルの私でさえ、鳥肌が立つぐらいの美形でした。

ただ残念なのは、まだまだ活動ができるはずの年齢で亡くなられたこと。60歳になった自分の経験では、私が子供の頃は、今の実年齢に20年上乗せした感じ。つまり今の70代って昔の50代ぐらいなんじゃないでしょうか。そう考えると、これから坂本さんの最高傑作が生まれた可能性だって大いにあったはず。

坂本さんは、ある時期まで相当な愛煙家だったそうで、直接の死因となったのが、中咽頭にできた癌が、両肺に転移した結果。ニコチンやアルコールなどに依存しないと、創作活動のプレッシャーに耐えられない...という側面はあったかも知れません。実際、洋の東西を問わず、薬物依存で若死にするアーティストは数知れず。

最後に、坂本さんが好んだという、古代ギリシアの医学者ヒポクラテスの言葉を掲げます。

Ars longa, Vita brevis 芸術は長く 人生は短し




2023年4月4日火曜日

訛りと暴力

 前回「東ネグロス州知事暗殺事件」を投稿してから、その背景にあるものをいろいろと考えてみました。

最近でこそ、日本から若い男女も渡航するようになって、1980〜90年代に比べれば、「治安の悪い国」というレッテル貼りをする人も減ったと思います。それでも、夜間の一人歩きは避けろとか、カバンは引ったくられないように肩掛けではなく袈裟懸けにとか、いろいろアドバイスされがち。観光客や一時渡航者は、別にフィリピンに限らず、大抵同じことを言われるんでしょうけど。

ただ、ここに10年住んで感じるのは、本当に恐ろしいのは、むしろ地元の人たちと知り合った後。問題なく暮らしてるうちはいいけれど、下手に人間関係の距離を詰め過ぎて、それがこじれると、場合によっては暴力沙汰になることもある。

ここ何年か、アメリカでの銃乱射による大量殺人が大問題になっていますが、実はフィリピンも銃所持については、ほとんど放置に近い状況。フィリピン国籍があって、正規の手続きを踏めば、街中にあるガンショップで誰でも拳銃が買えるし、脛に傷があってそれがダメでも、密造銃の売買が横行。何より、自分で手を下さなくても、十万円も出せば殺し屋が雇えるお国柄。

実際、ビジネスや色恋沙汰のトラブルから、日本人が巻き込まれた殺人事件の話も、時々報道されてます。よくある手口が、バイク二人乗りが、追い越しやすれ違いの時に発砲するパターン。私が住んでるこんな田舎の地方都市シライでも、数年前に白昼堂々アメリカ人男性が路上で殺されたり。外国人というだけで目立つので、ほんと、人の恨みを買っちゃいけません。

とは言うものの、東ネグロス州知事暗殺のような、組織的な犯罪になると話は少々違ってきます。同じネグロス島なのに、シライのある西ネグロスでは、そこまでひどい暴力沙汰は、私の知る限り聞いたことがない。政治家が贈収賄や資金の不正流用などに手を染めるのは、似たようなものなれど、殺し合いにまではエスカレートしない。テロ組織のNPA(新人民軍)が国軍と局地戦やったりするのも、もっぱら東側。

そこでふと気づいたのが、東西ネグロスの訛りの違い。訛りどころか、それぞれのネイティブ同士では、意思疎通も難しいほど異なった言語で、西のイロンゴ語は響きが優しく、特に女性話者が可愛く聴こえるのに対して、東のセブアノ語は、日常会話が喧嘩みたいと言われます。

そう言えば、2009年の政敵とその家族を皆殺しにした虐殺事件も、セブアノ話者が多いミンダナオ。つい数年前も、内戦騒ぎで戒厳令も出てましたね。

言葉が、他所ものには荒っぽく聴こえるから暴力的になると言ったら、ちょっと短絡的すぎるかも知れませんが、日本でも暴力団が活発なのは、関西地方や、広島、福岡。大阪にも福岡にも住んだことがありますが、ほんとに抗争事件が多いんですよ。

どの国でも首都圏は、地方から人が集まることもあって、マニラも東京も、反社会勢力が増えるのも分かりますが、地方の場合は、どうも言葉との相関関係があるように思います。まぁ単純に考えて、脅しや威嚇に使ったら、愛媛や東北の訛りよりも大阪弁や博多弁の方が効果がありますからねぇ。

聞くところによると、マフィア発祥の地であるシチリア島も、本土のイタリア人が聞き取れないほど強い訛りがあるらしい。

ちなみにフィリピンでは、ヤクザやマフィアのような犯罪組織よりもタチが悪いのが、警察官と政治家。地方の知事や市長などになると、当然のように警察を抱き込んで、今回の東ネグロスのように大量の武器弾薬を私蔵し、多数の私兵を雇っているケースもあるぐらい。こんなことができるのも、政治家になるような地主階級と、一般市民の経済格差があり過ぎるから。警官の給与もまだまだ安いし。

驚いたことに、上記の暗殺事件の実行犯の一人が、ここシライの出身者。家庭教師バンビの知り合いだったそうで、噂によると殺しの報酬は1,000万ペソ(約2,500万円)。ネグロスでは、公務員の平均的な年収が100万円にも満たないので、ほぼ生涯年収に匹敵する金額。話半分だとしても、そりゃ成り手はいくらでもいるでしょうね。その割に殺害後の手際が悪くて、あっという間に、犯人6人全員逮捕されたそうですが。



2023年4月1日土曜日

東ネグロス州知事暗殺事件


暗殺されたロエル・デガモ知事
出典:CNN Philippines
 かれこれ1ヶ月近く前の今年(2023年)3月4日、私が住む西ネグロスの隣州である東ネグロスの知事が、武装した6人の男たちにより射殺されるという事件が起こりました。選挙絡みでの流血の惨事は、この国ではそう珍しくはないものの、ここまで組織的な犯行は稀。しかも四国より少し小さなネグロス島では、徳島から高知ぐらいまでの距離感。恐ろしい話です。

事件そのものの残虐さもありますが、殺されたロエル・デガモ知事は、現職大統領ボンボン・マルコスとは近しい関係。即刻事件解明のタスクフォースが立ち上げられ、テレビでも連日の報道が続いています。この数週間の夕食時ぼニュースは、デガモ暗殺とミンドロ島での石油流出事故ばかり。気分が落ち込むこと甚だしい。

私の知る限り、昔から東ネグロスって、テロリスト集団NPA(New People's Army)の動きが活発で、局地戦や暗殺事件が頻発する土地柄。最初はてっきりNPAの仕業かと思ってました。ところが新聞記事などを読んでみると、もう10年以上前から尾を引く、デガモ氏と彼の政敵テペス氏の怨讐が、エスカレートした結果ということらしい。

そもそもデガモ氏も、相当胡散臭い経歴の持ち主で、2010年、最初に知事職に就いたのが、州議会議員だった時。時の知事・副知事が相次いで死去したため、地方自治法により知事就任。ウィッキペディアには死因などの詳細はないけれど、どう考えたって不自然極まりない。そして正式に選挙に当選して3期の任期満了したものの、途中で、台風や地震被害の復旧資金を不正流用した疑いで一時停職となっています。

さらに、知事の4選は許されていないフィリピンでは、本来なら立候補できないはずなのに「なんども任期が遮られた」との理屈で強行出馬。結局4期も知事職に居座りました。この状況に近いのが、元大統領のグロリア・アロヨ氏。前任のエストラーダ氏が市民運動で辞任に追い込まれたため、副大統領から繰り上げとなり、結果的に任期の上限を超えて、大統領を務めました。この時も、かなり物議を醸しましたね。

そして2022年の選挙で、デガモ氏は5期目(!)に挑みます。投票ではテペス氏に敗れたにもかかわらず、知事オフィスの引き渡しを拒否。最後の最後まで揉め続けての辞任でした。

これでデガモ氏の知事生命は終わりかと思ったら、この知事選では本名とは異なる「デガモ」を名乗った別の候補者が原因で、失った票があるとの訴えを起こし、何とこれが認められて、敢えなくテペス氏は4ヶ月で解任。限りなく黒に近い灰色のデガモ氏が知事に返り咲いたのが、昨年の10月。

ここまで書いて、こんなに法律を恣意的に解釈できて、しかも選挙で勝ってしまうフィリピンって、本当に民主主義国家なのかと呆れております。まぁ、国家運営の根幹である憲法解釈を、恣意的な「閣議決定」で変えちゃう国から移住した私には、あんまりエラそうな事は言えませんけどね。

だからと言って、殺していいとはならないのは当然なんですが、殺されないと止まらない暴走状態だったとさえ思えてしまう理不尽さ。最新の報道では、テペス氏が以前に所有していた農場から、ライフルや手榴弾など、大量の武器が見つかったとのこと。彼が私兵を養っていたのは、公然の秘密だったようです。

そして当のテペス氏本人は、病気療養と称してフィリピン国外に滞在中。まるでハリウッドのマフィア映画か、と言うより、映画でもここまで陳腐な筋書きにはしないであろうレベルの、バレバレの展開。

ということで書き出す前は、もう少し背景となったフィリピンの銃所持やら、2009年にミンダナオで、政敵の一族やジャーナリスト57人を殺害した事件にも触れるつもりでしたが、経緯を説明するだけで、結構な分量になってしまいました。