2023年5月31日水曜日

言語多様性の宝庫フィリピン

 ここ最近になってから、ツイッターで知り合った言語学者にして某大学の教授。たまたまお名前が、私の家内と同じジョイさん。と書くと、知ってる人には一撃で身バレですが、本名でSNSやっておられますので。ご両親はアメリカの方ながら、育ちは日本で国籍もれっきとした日本人。そして日本の方言を研究されているとのこと。

そのジョイさんが調査されたところによると、かつてカタツムリの名称は日本全国でなんと400以上もあったそうです。この100年でほとんどが消滅してしまい、多様性が失われたことにジョイさんが残念がっておられました。ところがそのツイートへ、ITエンジニアを名乗る方が「なにが残念なのか分からない。言語は英語だけに統一してほしい」と返信。

う〜ん、言語学にはまったくの素人の私ですら、これは暴言だと思いますよ。まず英語って発祥の地のブリテン島の中ですら多様な方言。有名なのはロンドン訛りのコックニー。労働者階級が話す下町言葉なので、あまり上品なアクセントや語彙ではなさそうですが、英語に限っても、こういう方言を切り捨ててしまうと、多くの微妙なニュアンスが表現不可能になるでしょう。

曲がりなりにも英語を喋り、今住んでいるネグロス島の方言イロンゴ語を勉強中の私にすれば、日本語を含めてたった三つの言葉ですら、それぞれに置き換えができない言い方がいっぱい。無理に翻訳したら、すごく長くなって説明臭くなるのがオチ。言い換えれば、地域性とか固有の文化って、言葉に負うところがとっても大きい。私など日本語どころか、関西弁ですら絶対に捨てたくありません。標準日本語だけしか喋れなくなったら、60年かかって作り上げて来た私の人格は、確実に変質してしまうでしょう。

私が思うに、言葉というのは思考の道具。例えば1枚の絵を描くにしても、鉛筆なのか絵筆なのか、使う道具次第で生み出される絵はまったく別物。最近はパソコンのアプリとペンタブレットでタッチの似せることはできても、画面上で見るのと、実際に目の前にある手描きの完成品では、見る人に与える印象はガラっと変わる。複数の道具を使いこなせれば、作品の幅はさらに広がる。

つまり私の感覚からすると、言語を英語に統一するのは、油絵だけしか表現方法が無くなったようなもの。水彩画も、木炭によるデッサンも、水墨画も版画も全部使うなと言われるに等しい。確かに十分に訓練された画家にかかれば、油絵の表現力ってすごいけれど、やっぱり多種多様な人間の創造力を盛る器としては、制限が多過ぎます。

少し前の投稿で、フィリピンは教育の場での公用語を一つに絞るべきだ、なんて偉そうなこと書きましたが、これは飽くまでも教科書の話。教室から出れば当然母語で喋るべきだし、プライベートまで英語で通せと言っているわけではありません。

実際に現在発展している地域や国を考えてみれば、アメリカ然り中国然りEU然り。どこも方言も含めて、膨大な言語の多様性を持っています。近年、グローバル規模で大きなインパクトをもたらしたiPhoneがアメリカから生まれたのは、決して偶然ではないと思います。

そう考えれば、主要な方言だけでも8つあり、話者が少ないものも数えると約170もの言語を有するフィリピンは、多様性の宝庫。貧困やそれによる教育格差で、その潜在的なパワーは十分に発揮されていないけれど、すでに経済成長という点では日本すら凌ぐ勢い。


出典:Deviant Art


考えてみれば明治時代以降、方言を極力排して日本語の多様性を狭めてきた日本って、それ以前に比べれば効率は良くなっても、思考の幅が狭まったように思います。バブル崩壊以降の日本の低迷は、大きく見れば、みんなが同じように考え同じように振る舞った結果。「同調圧力」という言葉が、それを象徴してます。

ここ数年は、私のような定年退職者だけでなく、20代30代の若者が海外に生活や仕事の場を求めるケースが増えているのも、どっちを向いても同じような人ばかりの社会から、無意識のうちに逃げ出した結果なのかも知れませんね。



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