2026年6月2日火曜日

日本で再就職


実家屋上からの景色

 2月の半ばに一時帰国で日本に戻って来て、早や4ヶ月近く。前回「あと1ヶ月、引き続き日本滞在期を投稿します」なんて書いてましたが、実は私、まだ実家の尼崎におります。それだけでなく、なんと日本で再就職して住民票を戻し、マイナカードも作ってしまいました。とは言え、本帰国してフィリピン永住を諦めたわけでは全然なくて、本人は、飽くまで「一時」帰国が延長されただけと思っております。

その理由なんですが、いろいろ端折って単刀直入に説明すると、生活資金が心細くなってきたから。家族とフィリピン・ネグロス島にいるだけなら、年金が貰える65歳まであと1年半。これを食いつなげば大丈夫だし、極端に切り詰める必要もないけれど、日本に残してある預金が厳しくなってきたんですよ。

これって、各種のサブスクだとか、時々、日本のアマゾンで買い物したり、あるいはクレジットカードの維持、そして一時帰国したときの経費などなど、無くなるとちょっと困ってしまうことが多々あります。それに加えて、今年大学2年生の息子の学費。学費無料の国立フィリピン大学も受かってましたが、マニラ生活のための仕送りを考えると、近所の私大、ラ・サール大の方が安い。何より息子が勉強したい学科が、ラ・サールにしかなかったので、仕方がありません。

もちろん、日本の私大に比べると桁違いに安い学費であっても、ネグロス暮らしの生活費って、日本のざっと1/5程度。元々の総額が小さいので、この辺りのわずかな読み違いが、意外と大きな金額差になってしまいました。なので、15年保たせるはずだった預金+退職金が、13年半経過したところで、ちょっと心配になってきたという次第。

そこで、今回の一時帰国中に考えたのが、日本での再就職。最初は63歳にもなって、ロクな仕事があるわけないと、まったくダメ元で人材登録してみたら、思いがけなくいろんな求人がありました。試してみたのが、日本の子供を対象にした英語教師、外国人観光客相手の日本文化紹介、フィリピンでの英語留学のスタッフ、ついでに、滑り止めのつもりでファミレスのアルバイトなんてのも。

何件かは面接まで行きましたが、最終的に決まったのが、外国人からの労働者(いわゆる技能実習生)に日本語を教える仕事。思いがけずフルタイムの正社員雇用してもらい、4月末から、もう働き始めております。決して高給とは言えないけれど、一人暮らしして、多少の貯金とフィリピンへの仕送りぐらいは、何とかなりそう。

この仕事の内容については、別投稿で述べるとして、今回の超久しぶりの就活で実感したのが、日本の人手不足の深刻さ。本当に年齢を気にしてられない求人側の切迫した状況が、よく分かりました。断られた仕事も多かったけれど、結果的に人材登録して丸1ヶ月も経たないうちに、還暦オヤジが就職できたんですから。

もちろん誰でもOKということではなく、長年の海外暮らしの経験や、英語ができたこと、短期間ながらフィリピン人に日本語を教えたことがあった等々、今の仕事をする上で有利な条件が偶然重なったのは大きいでしょう。流行りの言い方をするなら「伏線回収」だったのかも知れません。それでもやっぱり、60代で正社員は、我ながら驚きました。

ということで、年に一度ぐらいは「逆・一時帰国」で、ネグロスに帰るつもりですが、最低でも年金が貰えるまで、あるいは息子が大学を卒業するまでぐらいは、日本に居続けることになりました。ただ、日本語を教える相手が、一部ながらフィリピンからの実習生。まだまだフィリピンの関わりは途切れていないので、「ネグロス島 永住日記」の看板は下ろさず、番外編の扱いで投稿を続けたいと思っています。



2026年4月23日木曜日

日本のトイレは美しい

 早いもので、この2月(2026年)に一時帰国してから、もう丸2ヶ月が経過しました。前回投稿した通り、年老いた両親に代わって実家の大掃除を済ませた後は、暇に飽かして毎日出歩いております。

どこへ行くかと言うと、移住前に住んだ場所や職場、昔通った学校などなど。要するに還暦過ぎたオッさんが感傷に浸ってるわけです。実家の周辺は、これまでの一時帰国時に回ったりもしましたが、その時は滞在期間がせいぜい1週間か10日。ほとんどの時間を、親戚や友達との再会や、久しぶりの日本食の食べ歩きに費やしたので、ゆっくりあちこち歩いたりしませんでした。

住んだことがある場所なら、転勤で引っ越した横浜や福岡もあるものの、さすがにそこまでは無理。結局、実家のある尼崎を中心に、関西圏に限られます。とは言え、50年近くも暮らしたので、歩くとなると尼崎市内だけでもかなりの数。まずは、幼稚園、小学校、中学、高校の学校巡り。

ずっと日本に住んでいたら、別にどうってことは無い散歩なんでしょうけど、13年もフィリピン・ネグロス島の環境を刷り込んだので、とにかく普通の街並みがキレイに見えて仕方がない。まず全然ゴミが落ちてないし、公共の交通機関が整備されまくっている。しかも、どこにでもソメイヨシノが植えられているので、この時期は、わざわざ名所とされる場所に行かなくても、町内を小一時間も歩けば、堪能できるほどの桜を見ることができます。

桜だけじゃなくて、普通の民家の植え込みにあるツツジとか椿の花が、なんと美しいことか。ネグロスにいる友人・知人に、桜や花壇の写真をSNSでシェアしたら、「いいね」の嵐。15年も日本に住んでた家内も、スイセンの写真がえらく気に入ったようで、プロフの背景写真に使ってました。

それに加えて、フィリピン目線的に驚くのが公衆トイレ。電車の駅、しかも梅田や神戸などの大きなターミナル駅だけじゃなく、急行も停まらない支線の小さな駅ですら、洗浄便座は当たり前。そして清掃が行き届いているし、トイレットペーパーも完備。あまつさえバリアフリーの個室まである。ショッピングモールやデパートのトイレも同様。

これがフィリピンだったら、便座がなかったり水が流れなかったり。例えば大小いずれも便器が三つあったら、必ず一つは壊れていて使えない。ペーパーなんかあるわけない。日本の公衆トイレの写真を見たフィリピン人が、まるで判で押したように「ここに住めるよ!」と反応するのも分かります。

ダメ押しなのが、公園などのトイレ。というのも、年齢的に小用が近くなるので、何時間も外を歩いていると、何にもない場所で尿意を感じたり。仕方なしに目についた児童公園のトイレを拝借するんですが、これが昔に比べると隔世の感。さすがに洗浄便座はないけれど、どこも普通に安心して用を足せる清潔さ。ちゃんとペーパーもある。

私が子供の頃、公園の公衆便所なんて悪夢の汚さでしたからねぇ。

やや例外的だったのが、大阪城公園。聞きしに勝る「インバウンドの聖地」状態で、もう最寄駅から歩くだけで、聴こえてくる言葉の8割ぐらいは外国語。しかも英語以外のヨーロッパ諸国やアジア系の言語が圧倒的多い。時々タガログ語が聴こえてきて、思わす振り返ったり。

案の定、トイレはちょっとがっかり。まぁ、観光地で桜の名所である大阪城に、4月の満開の時期に行ったんだから、外国人ガーじゃなくて日本人観光客だけだったとしても、それなりに汚れちゃうかも知れません。それも便器の汚れより、弁当の容器の類のゴミが個室内に捨てられているのが多い。これは、外にゴミ箱が無さすぎるからでしょうね。

とまぁ、トイレの話ばかりになっちゃいましたが、改めて歩いてみると、日本って小さな児童公園だけじゃなく、そこそこ大きくて、ちょっとした散策ができる規模の公園が多い。首都圏に比べて、緑や公園が少ないと言われる関西ですら、フィリピン・ネグロス島と比べればすごい数です。実家から歩いて行ける範囲だけでも、上坂部西公園、近松公園(近松門左衛門ゆかり)、尾浜公園などなど。

今、フィリピンで私が住んでるシライ市と隣の州都バコロドの景色を頭に浮かべてますが、市街地で公園と呼べるような場所って、市役所前のプラザ(広場)ぐらいしか思い当たらない。そもそも年中暑いので、炎天下に散策しようと思う酔狂な人は、あんまりいないでしょうね。

ということで、花見とトイレはこれぐらいにして、まだあと1ヶ月ほどは日本にいますので、次回も引き続き、日本滞在記を投稿したいと思います。



2026年4月10日金曜日

親の終活のお手伝い

 2月にフィリピンから、現地で介護している両親と共に一時帰国して早や2ヶ月近く。かなり長めに設定した予定も、残り1ヶ月余りとなりました。計らずも、一番寒い時期から徐々に暖かくなるタイミングで、この2週間ほどは、13年間ご無沙汰だったお花見を満喫。大阪城公園や、かつて長く住んだ大阪の茨木市内の、その名も「桜通り」なる名所を散策したり。なるほど、定年退職後の悠々自適の醍醐味とは、こういうことなんですね。

ただし、今回のメインの目的の一つは、実家の片付けと掃除。こちらは2月中に終えたので今は、それなりに快適な住環境になっているんですが、帰国当初の10日間ほどは、本当にたいへんでした。

母は痴呆状態ではなく、食事時には自力で立ち上がりダイニングまで歩いてこれるし、トイレも自力で済ませられるものの、それ以外はほぼベッドに横になったきり。日がな一日、大音量のテレビだけが生き甲斐という状況。父は90歳のわりには元気で、母の食事や買い物、洗濯と簡単な掃除ぐらいはできてるます。ただ、もう大掃除をするような体力はありません。

そもそも、若い頃から片付けのセンスが欠落しているような人で、それに加えて、終戦直後の貧しさを経験しているだけに、モノを捨てることができない世代。私が帰宅した時には、どの部屋もモノが溢れかえり、使っていない何室かは、ほぼ「ゴミ屋敷」か、その一歩手前。特に服と食器、布団と書籍が凄まじい量でした。

本来なら、業者を呼んで何万円か払って引き取ってもらってもいいぐらい。でも、捨てる前に両親の確認・許可が必要という枷がかかっていました。もし真面目にその要望を守っていたら、3ヶ月いても分別さえ終わりそうにありません。仕方がないので、片っ端から箱詰めにして、押し入れやクローゼットに収納するという戦術で挑みました。

約30年前に建築士の父が自分で設計・施工した我が家。当時はまだ珍しかった3階建て住宅で、日本の一般住宅としては、決して狭くはないし、部屋数も収納量も十分。今数えてみたら、11部屋とLDK2セットで風呂場が2つトイレが3つの、2世帯を想定した住宅。うまくやれば、大規模断捨離せずに済むだろうとの見込みです。

結果的には、私が今回の居室に使っている部屋とリビング、ダイニング、それに玄関、台所、洗面所は、見違えるようにモノの圧迫感がなくなりました。というのは、もう後から取り出すことは考えず、押し入れにギチギチに詰めていくだけ。強烈な筋肉痛と戦いながらの、立体ジグソーパズル。実は私、この手の整理整頓は嫌いじゃないんですよ。かつての職業だったデザイン業務も、例えて言えば一種の整理整頓。ひょっとすると私の天職だったのかも。

これは親が果たせなかった、終活のお手伝いですね。両親の他界後は、おそらく私か私の兄弟が、今度こそ業者を呼んで、後顧の憂いなく捨てられるよう、その前準備を終わらせたようなものです。それにしても、どの棚、どの引き出し、どの扉を開けても、これでもかこれでもかと出てくるモノの洪水は、ちょっとした悪夢でした。さすがに、もう使えなくなったバカでかいブラウン管テレビ2台は、電気屋さんに来てもらって処分。

そこまでやっても、寝室の一つだけは「物置部屋」とせざるを得ませんでした。面白いのは、上記の大片付け作業完了後、父親が感化されたのか、自分の書斎と寝室を整理し始めたこと。自分の持ち物を、残った段ボール箱やクリアボックスに詰めて、物置部屋に片付けてました。

ということで、冒頭に書いたように、大仕事を終えた後の花見三昧となったわけです。それについては、次回の投稿で詳しく述べようと思います。



2026年4月1日水曜日

もう4月なんですが、今年最初の投稿です。

 まったく申し訳ないことに、気がついたら最後の更新から丸3ヶ月も経ってしまいました。2013年にこのブログを始めてから、ここまで放置したのは初めてです。

実は今この文章は、私の生まれ故郷の尼崎の実家で書いております。昨年末に申し上げた通り、本当に日本に帰って来てしまいました。とは言え、フィリピンに愛想を尽かして見切りを付けたわけではなく、ネグロスの自宅で介護している実の両親の一時帰国に、たまたま時期が重なり、それに同行しているだけ。

この4月で移住後13年が経過して、14年目に入るタイミング。今までの一時帰国が1週間からせいぜい10日程度だったので、もうそろそろ本格的に「日本成分」を補給しても良いだろうという判断でした。早い話が、自分のメンタルを労ってのガス抜き。

これは、日本で生まれ育ち、年単位で海外在住の方には、実感として理解いただけると思うんですが、理由は何か嫌なことがあったというよりも、溜まりに溜まった心の澱、と言うか、塵も積もれば...的な、押し殺してきた不満を解消するような感じ。ただ一つの大きな理由というわけでもないんですよ。そもそもそんな大きな問題があれば、最初から移住という選択はしてなかっただろうし。

まぁ敢えて言うなら、隣人の騒音で揉めたとか、日本語教師の仕事が上手くいかなかったとか、あるいは台風被害で1週間の停電とかが、たまたま昨年(2025年)に相次いだってのはあります。それが直接のトリガーと言えなくもない。でも、それがなくても、来年(2027年)には、年金の受け取りが始まる都合で、長めに帰国しようかなと思ってました。

そういう流れで、最後のブログを書き上げた数日後の年始早々には、隣街の州都バコロドで、関空までの片道チケットを購入し、2月の中旬に約3年ぶりの一時帰国とあい成った次第。正直に言うと、こんな真冬でなく、4月以降にしたかったっんですが、そこまで都合良くはいきませんでした。

ただ、今シーズン一番の寒波だった、バレンタインデー前後は運良く外れて、セブ空港経由で夕暮れ関西国際空港に降り立ったのが2月18日。この日は「灰の水曜日」と呼ばれる、カトリックでは重要な日で、4月のイースター(復活祭)に向けての準備が始まるとされます。(移動祝日なので、毎年日付は違います)なので本当は、断食とか、それが無理でも3食中の2食は質素な献立が奨励されます。ところが私は、朝昼を空港でガッツリ。夕食は帰国直後に我慢できず、大好きな天下一品の豚骨ラーメンを炒飯セットで食べちゃいましたけど。神さまごめんなさい。

とまぁ、ここまで書いただけで、すでにバレてしまいましたが、フィリピン暮らしで最大の欲求不満要素の一つが食事。何もフィリピンの食べ物がマズいと言いたいのではなく、おそらくどんな国に住んでいようとも、慣れした親しんだ故郷の味から10年以上も遠ざかれば、日本人に限らずそうなるでしょう。

特に、最近はグルメ大国として世界中の旅行者たちにその名が知れ渡った日本食。何がすごいって、純和食だけでなく、日本風にアレンジした外国料理でも、そのオリジナルの国から来た人が驚くほど美味しいこと。最近のユーチューブで定番になってるのが、イタリア人にナポリタンとか、インド人にカレーとか。自国の料理とは別物と言いつつも、美味しい美味しいと食べてしまうんですよね。

そう言えば、まだ家内と日本に住んでた頃、梅田のホテルのレストランで「フィリピン料理フェア」なる催事があって、夫婦で出かけた時のこと。材料や基本的な調理方法は、間違いなくフィリピンのそれなんですが、おそらく日本のシェフが日本人の舌に合わせてアレンジしたんでしょうね。かなりのお値段だったこともあり、フィリピン人の家内が「フィリピンで食べるより美味しい」と太鼓判。

プロの料理人には遠く及ばないながら、この13年間、一応自分で日々の料理をこなしてきた私。当然実家でも、自分の食べる分は自分で用意。今回は数ヶ月の滞在予定なので、そうそう外食ばかりという訳にもいかないし。

ネグロスでの朝食は、判で押したようにトースト2枚に目玉焼きとハムだったのが、さすがの日本。納豆はあるし、卵は生食できる。フィリピンでは輸入食材で高かった味噌も梅干しも当たり前に売ってる。ついでに焼き魚や野菜の煮物なども、スーパーのお惣菜で安くに買える。これでは朝から、つい二品・三品とおかずを増やしてしまいます。まるで久しぶりの海外旅行でテンションが上がり、朝からホテルのビュッフェで料理を山盛りにしてしまう、アホな観光客みたいなことを、毎日やってます。ゲプ。

ということで、まずは食べる話から入ってしまった、今回の長期一時帰国。次回からは、その詳細について、日本のフィリピンを比較しながら、13年がかりで半ばフィリピン人化した視点で書いていきたいと思います。



2025年12月29日月曜日

いろいろあった2025年

 もう前回投稿から間が空くこと1ヶ月半。そろそろ月刊もおぼつかなくなってきた年末です。数年前ぐらいまでは、年末のこの時期になると「10大ニュース!」なんて、頑張って書いてたんですが、そこまでやる元気もないので、今回は、軽く今年2025年の振り返りをしてみますね。

何と言っても今年は、高齢両親の世話と向かいの家の騒音騒ぎに明け暮れた感じでした。まずは介護の話。今までも飛び飛びで数ヶ月面倒みて、一旦帰国してというパターンで、足掛け3年ぐらいの中で、1年間続けてというのは初めて。

まぁ介護とは言っても、私がやってるのは実質食事の用意ぐらいで、週2〜3回の母のシャワーの介助は家内がやってくれるし、掃除はメイドさんがいる。そして日々の細かい手助けは、まだ元気な父。ちなみに今年、両親とも89歳になりました。母まったくの寝たきりというわけではなく、手を引けばヨロヨロながらでも歩けるし、食事は家族用に私が作る普通の食事を摂ってます。さすがに昔に比べれば量は減りましたが。

また何度も書いたように、両親が住むのは、同じ敷地にある別棟の離れ。玄関から水回りまで完全独立の2LDKで、そもそも両親の介護を目的として6年前に建てたもの。できるだけ違和感のないようにと、日本にあった木造の実家と同じ間取りで鉄筋コンクリートにバージョンアップ。

これでしばらくは、安心して暮らせると思いきや、不意打ちのように台風が直撃したのが11月の初め。建物自体は頑丈に作ったので、特に被害もなかったものの、大変だったのが1週間以上も続いた停電でした。発電機があるので何とか凌いだものの、パワー不足でエアコンと温水シャワーは使えず、就寝時はオフにせざるを得ないので、その間は真っ暗。私と家内、息子だけなら大丈夫でも、高齢両親に夜は扇風機もなしは、かなり厳しい。当人から苦情が出たわけではないけれど、こっちの精神的プレッシャーが大きかった。

そして、半年に及ぶリノベ工事が終わって、ドリルやグラインダーの轟音はなくなった向かいの新しい隣人。相変わらず大音量の音楽が鳴り響くこともあるけれど、1ヶ月に数回程度。これは、大音量音楽を禁じた宅地のルールに従って、守衛さんを通じて苦情を入れたら静かになるので、耐えられないような状況ではありません。あとは半年に一度ぐらい、親戚一同を集めての大パーティがありますが、これは幸いにも昼間限定のようです。

この件も、何度も投稿しましたが、「フィリピンはそんなものだ」と、訳知り顔にコメント書き込んだ読者さんがいました。私もそんなことは百も承知で、騒音が禁止されているはずの、サブディビジョン(フェンスで囲まれた守衛付きの分譲住宅地)の土地を買ったんですよ。どうやらその方「俺はフィリピンのあちこちに住んで、フィリピンのことは誰よりも知ってるぜ」とわざわざ住んだ場所を列記して、マウントを取りたかっただけらしい。反論するのもアホらしいので、そっとブロックをさせていただきました。

実際、この家を建てて12年。いろいろ騒音トラブルはあったものの、ここまで苦情ガン無視のご近所さんは初めてでした。

それ以外では、日本で働きたいフィリピン人向けの日本語教師の仕事に、数ヶ月だけ就いてポシャった件。当初はバコロド市内に学校を建てて、生徒さんを何十人も集めるから、手伝ってほしいとのこと。給料はフィリピンの地方都市のサラリーとしては破格のオファー。大喜びで引き受けたのが昨年(2024年)の暮れ。ところが待てど暮らせど仕事は始まらないし、やっと始まったと思ったら、オンラインのみで生徒さんは一人だけ。

結局、給料は当初の1/4で、負担に対してまったく割の合わない金額になってしいました。相手が一人でも準備にはそれなりの労力は必要だし、生徒さんのモチベーションが低すぎて、欠席が多過ぎ。しかも経営者のフィリピン女性は、何のマネージメントもしてくれずに放置状態で、これは辞めざるを得ませんでした。

こうやって思い出すと、ネガティブな話ばかりですなぁ。

唯一嬉しかったのは、息子が意中の大学に入学できたこと。私大なので学費は掛かりますが、日本に比べたら何百分の一というレベル。フィリピン移住時に小一だったので、やっと一つ肩の荷が下りた感じです。

こんな「何とか乗り切った」感が半端ない年の瀬で、両親は年が明けて2月初旬に一時帰国の予定です。実はそれに合わせて、私も一旦日本に戻ろうかを思案中なんですよ。それも数週間とかのレベルではなく、年単位の長期帰国。13年も住んだフィリピンに、少々疲れたというのが正直なところ。親の介護も、食事だけなら日本の実家で同居しても何とかなりそうだし、訪問入浴介護もあります。そして何かあった時の医療がレベル違いの手厚さ。

そんなことは最初から分かってただろと言われそうですが、やっぱりある程度実体験を積んでみて、初めて見えてくることもあるものです。特に親の介護なんて、それぞれの家庭状況や高齢者の状態によって千差万別でしょうから。

ということで、帰国に関しては近々に決断するつもりですので、本決まりになりましたら、またこのブログで報告しますね。それでは、どちら様も、良いお年をお迎えくださいませ。


2025年11月12日水曜日

停電1週間超 台風ティノの後遺症

 先週の火曜日(2025年11月4日)25号台風ティノがネグロス島を直撃して、もう八日が過ぎました。ちょっと驚く事に、私たちの住む宅地は、まだ電力が復旧してません。同じネグロス電力管内のバコロド市やシライ市でも、早い所では翌日の夜には電気が戻り、2〜3日後には、幹線道路沿いの主要部分で元通り。

ところが厄介なのは、中心部からやや離れた地区や、我が家のある宅地のような、世帯数がそれほど多くないサブディビジョン。同時多発的に電柱が倒れたり、大きな倒木のせいで電線が切れたり。電力会社の修理スタッフや交換部品のストックなどのリソースは限られているので、どうしても修理の優先順位は低くなってしまいます。

その上さらに面倒なことに、我が家の直接の停電原因は、この近辺でも一際大きな樹木が根こそぎになって、コンクリート製の電柱2本を巻き添えにぶっ倒しちゃったこと。まず、この馬鹿デカい倒木を小さく切って、修理用の車両が入れるようにしなければなりません。

その間、頼りになるのが、家庭用の発電機。今年の1月に、母屋とゲストハウスに2台の発電機を新調しておいて、本当に良かった。音は静かだし、電子レンジや炊飯器程度なら問題なく使用可。一台がガソリン満タンで10リッター入って、12時間稼働。なので、だいたい起きてる間は、ほぼ普通に電気が使えます。

ただし、1日20リッターのガソリン代は決して安くなく、毎日1,200〜1,300ペソ(約3,200円)がぶっ飛ぶ勘定。数日で通常の1ヶ月の電気代を超えてしまいます。そんなに払っても、温水シャワーやエアコンは、電力オーバーで使えないので、何日もとなると後期高齢者の両親がいる我が家では、なかなか厳しいものがあります。

そして被災後6日後の月曜日、やっと倒木の処理が完了しました。これについては電力会社ではなく、警察が緊急対応したようで、「PULISYA(警察)」と印刷されたTシャツを着た警官たちが、チェーソーをブイブイさせながら、作業してくれてました。

本格的な修理が始まったのは、さらにその翌日の月曜日。ちょうど1週間目に、ようやく待望の新しい電柱や部品を積んだトラックと、何人ものネグロス電力のスタッフが到着。昼過ぎから始まった作業は夕刻には終了。電柱に隣接する世帯では、電気が戻ったとの歓声が上がり、さて次は我が家の番だと思ったんですが、これが待てど暮らせど電気は戻らず。すでに修理は終わって、誰もいなくなってます。


実は、ちょうど我が家への送電ができるようになったのと、ほぼ同じタイミングで、シライ全市の広域停電が発生していたとのこと。まったく「何じゃそりゃ〜」です。そこから、さらに待つこと3時間。夕食が終わって、すっかり暗くなってから、今度こそ本当に、電力会社からの送電が復旧しました。ここまでざっと1週間と半日。

その晩は、久々にエアコンつけて夜更かし三昧。発電機を停めちゃうので、毎晩10時には消灯してたんですよね。さらに息子と二人で夜食のラーメンまで食べて、心安らかに眠りについて、翌朝は爽やかな起床...のはずが、朝になったら、また停電しとる。「何じゃそりゃ〜」

今回のは広域停電でもないし、昨日の修理に何らかの不備があったのか、我が家の周囲数軒のみの停電。当然、ネグロス電力のホームページにも情報は無し。仕方がないので、家内に頼んで通報してもらい、またぞろガソリンの追加購入で、朝のルーティーンの発電機への給油。あ〜あ、元の木阿弥とは、まさにこれ。

ということで、今も発電機の電力を頼りにネットに接続して、この文章を書いている次第。一体いつになったら、完全復旧するのやら。こういうのが精神的に一番堪えますねぇ。


【後記】この投稿をした直後に、まるで「どっかで読んでたんか?」みたいなタイミングで、電気が戻りました。ただ、大喜びでSNSに書いたりすると、またシレっと停められそうなので、淡々とご飯の用意したり買い物いったり。念の為に発電機は2台とも満タンにしておきました。それから10時間ほど経って、久しぶりに熱いシャワーも浴びて。どうやら、今度こそ大丈夫なようですねぇ。やれやれ...。


2025年11月5日水曜日

ネグロス直撃 25号台風ティノ

 前回の投稿が地震で、今回が台風。もう勘弁してくれよって感じです。地震はともかく、昔から台風被害の多いフィリピンなので、最近、中規模程度以下の台風に関しては、ブログで取り上げてませんでした。

ところが今回のTino(ティノ)は別格。いわゆる「スーパー台風」ではなかったんですが、問題は進路。フィリピン中部のビサヤ地方の心臓部を東西に横断した格好で、大都市のセブだけでなく、パナイ島の州都イロイロ、そして私たち家族の住むシライと隣街の州都バコロドを直撃。久しぶりに、台風の目に入って吹き荒れてた風雨が一瞬静まる、というのを経験しました。

11月3日の月曜日、日本では文化の日の祝日に「これはシライ直撃だ」とビビっていたら、瞬く間に接近して、翌日の火曜日の朝から強風と豪雨。ひとたまりもなくネグロス電力管内、つまりネグロス島の東半分が停電し、午後には台風が上陸するという電撃パンチ。ただ動きが早かったので、暗くなる前に風雨が収まってくれたので、一部道路が冠水していたものの、何とか発電機用のガソリン20リッターを買いに行くことができました。

本当なら前日には分かっていたんだから、買い置きしておけって話なんですが、完全に舐めてました。それとつい1週間前に12時間の計画停電があったばかりなので、在庫が払底してたってのもあります。

それでもまだ、翌日には電気は戻るだろうとタカを括っていたところ、ガソリンスタンドまでの道のりで、被害の大きさを目の当たりにしました。いたるところで街路樹が根こそぎになり、それに引っかかる形で、電柱は倒れるはケーブルは垂れ下がるは。確かに風が強いとは思ってたものの、見える範囲の自宅の周囲では、そこまでのエラいことにはなってません。しかも、当てにしてたガソリンスタンドが軒並み閉まってて、やっと営業してるスタンドを見つけたのが5件目。事ここに至って、ようやく事態の深刻さを認識した次第。

ネグロスでも相当な被害だったんですが、セブでは車が流されるほどの洪水だったらしい。前回の地震でもセブ島北部は大被害だったので、つい日本の能登半島の惨状を思い出してしまいました。ちょっと前まで、セブは自然災害が少ないって、言われてたはずなんですけどねぇ。

そして迎えた、台風一過の今朝(11月5日)。本来この日は「シンコ・デ・ノビェンブレ」のネグロスの祝日。1898年、フィリピン全土に先立って単独でスペインを追い払い、ネグロス共和国を樹立したという記念日。なので元々、学校も職場も休み。台風当日は休みだったメイドさんも出勤してくれて、家族で後片付けの1日となりました。

私はの分担はというと、いつものように食事担当に加えて、発電機の運用。どう楽観的に考えても、電力の復旧まで数日はかかりそうなので、まずはメイドさんにお願いして、追加のガソリン購入。これがなかなか帰ってこない。案の定、どこも発電機の燃料用にと、長蛇の列ができてたそうです。幸いにもATMは開いてたので、当面のガソリンと食料には困らない程度の現金はゲット。

とは言え、お金があっても品薄でガソリンを買えなくなる可能性もあるので、3時間稼働して2時間止めるという時間限定で様子を見る事にしました。台風が過ぎて暑くなってきたので、高齢の母にはかわいそうなんですが、扇風機無しで2時間我慢してもらうしかありません。ちなみに家庭用の発電機なので、エアコンやシャワー用のヒーターも使用不可。不便なことです。仕方がないので、解凍した豚肉や封を切っていたベーコン、スパムの類を一気に料理して、今夜は、時ならぬ「お肉祭り」の夕食になりました。

ということで、このブログを執筆中もまだ電気は戻っておらず、もう停電が36時間を超えました。こっちでは停電のことを「ブラウン・アウト」と言って、発電力不足による計画停電やってた時代の呼称が残ってますが、今回のは正真正銘の「ブラック・アウト」。それでも、一部では前日の深夜に復旧してた場所もあるそうなので、何とか明日中には...と思っております。

2025年10月20日月曜日

自然災害大国フィリピン

 前回は...と言っても三週間ぐらい経っちゃいましたが、私が住んでいるネグロス島の東隣りのセブであった地震の話を投稿しました。マグニチュード6.9で、震源近くのボゴ市では震度6弱の揺れがあったそうです。日本に比べると貧弱な建築施工が一般的なフィリピンなので、あちこちで建物が倒壊し、70名を超える死者が出てしまいました。大規模な地震では付き物の余震も頻発。ここネグロスでもベッドに横になって時など、僅かながら揺れを感じたりしました。

そして翌週の10月10日の朝。またセブの余震かなと思ったら、今度はミンダナオ島西の海底を震源とした、マグニチュード7.4の大地震。しかも同じ日の夜に、本震と同じぐらいの規模の余震が発生しました。ただでさえ地震慣れしてないフィリピンの人々なので、さぞや恐ろしかったでしょうね。その後、ネットに大量投稿された地震発生時の防犯カメラ映像などを見ると、日本人でもパニックになりそうな揺れ。おそらくこちらも、震度6ぐらいはありそうでした。

日本ほど地震情報が頻繁に出ないフィリピンですが、唯一速報に近いレベルで発信しているのが、PHIVOLCS(フィリピン火山地震研究所)。実は以前、ツイッターでフォローしたら、沖合が震源で陸地では無感の地震まで投稿するので、タイムラインが地震情報だらけ。鬱陶しくなってフォローをやめてたのを、セブの地震の後は、余震チェックのために再開。つまり、日本ほど毎年のように大きな被害は出なくても、フィリピンは決して侮れない地震頻発国なんですよね。

さて、それ以降は、ネット上での日本語情報としてはほぼ発信がないけれど、今月に入ってからネグロスの西隣にあるギマラス島で、最大マグニチュード4程度の地震が頻発。さらに、昨年(2024年)6月に大規模噴火した、ネグロスの主峰カンラオン火山の活動が、再び激しくなっています。先週の深夜にも火山性の地震があって、夜中に目が覚めてしまいました。

これはまったくの素人の想像なんですが、ビサヤ諸島からミンダナオにかけての、比較的狭い範囲で地震や火山噴火が頻発しているのは、やっぱり何らかの関係があるんでしょうか。

ところがそれだけに止まらないのが、日本と同様の自然災害大国フィリピン。まるで地震とタイミングを合わせたように、9月から10月にかけて、ナンド(Nando)、オポン(Opong)、パオロ(Paolo)、ラミル(Ramil)と立て続けに台風が襲来。そのすべてがビサヤ諸島の西を通ってルソンに向かうパターンで、ネグロス島を直撃はしないものの、毎回、大雨に見舞われています。

特にラミル(台風24号)は、まだネグロスからかなり離れている時期から、ここ西ネグロスに豪雨をもたらし、州都バコロドでは主要な道路が冠水。息子が通うバコロド市内のラサール大学も、ほぼ1週間のオンライン授業となったほど。毎年10月にバコロドで行われるマスカラ・フェスティバルのパレード当日も朝から大雨でした。(それでも延期や中止にならないのが、お祭り命のフィリピン人。)

ちなみに最近、フィリピンの政治家による1兆ペソ(約2兆6千億円)もの洪水対策予算の横領という、信じられないような汚職事件が明るみに出て、下手するとまた革命が起こるんじゃないかというぐらい不穏な情勢になってます。その直後の洪水なので、税金をマトモに使っていれば、もう少し被害もマシになってたんじゃないかとの話も。

とは言え地震と火山噴火に関しては、本格的にキツいのが起こったら、ちょっとやそっとの対策を打っても、どうしようもありません。日本同様の自然災害大国に住んでいる者の宿命ですね。



2025年10月5日日曜日

年度末のセブ北部大地震

 今年度(2025年)もまさに最終日、あと数時間で日付が変わるという9月30日の夜、セブ島最北端に近い海底を震源に、マグニチュード6.9の大地震が発生しました。この6.9という数字、2011年の東日本大震災の9.0という、史上最強レベルの強さに比べれば、大したことないと思われるかも知れませんが、1995年の阪神淡路大震災の本震がマグニチュード7.3でしたから、決して侮れない規模。

地震があった時間は、私は2階の書斎でパソコンに向かっていて「お、久しぶりにちょっと強いのが来た。」という受け止め。震度3かひょっとしたら4ぐらいはありそう...。これ以上強くなったら、デスクの下に隠れようかと考えているうちに、揺れは収まりました。ドーンという揺れではなく、比較的周期の長いユッサユッサという感じだったので、震源はネグロス島内ではなく、ちょっと遠くでかなり強い地震があったか?

ちなみに私は阪神淡路大震災の時、比較的震源に近い兵庫県尼崎市の実家にいました。おそらく震度6以上はあったろうと思われる揺れ。まさしく「ドーン」と来ました。家具はほぼすべて倒れ、ガラスや陶器の食器類は大半が割れる被害。ただ新築直後の鉄骨3階建ての自宅は倒壊を免れ、火災もなく、私も家族もかすり傷程度で済んだのは本当に幸運でした。

そういう経験があるおかげで、今回の地震もパニックになることなく、そこそこ冷静に対処できましたが、地震慣れしていないフィリピン人の家内はそうはいきません。完全に動転して家から飛び出し、私が呼びに行った時は、停電の暗闇の中、庭の隅っこで震えていました。

すぐに発電機を始動して、ネットで情報収集したところ、震源は私たちが住むネグロス島シライ市からは、ざっと100キロ以上はなれた隣島セブの北部。震源に近いボゴという街では相当な被害が出たようで、後になって流れてきたニュースによると70名以上の犠牲者が出たとのこと。

ここまでの震災は、私たちが移住した年、2013年のセブ島の隣、ボホールで発生したマグニチュード7.2の地震以来。この時シライ市内では、今回よりやや弱めの揺れを感じましたが、当時のメイドさんは同じように真っ青になって家の外に飛んで逃げてました。

ところで、今回の地震に伴うネグロス島での停電。地震で設備が破損したりということではなく、ビサヤ地方の広域をカバーしているナショナル・グリッド(電力会社)が、緊急事態で送電を止めたのが原因。約2時間ほどの点検の後、電力が復旧しました。

さて、フェイスブックやユーチューブでは、地震発生直後から続々と被害を伝える動画が投稿。西ネグロスの州都バコロドでは、建物の倒壊を恐れて多くの人たちが路上に溢れいる姿。家内とまったく同じ行動なんですが、これは笑い事ではなく、フィリピンの建築物って、厳しい耐震基準を満たした日本のそれに比べとても脆弱。そりゃびっくりして外に飛び出すのも分かります。実際、2013年の地震でも、多くの建物が倒壊しましたから。

また今回の地震は、観光地として名前の通ったセブということで、日本でもかなり早い段階で報道されたらしく、日本の私の友人からも安否確認の連絡があったほど。ただ、大都市であるセブ市とその周辺は、シライと同じく震源から遠かったので、揺れたとはいっても被害はほぼありませんでした。しかしながら、土地勘のない海外の災害への反応の常として、あたかもセブ全島が大被害だったかのように、勘違いした人も多かったようです。「島」と言っても四国の1/3ぐらいあるんですけどね。



2025年9月17日水曜日

言語ドッキリ

 ここ最近、ユーチューブでよく見るのがKazu Languagesというチャンネル。これは、10カ国以上の言語をネイティブ並みに喋る日本人、カズマさんという20代の若者が主催。OmeTV(オメTV)なる、初対面同士がビデオ通話を楽しむアプリで、いろんな国の人たちの母語を喋って「言語ドッキリ」を仕掛ける趣向。

このカズマさんが、なかなか今風のイケメンで、主に若い女性たち(10代から20代)を驚かせるのが面白くて、ほとんど同じパターンの繰り返しながら、飽きずに何時間も見てしまいます。

10カ国以上と書きましたが、日々新しい言語に挑戦されているそうで、13とか16とか徐々に増えてくる。別チャンネルのインタビューでは、びっくりネタに使える程度の、挨拶プラスαまで含めたら、何十カ国にも及ぶとのことで、これはとんでもない才能の人が現れたものだと感心しております。ちなみに、三つ以上の言語を操る人のことを、ポリグロット(polyglot)と呼ぶそうです。

何がすごいって、勉強始めて数ヶ月とか半年で、ネイティブに褒められるほど(リップサービスがあるとは言え)の発音の確かさと、いきなりスラングで振られても、ちゃんと聞き取って気の利いた返しができてるところ。それも英仏独などのヨーロッパ系のメジャーな言語だけでなく、中国語(マンダリン)、韓国語、インドネシア語、アラビア語などのアジア系、さらには、アフリカの少数言語など、そんな言葉があったのかというレベルの言語までカバー。ちなみにフィリピンの公用語であるタガログ語も、かなりできるらしい。

立場を逆にすれば、中央アジアかどこかの、かろうじて国名を知ってるぐらいの国で、日本に来たこともない若者が、突如、流暢な関西弁を喋り出したようなもの。何しろ標準ドイツ語に加えてスイスのドイツ語やら、エジプトのアラビア語とか、方言まで熟知してます。

ここから急に話のレベルが落ちてしまって恐縮ですが、一応私も三つの言葉を喋るので、ポリグロットと言えなくもない。母語の日本語に加えて、英語と、今住んでるフィリピン・ネグロス島の方言イロンゴ語(別名ヒリガイノン語)。日本語以外は、ちょっと怪しいながら、日常会話には困らない程度には喋れます。

なので、初対面のネグロスの人に、英語からいきなりイロンゴ語にスイッチして驚かせたり笑わせたりする「言語ドッキリ」の醍醐味は経験済み。特に箸がコケても面白い年代の若い女性が相手だと、転げ回るほど笑われたりします。まぁ私の発音が面白いってのも、多分にあるんでしょうけど。

それにしても一般的な日本人の外国語音痴ぶりって、私が子供の頃から言われてました。原因は間違いなく受験英語として言葉を教えるスタイルの旧態依然ぶり。このブログでも何度書いた通り、小学校1年から、ネイティブの教師に会話中心で教えてもらったら、あっという間に新時代到来なんですけどねぇ。

ところがカズマさんの動画を見ていて思うのは、動画系のSNSやアプリの登場で、言語学習の分野で革命が起こっているということ。ただの独学ではなく、初心者でも対象言語のネイティブ話者と、実地で会話練習ができちゃうんですから。カズマさんは桁外れの天才だとしても、彼のやり方は凡人が真似しても得るところが多い。

現代のネット社会では、別に10言語を目指さなくても、そこそこ社交的で変な羞恥心を捨てられる人なら、一つや二つの外国語は、それほど無理しなくても習得できる環境が整っている。さらにすごいのがAIの進化・普及に伴ったネット上の自動翻訳。英語のような超メジャー言語だけでなく、最近はイロンゴ語の充実ぶりが凄まじい。早速、私のイロンゴ学習で活用しまくりで、イロンゴの家庭教師が驚くほどのレベルに達しています。

もう5年ぐらい前から、毎週イロンゴで日記というか週報みたいなA4一枚の宿題を書いて、先生に添削してもらってます。自動翻訳を使う前から、まず英語で書いてイロンゴに翻訳するスタイル。これは言語間の相性の問題で、同じヨーロッパ系のスペイン語からの借用語が多いせいか、日本語に比べると英語で1対1直訳できる単語が多いんですよ。

このやり方はグーグル翻訳でも有効で、出てきたイロンゴ文を読んだ先生が「誰かに代筆してもらった?」と疑うほど。まぁ代筆には違いないんですけど。

ということで、私が20代ぐらいの頃にこの環境があったら、カズマさん並みは全然無理でも、今喋れる3言語に加えて、タガログ語とスペイン語ぐらいはモノに出来てたかもしれません。若い人が羨ましい限りです。



2025年9月16日火曜日

88歳の母 驚異の回復

 前回の投稿で、フィリピンの我が家で介護中の88歳の母が、とうとうオムツ着用になってしまったという話をしましたが、驚いたことにその母が、赤ちゃん状態から戻ってきました。

一時期、施設に入所していた時に、要介護3になってオムツ付けていました。そこから自力排泄できるようになって、フィリピンに渡航できるまでに回復した実績はあったんです。とは言え、あれからもう数年が経ち、確実に老化は進行している母。正直もう最後までオムツは手放せないかと、諦めておりました。

私自身を含めた一般的な感覚として、中高年から老年期にかけて、若い頃できていたことが徐々できなくなった場合、大抵はもう元には戻らないもの。例えば長時間のスポーツとか、途中覚醒なしに8時間以上眠ったりとか。あるいはかつて食べていた量を食べたら、ひどく胃もたれしたり。

記憶力や認知力も同じですね。衰えの速度をがんばって鈍化させられても、残念ながら不可逆的に、できることが減っていってしまう。なので、母の場合も同じで、しかも一度回復したからと言っても、二度三度は無理だろうなと考えた次第。

ところが、元々母がそういう体質だったのか、それとも今のフィリピン・ネグロス暮らしが良い影響を与えたのか、ここ1週間ほどは大人用オムツとも縁が切れてます。私がホッとした以上に、これが分かった時の家内の喜びよう。メイドのグレイスと共に、直接介護をしてくれている家内なので、嬉しさもひとしお。

さて、その老人には良さそうなネグロス島の我が家での暮らし。具体的にどこが良いのか考えてみました。まずは、暑過ぎず寒さもない気候。これを書いているのは9月なんですが、日本はまだ「危険な暑さ」なんて予報が出てます。今回の父母の滞在は、3月からで、4〜5月の乾季は例年並みの暑さでした。それでも、大阪の狂ったような酷暑に比べれば「昔の日本の夏」レベル。緑の少ないマニラ首都圏などに比べても、避暑地と言ってもいいぐらいの涼しさ。7〜8月は雨季なので、日によっては扇風機さえ要らない天気。

次に考えられるのは、父母のために一戸建ての離れを用意したこと。これは介護する側にも大きいポイントで、相互のプライバシーを保てるし、耳が遠くなってテレビを大音量で付けっぱなしでも大丈夫。当事者の父母もかなり気楽だろうと思います。

そしてこれが一番大事だろうと思うのが、毎日の食事。若い頃から食べるのが大好きな母で、風邪ひいて多少熱があろうとも、食欲だけは衰えたことがない。60代の頃に骨折で入院して、退院祝いにと餃子の王将に連れていったら、下痢をするほど食べ過ぎたという人。さすがに今はそれ相応の食事量ながら、キッチリ三度食べてデザートのパパイヤやドラゴン・フルーツも完食。

誠に手前味噌で恐縮ながら、何より、私が食事担当なのは大きい。移住後10年ですっかり食事担当主夫が板につきました。フィリピンに移住して食べ物に慣れずに困っているという話を時々聞きますが、これは自炊すれば無問題。なぜなら、野菜・魚・肉などなど、たいていの食材は日本と同じか近いものが手に入るし、キッコーマンの醤油も味の素も、キューピーのマヨネーズだってあります。

そもそも母の手料理で、育ててもらった私なので、味付けや献立は母譲り。料理を教えてもらったことはないけれど、自然とそうなってしまう。おかげで、毎食「おいしい、おいしい」と食べてもらえてます。考えてみたら、食事自体もさることながら、夕食時には孫の顔をみられるのも、楽しみの一つなんでしょうね。

ということで、何とか元の生活に戻って、住み込み介護士を雇う話もペンディング。この調子で、最後の瞬間まで今と同じぐらいの元気さで、生き切ってもらいたいものです。


2025年9月11日木曜日

おむつの衝撃

 とうとうこの状況が来てしまいました。後期高齢者の母が半分寝たきりになって、かれこれ5年。私のフィリピン・ネグロス島の自宅に、父と一緒に引き取って世話をし始めてからでも足掛け3年になって、母がおむつの常時着用状態に。

きっかけは先月、母が下痢になってベッドで便を漏らしてしまい、自力でトイレに行けないことが発覚。もう来年90歳になろうという人なので、仕方ないと言えば仕方ないけれど、自分を産み育ててくれた母が、ここまで弱ってしまうのを目の当たりにすると、やっぱり衝撃を受けるもの。

ところが、義理の娘である家内と、介護の訓練を受けてきたメイドのグレイスの対応は見事でした。すぐ近所のスーパーで大人用おむつを購入し、嫌な顔もせずにテキパキと処理。まぁ、この状況を見越して父母専用の一戸建ての離れを建てて、介護の経験がある人を雇ったわけなので、想定内ではありました。

さらに年寄りや病人には手厚いと言われるフィリピンの国民性。まだ日本に住んでいた20年ほど前、ゴルフ場で骨折して入院した母のために、毎日病院に通って入浴の介助をした家内の行いは、それを身をもって証明したような出来事でした。なので、この二人には本当に感謝しつつも、ある意味、手筈通りに事が進んでいるとも言えます。

お陰さまで、母の下痢は数日で快癒。一時は家内ともども、デング熱のような厄介な病気だったらどうしようと心配しましたが、比較的早くに食欲が戻ったので、入院についてはせずに済みました。やれやれ。

それでも完全に元には戻らず、おむつは手放せないまま。実は一旦は要介護3で、日本の老人ホームに入っていた母。そこではおむつ着用だったそうなんですが、ケアマネージャーさんも驚く奇跡の回復で、なんとか飛行機に乗れるまでになり、今に至っています。それを考えると、また自力で下の世話をできる状況になるかも知れません。

下痢で寝込んでいる時は、まったく目の焦点も定まらず、完全に「寝たきり老人」だったのが、以前と同じく食事時には、父に支えられながらも、ちゃんと歩いてダイニングまで来て、健常者と同じメニュー(つまり私が用意する家族用の食事)を普通に食べてます。つい先週には、グレイスに散髪してもらって小ざっぱり。表情もしっかりしてきて、もう「呆けた顔」ではありません。

ただ問題は、おむつ必須だと日本への一時帰国は難しくなること。当初の予定では、半年に一回程度は帰国して、医師による健診や薬の処方などと考えてましたが、場合によっては、まだ頭も足腰もしっかりしている父のみ帰国、という選択肢も考えざるを得ません。そうなると、今は通いのグレイスだけではなく、住み込みの介護士を雇う必要もあります。(ちなみにネグロス島での介護士を雇う費用は、高くても月5万円ぐらい)

最近フィリピンでは、観光ビザのルールが変わって、手続きさえすれば3年は延長できるので、まだしばらくは大丈夫。また日本での介護に比べれば、はるかに恵まれている状況なんですが、それでも親が死ぬのを待っているような感じで、気分的は暗くなりがちですね。

ということで、私と同世代の50〜60代の方々には他人事ではない話題なので、この件に関しては、今後も投稿を続けたいと思います。


2025年8月15日金曜日

敗戦80年に想う

 「敗戦80年に想う」と題したものの、私はまだ還暦を過ぎて数年なので、当然、先の大戦は経験しておらず、両親や祖父母、親戚や学校の先生から話を聞いただけの者です。それでも、物心つくかどうかの幼少期から、繰り返し聞かされた戦中・戦後の悲惨な体験。それに加えて、映像や書物、さらにはマンガなどで、トラウマになるほど心に刷り込まれているので、やはり八月十五日には、いろんなことを考えてしまいます。特に太平洋戦争での最大の激戦地の一つだった、フィリピンに住んでいれば、尚更です。

ちなみに私の両親は、敗戦時に8歳と9歳。母は大阪から親戚の住む長野県に疎開していたので、直接の空襲被害は受けなかったものの、父は大阪大空襲を間近に見ています。今に至るまで、当時のことはまったく話しませんが。

幸いにも、祖父母も叔父や叔母にも、戦死したり空襲で亡くなった人はいないものの、誰に聞いても食糧難は本当にたいへんだったとのこと。確かに、小学生ぐらいで満足に食べ物を口にできないって、その後の人格形成にも影響が出たと思います。この世代の人たちって、サツマイモやカボチャは、子供の頃に一生分食べたから、もう見たくもないって言いますからね。

さて、今年は80年目という節目なので、ネットで眺めているだけでも、実にいろんな記事や言説が流れてきます。さらに、ウクライナやガザでの終わりの見えない殺戮が続き、一つ間違えば核兵器が実戦で使われるかも知れません。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、昨年(2024年)のノーベル平和賞を受賞したのも、その可能性のヤバさが理由なのは、まず間違いないところ。

ここで唐突ですが、「ダウンフォール作戦」ってご存知でしょうか?訳すれば「破滅」の意味にもなる物騒な名称ですが、これは、1945年から46年(昭和20〜21年)にかけて、アメリカ軍が計画していた、日本本土への上陸作戦。まず45年11月に九州南部に上陸領(オリンピック作戦)し、そこを根拠地としてさらに翌年に、関東平野一円を占領(コロネット作戦)する予定でした。

この作戦は、原爆使用やソビエト連邦の参戦などがあり、日本政府がポツダム宣言(無条件降伏勧告)を受け入れて実施されなかったんですが、もしこれが現実になっていたら、私は生まれていなかったかも知れないし、その後の歴史もまったく違っていたでしょう。何しろ推定の日本側の死者が500万から1,000万(民間人含む・諸説あり)で、当時の総人口の7〜15%がいなくなる計算でした。

そしてここからがポイント。こういう話は日本人としては想像するのも苦痛だし、大戦末期の日米の圧倒的な戦力差からすると、巨人が虫けらを踏み潰すようなイメージなんですが、アメリカ軍の責任者や為政者の立場で考えたら、決してそんな簡単な話ではなかった。

例えばサイパンや硫黄島も沖縄も、その上陸と占領には、当初のアメリカの見込みよりはるかに長い期間を要し、多くの死傷者を出しています。もちろん日本側の被害に比べれば、ずいぶん少ないものの、沖縄だけで1万人以上の兵員が失われてますから、これが日本の本土となったら、大雑把に見積もっても、その何十倍の損耗は覚悟したでしょう。また、特攻や民間人まで動員した、相手からすれば狂信的としか思えない日本の戦い方を目の当たりにして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する兵士も多かった。

実際には大雑把どころか、アメリカらしく事前に綿密な調査と研究が行われ、戦力分析だけでなく、予定戦場の地質まで調べたそうです。そして導き出された米軍の被害予測が、少なくとも戦死者25万人。場合によっては100万という見方もありました。史上最大の上陸戦と評されたノルマンディさえ比較にならぬ数字に、当時のアメリカ大統領トルーマンがビビったのも無理からぬ話。

「私は生まれなかったかも」と書きましたが、これはアメリカ側でも同じように考えた人も多く、もし戦争が長引いていれば、父は戦死して復員せず、その子供である私は存在しなかっただろうと。

こういう背景を知ると、後にアメリカ人が核使用を正当化する際の「原爆は、何万人ものアメリカ兵の命を救った」という常套句も、必ずしも詭弁や言い逃れとは、思えなくなってきます。念の為に書きますが、だから広島や長崎の犠牲は仕方なかった、など言ってるのではないですよ。民間人への無差別爆撃は、当時であっても明白な戦争犯罪だし、とても許される行為ではありません。

私が問題だと思うのは、こういった事実や数字が日本の学校で、まったく教えられていないこと。被害者として、戦争がいかに悲惨で、繰り返してはいけないというのは、私の世代は、嫌というほど教わりました。しかし、なぜ当時の為政者が戦争を始めたか、その背景や経緯はどうだったか、などなど、感情に訴えるだけでなく、歴史的にどうだったかの視点がなさ過ぎる。これでは、現実にどうすれば戦争をしなくて済むのか、その具体的な行動指針も考えられない。

実は私がまだ大学生だった頃に「昭和16年夏の敗戦」という、その後都知事になった猪瀬直樹さんの著書を読みました。それによると真珠湾攻撃の半年前に、対米戦争やっても勝ち目はないとの分析結果が、当時の内閣直轄の組織だった、総力戦研究所で出てたんですよね。それも、ほぼ史実を予言するような形で。

にもかかわらず、その結果を無視して全面戦争をやってしまい、もっと悪いことに、国が滅びるかというほどの負け方をしてもなお、冷静に知的に、その教訓から学ぼうとしないのはなぜなのか? 私たちが受けた平和教育が無駄だとは思いませんが、それと並行して、当時の世界情勢や日本の軍事力の実態、日本政府や軍部の指導力、帝国憲法の問題点など、冷徹な乾いた目で見定めて、少なくとも高校できちんと教えるべきじゃないでしょうか?

ところが、軍事について語ろうとしただけで感情的になって、軍国主義だの右翼だのレッテルを貼られてしまうのが戦後教育の現実。挙げ句の果てが、「あの戦争は軍部の暴走」という一種の思考停止で片付けて、それ以上考えることもしなくなる。これは憲法9条についても同じで、問題点を論じるどころか、その話題に触れることすらタブー。

その結果、戦略的にまったく割の合わない特攻や集団自決を、美辞麗句で飾り立てるような人が、政治家の中からさえ出たりします。それに異を唱えると「お前はそれでも日本人か?」ですからね。特に今回の参議院選で、参政党から候補者の発信には、目を覆いたくなるものがありました。

ということで、書いているうちに熱くなってしまい、ずいぶんな量になってしまいました。その上、フィリピンやネグロスのことからも離れちゃったし。これは、猛烈な反発があるかも知れません。でもこの件については、昔からずっと考えてきたし、これからも考え続けるんだろうと思ってます。



2025年8月13日水曜日

日本語教師を辞めた顛末

 今年(2025年)5月に、満を辞して始めたオンラインの日本語教師の仕事が、3ヶ月保たずにパーになってしまいました。実は、このブログが1ヶ月以上も間が空いてしまったのも、それが原因。

理由は一つだけではないんですが、まず一番大きかったのが、マネージメントが雑すぎること。元々この仕事は、フィリピン・バコロド(西ネグロスの州都)生まれで、現在日本在住の50代のフィリピン女性Dさんからのオファー。前々回の投稿でも書いた通り、同じく日本に住んで仕事をしている、あるフィリピン人からDさんへの依頼で、姪っ子に日本で仕事を手伝ってもらいたいから、日本語を教えてほしいとのこと。これは日本語教育だけでなく、来日のためのビザ取得の代行業務の一環です。

当初の計画では、今年の1月からバコロド市内に日本語学校をオープンして、約20名ぐらいの生徒の先生をするはずだったのが、ほとんど説明もなくズルズルとなし崩し的に延期。結局、しばらく学校は無理だからオンラインで一人だけ、給料は1/4で、となったのが5月の半ば。

まぁ、こちらは教職の経験がないので、実務研修を兼ねてと思って引き受けたものの、これが実に難儀な仕事。というのは、生徒さんがいつ日本に渡航して、どんな仕事をする予定で、いつまでにどの程度の日本語レベルが必要かといった、基本的な情報が全然なし。仕方がないので、こちらから根掘り葉掘り質問しなければなりません。

ところが、Dさんから訊いた話と、生徒さんの言う内容が食い違う。Dさんからは、8月末、つまり3ヶ月で150時間の授業を終えたいとの要望が、生徒さんはドタキャンの連続。このままでは間に合いませんと生徒さんに言ったら、別に8月じゃなくても構わないと、焦る素振りもありません。

それだけでなく、他の生徒さんも増やしたいみたいなことを、断片的に言ってくるDさん。でもフォローの情報は皆無。その話が無くなったのか、継続で検討中なのか、途中経過がまったくありません。もちろんメインの日本語学校オープンの見通しも分からないまま。8月に入って、いよいよスケジュール的にヤバいとなって「このままでは先生の仕事を続けるのは無理です。」とメッセージしたら二日遅れの返事で「身内が入院してしまい、なかなか連絡ができません」とのこと。

それはたいへん気の毒なことなんですが、それを理由にマネージメントを放棄されては、現場にいる身としては堪ったものではありません。そんなことがあるなら、せめてすぐに教えてほしかった。

この状況に追い討ちをかけるように、相変わらずモチベーションが超低空飛行の生徒さん。週に14時間の予定が、ドタキャンしまくりで、最後の方は週にたった3時間しか授業ができず。また、まったく平仮名を覚えてくれないので、毎回、教科書にローマ字の振り仮名を振って、英訳まで追加で授業素材準備。これだけで授業1回分で2時間はかかってしまう。そして開始直前の30分前とかに「今日は外食するから休みます」「今日は疲れたので無理です」みたいなメッセージが来ると、心底ガッカリします。

トドメが、生徒さん宅の環境の悪さ。とにかくうるさくて、生徒さんの声が聴き取れず中断もしばしば。というのは、なぜか授業の時間になると決まって、同居している叔母さんが部屋の掃除を始める。それもかなり大掃除に近いような感じでドッタンバッタン。さらに、隣室で他の誰かが大音量でテレビを見てるし、小さな子供たちが絶叫してる。とても集中して授業ができる環境ではありません。

せめて授業の間だけでも静かにするように頼めないの?と、生徒さんに訊いても、どうやら親戚宅に居候しているような身分らしく「ごめんなさん、でもそんなこと頼めないです」。よ〜く考えたら、フィリピンから外国に出稼ぎにいくような人って、この生徒さんに限らず、大家族で狭くて劣悪な環境に住み、学習能力も決して高くないことが多いんでしょうね。

ということで、先が見えず毎日ストレスだけが溜まっていくのでは、わざわざフィリピンの田舎に移住した意味がなくなってしまうので、今回の仕事は辞めることにしました。まぁ安いとは言え、一応3ヶ月は給与生活でをして、久しぶりに「次の給料日が待ち遠しい」感覚を味わえたので、良い経験ができたと思うことにします。



2025年7月1日火曜日

7名死亡の大事故発生


出典:Negros Now Daily

 7月の投稿は、たいへん痛ましく残念な話からになってしまいました。

先週の金曜日(2025年6月27日)、我が街シライの市役所職員を乗せた車が横転し、7名が死亡19名が負傷するという、私が知る限り、シライ史上最悪の交通事故が発生。事故現場は、市役所から山間部へ通じる幹線道路で、山の中腹とは言え見通しの良くそれほどの急坂でもない場所。しかも晴れた午前中なので、最初に聞いた時は「なぜ?」というのが率直な感想でした。

第一報では、トラック絡みの事故とのことで、てっきり市の職員はマイクロバスに乗っていて、猛スピードのトラックと正面衝突でもしたのかと想像しました。ところが実際は、職員が乗っていたのがトラック。しかも本来、人が乗ってはいけない荷台に、30名近い人が立ったまま乗車していたらしい。さらに運の悪いことに、途中でブレーキが効かなくなり、コントロールを失って横転。

おそらく、よほどのスピードが出ていたんでしょうね。事故直後に報道された写真を見ると、亡くなった方々は、道路に叩きつけられたように横たわり、ムシロの代わりにバナナの葉が被せられていました。

まず、これだけの大人数をトラックの荷台に乗せて山道を走るなんて、日本では考えられない状況ですが、フィリピンではよくある話なんですよ。一般的に交通安全への意識が低すぎる。例えば、軽トラや中型トラックの荷台に人を乗せて走るなんて日常茶飯事。さらに驚くのは、バイクに家族4〜5人で乗ってたりする。これがサイドカータイプのトライシクルじゃなくて普通の二輪。お父さんが運転して、前に4〜5歳ぐらいの子供、後ろには赤ちゃんを抱いたお母さん、みたいな要領で。

こんな危険運転が普通なので、いつも「これは事故ったら大惨事やろなぁ」という思いでした。まさにその危惧が現実になってしまったわけです。

なぜ平日の昼間に、市の職員が大挙して山間部へ向かっていたかと言うと、これは定期的に行われている、市が主催の植林事業の一環。フィリピンというと、どこも緑豊かで、熱帯雨林に覆われているイメージですが、実は7〜8割、下手すると9割が伐採されてしまい、危機的な森林破壊が進行してるのが実態。このため山の保水力が低下して、土砂崩れなどの災害が多発。海では、かつて沿岸部に広がっていたマングローブの森も同じ状況になっています。

「アジアの病人」と揶揄されていた1980〜90年代を経て、今世紀に入った頃から経済成長著しいフィリピン。さすがに懐に余裕が出てくると、これまで放ったらかしていた環境破壊にも目が向くようになったのか、2000年代になってからは、あちこちで植林して緑を取り戻そうという機運が盛り上がってきました。

ここネグロス島のシライでも、一時期日本のNGOが協力もあって、今では市役所独自で植林運動を行なっています。まぁ元はと言えば、高度経済成長時代に日本への輸出用に樹木を切りまくったのが発端なので、ちょっと遅すぎる罪滅ぼしみたいなものですが。

そのような、より良きフィリピンの将来を作ろうという活動の途中で、こんな事故が起こるとは、まったく悲しい限り。目的は何であれ危ないことを続けてたら、いずれ事故になるのは、単に確率の問題でしかなかった。

さて、日本人的発想ならば、これから事故の責任追求が始まるところ。市役所の管轄部署の部課長や、場合によっては市長まで首が飛んでも、まったく不思議ではない。ところがフィリピンの場合は、そうはならないでしょうね。トラックの運転手には何らかの刑事罰があるかも知れませんが、役人が責任を感じて辞任するなんて光景は、下はバランガイ(町内会)から上は国政に至るまで、少なくとも私は見たことがありません。

おそらく被害者やその遺族への補償も微々たるもので、そもそも保険に入っていたかも疑わしい。ちなみに家内の弟、つまり義弟は市役所の職員で部長クラスの管理職。直接知っている方が亡くなっているそうです。

細かいことに拘らない大らかさは、この国に暮らす上での大きな魅力とは言え、人命にかかわる事へのいい加減さ、雑なところだけは何とかならないものかと思いますね。差し当たっては、息子に「友達に誘われても、トラックの荷台に乗ったりするなよ」と諭すことぐらいしかできませんけど。



2025年6月30日月曜日

茹で過ぎパスタ好きの国で、頑張る日系レストラン



バコロド市内にオープンした ぼてぢゅう
 コロナ禍以降、私たちが住むフィリピン・ネグロス島でも、すっかり経済成長のペースが戻った感じ。それを裏付けるかのように、昨年辺りから州都バコロドで、日系レストランが開店ラッシュを迎えてます。

元々日本人が多い(数万人規模)マニラやセブなどに比べ、微々たる数だったバコロドの日系レストラン。私たちが移住した13年前には、「いなか」「海星」ぐらいしかなく、7〜8年前に「維心」というラーメン屋さんが出来た程度。もちろん私も全部把握しているわけではないので、もう少しあるかも知れません。

こういう日本食レストランで、ありがちなのが、当初は日本クオリティを再現してたのが、なし崩し的に味も価格もローカライズされるパターン。その後、日本人客が来なくなっても、お店が無くなっていないなら「なんちゃって日本食」で、それなりに成功してるんでしょうね。

そんな中、比較的最近バコロドに出店したのが、ラーメンの一康流。すでにフィリピン国内だけで8店舗を展開中で、かなりの知名度はあるようです。オープン時には、バコロド初の本格的なラーメン専門店なので、かなりの頻度で通いました。ただ残念なことに、これもローカライズが原因なのかどうか、スープの味がずいぶん薄くなっちゃったんですよ。私の口には合わなくなったので、コロナ禍以降は、まったくのご無沙汰。

そして昨年(2024年)頃から、突如、カレーのCoCo壱、三ツ矢堂製麺、和民、そしてUCCカフェのバコロド2号店などが続々とオープン。今年に入ってからは、大阪発祥の「ぼてぢゅう」がやって来たという活況。調べてみたら、ぼてぢゅうのフィリピンでの店舗数は何と113店。これは日本国内の47店舗の3倍近い。

私は関西出身なので、ぼてぢゅうはよく知ってますが、この勢いだと、日本の他地域よりフィリピンの方が、名前の通りがいいんじゃないですか?フィリピンでもお好み焼きやたこ焼きの類いは、以前から人気があるんですが、それにしても「何故」と思いますね。まぁ、日本人として関西人として、フィリピンでお好み焼きがメジャーになるのは、嬉しい限りですが。

ところで肝心の味はどうでしょう?たまたま最近ユーチューブで見た、ホリエモンと和民のCEOである渡邉美樹(わたなべみき)さんとの対談。それによると、最初は日本オリジナルを押し付けてたそうなんですが、今ではフィリピン人シェフのアドバイスに従って、アレンジをしているとのこと。

確かに実際にバコロドの和民へ行って食べてみると、味はもちろんのこと、盛り付けやメニューの詳細まで、いかにもフィリピン受けしそうな日本食、という感じにまとまってました。そもそも日本だったら、居酒屋さんにラーメンや餃子、お寿司は、普通置いてないですよね。居酒屋と言うより、コンパクトな「くいだおれ」に近い感じ。

この傾向は、ぼてぢゅうも同じだし、フィリピン人オーナーが始めたような、小規模な「なんちゃって日本食」レストランでも同様。日本レストランに、ラーメン・餃子・唐揚げ・寿司がないと、フィリピンのお客さんは納得しないようです。

ただ前述のように、ローカライズも度を過ぎると、日本人だけでなくフィリピン人も離れていってしまう。と言うのは、昔に比べると、日本からの輸入食材や調味料は簡単に入手できるし、それほど裕福でなくても、日本に旅行して本物の日本の味の体験者が増えています。

なので、どの程度までフィリピン・ローカルの味やサービスに寄せるかは、かなり匙加減が難しいそうです。分かりやすい例で言うと、なぜか茹で過ぎパスタが大好きで、安い店だとグダグダに柔らかく、甘いソースでベチャベチャのスパゲティが出てきちゃう国。だからと言って、マニラの丸亀製麺のうどんはグダグダではなく、それなりにコシがありますからね。



フィリピンの親戚が作ったカルボナーラ(上)
私が作ったボロネーゼ(下)

ということで、地方都市バコロドですら、益々充実していく日本食レストラン。次は、天下一品のラーメンや家族亭の天ぷら蕎麦が食べたいなぁ。

箸でカレーを食べる高齢両親

 今年の3月に再び我が家にやって来た、もうすぐ90歳の高齢両親。今回は12月初旬まで滞在予定で、その半分ぐらいの日程が終わりました。

両親のためにわざわざ建てた2LDKの一戸建て。その値打ちが発揮されてる感じで、すっかり生活も安定した今日この頃です。相変わらず半分寝たきりの母ですが、食事の時には自分の足で歩いて母屋にやって来ます。特別にお粥などの流動食は用意せず、もうすぐ20歳の息子(つまり母にとっては孫)と同じ献立を、88歳という年齢の割には、毎食きちんと食べています。

それに比べて父はかなり元気で、暇つぶし用に日本から持って来た、大きなジグソーパズルに取り組む毎日。日に一回は、家の周りをややよたつきながらも歩行訓練。相変わらず照明や扇風機の消し忘れはあるし、窓全開でエアコンを回すスカタンはやりながらも、一応の意思疎通はできている。

ただ、二人ともアルツハイマーの兆しが出ているのは間違いなさそうで、食事時のふとした行動に違和感を覚えることもしばしば。最近気になってるのは、なぜか頑なにスプーンを使わないこと。明治や大正ではなく、ギリギリとは言えレッキとした昭和二桁生まれの両親。子供時代から普通にスプーンやフォーク・ナイフは使ってた世代だし、それしかなければ、今でもそれで食事はします。

ところが、フィリピン式の食事作法に則ってスプーンとフォークを並べると、なぜかフォークだけで食べようと頑張ってしまう。私はよくチャーハンを作るんですが、まるで親の仇のようにフォークだけしか使わない。それでキレイに食べられれば良いけれど、案の定、食後の皿にはご飯粒がポロポロ残ってる。「スプーンの方が食べやすいやろ?」と言うと、スプーンを使うものの、翌日にはネジが巻き戻るように元の木阿弥。

別に残したって構わないんですが、かつて弁当箱の蓋の裏に、ほんの少し米粒を残したら、烈火の如く怒った母なので、子供の立場としては、なんだか悲しくなってしまいます。おそらく認知能力が下がっただけでなく、目もよく見えてないんでしょう。

父に至っては、カレーを箸で食べようとする始末。もちろんカレーだけなら箸は出しませんが、たまたま野菜サラダも作ったので、箸の方が取りやすいかとの配慮の追加。ところが一旦箸を持ったら、食べ終わるまでスプーンには触るものか!みたいな勢いです。そして食べ終わった後の皿は、ものすごく汚い。変なところだけ、一般的なフィリピン人に似てしまってますねぇ。(ちなみにフィリピンでは、食べ終わってお皿がきれいな人の方が珍しい。)

まぁ、多少食べ方が汚くても、私の作る料理が口に合ってるようで、食事前は、10分か15分も前から、食卓のある母屋の部屋が見える場所で「メシはまだか」とばかりに待機状態。何だか、親子の立場が逆転しちゃったみたいです。

と、衰えてしまった両親をあげつらうような書き方をしてしまいました。しかし車椅子が必要で、毎回弟が付き添いをしながらも、飛行機に乗って外国のフィリピンまで来るだけでも、年齢を考えればずいぶんと活動的。気候への順応力も大したものです。英語は二人とも全然ダメで、父など1970年代にはオイルショックの煽りで、ドバイで出稼ぎ労働してたのに、結局英語はモノにならなかった。それでも掃除や洗濯してくれるメイドのおばさんには、分からないながらも優しく対応。これは面倒を見る側にすると、たいへん助かる。

最近つくづく思うのは、介護移住という観点では、フィリピンの地方って本当に適地。住む場所もそこそこ広くて、完全ニ世帯住宅(狭い敷地に上下で分けるのではなく、別棟を建てられる)も可能。メイドさんや介護士も、必要なら住み込みで雇えるし、寒い冬もない。

ということで、これから親の介護に直面しようという、私と同世代の人々へ。フィリピンへの介護移住は、真面目に選択肢の一つとして検討するに値しますよ。


フィリピンで教える難しさ

 ぼやぼやしてたら、あっという間に今年も半分終わり。もう6月の30日になってしまったので、駆け込みで何本か投稿します。

まずは先月(2025年5月)から始めた、オンラインでの日本語教師。なれない教職で、かつ生徒がフィリピン人。難しいことはあるだろうと予想はしてたものの、やっぱりいろいろ起こってます。

本来は、日本での就職希望者を募って、20人ぐらいに対面授業をする計画で、隣街の州都バコロドに小ぶりながら学校まで建設中。日本在住のフィリピン人経営者で、私の10年来の友人でもあるダイアナ女史が、かれこれ1年ぐらい前に声をかけてくれて、今の仕事をしているわけです。日本とフィリピンを往復して頑張っているダイアナなんですが、これが、なかなか順調...というわけには行きません。

学校の工事は遅れまくってるし、何社かある、交渉中の日本のクライアントとも、話がまとまりそうでまとまらない。ようやく動き始めたのが、ダイアナの知り合いで、日本で小さな会社の管理職をしている、某フィリピン女性からのオファーによる今の仕事。彼女の親戚でマニラ在住の20代女性に、日本での仕事を手伝ってもらうということで、それに先立って、基本的な日本語を教えてほしいという内容。

記念すべき私の生徒さん第一号は、日本語会話経験がほぼゼロ。私はフィリピンの言葉はイロンゴ語(私が住む西ネグロスの方言)しか解さないので、当然のように、英語で日本語を教えております。まぁ、それは大きな問題ではないんですが、困ったのは、この生徒さんの学習モチベーションの低さ。

もう半年もしないうちに、日本に渡って仕事を始めるというのに、予習・復習はしてくれないし、平仮名すら、まったく覚えようとしない。平日は自宅からマニラの職場へバス通勤で、オンライン授業は帰宅後の7時半から。朝も早いので、この時間には疲労困憊なのは仕方ないですが、ちょっとこれはマズいんじゃないか?

教科書は「みんなの日本語」を使っていて、これは版を重ねた初心者向け日本語教育のバイブルのような本。内容は充実しているものの、最低でも平仮名と片仮名は読める人向けに作られているので、毎回の授業では、アルファベットでルビを振った教材を、用意しないといけません。これが相当な仕事量。今回だけお終いではなく、今後も使い回しができるとは言え、今もらってる給料とは、とても釣り合いません。

なのでこのままでは、労力だけかかって、半年たっても片言レベルにしかならない。危機感が募り、ほぼ私に仕事丸投げ状態だったダイアナに「これヤバいよ」と伝えました。その回答が「大丈夫、仕事でほとんど日本語を使わないから」。何じゃそりゃ〜。

日本での仕事というのは、日本へのフィリピン商品の輸入関連。職場では基本英語だけだし、小売のお客さんは在日フィリピン人がほとんど。こちらはタガログが喋ればそれでOK。日本語は、買い物や交通機関での移動など、生活で必要な最低限の日本語ができれば良いらしい。生徒さん本人もそういう意識。そういう大前提は、授業が始まる前にしてくれよ〜。

ただ、そういった学習意欲の問題だけでなく、フィリピンあるあるの「今日は頭が痛いから」「飼い猫の具合が悪いので獣医に行きます」「大渋滞で時間までに帰宅できません」などなど、言い訳オンパレードで、やたら欠席が多い。どれも嘘ではないようなんですが、それにしても、ちょっと休み過ぎですねぇ。

そして極め付けが「ネットが死んでて授業受けられません」。この投稿を執筆中の6月末日がこの状況で、かれこれ1週間もネット不通。これは実際フィリピンのネット事情からすると、まさに「あるある」で、広範囲のネット障害も頻繁だし、今回のように特定の回線だけ不通になることも、実によくある。キャリアに連絡しても、何日も修理に来ないし、来ても「原因不明」で何の対策もなく業者が帰っちゃったり。我が家もこれが原因で、キャリアを替えましたから。

ということで、一体いつ再開できるのか見通しが立たないまま、7月を迎えようとしております。


追記:と書いた直後にWiFiの修理が終わったとのことで、久しぶりの授業がありました。大雨で帰宅が遅れて短縮授業の上に、隣家のパーティでカラオケ騒音がすごかったですけど。



2025年6月6日金曜日

フィリピンの大学で奨学金


「サクラサク」ならぬ「カエンジュサク」
の季節のフィリピン

「結果が分かり次第、報告します。」と書いてからすでに1ヶ月強。本日(6月6日)早朝、やっと息子が受験したセント・ラ・サール大学から、奨学金受け取り許可の連絡が来ました。それも郵送や電子メールでさえなく、該当者の名前をフェイスブックのホームページでシェアするという方法で。

合理的だし間違いが少ないし、FB普及率は九割以上の、いかにもフィリピンらしいやり方なんですが、同じこと日本でやったら、確実に炎上案件でしょうね。

それはともかく、まずラ・サール大学の合格は数週間前に分かっていて、息子が言うところの試験の感触からは、おそらく問題なしと思っていました。なので、飛び上がって大喜び...ではなかったものの、今日の奨学金に関しては、学費を支払う側からすれば相当嬉しい。そりゃそうでしょう。一時はマニラで一人暮らしの支援まで覚悟してたのが、バスで通える近場の大学に無料で通えることになったんですから。

しかも私たちが住むシライ市では、先月2選を果たしたガレゴ市長の政策で、シライ市内から隣市のタリサイやバコロドの学校に通う学生のために、無料送迎バスが運行されてます。これは本当に助かります。

これで昨年8月のフィリピン大学を皮切りに、4校の受験と最後の奨学金まで全勝でパスした息子。まぁ本当にたいへんなのは、大学出てからなんでしょうけど、親の責任範囲でここまで好成績なのは、素直に喜び、褒めるべきところ。この週末は、ちょっと美味しい晩御飯でも作りましょう。

さてここからは親馬鹿モード全開で失礼します。

この奨学金の難度なんですが、新入生が約1,000名に対して、受け取ることができるのは息子を含めて60名。奨学金のために別のテストがあったわけではなく、高校での成績がトップ数名に入っていて、入試の成績が優秀なことが条件。さらに最終考査は一人一人に面接となります。そのために先週、大学の先輩でもある、息子の従兄アンドレの運転する車で、ラ・サール大学に面接を受けに行ってました。

「うちは貧乏やから、奨学金がないと大学行けないんですぅ」と言ってこいと冗談を飛ばしてたものの、もちろん質問内容はそっちじゃなかったと思います。おそらく学業に対する意識の高さの確認みたいな事だろうと推測。もちろん受け答えは英語なので、それは息子の得意分野。帰宅後「たぶん大丈夫」との言葉通りとなった次第。

そして前回も少し書いたように、学びたいのはコミュニケーション。当初は言語学に興味があると言ってたし、フィリピン大学もガチの言語学専攻にトライだったのが、最終的に選んだのが、同じ「コミュニケーション」でも、商業寄りな分野。映画やテレビ、印刷媒体について学ぶんだとか。「で、何の仕事をしたんや?」と訊いたら、コンピューターゲームの製作者になりたいとの返事。つまり、何らかのエンターティンメントを作る側に行きたいらしい。

本人はマインクラフトから入って、多少のプログラミングはできるようで、そこからコードがりがりのプログラマーより、もうちょっと全体を俯瞰する立場を狙ってるということか?

まぁ、大学に入る時の希望と実際の就職では違っていて当たり前で、それはこれから息子がどんな人や世界と出会うかで、まったく変わってくるでしょう。かつてアートを目指して芸大に入ったけど、工業デザイナーとして家電メーカーに就職した私なので、その辺りは楽観的に眺めております。

何をやるかも大事なんですが、それよりも私の関心事は、どこで働くか。そもそも国外に働きに行く事自体のハードルがめちゃくちゃ低いフィリピン。むしろ、自国内で待遇の良い職場を探す方が難しいぐらい。それなら英語はできて、専門能力さえあれば、英語ベースの外国の方がはるかに良い暮らしができて、面白い仕事もできる。

極端な人物がリーダーになってしまい、移民に対してひどい対応を始めたアメリカは別としても、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドに中近東などなど。中近東で労働と聞くと、肉体労働者やメイドを思い浮かべがちですが、数は少ないながら、企業に就職して管理職に就くフィリピン人もいる。何を隠そう我が家のご近所さんは、サウジアラビアでボーイング社の部長だった人で、数年前に定年退職して悠々自適の暮らしをしてます。

何なら日本語マルチリンガルの能力を生かして、日本の外資系企業で働くという手もある。

ということで、先走った馬鹿親の皮算用になってしまいましたが、大学の4年間って本当に楽しい時期。新学期は周囲の公立校より少し遅めの7月1日からで、まずは、いろいろと満喫してほしいものです。



2025年5月29日木曜日

家庭教師バンビ 奇跡の人生大逆転

 フィリピンの総選挙や私の日本語教師デビュー、そして向かいの家の騒音で揉めた5月も、あっという間に残り数日。私の引退生活では珍しく、かなりの多忙感がある1ヶ月でしたが、最後はちょっとハッピーな話題を。

2021年の12月からなので、かれこれ3年半も私のイロンゴ語の家庭教師をしてくれているバンビ。現役の高校教師で、家庭の事情や病気などで教育機会を逸してしまった生徒さんへの、出張授業を専門とするALS(Alternative Learning System)の専任者。加えてギターやピアノが弾けるので、所属するプロテスタント教会では、讃美歌の伴奏したり行事のスタッフになったり。その忙しい合間を縫って、週一回、私の家で2時間のイロンゴ・レッスンをお願いしてます。

そんな彼女も不惑を過ぎて、体調にいろいろ問題が出てくる年頃。生理不順で、時々とてもしんどそうにしてましたが、昨年末、勤務先の教育省シライ分室にて、大量の不正出血。救急車で病院に搬送されるほどで、そのまま数日間の入院となってしまいました。クリスマスには、バンビの生徒さんと一緒にクリスマス・キャロルを歌おうという計画もすべてキャンセル。ようやく職場に復帰して、私に家に来てくれたのは、その数週間後でした。

バンビの不運はこれだけではありません。数年来シライ市内で同棲していた彼氏との関係が破綻。聞くところによると、この男性は既婚者でマニラに妻子がいるんだとか。バンビは辛抱強く、彼が結論が出すのを待っていたんですが、優柔不断な態度を続ける彼に嫌気がさして、とうとうお別れになったそうです。

それだけでなく、職場でもいろいろ問題が発生。仕事の内容にはいつも真面目に取り組むんですが、どうも時間や予定のマネージメントが不得手。イロンゴ・レッスンもよく遅刻したり、直前になって別の日に変更になったり。まぁバンビに限らず、フィリピンあるあるとは言え、おそらく体調不良とも重なって遅刻が続いたんでしょうね。上司との関係がかなりこじれちゃったらしい。

なぜそんなことまで分かるかというと、バンビは教育省で働く家内の職場の同僚。家内とは昔からの知り合いで、いろいろ相談もされる仲。つまりその縁で、家庭教師になってもらったわけです。

こういうことが同じ時期にどっと押し寄せてきたので、私も家内も気の毒に思い、バンビのレッスンの後、昼ごはんや夕食を一緒に食べたり。「この後、ご飯食べる?」と聞くと、たいていすごく嬉しそうに「ありがと〜」と返ってきます。こういうところが、8人兄弟姉妹の末っ子らしく可愛げがあるんですよね。上司とは上手くいかなくても、生徒さんには人気があるわけです。

さて、そんな災難続きのバンビ先生。ここ数ヶ月ほどは、週末、子供にギターを教えることになったとかで、ずっとバックアップ要員の姪っ子、エイプリルが私の家庭教師。エイプリルも気立てが良くてインテリ、しかも美人なので、私にとっては悪いことではないものの、やっぱりちょっと寂しい。


昨年(2024年)の誕生日に贈った
バンビの似顔絵イラスト

ところが週末に忙しいのは、ギターを教えることだけが理由じゃなかった。バンビの姉で、我が家のメイド、グレイスおばさんによると、何とバンビに新しい彼氏ができたんですよ。しかも、そのお相手は、ずっとバンビを心配していた牧師さんによる紹介。ということは、同じ教会所属で同じ信仰を持つチャーチメイト。

まだ会ったことはないですが、バンビと同世代の40代で、子供はいるけど未婚のシングル・ファーザー。ただし飲料水店の経営するまじめな自営業者で、大金持ちとまでは行かなくても、収入は安定しているようです。なるほど、どおりで最近になって急に、自宅のフェンスの修理をしたり、エアコンを購入しようなんて話が出てきたわけだ。以前は、すいぶん前に亡くなった父親の借金返済や、前の前の彼氏に買ってあげたバイクのローンやらで、いつも金欠病だったんですよ。

さらにめでたいことに、近々結婚まで考えてるとのこと。裕福な結婚相手を見つけたからといって「人生の大逆転」なんてタイトルをつけたら、まるで金目当てみたいで失礼ですが、今までのバンビの受難を思うと、そうも言いたくなります。何より、エイプリルやグレイスによると、今とても幸せそうなんだとか。

信心深くて、フェイスブックにやたら新約聖書の一節を投稿したりするバンビ。長い試練の時を経て、ようやく神さまの祝福が、我が家庭教師の上に降り注いだようです。日取りは未定ながら、結婚式にはぜひ呼んでもらいですねぇ。