2024年7月15日月曜日

高齢両親、再びネグロス島へ

 前回の、ネグロスの主峰カンラオン山噴火の投稿から、もう1ヶ月以上の間が空いてしまいました。その末尾にも記したように、私の両親が、昨年11月に続いて再びこのネグロス島の自宅に滞在しております。お陰さまで、その後カンラオンは平静を保っていて、最寄りのバコロド・シライ空港が閉鎖になることもなく、予定通り無事ゲストハウス到着して、かれこれ3週間が経過。

何度か投稿したように、この離れ家は、兵庫県尼崎にあった実家の間取りを再現したもの。小ぶりながら寝室二つとリビング・ダイニング、トイレとシャワーに加えて、湯船のある浴室も用意しました。二人で住むには十分な広さがあります。


到着早々、父のボストンバッグの鍵の紛失騒ぎや、母がまったく着替えの準備をしていなかったことなどが発覚してバタバタとしたものの、何とか当日はぐっすり寝てもらいました。連日猛暑日が続いた6月初旬までの乾季が終わっていて、心配していた暑さもそれほどではなくひと安心。

翌日は、同行した弟の提案で、すでにリビングにあるテレビとは別に、母の寝室専用のテレビと、それを視聴するための安楽椅子を購入。ついでに母の衣類も家内に付き添ってもらって、上から下まで全部調達。下着も靴下もない状態だったんですよね。まるで着の身着のまま難民状態。

一旦は要介護3で施設に入っていた87歳の母。ケアマネージャーさんも驚く、奇跡の回復を遂げて昨年実家に帰宅。入浴や排泄など最低限の身の回りの事は大丈夫で、話しかけたらそれなりの反応は返っては来ますが、認知症の症状はジワジワ出ているらしく、旅行の準備のような、ちょっと込み入ったタスクは、もう無理なようです。

とは言え、88歳の父はまだ頭もはっきりしていて、日本にいた時同様、トーストと卵、ハムの簡単な二人分の朝食の準備は任せています。日中はテレビを見たり、趣味の模型作りで世話要らず。何よりも助かるのは、二人とも年齢の割には旺盛な食欲で、私が作る昼と夜の食事は、毎回完食。それも炒め物や揚げ物、何でも「おいしい、おいしい」と平らげます。

言葉は通じなくても、メイドのグレイスおばさんとも上手くいっている様子で、たまにグレイスのサポートで、母は車椅子、父は徒歩での散歩に出たり。こう書くと、介護移住は順風満帆のようですが、万事順調・めでたしめでたしにはならないのが現実。

実は前回も、誰もいない部屋のエアコン・扇風機・照明の全部つけっぱなしやら、水道の締め忘れなどがあって、何度か注意。今回はさらに輪をかけて、窓を全開にしてエアコン稼働。それが三日続けてあったんですよ。実際にエアコンをオンにしているのは母なんですが、隣室の父はそれに気づかない。それでなくても物価に比べて電気代が高いネグロスなので、再三父に苦言を呈しました。ただ残念ながら、昔から私との関係が良好とは言えなかった父。身内に対して素直に謝るということができない性格。

冷静に考えてみれば、すっかり耳が遠くなった父なので、もうちょっとソフトに対応すればいいのは分かっているけれど、父も「金やったら払う」「そんなに文句言うなら日本へ帰る」と逆ギレ状態。売り言葉に買い言葉で、どうしても私の言い方もキツくなりがち。元気な時は、クッション役をしてくれてた母も今は半分寝たきり。ある程度想定はしてましたが、老齢の親との同居って、肉親であるが故の難しさがあるものです。

しかしながら、さすがに今回は、しばらくして自分の立場に気づいたのか、おそらく私が生まれて初めて、父の方から謝ってきました。かつては家族全員に大迷惑をかけた父。その時も、一度たりとも頭を下げなかったことを考えれば、ずいぶんと変わったとも言えるでしょう。

そして最大の功労者がフィリピン人の家内。図らずも、母に代わってクッション役になってくれています。日本に限らずフィリピンでも、義理の仲は拗れがちなもので、私たちの結婚には大反対だった母。ところが母が足を骨折して入院した際には、毎日病院に通って入浴の介助をした家内。よく言われる「フィリピノ・ホスピタリティ」を体現するような働きでした。それ以来、両親共々、このフィリピン嫁に心酔して、今回の介護移住も「嫁がいてくれるなら」との思いもあったからでしょう。

ということで、孝行息子とは程遠い私ですが、家内やメイドさんの助けを借りながら、なんとか親との毎日を過ごしております。この件は、同じく介護な必要な身内がおられる方々には、何かの参考になるかも知れませんので、時々経過報告しますね。ちなみに両親、観光ビザでの入国なので、年内には一時帰国の予定です。


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