2018年10月31日水曜日

5年で家電製品の危機

2013年4月に日本から、ここネグロス島シライ市に引っ越して、1年間の借家住まい。日本からは衣類や食器、書籍は日通の国際サービスで運んでもらったけれど、さすがにベッドやソファ、洗濯機に冷蔵庫など、かさ張るものは捨てたり、リサイクルに回して来ました。なので到着早々に、家具と一緒に結構な量の家電製品を一気買い。

そして、ある程度予想はしてたものの、フィリピンで売られている耐久消費財って、本当にすぐダメになる。まず、停電時用の充電式ハンドライトが、1年かそこらで軒並み使用不能。ただ通電しないだけなのはまだマシで、コンセントに差し込むと焦げ臭いし煙は出るし。危ないって。

エレクトロラックス製の電子レンジは、2年でオシャカ。サークラインを使った照明器具も4つ壊れたし、携帯式のスピーカーや、壁掛け時計などなど...。一番腹が立ったのは、10年以上保つはずLED電球がすぐダメになったこと。それ以来、安い白熱球しか買わなくなりました。

5年経った今でも元気に稼働しているのは、冷蔵庫と洗濯機、エアコンなどの大物家電。電気給湯器2台と大画面液晶テレビ。ほとんど日系メーカーで揃えましたからね。ところが意外に寿命が短かったのが、7台まとめて購入した扇風機。全部パナソニック。

いきなりブチッと壊れるのではなく、今年(2018年)の後半辺りから、だんだんの風力が弱まってきました。8月にはメイド部屋用のが、ついにお亡くなり。相次いで子供部屋のも。そして他に2台が危ない状況。

まぁ、こちらの扇風機は、パナソニックと言えども現地向けに調整されていて、日本ならば1=弱、2=中、3=強のところが、1=強、2=さらに強、3=最強、みないな感じ。臨終間近の息も絶え絶えぐらいが、私には調度いいぐらい。

よく考えてみたら、年中使っている扇風機。単純に考えて、日本での使用に比べて、2〜3倍は負荷がかかってる。5年も経てばガタがくるのは、仕方がないのかも知れません。メイド部屋のは、たいてい夜も付けっぱなしでしたからね。オフタイマー付きの製品がまず売ってないし。


2世代目の扇風機を購入

ということで、これからフィリピンに長期滞在とか、永住をお考えの皆さま。家電製品(に限りませんが)を購入検討の際には、多少値が張っても、名前の通ったブランドのものを選ばないと、かなりの確率で後悔することになりそうです。

「安物買いの銭失い」なんて、日本ではほとんど死語のような格言が、フィリピンではすごいリアリティでまだ現役ですから。


2018年10月30日火曜日

不法侵入のゲッコー

かれこれ2年ほど前、2階のベランダにゲッコーが住みついたという投稿をしました。文末には、あの独特の「トッコー・トッコー」という鳴き声に、郷愁さえ感じるようになったと、エエ格好しぃなことを書いてる。


体長約50センチのベランダにいたゲッコー

ところが、半年ほど前。
ベランダにいた奴の子供か親類か、一匹のゲッコーが屋内に侵入してしまいました。写真のほど大きくはなく、せいぜい15〜20センチ程度。それでも、網戸などで遮られていない所にだと、感じ方がずいぶん変わって、郷愁などと言ってられません。

一体どういう経緯で入ったのかは、イマイチよく分からない。ある晩、ふと壁を見たら、ペタっと張り付いていました。最初はヤモリかと思ったけれど、それにしてはちょっと大きすぎ。これは家内と鉢合わせしたら、大パニックは必至。

さすがに素手で捕まえる度胸もなく、バケツか何かを被せて...と探しているうちに、どこかへ消えてしまった。図体の割には、小さなヤモリよりも敏捷なぐらい。これは素手でも、そう簡単には捕まりそうにありません。

その後も、2階にある私の書斎や夫婦の寝室、1階の台所など、数週間に一度ぐらい姿を見せる不法侵入ゲッコー。見る度に少しづつ成長している気がします。

数日前には、書斎のカーテンを開けようとしたら、カーテン・バーの辺りに潜んでいたらしく、腕の上にボトっと落下。ゲッコーに恐怖心はない私でも、これは驚いた。軽くパニックってる隙に、またもや逃亡を許してしまったじゃないか。悔しい...。

それにしても、一体何を食べているのか。一般にゲッコーなどの爬虫類は、哺乳類と違って体温を一定に保つしくみがなく、大きさの割には、僅かな食料でも生きていけるそうです。やっぱり昆虫の類か、それともヤモリを餌にしているのかも知れない。

ネットで調べてみたら、フィリピンにいる種類とは違うでしょうけど、ペットとして飼う人もいるんですね。餌はやっぱり虫。コオロギをやると食べる、なんて記事もありました。ペットになるぐらいなので、毒を持っているようなことはなさそう。

ということで、次に姿を見た時は、ムンズとひと摑みにして、2階の窓から放り出してやろうと、決意しました。毒はなくても、噛まれたら痛いんでしょうかね?


2018年10月29日月曜日

超強力 おすだけノーマット

フィリピンに住むことに決めた時には、ハエや蚊、ゴキブリの類とは嫌でも年中お付合いになると覚悟してました。

新築の自宅ができるまでの、移住後1年間は借家住まい。予想通りの展開で、特に日常的に炊事をする「ダーティ・キッチン」は、日本で言うと、昔の土間のような空間。半分外なので、調理している間はずいぶんの蚊に刺されたものです。近所のスーパーで買ってきた、小さなラケットのような形状の、電池式蚊取り器が大活躍。ゴキブリも、よく大騒ぎして退治しましたね。

ところが、家が完成して入居してみると、すべての窓や扉に、しっかりした作りの網戸を取り付けた効果か、ハエも蚊も、ほとんど侵入してこない。不思議なのはゴキブリさえ姿を見せないこと。基礎工事の時に薬剤を散布した、なんてお金のかかることはしなかったんですけどね。

快適なのも最初だけで、1年もしたら借家と同じになってしまうんだろう、と思ってました。でも、もうすぐ5年が過ぎようという今でも、状況は変わらず。唯一、虫がらみで鬱陶しいのがアリ。

台所に食品を出しっ放しにして、気がついたら黒山のアリ集り、というのは仕方ないにしても、屋内の壁と天井の隙間に巣を作って、家の外から延々のアリの行列ができたりする。朝起きてこれだと、さすがにうんざりしてしまいます。

最初に試したのは、日本からのお客さんに頼んで持ってきたもらったアリの巣コロリ。1回目は効能書き通りで、あっさり駆除完了...と思ったら、違う種類の、ちょっと小さくて赤いのやら、それよりやや大きい黒くて敏捷な動きのやらに、取って代わっただけ。新しい種類の奴らは、アリの巣コロリに見向きもしない。

仕方がないので、殺虫剤のバイゴンや、洗剤を混ぜた水を霧吹きで散布したり。一応の効果はあるのですが、持続性があまりない。気がついたら、やっぱりアリさん大行進。この頃は、寝室とか、よほど目障りに感じる場所でなければ、見て見ぬ振り。

そして、今年(2018年)6月。
フェイスブックで知り合った、私と同年代のお友達が、我が家に数日滞在。気を遣って、いろいろとお持ちいただいたお土産の中にあったのが、ワンプッシュ式蚊取り「おすだけノーマット」なる商品。ありがたく頂戴したものの、最初に書いたように、蚊は比較的少ない我が家なので、台所の棚の中に仕舞い込んで、何となく忘れてました。


さらに時間が経過して、ここ半月ばかり。
少しぐらいなら、目くじらを立てなくなった私も「またか」と溜息が出るほど、またもやアリ共が活発化。今回は玄関付近に巣を作ったようです。そこで思い出したのが、おすだけノーマット。

ダメ元で、パッケージの指示に従って「チュッ」と一吹きしたら、これが驚くべき効果。直接噴霧した辺りはもちろん、10分ほどすると、かなり離れた場所にいたアリまで、一網打尽。文字通りの死屍累々。すごいですね。しかも24時間効くそうな。

フェイスブックに投稿したら、知らなかったのは私だけだったらしい。フィリピン在住の友人は、もう常備品だとのこと。日本に一時帰国の際には、ストック購入を忘れませんと、熱の入ったコメントをもらったり。

さすがに、ここまで即効性があると、人体への影響も気になります。ネットで調べてみると、その点もかなり画期的。
殺虫剤に配合されているピレスロイド系は、虫に特異的に働く成分であり、人を含む恒温動物にはほぼ作用しないため、ほとんど害がない。ただ肌(粘膜、特に目や鼻)に対しては、刺激がある場合もあるので、直接かかると、ピリピリする人もいる。(日経トレンディネットより引用) 
なるほど。これなら、すぐ近くで飼っている犬や猫にも心配する必要はないようです。ちなみにこの記事、もう2年以上も前のもの。このブログを読んでおられる方は、「今頃、何を言うとるんや?」と、呆れているかも。

ということで、日本在住でフィリピンに親戚や友人・知人がいるという人。次回訪問時のお土産には、おすだけノーマットがお勧めですよ。


2018年10月28日日曜日

私的フィリピン美女図鑑 セクシー・ヴァンパイア


今年もハロウィンの季節が巡って来ました。
毎年書いているように、カトリック信徒にとっては、11月1日の万聖節(諸聖人の日)がメインで、アメリカ・ローカルの行事ハロウィンは、おまけみたいなもの。子供向けのお祭りですし。

ところがいつの間にやら、お化けや妖怪に仮装するところだけを拡大解釈され、日本では大人がコスプレして、深夜に大騒ぎするイベントになってしまいました。まぁ、日頃溜まったストレスを発散するには、ちょうどいいかも知れないし、宗教的な意味も考えずに、ただの騒げればいいとするのは、日本人のお家芸。(とは言っても、酔った勢いで車をひっくり返したり、痴漢行為をするのは、完全に犯罪ですよ。)

それはともかく、5年前に移住した頃には、それほどハロウィンが盛んでもなかったネグロス。ここ数年、子供が仮装してお菓子を貰いに家々を回る、正統派ハロウィンをやるようになりましたね。もちろん治安の悪さを考えると、深夜に子供たちだけで歩き回らせるようなことはなく、大人同伴で、宵のうちに近所の顔見知り宅だけを訪問。去年は、息子もサブディジョン(宅地)内での共同ハロウィンに参加。

それに感化されたわけでもないけれど、今日の美女図鑑のお題は、セクシー・ヴァンパイア。ナイスボディのフィリピン美人が、ハロウィンの夜、吸血鬼に扮したら...という妄想を絵にしてみました。

美女図鑑では、ホラー系イラストを描いたのは、フィリピン土着のお化け「ホワイト・レディ」以来、約1年ぶり。ロングのドレスで、それほどの露出度ではなかった前回に比べると、今日のイラストは、ずいぶんと解放的に描かせていただきました。


ベースになったのは、格闘技ゲームのキャラクター。特に神話やSFを題材にしたファンタジーっぽい女闘士のコスチュームがいい感じ。ただ、丸写しにすると、ヴァンパイヤではなくなってしまうので、参考にしながらも、最終的にはオリジナルデザインの、金属フレームに皮のビキニとなりました。本当に着用したら、かなり痛そう。

また、今までやったことのないメイクを施したり、唇をできるだけ生々しく描いたり。ここまで凝った頭髪の表現も、多分初めて。こういう設定だと、ずいぶんいろんなことを試せるので、いつも以上に楽しんでしまいました。

そして肝心のモデルさん。
実はフィリピン人ではなく、メキシコ系アメリカ人。2012年のプレイメイト、ラクウェル・ポンプルン嬢。ラテン系美女で、フィリピーナと言っても全然違和感のない美貌。ちょっと反則ですが、頭の中の「セクシー・ヴァンパイア」に、あまりにもイメージがぴったりだったもので...。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス
フィリピーナ in キモノ
マニラ・ガール
スーパーの警備員
タクロバンの薔薇
ジュリア・バレット
オフィレニア5人姉妹
ホワイトレディ
メイン・メンドーサ
スーパーの警備員 再び
日比カップル

2018年10月27日土曜日

ネグロス移住の体験サポート 後編


今日は、これからフィリピン移住を検討しようとしている、定年前の方たちを、サポートできるようなビジネスを考えていると結んだ、前回投稿の続きです。

ビジネスと言っても、そんな大規模な構想を練っているわけではなく、簡単に言えば、小さな一軒家を建てて、それを借家にしようというだけのこと。

このブログを始めるきっかけとなった、ネグロスでの自宅建設。宅地は600平米もあって、当初はそれ全部使って、かなり大きな家を作るつもりで、設計図も完成してました。ところが、2013年の4月にこっちに来て気付いたのが、予想以上の諸経費値上がりと、洪水が増えたこと。

そこで、一部を除いて、ほぼ平屋だったプランを見直して、基本の間取りは、できるだけいじらず、主寝室を二階に持ってきました。こうすれば、使う土地は半分の300平米(それでも広い)で済むし、もし床上浸水となった時には、家財道具を上部に避難させることができる。

これは、年齢もフィリピン移住歴も、私の丁度10年先輩で、マニラ首都圏マリキナにお住まいのMさんの経験談を聞いたのが大きな理由。2009年の16号台風オンドイでは、マリキナ川の氾濫で、1階が泥水に浸かり、大きな被害を出したMさん宅。ただ、かなり広めの2階ががあったお陰で、水が引き、片付けや掃除が終わるまでの間は、何とか生活ができたんだそうです。

そういうわけで、今でも我が家の敷地半分、300平米は裏庭。バナナの樹を植えたり、バンブーハウスを設置してはいるものの、完全に遊休地。数年前ぐらいから、ここにもう一軒、離れを建てようかと考えておりました。


ジャングルに戻りつつある
我が家の裏庭

今住んでいる「母屋」の時は、現場監督は日本人の実父、内装デザインは自分で手がけたこともあり、500万ペソと見積もっていた費用が、350万ペソで済んだので、蓄えに多少の余力が残ったし、いずれは日本の両親を引き取るかも知れない。それはなくても、子供が独立したらそっちに住むこともできる。そろそろ来年(2019年)ぐらいには、動き始めようかと思っています。

とは言え、建てて何年も空き家にしておくのはもったいない。ならば、これからネグロス移住を考えている人たちの背中を押すために、数週間から最大でも3ヶ月ぐらい、移住の体験サポートに使ってもらえないかと、思いついた次第。

広さは、日本的に言うと2LDK程度。お湯の出るシャワーや、寝室にはエアコンも。もちろんインターネットは必須。冷蔵庫・洗濯機のような家電に、寝具やソファなどの家具も必要でしょう。バスタブや停電対策の発電機までは、どうするか少々悩むところ。

つまり、夫婦2人ぐらいなら、ゆったり生活できるゲストハウス。自炊が基本で、掃除と洗濯は、我が家のメイドさんがお手伝いします。用がなければ、日々の暮らしには干渉しないルールとしますが、相談には乗るというスタイル。コンサルタント付きレンタルハウスみたいな感じ。

実は、このやり方、前述のMさんが「ホームステイ」として、自宅の一部をネットで申し込んで来た人にレンタルしておられるのと、ほとんど同じ。

残る課題は、料金設定。
本気でゲストハウス建設費を数年で回収しようとしたら、下手をすると日本の賃貸マンションぐらいの家賃になってしまうでしょうけど、別に大儲けする気もないし、だいたいマニラなどに比べれば辺鄙なネグロス。商売を始めたからと、お客さんが大挙して押しかけるとは到底思えません。

なので、日本に比べてはもちろん、地元のホテルに長期滞在するよりも、かなり割安感がないと、誰も来てくれない。まぁ、これは肝心のゲストハウスの完成目処が立ってから、考えること。大都市ほどではなくても、インフレもあるし。

ということで、年が明けたら、家内とじっくり相談しようと思っております。


2018年10月26日金曜日

ネグロス移住の体験サポート 前編


前回の投稿の結びで、移住を考えている人は、迷う時間があったら取り敢えず住んでみることをお勧めします、みたいなことを書きました。もちろん、だからと言って、すぐに日本の銀行にある全預金額をすべてフィリピンへ移したり、いきなりコンドミニアム購入や自宅建設しろ、という意味ではありません。

やはり何事にも、トライアルは必要。英語の勉強とか、いろんな準備を完璧にしようとして、何年経っても動きださないのは、多くの日本人の悪い癖。本気なんだったら、まずは行動。数週間から数ヶ月でいいので、様子見で住み始めると、心配していたことが意外にも何とかなったり、逆に思いもしなかった不備が見つかったり。

私のネグロス移住の場合、20年前にフィリピン人の家内と一緒になった時、家内の故郷に住みつくことになろうとは、想像もしてませんでした。結婚後、日本にいた15年間、ほぼ毎年、最低でも1週間ぐらいは、家内の里帰りに付き合って渡航を繰り返してたことが、結果として移住のトライアルになっていた次第。

はっきりと意識して、ネグロスに宅地を購入したのが、移住の約10年前。10年間、迷っていたわけではなく、50歳到達時には、早期退職して移住を決行するという、明確なビジョンに基づいての、スタインバイでした。つまり、準備期間が10年もあったことに。

今考えてみれば、1ヶ月でも会社の休みが取れて、お試しネグロス生活ができてたら、移住後最初の1年間に出会ったトラブルは、防げたものが多かったでしょう。致命的ではなかったし、それも経験なのかも知れないけれど、結局は、時間やお金の無駄。

それでも私のように、配偶者が現地の人なら、不十分だったとしてもサポートはあるし、そもそも退職後の永住先に、日本国外の場所を選ぶという発想もできた。

つい最近、日本の報道された、企業での継続雇用年齢を現行の65歳から、さらに70歳まで引き上げる件。再来年の2020年には法制化する見通しだとか。これって誰もハッピーにならない話だと思うんですけどね。70歳まで働きたいと積極的に思う人は、それほど多いとは思えない。

ほとんどは、年金だけで生活もできず、たとえ給与が減額されても、働かくしか選択肢がないから。また周囲も、いつまでも老人が職場に居残られて、嬉しいと感じる人は少数派でしょう。特に、高齢の部下を持つ身になってみたら、何ともやりにくい。下手したら、高齢者の雇用維持のために、若い人の入社が制限されるかも。はっきり言って、政府が、年金の支給時期をできるだけ遅らせたいだけのこと。

これだと、たとえフィリピンとそれほどの縁がなくても、ビザ取得の容易さや、暮らし方によっては、日本よりかなり安く上がる経済状況などから、早めに会社勤めを切り上げて、移住を考える人が、増えるのは間違いない。それならばと、私が考えるのは、フィリピン移住が頭の片隅にある人を、具体的にサポートするビジネス。

こう書くと、すぐに思い浮かぶのは、退職ビザ取得の代行や、コンドミニアムへの投資、ここ数年だと、仮想通貨の購入など。中には悪質な業者がいて、見るからに詐欺としか思えない案件が、ネット上で散見されます。

そんな荒稼ぎ系ではなく、私がイメージしているのは、もっと地道なマンツーマンのサポート。ではどんなビジネスか? 

長くなってしまったので、詳細は、次回投稿をご覧ください。


2018年10月25日木曜日

海外移住生活の今昔


現在40歳前後以上の年齢の方には、実感として理解いただけると思うのは、インターネットの普及と、それに伴う生活の変化。つまり、成人後にネットが急速に広がり、学生の頃にはまったく出来なかったか、出来てもかなり不便だった事柄が、いとも簡単になったこと。

分かりやすいのは、アマゾンによる物品の購入。ただ早くて手軽なだけではありません。リアルの書店やCD店では容易に見つけられなかった、昔の作家の作品だとか、子供の頃聴いた曲など、一瞬で探し出せる。電子書籍や音楽配信ならば、宅配の必要さえなくなって、欲しいと思い立ってから数分で読んだり聴いたり。

その他にも、長らく音信不通になっていた、中学や高校の旧友と再会できたり、遠方に住む家族や友達に、誕生日祝いを贈ったり。

仕事でも、オフィスや現場に行くことなく、居ながらにしてパソコンやスマホで完結可能な職種が、かなり増えてきました。端的なのはこのブログ。私でも僅かながら広告収入は得ているぐらいなので、もし、1投稿で何十万ビューも取れるカリスマ級だったら、家から一歩も出ずに、生活費ぐらいは余裕で稼げたりします。

つまり、文筆業ならば、取材活動を除けば、全部のプロセスをネットだけでこなせる。アプリだけで描画している「フィリピン美女図鑑」のイラストでお分かりのように、イラストレーターも同様。ソフトのプログラミングは典型的だし、設計の仕事も、個人購入できる価格のパソコンやソフトウェアで、立体形状のデータが作成可能。

この頃では、英会話もスカイプによるオンラインが大流行りで、ビジネスの世界ではもう珍しくない。まだだいぶ揉めてるようですが、医療の世界でもオンラインのスタイルが普及するのは時間の問題だと思います。だって、日本では人手が足りない上に、老人ばかりが増えるんだもの。

と、長々と書いてきた、インターネットによる生活の変容。すべて私が、ここネグロス島でも恩恵に浴しているものばかり。意外にフィリピンからも使い勝手がいいのが、アマゾン。時々日本から来てくれる家族や親戚、友人に持ってきてもらう品物を頼むのに、相手の自宅に欲しいものを直接配送できるので、間違いがなく、お互い手間いらず。

何よりも、こうして毎日、日本語でのコミュニケーションができるし、日本語の最新ニュースも見聞き可能。実は日本でもよく在宅勤務はしてたし、引きこもっていれば、日本にいた頃とほとんど何も変わらない。

思えば、最初の東南アジア出張で、1ヶ月間アセアン諸国に滞在した時は、まだオフィスにも自宅にもネット導入前。毎日「東南アジア通信」と題して、手書きの業務レポートをファックスで送ってました。電話もそうそう掛けられないし、効率は悪かった。その反面、上司からの開放感は大きかったですけど。


たった1ヶ月でも、ちょっとした島流しというか、帰国後は浦島太郎状態。当時、フィリピンに永住や長期滞在してた人と比べると、今の私の生活は、経験としてまったく別物だったでしょう。特に配偶者がフィリピン人だったりすると、日本語すら喋る機会がなく、日本人会への精神的依存率が高くなるのも、当然だったろうと思います。

またネグロスのように、日本人が少なかった地域(今でもマニラなどに比べれば、桁が二つぐらい違います)なら、現地に溶け込むしか、生きる術がなかったでしょうね。

見方を変えれば、ネットが張り巡らされた現代では、通信さえ確保できれば、世界中どこに住んでも、昔より格段に快適になっている。似たような環境の人と情報交換はできるて、孤立感・孤独感は皆無。会ったことがない人まで何やら言って来て、鬱陶しいと思うほど。

ということで、これをお読みで、フィリピンで住もんだり働いたりすることを考えている皆さまへ。悩んでいる時間が惜しいので、すぐに来てみることをお勧めします。やる気さえあれば、何とかなるもんですよ。


2018年10月24日水曜日

シライで殺人事件


いつものように、私が家内と息子のために作った弁当を、配達に出かけたメイドのライラ。家内のオフィスと息子の小学校は、道をはさんだ向かい合わせで、自宅からトライシクルで5分の距離。今日はついでに、食材の買い物も頼んだとはいえ、ずいぶん長いことかかっている。

結局ライラは、30分もあれば終わるところを、1時間以上もかかって戻ってきました。学校で話し込んでいたらしい。それを私に伝えようとするけれど、ライラの英語は、お世辞にも上手とはいえません。私もイロンゴはまだ勉強を始めたところ。何とか聞き取った内容は、驚くことに、近所で発生した殺人事件。

昨日(10月23日)の夜、息子のクラスメート、シマヤの家に男が押し入り、メイドさんを刃物で殺害したとのこと。シマヤ(女の子)は、息子の誕生日パーティに来てくれたこともあり、私もよく知っています。確か、そんなに大きな家でもなかったし、強盗に狙われるような金持ちでもなかったはず。

帰宅した家内によると、殺されたメイドさんは、まだ16歳。仕事などで学校に通えない人のための、個別教育支援を受けていたそうです。家内の職場は、フィリピン教育省のシライ市分室。市の教育委員会のような仕事なので、名前ぐらいは知っていたらしい。

押し入ったのは、見ず知らずの物盗りではなく、近所に住む顔見知り。メイドさんを強姦することが目的で、騒がれたために殺害したとのこと。シマヤを含む家族は、2階にいて無事。男は警察に逮捕されました。

犯人は薬物中毒だったとの噂もありますが、どういう経緯があったにせよ、これは酷すぎる。16歳って、私の息子とそんなに違わない、まだ子供じゃないですか。親御さんを始め、ご家族の心中は察するに余りある。

ここシライ市は、州都バコロドなどに比べると、まだ治安は良い方ながら、やっぱり時々、殺人などの凶悪犯罪があります。数年前には、日本NGOのマネージャーが住む事務所兼宿舎が拳銃強盗の被害にあったり。

ただ、人が殺され、しかもその関係者が知り合いというのは、移住してから初めて。これはかなりのショック。殺されたのは、住み込みのメイドさんで、ヤヤ(乳母)。雇い主にとっては家族に準じる存在。その家の子供にすれば、母親代わりか、お姉さんみたいな感じだったでしょう。

同じようなことが、もし日本であったら、おそらく被害宅の子供さんだけでなく、その友達まで、心理カウンセリングを受けるよう勧められるケース。

ところが、フィリピンでは、そういう対応は一般的ではないようです。第一、学校の先生からは、特に何の話もなかったし、シマヤも普通に登校したとのこと。

ということで、詳細はまだよく分かりません。また何か情報が入ったら、改めてこのブログでお伝えします。


2018年10月23日火曜日

バック・トゥ・ボラカイ


出典:ABS-CBS News

フィリピンで最も有名なビーチ・リゾートの一つ、ボラカイ島。ドゥテルテ大統領の強権発動で閉鎖されたのが、今年(2018年)の4月26日。発端となったのが、大統領が見た海に浮かぶ汚物なので、下水道対策を中心に、施設の改修が進められたそうです。

当初は、半年程度で済むのかと危ぶむ声もあり、実際、予定された工事は遅々として進んでいないとの報道も。結局、一挙に全面開放ではなく、段階的な再開ということになったようで、今週末の10月26日(金曜日)から、観光客の受け入れが始まります。ただし、新しいルールはかなり厳しく、ABS-CBNのサイトによると次のような「お達し」が発表されました。


観光客数は、上限が1万9千人。島に入るには島内ホテルの予約内容示す印刷物が必須。1万2千室あったホテルの部屋数は、6千から9千まで減らすこと。また下水に未接続だったり、独自の浄化施設がないホテルは営業不可。

ビーチでは、喫煙ダメ、酒を含めた飲食がダメ、土産物屋も行商もダメ。灯油を使ったファイヤーダンスも、夜間の照明もダメ。花火は午後9時まで。年に一度の「ラボラカイ」というパーティも禁止。要するに、砂浜を汚すようなことは一切ダメ。

住民にも規制は及び、豚、鶏などの飼育ができず、炭火による肉料理、つまりレッチョンが作れなくなります。さらには、周辺海域でのダイビングや、ボート遊びなども一時禁止措置。極め付けは、島内のカジノが許されなくなったこと。なかなか徹底してますね。

言い出しっぺが、ドゥテルテさんじゃなかったら、どうせ言うだけで誰も守らないんじゃないかと疑ったかも知れないけれど、今度ばかりは世界中から注目されてるし、当局は、相当厳格に守らせるでしょうね。大統領自らの抜き打ち査察とか、本当にありそうだし。

そんなオフィシャルな話だけではありません。週に一回、私の家内のマッサージをお願いしていた、出張セラピストのシェリル嬢。実は彼女、最初はネグロスで働いていたのが、ボラカイに仕事を見つけての国内出稼ぎ。閉鎖の煽りで一時出戻って、半年期間限定で我が家に通ってもらってました。

シェリルは真面目だし、時間もきちん守る。家内もお気に入り。もう少しボラカイ再開が先延ばしにされないかなぁと内心思っていたぐらい。でも、一応予定通りに事が運んだので、最後に夕食をご馳走して、ボラカイへ送り出したという次第。


息子とツーショット

やっぱり知っている人が当事者だと、見方が変わってくるものですね。在留邦人の中には、ボラカイ閉鎖の一連の騒ぎに、ずいぶんと無責任なヤジを飛ばすオっさんもいます。何かというとフィリピンの社会や政治の不備に結びつけて、上から目線のバカにしたような言い方。島で働いたり、住んでたりする人の身になって考えれば、あんな物言いはできないと思いますよ。

ということで、まだ完全復旧には時間がかかりそうですが、リゾートへ来る人も、それを迎える人も、みんながハッピーになる結末を心待ちにしております。


2018年10月22日月曜日

ダイソー、ミニソー、次がヨヨソー

ここネグロスにも進出して久しい、日本発の100円均一ショップ、ダイソー・ジャパン。商標権を巡って、中国系の会社を訴えたり、紆余曲折はあったものの、フィリピンでもすっかり定着したようです。

値段は88ペソなので、約200円とほぼ倍。フィリピンのお客さんには、安物の店ではなく、日本クオリティ(必ずしも日本製ではなくても)の、ちょっと洒落た生活雑貨が買える場所として認知されているみたいですね。印象としては、無印良品にやや近い感じもします。

そして、成功したビジネスモデルには、後追いが出てくるもの。99ペソに価格を上げて、表向きは日本人デザイナーがディレクションしたような宣伝。凝った設えで登場したのは、中国版のミニソー。バコロドのSM(ショッピングモール)に出店して、すでに1年以上が経過。このブログでも紹介しました。

ミニソー侮りがたし

さらに追い討ちをかけるように、今度はヨヨソー(YOYOSO KR)なるお店ができました。こちらは、バコロドではなく、先日、日帰り出張したセブのアヤラ・センター内。韓流スターらしきモデルを起用し、看板にはハングルが書かれている。てっきり韓国系の会社なのかと思って、フェイスブックに「韓国版ミニソー」と紹介したら、実は中国系だと指摘をいただきました。書いてあるハングルは意味不明で、商品は全部中国製だそうです。



ホンマかいなと、2度目に行った時に確認したら、商品の裏面表記は、簡体字で書かれたものばかり。これって、海外向けじゃなくて、中国国内向けの品物を、そのまんまフィリピンに持ってきたようですね。推測するに、ここ最近、サムスンなどの頑張りで、知名度が上がってきた韓国のイメージ。それをちゃっかり拝借して、あたかも韓国メーカーが日本に追随したかのように装っている。なんとまぁ屈折した筋書きだこと。

ただ、そんなことに拘るのは、おそらく日本人だけだろうと思います。値段が手頃で、見た目がそこそこなら、あんまり深く考えずに買っちゃうんでしょうね。

よく考えたら、昔の日本だって似たようなことやってました。自動車も家電製品も、元をただせばアメリカ製。常にお手本があって、最初はデッドコピーから。いろいろ改良やら、日本向けアレンジを加えるうちに、いつの間にか本家を追い越してしまっただけのこと。

現在の中国や韓国のことを、パクリだの猿真似だのと騒いでいる人は、昔のことを都合よく忘れたか、単に無知なだけ。30年、40年前と違い、知的財産や商標権については放置できませんが、むしろ、真似してもらってるうちが華、という気さえします。


2018年10月21日日曜日

手作りシロップかき氷


もう10月も下旬で、日本では秋。さすがの酷暑も遠ざかった頃。それに対して、初夏〜盛夏〜梅雨の繰り返ししかないネグロスでは、この時期でも、天気が良ければすぐに30度越え。アイスクリームは、年中冷蔵庫のフリーザーに常備。バナナ同様、切らすと何となく落ち着かない。

日本では、気温が摂氏30度を超えると、アイスクリームの売れ行きが鈍化し、シャーベットやかき氷が好まれる傾向があるんだそうです。確かに、日本の蒸し暑さの中で、口の中にベトつきが残るアイスクリームより、さっぱりした後味のかき氷の方を食べたくなるのも分かります。

しかも、マイナス18度以下で保存のアイスクリームより、文字通り「氷温」0度のかき氷が、冷たく感じるのも不思議なところ。

これって、世界共通の感覚かと思ったら、フィリピンではそうでもないらしい。少なくとも私の住むネグロス島・シライ市内では、そもそもシャーベットが市販されているのを、見たことがない。まったくないのか、本当はあるんだけど、売れないからお店にないだけなのかはよく分かりません。唯一見かけるのは、ハロハロの中に遠慮がちに入っているぐらい。

一応、日本から手回しの家庭用かき氷機を、引っ越し荷物に入れて持参。移住後もたまに作ってました。ところが、自宅かき氷文化がないご当地。シロップを売ってない。いろいろ探しましたが、かき氷に掛けられるアイテムは、練乳(コンデンスミルク)ぐらいしか見つかりません。



角氷を入れてガリガリ

氷菓の場合、甘みを控えると全然味がしないので、練乳だけだと、かなり大量に使うことに。これではせっかくの「さっぱり感」がなく、アイスクリームと大差がなくなってしまう。なので最近は、せっかく海を越えてお供してきた、かき氷機も、食器棚の奥に仕舞われたままでした。

ところが昨日、何のきっかけだったか、「かき氷、シロップ」で検索したら、クックパッドにレシピが。レシピというほどのものでもなく、砂糖を等量の水を鍋で煮るだけのこと。投稿者も「コツ・ポイント、何もなし」と書くぐらい、これ以上はないシンプルさ。敢えて言うなら、水・砂糖1カップづつに塩を小さじ一杯加えるぐらい。

さっそくやってみました、手作りシロップ。ネグロスのブラウンシュガーなので、透明ではなく、茶色いシロップが出来上がり。何の香りもしないけど、確かにかき氷の味ですね。代用品としては十分過ぎるほどの再現度。これなら、練乳を少しかけるだけで、雰囲気は出ます。

ちなみにこの投稿を書くに当たって、調べてみたら、かき氷は英語でシェイブド・アイス(Shaved Ice)。シャーベットじゃなかったんですね。シャーベットは、果汁などを凍らせたもの。なるほど。

ということで、今日も晴れて暑いネグロス島。早速お一人様かき氷!と思ったら、朝から下痢。なんでそうなるかなぁ?(泣)


2018年10月20日土曜日

損得では語れないフィリピン移住


フィリピン・ネグロス島に移住してからの日々を、5年も書き綴っていると、時々こちらでの生活についての、質問や相談を受けたりします。

質問者は、フィリピン人配偶者がいたり、ある程度の予備知識はお持ちのケースがほとんど。中には、私よりもフィリピン経験が豊富で、自宅建設の詳細だけ教えてほしいという人も。ここまで分かっているなら質問も具体的だし、確信を持って返答できます。

困るのは、漠然としたお尋ね。その人に関して、年齢以外に何も知らされてない状況で、「コストパフォーマンスはどうですか?」みたいなことを訊かれても、どう答えていいのやら分かりません。

フィリピンに限らず、外国に住もうとするのは、大なり小なり、生き方を変えること。それも、中高年以上になってからとなると、相当なビッグ・チャレンジになるのは間違いない。私のように、30代の頃から、東南アジアを始め、出張ベースなら20以上の国を巡った経験があっても、一箇所に留まったのは、最長でも3ヶ月程度。何年、何十年と暮らすのとは、インパクトの大きさが段違い。

ネグロス島での生活費を、単純に日本のそれと比較することはできます。ガソリンや家電製品など、日本と同じか、物によっては割高なものはあっても、ざっくり1/5〜1/4程度が実感。ただし、好景気の影響でインフレはすごいし、食材も生活雑貨も、その内容や質には大きな差がある。

例えば公設市場だと、ナスビは虫食いが普通で、豚肉は購入後すぐに調理するか冷凍しないと、すぐに臭くなる。魚なんて、切り身はほとんどなく、血抜きもしていない丸ごと1尾が、店先にゴロン。

住宅設備は貧弱で、雨漏りしたりトイレが詰まるのは日常茶飯事。修理しようにも、業者とはなかなか連絡は取れない。やっと電話が通じても、約束の時間を平気ですっぽかす。こういう感覚は、ネグロスに限らず、マニラやセブなどの大都会でも、大差はなさそうです。

全部が全部、そういう訳でもないけれど、日本で当たり前に買える物、できる事が、思ったようにはいかないのがフィリピン。いくら安く上がっても、これでは騙されたようなものだと、毎日不満とストレスで爆発しそうになるかも知れません。目先の金銭的な損得勘定だけで、フィリピン移住を決めると、落とし穴にハマる可能性が大。

真剣にフィリピンに住むことをご検討ならば、希望する自分のライフスタイルがどのようなものか、できるだけ具体的に思い描くことが第一。仮に食生活や居住環境が、日本とまったく同等であることが必須条件ならば、まずフィリピンでは暮らせないでしょう。

何らかのビジネスをするにせよ、趣味に生きるにせよ、どうしたって、今現在の日本の生活からは、犠牲にせざるを得ない何かがあります。そうした失うものと、フィリピンでしか実現できない価値を天秤にかけて、納得がいくかどうか。

同じ年月を過ごして、残るお金が多い方を選ぶという損得だけでは、フィリピン移住の価値はまったく語ることができません。

ここまで書いてふと気付いたのは、これって、就職活動の心構えと似ているということ。初任給がどうだとか、平均給与が高いとか、あるいは、年休が取りやすい、仕事が楽。そういう今見えている損得勘定で、職業や就職先を選びたくなる気持ちも分かります。でも、高度経済成長の頃ならいざ知らず、このご時世、5年10年先どころか、1年後ですら予測が難しい。

今では、スマホなしの生活なんて、想像できない人の方が多いでしょうけど、アップルから最初のiPhoneが発売されたのが、たった10年ちょっと前の2007年。しかも、現在スマホのトップブランドは、そのアップルですらなく、韓国メーカー、サムスンが開発したギャラクシー。さらに、世界的には中国メーカーが、市場を席巻しつつある状況。

こんな時代に、大企業の社員や公務員を目指すなんて、ちょっとは自分の頭で考えたら?と言いたくなります。AI(人工知能)に、8割の仕事が取って代わられる、とさえ言われているのだから、将来性や安定感なんて言っても、まったく当てにならない。それより、自分が何をしたいのか、何になりたいのかが、プライオリティ・No.1だと思うんですけどね。

それとまったく同じなのが、移住先の選択。コンドミニアムが値上がりしそうだとか、今現在の物価が相対的に安い、ということだけを理由にしたら、後悔すること間違いなし。それは飽くまで二の次で、フィリピンで何がしたいのか、どういう暮らしを望むのか。そこを起点に考え始めないと、ちょっと状況が変化しただけで、大損したから日本に戻る、なんてことになりかねませんよ。


2018年10月19日金曜日

私的フィリピン美女図鑑 マダムMの肖像


このところ、完全に「月刊」ペースになっている美女図鑑。10月のモデルは、当ブログのレギュラーとも言うべき日本人女性、マダムMの登場です。

私がこの国に関わりを持ち始めた20年前に比べると、ずいぶん状況は変わっても、やっぱりフィリピン関係の日本人コミュニティ内では、どちらかと言うと、中高年男性がデカい顔をしている印象。

自分のことは棚に上げて恐縮ながら、そんなむさ苦しい雰囲気を一新する、元気な女性の代表格のようなマダムM。20代の頃には青年海外協力隊の一員として、シキホール島を中心に活躍され、英語だけでなく、現地のセブアーノ語にタガログ語まで堪能。私の中途半端なフィリピン歴など、軽く張り手一発で黙らせるような、叩き上げのフィリピン通です。

しかも、コミュニティのマドンナ的存在になるほどの美貌。幼稚園と小学生のお子さんを連れて、この8月、我が家にお越しいただいた時など、メイドのライラがファンになってしまいました。多分セブアーノ語を話せる日本人に会ったのは、初めてだったでしょうね。

さて、似顔絵の話。
リアルの友達や知り合いを描く時は、いつでも悩むのは衣装。本職のモデルさん、女優やタレントなら、すっごくきわどいコスチュームや、大胆な露出度の水着など、何でも有りですが、さすがによく知っている人の場合、たとえそれが似合っていても躊躇します。

そこで、実際に着用しても大丈夫そうな服やアクセサリーを、ネット上で探し回ることに。今回は、私の頭の中には、かなり明確なイメージがあっただけに、なかなかそれにぴったりのものが見つからず。描き出すまでに、これほど時間がかかったのは、多分、今までなかった。

最初は伝統衣装の検索から入ったのが、落ち着いたのは、東南アジア風のモダンファッション。ご本人からは「盛り盛りに盛ってください」とのご要望でしたけど、調子に乗って盛り過ぎると、違和感ばかりになる恐れも。以前から書いている通り、せいぜい2割り増し程度に抑えるのがコツ。


ということで、準備期間込みで丸1ヶ月、ようやく昨夜遅くに描き上げました。
何とか、マダムには気に入っていただけたようで、安堵しております。結果的にそんなに盛る必要は、なかったですよ。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス
フィリピーナ in キモノ
マニラ・ガール
スーパーの警備員
タクロバンの薔薇
ジュリア・バレット
オフィレニア5人姉妹
ホワイトレディ
メイン・メンドーサ
スーパーの警備員 再び
日比カップル

2018年10月18日木曜日

ミスターM in セブ


前回に引き続き、パスポート受け取りのためのセブ日帰り出張について。

往復とも飛行機で、ほとんど他に便がないバコロド〜セブ。要件が早く終わったからと、ちょっと早めのフライトに変更...とはなりません。大阪〜東京だったら、空席さえあれば、飛行機でも新幹線でも、最近はスマホがあれば何とでもなるご時世。

そんな利便性は、フィリピンでは一体いつになることかと、ちょっと前だったら諦めモードだったでしょう。ところが今は、ものすごい勢いで、インフラのキャッチャアップが進むこの国。Grab(グラブ)などのカーシェアリングなら、スマホで普通に、家の前に車を呼べます。モノによってはフィリピンの方が便利なほどなので、意外に早くできちゃうかも知れません。

それはともかく、パスポートも家内の日本への再入国に関する相談事も、午前中に済んでしまって、夕刻5時のフライトまでは何もすることなし。アヤラ・センター内の日本レストラン「和民」で、久しぶりのトンカツ定食を食べていると、セブ在住のフェイスブック友達から、メッセージが届きました。


トンカツも美味しいけど、
お代わりできるキャベツが嬉しい

「時間がありましたら、お会いしてお話しませんか?」
こういうタイムリーなご提案をいただくのも、フェイスブックのお陰。単に友達になっているだけでなく、朝から飛行機に乗ったとか、朝食はUCCでとか、アホのように写真を投稿しているので、こちらがどこで何をしているかを常に告知しているようなもの。暇そうにしとるな、と思われたんでしょうね。

このお友達、実は直接お会いしたことがありません。70代の日本人男性で、例によって奥さまはフィリピン人。60歳で勤め先を退職した後セブに渡り、奥さまと出会って結婚。元々、サーフィンやスキューバダイビングなどのマリンスポーツが大好きで、ボラカイの海に惚れ込んだのが、フィリピン移住のきっかけだったそうです。

私より干支一回り以上の大先輩ながら、フェイスブックでのやり取りによると、私同様「人生の撤退戦」をすべて経験された、言わば戦友のような経歴。なので、渡りに船とばかりに、それではぜ是非お会いしましょう、となりました。

ちなみにお名前のイニシャルがM。この8月、我が家にお越しいただいたマダムMや、同じくセブ在住のレディMと並んで、このブログでは、新たなフィリピン関係友人ミスターMと、勝手に命名させていただきます。

さて、実際にお会いしたミスターM。予想通り、気難しさとは無縁の、長身で、見るからにお元気そうな方。SNSで知り合ってのオフ会ではよくあるように、お互いに初対面の硬さがほとんどありません。先方も歳下の私に、たいへん丁寧な話し方。

わざわざこんなことを書くのは、フィリピンに住む年配の男性って、こちらでの生活が長いほど、自分より若い日本人に、変に尊大な態度だったり、初対面なのに後輩か部下に対する言葉遣いみたいな人が、たまにいるからなんですよ。

それから約3時間弱、いろんなお話をさせていただきました。また、お茶をご馳走になったり、空港まで車で送っていただいたりと、至れり尽くせり。有難いことです。

ところで最近、上にも下にも、ずいぶん年齢差の大きな人と話し込むことが多いですね。年齢を気にせず、友達付き合いができるのも、日本でのしがらみから離れた立場ならでは、という気がします。


2018年10月17日水曜日

再入国許可と永住ビザ


機窓から見たカンラオン山と
バコロド市街地

昨日は先週に続いて、更新されたパスポートを受け取りに、セブにある日本領事館へ。例によって、朝3時半起き。5時のフライトに乗って6時過ぎにはマクタン・セブ空港に到着。

今回は、ほんの少し飛行機の到着が遅く、そのため空港からセブ市内へは多少の渋滞につかまりました。なので、空腹を抱えてカフェの開店時間を待つ必要もなく、朝食のために、領事館隣のアヤラ・センター内にある、UCCカフェテラスへ直行。UCCとは、上島珈琲カンパニー。日本人にはお馴染みの、懐かしいロゴの入ったお店で、日本のちょっと高級な喫茶店と同じ味、同じサービス。




トーストに目玉焼きとベーコン、サラダの付いたモーニングサービスみたいなメニューと、ホットコーヒーを頼みました。わざわざ日本産の食パンを使ったり、ネグロスではまずお目にかからない、熟れて甘みのあるトマトのスライス。そしてお値段も日本並みの450ペソ(約1,000円!)。それでもフィリピン人と思しきお客さんもいたので、やっぱりこの国は好景気なんですね。

さて、主目的のパスポート受け取りは、10年用の更新料、7,150ペソ(約15,000円)を支払って、瞬殺で完了。まだ午前9時にもなってない。あとは、夕方のフライトまでひたすら観光、と言いたいところですが、昨日はミッションがもう一つ。

私のパスポート同様、家族での一時帰国で発覚した、家内の日本再入国許可の期限切れ。今年(2018年)の3月までだったんですよね。それとは別に、家内は日本の永住ビザを取得済み。こちらはまだ来年の11月まで大丈夫。永住なんだから再入国許可は何とかなるのかと、勝手に思い込んでおりました。

ところが家内が、以前の仕事で知った、日本の旅行代理店に確認してみたら、どうも永住ビザの有無とは関係なく、入国用にはビザが必要なんだとか。この代理店は、マニラやセブにオフィスがあって、日本への渡航者向けに代理でビザ取得のサービスも行っている、フレンドシップツアーという会社。そこで、私が家内のパスポートや再入国許可延長の申請書類を持参して、セブ市のお隣、マンダウエ市内のフレンドシップツアーの窓口へ。

対応してくれたのは、40代前半ぐらいの日本人女性のスタッフ。たいへんしっかりしていて、物腰も丁寧。UCCの朝食と同様、こちらも久しぶりの日本クオリティ。

よく聞くと、再入国の延長は期限内じゃないと不可。そりゃそうでしょうね。また、一般には永住ビザと呼ばれていても、正しくはビザ(査証)ではなく、日本国内に住む権利を認めたもの。確かに家内の在留カードのどこにも「査証」の文字はない。

なので、入国するには、やっぱり何らかのビザを取り直す必要がある。一時帰国で滞在期間はせいぜい2週間程度なので、観光ビザを申請することに。でもこの場合、渡航予定日の3ヶ月前からしか申請書を受け付けない。必要書類のリストだけもらって帰るしかありませんでした。

それにしても、こういう話は、セブの領事館で教えてくれるのが筋だと思うんですけど。そちらでは、管轄が入国管理局なので分からんと門前払い。マニラの大使館では対応できるそうですが、なんともお粗末。日本政府の接客対応が、日本クオリティじゃないのは皮肉なことです。

やや消化不良な感じを残しつつ、セブでの各種手続きは一応完了。それでもまだ午後1時過ぎ。残り4時間何しようと思ってたら、有難いことに、セブ在住の日本人のフェイスブック友達から、時間があるなら、会って話をしませんか?とのお誘い。

ということで次回は、このお友達とのオフ会について投稿します。


2018年10月16日火曜日

テクノロジーは国を助けず


出典:ABS-CBN News

もちろん、基本的にテクノロジーの進歩は、人間の暮らしを便利に、快適に、昔ならできなかった治療を実現したり、国を助けているのは間違いありません。ただ、ネグロスへ移住してから、フィリピンと日本の状況を見比べることが増えると、必ずしもそうじゃないのでは?という疑問も多々浮かんできます。

よく思うのは、東京を始めとする日本の大都市と、フィリピンのマニラ首都圏の比較。私が子供の頃に読んだ、長谷川町子さんの漫画「サザエさん」には、すでに通勤通学時の電車を表現した「酷電」(JRの旧称が国鉄で、山手線などは国電と呼ばれていたことからの皮肉)という文言が出てきます。

50年以上前から、過密ぶりは常軌を逸したレベル。普通に考えたら、とうの昔に全体システムが破綻しているべきところを、臨海副都心と称して、海側に都市部を拡大したり、地震が多発する国土で、超高層建築が難しいところを、世界に類を見ないような耐震技術を駆使して、50階建て、60階建てのビルを建設したり。

鉄道や道路なんて、私でも路線図を見て混乱するほどの超高密度。こちらもフィリピンなら、まず構想すらされないような、大深度地下鉄だったり、海底トンネルを掘り抜いての東京湾アクアラインだったり。それでも事足りずに、やれ3本の環状線を完成させろとか、東京〜大阪を1時間で結ぶリニア中央新幹線だとか。



それに遅れること約半世紀の、我が第二の故郷フィリピン。漸くと言うか遂にと言うか、ここ10年ほどの経済成長のおかげで、田舎のネグロスですら物価は高騰し、マニラ首都圏では市民の生活に深刻な影響出るほどの、慢性的な交通渋滞。言わば、1964年東京オリンピック直前の日本、みたいな感じでしょうか。

しかしながら、地下鉄の計画だけでもなかなか進まず、何十年も放置してきた、骨董品レベルの交通手段、ジプニーやトライシクルの改革事業が緒に就いたばかり。3年前に、世直しの期待を一身に背負って、大統領に就任したドゥテルテさんは、この問題に関して、テクノロジーで何とかする発想はではなく、マニラへの一局集中に歯止めをかける方向へ舵を切りました。それが、政治・経済の中心を各地方に分散させる連邦制。

フィリピンの国情からして、これしか方法がなかった側面もありますが、よ〜く考えてみたら、こっちの方がよっぽど無理のない、根本的な解決方法じゃないかと思えてきました。1980年代には日本でも、遷都や道州制など、似たような議論が盛んだったのに、バブル崩壊と同時に雨霧消散しちゃいましたね。

例えてみると、本来はずっと以前に引退するべき爺さんを、テクノロジーの力で無理やり生き長らえさせて、いつまでも社長をやらせているようなもの。次世代の経営者は育たないし、もしものことがあったら、大混乱は必至という状態。関東大震災並みの災害が、もう一度東京を襲ったらと、誰しもビクビクしているでしょう。恐ろしいのは、医療の現場がまさに同じという事実。

日本人の寿命が延びたのは喜ばしい反面、本当に生きている意味があるのかというような、死ねない老人を生み出してしまいました。医療費は高いし、本人も家族も、それ以上の延命は望んでいなくても、下手に治療を中止すると、担当医師が殺人で告訴されかねないので、止めるに止められない。「長生き地獄」なんて本が、よく売れてるらしい。

日本人は、確かに創意工夫の点では世界に誇れる能力があるし、短期的な目標達成に関しては、超人的馬鹿力を発揮します。でも、ひょっとしてこれは、言葉を換えると「器用貧乏」というヤツじゃないですか? 見た目は清潔で便利で長寿で、素晴らしい生活環境にいるはずが、幸せを実感できない人が過半数だったり。

もうそろそろ価値観や物の考え方を、見直してもいい時期に、来てるんじゃないでしょうか?


2018年10月15日月曜日

フィリピン受けしないユーミン

iTunesは、インターネット経由で音楽を聴いたりダウンロード購入できるアプリケーション。アップルが作った音楽プレーヤーのiPodは、2001年の発売開始直後に購入したので、そのバックアップアプリであるiTunesとは、もう17年も付き合っていることになります。

当初はネット経由の購入ではなく、買ったりレンタルしたCDをリッピング(この言葉もほぼ死語)するためにしか使ってませんでした。ダウンロード・サービスが本格化してからも、私の音源はもっぱらレンタルショップだったので、プレイリスト編集専用だったわけです。

ところがフィリピンに移住してからというもの、ネット経由の音楽購入ばかり。日本のCDを入手できないので、当然と言えば当然。世界の流れは、ダウンロードからストリーミングに変わってしまい、常に流行から一歩遅れている私。ネット環境が今ひとつのネグロスでは、それも仕方ありませんね。

そのネグロスで、どんな日本の音楽を買っているのかと言いますと、半分以上は懐メロ。中学や高校の時、お小遣いが足りなくて買えなかったレコードを、今頃になって復讐するように、デジタル化された復刻版を買い漁っている次第。

古いものだと、ガロの「学生街の喫茶店」や財津和夫さんの「心の旅」、吉田美奈子さん「夢で逢えたら」、谷山浩子さん「カントリーガール」などなど。1970〜80年代に青春を過ごした人にとっては、イントロだけで涙ぐみそうな名曲ばかり。

もちろんそれだけではなく、比較的新しい、「トイレの神様」「手紙〜拝啓十五の君へ〜」なども、フィリピンに来てから購入しました。そして嬉しいことに、先月(2018年9月)。突如として、ユーミンこと松任谷由美さんの曲が次々とiTunesに登場。中学生の頃からユーミンを聴いていたのは、以前にもこのブログで書いた通り。

なぜか今まで、iTunesでの楽曲販売には消極的だったユーミン。確か荒井由美時代のものぐらいしか、なかったんじゃないでしょうか。1980年代の中頃までのアルバムは、全部CDで揃えていたので、それでも良かったんですが、名義が松任谷に変わった頃に発表された2枚のシングル、「潮風にちぎれて」と「遠い旅路」は、長く入手できない状態になっていました。


別にコレクターではないけれど、EPレコードでも買ったし、結構好きだったんですよ、この2曲。ダウンロード開始早々ゲットして、iPodならぬiPhoneに入れて、しょっちゅう聴いてます。

それにしても、ユーミンは、フィリピン人には受けませんね〜。なぜなら、ユーミンの魅力って、おそらく6〜7割は歌詞。特に中期以降の「悲しいほどお天気」や「時のないホテル」なんて、どの曲の詞をとってもテレビドラマや映画が作れるほど、聴く者の想像力を掻き立てる。ユーミンという人は、小説家になっても成功しただろうなと思うほど。

ところが、日本語を理解せず歌唱力だけで評価されたら、かなり厳しいものがある。歌い上げて聴かせるタイプではありませんからね。家内など「ちょっとヘタちゃう?」と、身も蓋もない。

そこへ行くと、フィリピンで誰に聴かせても人気なのは、サザンオールスターズ。桑田佳祐さんは、日本語を英語っぽい抑揚で歌う独特のスタイル。どっちかと言うと歌詞の内容より、センスで聴かせているので、軽く国境を飛び越えちゃうのか知れません。実際、「いとしのエリー」や「真夏の果実」は、タガログ語カバーバージョンがヒット。

ということで、50代も半ばを過ぎて、しかもフィリピンに来てまで、聴いているのは、学生の頃とほぼ同じという、進化のないミュージックライフを送っている昨今です。


2018年10月14日日曜日

ネグロスの高級イタリアン


よく晴れて暑い日曜日。今日は教会でのミサの後、隣街の州都バコロドへ。まず、ロビンソンズ(ショッピングモール)内スーパーマーケットの輸入品コーナーで、紙パックの豆腐や、インスタントラーメン、ほんだしなどの日本食材の買い出し。

そしてお昼時。近所に住む日本人の友達から教えてもらった、イタリア料理レストランに行って来ました。聞くところによると、値は張るけれど、味もサービスも満足度が高いとのこと。この友達、私と同世代の人で、かなりの舌の肥えた方。彼がそう言うなら、まず間違いないでしょう。

日曜日のランチタイムなので、そこそこお客さんが入っているのは当然としても、みなさん、いかにもお金持ち。顔つきがまず違っていて、半分ぐらいは、明らかに外国人。聞こえてくるのは、ネイティブっぽい英語や韓国語。もちろん残り半分は、地元の人でも、やっぱりスペイン系や中国系のメスティーソばかり。

店の内装もずいぶん落ち着いていて、ネグロス島にいるのを忘れてしまいそう。何より、数人のウェイターが見るからに頼りになる感じ。アルバイトっぽい自信なさげな感じではなく、まるで、一泊数万円のホテルの従業員でも務まりそうな、体格のいい壮年男性ばかり。受け答えや動きが、実にキビキビしてて、見てて気持ちいい

メニューを見て、客層や店構えがそうなるのも納得。今日はたまたま家内は留守番でしたが、もし同席してたら、注文する前に店を変えようと言い出したかもしれないほど、高っか〜〜〜い。シライ市内の一番いいレストランの、軽く3〜4倍。バコロドの高級店に比べても、おそらく倍近い値段。

まぁ、私には想定内なので、慌てず騒がず、久しぶりに美味しい牛肉を食べたいと、100グラムのビーフステーキ。息子の方はサーモンサラダに、大好物のスパゲティ・カルボナーラ。さすがに本式のイタリアンだったので、ライスは頼みませんでした。

出てきた料理は、期待に違わず。20年前ネグロスに渡航して以来、このレベルの牛肉を食べたのは初めて。アメリカ産の輸入物なので、神戸牛などに比べれば、それほどでもないにしても、ネグロスではまず無理と、諦めていた味です。これ一品が1,395ペソで、3,000円近いお値段。(すぐ金のことを言う関西人)




外国人観光客の多い、マニラやセブだったら珍しくはないんでしょうけど、ここは、ネグロス島。いくら50万都市の州都バコロドと言っても、こういう店が、ちゃんと商売として成り立つご時世になったんですねぇ。

懐はやや寒くなったものの、舌もお腹も大満足。マンゴージュースやアイスティー、最後のホットコーヒーまで美味しく頂いて、合計2,170ペソ。食べ終わった頃に、お皿を下げながら「お食事は満足いただけましたか?」と、尋ねられたのも、ほんと、久しぶり。

移住前に住んでいた、大阪府茨木市の自宅近くに、大きさも雰囲気もよく似たイタリアンのお店がありました。住宅地の中にある、なかなか洒落た場所で、家族の誕生日や、遠方からの来客時などに利用した、少し特別なレストラン。店の名前はポルポ。

さて、今日行ったお店は、クチーナ・イタリア(Cucina Italia / イタリアの台所)。これは、私にとっての第2のポルポになりそう。値段はネグロスでは「超」高級でも、日本円にしたらだいたい同じぐらいと言えなくもないし。

ということで、来月は家内の誕生日。今度は予約して、襟のあるシャツを着て行きましょう。


2018年10月13日土曜日

イロンゴ教師はマニラ生まれのお嬢さん


西ネグロスの方言、イロンゴ語を教えてもらう先生を決めようと、今週初めから4人の候補者によるお試しレッスン。昨日の金曜日で全員のトライアルが終了しました。

結局、私が白羽の矢を立てたのは、22歳のロマ嬢。フェイスブックのプロフィールによると、1995年11月のマニラ生まれなんだそうで、ちょうど私が、業務出張でフィリピンに初渡航して、まさにマニラに滞在していた時期。これも何かの縁なんでしょうね。

ちなみに、ロマだけが若いのではなく、4人とも20代前半。中には21歳の人も。

そういうことなので、実は母語はイロンゴではなくタガログ。本人は、ネイティブじゃないから、あまり深いところまでは教えられないかもと心配してました。でも母語だから上手く教えられる、とは限りません。

かなり大きくなってから、親戚のいるネグロスに引っ越してきたロマ。イロンゴとセブアーノ(東ネグロスやセブ、ミンダナオで使われる方言)は、勉強して身に付けたらしい。つまり、外国語を習うようにイロンゴを覚えたので、単語の意味や文法の構造を、理詰めで習得した強みがある。

これに対して他の3人は、ここシライや隣街のビクトリアスの出身。教師としては有能だし、イロンゴは流暢に喋れる反面、私のような外国人の素朴な質問に答えられなかった。元々英語の先生だし、私が日本語を教える立場だったら、同じだろうなと思います。例えば、外国人には難解な漢字の読み方。

10月1日は日曜日で祝日、晴れの日でした。

最近ネットで見つけた例文。こんな短い文章に5回「日」の字が出てきて、しかも全部読み方が違う。これを、なぜそう読むのか、日本語勉強中の外国人に、ちゃんと理論立ててルールを説明しろと言われたら、かなり難しい。というか、私には無理。

ここまで意地悪ではなくても、先日、このブログに投稿した、動詞を命令形に変える助詞の変化。Hiwa(ヒワ)「切る」の場合は、その後に a(ア)を付けて、Hiwa-a(ヒワ・ア)になって、Panit(パニット)「皮をむく」は、a ではなく i(イ)。Panit-i(パニティ)になります。

どういう基準で、アとイを使い分けるのか、イロンゴ・ネイティブの3人は、私が納得できる説明ができなかった。ところがロマは、ごく簡単に、その動詞の最後の母音を重ねるんです、と即答。まさしく、そういう答えを期待してたんですよ。

他には、イロンゴ以前に、ロマの喋る英語が私には一番聴きとりやすかったのも、選考要因としては大きい。英米人のような発音ではないけれど、私の耳には、イロンゴ訛りのないニュートラルな響き。そして、意図的かどうかは分かりませんが、簡単な単語を使ってくれるので、さらに理解が容易。

ダメ押しなのは、ロマが私の好みのタイプ。
なんて書くと、何を考えとるんじゃと怒られそう。別に絶世の美女だとかすごくセクシーだと言いたいわけではありません。とにかく雰囲気が知的。しかも、知性をひけらかすことなく、言葉の端々ににじみ出る。また、ものの考え方が至って真面目。フィリピンでは珍しい、約束時間の5分前到着を目指すような性格。

つまり、育ちが良さそうなお嬢さんで優等生っぽい。昔から私は、こういうタイプに弱いんですよ。よ〜く考えたら、出会った時の家内が、まさにこれ。そうか〜、だから家内とは、電撃的に恋に落ちてしまったのか。

という愚にもつかないノロケはさて置き、自分より30歳以上も若い女性と浮気をする気は毛頭ないし、ロマには婚約者がいるそうです。そういう下心ではなく、先生に会うのが楽しみになれば、自ずと勉強にも熱が入るというもの。

無理に捻り出した屁理屈じゃないですよ。30年前に英会話を何とかモノにしたのは、同じクラスに魅力的な女の子がいたり、先生が若くて美人だったりしたから。こういう事って、習い事の継続には結構大事な要素。私には成功事例がありますからね。

と、少々言い訳がましくなりましたが、本日ロマに、採用通知替わりのメッセージをして、先方も快諾。いよいよ来週から、本格的に私のイロンゴ学習が再開です。経過はこの場で報告しますので、乞うご期待。


2018年10月12日金曜日

セブ土産は納豆で決まり


前回に続いて、今日もセブ出張のお話。

セブへ行くと、ほぼ必ず立ち寄るのが、以前にも書いた、町屋マート。小さなコンビニ程度の店内は、日本から運ばれた、食材や薬品、雑誌などがずらりと並びます。だいたい買うものも決まっていて、ネグロスの州都バコロドでは手に入らない、梅干し、乾燥ワカメ、味覇(ウェイパー)などなど。最近は、なぜか味噌の供給が滞っているので、今回はマルコメ味噌を二袋。

また、家内のお気に入りは、シャウエッセン(ソーセージ)。フィリピンでは、ソーセージと言えば、いかにも食紅を大量に使いました、というような真っ赤なものがほとんど。お弁当にも使ってるし、不味いとは思わないけれど、ちょっと味付けがお子様テーストに寄り過ぎなんですよ。

そして、今年小学校6年生の息子は、いつでもブレない納豆好き。生まれたのは横浜の病院でも、1歳になる前に大阪へ引っ越し、その後はずっと関西住まい。ところが、移住前の最後の半年ほどを過ごした福岡の小学校。お昼に出された納豆が、なぜか気に入って、それからというもの、毎日でも納豆が食べたい。私も決して嫌いではありません。

さすがの日本食ファンの家内も、これだけはどうしても受け入れられず。私と息子が、2人でズルズルと納豆を食べている間は、テーブルの真ん中に国境線が引かれたような状態になります。

今回も、日本食材ばかり4000円ぐらいのお買い物。セブから帰るといつも思うのは、町屋マートのようなお店が、バコロドにもできないかということ。

とは言っても、長期滞在や永住者が1万人以上もいるマニラと違い、それほどたくさんの日本人がいないビサヤ諸島。その中で、ほぼ唯一、日本人向けの食材だけでビジネスが成り立つのは、フィリピン第二の都市セブぐらいでしょうね。

この頃は日本食レストランも少しづつ増えているバコロド。中流レベルの家庭ならば、日本の味に興味を持つ人は少なくない。値段を半額ぐらいに抑えられたら、地元の人も買いに来てくれると思いますけど、まぁ、無理だろうなぁ。

ちなみにバコロドでも、ゴールデンカレーやバーモントなどのルー、ほんだし、紙パック入りの豆腐、お好みソースに、各種インスタントラーメンは、高級食材としてモール内のスーパーマーケットで売ってます。それに比べても、韓国食材の品揃えがはるかに豊富なのは、羨ましい限り。韓国人は多いですからね。

観光地もだいたい見てしまったし、何をするにも割高なリゾートに行く気はしない。結局、私にとってのセブは、一時帰国の気分にちょっとだけ浸れる街、という感じになっております。


2018年10月11日木曜日

3時間で行けるセブ領事館

来年(2019年)は、移住して以来初めての、家族3人揃って日本への一時帰国を計画中。家内が仕事で日本出張だったり、私1人、あるいは息子と私の2人、というのはあっても、仕事やら学校やらで、なかなか全員の足並みが揃わなかったんですよ。

航空券の手配は、早いほど安いとばかりに、まだ半年ぐらい先なのに、早々のチケット購入...。しようと思ったら、私のパスポートが、渡航直前の期限切れが発覚。在フィリピン日本大使館のサイトで調べたら、1年前以降なら更新手続きができるとのこと。なので、久しぶりに行ってきました、セブにある日本領事館。

フィリピンでは、マニラに大使館、セブとダバオに領事館が置かれていて、私たちの住むネグロスは、セブ領事館の管轄。西ネグロスの州都バコロドとセブ間は、短距離ながらセブパシフィックやフィリピン航空などの直通便があり、朝出て夕方に戻る、日帰り出張が可能。距離感としては、大阪〜東京という感じ。

自宅からバコロド・シライ空港まで、車で5分。最近はネットで1週間前からチェックインができるし、大荷物がなければ、自宅からセブ領事館のドア・ツー・ドアで、3時間ぐらい。もちろんフライトの遅れや、セブ市内の渋滞がなければのお話。今回は、4時に家を出て朝5時発のフライト。6時前には、マクタン・セブ空港に到着し、時間が早いので渋滞もほとんど影響なし。3時間かからず領事館前に着いてしまいました。



飛行時間、正味30分ぐらいのバコロド〜セブ



雨上がりのマクタン・セブ空港

ところが、ここからがネットではないリアル・ワールドの不便さ。当然領事館は開いてないし、領事館隣のアヤラ・モールですらカフェは開店前。お腹をぐぅぐぅ言わせながら、モールの中庭で、持ってきた本を読みながらの時間潰し。まだ、それほど暑くもないし、こういうのも悪くはないんですけどね。

7時の開店と同時に、シアトルズ・ベスト・カフェへ。客たった1人の貸切状態で、がっつりの朝食。ちょっと食べ過ぎ。そこからさらに1時間ほど、読書三昧。養老孟司さんの本を1冊読了してしまいました。



8時半には、領事館へ。ここでも他に来館者はおらず、申請書の提出はものの5分程度。ちなみにこれも、事前にネットでフォームをダウンロードして、記入済みのもの。ここまで対応するなら、指紋などの個人認証技術で、ネット上での更新ができるようにすればいいのに。在留邦人の手間が省けるだけでなく、世界中の大使館・領事館の人件費が、ずいぶん節約できると思うんですけどね。

そして、日本国内と違って、即日交付なんてあり得ないフィリピン。4営業日かかるので、当日できることは、それでお終い。でも、フライトは夕方。ということで、そこから先は、次回に続きます。


2018年10月10日水曜日

仕事ができるフィリピン男子


フィリピン人は怠け者、特にフィリピンの男は仕事ができない、フィリピーノを夫にすると、妻が養わないといけない...。

フィリピンという国に関わり始めてもう23年。移住してからでも6年近くが経過して、もう本当に耳タコなぐらい聞かされた、フィリピン男性への偏見。特にこの思い込みが激しいのが、フィリピン女性と同棲したり所帯を持つ、自称フィリピン通の中高年日本人の男たち。私の見る限り、相手は水商売関係というのも、よくあるパターン。

敢えて夜の仕事に就くのは、大抵は貧乏だから。親兄弟が生活に十分な稼ぎがあれば、わざわざそんな職業は選ばない。つまり、父親を始めとして、失業してたり、手に職がない男性に囲まれている環境。その稼ぎ頭の女性をパートナーにするから、フィリピンの男=働かない、という偏見で凝り固まってしまうんでしょうね。

確かに、私の周囲を見渡しても、スーパーのレジ係や飲食店の従業員など、女性の比率が高いし、家を建てた時の建材購入では、担当者が女性だったほうが対応がしっかりしている印象はあります。

だからと言ってフィリピン男性が、全員ダメ男君なわけがありません。大工や配管工、電気屋のオッちゃん、兄ちゃんにもキチンと仕事をしてくれる人はいくらでもいるし、フィリピン人の船乗りは世界中で働いている。

今でもよく覚えているのは、近所で活動するNGOの手伝いで、店のロゴ、看板、メニューなどの製作を手伝った時のこと。仕事の依頼で訪れた、バコロド市内のグラフィックデザイン事務所。そこで見た男性デザイナーたちが、フォトショップ(グラフィック用のパソコンアプリ)を、スピーディに操作して、見る間にTシャツ用の図案を仕上げていく様は、なかなかの手際。その道のプロだった私でも、あそこまで習熟してませんよ。

そして、このブログが縁で知り合った、セブ在住の若き日本人女性Mさん。彼女は、ネグロス出身のフィリピン男性と恋に落ちて、大学卒業後は彼氏と一緒にバコロドに定住。その後仕事の関係でセブに引っ越したものの、今でも友達付き合いをさせてもらってます。

その彼氏の名前が、私の洗礼名と同じくフランシス。しかも誕生日まで同じという、何となく因縁浅からぬ感じ。ぱっと見は大人しそうで、口数も少ないフランシス君ですが、実は外資系プラントメーカーに勤めるエンジニア。配管などの機構設計が専門だそうです。

かなり優秀らしく、つい先日もMさんをセブに残してアメリカに業務出張。考えてみれば、英語は普通に喋れるし、専門能力があるんだから、なまじっかな日本人よりも使える人材でしょうね。今ではセブ市内でオフィス勤務のMさんより高収入とのこと。誰や、フィリピンの男と一緒になったら、相手を養わないといけない、なんて言うのは?

ということで、不幸にして、ダメなフィリピン人男性しか知らないという、アンラッキーな日本人諸氏。もう少し行動範囲を広げて、それなりに教育や収入もある人たちと交友関係を持つことを、強くお勧めします。ごく限られたアングルだけで、一つの国に対する固定概念を持つのは、自分自身の人生にもマイナス効果が大きいもの。もしフィリピンに住んでいるんなら、尚更ですよ。


2018年10月9日火曜日

ブログで学ぶイロンゴ語「家事をメイドに頼む時」


今週初めから、4人の先生にお試しで教えてもらっている西ネグロスの方言、イロンゴ語。まだ誰を選ぶかは決めてないけれど、既に3人から1回2時間程度で、合計6時間ものイロンゴ・レッスンを受けました。

英語〜タガログ語〜イロンゴ語の辞書はあっても、外国人向けに書かれた参考書はありません。なので、このブログで習ったことを備忘録代わりに書き残していこうと思ってます。

とは言っても、地方のマイナー言語と侮るなかれ。イロンゴ語を話す人は、第一言語として700万人、第二言語として400万人で、合わせると、東京23区の人口よりも多いぐらい。イロンゴ語(ヒリガイノン)圏では、小学校1〜3年までマザー・タング(母語)としてイロンゴ語の授業があります。

本来なら、その教科書が使えればいいのでしょうけど、残念ながら英語ではなく、全部イロンゴ語で書かれている。日本で国語の教科書が日本語みたいなものだから、当然ですね。

さて、お試しながら最初の授業では、私にとって一番頻度が高い、メイドのライラに家事を頼む時の言い方。ライラも一通りの英語はできるのですが、発音はイロンゴ訛りが強いし、文法はブロークン。私だって、ジャパニーズ・イングリッシュなので、ちょっと込み入った話になると、お互いに何回も聴き直さないと、相互理解が難しい。

ということで、まずは日々の料理の手伝い依頼。

玉ねぎを半分に切って。
Hiwa a sa tunga ang bumbay.
ヒワ ア サ トゥンガ アン ブンバイ

「切る」の動詞がヒワで、命令形にするには、動詞の後にア(a)やイ(i)の命令助詞みたいな言葉を付加。へぇ〜、知らんかった。トゥンガが「半分」で、サ・トゥンガで「半分に」 。ブンバイが「玉ねぎ」、これは知ってました。

同じく「切る」は、Kihad(キハッド)があります。命令助詞は、やっぱりa(ア)。これは、動詞の最後の母音を繰り返し。なので、「皮をむく」Panit(パニット)の場合は、Panit i (パニッティ)。

エビの皮をむいて。
Panit i ang pasayan.
パニティ アン パサヤン

となります。

その他に私がライラによく頼むのは、まず自分で切ってみて、こんなふうにして。

Amu  ni hu.
アム ニ ホ

これは慣用句で、アムだけだと「猿」のこと。一語づつに意味はないそうです。別にサル真似をしろということではなく、単に発音が同じなだけ。まぁそう考えると、私には覚え易いですが。

相手がメイドさんなら、命令形で問題ないにしても、家内に言うとやっぱり怒られる。そういう時には、丁寧なお願い表現で、Lihog(リホッグ)や、Palihog(パリホッグ)を文頭に付ける。例えば、

この部屋を掃除してください。
Palihog tinlo i ang ini nga kwarto.
パリホッグ ティンロ イ アン イニ ンガ クワルト

ティンロ=掃除する、イ=命令助詞、アン=定冠詞(英語のtheに相当)、イニ・ンガ=この、クワルト=部屋。


こんな具合に、即戦力のイロンゴ会話。早速ライラに使ってみたら、私の発音が悪くて、英語で聞き返されてしまいました。アカンがな。


2018年10月8日月曜日

お試し家庭教師

私が移住したフィリピン、西ネグロス。そこでの方言、イロンゴ語(別名ヒリガイノン)を何とか習得しようと思い立って、早5年以上。あれこれ試して、やっぱりちゃんとお金払って先生を雇うのが一番だと悟り、自宅近くの日本人向け英語学校、アクティ・ラボに紹介を頼もう、というところまでは、先月、ブログで書いた通り。

その後、英語学校の経営者、サヨさんに相談したところ、1週間もしないうちに、返答がありました。アクティ・ラボで働く先生は、英語教師の経験はあっても、母語のイロンゴは教えた経験がない人ばかり。それでも2人が興味があると言っているので、一度直接話をしてみてくださいとのこと。

これって一応、面接なんでしょうね。ただ、生徒側が先生を面接するというのは、普通はあんまり聞かないし、私にしても初めて。当然、先方は日本語ができないので、英語での逆面接ということに。これは、ちょっと緊張しますね。

そうこうしているうちに、最初は恥ずかしがっていたのが、あなたも話をするの?、それじゃ私も、みたいなノリで、さらに2人増えて、候補者は女性ばかりの合計4人。最近、姪っ子がこの学校のお世話になったこともあり、割と頻繁に出入りしていた私。どの人も、一度は私の顔を見たことがあるはず。

こんな場合、忘れてはならないのが、家内を最初から巻き込んでおくこと。家内が知らないうちに先生を決めて、それが女性だと言うと、ディフォルトが嫉妬深いフィリピーナのメンタリティ。変な勘ぐりをされる可能性が大。サヨさんとのチャットも、家内をメンバーに入れての、ガラス張り状態で話を進めました。気ぃ遣うなぁ。

ということで、先週金曜日の朝10時。行って来ました、アクティ・ラボ。待っていた先生は、みなさん20歳そこそこの若さ。贅沢というか、罰当たりというか、そんなに高い報酬を払えるわけでもないのに、本当にいいんですか? ネグロス島の相場だと、2時間程度のレッスン1回で、300ペソ(約700円)ぐらいですよ。

面接と言っても、4人の先生を前にして、雑談混じりの軽〜い感じで、私の前振りから。フィリピンでは誰でも英語が喋れても、やっぱりこちらの親戚や友達とは、地元の言葉で意志疎通したいし、悪口言われてもすぐわかるから、などと、イロンゴ学習の動機を説明。それから順番で自己紹介をしてもらいました。


集まってくれた先生たち
左から、リッチ、キム、ロマ、アイニー

さてそこからが問題。このやり取りだけで、1人決めるのも少々乱暴。どうしようかと思っていたところへ、1人づつお試しレッスンしてみてはと、先生の方から提案してくれました。それは助かります。

以上のような経緯で、この文章を書いている時点で、すでに3人のトライアルが完了しました。やってみて分かったのは、イロンゴ語を教える能力もさることながら、先生の英語が、私にとって聴き取りやすいかどうかがポイント。

余談ながら、イロンゴ語の発音って、日本人にはそれほど難しくないんですよ。文字はアルファベットでほとんどローマ字読みでOK。綴り方も英語やフランス語と違って、気まぐれな不規則性がない。

そして、改めて言うまでもなく、選考要因として大きいのは、先生の性格や容姿。そりゃ、教師としての能力が同じぐらいならば、魅力的な人の方がいいに決まってますからねぇ。(こんなこと言うから、勘ぐられるのか...。)

最後の4人目が、この金曜日に来るので、週末には結果を出そうと思っております。めでたく家庭教師が決まりましたら、ここでも紹介しますので、ワクワクしながらお待ちください。


2018年10月7日日曜日

ちゃんとしてない国 〜中島らもさんのこと〜


養老孟司さん、糸井重里さんに続き、私の考え方や文章の書き方に、大きな影響を与えた人、我が人生の師の3人目として紹介するのは、中島らもさんです。

最初のお二人に比べると、一般的な知名度の点では、かなり低めかも知れませんね。らもさんは、私と同じ兵庫県尼崎市の出身。1952年(昭和27年)の生まれだそうで、ちょうど私より10年先輩。残念ながら2004年、飲み屋の階段から転落して頭部を強打、意識を失ったまま帰らぬ人となってしまいました。享年52。もう今の私は、らもさんの亡くなった歳より、4年も長く生きたことに。

最初にらもさんの著作に触れたのは、私が大学生の頃。確かエッセーか何かだったと思います。とにかく一読して驚いた。それまでの私が慣れ親しんだ作家というと、どくとるマンボウシリーズで有名な北杜夫さん、歴史小説の司馬遼太郎さん、SF作家の小松左京さんや平井和正さん、などなど。どなたも強烈な個性の持ち主ながら、家庭を持ち、真面目に働く、尊敬すべき大人のイメージ。要するに「ちゃんとした人」。

ところがらもさんは、灘中という、関西ではトップクラスの超難関校に進学したくせに、その後はバンドに目覚めたり、酒に溺れたり。本に出てくるのも、アルコール中毒になった話や、失業して奥さんに養ってもらったこと。躁鬱病にかかって自殺未遂に、晩年にはマリファナの不法所持でお縄になった顛末まで。

これほど「ちゃんとしてない人」が書いた本なのに、どれを読んでも滅法面白い。一時期の私は、それこそ「らも中毒」。エッセーに限らず、小説や対談、新聞に掲載された悩み相談...書店で購入可能なものは、おそらく全部読んだと思います。しかも、ここフィリピンまで一冊残らず持って来たほど。

ただ、酒やクスリに弱い反面、理不尽な差別や偏見、少数者をいじめたりする輩に対しては、真っ当で激しい怒りを示す人格者。物書きとしては、自虐的な表現を使いつつも、プロとしての強い自覚を持っておられました。なまじエエ格好をしないだけに、ずいぶんと影響を受けましたね。加えて、恋愛については、思いの外、美しい描写をする人なんですよ。

また、笑殺軍団リリパットアーミーなる、劇団の主催者でもあり、20代の頃は、らもさんが演出して、時々役者としても登場する芝居を、大阪梅田の、今は無き扇町ミュージアムスクエアという小劇場へ、よく観に行ったものです。

そんな具合に、らもさんの本と芝居で、「ちゃんとしてない」人やモノを、面白がるメンタリティを鍛えられた私が、1995年に、初めてフィリピンのニノイ・アキノ国際空港に降り立った時に思ったのは、「なんちゅう、ちゃんとしてない国や!」

当時、私の勤める電気メーカーは、アジア・中近東市場向け商品の開発と生産拠点として、マレーシアに大きな工場を置いてました。ここをベースに、シンガポール、タイ、インドネシア、インド、パキスタン、ドバイ、そしてフィリピンの各国を巡回するという、1ヶ月間に渡る出張が、海外担当に抜擢された私の初仕事。

それまで日本国内しか知らなかった私に、たかが家電製品であっても、国が違えば、どれほど買い方、使い方に差があるかを、ショック療法で叩きもうという、出張を計画した、商品企画課長の魂胆。

それはともかく、人生初フィリピン。あの頃、ターミナル1の到着ゲートから出た付近というと、まるで避難民のように、家族や親戚の出迎えや、タクシーの客引き、物乞いなどで、カオス状態。幼い子供が無理矢理サンパギータのレイを押し付けて、「ヒャクエン、ヒャクエン」と追いかけてきたり。一国の首都、しかも国際空港を出てすぐの場所が、こんなちゃんとしてない状態でええんかいな?

と驚きつつも、「これは面白い国だ」とばかりに、心の中では、にやけてました。この第一印象は、その後も揺らぐことはなく、付き合えば付き合うほど、フィリピンという国と、そこに住む人々への興味は増すばかり。あの課長の仕掛けは、効き過ぎるほど効いて、結果的には、フィリピン女性を妻にしてしまうほど、フィリピンにハマってしまったわけです。

その後、訪問したインドのデリーとボンベイ(現ムンバイ)は、マニラより凄い場所でしたが、ちゃんとしてる・してない、の物差しでは、到底測れない貧困レベルだったので、さすがの私も面白がることはできませんでした。(とは言っても、最初にトンドのようなスラム街を見ていたら、インドと同じ印象だったかも知れません。)


ということで、生前のらもさんは、おそらくフィリピンに渡航したことは、なかったでしょう。でも、もしこの国に来ることがあったら、ずいぶんと気に入ったんじゃないか。そう推測するほど、らもさんとフィリピンには、共通する「ちゃんとしてなさ」を感じております。


2018年10月6日土曜日

癒されたい女たち

ここ10年ぐらいですかねぇ、やたらと「癒し」という言葉を見聞きするようになったのは。きれいなビーチや、緑の多い場所に来たり、可愛い赤ちゃんや、仔猫・仔犬の類いを見ると、まるで申し合わせたように「癒される〜」。

女優やタレントでも、昔なら「お嫁さんにしたい」と言う雰囲気の方は「癒し系女子」なんて呼ばれたりしますね。ちなみに私の若い頃、お嫁さんにしたいNo.1は、竹下景子さんでした。今の学生さんとか、知らんやろなぁ。

私としては、「イヤシ」の語感が、「卑しい」に聴こえてしまって、いい感じがしないんですよ。それに、あまりに誰もが連発するもんだから、日本はみんな極度の疲労や病気を抱えた人ばっかりなんか?と、意地の悪い突っ込みの一つも入れたくなる。

ところが最近読み返した、1992年出版の中島らもさんのエッセー「愛をひっかけるための釘」に、こういう一節がありました。
広告関係リサーチを見ると「主婦の好む風景」の一、二、三位を「広い牧場」「海辺」「青空」などが占めている。これはもちろん閉塞された家庭の空間からの脱出願望をあらわしているのだろう。
書かれたのは、四半世紀も前ですよ。求められていたのは、まさしく「癒し」。

今、自宅に来てくれているメイドのライラが見つかる前。前任のネルジーが、こっちの都合も顧みず、一方的に離職してしまってから、メイドなし状態が2ヶ月ほど続いた時。さすがに一人で、炊事・洗濯・掃除はたいへんでした。中途半端に家は広いし、毎日弁当の配達もある。もし、乳飲み子がいたらと想像すると、恐ろしくなります。

でも、家政婦を雇う習慣がほとんどない日本の場合、専業どころか夫婦共働きで、幼い子供を二人ぐらい抱えていても、家事・育児一切を、奥さんに押し付けるのが、当たり前と思っている男が多いらしい。

つまり、癒しとは言わなくても、子育て中の日本の女性たちは、昔から癒しを求めていたんですね。本当に家事・育児って、自分でコントロールできる時間がほぼなくなりますから。これはキツい。いくら仕事が厳しいといっても、よほどのブラックでもない限り、家事をやってくれる人さえいれば、帰宅したら自分の時間がある。

そして、よく考えてみたら、「主婦の好む風景」って、私が今住んでいるシライの自宅周辺そのもの。広々としたサトウキビ畑の一角に、水牛が放牧されてるし、車で1時間も走れば、真っ白なビーチのあるラカウォン島、天気のいい日にサトウキビ畑へ行けば、360度全部、青空の景色が満喫できます。


寝室窓からの風景


日帰りできるラカウォン島


歩いて行けるサトウキビ畑


水牛さんもいます


いつでも森林浴気分

ということで、癒されたい女性の皆さま、心が壊れてしまう前に、ぜひ「癒しの島」ネグロスへおいでませ。


2018年10月5日金曜日

人生の撤退戦 移住編


前回に続き、今日はシリーズ、人生の撤退戦の最終回、「移住編」です。

どうも日本人は、生まれた国から出るのも、他から人が入って来るのも、特別扱いし過ぎる気がします。例えば、海外から労働者についての議論を聞いていると、受け入れた途端に、国の一部は外国人に占拠されスラム化し、治安は一挙に悪化、のような極端なイメージが先行してしまう。いい例が、池袋に最近できたチャイナ・タウン。

あの街並みって、別に日本人が入れない訳ではなく、単に同業のお店が集まっただけ。秋葉原や大阪・日本橋の電気屋街みたいなものなのに、簡体字の看板が並んでいたり、聞こえて来るのが日本語ではない、となった瞬間に、強烈な拒否反応を示す人が出てくる。

また、日本人が海外移住すると言うと、裕福なエリートと思われるか、日本にいては実現できない夢を追いかけて、無一文から血の滲むような努力をしに行くか。とにかく両極端だと思われがち。日本人は日本に住むのが当たり前で、外国人は珍しい。そうではない人は、何かよほど特殊な事情があるんだ、と言わんばかり。

さらに移住先がフィリピンの場合、企業の駐在員やその家族でもなければ、犯罪者が高飛びする、みたいな言い方をする人だっているぐらい。私も移住前には、「年老いた親を捨てて、フィリピンに逃げるのか?」と、真顔で言われたことがありました。

まぁ、私がフィリピンに初渡航した、1990年代に比べると、かなりマシにはなったとは言え、まだまだ、海外=観光旅行の経験しかない人は、退職後、フィリピンに住んでいる中高年(特に男性)は、人生の負け組で、文字通り、日本から撤退してしまったと見ちゃうんでしょうね。

この投稿も「人生の撤退戦」なんて、タイトルだけ見ると、ずいぶん後ろ向き。確かに日本から離れたのは間違いないし、敢えて「敗者復活」の意味合いも含めてます。でも私の正直な心境を吐露すると、他人よりちょっと早めに引退して、自分が一番住みやすいと思った土地に引っ越した。それがたまたま、家内の実家のネグロスだったというだけのこと。

前回前々回に取り上げた、離婚や、28年も勤めた会社を退職したことに比べれば、決断に要した心理的負担は、お話にならないぐらいに軽い。この二つの撤退は、一度実行してしまえば、元の状態に戻すことが、事実上不可能ですからね。今は、日本での住民票を抹消し、フィリピンに住んでいても、帰ろうと思えばいつでも帰れる。日本国籍まで捨てたわけではありません。

移住すれば、国籍を含めた一切の日本国民としての義務も権利も消滅すると、誤解している人もいるようです。税金を払ってない奴が、日本の政治や教育に口出しするなと、このブログのコメントに書かれたり。

これって、日本で話題になっている、あまり利口とは思えない国会議員が、生産性のない人間に税金を使うべきではない、という意味のことを雑誌に書いたのと同じ発想。要するに国の役に立たなければ、日本国民としての権利は認めないということ。

そんなアホなことはない。投票までのプロセスは多少面倒ですが、今の私にだって選挙権はあるし、そもそも、子供が作れない、税金を払ってない、あるいは外国に住んでいるから、国民の権利が制限されるなんて、日本国憲法のどこにも書いてません。

それはさて置き、現実の移住については、実にあっさりしたもの。海外移住独特の手続きらしい手続きと言えば、最後に住んだ福岡市中央区の区役所で、転出届けを出す時に、健康保険や年金の支払いの中断を申告したぐらい。この二つは国内に住民票がなくなれば、支払いは任意となります。もちろん年金は、65歳になれば、満額ではなくても、28年間払い続けた金額に応じて(ネグロスで生活するには十分なほど)支給されるし、健康保険はいつでも、再開可能。

私には相当な思い入れがあったので、福岡空港から飛び立った時には、やや感傷的になったものの、着いた先は、勝手知ったる家内の実家。気候も食べ物のも慣れ親しんだ場所なので、故国を捨てて云々みたいな悲壮感は皆無。

フィリピンでの永住ビザ取得も、半年ぐらい待たされて面倒だったけれど、手続きそのものは、大したことはありませんでした。居心地のいい家を建てるのは、少々手こずりましたけどね。

離婚・再婚や定年前に会社を辞めることは、今時さほど珍しくもなくなった日本。海外移住こそ人生の一大事で、本当にやっちゃう人は少数派と思う人の方が多いでしょう。私にとって、その海外移住が、ごく自然で無理のない選択だったというのは、考えてみれば不思議な感じですね。


2018年10月4日木曜日

人生の撤退戦 退職編


前回の離婚編に続き、今日は退職についてのお話。

退職と言っても、次の職場が決まっている転職もあれば、病気で辞めざるを得ないとか、結婚や出産に伴うもの、定年など、いろいろあります。転職の場合は、撤退のイメージじゃないですね。せいぜい作戦変更という感じ。

約6年前に私がやった退職は、定年まで10年を残した50歳での早期退職。しかも、その後はフィリピン移住を控えて、少なくとも日本国内で再就職の予定はまったくなし。これを撤退と言わずして何と呼ぶ、ぐらいの勢いでした。

私が大学を卒業した、昭和60年(1985年)の日本は、バブル経済絶好調の時代。短大を出て、私より2年早く社会人になった、高校のクラスメートは、めでたく証券会社に就職。2年目の頃には、年収が500万円(30年前で!)ぐらいあったんじゃないでしょうか? ボーナスの金額が大きすぎて、年4回に分けて支給されたと言ってました。今となっては、夢のまた夢。

某電気メーカーに、デザイナーとして入社した私は、もちろんそんなに貰ってた訳はないけれど、現在の水準に比べれば、かなりの高給取り。しかも、銀行の定期預金で年5〜6%もの金利があった時代。郵便貯金の定期に至っては10%超えの時期もあったらしい。

とまぁ、そんな右肩上がりのイケイケドンドン。実入りのいい会社に入ってしまえば、もう人生は安泰だと思われておりました。終身雇用に年功序列。誰も文句言いませんよ。自分の食いっぱぐれがないんだから。

振り出しがバブルだった私たちの世代。ご存知のように、多少の紆余曲折はあっても、その後ほぼず〜っと下降線。カジノで最初に大当たりして、チップの山を築いたはずが、年々それが減っていくのを見ているようなサラリーマン人生。実際は、90年代に東南アジア市場担当だったので、少し長めに面白い仕事を経験できたのですが、それも1997年の、タイから始まったアジア通貨危機で、すっかりトーンダウン。

その頃からですね、仕事の不調に離婚などが重なり、精神的に厳しくなってきたのは。輪をかけて、商品デザイン現場の専門職を続けるのではなく、管理職にならないと居場所がなくなる、みたいなプレッシャーが、年齢と共に強くなる。美術系大学を出てデザイナーになったのは、課長や部長を目指したのではなく、絵を描いてメシが食えるからだったんですけどねぇ。

そんな経緯で、定年を待つことなく、再婚した今の家内のふるさと、フィリピン・ネグロス島に移住しようかと思い立った次第。もちろん、そう考えた40歳ごろ、すぐに辞めてしまったら路頭に迷うだけ。当時は50歳になると同時に、退職金がガ〜ンと上がるシステムだったので、最短でも10年は頑張ろう、と心に決めたわけです。

自分の中では、理路整然とした思考の末の結論でも、親兄弟や親戚、同僚に上司も含めて、周囲の人たちの反応は冷たかった。会社辞めたら、いかにたいへんで苦しいか、生き甲斐を失って、どんなに喪失感があるか、延々と言われましたね。

でも面白いのは、ネガティブな意見は、ずっと会社勤めしている永年勤続サラリーマンからばかり。独立してデザイン事務所をやってる友達などは、「なんとかなるもんやで」と軽いノリ。

そして迎えた50歳到達の2012年。まさに誕生日を迎えようとしていた10月に、私の所属する部門で、希望退職者を募集が発表されました。渡りに船とはこのこと。打ち気満々、思いっきり振りかぶっていたところへ、ど真ん中の甘い球が来たようなもの。そりゃフルスイングしますよ。

かくして、2012年の年末。オフィス内の身辺整理も、関係職場の同僚や先輩への挨拶も滞りなく済ませて、28年間勤めた会社を後にしたのでした。その日は気のせいか、世界が2割り増しぐらい明るく見えました。自分史上、最高の懐具合だったこともあるし。


日本で、中年以上の人間が、会社を辞めるとなると、かくのごとく一大決心の上に、用意周到な段取りがないと、次のステップに移るのが難しい。特に転職となるともっと面倒で、キャリアに空白があることを、雇う側も当の本人も、すごく問題視しますからね。

これがフィリピンだったら、私もここまで悩まなかったのは間違いなし。この国では、大学卒でも職探しが難しい割には、勤め先を辞めることに、あんまり抵抗がありません。嫌なら辞めたらええやんか、という感じ。我が家のメイドさんも、5人雇ったうちのアミーとネルジーは、長期休暇で里帰りしたままの離職。一番最近のジャジャは4日でギブアップ。

フィリピンで会社を経営する日本人の方の話を聞くと、そこそこの給料を払っていても、ある日突然来なくなる人は結構いるらしい。気がつけば、いなくなった社員が、いつの間にかライバル会社に転職してたり。

最近思うのは、日本人の仕事観って、深刻に過ぎるんじゃないかということ。基本は、生活の糧を得るだけが目的なのに、なにやら精神修行みたいな考え方をする人が多い。また、以前ほどではないにしても、社員を疑似家族扱いして、社員旅行やら飲み会参加を強制したり。これって大昔の、徒弟制の名残りなのかも知れませんね。


ということで、約10年の計画の末に決行した、人生の撤退戦。戦場離脱のタイミングも、撤退後の備えも、かなり上手くいきました。あれから6年。今のところは、後悔も喪失感もない、平穏で幸せな日々を送っております。

次回は、シリーズ最終回の「移住編」です。