2020年9月30日水曜日

路上で犬の放し飼い

 一昨日の9月28日は、「世界狂犬病デー」だったそうです。

日本の厚生労働省のホームページによると、この日は、19世紀に狂犬病ワクチンを開発したフランスの細菌学者、ルイ・パスツール博士の命日。それを記念して2006年に制定されました。目的は、人及び、動物における狂犬病の影響やその予防法についての啓蒙。

農林水産省は、日本を含む7地域(オーストラリア、アイスランド、ニュージーランド、ハワイ、グアム、フィジー)を「清浄国・地域」に指定。つまり日本では狂犬病が存在しないとされています。

ただし、台湾やイギリス、ノルウェーのように、2012〜13にかけて、野生動物の狂犬病が確認されたため、非清浄国(すごい呼び方!)扱いになってしまった例もあるので、油断はできません。

狂犬病は犬や猫の感染症で、咬まれたり、引っ掻かれることで、唾液を通じて人間にも感染。発症すれば重篤な神経症状になって、まず助からない怖い病気。

そして我がフィリピンは、今でも年間の死亡例が200〜300件も報告されている、言わば狂犬病の蔓延国。今年(2020年)5月には、フィリピンから日本に渡航した方が、フィリピン国内で感染した思われる狂犬病を発症したとの報告がありました。(人から人への感染はありません。)

フィリピン国内では、狂犬病撲滅に向けて、各地方自治体によって毎年、無償のワクチン接種が行われています。我が家の飼い犬ゴマもすでに2回接種。


我が家のゴマ

とは言え、野良犬は多いし、自宅前の路上で放し飼いにするのがデフォルトの、ここネグロス島。家にいる時は庭で飼われていても、散歩の際はノーリードの飼い主も多い。それも小型犬ならまだしも、かなり大きなシェパードだったりすると、犬を飼っている私でもちょっとビビります。

騒音や、焚き火の煙を撒き散らして、日々周囲に迷惑をかけている例のお向かいさんも、犬を一頭放し飼い。さらに少し離れた、大学教授のお隣さんは、二頭。狂犬病の心配だけでなく、家の前を普通に歩いたり自転車で通ったりすると、ものすごい勢いでワンワンと追いかけられて、鬱陶しい事この上なし。

さらに、昼夜を問わず、我が家の前をうろついてくれるので、その度にゴマが吠えて大騒ぎ。最近では、棒切れ片手に、自宅前の犬を追い散らすのが、私の日課になってしまいました。

以前にも書きましたが、この放し飼いの習慣で、通行人が咬まれて怪我をする事故って多いと思いますよ。特に子供の場合は、とても危ない。フィリピンの人が、トライシクル(輪タク)を多用して、近い距離でも滅多に歩かないのは、年中真夏の気候もあるでしょうけど、犬に襲われるリスクを回避する意味もあるんじゃないか?

こんな状況なので、ワクチン接種をするだけでなく、もう少し犬の飼い方を何とかするのが先決。去勢や不妊手術ってまずしないし、増え放題というのも問題。

ちなみに、隣の大学教授は、さすがに教育があって話が分かる。その後、家内に頼んで苦情を言ってもらったら、この頃はちゃんと鎖でつなぐようになりました。こういう物分かりのいい飼い主がもっと増えないと、フィリピンの狂犬病はなかなか減りそうにありません。



2020年9月28日月曜日

来年のフィリピンはベービーブーム


 新生児の頃の我が子

少し前のまにら新聞の記事によると、コロナ禍の影響で、来年のフィリピンではベビーブームが起こると予測されているそうです。失礼ながら私は、この記事の見出しを読んだ時には、声を出して笑ってしまいました。外出が制限されて、他にすることもないから子作りに励んだということなんでしょう。まぁ、何と分かりやすい。

誤解を避けるために書きますが、オフィシャルに避妊具を使ったセックスが禁止されているわけではありません。薬局へ行けば、普通にコンドームを売ってるし、病院に行けば低所得層向けに無料配布。ロックダウンのために、入手困難になったらしい。

さらに性教育については、日本よりもはるかに先進的で、小学校の4年生、つまり初潮が来る年齢で、生殖器の図解まで記載された教科書で、キチンと行われている。その背景には、貧困の世代間連鎖に拍車をかける、ティーンエイジャーの妊娠という深刻な問題があります。

ちなみにフィリピンでは、今回のコロナ禍だけに限らず、社会不安を巻き起こすような、大きな災害や政変などがあった後には、出生数が急増する傾向があるんだとか。

そう言えば、以前に読んだ関東大震災や、戦時中の空襲の手記などで、焼け出されて不安な夜を過ごす多くのカップルが、人目も憚らずに野外で愛し合っていたという話がありました。どうやら、生命の危険に直面すると、次の世代を残そうとするのは、人間の本能に根ざしているのかも知れません。

それはさて置き、来年見込まれているベビーブーム。フィリピンの年間新生児数は、2012年の179万人をピークに、連続で減少していたのが、2020年には20年ぶりに200万人の大台に乗ると見られています。(JETRO ビジネス短信

ただ、フィリピンの地方都市に住んでいる実感としては、赤ちゃんの数が減っているとは到底信じられない。フィリピン人のフェイスブック友達のタイムラインには、家族、親戚、友達の誰かしらの家に、赤ちゃんが生まれたとか、幼児洗礼のパーティ、幼い子供の誕生日祝いなどの写真がいつも並んでいる印象。

もっと正直に言えば、来年に突然ではなく、毎年のベビーブームが少し規模が大きくなっただけ。減少したとは言え、160万人以上も生まれてるんですから。

翻って日本の出生数を調べてみたら、2019年の新生児数は過去最低の86万5千人。日本で新生児数が200万人台だったのは、昭和40年代後半の第二次ベビーブームまで遡らなければなりません。それ以来、実に半世紀もの間、日本での数字は減少の一方。

そして興味深いというか、お先真っ暗というか、日本ではコロナ禍の影響で、さらに出産予定数が減っているとの日経ビジネスの記事が。(コロナで少子化が加速する懸念

日本では、先の予測が立たないから、子供を作るのは控えよう...という思考になる人が少なくないようです。まぁ、私も50過ぎまで日本で暮らしていたので、そう考えるのも分からないではない。とにかく将来のことを、心配し過ぎるような国民性。

いずれにしても、同じ厄災の只中にあっても、楽天的なフィリピン人と悲観的な日本人。物の見事に、性格の違いが炙り出されてしまいました。常々思ってるんですが、両国の中間ぐらいの国があれば、ずいぶんと住みやすいでしょうねぇ。


2020年9月27日日曜日

検査結果に一週間


約二週間前の9月15日から、陽性患者との濃厚接触の疑いで、自宅待機だった家内。(自宅隔離の)勤務先の、フィリピン教育省シライ事務所にて開かれた、教師たちとのミーティング後、出席者の先生の旦那さんが陽性だと診断されたのが発端。その部屋にいた人全員が自宅待機になっていました。

当初の話では、金曜日にその先生がPCR検査を受けて、もし陰性ならば、週明けには自宅待機が解除になる見込み。ところが月曜日になっても、検査結果が出てこない。水曜日に「陰性」との連絡があったものの、それは、同姓の別人の間違いだったと空振りのガセネタ。

結局、本当の陰性結果が出たのが一昨日の金曜日で、今週も通勤できずに終わってしまいました。仮に陽性だったとしても、隔離期間の二週間は、次の月曜日で終了だったので、職場復帰は、一日早まっただけ。何とも効率の悪いことです。

ネットでの7月末時点の情報では、日本の場合、PCR検査してから数時間で結果が判明するとのこと。受診者が多くて待たされたとしても、せいぜい翌日には結果が出るんでしょうね。どうやら、フィリピンの地方都市、ここシライでは、市内の医療機関で検査ができず、バコロド辺りの総合病院にでも送っているのか、一週間もかかりました。

フィリピン全体でのコロナ関連のニュースでは、観光庁関係者の発言として、海外からの観光客受け入れの再開は、来年(2021年)7月以降になる見通しとか、ドゥテルテ大統領が、現在出されている非常事態宣言(Declaration of a state of calamity)を、同じく来年9月まで一年延長するとか。

本日(9月27日)付けの情報によると、フィリピン全土での累計感染者数が、とうとう30万人を越え、死者は約5,300人。日本の感染者数が約8万人、死者1,500人余りに比べると、ざっと4倍。フィリピン在住者としては、憂鬱になる話ばかり。

もう半年以上も、コロナに振り回されている状況が、少なくともさらに1年は続くということらしい。東京オリンピック関係のエラいさんたちは、まだ来年の夏開催を前提で、いろんなことを言っているみたいですが、もし強行するとしても、フィリピンからは誰も参加できそうにありません。

話題はシライに戻って、市内での感染状況。幸いにして、家内の職場では一部スタッフの自宅隔離は解除となったものの、同じ教育関係では、公立高校の先生が陽性で入院。この学校の教師100人以上が、現在PCR検査待ちなんだそうです。

今年は、3月の復活祭のミサもなく、11月1日前後のお墓参り(日本のお盆に相当)は禁止。クリスマスパーティも無理だろうし、当分、お祭り気分とは縁のない生活が続きそうです。



2020年9月26日土曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史 最終回「再逆転」



約400年に渡る、日本・フィリピン交流の歴史を、駆け足で振り返ってきたこのシリーズ。読者の方から、かなりの反響をいただき、私自身にもたいへん勉強になりました。私には少々肩の荷が重かったし、十分に意を尽くせたかどうかも分かりませんが、書いて良かったと思っています。

ひとつだけ残念だったのは、この投稿のために読んだ、ネット上での記事やブログの中に、時々ひどい内容のものがあったこと。特に明治以降の記述に関しては、読むのが憂鬱になったことも。

例えば、ベンケット移民。明治時代、マニラ〜バギオ間の道路建設には5,100名もの日本人労働者が従事しました。その部分だけを切り取って、すべては日本人だけで完成したかのように書いたブログ。さらには「中国人にはできないことを、優秀な日本人はやり遂げた」みたいな、日本スゴイ論に仕立て上げている。なんでもかんでも嫌・中韓に結びつける連中はどこにでもいますね。

信頼できる複数の記事によれば、労働者の半数以上がフィリピン人で、工事を立案して資金を出したのはアメリカ人。道路完成後に建てられた記念碑にも、米・比・日、三つの旗が刻まれています。

また、太平洋戦争での日本のフィリピン侵攻も、白人(アメリカ)による支配からの解放のためで、フィリピンから飛び立った特攻隊を、今でも現地では英雄視しているという、一体何を根拠にしているのか理解できない記事。

戦後、戦犯として勾留中だった元日本兵に恩赦を与えたキリノ大統領は、ただの傀儡で、アメリカが命じたことを行っただけだとする、忘恩甚だしいものもありました。そうした思い込みと欺瞞に満ちた文章から、一貫して読み取れるのは、日本優越とフィリピン人を含む他のアジア諸民族への露骨な差別意識。

投稿の中で何度か触れたように、1980年代以降の経済的な傾斜では、たまたま日本が優位に立っていたかも知れないけれど、明治から昭和初期や、戦後しばらくの間は、そうではありませんでした。なのに、まるで日比交流が始まった400年前から、この関係は変わっておらず、未来永劫変わらないと信じる人がいるようです。

現実には、バブル崩壊からの30年間、ずっと不調の日本経済に比べ、ここの数年のフィリピンの成長率は明らかに日本のそれを凌駕。労働人口の推移は言うに及ばず、貧困の問題にしても、フィリピンに比べればまだマシとは言え、日本も決して胸を張れるような状況ではない。

もちろん、あと数年で日本は最貧国になり、フィリピンが先進国の仲間入りするといった、極端なことは考えにくいですが、日比の地位が、分野によっては再逆転することも十分あり得ます。今フィリピンに住んでいて、現状を知りすぎている在留邦人の方には、言下に否定されそうですが。

人の流れでいうと、1980年代のように、フィリピンから日本へ一方的な労働力の移動に代わり、英語教育やビジネスチャンスを求めて、若い世代の日本人がフィリピンに新天地を目指すという動き。あるいは、安定した老後の暮らしを求めての、中高年世代の移住。(つまり私のような人たち)

少し前までは、とんでもなくリスクの高い、無謀な冒険のように思われたことも、格安航空券やインターネットの普及で、単なる選択肢の一つと言ってもいいぐらい、ハードルが下がりました。そして、社会インフラにしても、規制でがんじがらめの日本と違い、コストさえ下がれば、驚くほどの早さで変わっていくフィリピン。

いい例が、携帯電話の普及と低価格化。我が家のメイドさんだって、スマホを持っている。最近では、グラブ(Grab)など、タクシーに代わるライドシェアサービス。片田舎のネグロス島でも数年前から、グラブは利用可能に。ひょっとすると、AI(人工知能)導入による大規模な変革も、日本より早いかも知れないと、私は見ています。

もう一つ忘れてならないのは、ドゥテルテ大統領の登場に象徴されるように、長年に渡ってフィリピン政治の宿痾だった、汚職体質に国民がノーを叫び始めたこと。

と、かなり楽観的な未来も含めて、これからの可能性についての一端を語りました。しかし、私がフィリピン人の家内と一緒になった20年前には、このシライ市内で、多少遅くてもインターネットが使えて、ショッピングモールテーマパークができるなんて、当時はどんなに楽観的になっても、想像すらできなかった。

私の息子が社会人になる頃には、過去の不幸で歪な関係を乗り越えて、従来とはまったく違った、日本・フィリピンの新時代が来ていることを切に願います。できれば、私が生きている間に。

2020年9月25日金曜日

プチお引っ越し

 二週間前に投稿した、喧しいお向かいさん。その後、態度を改める気配もなく、深夜に酒飲んで大騒ぎ。昼間なら、フィリピンのことなので仕方がないと思えても、日付が変わっても、叫声を上げ続けるのは、ちょっと何とかならないものか。

家内に頼んで、宅地の管理事務所から苦情を言ってもらったはずなんだけど、何も変わらないので、今度は、宅地内のオーナーズ・アソシエーション(自治会みたいなもの)の会長さんにレターを書いて、仲に入ってもらうことに。

私が一人で住んでたら、速攻で怒鳴り込んで大喧嘩して、その都度、自家用車のクラクションでも鳴らし倒すところですが、隣と派手に揉めるのは、家内が絶対に反対。無理に我を通したら、家庭内不和になってしまうので、やっぱり地元のことは、地元生まれの家内に任せるしかありません。

とは言うものの、ただ隣の騒音に我慢してるだけでは、ストレスが溜まって仕方がない。最近は、静かな時でも、また騒ぎ始めるんじゃないかと、神経質になってます。これは良くない兆候ですね。

そこで、一計を案じて、先方が変わるのを期待せず、こっちが引っ越そうと思い立った次第。引っ越すと言っても、別に近所の借家を...じゃなくて、昨年建てた、裏のゲストハウスに、私の書斎と寝室を移すだけ。やや大げさな家具の模様替えみたいなもの。

元々の私の書斎は、ちょうどお向かいさんに面した場所。2階なので遮蔽物がなく、一番喧しいロケーション。部屋を移そうとしているゲストハウスは、偶然にも、喧しい家とは母屋を挟んだ反対側。周囲はまだ空きロットで、夜間などまったくの静寂そのもの。

しかも、ここ半年のコロナ騒ぎで、日本からどころか、隣街のバコロドに住む親戚さえ来ることができません。空き家のまま放置していても仕方がない。

思い立ったが吉日で、メイドのライラに手伝ってもらって、書斎の大きなデスクと、付随する小さな家具何点かを、ゲストハウスのマスターベッドルームへ。半日ががりのプチお引っ越しとなりました。



引っ越し後の夜は、何ヶ月ぶりかに心の平和を取り戻した感じ。窓を開け放して風が通っても、酔っ払いの騒ぎを気にすることもない。騒音のこと自体が、意識の中からきれいに消失しました。これなら、もっと早く引っ越していれば良かったと思うぐらい。

さらに、日本風に言うと2LDKのマンション一室を独占しているようなもの。ベッドや食卓はもちろん、冷蔵庫に電子レンジ、コーヒーメーカーなどなど、やろうと思えば、問題なく自炊もできる。実に快適。

だからと言って、家族のための食事作りを放棄したのではありません。ちゃんと母屋の台所で調理して、ダイニングで家族一緒の食事は今まで通り。昼下がりには、家内とミリエンダ(おやつ)を楽しんだり。気が向けば、ゲストハウスで夕食後のお茶なども。

熱々の新婚さんでもないし、同じ敷地内に住んでいて、少しだけ夫婦間の距離を保つのも、意外といいかも知れません。



2020年9月23日水曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史7「からゆきとジャパゆき」

前回投稿した、キリノ大統領による、モンテンルパ刑務所に戦犯として収監されていた、元日本兵105名への恩赦が行われたのが1953年。この頃には、フィリピンはアメリカからの復興支援を受けるなどして、年平均6%の経済成長を遂げ、ビルマ(現ミャンマー)やスリランカと並んで、アジア期待の星でした。60年代には、一人当たりの国民所得が、日本に次いでアジア2位。今では信じがたいことながら、当時フィリピンは「アジアの優等生」と呼ばれたそうです。

そうした状況を暗転させたのが、マルコス大統領による20年間の独裁政権。同じ独裁でも、マハティールリー・クアンユーらの、優れた指導者によって大いに経済を発展させた、マレーシアやシンガポールとは対照的。リー・クアンユーが「私なら3年でフィリピンをシンガポール並みにしてみせる」と言ったのに対し、マルコスは「私なら3ヶ月でシンガポールをフィリピン並みにしてやる」という小咄もあったぐらい。

マルコスはフィリピンを私物化し、長期に渡る政治腐敗は、自由競争を妨げ、貧困は蔓延しました。その結果、国民の1割に当たる1000万人が、職を求めて国外へ。優等生から一転して、1980年頃のフィリピンは「アジアの病人」と揶揄されるまでになってしまいました。

その時期に、バブル経済を謳歌していた日本を目指して、フィリピンから大挙押し寄せたのが、エンターティナーの名目で入国ビザを取得したフィリピン女性たち。日本の流行語にまでなった、いわゆる「ジャパゆき」です。

1980年、私は高校3年生。ジャパゆきの語源である「からゆき」の意味は、明治から昭和初期に、主に九州出身で、マニラを含む東南アジアの港湾都市に娼婦として売られていった日本女性のことだと知っていました。笑えないジョークだけど、ずいぶん上手いネーミングだと感心したことを覚えています。

日本・フィリピン交流史の第三回「ベンゲット移民」でも触れたように、日本からフィリピンへ労働者を送り出していたのが、約100年の時を経て、立場が逆転したわけです。

からゆきさんから、100年後のジャパゆきさんたちも、実際にはセックスワカーへ流出するケースが多発。大金を稼いで帰国する女性がいる一方で、暴力団の介在などもあって、不法滞在の上に強制労働や売春強要など、悲惨な状況に陥る女性も少なくなかった。

しかし、負の側面ばかりではなく、意外なと言うか当然にと言うか、数多くのフィリピン女性と日本男性のカップルが生まれることに。現在フィリピンに住む日本人男性の中には、80年代にフィリピン女性と結婚した人もおられます。ある意味、戦後の日比交流のパイオニアと言ってもいい。

また、水商売関係だけでなく、当時日本でデビューした正真正銘のフィリピン出身のエンターティナーがいましたね。ジャズシンガーのマリーンさん、女優のルビー・モレノさんなど。ちなみに私の家内は、モレノさんと同い歳。(顔は全然似てませんが)

今では、90年代生まれの日比ハーフのタレントがたくさん活躍されています。大相撲の高安関もお母さんがフィリピン人。

その後、日本国内の人権活動や、入国審査の厳格化により、以前のような被害者は減り、「ジャパゆき」は死語と化しつつあります。最近、英語留学でネグロスにやって来た若い人の中には、この言葉を知らない人もいるぐらい。生まれる前のことだから、仕方ないですね。

次回は、日本・フィリピン交流史の最終回「再逆転」を投稿する予定です。


参考文献:
ニューズウィーク日本版「アジア経済の落ちこぼれ、フィリピン
日経ビジネス「アジアの病人の目覚め
ウィッキペディア
 「からゆきさん
 「ジャパゆきさん



2020年9月22日火曜日

台風は全部日本へ?

 今年(2020年)は、接近する台風がとても少ないフィリピン。発生する台風の数自体も少なくて、7月は、日本の観測史上初めて、台風の発生がなかったそうです。

ちなみに日本の気象庁は、日本やその近海だけでなく、北太平洋のかなり広い範囲の台風を監視。フィリピンに襲来する台風についても、気象庁のサイトで進路予想や気圧、風速などの情報を日本語で発信しています。これはフィリピン在留邦人としては、とても助かる。

8月以降は、矢継ぎ早という感じで、3号から9月22日現在日本に接近中の12号まで、10個もの台風が発生。特に10号が九州に大きな被害をもたらしたのは、記憶に新しい。


ところが、なぜかフィリピンでは、報道されるようなレベルの台風被害がまったくありません。例年だったら、目を覆うばかりの洪水や土砂崩れの写真や映像が、ネット上でも目白押しなんですけどね。日本で台風被害に遭った人から怒られるかも知れませんが、フィリピンに来るはずの台風が、全部日本へ行っちゃった感じ。

もちろん私も含めて、フィリピンに住んでいる人たちが、台風を望んでいるわけではなくて、とてもラッキーな年だと思ってます。それでなくても、コロナ禍で何かと大変な2020年。台風被害が少ないのは、大きな救い。

ただ、喜んでばかりもいられないのが難しいところ。聞くところによると、マニラ首都圏では、雨が降るべき時に降らないため、雨季の真っ只中に水不足の心配をし始めているそうです。

ここ数年ほど、乾季の4〜5月前後を中心に、深刻な水不足に見舞われている首都圏。どうやら天災というよりも、貯水池のダムや水道インフラの整備を怠った、マニラ・ウォーター(日本の水道局に相当する機関)の責任が大きいらしい。昨年(2019年)に、広域断水があった際には、水道料金値上げを狙った、意図的なものじゃないかとの見方もあったぐらい。

マニラ在住の人によると、まったく降らないわけではなく、夕立程度のお湿りは頻繁にあるけれど、ダムの貯水量回復には全然足りないとのこと。

その点、私たち家族の住むネグロス島では、台風は来なくても、かなりまとまった量の雨が定期的に降っています。ほぼ毎日、朝は青空でも午後からは土砂降り。時には終夜降り続いているので、少なくとも水不足にはなりそうにない。

こう書くと、ネグロス島って、改めて住みやすい場所なんだなぁと思います。バコロドのような都市もあるし、まだまだ緑も多い。台風が多いことだけが、移住前の懸念材料でしたが、今年はそれも少ない上に、水不足もない。

別に私が慧眼の持ち主だったわけではなく、たまたま知り合ったフィリピン人の家内が、ネグロス島出身者だったから、私は今、ここに住んでいるだけのことですけどね。



2020年9月21日月曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史6「キリノ大統領の決断」

日本にもフィリピンにも、戦争の傷跡がまだ生々しく残る、1948年(昭和23年)。エルピディオ・キリノ氏が、第6代フィリピン大統領に就任。1945年のマニラ市街戦で、彼は妻アリシアと子供たちを失いました。日本兵に殺害されたとも、米軍の爆撃の巻き添えになったとも言われています。いずれにしても、日本軍のフィリピン侵攻がなければ、起こらなかった悲劇。



第6代フィリピン共和国大統領
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino
出典:Lahing Pinoy

1953年(昭和28年)キリノ大統領は、日本からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。国全体が反日感情に煮えたぎっているような時期、これは驚くべきことだったと思います。

その背景には、朝鮮戦争で日本の協力を得るため、アメリカからの政治的な圧力もあったかも知れない。しかし私は、聖書にある「主の祈り」の一節「我らが人を許す如く、我らの罪をも許し給え」こそ、キリノ大統領の決断に最も大きな影響を及ぼしたと信じます。

それにしても、これは苦渋の選択だったでしょう。生半可なカトリック信徒である私には、とても真似ができません。この恩赦と同時に、キリノ大統領からフィリピン国民に、次のようなメッセージが発せられました。

自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末長く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。


戦勝国が敗戦国のリーダーや兵士たちの罪状を、「人道に対する罪」として裁いたことは、茶番に過ぎないし、非戦闘員である女性や子供まで焼き殺した、アメリカを含む連合国側に裁く資格があったとは到底思えません。とは言え、何の非もない肉親や友人を殺されたフィリピン国民には、日本人の存在自体が憎しみの対象だったことでしょう。それを考えるとキリノ大統領の行為は、もう神の領域。

キリノ大統領については、これだけネットに情報が溢れているのに、現在日本での知名度は高いとは言えません。そして日本国内で顕彰の碑が建立されたのが、なんと一昨年(2016年)6月。恩赦から60年以上も経過しています。

幸いなことに、現在フィリピンでの対日感情は、すこぶる良好。こうした状況の源流を作ったのがキリノ大統領。彼が、後世での栄誉を期待したはずはないと分かっていても、この忘恩ぶりは、日本人としては寂しい限り。カトリックの教えに基づく、フィリピン人の許しの精神は、私のようなフィリピン在留邦人も、その恩恵に浴しているのです。


主の祈り 全文

天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国が来ますように
御心が天に行われるとおり
地にも行われますように
私たちの日毎の糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に落ち入らせず
悪からお救いください

国と力と栄えとは、永遠にあなたのもの

アーメン


次回はさらに時代を下って、1980年代。日本の社会問題にまでなった、フィリピンからの出稼ぎ女性労働者「ジャパゆき」について投稿します。

参考文献
ウィッキペディア「エルピディオ・キリノ
まにら新聞「日本人戦犯帰国60周年


2020年9月20日日曜日

ヤバい三密の散髪屋

 

決してコロナ陽性患者の数が減っているわけではない、ここ、フィリピン・ネグロス島のシライ市。相変わらず、収束の気配すら感じられませんが、もうロックダウン(封鎖)とか、厳しい外出規制をするだけの予算がなくなったのか、たいていの店舗は、かなり通常に近い営業をやってます。

とは言え、そう頻繁に出歩く気にもならず、かれこれ4ヶ月ほど散髪屋に行ってなかった私。6月以降、ほぼ例年通りに雨季に入り、だいたい午後から雨の毎日。一番暑い4〜5月に比べると、日差しが少ない分、かなり凌ぎやすい気温でも、湿度の高さがあるので、やっぱり蒸し暑い。

特に、髪の毛を伸ばしっ放しにしていると、毎日洗髪しても、頭が蒸れて仕方がない。それでも我慢していると、頭皮にニキビができてしまいました。

人一倍髪の量が多く、若い頃から還暦間近の今に至るまで、私の頭には時々ニキビが。今回は、ちょっとしつこくて、一つが治りかけたと思ったら、また次。三つ目のニキビがかなり重症で、腫れ上がってきて、ちょっと触っただけで相当な痛み。これはもう、ニキビどころか、関西弁で言うところの「デンボ(腫れ物)」のレベル。

追い討ちをかけるように、台風が少ない今年のフィリピンでは珍しく、東の海上を通過する台風の影響で、ここ四日間ぐらいは雨模様。頭は痛むし気分は落ち込む。とうとう、今にも降り出しそうな中、散髪屋へ行ってきました。

私が日頃、髪を切ってもらっている散髪屋さんがあるのは、公営市場近くのゴミゴミした場所。安いだけが取り柄の、洗面台もない、お世辞にも清潔とは言えない店構え。一応、営業はしてましたが、時節柄か、いつもは三〜四名はいる理髪師さんが、その日はたった一人。

タイミングが悪く、お客さんが一人散髪中で、他に二人が待っていました。さらに、散髪ではなく、足の指の手入れに来たオジさんが一人。この店は散髪だけではなく、手や足の爪のケアをする、ネイリストのおばちゃんも出入りしてます。

つまり、私を含めて、そんなに広くもない空間に七名。散髪してもらってるお客さんの除いて、全員マスクはしてても、ソーシャル・ディスタンスどころか、手を伸ばせば触れる距離。しかも、みんな大笑いしながら喋りまくってるし。本当に「三密」もいいところ。

その話題がまた恐ろしくて、片言のイロンゴ語(西ネグロスの方言)しか分からない私でも理解できる「死んだ」「陽性」「病院」などの単語が飛び交ってます。うわぁ〜。

それでも、散髪を延期する気にはならないし、他の店はかなり遠い。もう面倒になってしまって、そのまま1時間ぐらい、スマホのゲームをしながら待ちました。

やっと私の番になって「思いっきり短く」とオーダー。バリカンやらハサミやらで、バッサバッサと刈ってくれるのはいいけれど、ニキビがあって痛いと言ってるのに、全然優しさが感じられない。ガリッという感じでくしけずられると、つい「いたっ!」っと日本語が出てしまう。

約15分ほどで、頭が軽くなるほどになって、散髪代は50ペソの100円ちょっと。この値段では文句も言えません。早々に三密空間を立ち去って、帰宅後はすぐに熱いシャワー。ウイルス対策も兼ねていますが、安い散髪だと、細かい髪が首筋や顔面、シャツの中などあらゆる部位に付着して、痒いのなんの。シャワーですっきりしないと、何もできない。

とまぁ、ちょっとした苦行の甲斐あって、頭の「デンボ」は、翌朝には腫れも痛みもすっかり引きました。やっぱり湿気が化膿の原因だったようです。ありがたいことに、天気も回復して、久しぶりに熱帯の真っ青な空が。


ということで、次回はもう少し早めに、そして少々高くてもいいので、美容院に行って髪を切ってもらうことにします。高いと言っても、500円ぐらいですけどね。



2020年9月19日土曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史5「戦火に引き裂かれた絆」

 

今日は、前回のダバオでの日系移民についての投稿に続き、日本・フィリピン交流史の5回目です。

あの戦争が終わって、すでにで75年。当時小学生だった、私の親の世代も80代。マニラ市街戦レイテ沖海戦に次ぐ、太平洋戦争でのフィリピン第三の激戦地と言われたネグロス島も、そんなことがあったとは思えないほど平和。

息子が通う現地の小学校には、日系、アメリカ系、中国系...。さまざまな国籍の親を持つ子供たちが、何のわだかまりもなく、毎日の勉強やクラブ活動に勤しんでいます。私の祖父母が若かった頃、双方の国が敵味方に分かれて殺し合っていたとは、とても信じられません。(2020年9月現在、コロナ禍のため未成年者の外出禁止が続き、授業はオンラインで行われています。)

戦争当事国ではなかったフィリピン。まだ独立も果たせず、アメリカの統治下で、日本に対しては何の恨みもなかったでしょう。国内には、ダバオやマニラなどに、3万人近い日本人移住者も暮らしていました。

日本軍による最初の標的は、ハワイのオアフ島・真珠湾に停泊中だったアメリカ海軍の太平洋艦隊でしたが、これは完全に意表をついた奇襲作戦。日本が仕掛けるなら、最初はフィリピンだというのが、開戦前の大方の予想。この攻撃の第一報がワシントンに届いた時、真珠湾ではなくフィリピンの間違いだろう、と疑いの声が上がったほど。

そして日本軍は、宣戦布告の約2週間後の1941年(昭和16年)12月22日、ルソン島上陸。さらに10日後の1942年1月2日に、首都マニラを占領しました。その後、バターン半島、コレヒドール島、ミンダナオ島での激戦を経て、当初見込みの3倍以上の150日もの時間を費やして、同年6月フィリピン全土を制圧。

マニラ陥落時の日本の第14軍司令官の本間雅晴中将(戦後「バターン死の行進」の責任を問われ、戦犯として銃殺)は、「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し、違反者は厳罰に処すとの訓示を行ったにもかかわらず、その直後に、占領下のマニラ大学で女子学生たちが、日本人将校によって強姦されたとの日本側の証言が残っています。

1945年(昭和20年)の日本の無条件降伏までの3年余り。ゲリラ討伐に名を借りた、日本の兵士による組織的な虐殺や、暴行・略奪が相次ぎます。ネグロス島でも、80歳以上の人々の中には、家族や親戚、友人を日本人に殺害された、忌まわしい記憶と共に生きる人も。太平洋戦争中、100万とも110万とも言われるフィリピン人が命を落としました。

家内の叔母と結婚し、私と家内の橋渡し役をしてくれたMさん。Mさんはネグロス生まれの日比ハーフ。戦前に出稼ぎで日本からネグロスに渡ったお父さんと、フィリピン人のお母さんの間に生まれました。

フィリピンでの戦争は、Mさんの運命を大きく狂わせることに。愛する妻も、営々と築き上げた財産もすべて捨て、Mさんのお父さんは、小学生だったMさんを連れて敗戦国日本へ引き揚げ。これが夫婦の今生の別れとなりました。帰国した時には日本語が話せなかったMさん。当時の話をすると、今でも目に涙を浮かべます。

一方、フィリピンに留まった日本人は、ジャングルや山中など、人目につかない場所での生活を余儀なくされました。その子供たちは、日本人を父に持つことを隠すため、両親の婚姻証明や出生証明を焼き捨て、母方の姓を名乗り、国籍も取得できない状態になった人も多く、その数、現在生存している人だけでも1,200名を数えます。

中には、自分が生きていたら家族の迷惑になると、手榴弾で自爆した日本人もいました。家族は墓を建てることすらできず、バラバラになった遺骸を自宅の床下に埋めたと言います。

実は、今、我が家で働いているメイドのライラは、日系3世。母方のお祖父さんが、元日本兵だったそうです。ライラの話では、お祖父さんは80代で亡くなるまで日本語を喋らず、日本の名前も隠し通し、帰国もしなかったとこと。なので、ライラは祖父の本名や、生まれた場所を知りません。

2016年1月。天皇陛下(現在の上皇陛下)がフィリピンをご訪問された際、約90名のフィリピン残留日本人の方々を接見されました。そこには、今なお無戸籍のまま放置された方もおられ、陛下が一人づつ手を握られて、「大変でしたね」とのお言葉に号泣する人も。先の大戦は、日本とフィリピンの国同士の絆だけでなく、両国にまたがる家族の絆も容赦なく引き裂きました。現在に至るまで、癒えることのない傷を残したまま。


次回は、戦後間もない頃、歴史的な決断を下したことで有名な、キリノ大統領について投稿します。


参考文献:
ウィッキペディア
 フィリピンの戦い(1941-1942年)
 フィリピンの戦い(1944-1945年)
まにら新聞「自爆で家族を死守した父」
現代ビジネス「陛下の前で涙を流した彼らは何者か」


2020年9月17日木曜日

自宅隔離の連鎖


フィリピン教育省、Department of Education 、略称 DepED(ディプェド)の地方事務所、シライ市内のオフィスに勤務するフィリピン人の家内。シライDepEDは、日本で言うと、市の教育委員会みたいなもの。公立・私立を問わず、シライ市内の学校で子供達の教育に携わる先生への指導や支援を行なっています。

先月(2020年8月)の末には、私立校だけながらようやく授業がオンラインで再開し、公立校の10月再開に向けての準備で、何かと多忙なDepEDスタッフ。週に一回程度の在宅勤務中も、客間にパソコンとプリンターを持ち込んで、仕事に勤しむ家内です。いろいろ不便はあっても、給与は滞りなく支払われているので、このご時世、実に有難いこと。

この我が家の大黒柱、フィリピン風に言うとブレッド・ウィナー(Breadwinner 一家の稼ぎ手)の家内が、何と一昨日の火曜日から、自宅隔離になってしまいました。

事の発端は、DepEDで行われた、先生たちを集めてのミーティング。ミーティングの後、参加した先生の一人の旦那さんが、コロナ陽性判定を受けてしまいました。

家内は同じ部屋に居合わせたとは言え、直接会話をしたわけではなく、マスクにシールドもしていたのですが、9月15日現在で、78名の陽性患者が確認されているシライ市内。もうみんな神経質になっていて、同室した人全員が「濃厚接触者」の扱いで、自宅隔離の憂き目に。

旦那さんが陽性だったという先生は、シライではなく隣市のタリサイ在住。こちらもシライ同様に患者が多く、検査の順番待ち状態。ご本人の検査結果が出るのは明日の金曜日になるとのこと。なので陰性だったとしても、家内の出勤は週明けから。もし陽性となれば、さらに一週間の隔離が続くことに。

とは言え、仕事は今まで通り在宅で続けられるし、減給もない。休んだら休んだ分だけ手取り分が無くなってしまう、メイドさんや日給制の労働者に比べれば、恵まれています。

ただ、我が家のメイドのライラおばさん。自宅近辺の隔離措置が終わって、ようやく月曜日に出勤したと思ったら、掃除中に指を怪我して、翌日からまた欠勤続き。どうも傷口が化膿してしまったらしい。

未成年の息子は、この半年間ずっと外出禁止で、ライラも来ない。それに加えて家内も隔離となれば、買い物に出られるのは、家族で私だけということに。タイミング悪く、この数日続く雨の中、いよいよ底をついてきた食材を補充しに、今日、ひさしぶりに公設市場に行ってきました。

雨なので、これまた久しぶりに自家用車。意外にも車が多いシライ市内。公設市場の中も、ちょっと混雑気味なぐらいで、交通量や買い物の人出を見る限り、コロナ禍の影響はあまり感じません。行きつけの八百屋さんなど、いつのまにか若い女性の従業員が二人も増えて、以前より繁盛してるんじゃないかと思うぐらい。

道路もお店も閑散としてるんじゃないかと想像していたので、活気のある街の風景を見られただけでも、少し元気になった気分。

いくら日本で住んでた頃より、そこそこは広い家があっても、家に閉じこもっていると、どうしても気分も塞ぎ込んでしまう昨今。やっぱりたまには無理してでも、外に出た方がいいのかも知れませんね。



【再掲】日本・フィリピン交流史4「ダバオ産のマニラ麻」

 今日の投稿は、日本・フィリピン交流史の第4回。

ルソン島のマニラ首都圏、ビサヤ諸島のセブ・マンダウエ・ラプラプ各市で構成されるメトロ・セブ、そしてミンダナオ島にあって、フィリピン第三の人口を擁する経済圏がダバオ市です。イスラム教徒が多い地域として知られ、16世紀から始まったスペインの侵略に最後まで抵抗。19世紀まで独立を守り続けました。

その結果、皮肉なことに、近代化が遅れてしまったダバオ。そんなダバオの発展のきっかけになったのが、20世紀初頭の日本人開拓者によるマニラ麻(アバカ)栽培の農園経営だったと言われています。

その原産地から名付けられたマニラ麻は、バナナ同様の多年草。その葉柄(葉を支える柄の部分)から採取される繊維は、植物繊維としては最も強靭。1800年代から船舶用のロープの材料として用いられてきました。また、現在の日本の紙幣は、マニラ麻などの繊維を特殊加工して作った和紙が使われているそうです。


遠目にはバナナと見分けがつかないマニラ麻
手前には乾燥中の繊維
出典:Wikipedia

このマニラ麻に目をつけたのが、明治時代、マニラに住んでいた日本人実業家の太田恭三郎という人物。彼は、相当な先見の明があったんでしょうね。前回投稿したケノン道路建設のために来比した日本人労働者(通称ベンゲット移民)。道路完成後に失業し、帰国する旅費もない困窮邦人となってしまいます。太田は、そんな彼らを率いて1905年(明治38年)にダバオへ移住。同胞救済と新規事業立ち上げの一石二鳥を狙いました。結果から言うと、この目論見は大成功。

もちろん最初からトントン拍子ではありません。当初、約200ヘクタールの土地を買収し、そこでマニラ麻の植え付けを始めようとしたところ、外国人であることを理由に耕作が許されず、州から退去命令を受けてしまいました。そこで太田は一計を案じます。

土地を無償で政府に還付し、収穫物の10パーセントを政府に納付する耕地請負制度を提案。官有地を租借するという形で、ダバオでのマニラ麻栽培開始にこぎ着けました。

その後、日本人移民によるダバオでのマニラ麻事業は軌道に乗り、約30年後の1939年(昭和14年)には、フィリピン全体の在留邦人2万9千人のうち、ダバオ在住者は1万8千人にまで増加。そしてその多くがフィリピン人女性を妻に迎え、フィリピン生まれの移住2世は、1万人を数えました。

1937年(昭和12年)のダバオ州での国籍別農業投資額を見ると、フィリピン人の約3200万ペソ(65.6%)を除けば、日本からの投資額は約1000万ペソ(20.7%)でダントツの2位。3位のアメリカ、約285万ペソ(5.9%)を大きく引き離しています。マニラ麻の生産量は、フィリピン全体の半分強をダバオ産が占め、さらにその7割が日系事業者によるもの。

こうして、ベンゲット移民から約30年。フィリピンの日本人移民たちは、成功者として確たる地位を築くに至りました。

最近でこそフィリピンで日本人が多いのは、マニラやセブですが、明治以降の日比交流の源流は、バギオやダバオへの移民。特にダバオでは、今でも日本に親近感を持つ人が多い。以前ダバオ市長を務めたドゥテルテ大統領も大の親日家。私たち現代のフィリピン在留邦人は、はるか明治時代の先人たちが築いた、遺産の余光に与っているとも言えます。

しかし、日比の蜜月時代は長続きはしませんでした。1941年(昭和16年)12月、日本はフィリピンの宗主国だったアメリカに奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発。フィリピンへ移住した日本人とその家族には、過酷な運命が待ち受けることに。

次回は、戦場となったフィリピンでの日本人について投稿します。


参考文献:
戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略


2020年9月15日火曜日

隣人が陽性で二週間の隔離

 

昨日(9月14日)の月曜日、二週間ぶりにメイドのライラが出勤しました。

最初の一週間は、ライラの住むギンハララン・バランガイで、コロナ陽性患者が出たため、周辺地区がまとめて隔離となってしまったから。私は、それが終われば、週明けからは出てこれると思ってました。ライラも同様で、月曜から働きますと、家内にメッセージが。

ところが、待てど暮らせど、ライラは来ないし連絡もない。隔離対象ではないものの、同じバランガイに住む、私のイロンゴ語の先生アンによると、死者も出たそうで、どうやらこれは、相当ヤバいことになっているらしい。

そしてさらに一週間が経過して、ようやく顔を見せたライラ。ずいぶんと怒って興奮気味。ライラの家の近くにあるギンハラランの市場で、オーナーが陽性になったのが隔離の発端とは聞いてましたが、亡くなったのはその市場オーナーさん。

オーナー家族の運転手にも感染し、さらには、ライラの隣家でも陽性患者を確認。最新のルールでは、このような場合、患者が住んでいる家だけでなく、両隣に向かいと裏の家が、全部隔離になってしまう。ライラと彼女の家族は、その煽りを受けてしまったというわけです。

ツラいことに、シライ市の予算も尽きて、隔離世帯への食糧供給だけは行っても、休業補償や支援金の支給はないとのこと。いよいよ追い詰められてきた感じ。

ただライラが怒っていたのは、それが理由ではなく、市場オーナーとは別に、ギンハラランで亡くなった人の死因を、町医者がコロナだと診断。ところが翌日には、間違いだったと前言を翻したこと。

それでなくても、ライラのご近所さんたちは、ほとんどパニック状態だったところへ、火に油を注ぐ格好になって、この町医者へ怒りが爆発。裁判沙汰にすると息巻いてます。

私はその場にいたわけではないので、どういう状況だったのか分かりませんが、医療従事者を信用できなくなるのは、とても危険な兆候。医者の診断ひとつで仕事を失い、自分だけでなく子沢山の大家族の食い扶持が、ぶっ飛んでしまうフィリピンの現実。これを考えると、訴訟どころか、医師への暴力にも発展しかねない。

そうなると、診断や治療拒否の、最悪の自体になってしまいます。実際に、家内の従弟で看護師の職に従事しているラルフ君は、いろんなリスクが高まっている割に給料が安すぎると、離職を考えている様子。

それにしても、ライラの住むギンハラランを始めとして、今回、陽性患者が確認されている、マンブラック、イーロペス、バラリンなどのバランガイは、どこも貧困層が多く住む地域。狭い場所にたくさんの人が、袖を擦り合うように暮らしてる。

最初の検疫から半年以上が経過して、自体は収束の兆しどころか、感染爆発に歯止めがかからなくなってきています。



【再掲】日本・フィリピン交流史3「ベンゲット移民」

 第3回の日本・フィリピン交流史は、前回の高山右近から一気に時代を下って、明治時代のお話。


ベンゲットは、ルソン島の中央付近、観光地として有名な「夏の首都」バギオが位置する、フィリピン国内の州(プロビンス)の一つ。ただし、バキオ市はベンゲット州には属さず、独立した行政区分なんだそうです。

「ベンゲット移民」は、1903年(明治36年)、マニラ〜バギオ間の全長41キロの道路建設のため、フィリピンに渡った日本人移民のこと。土木作業者・石工・現場監督・通訳を含む、総勢5,100名が、この工事に参加しました。江戸時代初期の鎖国令以来、閉ざされていた日本・フィリピンの交流は、このベンゲット移民で約260年ぶりに再開したというわけです。

当時フィリピンは、スペインから独立したのも束の間、わずか数年でアメリカの植民地となってしまいました。そして首都マニラの暑さを嫌う、新しい支配者のアメリカ人が、バギオを避暑地とするために直通道路の建設を計画。延べ3万人の労働者を動員。その半数がフィリピン人で、日本人は全体の2割。その他アメリカ人や中国人、インド人、イギリス人が作業に従事。

着工から5年、日本人が参加してから2年後の1905年(明治38年)に道路は完成し、アメリカによるフィリピン統治政府の代表者、ケノン少佐に因み、ケノン道路と命名。しかし、技術的な準備不足、過酷なジャングルでの労働環境などが災いし、日本人労働者の半数近い700名が、事故や病気で命を落としました。

現在のケノン道路(日本の占領時代にベンゲット道路と改名)の写真を見ても、山肌を這い回るような姿から、建設は困難を極めたことが容易に想像できます。110年前の、フィリピンへの移住者としては私の大先輩たち。家族を祖国に残し、異郷の地で亡くなった方々の心中を察すると、涙が出そうになりますね。



ところで、明治36〜38年というと、日本はまさにロシアとの戦争の真っ最中。対外輸出できる製品といえば絹糸や工芸品ぐらいしかなく、貧しい農家では口減しのために、娘を売春宿に売り渡す人身売買が、公然と行われた頃。

軍艦すら国内で造れず、イギリスなどに発注。欧米列強に追いつこうと必死になっているものの、まだまだ国力は貧弱で、三等国の扱いを受けていました。つまり、現在とは逆で、仕事を求めて日本人がフィリピンへ出稼ぎに。しかも命懸けの厳しい労働に就くしかないような時代だったのです。

そして、難工事をやり遂げて生き残った人々には、その後も苦難が続きます。工事が終わって失業者になっても、貯金すらないケースが多かった。彼らは、帰国しようにも旅費がなく、言わば「元祖・困窮邦人」となって、マニラに残留するしかありませんでした。

それにしても、現在の日本では、同時期のハワイやアメリカ、南米への移民について、多少知る人はいても、フィリピンへの移民、ましてやベンゲット移民の名を聞くことさえ稀。かく言う私も、フィリピンに縁があり、この地に移り住むことがなければ、関心も持たなかったでしょう。

さて、マニラに残された困窮邦人。その窮状を救ったのが、後に「ダバオ開拓の父」と呼ばれた、太田恭三郎という兵庫県出身でマニラ在住の日本人実業家でした。次回は、ダバオでの日本人移民について投稿します。


ケノン道路の展望台にある記念プレート

参考文献:

戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略
まにら新聞 「移民1世紀」

2020年9月13日日曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史2「ユスト高山右近」

高槻市 城跡公園に建立された右近像


前回に引き続き、日本・フィリピン交流史です。今日はその第2回。
少々ヒネりが効きすぎだった第1回の杉谷善住坊に比べると、ご存知の方も多いと思われる、高山右近(たかやま・うこん)のお話。

またまた、昔のNHK大河ドラマ「黄金の日日」を持ち出して申し訳ないことながら、私が、この有名なキリシタン大名のことを知ったのは、この番組を通じて。DVDで見直してみると、登場した時は「高山重友」になってたんですね。


「右近」の名前が浸透していますが、その諱は、友祥、長房、重友、などが伝わっていて、右近は本名ではなくニックネームとか芸名みたいなものなんでしょうか。この投稿では右近で通します。

10歳でカトリックの洗礼を受け、霊名ユスト(またはジュスト)を名乗った高山右近。神さまにも人にも、とことん真面目な態度で接し、物事を突き詰めて考える性格だったらしい。その右近が、与力(厳密な主従ではなく、補佐役か客将みたいな関係)として仕えていた荒木村重が、主君・織田信長に対して叛乱を起こした時のこと。

従わなければ、当時の領地、高槻(現・大阪府高槻市)を焼き払い、キリシタン信者を皆殺しにすると、信長からの脅しを受けた右近。村重への忠義と板挾みになった彼は、周囲の反対を押し切って、領地を信長に返上。領民の命乞いのため、単身出頭するという、ちょっと信じられない行動に。

ドラマでは、舞台俳優でテレビ初出演だった鹿賀丈史さん演じる右近が、白い死装束に身を包み、闇に紛れて一人歩く姿がとても印象的でした。完全に殉教者のイメージ。今でも右近を思う時、私の頭の中のスクリーンに映し出されるのは、若い頃の鹿賀丈史さん。

私は、30歳を過ぎてからカトリック信徒になり、にわかに興味を持って、高山右近関連の書籍を読み始めました。実は、フィリピンに移住する少し前まで、右近所縁の高槻市内の教会に所属。また住んでいた茨木市(高槻市と隣接)や、私のカトリック入信のきっかけとなった教会がある伊丹など、すべて右近と深い関わりのある土地。

徳川家康の世になってからの右近は、キリシタン禁制下で棄教を拒み、ついにはフィリピンへ亡命。400年の時を隔てながらも、とても偶然とは思えないほど、右近と私の行動範囲は重複。信仰の篤さでは比べものにならないものの、やっぱり親近感を覚えてしまいます。

さて、フィリピンでの高山右近。1614年12月、当時スペインの占領下だったマニラに到着。カトリック関係者には、すでに有名人だった彼は、熱狂的な歓迎を受けました。民間でここまでの国賓待遇だった日本人は、90年代フィリピンで大ヒットしたアニメ「超電磁マシーン ボルテスⅤ」の主題歌を歌った、堀江美都子さんのフィリピン渡航まで、例がなかったかも。

しかし、フィリピンへの長旅と酷暑の気候は、63歳の右近には厳しすぎたようで、マニラ到着後わずか1ヶ月余りの、翌年2月3日に病死。右近の死後24年経った1639年、徳川三代将軍・家光の時代に南蛮船入港禁止令(いわゆる鎖国)が発せられました。その後200年以上、オランダ・清国との限定的な接触を除き、外国との交易は禁じられ、始まったばかりの日本・フィリピン交流も完全に途絶。

時は移って1976年(昭和54年)、高山右近が結んだ縁により、マニラ市と高槻市は、姉妹都市となり、かつて日本人町のあったマニラ市内パゴ地区に、日比友好公園と高山右近の像が建設されました。一時は廃墟同然となったものの、アロヨ大統領時代に再整備され、現在に至っています。

そして2016年、日本カトリック信徒の長年に渡る活動が結実し、ユスト高山右近は、バチカンによって「福者」(聖人に次ぐ、カトリックでの徳と聖性を持つとされる人物の称号)に列せられました。


次回は、一気に時代を下って、明治時代の日比交流について投稿します。


2020年9月12日土曜日

【再掲】日本・フィリピン交流史1「杉谷善住坊」

もう2年半以上も前に、8回連続の投稿で、自分なりにフィリピンと日本の交流史をまとめてみたことがあります。久しぶりに読み返してみて、かなり忘れていた部分もあり、自分でも面白く感じたので、自画自賛・我田引水の極みながら、もう一度、アップします。以前とは、読者の方もだいぶ入れ替わったようですし。

以下、再掲。


杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅぼう)の名前を知っている人は、そんなに多くないでしょう。もし知っていて、あなたが女性ならば、今流行りの「歴女」と呼ばれるかもしれません。善住坊は、戦国時代のスナイパー(狙撃者)。その来歴は謎に包まれていて、忍者、雑賀衆、伊勢の国・杉谷城の城主など、いろいろな説が。

いずれにしても、火縄銃での織田信長の狙撃・暗殺を試みて失敗し、その科によって、鋸引きで刑殺されたのは確かなようです。でも、なぜその善住坊が「日比交流史」の最初に出てくるのか。

「交流史」と銘打ちながら、いきなりフィクションで申し訳ないのですが、1978年(昭和53年)のNHK大河ドラマ「黄金の日日」に、主人公の助左こと呂宋助左衛門(るそん・すけざえもん)の若き日の相棒という設定で、杉谷善住坊が登場。信長暗殺をしくじって捕まる前に、助左と共にルソン島に潜伏していたというストーリー。

呂宋助左衛門、本名・納屋(なや)助左衛門は、日本史上最初にフィリピンとの大規模な交易を行った人物。現地から持ち帰った数々の珍しい交易品、特に「呂宋壺」が珍重され、豊臣秀吉の保護で豪商としての地位を確立。太閤記にその経緯が記されているそうです。

ところが、呂宋壺は、名器の類でも何でもなく、庶民が便壺として使用していたものだと発覚し、秀吉の怒りを買って日本を追われフィリピンへ。のちにカンボジアで再び富を築きました。

そういった伝承の一部を踏まえたドラマでは、助左は一介の船乗りとして参加した最初の航海で難破。乗り合わせていた善住坊、そしてなぜか石川五右衛門の3人がルソン島東岸にあるアゴー村(Agoo 実在する地名)に漂着。そこから身振り手振りで日比交易が始まります。

善住坊役は、カップ麺「どん兵衛」のCMで少しづつ知名度が上がっていた、川谷拓三さん。凄腕のスナイパーなのに、気が小さくて怖がりで、全然格好よくない、とても人間臭い男を好演。この演技が素晴らしく、テレビ初出演だった、五右衛門役の根津甚八さんと並び、主役の松本幸四郎さん(現・二代目白鷗)や並み居るベテラン大物俳優を食って、ドラマの顔として脚光を浴びました。

劇中の善住坊は、族長の娘マリキッドの侍女、ノーラと恋仲になり、結婚。ところが婚礼の当日に、日本へ向かう交易船がアゴー付近を航行しているのを見つけ、新妻を残して帰国してしまう。結局善住坊は、フィリピン再渡航の夢叶わず、非業の死を遂げます。

放送当時、高校生だった私は、ノーラに思いっきり感情移入してしまい、可哀想で仕方なかった。と言いつつ、その十数年後に、私もフィリピン女性を泣かせるようなことを、やらかしたんですけどね。

ちなみにこの話、ジャパゆきと呼ばれた出稼ぎフィリピン女性が大挙来日して、社会問題になる前のこと。まるでその後の、日本男性とフィリピン女性の、典型的な恋愛パターンを予言しているよう。日本を食い詰めてフィリピンに逃亡。現地妻まで持ったのに、やっぱり日本が恋しくて、妻を残して日本へ。今では善住坊の気持ちが、痛いほど理解できます。

さて現実には、杉谷善住坊がフィリピンに渡った記録はありません。呂宋助左衛門の日比交易も、偶然ではなく、計画的に船を仕立てて、おそらく通訳も用意したんでしょう。それでも「黄金の日日」は、大河ドラマ史上最高傑作と言われ、日比の交易事始めに人々の興味を引きつけたという点でも、高く評価されるべき作品だと思います。

実は日本で購入した「黄金の日日」DVD-BOXを、ネグロスにまで持参しております。そろそろ息子と一緒に鑑賞しようかと思っている、今日この頃なのでした。(その後、毎週日曜日に1年かけて、息子と一緒に全話観ました。)



それでは、次回の日本・フィリピン交流史では、同じく戦国時代。キリシタン大名の高山右近を取り上げたいと思います。


2020年9月11日金曜日

隣人のシャブ中毒疑惑

日本人がフィリピンに暮らすと、かなり高い確率で問題になるのが、ご近所さんとの各種トラブル。まず、一番アルアルなのが騒音。

私も裏、隣、向かいと、全方位で戦ってきました。ラジオの音楽やカラオケ、鶏の鳴き声に人の声などなど。それぐらい日本でもあるし、場合によってはマンションの上下階同士で、警察沙汰や暴力騒ぎに発展したりも。

ただフィリピンの場合、騒音と捉えるかどうかの常識が違い過ぎて、音の大きさが日本とは比較にならないレベル。ラジオの音量なんて、最大まで振り切るのが当たり前で、中途半端にお金がある家など、高いオーディオ機器を使って「ここはディスコか?」というぐらい、朝から深夜まで、ガンガンに8ビートが響き渡っている。

昨年は、隣家の新築工事の大工たちが、これをやってくれました。厄介なことに、私の二階の部屋が隣に向いていて、窓を開けていると、ブログ書いたりイラスト作業に集中できない。工事が終わって、静かになってからも、それほど暑くないのに、窓を閉め切ってエアコンを使うのが習い性になってしまった。

また、以前にも投稿した鶏のこと。裏の豪邸オーナーが自宅の庭(軽く1,000平米はありそう)で闘鶏を開くほどのギャンブルマニア。年に数回、深夜まで大騒ぎになるのはまだマシで、その庭で闘鶏を飼っていて、試合前になると騒音に慣れさせるために、特大スピーカーで朝の暗いうちから、大音量の音楽を聴かせる。これはもう近隣住民への虐待。

さすがのフィリピンでも、宅地内での闘鶏は禁止されていて、苦情を言ったのも私だけではなく、ほどなく闘鶏も鶏飼育も沙汰止みに。聞く所によると、止めた本当の理由は、そのオーナーが病気で寝たきりになったからとのこと。オっさんが元気だったら、今でも騒音を撒き散らしてたかも知れません。

もう一つのフィリピン・アルアルが、煙害。とにかく、すぐに焚き火しちゃうんですよ。家の庭、前の道、こまめに掃除するのはいけれど、集めたゴミをその場で燃やしてしまう。これまた以前に投稿したように、1ブロックほど離れた家に住むゴっついアメリカ人が、家の周りが散らかっているからと、自分の持ち物でもない空き地に、大量の枯れ葉や枯れ草を集めて、毎日焼却。風下にある我が家は堪ったものではありません。

黙っていたら、私や家族が気管支炎にでもなりそうだったので、宅地の警備員に頼んで止めさせました。最後は警備員が「今度やったら、警察呼ぶぞ」とまで言ったそうです。

さて、最近は、ここまで傍迷惑な輩は影を潜めましたが、今、鬱陶しいのは、向かいの隣人。家だけは、そこそこ広くて立派なのに、なぜか周囲にフェンスはなく、庭は草木が生え放題。ここに竹で掘立小屋を作って、日中の大部分は、そこで生活してます。

一度、家の中を見たら、物が多すぎてちょっとした「ゴミ屋敷」。風の通らない家の中は暑いので、こうなっているらしい。

そんな状況なので、喋る声は筒抜け。しかも住んでる人も来る客も、揃いも揃って「聴覚に問題でも?」と尋ねたくなるような、大声の持ち主ばかり。家内によると、田舎者は声がデカいんだそうです。でもなぁ、一応ここは、市内でも随一の高級住宅地なんだけど...。

この隣人、昨年は、闘鶏の鶏舎を始めて、文句を言って止めさせた経緯があるし、焚き火も雨さえ降らなければ毎日燃やす人々。まぁ、闘鶏以外は、フィリピンに住むなら、ある程度は我慢するしかない範囲。ところがここ数日、ちょっと騒ぎ方が尋常じゃなくなってきました。

問題は、目下コロナ禍のために失業中のバカ息子ども。酒を飲んでワイワイというのとは、明らかに違って、犬の遠吠えのような奇声を発して走り回っている。うるさいのを通り越して、狂気を感じるような振る舞いです。

いつもなら私が最初に苛立つのが、これには家内が怖がってしまい、珍しく自分から警備員に苦情を言いに行きました。家内曰く「これはシャブ・アディクトかも知れない」。

覚醒剤中毒が社会問題になって久しいフィリピン。現大統領のドゥッテルテさんが、国内外からの耳目を集めたのも、中毒患者や売人の殺害も辞さないという、過激なドラッグ戦争を仕掛けたのが理由。ここシライでも、バランガイ(町内会)毎に、反ドラッグキャンペーンが続いてます。

つまり、それだけ人々の暮らしの深いところまで、浸透している覚醒剤。向かいの住人が、本当にシャブをやってるかどうかはともかく、疑われるような素地があるということ。

結局、家内が警備員に相談してもラチが開かず、宅地管理事務所のマネージャーに電話してました。どうやら真剣に対応策を考えてくれるらしい。やっぱり、シャブかも?となったら、適当にあしらう訳にはいかないんでしょうね。

さて、この顛末はどうなることやら。



2020年9月8日火曜日

鉢植えが流行の最先端

 少し前に、ここネグロス島シライ市で、突如として日本のママチャリが流行り出したという投稿をしました。これは理由がはっきりしていて、市内の業者が、日本から輸入された中古自転車、それもマウンテンバイクやスポーツ車ではなく、比較的安価なママチャリを売り始めたから。

僅かな距離でもトライシクル(輪タク)に乗るフィリピンのオバちゃんたちが、この年中暑い国で自転車なんか漕ぐんかいなとの私の予想を裏切って、意外にもこの商売は大当たり。買い物とかの所用に使うのではなく、有閑マダムたちが運動不足解消のため、朝夕の涼しい時間帯にジョギング代わりにサイクリング、ということらしい。

それとまるで連動するように、ここ最近、シライの奥さま方に人気なのが鉢植え。コロナ禍で、外を出歩く機会が減ったからでしょうか。自宅の敷地内にいて、それほどのお金をかけなくても楽しめる趣味として、家内もすっかりハマっております。

自分の家のガレージを改造して、トロトロ(簡易食堂)やサリサリストア(雑貨屋)を始める人が多いフィリピン。こういう流行があると、すぐに便乗して、植木鉢の商売をする人も増えます。もちろん投資は最小限で、「植木鉢売ります!」と家の門扉に張り紙をするだけ。

最近はフェイスブックがあるので、鉢植えを売るだけでなく、育てた観葉植物の売買や交換をネット上でやるのが当たり前。セルフィ一辺倒だったフィリピン人のFB友達が、壁面の棚いっぱいに並べた、ご自慢の青々と葉が茂った植物の写真を毎日投稿したりしてます。

お陰で、元々、素焼きの植木鉢を扱っていた店では、品物が入荷したら即完売の状況らしい。日本の場合、お昼のバラエティ番組で「〇〇がガン予防に利く」みたいな話題があると、あっという間に該当商品が店頭から消えるという現象が、今でもしょっちゅうありますが、今回のシライの鉢植えブームは、何が発端だったんでしょうかね?

さて、まるで植木屋か庭師に転職したかのような、我が家のマダム。土日だけでなく、コロナの影響で仕事がない日、さらには出勤日でも早起きして、朝1時間ほど鉢植えの手入れ。

実は、今、家内の作業場になっている所は、私がゲストハウスの新築に合わせて用意したもの。小さいながら、日本式にゆったりお湯に浸かれる風呂場を建てた際に、窓から草花が眺められるようにと、三畳ぐらいの空間に棚を置いて、鉢植えを並べました。


ゲストハウスができる前に、家内が買いっぱなしで、ほとんど放置していた植物を、一括大量購入した植木鉢に、私が、一つづつ植え替えたんですよ。その時は、別に手伝うでもなく、遠巻きにしてた家内ですが、ここ数ヶ月ぐらいは、まるで自分の秘密基地のように立てこもって、暇さえあれば土いじり。

それにしても、家内の場合、鉢植えをきれいに並べて、庭全体を美しく...とは思わないようです。ただひたすら、植物の数を増やすのが目的。茄子とかオクラなど、実用的なものもありますが、ほとんどは観葉。なんだか雑然としてきました。



せっかく育てたんだから、きれいに植木鉢をレイアウトして、来客時に見てもらえるような庭にしたいもの。と、私がそんなことを言うと「またお金がかかる!」と家内。ちょっと待て、君がそれを言うか?


2020年9月6日日曜日

息子の散髪@コロナ禍

 

気が付いたら、もう全世界的に9月になってました。

考えてみればこの半年間、年初に目論んでいた活動は、ほぼ全部吹っ飛んで、バカンスもなければホームパーティも無し。日本からの来客が全キャンセルなので、去年に建てたゲストハウスからの収入もゼロ。

フィリピンでの9月 September は、バー・マンス her month の始まりということで、クリスマスの準備を始める月とされていて、ラジオからはクリスマスソングが流れたり。でも、この調子では、待降節(クリスマス前の4週間)のミサにも出られそうにないし、親戚や友達を集めてのクリスマスパーティなんて、夢のまた夢。一応、ショッピングモールは開いてはいても、売れ行きは例年の何分の一、何十分の一でしょうね。

さて、このコロナ禍で、一番憂鬱な状況に置かれているのが、未成年者と60歳以上の高齢者。ロックダウン(封鎖)が解除され、かなり規制が緩めになっても、子供と老人は外出が禁止のまま。我が家の未成年、中学二年生の息子も、かれこれ半年の間、自宅で軟禁状態。

ただ、元々が私に似て超インドア派の息子。テレビ、パソコン、スマホに書籍があれば、別に外出禁止じゃなくても、自発的に外に遊びに行こうとはしません。その点は、特に気伏せりになったりすることもなく、親としては助かっております。

先月末からは、オンライン限定ながら学校の授業も再開し、朝は8時前から、夕方は4時半まで、食事やトイレの時間を除くと、ちゃんとやることがある。朝寝坊、夜更かしがなくなっただけでも、かなり健康的な生活リズムが戻りました。

唯一困ったのが散髪。

家内がヘアカット用のハサミを買ってきて、あまりにボサボサになった時だけ、少し切ってますが、これまた私に似て、量が多くてクセのある髪質。これはどうやら、私の父方の遺伝らしく、私と父を含めて、祖父、伯父・叔父に禿げた人は誰もいないし、白髪にもなりにくい体質。このお陰で、再来年に還暦を迎える私は、まだ10年以上の年齢詐称ができるぐらい。

それはともかく、息子の頭髪。パソコンのカメラ越しとは言え、先生や級友に顔を見せないといけないので、スポーツ刈りくらいに思い切ってバッサリやってしまおうと言うことになりました。

本当なら、スキカルみたいな家庭用のバリカンがあれば良かったのですが、残念ながら手元には前述のハサミと、私の電動シェーバーのみ。まぁ、何とかなるだろうと、庭先に椅子を出して、息子の頭を刈り始めてみたら...。

裾の方を少し切り揃えるぐらいならまだしも、ハサミだけで短くするって、想像をはるかに超える難しさ。なるほどなぁ、世界のどこでも、散髪屋さんが職業として成り立つ理由がよく分かりました。

途中まで刈って、我ながらの下手くそさ加減に嫌気がさしてきました。これでは、男前の海兵隊員とか、寿司屋の板前さんのイメージは全然無理。こんな不細工な虎刈りで止めるわけにもいかず、仕方なしに最後はシェーバーを動員。散髪じゃなくて「剃髪」になってしまい、小坊主さんの出来上がり。

家内は「かっこいい」と喜んでましたが、息子は「クラスのみんなに笑われちゃう」と仏頂面。すまん、息子よ。その後、オンライン授業で特に笑い者になることはなく、一週間経って、少し髪が伸びて、ようやく何となく馴染んできました。

男の子なら、坊主頭も許容されるし、女の子なら半年ぐらい伸ばしても、それほど不自然でもないでしょうけど、60歳以上の男性は散髪ができず、かなりのストレスが溜まってると思われます。

仕事に影響が出て、収入の道が断たれるのが一番困りますが、こういうった日常に関わることも、ここまでの持久戦になると、なかなかツラいものです。


2020年9月4日金曜日

フィリピン健保公社のスキャンダル

 

1ヶ月ほど前から、フィリピンのマスコミを賑わせているのが、政府の管轄下にある健康保険組織、PhilHealth(フィヘルス / フィリピン健康保険公社)の一大スキャンダル。

内部告発によって発覚したとされる、経営トップによる、今回の横領事件。現職の副社長や業務監査部門の管理職を含む13人の職員が停職となり、被害金額は150億ペソ(約328億円!)という、とんでもない犯罪。それも、今回だけの事ではないらしく、もう7年も前から保険金の不正支払い、経営者の公金着服などが指摘されており、どうやら長年、組織的な汚職がまかり通っていたようです。

1960年代から20年に亘ったマルコス独裁時代、国民の政治家や役人への信用は地に落ち、「政治家=泥棒」の見方が、すっかり当たり前になってしまったフィリピン。上は大統領から、下は、バランガイ(町内会)のメンバーに至るまで、汚職まみれ。

4年前、その流れを止めるべく、敢然と立ち上がったのが、我らがドゥテルテ大統領だったわけです。就任早々、まず司法長官を裁判で袋叩き。警察官の給与を上げると同時に、不正を行う警官は有無を言わさず豚箱にブチ込んだり。その他にも、陸運局(LTO)や関税局(BOC)などを「最も腐敗した政府機関」と名指しして、掃き溜めの大掃除を慣行。

昔を知らない日本人にすれば、今でも全然ダメだと思われるでしょうけど、私が移住してきた7年前に比べたら、ずいぶんとマシ。少なくとも、役所の窓口で公然とワイロを要求されるようなことは、私の知る範囲では無くなりました。

今回のフィルヘルスに関しては、他の腐敗が多すぎて手が回らなかったんでしょうか? 社長が1年間もホテル暮らしの贅沢三昧の支払いを、全額会社に請求してたというような、ひどい状況が放置されてました。

ところが、今年始めからのコロナ禍での不正が目に余って、とうとうフィルヘルスに、大統領の鉄槌が下されました。9月1日付けの国内報道によると、ドゥテルテさんは、一旦退職していた、元国家捜査局の局長を、新たにフィルヘルスの社長に据え、これから刑務所送りになる連中を探し出すよう命令。

実は、フィルヘルスの不正は、私の住むネグロス島の、本当に身近な場所でも起こっています。私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の家庭教師、アン嬢が教えてくれたのが、近所の独居老人の病死。

死因は心臓発作だったはずが、新型コロナが原因とすれば、医師がフィルヘルスから保険金を受け取れることを悪用して、虚偽の診断書を発行したと言うのです。もしこれが本当なら、現在、頻繁に発表されている、コロナ陽性患者数、死者数は、根本的に信用できなくなってしまう。まったくアホな話。

大規模な災害があると、その社会の一番脆弱な部分が、まず壊れてしまうそうですが、計らずも世界規模のコロナ禍が、フィリピンの宿痾である政治や公共機関の汚職体質を、炙り出してしまいました。

ちなみに、フィリピン人の家内が、このフィルヘルスに加入していて、自動的にその家族である私や息子も、医療機関への支払いには保険が適応されます。毎月400ペソ(約900円)の保険料で、以前私が食中毒で2泊の入院を余儀なくされた際には、数万円もした入院費の1/3程度がカバーされました。

また、貧困家庭の場合は、保険料を支払っていなくても保険が適応されるケースもあって、取り組みとしては決して悪くはありません。真偽のほどはイマイチ怪しいながら、国民の9割以上をカバーしているという情報も。

まだまだ、治療費が出せないから医師にも診せず、助かる命が失われているフィリピンの現状。フィルヘルスのような国民皆保険を目指す仕組みが、信頼を回復することを、願わずにはいられません。