2022年10月31日月曜日

治水が進まないのは誰のせい?

 前回の投稿で、相変わらずの洪水被害について書きながら考えたこと。

もう何十年も同じ場所で繰り返される洪水被害。素人考えながら、ちゃんと治水工事をすれば、かなりマシになりそうなもの。ところが実際には、市街地の道路冠水の大きな原因とされる、レジ袋の投棄による排水溝の目詰まりさえ、清掃をするすると言いながらまったく進んでいないのが現実です。

なにも、埼玉県に建設された「地下神殿」として知られる、首都圏外郭放水路ほどの大規模な治水設備を作れと言うのではありません。せめて、市内の繁華街や住宅密集地だけでもカバーできる下水システムを作ればいいのにと、いつも思ってます。

河川の堤防も同じ。東日本大震災後の津波を防ぐ防波堤じゃないんです。まずは河岸に住むしかない貧困層に、引っ越しできるまともな宅地を用意して、最低限の高さの堤防を作るぐらいは、いくらフィリピンの地方都市でも何とかなりそうなもの。同じネグロスでも、一部とは言え州都バコロドなどで、すでに立派な堤防が築かれています。

こんな具合に、誰が考えても明らかな市民の困り事解決に、お金が使われないのは、フィリピンの選挙に問題があるんじゃないでしょうか。

家内を含めて、私がフィリピンで知り合った人たち(多くは大卒以上のインテリ層)は、あからさまに政治家を泥棒呼ばわり。最近は、ドゥテルテ前大統領やロブレド前副大統領のように、少なくとも金銭に関してはクリーンなイメージが先行する人もいるものの、大半はそうではありません。

それならば、選挙でダーティな候補を落とせばいいようなものなんですが、残念ながら多くの有権者が、同様にダーティなんですよね。要するに金品のバラ撒きを期待して、金をくれる候補者に群がるという悪い習慣が、21世紀に入って20年以上も経った今でも、相変わらず変わっていない。

聞くところによると、一票が数百から数千ペソなんて、地域毎の相場があるそうで、前回のシライ市長選で現職だったゴレツ氏が負けて、新人のガレゴ氏が辛勝したのは、最終盤でゴレツ氏のバラ撒き資金が底をついたから、と言われています。

こういう選ばれ方をした政治家が一度当選してしまえば、利権と無関係な貧困層のための政策を優先させるわけがありません。私のような、たかが10年足らずしかシライに住んでいない外国人が見ても、明白な市民の困り事はほぼ放置。

私が戦前生まれの母から聞いた話では、今のフィリピン・シライ市の状況って、母が若かった70〜60年前の日本にそっくり。下水が未整備で、ちょっとまとまった雨が降るとあちこちで冠水。私が小さい頃ですら「床上浸水」って言葉を、ニュースでよく耳にしたものです。特に1950年(昭和25年)のジェーン台風による高潮は、大阪や私の故郷である尼崎に壊滅的な被害をもたらしました。


ジェーン台風の被害を受けた尼崎市
出典:南部再生

その後、決して裕福ではなかった尼崎で、高潮対策として築かれた長さ12.4kmの防潮堤。建設には5年を要し、予算を巡っては、当時の市議会でずいぶんと紛糾したそうです。それだけの苦労の甲斐あって、その後の高潮被害は劇的に減ったんだとか。

ここ最近は、昔に比べると異常な雨の降り方になって、毎年のようにどこかで水害が発生する日本ですが、もし先人の努力がなかったら、もっと悲惨なことになっていたのは、想像に難くありません。

つまり、日本でもフィリピンでも、政治家がやる気になって予算をかき集めれば、ある程度の治水はできるはず。結局のところ、水害多発の現状に甘んじているのは、政治家を選ぶ立場である市民の意識の問題に帰結するんでしょうね。

と書くと、「日本はエラい」の上から目線ですが、次回は公平を期して、日本の有権者(もちろん私も含めて)のダメさ加減について言及したいと思います。



2022年10月29日土曜日

相変わらずの台風被害


出典:ABS-CBN

 万聖節(フィリピン版のお盆)を、11月1日に控えた帰省の時期を狙いすますように、22号台風パエン(Paeng)が襲来しました。

フィリピン中部ビサヤ諸島に属するネグロス島には、10月28日の深夜から今日の早朝にかけてが最接近。いわゆるスーパー台風と呼ばれるような、猛烈な風雨はなかったものの、ほぼ三日間に渡った大雨。私たちの住むシライでは、市内各所で道路や住宅地の冠水、河川の氾濫が相次ぎました。

トドメを刺すように、昨夜には、州都を含む西ネグロス州の主要地域で広域停電。約14時間停まっていた送電が、先ほど午後2時頃にやっと復旧したばかり。朝から回している発電機の燃料が、そろそろ心細くなってきたので、土砂降りの中ガソリンスタンドに走って帰宅したら、電気が戻っていたというお約束のタイミング。

幸いにも、シライ市内では死者が出たという報告はありませんが、相変わらず貧困層の多い川沿いや沿岸部などの低地で、大人の腰ぐらいまでの浸水。多くの市民が市営体育館やバランガイ・ホール(日本の公民館みたいな施設)に避難したそうです。

昨年、市長に選ばれたガレゴさんは、本人が貧困層の出身ということもあり、こうした災害時には、自ら現場に出向いて支援物資を配ったり、避難した市民を励ましたり。その様子がフェイスブックに頻繁に投稿されます。


そうした取り組み自体は良いけれど、もう何年も何十年も同じ場所で繰り返される洪水の被害で、決まって酷い目に遭うのは貧困層ばかり。私が住んでいるビレッジと呼ばれる住宅地など、たまたま水捌けの悪い我が家の前の道路はよく冠水するけど、それも、せいぜいくるぶしまで。床上浸水にはまずならないし、宅地全体を見れば、暴風は別にして、少なくとも洪水で大被害が出たというのは、聞いたことがありません。

災害救助に尽力する市長さんを演出して、「やってる感」を醸し出すより、堤防を作るとか、下水道を整備して冠水を防ぐとか、もっと根本的な対策をなぜしないんでしょう。金がないとは言わせませんよ。ネグロスを横断する自動車道や、すごく豪華な新市庁舎建てる予算は調達できている。

相変わらずと言えば、毎回同じように繰り返される、広域の長時間停電もそうです。原因は嫌というほど分かってるんだから、対策のやりようはいくらでもあるはず。しかも電気代がすごく安いとかならともかく、普通に生活してても月1万円近い金額になることもあるし。

それにしても今回の台風。お墓参りのために帰省を予定していた人には、本当に無慈悲な巡り合わせとなってしまいました。折角の大統領令で、土曜日から万聖節の火曜日まで四連休となったのに、マニラやセブからの国内便は軒並みのキャンセル。空港で大荷物とたくさんの子供を抱えた夫婦が、疲れ切った顔してるのをニュースで見ると、こっちまで絶望的な気持ちになります。

この投稿を書いている、フィリピン時間の10月29日の午後4時現在、台風はマニラ首都圏を直撃しているようです。地方のネグロスに比べて停電が少ないマニラでも、長時間停電に見舞われているとのこと。皆さまのご無事をお祈りします。



2022年10月26日水曜日

お米が減らないメイドさん

 4年間働いたメイドのライラが辞めて、その後任のグレースが来て早や1ヶ月が経ちました。

月曜から金曜まで、週5日通ったライラですが、グレースは週3日だけの約束。出勤時間が不安定だったライラは、本来は朝8時スタートだったはずが、いつの間にやら8時半から9時の間となり、月に数回は事後報告での欠勤がありました。また体調によっては1週間来ないなんてのも、よくあったなぁ。

それに比べると、時間を守ってくれるグレース。プリペイドの電話料金がなくて、連絡もままならなかったライラと違い、何かあったらフェイスブックのメッセンジャー。聞くところによると短大ながら大卒なので、その辺りに教育の差が歴然と出ているようです。大学出てても仕事がメイドなのが、フィリピンの厳しさとも言えますが。

ただ掃除や洗濯の家事の腕前は、残念ながらライラの方が上手。仕事が早いのはいいけれど、埃が残ってたり、洗濯物の畳み方がイマイチ雑だったり。(これに関しては、最初の頃に家内から「指導」が入って、今はかなり改善してます。)またライラの場合は「適当にやっといて」が通用したんですよね。

これはどういうことかと言うと、大雑把に掃除してとの指示に、自分で判断して、窓が汚れてると思えば窓拭きするし、買い物を頼めば、メモになくても、そろそろ無くなりそうな野菜を追加してくれたり。グレースがダメなんじゃなくて、ライラが人一倍気が利くタイプ。今まで雇った中では、ライラ以外にそんなメイドさんはいませんでした。

もちろん、これから何ヶ月か半年も続けば、基本は同じことの繰り返しなので、グレースも気が付くようにはなると思いますけど。

そういう現状なので、掃除が終わったら、いちいち確認しないといけないし、手が空いたら次の仕事を用意する。これが意外と面倒なんですよね。ヒマだったら、1時間ぐらい昼寝しててもいいんだけどなぁ。その点ライラは、要領良くサボってました。(これは褒めてます。)

でも考えてみれば、ライラには無駄に給金を払ってたとも言えます。5日分を3日にギュっと凝縮したようなものなので、日数が減っても、家の中は、それなりに清潔に保たれていて、特に不満もありません。

さらにライラにはなかったグレースのスキルは、マッサージと介護。本来はマッサージ・セラピストが本職なんだそうで、時々メイド服ならぬ、マッサージの時に着る作務衣みたいなのを着て来ます。介護に関しては、学校で勉強したらしい。

以前にも何度かこのブログで書いた通り、実はかなり近い将来、高齢の両親を日本から呼び寄せて同居することになるかも知れません。本当は、もう少し前から考えてたんですが、ご存知のコロナ禍で、計画は無期延期。ようやく渡航制限も緩和されてきたので、そろそろプロジェクト始動を視野に入れ始めました。

そうなると不得手な家事より、ケア・テイカーとして働いてもらった方がいいんじゃないか、というのが家内の意見。どうなるかは、まだ不透明ですけどね。

そして一番の差は、食べる量。

ある意味、フィリピンのメイドさんの典型だったライラは、我が家での昼食は、これがチャンスとばかりに食べる食べる。カレーの残りでもあった日には、ちょっとのルーで山盛りご飯。毎朝4合の米を炊いて、時々夕食には足りなくなって追加してたぐらい。

時間がある時には、勝手にパンケーキ焼いたりしてたしなぁ。もちろん自分一人で食べるんじゃなくて、ちゃんと雇い主に振る舞うという体裁でしたが。

そこへ行くとグレースは、実に燃費がよろしい。特に痩せてるわけでもないのに、おかずもご飯も「え、そんなちょっとで大丈夫?」という程度。1日3合で大丈夫になったし、週3日だけ。買い置いてる10キロ入りの米が、いつまで経っても無くならないので、家内と二人で笑ってしまいました。


2022年10月24日月曜日

ある日本人の死

前回投稿した、ダイアナさんとの3年ぶりの再会。積もる話は多々あれど、かなりショッキングだったのが、共通の友人である日本人男性が、コロナ禍前に亡くなっていたという件。

この方、仮にMさんとしておきます。

私より少し年長のMさんと知り合ったのは、ここネグロス島のシライ市。私たち家族が移住してきた直後なので、2013年の4月。Mさんは、当時シライを拠点に活動していた、日本の某NGOのボランティアに参加中でした。

華々しい学歴・職歴とは裏腹に、プライベートの生活には問題を抱えておられたようで、ネグロス渡航も、そこからの現実逃避。たまに食事などご一緒する時には、どうしてもそっちの話題になってしまいました。

下戸の私は、直接見たことはないけれど、辛いことを忘れるためとばかりに、相当な酒量だったとか。フェイスブックの投稿で「浴びるほど飲んだ」とか「痛飲」なんて表現が、かなり頻繁に登場するぐらい。おまけに今時珍しいほどの愛煙家。

しばらくは、日本の連休の度にNGO行事に参加していたようですが、やがて現地駐在の日本人マネージャーと大喧嘩。そのマネージャーというのが、お金・時間・異性のすべてにだらしない人だったので、まぁ衝突するのも仕方ないかとは思うものの、「こうあるべき」的な思考をしがちなMさんのこと。真正面から言い合いになっての、喧嘩別れだったようです。

その後も、NGOとは無関係に「第二の故郷ネグロス」と思い定めて、かなり頻繁にフィリピン通い。数年後には、日本での生活に見切りを付けて、ネグロスにて年若い女性と結婚。我が家から車で15分ほどの場所に一軒家を購入されました。

こう書くと、なかなか羨ましい新生活なんですが、正しいと思ったことを曲げない、フィリピンにあっては、いささか生き難い性格。最初から問題が多いことが分かっているはずの、守衛がいない、しかも貧困地区と隣接する宅地に住んで、隣近所に苦情を言ったり、宅地内で頻発する犯罪に備えてと、奥さん名義で拳銃を購入したり。

さらには、当初は同居していたお義父さんを、追い出したかと思えば、奥さんの知り合いだからと雇った、ライセンスのない配線工とトラブル。仕事がひどいとクビにしたのはいいけれど、仕返しを恐れて我が家に一時避難したこともありました。

どうも、敢えて困難な道を選んで、厄介事に巻き込まれるパターンが多い人で、わざわざマニラで深夜にタクシーに乗って、ホールドアップを食らった経験もあったそうです。

私もどちらかと言うと、物事はキッチリ進めたい几帳面な性格なので、Mさんの苛立ちは理解はできます。それでも、ストレスの多い日本から離れて移り住んだはずのネグロス島。違うところでストレス溜めていては、まったくの本末転倒だと思うんですよね。

電気屋と揉めた後は、さすがに「他人には頼らない、迷惑はかけない」という、超日本人的思考を少しは改められたのか、Mさんに先立って自宅を建てた私に、アドバイスを求めてこられました。

ここから話が発展して、購入した自宅の間取りが悪くて、住みにくくてしょうがないとのご要望にお応えして、私が図面を引いてリノベーション。大工さん、配線工、塗装屋、全部ご紹介。

ようやく工事が終わって、喜んでもらえたと思ったのも束の間、ある日フェイスブックを見ると、癌治療のために日本へ帰国したとの投稿が。可哀想なことにネグロスの自宅には、新妻が一人残されて、心配のあまり毎日泣き暮らし。何度か家内を連れて、慰めに行ったりもしました。

奥さんの話によると、ネグロスでも相変わらずの酒量で、思い詰めて家にあった酒瓶を隠したりしたことも。本人さんに指摘したことはないけれど、私と同年代にしては見た目が老け過ぎだったし、いつも顔色は土気色。

そしてMさんは、手術後に癌が再発。奥さんも後を追って渡航しましたが、相変わらず酒は飲み続けている。...という投稿があった後はプツリと音信が途絶えて、アカウント自体が削除されてしまいました。これがコロナ禍が始まる前年のこと。それから3年後の先週、ダイアナさん経由で、治療の甲斐もなく他界されたと知った次第。

日本に住もうがフィリピンに移住しようが、あるいは健康的な生活の有無と関係なく、癌になる時はなるもの。とは言っても、さすがにMさんは、側から見ていても自暴自棄に過ぎました。おそらく私が、もっともらしい忠告をしたとしても、それを聞き入れるようなMさんではなかったでしょうけど。

それでも、ご近所さんで友達付き合いもさせてもらっていただけに、とても残念で寂しい話です。


ダイアナさんと3年ぶりの再会

 コロナ禍後、まだ多少ゴタついた感じはあるものの、ようやく落ち着いて来た日本〜フィリピンの往来。今年の前半辺りから、ぽつぽつと「フィリピンに戻りました」とか「やっと一時帰国できました」という声も。

そんな中の先週、日本の東北地方にて子供さん向けの英語学校を経営されている、ネグロス出身で、私の友人ダイアナさんと、丸三年ぶりに再会を果たしました。

私より10歳若くて、英語学校以外にもいろんな仕事をしているダイアナさん。今回の主目的は、マニラで娘さんの大学卒業式への出席。4人の娘さんがいて皆さん美人なので、以前にイラストのモデルにもなってもらったぐらい。(日比ハーフの四姉妹

そしてそれだけでなく、多忙な中でも故郷ネグロスを忘れず、以前から続けている、地元の子供たちへのランドセルの寄付を行なったそうです。

待ち合わせしたのは、西ネグロスの州都バコロドで、トップクラスの高級ホテルのエルフィッシャーのロビー。最初に会ったのもここでした。折りしも今は、コロナ禍以降、初めて挙行された、バコロド最大の年中行事であるマスカラ・フェスティバルの真っ最中。

実のところ10月のバコロドには、あまり出かけたくないんですよね。と言うのも、メインストリートを使ったカーニバルが連日のように行われる関係で、市内の幹線道路があちこちで一方通行規制。平常時なら5分で抜けられるよう場所でも1時間の渋滞なんてザラ。

ただ今回だけは、遠路はるばる日本から帰省のダイアナさん。貴重な時間を縫って声をかけてもらったので、他に選択肢はありません。ランチタイムをめがけて、バコロドの中心部へ自家用車でゴー。

案の定の渋滞だったんですが、それを見越してかなり早めに家を出たのが功を奏して、逆に少し早く着いたエルフィッシャー。ダイアナさんは、田舎の方から同じく車で移動だったので、こちらは多少遅れたものの、フィリピンでの待ち合わせにしては許容範囲内で、落ち合うことができました。


前回、ゲストハウスがだいたい完成した頃、シライの自宅へ来てもらったのが、2019年の9月。(バスタブと流し台+本物の呪医)本当に丸々三年です。三年どころか、もっと昔だったような感覚は、コロナ禍前後で多くの人が思っていることでしょう。

初対面の時と同様に、日本人のパートナー同伴で、こちらは私と同い年。お会いするのは2回目ながら、やっぱりフィリピンの地で同年代の同国人となったら、どうしても会話が弾んでしまいます。また、話題が豊富で面白い人なんですよ。

エルフィッシャーのレストランでランチを頂きながら、かれこれ3時間は喋り続けて、気がついたらもう3時過ぎ。夕刻にかかると、とんでもない渋滞に巻き込まれかねないので、誠に名残り惜しいことながら、サヨナラとなりました。次回は是非我が家にお泊まりくださいとお願いして、ホテルを後にした次第。

その後、フェイスブックの投稿を見ると、ダイアナさんは高校の友達に囲まれての同窓会。翌日は早々に帰国だったようで、本当に貴重な時間を割いてくれたんですね。ありがたいことです。


2022年10月18日火曜日

厳しい円安

ここ最近、円安ドル高が止まりません。今日(2022年10月18日)この投稿を執筆している時点で、1ドルが約149円となっています。ドルベースで海外から物を買っている商売は、たいへんでしょうし、実際に日本国内ではインフレが深刻な状況なんだとか。

ただ、目の前の生活苦はともかくとして、1ドル360円だった時代を知っている昭和30年代 / 1960年代生まれとしては、それほど仰天するレベルでもありません。1970年代後半の私が高校生ぐらいの時に200円台に突入した時には、逆の意味で、すごいことになったと思ったものです。

さらに、ちょうど私がフィリピン初渡航した1995年には、固定相場時代の4倍以上、79円台まで値上がりしたのもよく覚えています。

そして現在、私が住むフィリピン。対ドルほどではないけれど、やっぱり相対的にはペソ高・円安。1円が約 0.4ペソなので、ちょうど私がネグロス島に移住した10年前の水準。7年前の2015年には、もっと円高だったこともあったので、ドルに比べればかなり穏やかな推移。

とは言え、日系企業勤めで円ベースで給料貰ってるような人たちにすれば、死活問題であることには変わりません。それでなくても好景気でインフレ気味のフィリピン経済。追い討ちをかけるように、ロシアのウクライナ侵略に端を発するガソリン価格の高騰。

移住時に、数千万円単位の貯蓄をフィリピンのメトロバンクに送金した私の場合、その後の為替レートには何の影響も受けてません。あるとすれば、たまに日本のクレジットカードを、フィリピンでの買い物に使う時ぐらい。

ところがタイミングの悪いことに、8月に愛用のラップトップパソコン、MacBookProがクラッシュして、なかりの金額の修理代。ペソ口座に余裕がないので日本の銀行からカード支払いしたら、翌月には「え゛っ!」ってなるような請求が来てしまいました。

恐らくこの円安の流れは短期的なものではなく、ジワジワ弱体化している日本の国力を反映したものなんだろうなと思います。老人比率が増えて労働人口が減る少子化が、ここまではっきり経済に影を落としているのに、有効な政策をまったく打ち出す気配すらない日本政府。それどころか、前々政権が残した政権中枢へのカルト宗教の侵食が発覚しても、まったく危機感がない。

私が投資家なら、当分の間は日本の通貨や株式にお金を使う気にはなりません。「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、国内で少子化に歯止めをかけ、出生数を増やして地方経済の活性化を実現させた、救世主と呼んでもいい明石市の泉市長を、市議会が政治家引退にまで追い込んだのは、本当に愚かと言うしかない。

ということで、この円安。一部報道では1ドル200円時代も視野に入れているらしい。それでなくてもフィリピンからの出稼ぎ対象としては、どんどん魅力が色褪せている日本。今のところは、日本語や日本の歴史を一生懸命勉強している高校生の息子ですが、働くならシンガポールがいいなぁと言ってます。然もありなん...ですねぇ。



2022年10月17日月曜日

さらに6人様の来客

前回(6人様の来客)の続きです。

家内の友人6人宿泊の翌々日の火曜日、今度は、マニラから私の還暦祝いに参加してくれた、若い従妹たちのオフィレニア5人姉妹がやって来ました。残念ながら長姉のダヤンとその子供たちは、パーティに欠席だったものの、4姉妹+2人の彼氏で、偶然の6人組。何とこちらは、我が家と同じ宅地内にある借家を1週間レンタル。B&B(ベッドと朝ごはん)サービスと称して、空き家を短期で貸すビジネスがあるらしい。

オフィレニア姉妹が来るまではちょっとゴタゴタがあって、詳しい経緯は以前に投稿しました。(彼氏同伴で一週間宿泊

さて、彼女らが乗ったフライトが到着したのは、パーティ開始の数時間前。車で迎えに行くと連絡したものの、入り組んだ宅地の中の分かりにくそうな場所だったので、午前中に自転車で場所の確認。

ちなみに私が住むセント・フランシス・サブディビジョン。フィリピンではビレッジと呼ばれるスタイルの広大な宅地。なぜか道路が碁盤の目状ではなく、意図的に不規則なレイアウトになっています。おそらく防犯目的だったり、自動車の速度を抑えるためなんでしょうけど、10年近く住んでる私でさえ、慣れないエリアでは迷ってしまうぐらい。

かつて私が通勤していた会社のあった、大阪府守口市を思い出してしまいました。というのは、豊臣秀吉の時代に大都市として拓けた大阪。京都方面からの玄関に当たる守口界隈は、軍勢が侵入しにくいよう、わざと入り組んだ街並みにしたんだそうです。なので名前が「守りの口」。確かにメンストリートからちょっと住宅地に入ると、まるで迷路のようでした。

それはさて置き、住所のメモ書き頼りに守衛さんにも確認したのに、いざ行ってみると、ややこしいことこの上なし。通り名を示す標識は、錆び付いて読めなかったり、標識そのものが途中から折れていたり。さらに厄介なことに、ホテルじゃない普通の住宅。別に看板が上がっているわけでもありません。

どうしようもなくなって、たまたま家の前にいた知らないオっちゃんに訊いてみたら、さすがご近所さん。管理人だかの名前を知っていて、バイクで行くからついてこいとのこと。2ブロックほど離れた管理人の家に到着した頃には、ずっと自転車だった私は汗だくのヘトヘト。

一応の場所確認は済ませておいたので、何とかオフィレニア・シスターズを空港で出迎えて、無事1週間の宿泊先まで送り届けることができました。途中でまたちょっと迷いましたけどね。

そういう経緯で、火曜日はお泊まりなしのディナーパーティ。泊まらないと言っても、下は17歳のダリルから、大学卒業したてのハルメニアとダリア、今回は一番年嵩のドリーでも29歳。彼氏二人も同年代でしょうから、これはかなりの分量を用意しないと。

当日は、メイドのグレイスにも手伝ってもらって朝から大忙し。洋風炊き込みご飯のエビ・ピラフ、我が家の定番メニューのカレー。普通だったらこれで十分なんですが、今回はさらに、スパゲティ・ミートソース、ハンバーグにジャーマン・ポテト。炭水化物主体の労働者メニューにして、完全にお子様テーストばかり。

さすがにここまで作っておいたら、翌日のお弁当に使えるぐらいは余るかと思ってたら、いやはや、見事なまでの20代の食欲。カレーがお情け程度に残っただけ。ひさしぶりに清々しいまでの完食でした。


フェイスブックの写真でしか知らなかった彼氏二人。実はあまりいい印象はなかったんですが、実際に会って話してみたら、二人とも、普通に気の良い兄ちゃん。やっぱり思い込みはいけませんね。反省してます。

ということで、大いに喋って歌って、まるで娘たちのような年代の姉妹たちと、楽しい時間を過ごすことができました。


2022年10月14日金曜日

6人様の来客

 還暦祝いのパーティが終わっても、そこから数日はその余波が続いた先週。こまずは、当然予想していた通りに、遠方からパーティに参加してくれた、家内の大学時代の友人たちが大挙してのお泊まり。マニラからだし、ディナーパーティの後は宿泊となるのは自然な流れで、ならば我が家にとなった次第。もちろん私もよく知ってるオバちゃんたち総勢6名。

オバちゃんと言っても、大学の教授や准教授、研究員に会社の経営者などなど、肩書きだけ見れば錚々たるメンバー。もちろん堅苦しいことは皆無で、会って話せばやっぱりフィリピンのオバちゃん。家内を加えて7名のオールド・ガールズ・トークは、騒々しいこ事この上なし。

さらに予想通りだったのが、ひとしきりのお茶やお菓子の後に出た「ちょっと歌ってよ」リクエスト。パーティの最後に、アクセル全開で5曲の披露しましたからねぇ。日本で深夜の宅地で、いくらマイクは使わないとしても、声楽式に歌い上げたりしたら、警察通報は必至でしょうけど、ここはフィリピンなので、その心配はありません。

いつも、下手クソなカラオケを聴かされているお返しとばかりに...してはささやかながら、一応窓は全部閉めて、OPM(オリジナル・ピノイ・ミュージック、タガログ語による歌謡曲の総称)を3曲と、最後にアベ・マリアを歌いました。

曲目は、フィリピンではよく知られた「May Bukas Pa」(フィリピン版の「明日があるさ」みたいな歌)、結婚式でも歌われるという「Ngayon na Kailanman」(今も未来も)、そして日本でも有名な「Anak」(息子よ)。アナックは、加藤登紀子さん日本語カバー・バージョンで。やっぱり50代以上のフィリピン人には、1970〜80年代の懐メロが響くみたいですね。すっごく真剣に聴いてくれたので、歌う方も気分がよろしい。

そして一夜明けての、朝ご飯大会。私たち家族も含めると9人の食卓。かなり大きめのテーブルがあるんですが、それでも足りなくて、二階のベランダに置いてある折り畳み式のキャンプ用テーブルを運び下ろしました。

食事の準備も、キャンプにみたいに全員総掛かり。そこは昔からの友達ばかりなので、私と家内が厨房で孤軍奮闘にならないのがありがたい。しかも食材まで持ち込んでくれたので、大助かり。お腹いっぱいのパマハウ(イロンゴ語で朝食)を楽しみました。

久しぶりなので、昼過ぎぐらいまでいるのかと思ったら、車で30分ほどのところにあるシライ市内のマウンテン・リゾート、ランタワンに行くとのこと。運転手役に現れた、同じく大学の友人で、バコロドにいくつもホテルを持ってる資産家にして投資家の、フィリップくんが参上。彼も来年還暦なんだそうです。こうしてオバちゃん6人組は、嵐のように去って行ったのでした。

さて、それではまだ終わらないのがフィリピン。3日後の火曜日には、また別の6人組が我が家にやって来ました。長くなるので、そちらは次の投稿に続きます。



2022年10月10日月曜日

還暦祝いロスト症候群

気がつけば前回から1週間も経ってしまいました。還暦祝いという、かなりデッカい人生イベントが終わってしまい、何となくガックりきちゃったんですよね。歌い過ぎの反動から、この一週間は、ほとんどボイストレーニングもしてないし。 

7年前の2015年の誕生日の直後にも、同じような投稿してました。(バースディ・ロスト症候群)この時は、フィリピン・ネグロス島暮らしが軌道に乗り、パーティにたくさんのお客さんが来てくれて、気分が高揚してたんでしょう。終わった後の落差が激しかったのは、今回も同様。

さて、還暦祝いパーティについて。全体としては、いろいろ用意したプログラムは概ね好評のうちに終了しました。中ダレもなく、フィリピンでのイベントにしては、まあまあ上手く進行できたと思います。

何と言っても、司会を願いした家内の従弟パウロ君の功績が大。喋りのプロでもないのに、こういうことを任せると実に活き々き。私の子供の頃から最近までのスライドショーには、事前に準備した各写真のキャプションをちゃんと練習して来てくれてたし、最後のミニ・コンサートでの歌や伴奏者の紹介も、なかなか堂に入ったもの。

土曜の夕刻6時集合で、始まったのは6時半ぐらい。そこから2時間半程度で終了が夜9時。ちょっとトラブったのは、メインの歌唱のところで、会場となったレストランのパーティルームの音響が突然の不調と、家内がサプライズで用意してくれた、私の友人たちからのビデオメッセージが、プロジェクターに投影できなかったことぐらい。

音響に関しては、こんなこともあろうかと、私が持参したJBLのブルートゥース・スピーカーを使って事無きを得ました。ビデオメッセージについては、連絡不足による純粋な技術的トラブル。実は家内が私に内緒で、学生時代やフィリピンに移住してからの日本の友人、それに親しいフィリピンの親戚たちに頼んで、短いビデオメッセージを用意してくれてたのでした。

せめて「USBメモリーを使う」ぐらいは言ってくれたらよかったのに、パソコンにUSBポートは付いてる?と聞かれただけ。それも、プロジェクターとの接続について話してる最中だったので、USBのタイプCがあるという意味で「付いてる」と答えてそれっきり。

最近普及し始めたタイプCって、電源やモニターも含めてオールマイティな接続が可能。でも差し込みの形が旧来のものと全然違って、USBメモリーを使うにはアダプターが必要なんですよ。それが伝わってなくて、急にメモリー渡されても無理だって。

メッセージ自体は、帰宅してからゆっくり拝見したんですが、家内にしてみれば、せっかくの苦労を台無しにされた格好で、しばらく機嫌が悪くなってしまいました。知らんがな。

そんなこんなで、会場のレンタル、食事の準備、飾り付け、新調したドレスなどなど、全部含めて10万円仕事という感じでしょうか。プロジェクターは家内の職場から借りたし、歌った時のプロ・ダンサーは親戚のサラとその義妹ドリー。伴奏は私のイロンゴ語家庭教師のバンビとエイプリルという、ボランティア。司会は前述のパウロだし、ずいぶんと助けてもらいました。

最終的には、ゲスト約70名のパーティ。同規模のを日本で開催したらどうなるか? ネットによると結婚披露宴の場合、一人当たり1〜1.5万円が相場と言いますから、下手すると100万円ぐらい飛んじゃうかも知れません。まぁやり方にもよるんでしょうけど、そんなにかかるんですね。



ところで、還暦だから衣装のテーマカラーは赤と、安直に決めたのはいいけれど、実際、赤い服の男女が70人も集まって、飾り付けが全部赤だと、どう見ても春節祝い。中国系住民が多いフィリピンでは、旧正月の頃になるとショッピングモールがこんな感じになるんですよ。


2022年10月3日月曜日

遂に60歳到達

 引っ張りに引っ張った還暦ネタも、今日で打ち止め。本日10月3日を持ちまして、とうとう私は、60歳になってしまいました。子供の頃、母が一つ話に聞かせてくれたところによると、出産当日の朝は、日本晴れだったそうです。まだ温暖化なんて言葉も流行るはるか昔なので、おそらく秋らしい爽やかな日だったんでしょうね。

さて、たいへん月並みな感想ながら、60歳になった実感というのがさっぱりない今日。確かに20代、30代の頃に比べれば、体力・集中力はずいぶんと落ちたし、若い頃は意識もせずにできてたことも、相当苦労しないとできなくなったり。早い話が、部屋の模様替えとか大掃除は、家族やメイドさんに手伝ってもらわないと、翌日寝込んでしまいそう。

それでも、相変わらず三度の食事は美味しく、睡眠時間は7時間以上。ここ半年ほど、3回目の50肩(60肩?)が来たようで、右腕上げると痛いけれど、それ以外は、全身普通に機能しております。これが今時のシニアというものらしい。そりゃ、元気を持て余して、一つ間違えれば立派な「老害」になるのも、分かる気がするぐらい。

そんな、若い人からすれば鬱陶しい「歳の割に元気」自慢も、フィリピンでは少々事情が違います。今年は誕生日が月曜日だったので、2日早く、一昨日の土曜日に還暦祝いをしたところ、予想以上にたくさん集まってくれた友人や親戚。友人と言っても、ほとんどは家内の高校や大学のつながりで、だいたい50代以上の近い世代。

個人差は大きいとは言え、ずいぶんと老けて見える人が多いんですよ。と言うとたいへん失礼ですね。正確には、年相応に年齢を重ねた結果だと思います。6〜7割ぐらいの人が肥満体型だし、髪は白いものが目立ち、それなりのシワも。そして久しぶりに会った人たちは異口同音に「あんた、変わらないねぇ。」と驚きます。

一番身近な、もうすぐ57歳の家内が、私もまったく歯が立たない童顔で、アラフォーと言っても騙せる風貌。なので日頃はあまり意識しませんが、フィリピンのアラ還ピープルの中では、ちょっと飛び抜けて若く見えるらしい。

まず理由として考えられるのは、ヤバい薬はもちろん、酒・タバコをやらないこと。50歳を過ぎてからは、筋トレとサイクリングを日課としていること。何より、意識的に自分より若い友人・知人とのリアルな会話が大きいんじゃないかと思ってます。ただ、髪が白くならないとか、歳の割に太りにくい体質は、ただただ両親と神さまに感謝するしかなさそうですが。

ということで、誕生日の今日は、朝から真っ青な南国の空が広がる、ここフィリピン・ネグロス島。秋晴れというような爽やかさはなく、エアコンが必要な真夏の暑さ。パーティはもう済ませちゃったので、普通に月曜なので、いつものように弁当作って家内を職場に送り出しました。

正直なところこの数ヶ月は、パーティ準備でいろいろプレッシャーがあったので、ようやく平和な日常が戻ったような気がして、ホっとしております。そのパーティについては、次回投稿で詳しく書きますね。