隣国のマレーシアやインドネシアでは、アルコールと豚肉がご法度のイスラム教徒が多く、フィリピン諸島もスペイン人が来る以前は、イスラムが支配的だったそうです。しかし400年前、幸か不幸か征服者のスペインによってもたらされたカトリックが広まって、ミンダナオ島などの一部を除いて、今では宗教的な理由で口にしてはいけない食品は、ほぼ皆無。
道を歩いていても、生きている豚を積んだ軽トラックはよく見るし、街路樹には「子豚売ります」の看板。家の近所には養豚場があって、時々「断末魔」が聞こえてきます。本当はフィリピンと言えども、住宅地で豚を飼うのは制限されているはずなんですけど。
移住して間もない頃、知り合いに勧められて豚の解体を見たことがあります。とてもグロなので詳細な描写はしませんが、気の弱い人ならば当分豚肉を口にできないような光景。カトリックの信徒である私の場合は、残酷さよりも「屠る」(ほふる)ことをリアルで見て、聖書(特に旧約聖書)のイメージを大きく修正しなくてはならないこと、にショックを受けました。
有名な旧約聖書冒頭の創世記。アダムとイブの楽園追放やノアの箱船、バベルの塔など、クリスチャンでない人にもよく知られた逸話が書かれた部分です。その中にあるのが、すべてのユダヤ人の祖とされるアブラハムの物語。
子供に恵まれなかった遊牧民のリーダー・アブラハム。すっかり年老いて諦めた頃に、老妻サラが一人息子のイサクを出産します。時にアブラハム100歳。ところが、神はそのひとり子イサクを羊のように屠って、捧げものにするよう命じます。アブラハムは、苦悩しつつも、最後には我が子を殺すことを決意。まさにイサクの心臓にナイフを突きたてようとした瞬間に、神はそれを制止。アブラハムの信仰の深さを試したのでした。
このエピソードを始めとして、聖書では当たり前のように「屠る」と言う記述があちこちに出てきます。しかし動物を屠殺して食肉に変えると言う作業は、それを見慣れない日本人の目には、戦慄を伴うほど衝撃的なものなのだと、その時ようやく気付きました。
フィリピンでは結婚式や、子供の洗礼を祝うような時に供される、豚の丸焼き「レッチョン」。昔からのしきたりでは、レッチョンにする豚の屠殺を、パーティの来客に見せるのだそうです。間違いなく一頭丸ごと用意したことの証人になってもらうため。
豚のレッチョン
キリスト教徒が人口の9割を占めるフィリピン。フィリピンのクリスチャンは、正しく「屠る」ことの意味を理解しつつ、聖書を読んでいたんですね。どちらかというと草食系のような感じで、自己主張があまり強くなさそうな人が多い印象のフィリピンの人たち。でも本当はガッツリ肉食系で、精神的なタフネスを隠し持っているのかも知れません。例えば恋愛に関しては、日本人など及びもつかない情熱家が、たくさんいますから。
豚肉の話が、えらいところへ飛んで行ってしまいました。
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