2025年1月30日木曜日

なぜかミンダナオ その3 お好み焼きどうですか?

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、ミンダナオ子供図書館(MCL)の子供たちのために、食事を作るお話。

貧困、内戦からの避難、あるいは親がいない、家庭が崩壊してしまった等々、諸般の事情で学校へ通いたくても通えない子供たちに奨学金を支給し、三度の食事と寝泊まりする場所を提供するという、ミンダナオ子供図書館。子供たちの年齢は、下は小学生高学年から上は大学生まで。私がお邪魔した時には、総勢約40名ほど。当初の予定では、子供図書館に2泊だったので、夕食を2回作ろうという腹積もりでした。

ところがさすがのフィリピン、セブパシフィック。数日前になって帰路のフライトが突然のキャンセル。しかも、私の住むネグロス島シライ市の最寄りバコロド空港からミンダナオのダバオまでは、この便を含む1往復しかありません。仕方がないので帰りを伸ばして翌日に。結果的に夕食は3回となりました。

ちなみにこの食事作りは義務でも何でもなく、私が勝手に思いついた押し掛けボランティア。MCLのゲストであれば、宿泊も食事も基本的に無料です。一般的には、何かしらの支援物資を持って来る人もいるだろうし、近隣の村落や学校をまわって、地域の人たちとの交流を図ったりのアクティビティに参加したりするゲストも多い。私は少々、変則的な訪問者でした。

さてMCLでの料理ということで、真っ先に考えたアイデアはカレー。これなら大鍋で煮込めるし、具材を切ったりする作業は、当番の子供たちと分担もできる。でも、これはあっさりと日本人スタッフの梓さんが却下。というのは、日本製のカレールーは、ラードなどの豚肉由来の成分が入ってる。以前にもカレー作ろうとしたゲストがいたけれど、豚肉を食べることが禁じられたイスラムの子供やスタッフもいるので、絶対にダメ。同じ理由で料理酒やみりんも使えません。

それでは、とばかりに提案したのが、鶏肉を使ったクリームシチュー。実は私がフィリピンに移住してからの定番メニューで、ルーの代わりに地元のスーパーで売ってる缶入りのポタージュスープを入れます。ひょっとしたら、日本製のルーで作るより美味しいんじゃないかと思うぐらい。これならフィリピンでも、ココナッツミルクを使った郷土料理に風味が似ていて、多分拒否感はないだろうと、採用決定。

二日目は、フィリピンでもお馴染みの春巻き。こちらではルンピアと呼ばれ、日本のものよりちょっと小振りながら、中国がルーツのほぼ同じ料理。でもせっかく作るんだから、細かく刻んだ野菜やマッシュルームだけでなく、缶詰のツナフレークを使ったアレンジをすることに。このオリジナル春巻きも自宅でフィリピンの親戚や友達に何度も作っていて、とても評判が良い一品。

そして最後の夜は、お好み焼きにトライ。最初の二つは勝算バリバリで、まず失敗はしないだろうと踏んでいますが、お好み焼きはちょっとしたチャレンジ。お好み焼きやたこ焼きの、関西粉もん系は、ラーメンやカレーと並んで、フィリピンでも都市部なら日本食レストランのメニューで普及しているので、まぁ大丈夫だろうとは思うものの、今回食べてもらうのは、貧困層出身の子供たち。ネグロスでも何回か経験しましたが、こういう子たちって、食に関してはとっても保守的。

何と言っても、日頃の食べてる物の種類がそんなにないし、ジョリビーの甘ぁいスパゲティが、この世で一番美味しいという感覚だったりします。梓さん曰く、以前、味噌汁やおにぎりを試してみたけれど、結果はイマイチで、特に味噌汁は、笑いながら美味しいと言いつつも、ほとんど残されちゃったそうです。

そこで、とりあえずはキャベツをたくさん刻んで、小麦粉と卵、水を混ぜて焼きますが、最後のソースは様子を見て、口に合わなければオイスターソースに差し替えることにしました。

これで準備する食材も決まりましたが、限られたMCLの予算に、押し掛けボランティアが負担をかける訳にはいきませんので、食材調達はスタッフに同伴をお願いしつつ、費用は自前ということに。


ダバオ市内のSM 出典 Davao Life is Here

ネグロスから夜到着のダバオで一泊してから、まずは、同地のショッピングモールで、キダパワン(MCLの所在地)では入手困難であろう食材を購入。普通にSMやアヤラ(大型ショッピングモール)があるので、キューピーのマヨネーズやとんかつソースは楽勝で見つかりました。その他には缶詰のスープ(10缶!)やらちょっと大きめの春巻きの皮など。ついでにテフロン加工のしっかりしたフライパンも。何しろ40人分(+スタッフの分)でたくさん作るので、焦げ付いたりすると時間が勿体ないとの読み。

ということで、MCLにたどり着く前に、またもやかなりの文章量になってしまったので、続きは次回へ。



2025年1月28日火曜日

なぜかミンダナオ その2 MCLの日本人スタッフ


ミンダナオ子供図書館の正門

 前回に引き続き、ミンダナオ島滞在について。今回は、訪問先のミンダナオ子供図書館(Mindanao Children's Library 略称MCL)で働いておられる、日本人スタッフの方の話。

フィリピン人の家内と一緒になって27年、家内の実家がある、ここネグロス島に移住してからでも、もう13年目に入ろうという私ですが、ミンダナオには縁がなく、親戚も知り合いもいません。況してやミンダナオ子供図書館については、まったく未知でした。それが、4泊5日でお邪魔することになったのは、兎にも角にもツイッターがあったればこそ。

このブログにしてもそうなんですが、在外邦人にとってインターネットは貴重な情報交換の場。昔の海外移住者にすれば、夢のまた夢だったようことが普通に行われるネット界隈。離れた島に住んでいても、発信さえしていればすぐに同好の志が見つかるし、日本国内のニュースや映画、テレビドラマも視聴できる。音楽や書籍だって速攻で入手可能で、何ならアマゾンから(購入内容に制限はあるものの)日本の商品も買える。

なので他の国や地域と同様に、在フィリピン邦人の場合も、ツイッター内に自然発生的にできたコミュニティがあります。もちろん全員が仲良し子好しな訳はなく、ブロックの応酬があったり、トラブルの原因になったりもするでしょうけど、ここを通じて有益な出会いが多々あるのも事実。ちなみに同じSNSでも、フェイスブックよりツイッターの方が、相対的に使用者の年齢が若く、より多様な人たちが集まっている印象がありますね。

そして、MCLの職員である、宮木梓さんと知り合ったのは自然な流れ。しばらくのやり取りで分かったのは、私と梓さんの共通点。私が20年ちかく歳上なものの、同じ兵庫県のお生まれというだけでなく、私と家内が日本で14年間住んでいた、大阪府茨木市内の大学に通われてました。どうやら時期もダブっているようで、こりゃどこかでニアミスしてたかも知れません。

ここまでだったら「ちょっとした偶然」で終わりですが、同じフィリピンに移住し同じように配偶者がフィリピン人。ともに男の子を一人授かり、なんと一時はネグロスにもおられたとのこと。何より実際にお会いして話したのは、お互いに変わり者だという点。そりゃそうでしょうね。最近は増えたとは言え、まず日本から永住前提の海外移住というがかなり思い切った決断だし、しかも敢えてフィリピン。それもマニラやセブなどの大都会ではなく、ミンダナオやネグロスの、さらにその田舎であるキダパワン(MCLの所在地)とシライを選んだのは、紛れもなく変わり者。

もちろんこれは、多少の自虐を含むものの、自らの選択は必然で後悔はないし、少なくとも今現在は、それぞれの暮らしを幸せだと感じているからこそ言えること。

しかしながら、梓さんとツイッターで知り合って、すぐにMCL訪問となったわけではありません。やっぱりネグロスから見てもミンダナオは「ちょっとヤバい」感があったし、所属しておられるNGOが、地元の人たちへの物質的・経済的支援のみならず、ガチで子供たちを預かって寝食を共にし、ほぼ親代わりの世話をするスタイル。日本からの訪問者は歓迎とは言え、多額の寄付や支援物資を送れるような身分ではないし、学生でもない私にすれば、とても興味はあったけれど、それなりに覚悟と準備は必要でした。

そこで考えたのが、まず食事の支援。ネグロス移住後、かれこれ10年以上も家族のための料理担当主夫をしているので、地元の食材を使って、一般的なフィリピンの人たちが好みそうな料理を作るのには、そこそこ自信があります。時々梓さんが投稿するツイッターの写真を拝見するに、三度の食事はちゃんと摂っているけれど、調理は子供たちの当番制自炊が基本。食べ盛りな年齢にすれば、もう少し品数や献立の幅があれば喜んでくれるかなぁ、と思ったわけです。

そしてもう一つは歌。もう30年近く前に、カトリック教会の聖歌隊から出発して、移住後は暇に任せて、毎日ボイストレーニングと称したカラオケ練習。プロの歌手には遠く及びませんが、人前で歌ってもなんとか場持ちはできるレベル。レパートリーは英語とOPM(Original Philipino Music つまりタガログ語のポップソング)を含めて、100曲ぐらいあります。

その上、西ネグロスの方言であるイロンゴ語を解する人もいるキダパワン。こういう時のためにと、イロンゴの家庭教師に頼んで、日本の歌のイロンゴに翻訳し練習してきました。それでなくても歌って踊ってが大好きなフィリピン人なので、これは喜んでくれるでしょう。

というわけで、自分としては満を持してという感じで、年末年始と春節の大混雑を外しての1月中旬、ネグロスからミンダナオへの渡航となったわけです。料理と歌の評判はどうだったか...は、次回に続きます。



2025年1月25日土曜日

なぜかミンダナオ その1 ミンダナオに行って来ました


ダバオ市街地 出典:ダバオ市公式サイト

 はなはだ唐突ながら、1月の中旬から下旬にかけて4泊5日で、ミンダナオ島に行ってきました。フィリピン人の家内も行ったことがない島で、今回は国内旅行では珍しく私一人で。島と言っても、北海道より少し大きく、フィリピンでもルソンに次ぐ国内第二の面積で、人口は近畿地方全体よりも多い2,625万。最大の都市のダバオだけでも150万もの人が住み、圧倒的に過密なマニラ首都圏を別にすればセブ市よりも大きく、日本なら名古屋に相当するような、フィリピン南部の要衝です。

目的地は、このダバオからさらに車で3時間ほど西の、キダパワン市にある「ミンダナオ子供図書館(Mindanao Children's Library 略称MCL)」。およそ20年も前に作られた施設で、創設者はなんと日本人。図書館と名付けられていますが、貧困や家庭の事情で学校に通えない地元の子供たちを支援する、寄宿舎というか学生寮のような場所です。その詳細は後述するとして、ますはミンダナオについての予備知識。

多少フィリピン事情を知っている人なら「ミンダナオ=危険」のイメージが先立つでしょう。実際、数年前のドゥテルテ大統領の治世時には、イスラム系反政府勢力との紛争激化を理由に、約二年半に渡り一部の地域に戒厳令が布告されていたし、それよりはるか以前のスペインによる植民地時代から、難治の島とされてきました。

もちろん難治というのは、飽くまでも支配者側のスペインや、スペインに続いてフィリピンを占領したアメリカ側の見方。要するにカトリックでもプロテスタントでもない、14世紀から連綿と続くイスラム文化の地で、16世紀(日本の戦国期)に、あっけなくスペインに併呑された北部のルソンや中部ビサヤ諸島とは異なり、19世紀半ばまで徹底抗戦して独立を守り続けました。

ところがそれが裏目に出て、20世紀以降の近代化に遅れを取ってしまい、結果的にアメリカ資本による大規模な農業搾取を受けることになったのは、歴史の皮肉というしかありません。また、比較的台風被害が少なく、バナナなどの栽培の最適地だったのも一因。ちなみに、ダバオは、明治時代に多くの日本人が移住し、マニラ麻の栽培で富を築いたのは有名な話。私も以前の投稿で書いておりますので、興味のある方はこちらをどうぞ。(ダバオ産のマニラ麻 日本・フィリピン交流史4

そして第二次大戦後も、ミンダナオ先住民の苦難は続きます。

統治者側の都合で、クリスチャンの数を増やしてガバナビリティを高めようと、ビサヤの各地から多くの移民がやって来た結果、今では半分以上がセブ発祥のセブアノ(ビサヤ)語話者。さらにそれに続いて、今私が住んでいる西ネグロスなどからの移住もあって、場所によってはイロンゴ(ヒリガイノン)話者も多く、先住民の言語であるマギンダナオなど諸語は、マイノリティとなってしまいました。

つまり、かつてのスペイン・アメリカの支配から脱したはずが、今度は同じフィリピン人から支配されているに等しい状況。また、大規模なプランテーションの大多数の労働者は、低賃金で酷使され、いつまでたっても貧困から抜け出せない。この辺りの事情は、同じくサトウキビのモノカルチャー経済に依存するネグロス島とも似ています。

こんな具合に、何世紀も押さえつけられていれば、武装蜂起して独立しようと思う人が出てくるのも仕方ないでしょう。私が訪問したMCLは、まさにこうした地域に近く、紛争や長年の搾取の影響による貧困で、修学機会に恵まれない子供たちのための施設です。

ただ、ドゥテルテさんの登場で、事態は好転の兆しを見せているのも事実。まず1988年から断続的に合計7期ダバオ市長を務めたドゥテルテさんは、フィリピンでも最悪レベルの治安だったダバオを、まるで映画「アンタッチャブル」のエリオット・ネス捜査官の如く、拳で殴りつけるような改革を進め、今では東南アジアでもトップクラスの治安の良い街に変身させました。

さらに大統領就任後の2017年には、反政府武装勢力と政府軍が5ヶ月に及ぶ激しい戦闘(マラウィの戦い)を経て、ほぼ反政府側を掃討。前述の戒厳令の理由がこれ。この時、私たちはすでにネグロス島で暮らしてましたが、毎日のようにテレビ報道で政府軍の戦死者の顔写真と名前が公表され、戦地に我が子を送り出した父母の心中を想って、とても辛かったのを覚えています。

こうした経緯で、現在のミンダナオはかなり平静を保っていて、島内各地の空港にも普通に旅客機が発着。特にダバオを中心とした島の東南部は、他のフィリピンの多くの地域同様、日本の外務省が出している「危険レベル」は一番低い1。なので私も渡航ができました。とは言えキダパワンを含むコタバト州は渡航中止勧告のレベル3。「死んでも知らんぞ」と脅かされて、何かあっても日本お得意の「自己責任」。

このためダバオから先、MCLの敷地の外は、MCLのスタッフが必ず同行し単独行動禁止。これは5日間厳守しました。まぁ実際は、キダパワンの市街地や市場に行っても、ネグロスとほとんど変わらない平和な場所でしたが。これは昼間しか見てないからかもしれません。

ということで、肝心のミンダナオ子供図書館の話になる前に、前置きがすっかり長くなってしまったので、続きは次回の投稿とさせていただきます。



2025年1月14日火曜日

相変わらずなフィリピンのインフラ


出典:OPTICO

 年末年始、気楽なフィリピンでの退職生活でも、それなりにバタバタしたら、もう1月の半ば。日本では成人式も終わり、ラニーニャが原因かとも言われている、大寒波と豪雪だそうですね。フィリピンでは雪じゃなくて雨続きの1月。例年ならそろそろ乾季が近づいて、天候が安定する時期のはずなんですが、やはり世界的に気象が狂っているようで、もう何が普通か分からない。去年の乾季は異常に暑くて長かったし。

さて、ようやく前年9月から続いたクリスマスシーズンも最終盤のフィリピン。大抵の家ではまだツリーを出したままで、そろそろ仕舞おうかというタイミング。我が家でも11月にはツリーを出して、年明け早々には片付けました。ただ、家内が寂しがるので、電飾のない卓上におくような小さなツリーは、まだリビングに置いてあります。

ということで、去年の話で恐縮なんですが、クリスマス前最後の週末、突如としてインターネットがダウン。システム障害ではなくても、数時間毎ぐらいでプツプツ切れたりするので、最初はそれかと思ってしばらく待ちましたが、何時間たってもモデムのLEDは赤点滅のまま。プロバイダーのPLDT(フィリピン長距離通信)に連絡して、一応返事はあったものの、例によって対応は遅い。

PLDTユーザーの親戚宅ではアクセスできてるそうなので、少なくとも広域障害ではありません。なので修理が来るのを待つしかないんですが、案の定土日はお休み。結局48時間後の月曜日朝に業者が二人でやって来て、家の敷地内の配線ボックスを点検したら、蟻の巣になっていて、開口一番「バイゴン(フィリピンの殺虫剤)を貸してください」。修理自体はほんの30分ほどで完了し、何事もなかったかのようにあっさりネットが復旧。

その日のうちに復旧しなかったのは久しぶりで、自分たちの生活がどれだけインターネットに依存しているか、改めて実感させられました。まずSNSが使えないのは当然として、以前にも書いたとおり、最近ケーブルTVを解約してテレビは全部ネット。ネトフリにユーチューブ、ニュースはNHKワールドにフィリピンGMA。その他には時々アマプラも。

そして一番困ったのが、高三の息子のオンライン日本語教室。毎週土曜日朝に2時間、日本人の先生と結んで、日本語作文を学んでます。これが、フィリピンにしては高額で、月8,000ペソですから、日本円だとざっと2万円強。1回とぶと結構な損害なので、息子は親戚の家でネット難民。

さらに私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)学習にも支障が出ました。と言うのは、コツコツと新しい語彙を、ブログを利用して自家製の日本語-イロンゴ語辞典にしてるので、ネットが使えないと辞書を使えません。仕方がないので、宿題のイロンゴ日記は、間違いだらけのイロンゴと英語混じり。まぁ、地元の人同士でも英語混じりの会話は普通で、そんなに変な感じはなかったですけど。ちなみに英和 / 和英はオフラインでも使えるものを、携帯にインストールしてます。

ただよく考えたら、これが普通の土日ではなくクリスマス休暇中だったら、下手すると1月の2日か3日ぐらいまで、放置されてたかも知れません。48時間で済んだのはラッキーだったのかも。

ところでインターネットに限らず、相変わらず脆弱なフィリピンのインフラ。停電はクリスマス以降だけでも、すでに計画内外合わせて3回もありました。幸い私たちの住むシライ市の水道は、電力に依存しないシステムなので断水は滅多にないけれど、隣のタリサイは停電するとポンプも止まり、停電と断水はワンセット。

交通に関しては、そもそもネグロス島に旅客鉄道はないし、自家用車がなければ州都バコロドへは、「黄色い棺桶」(つまり死亡事故が多い)と陰口を叩かれる真っ黄色のボディのセレスバスか、真っ黒な排気ガスを吐く旧式ジプニーしかありません。コロナ禍前ごろから実用化された電動ジプニーは、田舎のシライまで来てないし、カーシェアのグラブも、最近はなぜか、なかなかつかまらない。

ということで、雨続きで気が滅入ってるせいか、年明け早々ネガティブ満載の投稿になってしまいました。