2018年4月6日金曜日

移住5年目の夏


2013年4月7日、フィリピン人の家内とハーフの息子、そして私の家族3人は、ここネグロス島のシライ・バコロド空港に降り立ちました。家内の里帰りで、何十回来たか分からないほどでも、この時だけは特別。帰るべき日本の家は引払い、家財道具は処分か船便でネグロスへの送付手続き済み。両親は健在で実家はありますが、もう自室はありません。

さらにそれまでと一番違うのは、前年の年末で、28年間勤めた会社を退職したこと。日本に戻って生活することは不可能、とまでは言いませんが、ずいぶん手間がかかるのは間違いありません。第一、もう戻りたくないし。

そんなわけで、私には感慨深く、少々の悲壮感も漂っておりました。これは私だけでなく、ひょっとすると息子にとっては、それ以上の人生の一大事だったかも。親の都合で住む場所が変わり、1年通っただけの小学校は転校で、友達とは全員お別れ。引っ越し先は、言葉が通じない異世界。

さらには、ネグロス生まれの家内にとっても、決して安易なことではありませんでした。元々、金銭や時間を守る感覚、対人関係の形成など、どちらかと言うとフィリピン人離れしていて、まるで日本人みたいな人。15年間の日本暮らしで、過剰レベルのサービスや品質に慣れきってしまい、本人が「逆カルチャーショック」とこぼすほど。

とまぁ、感傷的なことを書き列ねましたが、そんなことを全部考慮しても、もう日本でのストレスに満ちた生活からは逃げ出したかったんですよ。いくら便利でも、清潔でも、私が暗ぁい顔してたら、私だけでなく、家族全員が鬱陶しい毎日。あのまま日本にいたら、少なくともあと10年は、そんな暮らしが続いていたわけです。

しかも、年金を貰っても、家族の生活や子供の学費の全額は賄えない。結局死ぬまで日本で働くことになったでしょう。他の人の事情は分かりませんが、私にとっては到底無理な話。その後、いかに私と家族が、ネグロス生活に適応して、今が快適かは、散々このブログで書いてきましたので、繰り返しは避けます。

ただ間違いなく言えるのは、日本で生きるのが辛いからと、誰でもフィリピン、あるいは外国へ移住すればすべて解決めでたしめでたし、になるとは限らないこと。向き不向きはありますし、実際に大損して帰国なんて、よく聞きます。私にしたところで、不安が皆無なわけではありません。当然のことですが。

また、10年かかって周到に準備し、概ねうまくいった移住計画も、最初は慣れないことや、思い通りに運ばないことの連続。永住ビザや運転免許もそうだし、何よりも、移住の10年前には宅地を購入し、図面まで完成させた自宅が、大工さん集めに手間取って、着工まで半年もかかってしまったこと。その上、やっと工事が始まったと思ったら、スーパー台風ヨランダ来襲。

たった5年ではあっても、思い返せばそれなりに山あり谷あり。結構いろいろありました。これから海外移住、特にフィリピンへと考えている中高年の人たちを対象に、講演会でもやったら面白いかも知れませんね。いくらでも語ることがありそうです。

と妄想に耽る、移住5年目、ネグロスの夏なのでした。(フィリピンは今が盛夏です。)


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