2020年11月17日火曜日

フィリピン初渡航から25年


1995年11月、生まれて初めてフィリピン・マニラのニノイ・アキノ国際空港に降りたってから、 もう25年も経っちゃいました。今はコロナ禍のせいで、リアルな交流はないものの、今年の初めぐらいまでは、ちょうどその頃に生まれた人たちが、入れ替わり立ち代わりで、我が家に出入りしていたものです。

ネグロス島で活動する、日本のNGOにボランティアで参加する学生さんや、それを受け入れる現地スタッフ。英語学校の生徒さんに先生、自宅が完成した頃の若いメイドさんなどなど。日本人、フィリピン人に関係なく、だいたい90年代中頃生まれの人が多かった。

さて私のフィリピン初渡航は、ガチの業務出張。当時はまだ元気ハツラツ(古いフレーズ!)だった、日本の電気メーカーで、テレビ専門のプロダクト・デザイナーでした。主任デザイナーに昇格して、東南アジア/中近東担当拝命後の初仕事が、マレーシアを起点とした1ヶ月にわたる市場調査。

なぜマレーシアかと言うと、インドや中近東を含めた市場向けの工場と開発拠点が首都クアラルンプール近郊にあったから。商品企画、技術、生産、営業、人事の各部門責任者と、マネージャークラスは、日本からの出向社員。ところがデザイン部門だけは、日本からの出張ベース。まぁ社内のデザイナーの数が、他部門と比べると二桁ぐらい少なかったので、あちこちに分散させることに無理があったんでしょうね。

そのマレーシア本部から、インドネシア、タイ、シンガポール、インド、そしてフィリピンにも、それぞれ数日程度、地元生産部門や量販店を巡回。日本ではバブルが弾けて、一時期の活況は失われてましたが、まだ東南アジアは絶好調。それぞれの国や地域に合わせたデザインをしてほしいと、私に限らず、日本から来るデザイナーには、社内接待の嵐。酒が飲めない私なので、それほど嬉しくもなかったですけど。

仕事に関しては、日本国内の何かと規制の多い(つまり口出しする人が多い)環境とは違って、どの国でも経営責任者との直談判。持っていったアイデアが良ければ一回の会議で決まるし、ダメならダメでどこがどう悪いのか、はっきり言われる。後にも先にも、あれほど仕事がしやすかったことはなかった。

とまぁ今から思えば、私のキャリアの黄金時代だったわけですが、初渡航時はさすがに緊張しまくり。特にフィリピンの第一印象は最悪でした。

着いたのが夜間で、インドだけは別格ながら、他のどの空港よりもボロくて暗い。その頃、国際便の発着は、老朽化した第1ターミナルだけでしたからね。しかもゲートを出たら、出迎えの人・人・人...。フィリピンって、マニラだけでなくどこの空港も、建物自体がチケットを持っている乗客とスタッフ以外、全面立ち入り禁止。これは今でも変わってないなぁ。

なので、家族や友人を待っている人も、怪しげなタクシーの呼び込みも、全部同じ場所で、ぎゅー詰めで待っている。アメリカとヨーロッパ以外の海外旅行が初めてだった私は、日本人社員の出迎えがなければ、ちょっと途方に暮れていたかも知れません。

ただ面白いもので、それから何度もフィリピンを訪れ、仕事でもプライベートでも、地元の人と仲良くなるにつれて、悪い面はどんどん慣れてしまうもの。その2年後、家内と知り合った頃には、気候も食べ物も、そしてフィリピンの国民性にも、すっかり適応してしまいました。20カ国以上の外国を経験した私にも、こういう感覚はフィリピンだけ。

もちろん、実際に住み始めて、腹が立ったりガッカリすることは、山のようにあるけれど、幸いフィリピンそのものに愛想を尽かすほどではない。ということで、指折り数えてみると、すでに人生の半分近く、フィリピンに関わって来ました。今のところ、後悔はしておりません。


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