2018年8月15日水曜日
8月15日
私は1962年(昭和37年)の生まれで、母が25歳、父が26歳の時の子供です。両親とも大阪の下町育ち。敗戦の1945年(昭和20年)8月15日には、小学校(当時は国民学校)の2年生と3年生でした。
東大阪にいた父は、大阪大空襲を目撃。母は学童疎開で、私の祖父の故郷、長野県にいたので、戦災を直接体験することはなくとも、戦中戦後の食糧難は身に沁みた世代。81歳の今も健在ながら、カボチャとサツマイモは、もう一生分食べたからと、口にしようとしません。
そんな親や祖父母、親戚、そして教師に至るまで戦争経験者で、夏休みの課題図書と言えば、空襲や原爆に関する書物が必ずあったという環境。嫌でも戦争については、子供の頃から考えさせられました。(ほとんどは被害者としてばかりでしたが)
やがて中学、高校になると、元来の読書好きということもあり、戦記物に接する機会が増えました。まさか50歳になってから自分が移り住むとは想像もせず、フィリピンでの、レイテ沖海戦やマニラ市街戦のノンフィクションも。高校の現国教師が元海軍の戦闘機乗り。その影響で特攻隊の本もずいぶん読みましたね。
自分が学生だった頃には、当然ながら子供視点。空襲で家族を失った記述でも、印象に残るのは親を亡くした戦災孤児。少し大きくなってからも、感情移入の対象は、二十歳前後で体当たり攻撃に赴かざるを得なかった、若い特攻隊員たち。
ところが、40歳を過ぎて、遅くに一人息子を授かってからは、見方が親視点に変わりました。何が辛いって、まだ幼稚園や小学校に通う子供を、戦火で亡くした親の悲しみを知るのは、本当に身を切られる思い。
広島の原爆で子供を亡くしたお母さんが、何十年経っても子供部屋を整理できず、いつ戻ってきても勉強を再開できるようにと、机も本もそのままで、毎日掃除している逸話には、今でも胸を締め付けられます。朝、元気に送り出した我が子が、行方不明。死亡時の状況を知るどころか、一片の骨すら見つからなかったそうで、生きていることを信じたくなる気持ちは、痛いほど分かります。
出征兵士の書き残した手記なども、最近では、その親御さんの心中に、思いを巡らせるのが常。ここネグロス島でも、8,000名もの将兵が、祖国に家族を残したまま、帰らぬ人となりました。
フィリピンでは、解放または戦勝記念日となる8月15日に、私の知る限り、政府や自治体による大規模な祝典やセレモニーを開催することはありません。ネグロスに住んでいると、かつて日本とフィリピンが敵味方に分かれて戦ったことも、忘れてしまいそうです。
とは言ってもフィリピンでは、今も内戦や爆弾テロがあり、戦闘による死者も出るのが現実。日本だって、国内外のきな臭い現状を見るに、どうなるか先の見通しは不透明。
この日には、フィリピンであろうが日本であろうが、自分の子供を「お国のため」に、戦地に見送るような事がなくなることを祈るばかりです。
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1947年(昭和22年)生まれの私は、当日、セブ観音(セブ市、マルコポーロプラザホテルの庭)で開催された、戦没者慰霊祭に参列して来ました。
返信削除セブの日本人会主催で、セブ在留領事館館長、日本人会会長、セブ商工会会長他、セブ在住の日本人約80名が参列されていました。
又、遠路はるばる、日本からもセブで戦死された、遺族の方6名が来られていました。
日本からボランティア活動でセブに来られていた、若い学生さんたちも20名ほど来られていました。
戦後73年、戦争体験者や、遺族が高齢化する中、悲惨な戦争を繰り返さないためにも、若い世代の人たちにも、語り伝える責任が私達世代も重要だと、感じた1日でした。
戦争体験のある人から直接話を聞いた育った私たちですら、もう中高年。焦燥感を持つこともあります。最近は、高校での日本史が、選択制なんですよね。フィリピンに来る人ですら「私は日本史を取らなかったので、戦争のことは知りません」と、平然と言ってしまうのには、愕然とします。
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