2017年8月6日日曜日

宗教音痴の日本人


総務省の統計によると、2014年現在、日本の仏教徒は約8,712万人もいるんだそうです。これは「うっそ〜!」と言いたくなる数字。仏教徒と言うからには、当然家に仏壇があって、連日連夜、念仏やお題目を唱え、週に一回ぐらいはお寺に行って、お坊さんの講話を聞いているはず。仏教徒をどういう定義で捉えているのか、はなはだ疑問。

もちろんそういう日本人も、少なからずいます。親戚にも創価学会の会員がいて、熱心に「南無妙法蓮華経」を唱和。でも、国民の75%がそうだというのは違うでしょう。おそらく電話などで質問されて、本当は特定の宗教の信者ではないのに、そういうえば実家にある仏壇は、〇〇宗のだったなぁ、程度の根拠で回答したと推測。

私には、少なくとも過半数の日本人は、明確な信仰の対象があるとは思えないし、日常的に神や仏を意識していない。つまり信仰がある日常生活というものを、具体的なものとして想像しずらい人の方が多い。

こういう状況なので、日本で宗教と聞くと、天使か菩薩のように清らかな暮らしをしている「敬虔な〇〇教徒」と思うか、淫祠邪教の類で、洗脳されて財産も自由も、場合によっては命すら取られかねないといった、両極端なイメージを持たれがち。1995年のオウム真理教によるテロの影響もあるでしょう。

しかし、カトリック信徒として20年生きてきた私の実感からすると、信仰とは良くも悪くもそんなに浮世離れしたものではなく、超自然的な体験があったわけでもない。朝夕や食事前に祈りを唱え、日曜日には教会に通う。家を建てたり車を購入すれば、神父さまに「祝福」してもらい、家族の誰かが離れていれば、その無事を祈願する。まさに生活の一部という表現がぴったり。

そして誤解されやすいのが、他宗教の信者との付き合い。ローマ教皇は、他宗教への敬意と共存を呼びかけているし、私個人でも、前述の創価学会員の親戚とは、何のわだかまりもなく付き合っています。またマレーシアやインドネシア、パキスタン、ドバイなどで、イスラムの人たちと普通に仕事をしてました。

ただし、会話や行動にはそれなりの注意も必要。言ってはならないことや、してはならないことはわきまえておかないと、かなり面倒なことになるのも事実。でもこれは宗教に限ったことではなく、どこの国の人であっても、文化背景の異なる人たちに接する時の、基本的なマナー。まずは、安易に政治や宗教の話題を持ち出さないことです。

私の考えでは、宗教の違いイコール生活習慣の違い。経典にある一言一句の解釈の差で、殺し合いをするようなことは、現代社会では、そう簡単に起こることではありません。スペインによる侵略を遠因にして、ずっとフィリピンの内政問題になっている、ミンダナオ島での争いを、宗教戦争だとする人もいますが、これはたいへん危険な認識。

純粋に信仰の違いで戦争が起こっているのではなく、11世紀の十字軍遠征のような昔はいざ知らず、私の知る限り、ほとんどは、領土争いや、弾圧や圧政、差別への反抗が本当の原因。その上で相手を異教徒扱いすることで、殺戮や暴行、破壊、掠奪を正当化して、後付けで宗教の違いを強調しているだけなんじゃないかと思います。宗教音痴な日本人が、それを真に受けているだけの話。

注意深く見れば分かるように、フィリピン政府はイスラム教徒全体を敵視するような発言は、絶対にしていません。むしろラマダン明けなどイスラム関連の休日を設けたりして、歴史的に辛酸を舐めてきた人々の慰撫に努めている。現在マラウィで紛争を起こしているISは宗教団体ではなく、テロリスト集団と規定しているはず。これをカトリック対イスラムという構図で捉えてしまうと、それこそ憎しみの連鎖に、お墨付きを与えるようなもの。

ところで、私は最初に、日本人の多くは特定の宗教を持たないと書きましたが、実はそうではなく、日本人全員が「日本教」の信徒だという説(?)があります。1970年に刊行された、イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏が執筆した「日本人とユダヤ人」がそれ。

例えば、根っからの悪人は存在しなくて、どんなに気難しい人でも「話せば分かる」と思っている。神も仏も拝まないけれど、死んだらそれで終わりでもなくて、お彼岸やお盆にはお墓まいりしたり。周囲の空気を読んで、命じられもしない残業をしたり、行間を読んだり。最近の流行り言葉で言うと「忖度」上手。「他人に迷惑をかけない」なんて信条も共有。

そういう目で見ると日本人は、まるで教祖の言葉や経典による、宗教的な共通の行動規範にでも従っているよう。しかも誰も日本教の信者と意識しないほど、その教義に一片の疑いも持たない。山本七平氏に言わせると、これは人類史上、他に例を見ないほど強固な宗教。因みにこの説に従うと、私は日本教カトリック派の信者、ということになるそうです。

著作「日本人とユダヤ人」は出版直後から、現代ユダヤ人に関する記述の間違いに対してなど、ずいぶんと批判や反発があったらしく、私も書いてある内容すべてを鵜呑みにはしていません。それでも、初読の時には、目から鱗で、いろいろと腑に落ちました。

今でも「日本教」の件りは、なかなか面白い見方だと思うし、宗教のことは分からないと敬遠しがちな日本人も、自分が日本教の信者だと仮定してみれば、何らかの信仰を持つ人たちの気持ちが分かるかも知れません。

海外生活をすると、思い知らされる日本人独特の習慣(特に日本食や入浴への執着)が、日本人にとって当たり前だと思うのと同様に、大多数のフィリピン人にとってのカトリック信仰が、何も特別ではない生活の一部だと考えれば、それほど理解しにくい話でもないと思いますよ。


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