2018年10月7日日曜日

ちゃんとしてない国 〜中島らもさんのこと〜


養老孟司さん、糸井重里さんに続き、私の考え方や文章の書き方に、大きな影響を与えた人、我が人生の師の3人目として紹介するのは、中島らもさんです。

最初のお二人に比べると、一般的な知名度の点では、かなり低めかも知れませんね。らもさんは、私と同じ兵庫県尼崎市の出身。1952年(昭和27年)の生まれだそうで、ちょうど私より10年先輩。残念ながら2004年、飲み屋の階段から転落して頭部を強打、意識を失ったまま帰らぬ人となってしまいました。享年52。もう今の私は、らもさんの亡くなった歳より、4年も長く生きたことに。

最初にらもさんの著作に触れたのは、私が大学生の頃。確かエッセーか何かだったと思います。とにかく一読して驚いた。それまでの私が慣れ親しんだ作家というと、どくとるマンボウシリーズで有名な北杜夫さん、歴史小説の司馬遼太郎さん、SF作家の小松左京さんや平井和正さん、などなど。どなたも強烈な個性の持ち主ながら、家庭を持ち、真面目に働く、尊敬すべき大人のイメージ。要するに「ちゃんとした人」。

ところがらもさんは、灘中という、関西ではトップクラスの超難関校に進学したくせに、その後はバンドに目覚めたり、酒に溺れたり。本に出てくるのも、アルコール中毒になった話や、失業して奥さんに養ってもらったこと。躁鬱病にかかって自殺未遂に、晩年にはマリファナの不法所持でお縄になった顛末まで。

これほど「ちゃんとしてない人」が書いた本なのに、どれを読んでも滅法面白い。一時期の私は、それこそ「らも中毒」。エッセーに限らず、小説や対談、新聞に掲載された悩み相談...書店で購入可能なものは、おそらく全部読んだと思います。しかも、ここフィリピンまで一冊残らず持って来たほど。

ただ、酒やクスリに弱い反面、理不尽な差別や偏見、少数者をいじめたりする輩に対しては、真っ当で激しい怒りを示す人格者。物書きとしては、自虐的な表現を使いつつも、プロとしての強い自覚を持っておられました。なまじエエ格好をしないだけに、ずいぶんと影響を受けましたね。加えて、恋愛については、思いの外、美しい描写をする人なんですよ。

また、笑殺軍団リリパットアーミーなる、劇団の主催者でもあり、20代の頃は、らもさんが演出して、時々役者としても登場する芝居を、大阪梅田の、今は無き扇町ミュージアムスクエアという小劇場へ、よく観に行ったものです。

そんな具合に、らもさんの本と芝居で、「ちゃんとしてない」人やモノを、面白がるメンタリティを鍛えられた私が、1995年に、初めてフィリピンのニノイ・アキノ国際空港に降り立った時に思ったのは、「なんちゅう、ちゃんとしてない国や!」

当時、私の勤める電気メーカーは、アジア・中近東市場向け商品の開発と生産拠点として、マレーシアに大きな工場を置いてました。ここをベースに、シンガポール、タイ、インドネシア、インド、パキスタン、ドバイ、そしてフィリピンの各国を巡回するという、1ヶ月間に渡る出張が、海外担当に抜擢された私の初仕事。

それまで日本国内しか知らなかった私に、たかが家電製品であっても、国が違えば、どれほど買い方、使い方に差があるかを、ショック療法で叩きもうという、出張を計画した、商品企画課長の魂胆。

それはともかく、人生初フィリピン。あの頃、ターミナル1の到着ゲートから出た付近というと、まるで避難民のように、家族や親戚の出迎えや、タクシーの客引き、物乞いなどで、カオス状態。幼い子供が無理矢理サンパギータのレイを押し付けて、「ヒャクエン、ヒャクエン」と追いかけてきたり。一国の首都、しかも国際空港を出てすぐの場所が、こんなちゃんとしてない状態でええんかいな?

と驚きつつも、「これは面白い国だ」とばかりに、心の中では、にやけてました。この第一印象は、その後も揺らぐことはなく、付き合えば付き合うほど、フィリピンという国と、そこに住む人々への興味は増すばかり。あの課長の仕掛けは、効き過ぎるほど効いて、結果的には、フィリピン女性を妻にしてしまうほど、フィリピンにハマってしまったわけです。

その後、訪問したインドのデリーとボンベイ(現ムンバイ)は、マニラより凄い場所でしたが、ちゃんとしてる・してない、の物差しでは、到底測れない貧困レベルだったので、さすがの私も面白がることはできませんでした。(とは言っても、最初にトンドのようなスラム街を見ていたら、インドと同じ印象だったかも知れません。)


ということで、生前のらもさんは、おそらくフィリピンに渡航したことは、なかったでしょう。でも、もしこの国に来ることがあったら、ずいぶんと気に入ったんじゃないか。そう推測するほど、らもさんとフィリピンには、共通する「ちゃんとしてなさ」を感じております。


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