2014年8月9日土曜日

別れを告げに



昨日は、亡くなった義母の命日について書きました。
今日は、その続き。実は義母が死んだ時に、少し不思議なことがありました。

フィリピンでは、義母の命日の八月というのは雨期に当たり、当日も雨でときおり激しく降っていたのを覚えています。義母は前日から危篤状態で、夫である義父と義弟、そして娘の家内が病院に泊まり込みで詰めていて、その他の親族は、交代で自宅待機していました。

私と1歳になったばかりの息子は、義母の妹である叔母の家にいました。雨が降り続き、昼過ぎなのに薄暗い中、突然の停電。しかし豪雨で停電になるのは、フィリピンではとてもよくある事で、あぁまたか、という感じ。だいたいどの家庭でも電池式の照明が常備されていて、その時も別に慌てもせずに、幼い息子に自分の顔を照らして見せて、遊んだりしてました。

ものの数分で電気が回復したでしょうか? 珍しく素早い復旧やな、と思ったのを覚えています。それから少し経ってから、病院にいる家内から電話がかかってきて、義母が亡くなったことを知らされました。

その夜のこと。フィリピンではお通夜を1週間も行う習慣があって、遺体は亡くなるとすぐに、葬儀屋さんの手によって防腐処理されます。確か、そういう一連の手続きが済んで、親族一同が家内の実家に集まった時。

「お母さんが亡くなった時刻に、何か変わったことなかったか?」と聞かれました。最初は何を言ってるのかと思いましたが、しばらく考えてから停電の事を話すと、やっぱりとの事。

何カ所かに分かれて待機していた親族のいた家すべてで、ちょうど義母が事切れた瞬間に停電していたらしいのです。それもその家だけで、周囲では何ともなかった。そう言われてみれば、停電した時に窓の外を見たら、隣家の玄関から灯りが見えていた…。

ちょっと前に、フィリピンの座敷童についての投稿の時に書いたことにも通じますが、フィリピン人にとって現実の世界とあの世とは地続きで、感覚的にとても近いのではないか、と思います。この時も、親族の誰も当然の事のように、この出来事を受け止めているように見えました。

そして、そのフィリピンの血を半分受け継いでいる息子。帰国してからしばらくの間、夜誰もいない真っ暗な部屋に向かって、時々笑っていたなぁ。


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