2018年2月17日土曜日
再逆転 日本・フィリピン交流史 最終回
約400年に渡る、日本・フィリピン交流の歴史を、駆け足で振り返ってきたこのシリーズ。読者の方から、かなりの反響をいただき、私自身にもたいへん勉強になりました。私には少々肩の荷が重かったし、十分に意を尽くせたかどうかも分かりませんが、書いて良かったと思っています。
ひとつだけ残念だったのは、この投稿のために読んだ、ネット上での記事やブログの中に、時々ひどい内容のものがあったこと。特に明治以降の記述に関しては、読むのが憂鬱になったことも。
例えば、ベンケット移民。明治時代、マニラ〜バギオ間の道路建設には1500名もの日本人労働者が従事しました。その部分だけを切り取って、すべては日本人だけで完成したかのように書いたブログ。さらには「中国人にはできないことを、優秀な日本人はやり遂げた」みたいな、日本スゴイ論に仕立て上げている。なんでもかんでも嫌・中韓に結びつける連中はどこにでもいますね。
信頼できる複数の記事によれば、労働者の半数以上がフィリピン人で、工事を立案して資金を出したのはアメリカ人。道路完成後に建てられた記念碑にも、米・比・日、三つの旗が刻まれています。
また、太平洋戦争での日本のフィリピン侵攻も、白人(アメリカ)による支配からの解放のためで、フィリピンから飛び立った特攻隊を、今でも現地では英雄視しているという、一体何を根拠にしているのか理解できない記事。
戦後、戦犯として勾留中だった元日本兵に恩赦を与えたキリノ大統領は、ただの傀儡で、アメリカが命じたことを行っただけだとする、忘恩甚だしいものもありました。そうした思い込みと欺瞞に満ちた文章から、一貫して読み取れるのは、日本優越とフィリピン人を含む他のアジア諸民族への露骨な差別意識。
投稿の中で何度か触れたように、1980年代以降の経済的な傾斜では、たまたま日本が優位に立っていたかも知れないけれど、明治から昭和初期や、戦後しばらくの間は、そうではありませんでした。なのに、まるで日比交流が始まった400年前から、この関係は変わっておらず、未来永劫変わらないと信じる人がいるようです。
現実には、バブル崩壊からの30年間、ずっと不調の日本経済に比べ、ここの数年のフィリピンの成長率は明らかに日本のそれを凌駕。労働人口の推移は言うに及ばず、貧困の問題にしても、フィリピンに比べればまだマシとは言え、日本も決して胸を張れるような状況ではない。
もちろん、あと数年で日本は最貧国になり、フィリピンが先進国の仲間入りするといった、極端なことは考えにくいですが、日比の地位が、分野によっては再逆転することも十分あり得ます。今フィリピンに住んでいて、現状を知りすぎている在留邦人の方には、言下に否定されそうですが。
人の流れでいうと、1980年代のように、フィリピンから日本へ一方的な労働力の移動に代わり、英語教育やビジネスチャンスを求めて、若い世代の日本人がフィリピンに新天地を目指すという動き。あるいは、安定した老後の暮らしを求めての、中高年世代の移住。(つまり私のような人たち)
少し前までは、とんでもなくリスクの高い、無謀な冒険のように思われたことも、格安航空券やインターネットの普及で、単なる選択肢の一つと言ってもいいぐらい、ハードルが下がりました。そして、社会インフラにしても、規制でがんじがらめの日本と違い、コストさえ下がれば、驚くほどの早さで変わっていくフィリピン。
いい例が、携帯電話の普及と低価格化。我が家のメイドさんだって、スマホ2台持っている。最近では、ウーバー(Uber)・グラブ(Grab)など、タクシーに代わるライドシェアサービス。片田舎のネグロス島でも数年前から、グラブは利用可能に。ひょっとすると、AI(人工知能)導入による大規模な変革も、日本より早いかも知れないと、私は見ています。
もう一つ忘れてならないのは、ドゥテルテ大統領の登場に象徴される、長年に渡ってフィリピン政治の宿痾だった、汚職体質に国民がノーを叫び始めたこと。
と、かなり楽観的な未来も含めて、これからの可能性についての一端を語りました。しかし、私がフィリピン人の家内と一緒になった20年前には、このシライ市内で、多少遅くてもインターネットが使えて、ショッピングモールやテーマパークができるなんて、当時はどんなに楽観的になっても、想像すらできなかった。
私の息子が社会人になる頃には、過去の不幸で歪な関係を乗り越えて、従来とはまったく違った、日本・フィリピンの新時代が来ていることを切に願います。できれば、私が生きている間に。
ラベル:
歴史
場所:
フィリピン シライ市
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