「文明」と「文化」はどう違うか。日常生活の会話で、そう頻繁に使う言葉ではないし、きちんと定義を意識することはあまりないかも知れません。ネットのブリタニカ国際大百科事典で調べても、ずいぶん難しそうな書きようで、イマイチよく分からない。
私にとって一番分かりやすかったのは、辞書や事典ではなく、司馬遼太郎さんが戦時下のベトナムについて綴った著書「人間の集団について」での記述。それによると、文明には普遍性があり、誰でも無条件に参加できるのに対して、文化には、それを育んだ国や地域の住民以外の参加が難しい、とのこと。
典型的な文明の産物は武器。銃器を使えば、世界中どの民族に属していようが、年齢・性別・宗教に関係なく、他人を殺傷できてしまう。もう少し穏当な例がジーンズ。19世紀のアメリカで現在の形のものが考案されたという、デニム生地のズボン。誰が身につけても格好よく見えるし、丈夫で動きやすい。冷戦当時の、アメリカと敵対していたソ連の若者にすら好まれたそうです。つまり人も場所も選ばない普遍的で合理的なもの。
これに対して文化は、非合理的で普遍性がない。例えば、襖を足で開けないとか、畳の縁を踏まないと言った類のこと。司馬さんによると、日本はたいへんな重文化の国。確かにそうでしょうね。日本人として育った私ですら、敬語や丁寧表現に始まって、親戚付き合いや職場での上下関係、冠婚葬祭の決まり事などなど、本当に息苦しくて仕方なかった。
文明と文化の差は、どれだけ多くの人を経由して、洗練されたかどうか。例えば「寿司」。もともと鮒鮨(ふなずし)とか熟鮓(なれずし)と呼ばれた一種の発酵食品だったもの。江戸時代に、食べやすくアレンジされた握り寿司が登場してから、日本中に広まりました。
さらに1980年代、カリフォルニアでSushiブームが起こったことが発端で、今や寿司は、代表的な日本料理として世界中で認知。これは、ごく限られた地域の文化だった寿司が、まず日本国内で洗練され、健康志向の流行に乗って、文明レベルに昇華した例。
こう書くと、合理的な文明に囲まれていた方が、生きやすいように思えます。ところが、なんでも理詰めでは、今度は寒々しく感じてしまうのが人間の不思議さ。フィリピンに住んでいても、やっぱり年末には大掃除をして、正月には雑煮が食べたいし、子供には「いただきます」「ごちそうさま」を言うように躾けてます。
特に食事。「食文化」という言葉に象徴されるように、食材選びや調理方法、食べ方の作法ほど、その国や地方の文化が色濃く反映される事柄もないでしょう。突き詰めれば、何を美味しく感じるかは、文化によってかなり違う。これは生まれ育った環境で刷り込まれてしまうので、成人してからは、そう簡単に変えられません。
ずいぶん長い前振りになりましたが、ここからが今日のポイント。
フィリピンの在留邦人は、最近でこそ若くて順応力がある年代が増えたものの、永住者は、私と同世代か歳上の男性が多数派。好奇心も柔軟性もかなり擦り切れた人が多い。和食回帰しがちな年齢層なので、フィリピン料理が嫌い、受け付けないという話を時々聞きます。
私もフィリピン料理を毛嫌いするわけではないけれど、毎日の食事には、日本的な献立も欲しい。なので、やや割高な食材や輸入品の調味料も使っています。アドボやチョプスイなど、地元スタイルの料理を作っても、やっぱり日本風の味付けに。
だからと言って「こいつらは、美味いものを食べたことがないから、味が分からない」とか「こんなものを食ってるから、早死にする」と罵詈雑言を吐くのは、フィリピン食文化への侮辱。これはちょっと許せません。別に、フィリピン政府に頼まれて移住したわけでもなし、住まわせてもらってる国に敬意を払えないのなら、早々に帰国しろと言いたい。
何かにつけ日本と外国を比べて優劣をつけたがるのは、一部の日本人の悪い癖。大抵の場合、それは単なる違いでしかない。料理の味付けなんて、母国の味、もっと言えば子供の頃に食べたものが、誰だって好ましいに決まってます。バロット(孵化寸前の茹で卵)が苦手な日本人がいるのと同様、納豆に生理的嫌悪を感じるフィリピン人がいる。単なる慣れの問題。私だったら「ほっとけ!」と怒鳴りつけるでしょう。
結局のところ、海外移住=異文化の中で暮らすことなのに、そこで現地の料理を頭から拒否するのは、ただ好き嫌いが多いことにしかなりません。いくらグルメを気取っても、食費は高くつくし、ストレスは溜まる。自分で自分を生きづらくしてるだけだと思うんですけどねぇ。
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