2017年10月9日月曜日

日本語訳は英語教育を殺す


最近フェイスブックでの友人に、教えてもらった記事があります。日本で英語教育に携わったという、ニュージーランド出身の教師に取材したもの。それによると、彼が着任した学校では、わざわざ招いた英語のネイティブスピーカーが、ただのアシスタント。しかも、彼が喋る内容を日本人教師が日本語訳してしまうもんだから、生徒が真剣に聴こうとしない。

まだ日本の教育現場では、こんなアホなことやっとるのかいなと、溜息が出る思い。このやり方は、単にリスニングの能力が伸びないというだけでなく、かなり致命的な欠陥があるように感じます。

英語に限らず、母語以外の言葉をある程度習得した人なら分かるように、一つの言葉を別の言葉に、完全に翻訳すること自体がまず不可能。分かりやすい例だと、日本語の「よろしくお願いします」「お世話になります」の類。挨拶での使用頻度が高い表現だけど、いざ英語に直せと言われると、ハタと困ってしまいます。

前後の文脈から意訳するか、もしくは元の文章の何倍も言葉数を費やして、長々と説明するしかありません。ところが自分で考えず、誰かに訳してもらうところから入ると、言語が違っても、対訳可能な単語が必ず存在するような誤解を生じてしまいます。さらに言うなら、どんな文章も「正しい」翻訳ができると刷り込まれる。

これは受験の道具としての言語習得なら、それでもいい。あるいはそうでないと、採点する方が困るのかも知れません。ところが実際に喋る必要に迫られた時、「正しい」言い方が口から出ないとか、頭にある日本語を、どう訳していいか分からない、となってパニックになってしまう。日本語訳前提の英語教育最大の弊害は、ここだろうと思います。

では、英語が第二公用語のフィリピンでは、英語をどう教えているでしょう。私自身がフィリピンで授業を受けた経験がないので、小学生の息子(私立学校に在学)の話を聞いたり、現地の教科書を読んでみると「英語は英語で教える」のが当たり前だと分かります。だいたい、英語の教科書には、英語以外の言葉が印刷されていない。

フィリピンの場合、子供の母語が、第一公用語のフィリピノ(タガログ)語とは限らない事情もあるでしょう。母語だけに限って言えば、タガログよりセブアーノ人口の方が多かったりもする。

しかし、そんな理由がなかったとしても、実用英語を勉強するならば、授業時間中だけでも、英語で聴き英語で喋る訓練をしなければ、意味がない。相手の言っていることを理解するのと、きれいな母語に翻訳するのは、まったく別のことです。実際の会話では、意味はよく分かったけど、さて日本語ではぴったりの表現がないなぁ、なんてことも少なくない。

そう考えると、本気で使える英語を習得させるなら、ネイティブスピーカー(国籍は日本でも構わない)が、日本語禁止のクラスで教えるのは当然のこと。補助に回るのが日本語ネイティブの教師ならば、まだ分かります。

そしてテストは、問題も解答も英語が基本。早い話が、TOEICやTOEFLを導入すればいい。小中学生にはハードルが高くても、せめて高校の授業や大学受験には使ってほしい。もちろん、TOEIC・TOEFLで高得点の人が、必ずしもネイティブ並みに喋れるとは限らない。それでも透明性はあるし、留学や就職の際にも役に立ちます。辞書にしたって、英和より英英辞典の奨励が望ましい。

ここまで読んで、それでも日本語訳が必要だと言うのなら、日本語の授業、つまり国語でやればどうでしょう。自分以外の誰かの理解のために、外国語から自然で分かりやすい日本語に直すのには、対象となる言葉の知識もさることながら、それなりの日本語能力が必要不可欠。これは自分でやってみれば一目瞭然。

名文・美文を書けというのではありません。できるだけ正確な意味を伝えつつ、読みやすさも保つには、ある程度の日本語の語彙とセンスが要求されます。例えば「under estimate」を、「低く見積もる」と直訳風にするか、「ちょっと見通しが甘い」と口語っぽく言うかは、前後の文脈と国語力の問題でしょう。外国語を勉強すると、母語の力もつくと言われる理由がここにあります。

最近のネット上では、翻訳じゃない普通の文章が、すっごく読みにくくて意味不明なことが多いので、別の意味でやった方がいいかも知れません。

それにしても、冒頭に紹介した記事の英語教師は、ずいぶん歯痒かったろうと思います。さらには、その授業を受けた子供が可哀想。想像するに、せっかく生きた英語に接する機会なのに、日本人教師の監視下で、自由な発言もできず、英語に対するコンプレックスを植え付けられただけの可能性が高い。もったいない話です。

(因みに「もったいない」も、ちょうどいい英訳語がないそうです)


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