2018年7月28日土曜日

他人に迷惑を掛けてもいい国


他人に迷惑を掛けるな。

いつ頃から、このセリフが日本中に浸透したんでしょう。私が子供の頃には、あんまり聞かなかった気がします。そして親に言われた記憶もないし、実際の会話でも耳にしたこともない。主にドラマ、それも下町を舞台にした人情劇で、貧乏な家庭で育った子供が、こう言って育てられるシーンぐらいでしょうか。

この言い方って、日本全体が貧しかった戦前から戦中、終戦後しばらくぐらいまでは、リアリティがあったように思います。貧しすぎて、犯罪に走ったり、他人の懐を当てにして生きたり。あいつの家は貧乏だから泥棒したんだと、後ろ指をさされないよう、プライドだけは保つための、最低限のモラルだったのかも知れません。

ところが、いつの間にか言葉だけが一人歩きを始めて、苦しくても人を頼るな、辛くても一人で耐えろ、みたいな、痩せ我慢の勧めになってしまった。あるいはそれを逆手に取って、他人の迷惑にならなければ、何をしてもいいと開き直ったり。

こういう考え方の行き着いた先が、今流行りの「自己責任」。他人に迷惑を掛けてないから、大酒飲んでギャンブルして。その結果、病気になってもホームレスになっても自己責任だから、そんな奴らのために、俺たちの払った税金を使うなんて許さない、という具合。

糖尿病で健康保険を使った透析治療をしても、好き勝手に飲み食いしたからだとまで言われる始末。何とも嫌な風潮です。ちなみに今の医学では、度を過ぎた酒やギャンブルは、依存症という疾病だと認識されています。

だいたい人間って、そんなに強い人ばかりじゃないし、間違いもすれば一時の感情に流されもする。あるいは、思いもしなかった不運に見舞われて、病気になったり怪我をしたり。誰にも迷惑を掛けずに生きるなんて、無理だと思うんですよ。

そこへ行くと、フィリピンの事実上の国教とも言えるカトリックの教えは、極端に言えば、神さまに慈悲を乞う宗教。日曜日のミサなんて、いきなり「主よ憐れみ給え」ですからね。

その教義に生まれた時から親しんでいる、多くのフィリピンの人々は、そもそも人間は他人に迷惑を掛けずに生きられるなんて思っていません。親兄弟や親戚だけでなく、頼れる人に頼るのは当たり前。また人に頼られることは一種のステータスなので、実力以上に無理をして見栄を張るのも、フィリピン的な人間風景。

私がこの国に関わり始めた二十数年前は、なんて甘ったれた国民性だろうと、正直なところ軽蔑の念を覚えたほど。ところがしばらくして、仕事でも私生活でも困難にぶちあたり、親の借金を背負ったり、鬱で休職したり。弱者の立場になった時、それまでの自分がいかに思い上がっていたかを悟りました。

まず「迷惑を掛ける」という言い方がよくない。「人に助けてもらう」に変えるべき。人助けって、決して苦痛ではなく、場合によっては喜びになることも。配偶者や子供など、愛する人の看病って、別に頼まれなくても自発的にやるし、何かの見返りを期待しているわけでもない。あるいは、まったくの他人でも、困っている人を見かけたら、見るに見かねて手を差し伸べることもあるでしょう。

「相身互い(あいみたがい)」とか「困っている時はお互い様」とか、日本には、もっといい格言もあるはず。

ここネグロスでは、挨拶代わりに「ご飯食べた?」と言ったりします。そして、もしまだなら、私の家で一緒に食べていきませんか?となる。また、結婚式や誰かの誕生パーティでも、昔ながらの風習だと、道行く他人にも用意した食事をご馳走したり。

やたらと金を貸してくれと言われるのは、ちょっと困りますが、それだって無理なら無理と、断ればいいだけの話。程度の問題はあるにしても、誰かに頼み事をする際に、現代の日本人に比べると、心理的な障壁がずっと低い気がします。

こういう社会って、全然悪くないと思うんですけどね。特に自分の命を縮めるほど、我慢に我慢を重ねるような国よりは、はるかにいいですよ。


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