2018年7月8日日曜日
それでも勧める外国語
前回、外国語習得の必要なんてない、とも取れる投稿をしました。日本から出るなんて、たまに遊びに行く以外まったく考えてないし、日本は世界一素晴らしい国で、外国から学ぶことなど皆無、とお考えの方にはその通り。日本語だけの楽園で、死ぬまで暮らせばいいと思います。
嫌味たっぷりの冗談のつもりの書き出しが、本気でそう考えてる人が、少なくなかったりする昨今。サッカー場でゴミを拾ったぐらいで、感動だとか、世界に誇る日本人のマナーだとか、同じことばっかり言ってる人いるしなぁ。
それだけならまだしも、すぐに隣国と比べて、だから奴らはダメなんだ、という理屈になる。こういうのとフィリピンを見下す連中は、だいたいオーバラップしてますね。そんなに行儀がいいんだったら、徒党を組んでマニラに買春しに来たり、海外からの研修生に違法な重労働させたり、在日外国人を罵倒するヘイトスピーチしてるのは、一体どこの国の人間なんだか。
この話を書き始めると、ブログの2本や3本はすぐアップしてしまいそう。今日はそっちじゃなくて、やっぱり外国語を学ぶのは、とっても役に立つというお話。
もちろん、ただ外国語を勉強すればいいのではなく、基本となる母語がきちんと使えて、物事を論理的にも、感覚的にもちゃんと理解し、他者に伝えることができるのが大前提。外国語の能力が、母語より優れているなんて、まずあり得ません。
頭の中の教養すべてが、日本語でできている人は多いだろうし、それが悪いわけでもない。母語が英語の場合、海外に出てもちょっとした盛り場なら英語が通じてるもんだから、外国語音痴が多いぐらい。
そんなモノリンガルのインテリが、本気で外国語を学んだら、目からウロコ、発想の大転換が起こることは確実。
私が英語がそこそこできるようになって、瞬間風速的ながら、会話している時に英語で考える癖がつくと、発言の内容が変わりました。別に白いものを黒と言い換えたりするのではなく、日本語で言うより曖昧さが少なく、明確な表現になるんですよ。(今はすっかり錆び付いてます)
これは常に主語があり、対象の個数や時制がはっきりしないと文章を綴れない、英語(を含むヨーロッパ系の言葉)の特性があるから。3単現のSって、中学の英語で習いましたよね。主語の人称やその数で動詞が変化しちゃうやつ。大学で齧ったフランス語なんて、加えて、主語の性別による変化、さらにはすべての名詞に男と女があるという複雑さ。なんで机が男で、星が女やねん?
19世紀には大英帝国が、20世紀の後半からはアメリカ合衆国が、世界経済を席巻したこともありますが、英語そのものがビジネスに向いていたから、世界公用語的な位置を占めたんでしょう。フランス語を外国語として学ぶのは、英語と比べて大変過ぎます。
また、日本語ではニュアンスぴったりの訳語がない表現も多いし、その逆に英語で言いようのない日本的な言い回しも山ほどある。
思考が、使う言語に支配されるものだと、外国語を学ぶとよく分かります。少なくとも、容易に想像できるようになる。なので、外国語で丁々発止のやり取りはできなくても、何かの交渉事をする場合、相手の発想スタイルを理解して、こう言ってもダメだろうとか、この言い方なら受け入れやすいだろうと、出方を読むことができる。
つまり、日本語しか知らないのと、二つ以上の言葉を知っているのとでは、理解度や想像力の幅が段違い。日本のやり方が唯一正しいと、押し付けることの愚を悟れます。そして、日本を外から見る習慣も身につく。私もこのブログで、日本の出来事をフィリピン視点ではどう映るか、という手法をよく使います。
だからと言って、日本語が英語に比べて劣った言語であるわけでもない。私の知る限り、人の感情や自然の美しさを描写するのに、日本語は言葉数も表現方法も多彩。例えば雨を表すだけでも、春雨、五月雨、梅雨、俄雨、天気雨、驟雨...。一説には400もの言い方あるそうです。
要するに、各言語に思考形式の違い(優劣ではなく)がある、と分かるだけでもすごいこと。家内なんて、母語がイロンゴ語(西ネグロスの方言)で、小学校でフィリピノ語(いわゆるタガログ語)と英語をネイティブレベルまで学び、私と結婚してから公文で勉強した日本語は、敬語が使えるほど。私などより遥かに深く広い思考世界を持っているんでしょうね。
面白いことに、喋る言葉によって、性格や顔つきまで変わって見える。私も英語を使うと、たまにそう言われることがあります。
ということで、ペラペラになるほど会話上手にならなくても、身を入れて外国語を学ぶのは、かなり意味がある。本来なら日本の学校では、そういう部分をちゃんと教えないといけない。例えば古文や漢文を英訳してみれば、ずいぶんいろんな発見が、ある筈なんだけどなぁ。
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