昨日、監督の父から「コンクリート・ブロックの積み方」講習を受けた、大工のリトさん。早速、仲間に技術伝播があったようです。今朝は別の二人の大工さんが、もう器用な手付きで「まっすぐ」ブロックを積んでました。
今回、我が家の建設に集まった大工さんたちは、いつもチームで仕事をしているようです。その人間関係は、見たところすこぶる良好。何か新しい技術を身につけると、別に指示したわけでもないのに、あっと言う間に教え合います。また、差し入れの食べ物などを持って来ると、たまたまその場にいない仲間がいたら、ちゃんとその人の分も取っておいてあげる。
これは、この大工さんたちに限ったことではなく、今まで会ったフィリピン人の職場や親戚の間は、とても人間関係がフラットで居心地よく見えます。もちろん実際のところは、いろいろあるんでしょうが、少なくとも日本人同士のような陰湿な感じがない。自殺にほとんど縁がないというのも、こういうところに、背景がありそうです。
この湿度の低い人間関係構築の鍵は、言葉にあるのではないか?というのが私の仮説です。ほんの少しだけ、ここ西ネグロスで話される方言、イロンゴを習って知ったのですが、敬語や丁寧語という概念が、どうもほとんどない。大人と子供、上司と部下が喋っても、全部友達が喋ってるのと同じになる。これだと変な上下関係が、できないのではないでしょうか?
ビジネスで、そういう会話が必要な時は、自然に英語に切り替わっている。英語ですら、晦渋な日本語の謙譲語などのことを考えると「敬語はない」と言われるぐらいです。私が話す時は主に英語で、微妙な感情のニュアンスが理解できるほどの英語力がないのが、ちょうどいい。
思えば生活の場を日本以外のところに求めたのは、経済的な理由もさることながら、根本的には、人間関係の面倒臭さに疲れ果てたからです。こっちに来てからも、数少ない日本人居住者との接触はありましたが、案の定面倒臭くなって、今では完全に距離を置いてしまいました。
今日はフィリピン人大工さんのフラットな人間関係のお陰で、ブロック・ワークは順調に進みました。もう明らかに折り返し点は過ぎた私の人生。精神的に難しいことには、もう近づかないようにしてます。
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