2018年8月13日月曜日

お米の国の人だけど



出典:Rappler

欧米と比べて、日本人が東南アジア諸国に親しみを感じやすいのは、距離や顔つきの近似もさることなが、同じ米食文化だということが大きいでしょう。フィリピン料理が不味いと、文句ばっかり言う人だって、例えばアメリカの一般家庭にしばらく滞在していみれば、どれだけフィリピンの食べ物が、日本人にとって好ましいものかが分かるはず。

フィリピンに住んだり、フィリピン人と生活を共にする人には説明するまでもなく、どんだけ、お米大好きな人たちなんや、というのが実感。おかずは文字通りの副食で、とにかくたくさんのお米を食べるためにある。我が家でフィリピン人のお客さんを迎えて、日本式のカレーを振舞ったりすると、カレーは大して減らないのに、お櫃は見る間に空っぽ、なんてことがよくあります。

とまぁ、食べる方はともかく、田んぼのある風景は、私たち日本人にとってもお馴染み。特に収穫時期の田んぼでは、風に乗って来る、あの懐かしい香りを感じるだけで、心が安らぐ。ちなみにネグロスは、耕作地の大部分がサトウキビ畑なので、田んぼを見るには、かなり山奥に行かないといけません。

フィリピンで稲作というと、何と言っても有名なのはコルディリェーラのライス・テレス(Rice Terraces of the Philippines Cordilleras)。私はまだ実物を見たことがありませんが、写真だけでも、さぞかし大変な労力を費やして作られたんだろう思います。2000〜3000年も前から、山岳民族のイフガオ族によって、ここで営々と米作りが続けられ、1995年にはユネスコ世界遺産に指定されました。

ところが意外にも日本の場合、こうした棚田より、広々とした平野に水田を作る方が、技術的にはずっと難しいんだそうです。

日本で生まれ育つと、ちょっと田舎へ行けば水田風景があるのが当たり前で、あまり深く考えたことはありませんが、まず田んぼは、かなりの精度で平坦でないといけません。しかも、田植えの時には水を張り、中干しや稲刈りの時には水を抜く。地面を平らにするだけでなく、田に水を引く治水や排水が必須条件。

街中に残ったような、狭い田んぼならまだしも、新潟や秋田の広大な田園地帯など、想像するだけで気の遠くなるような大規模工事。

日本では農業土木というカテゴリーがあるのに、英訳すると Agricultural Engineering 農業工学になってしまうそうです。農業だけのための土木、という概念自体が、日本的な発想。つまり、熱帯地方やそれに準じる場所での、自然の状態で雨季と乾季がある天候(フィリピンのような)を、日本では「土木工事」によって、再現してやる必要があったわけです。

こう考えると、同じようにお米の国であっても、手間も時間も、並大抵ではない努力で、やっと年に一回の収穫を得られる日本(沖縄や鹿児島、高知を除く)と、(比較をすれば)少ない労力で、普通に二期作・三期作ができるフィリピンでは、お米に対する考え方が違うのも当たり前。

そのせいか、フィリピンの人たちは、お皿や炊飯器に残った米粒をきれいに食べるという習慣(というか躾?)は、あまりない。おにぎりを作った後、しゃもじについたお米まで食べていると、メイドのライラに笑われてしまいました。私が子供の頃など、お茶碗に米粒を残したりしたら、母親の鉄拳制裁でしたからね。

ここからは、きちんとした学術的な根拠もない、私の空想ですが、食扶持を得るための苦労を、何千年も続けているうちに、現代日本人の異常なまでに将来についての心配性が、気質として根付いてしまったんじゃないでしょうか。

教育にしても貯蓄にしても、あるいは労働観にしても、現在を犠牲にして将来に備える。今我慢して、いずれは笑って暮らそう、というような。しかし残念なことに、今の日本人は、その笑うべき将来を迎えないまま、我慢と苦労だけの人生で終わる人が、少なくないなぁ。

ということで、今日はちょっと真面目に、日本とフィリピンの米食文化について考えてみました。


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