2018年6月15日金曜日

なぜ悪い方を基準にする?


フィリピンに移住したからと言って、まったく日本に無関心になるわけでもなく、私の頭の中は日本語がメインなので、やっぱり日本語のニュースやら記事をネットで閲覧する毎日。幸せな投稿や、心温まる話はあんまり印象に残らないけれど、引っかかる内容には、しばらく考え込んでしまいます。

このところ気になっているのは、何かと言うと条件の悪い方を基準にしてしまう、日本の変な風潮。例えば、父母のどちらか、あるいは両親がいない子供がかわいそうだからと、母の日や父の日を学校で祝うのを自粛するとか、電話とファックスしか使えない年寄りがいるから、メールやLINEでの連絡は受け付けない...という類のこと。

実は、私が家電製品の開発に従事していた時も、同様なことがありました。有名なところでは携帯電話。ボタンのないケータイなんて使いこなせるのは、よほど先進的な新しい物好きだけで、爺ちゃん婆ちゃんには無理。日本では絶対に主流にはならない。本当に開発現場で多くの人が、そう思ってたんですよ。

結果はみなさんよくご存知の通り。2000年代の中頃には飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが、今では市場から撤退し、オフィス跡地も売却の憂き目。僅かに残ったキー付き携帯も「ガラパゴス」と揶揄される状況。

国際的な競争に晒されるケースでは、遅まきながらも新陳代謝が起こりますが、日本国内に閉じた業界では、絶望的なまでに旧態依然。最近見聞きして唖然としたのは、保育士に義務付けられている日誌記入が手書き必須だという話。紙を使うのも無駄で、こんなものフェイスブックかグーグル・ドキュメントでも使って、スマホからアップするようにすれば、書く方も読む方も楽なのに。

そう言うと必ず現れるのが「できない理由を懇切丁寧に説明」する人たち。表向きは、弱者救済のために古いやり方も必要だとか、まだ早過ぎて受け入れる人が少ないとか、尤もらしいことを言い立てて、実は新しいことにトライするのが億劫なだけ。そのくせ、日本から独創的なアイデアが出ないと、憂国の士を気取る組織責任者の何と多かったことか。

確かに今の日本では、年寄りほどお金を溜め込む傾向があるのは事実。だからと言って、いつまでも一部のシルバー層を守っていれば、国全体がガラパゴス化しますよ。(もうかなりの部分でそうなってますが)

その点フィリピンという国は、出稼ぎ労働が国家財政を支えているだけあって、世界の動きには実に敏感で、早者勝ちや抜け駆けのし放題。スマホやフェイスブックの普及率は言うに及ばす、Grabなどのカーシェアリングも数年前から当たり前。小学校のコンピュータ・サイエンスでは、エクセル・ワード・パワポの使い方を教え、優秀な子供はどんどん飛び級。そもそも子供や若者の人口に占める割合は、日本など遠く及ばない。

もちろん貧困という宿痾は、今なおこの国の重荷だし、取り残されている人が多いのは事実。それでも、まだ習ってない単語を使ったらテストで減点だとか、お弁当を作るのがたいへんな保護者がいるから、運動会を午前中だけに縮小しようなんて、アホなことを言い出す人はいません。

ハンディのある人にも優しい社会を目指すのは大事ですが、なぜ、社会全体をそっちに合わせて不便にしようとなってしまうのか、まったく理解できない。国外から見る最近の日本は、できるだけ多くの人が幸せに、じゃなくて、必要のない人まで不幸せな状況に耐える、壮大な我慢大会をやっているように見えて仕方ありません。


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