ただ前回の改元時、昭和天皇崩御の当日のことは、かなりはっきりと覚えています。1989年の1月7日、私は26歳。あの日は土曜日で、週末には、当時付き合っていた彼女のアパートにお泊まりするのが習慣になってました。我ながら、若かったですねぇ。
もう天皇の病状は絶望的で、いつ亡くなるか時間の問題。朝、少し遅めに目を覚まし、FM大阪の番組を聴こうと、ラジオのスイッチを入れた瞬間、「異変」に気づきました。この時間なら、桂文珍さん(上方の落語家)がDJを務める番組のはずが、クラシック音楽のみ。阪急百貨店のコマーシャルもなし。(文珍さんの番組は、阪急百貨店がスポンサーでした。)
テレビを見ても報道番組ばかりで、これまたCMシャットアウト。これが、何日も続くことになる「自粛」の始まりでした。インターネットは普及前で、仕方なくレンタルビデオ屋さんに行ったら、考えることはみんな同じ。目ぼしい映画は全部貸し出し中。天皇が亡くなると、日本はこうなるのかと実感した次第。
自宅に戻ってから何をしてたかの記憶は、さすがに定かではありませんが、昼過ぎか夕方にテレビで生放送された「平成」発表のシーンだけは、脳裏に焼き付いています。それを発表した官房長官、後に「平成おじさん」と呼ばれた、小渕恵三氏の顔も。
あの日は、書道の師範免状を持っている母が、近所の子供を自宅に集めての書道教室の日。家でテレビを見ていたのは私だけだったので、隣室の母に「新しい元号は『へいせい』やて」と教えに行きました。「なんか変な語感やなぁ」というのが、私も母も共通に感じたところ。すぐに慣れましたけど。
さて、同衾する彼女と、1月初旬の寒い朝に迎えた昭和最後の日。それから30年後の平成最後の日は、真夏のフィリピンで、前日と変わらぬ、熱帯の太陽が昇る朝からスタートということになりました。
今日、平成31年4月30日朝の風景
ほぼ快晴で真夏の青空です。
さて、新しい今上陛下は、私より2つ年上なだけ。「現役」の重圧から解放されて、呑気な退職者生活を過ごしている我が身と比べて、これから、ものすごい重責を同世代の人が背負っていかれることを思うと、何とも言いようのない気持ちになってしまいます。