2018年6月29日金曜日

ヤバいブロック塀

今日も地震関連の投稿です。
大阪府北部地震では、高槻市内の小学校で倒壊したブロック塀の下敷きになり、9歳の児童が亡くなるという、痛ましい事故が起こってしまいました。先日の地震に限らず、強い揺れがある度に、同様の危険は指摘されていても、数が多すぎて、とても全部をチェックし切れないのが現実なんだろうと思います。

私が体験した阪神淡路大震災では、当時住んでいた兵庫県尼崎の実家の隣家で、高さ2メートル、幅10メートルほどのブロック塀が、バッタンッ!という感じで倒れてました。この道は、最寄りの阪急塚口駅から、園田学園女子短期大学(テニス選手の伊達公子さんの母校)への通学経路。もう2時間ほど遅かったら、学生さんに被害が出ていたかも知れません。

また、ここネグロス島でも、ブロック塀は日本以上に多用。セキュリティの問題もあって、まるで刑務所のような高い壁をぐるりと廻らせた家が多い。そのほとんどがブロック塀。実際に昨年(2017年)1月の大雨では、ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロで、14歳の男の子が倒れてきた壁のために亡くなりました。

こうなると、さすがに恐ろしくなってきて、子供にお昼のお弁当を届けた帰り道に、近所を歩いてブロック塀を巡回視察。安全性がどうかという観点で、シライ市内のブロック塀を注意したことはなかったのですが、これほどひどいとは思わなかった。

ネットの情報によると、ヒビが入ったり傾いていたりすると危ないとあった、そのまんまの事例が実に多いこと。ヒビどころか一体何年前からそこにあるのか、もう苔むして表面がボロボロ。地震じゃなくて、私が軽く体当たりしただけでも、ぶっ倒れるんじゃないか。





こちらでは、ブロックそのものが脆くて、買ってきてすぐのものでも手で砕くことができるほど。自宅新築時の現場監督だった父によると、こんな状態でも、ちゃんと鉄筋を入れて、十分モルタルで補強すれば、なんとか大丈夫だろうとのこと。とはいえ、他所の壁には、表面を塗りこめることもなく、ブロックが剥き出し。素人目に見ても、目地などはずいぶん雑な仕上げが目立ちます。


専門家ではない私でも、強い地震が発生した時に、こんなブロック塀の近くにいないことを祈るばかり。そしてやっぱり心配になるのは、小学校6年生の子供のこと。

写真には撮ってませんが、建て込んだ住宅街になると、幅1メートルほどの路地の両側が、大人の背丈より高いブロック塀、というケースも少なくありません。そんな場所に限って、小さな子供が遊んでたりするんですよね。

マニラ首都圏で、コンドミニアムの高層階に住む日本人の方が、大地震があったらまず助からないだろうと、半ば諦めたように言うのをよく耳にします。しかし、高層建築のないシライであっても、貧しい人が住む地域で、子供を中心に甚大な人的被害が出るであろうことは、想像に難くありません。大地震どころか、震度5程度でも、たいへんなことになりそう。

巡回から自宅のあるサブディビジョンに戻って、改めて周囲を見ると、セキュリティがしっかりしている敷地内では、ブロック塀が少ないことに気づきました。あっても、比較的低めで圧迫感がない。



ほとんどの家では、壁で全部覆ってしまうのではなく、金属の格子を使ったフェンスを使用。これなら風通しもいいし庭も明るい。枝にトゲのあるブーゲンビリアなどを絡ませれば、見栄えもいいし、賊の侵入もある程度は防げます。ちなみに我が家もこのスタイル。

本来ならどこでも、こうあるべき。台風は日本以上に来るし、島の反対側の東ネグロスで、死者を出した地震があって、まだ10年も経っていません。それでも、経済的に余裕のない家では、相も変わらずブロック塀。貧すれば鈍するとはこういうことかと、ため息が出てしまいます。


2018年6月28日木曜日

断水対応は暮らしの基本


出典:GIRLY DROP

先日の大阪府北部の地震では、多くの世帯で、電気・水道・ガスの供給がストップ。最近の日本では、大規模な災害でもない限り、停電・断水は本当に珍しい。阪神淡路大震災の時、地域によってはライフラインの復旧までかなりの長期間を要しました。神戸・芦屋・西宮・宝塚辺りに住んでいたら、ずいぶんと耐性ができたでしょう。

しかし大阪府下では、震度6以上の揺れは、戦国末期1596年の慶長伏見地震以来と言いうし、長時間の広域停電被害が出た台風は、1961年(昭和36年)の第二室戸台風が最後。人生初めてのことで、ずいぶん戸惑った方もいただろうと思います。

ところがここネグロスでは、地震や台風がなくても、これは日常茶飯事。そもそもガスは、タンクに入ったものを買ってくるシステム。停電なんて、平均すると1ヶ月に1回以上の朝から夕方まで10時間ぐらいの計画停電。水道に至っては、正常でも水圧が低く、出かける前の朝シャンタイムには、やたらと出が悪くなったり断水したり。

我が家の場合、あまりの停電頻発に根をあげて、自宅を建ててから1年後にディーゼル式発電機を購入。満タンで24時間は運転できるので、オイルの買い置きさえあれば、大抵の停電は大丈夫。エンジン音はうるさいですが。

そして水。通常なら丸1日以上の使用量の水を貯められるタンクと、電動式コンプレッサーを設置しているので、日本国内と遜色のない水圧と、断水のない生活。

忘れてはならないのが飲料水。フィリピンでは最初から水道水を直接飲んだり、煮炊きに使ったりできないので、20キロぐらい入るポリタンク入れてに、近所の水屋さんから買ってくるのが一般的。いつも「非常時」みたいなものです。我が家では、これを4つ常備してローテーション。

とは言っても、フィリピン移住後の最初の1年は、停電にも断水にも無防備。さらには発電機やコンプレッサーの故障もあるので、充電式の照明やろうそく、貯水用の大型ポリバケツに手桶などの備えは怠りません。特に断水時のトイレ使用は、知らず知らずのうちに、ずいぶん訓練させられました。

大阪の地震の後、ネット上で「トイレの水の流し方」みたいな記事がシェアされ、タンクに水を入れるという間違った情報が拡散したり。それを優越感に浸りながら眺めていた、フィリピン在住の日本人も多かったようです。

「大きめのバケツで一気に流す」のは初心者で、上級者になると、手桶で「大」をきれいに流し切るテクニックを誇ります。さすがに私はそこまでは無理ながら、中ぐらいのバケツなら余裕で後始末可能。

こんな具合に、日本人は恵まれ過ぎてすっかり脆弱になった、と嫌味ったらしく言いたくなるところですが、こういう対処方法で乗り切れるのも、せいぜい1週間程度。幸い、シライではそんな体験はまだないものの、ちょっと規模の大きな災害ならば、何週間とか何ヶ月単位で電気・水道が止まるかも知れない。

震度6弱などという大物だと、おそらくネグロスのライフラインは、壊滅的な打撃を受けることは必至。そうなったらガソリンもディーゼルオイルも、瞬く間に品薄になるでしょうから、その時は本格的なサバイバル生活。あんまり想像したくはないですね。


2018年6月27日水曜日

聖なるフィリピン人の名前


今日はフィリピン人の名前について。
フィリピンの姓には、その民族の歴史そのままに、マレー系、スペイン系、中国系、などがあります。ちゃんとした統計などを見たわけではないけれど、やっぱり圧倒的に多く感じるのがスペイン系。

家内の母方の実家は、シライ市内では名家と言われるオフィレーニャ。アルファベットだと「Hofileña」。n がエニョになっているので、見るからにスペイン語。その他にも親戚や友達の姓を並べてみると、セミラーノ、カブリエート、プダデーラ、モランテ、ロハス...。スペインっぽいのは姓だけで、みんなアジア顔ですけどね。

その次に多いのが、スペイン人が来る前からあるマレー系。家内の父方はパヒランガ「Pahilannga」。親戚にはバトー「Bato」。バトーは「岩」を意味するフィリピノ語。私たちが住んでいる街の名前シライ「Silay」も、地元の花の名前カンシライに由来する土着の言葉。

そして名前、ファーストネームになると、多くはクリスチャン名。聖書の登場人物や、聖人の名前を頂いたもの。

クリスティン(キリスト)、マリア(聖母)、ジョセフ(聖ヨセフ・マリア様の夫)。
イエス・キリストの12人の弟子からは、ピーター(ペトロ)、ジョン(ヨハネ)、アンドレ(アンデレ)、フィリップ(フィリポ)、マヒュー(マタイ)、サイモン(シモン)、ジェイコブ(ヤコブ)など。

その他の、ポール(パウロ)、カトリーナ(カタリナ)、アグネス、ベネディクト、クララ、などは聖人・聖女の名前。

ジョイとかデイジーなんて英語名の人もいますが、大抵はそれだけではなく、カトリック信徒らしい名前と合わせ技。例えばドロシー・フランチェスカみたいな感じ。フランチャスカは、フランシスコの女性形。

私がブログで使っているフランシスコも、聖フランシスコ・ザビエルに因みます。これは今から20年前に、ここネグロス島でスペイン人神父から洗礼を受けた時につけてもらいました。なのでフィリピンでの通り名はフランシス。

当然ながら、元ネタになる名前の数は限られているし、漢字を組み合わせる日本と違って、今までにないユニークな名前を作り出そう、という発想はあまりない。なので、どうしても同名の人がたくさんいることに。

ただ、本名は聖人・聖女からいただいた有難ぁ〜いものでも、日頃それを使うかというと、必ずしもそうでもない。私の知る限り、ほとんどの人はニックネームで呼ばれている。

私もフランシスコなんて、ちゃんと言ってくれなくて「キコ」。(フランシスコ〜シスコ〜シコ〜キコ....ばんざ〜い)本名の短縮形ならまだしも、何の関係もなく、ボンボンだったりノノイだったり。家内の友達で、アーネスティーナがなぜか「レ」になっちゃった人がいます。

家内なんて、歴代のメイドさんの名前を、全部一音節にして呼んでましたね。カトリーナは「カット」で、アミーは「アン」、ネルジーが「ジー」、ジャジャは当然「ジャー」。

せっかくいい名前があるんだから、もう少しちゃんと呼んであげなさいと思いますが、当人はそれで気分を悪くすることもなく、家内のことを「タ〜」(年上女性の敬称ティタの略)と呼び返したりしてました。


2018年6月26日火曜日

いとこ同士も恋愛禁止


もう辞めちゃいましたが、メイドのジャジャの親戚が、意外なところで私の知り合いと繋がっていたという投稿をしました。今日はそれに関連したお話。

兄弟姉妹が3人以上なんてザラで、5人10人と、猿飛佐助の分身の術レベルも珍しくないフィリピン。(意味分からん若い人は、白土三平さん原作のアニメ「サスケ」のテーマソングをYouTubeで探してください)

当然いとこも何十人。最近は親戚付き合いが、昔に比べて希薄になっている日本(特に都市部)と違い、何かと言うと「リ・ユニオン」と称して、親類・縁者が集まる。いとこどころか、又いとこぐらいになっても、頻繁に顔を合わせる機会がある。部外者からすれば、どこまで遠い親戚と付き合うのかと溜息が出るほど。

実は私、父が7人、母が5人もの兄弟姉妹がいるので、父方・母方合わせて、30人以上のいとこがいます。私が中学生ぐらいまでは、冠婚葬祭でよく招集がかかったもの。面白いもので、これだけ近い遺伝子の順列組み合わせがあると、いとこ同士でもそっくりな子が。

私は男ばかり3人兄弟で、母方の祖父母にとっての初孫。時々従妹から「お兄ちゃん」などと呼ばれると、慣れないせいでちょっとドキっとしたり。大人になってから久しぶりに再会した時など、あんまり美人になってたもんで、驚くこともしばしば。

日本ならば、いとこ同士の婚姻は、法的に問題がないので、従妹にクラっときてもインセスト・タブーに触れることにはならない。「いとこ同士は蜜の味」とか「鴨の味」などと、少々生々しい格言もあるぐらい。

ところがフィリピンでは、いとこに恋愛感情を抱くなんて、想像しただけも気持ち悪い、となってしまうらしい。もし性的な関係になってしまったら完璧な近親相姦。法的にもアウトだし、結婚しようにも、まずカトリック教会で挙式を拒絶されてしまいます。

さらには又いとこ(親がいとこ同士)でも婚姻は避けるのが普通。家内によると、そういう例もなくはないけれど、結婚式はせずに、ひっそり暮らすものなんだそうな。

聞くところによると、韓国は近親だけなく、同姓同本不婚、つまり同じ出身地(本貫)の同姓だと、親戚関係がなくても結婚ができないという厳しさ。さらに日本に比べると、姓の数が少なく、ほとんどの人が、金・李・朴・崔・鄭の五大姓を名乗っているので、好きになっても夫婦になれないケースが、さぞ多いだろうと思われます。

2005年に同姓同本の婚姻は、民法の改正で合法となったそうですが、李氏朝鮮の時代から続く慣習なので、いまでもタブー視される傾向が強いとのこと。

韓国ほどではないにしても、日本に比べるとインセスト・タブーの範囲が広いフィリピン。しかもやたら親戚が多いとなると、知らない間に恋愛関係になってしまう悲劇も、結構あるんじゃないでしょうか。


2018年6月25日月曜日

無理ならさっさと辞めなさい


先日の、新しく雇った19歳のメイドさんが、たったの四日で、家族が恋しいと辞めてしまったお話。いろんな方から「残念だ」「がんばれ」などの反響をいただきました。フィリピン在住の人に、同様の経験談も聞かせてもらったり。

ただ一つだけ引っかかったのが、「覚悟が足りない」という意見。別段深い意味があったのではなく、思ったことをそのまま書いただけでしょう。でも考えてみると、さらっとこんな言葉が出てくる辺り、日本とフィリピンの間にある、埋めがたい労働に対する考え方の差を感じてしまいました。

まず、今回のメイドさんの給料。日本の感覚だと驚くべき安さの、月3500ペソ(約8000円)。我が家の住み込みならば、個室があって、お湯のシャワーもトイレも使えるし、食費・光熱費無料。でもその条件を考慮しても、決して高い金額ではありません。下手すると、コンビニのバイトの方が実入りがいいかも知れないほど(通常半年で解雇ですが)。

これは私が特別にケチなわけではなく、ここネグロス島での相場。料理の腕がいい、看護の資格がある、などのアドバンテージがなければ、この程度。そんな安月給の仕事に就くからと、「覚悟 Preparedness」なんて重たい言葉を持ち出したら、当のメイドさんが驚いてしまいそう。

どうも日本人は、一度始めた仕事は、辛くても我慢して続けるものだと考える人が圧倒的に多い。「石の上にも三年」って、今でも時々聞く言葉。しかし、私が知る限り、フィリピンでもその他の国でも、同じ場所で長く働き続けたからと言って、それだけで賞賛されることはない。

転職してステップアップするのは当たり前だし、考えていた職場と違うと感じたらすぐに退職。反対に、仕事が自分に合っていなかったり、人間関係が悪いのに、我慢して頑張るなんて、ちょっと頭がおかしいと思われるかも。

確かに雇う側にすれば、せめて半年やそこらは働いてほしかったと思う反面、嫌な仕事を無理してまで続けてもらう気はありません。特に住み込みメイドの場合、朝から晩まで同じ家にいるので、機嫌よく挨拶のひとつもしてくれなければ、こっちが負担に感じてしまいます。

最近、日本から来てくれた学生さんが、私に就職活動のことを話してくれることが何度かありました。そんな時の私のアドバイス。会社なんて結局入ってみないと、良し悪しや合う合わないは分からない。なので、無理だと思ったら、さっさと辞めた方がいい。

仕事の本質は、自分の生活を成り立たせるための収入源。仕事のために精神を病んだり、家族を犠牲にするなんて、本末転倒もいいところ。そもそも私が就職した30年前とは、状況はまったく変わっている。インターネットとそれなりのアイデアさえあれば、いくらでも起業できる時代。

なのに相変わらず、大学の新卒でなければ採用しない、恐ろしく旧態依然とした雇用システムを墨守する会社のなんと多いことか。雇われる方も、一旦「正社員」になったら、どんなに理不尽な業務でも、過労死のリスクを抱えてでもしがみつく。何なんでしょうね、このメンタリティは。

そう考えれば、やってみたけど思ったほど良い仕事でもなかったから、四日で辞めちゃった、というフィリピン人の方が、ずっと合理的に見えてくる。

この背景には、正規雇用してしまうと簡単には辞めさせられないという、日本の特殊事情があります。何年も働くことが当然としているので、それこそ生涯の伴侶を選ぶみたいな大事になりがち。

本当は、ちょっと付き合う彼氏、彼女を探す程度の軽いノリでいいはずなんですよ。一緒に住んでみてダメなら、すぐに別れた方がお互いのためというもの。出会った時から「結婚を前提に」なんて言われたら、これはちょっと重すぎる。

フィリピンのように、昇給させたくないからと、半年でクビにされては堪りませんが、もう少し、解雇も再就職も楽にできる法律なり制度を考えた方が、現実に即しているんじゃないかと思いますね。



2018年6月24日日曜日

危ない首都圏、マニラと東京



出典:CBCP News

このところ、マニラ首都圏在住邦人の友達や知り合いから、連日のように豪雨とそれに伴う洪水の情報が入ってきます。5月までが40度超えの猛暑だったのに、6月に入った途端のこの有様。熱帯フィリピンの気候はそういうもの、と言ってしまえばそれで終わりですが、ちょっと今年は極端過ぎる気がします。

もうマニラ近辺での洪水は、あまりにも頻繁で今更語るのも憚れるほど。とは言え、住んでる人にとっては堪ったものではないでしょう。下水からも悪臭を放つ河川からも、ゴミや汚物もろともの出水。外出中に突然の豪雨・洪水に遭ってしまって、膝や腰まで汚水まみれになったりしたらと、想像するだけで恐ろしい。

排水設備の不備や、大量に投棄されるレジ袋が水の流れを止めることなど、いろんな原因はあるけれど、それ以上にもうマニラ首都圏自体が、都市機能の限界に来ているんじゃないでしょうか。

6月7日付の時事ドットコムニュースが伝えたところによると、イギリスのロイズ保険組合が、紛争や自然災害、金融市場の暴落などによって損失が生じるリスクが、世界で最も大きい都市の1位が東京、そして2位ニューヨークに続いて、3位にマニラという調査結果を発表しました。

東京とマニラの場合は、やはり自然災害が最大の脅威だということなんでしょうね。ちなみに少し前の2013年には、スイスの保険会社スイス・リーが、自然災害リスクの高い都市ランキングで、東京・横浜を1位、マニラを2位としています。

言われなくても、常識で考えれば、地震・台風・津波、すべての可能性が高い場所に、人口1000万以上とか2000万の都市があること自体、かなり危ない話。

このマニラ首都圏限界説は、何も外国人の私が言い出したことではなく、ずっと昔からフィリピン国内の識者の間では問題視されてきたこと。そして、ドゥテルテ大統領が、自分の任期中最大の懸案事項として掲げている連邦制導入こそが、マニラ一極集中解消の切り札。

連邦制が実現できれば、私はすぐに大統領職を辞してもよい、というほどの気合の入り方を見れば、いかにこの問題が差し迫っているかが分かります。渋滞による経済損失もすごいですからね。

本当にここ何年か、私たちが移住した5年ぐらいは、急に自然災害が増えたフィリピン。スーパー台風ヨランダに、ボホール地震、マヨン山の噴火などなど。さらにマニラ付近で大規模な地震でも起こったら、好調な経済成長も何も、吹っ飛んでしまいかねない。

ただでさえ貧弱なフィリピンの建築物。先日大阪北部を襲った最大震度6弱程度でも、日本での被害レベルとは比べものにならない惨状を呈することは、想像に難くありません。ドゥテルテさんが、焦る気持ちも分かります。

翻って日本はと言うと、もう30年以上も議論されている、遷都も道州制も、まったく進展なし。その間、阪神淡路や東日本の大震災を経験しているのに、具体的なことは1ミリも動き出す気配がない。

私たち家族が日本を離れて、敢えてマニラ首都圏ではなく、ここネグロスに移り住んだ理由もご理解いただけるでしょう。

マニラ同様、雨季に入った6月のネグロス。
朝は晴れていても、午後から夜間にかけて、それこそ天の底が抜けたような豪雨。一時的に道路が冠水することもあるけれど、マニラに比べれば大したことはないし、それほどの頻度でもない。

そろそろ日本、特に東京脱出を真面目に検討してもいい時期だし、もしフィリピンに移住しようとお考えならば、事情が許す限り、マニラは避けた方がいいと思いますよ。ネグロスが最適とまでは言いませんが、地方の州都近郊が狙い目。フィリピンこそ、これからは地方の時代だと思います。


2018年6月23日土曜日

愛国心をプレゼンテーション



出典:MindaNation

愛国心、フィリピノ語でパグカマバヤン(Pagkamabayan)、英語ならばパトリオティズム(Patoriotism)。昔、ハリソン・フォード主演の映画で「パトリオット・ゲーム」というのがありましたね。パトリオットとは愛国者の意味。ミサイルにもパトリオットと名付けるアメリカ人は、すごい感覚の持ち主。

現代日本では何を書いても、左右両方から文句を言われそうな、この可燃性の高い言葉。太平洋戦争中は、愛国心の名の下にたくさんの若者が死地に追いやられ、戦後は、この言葉を使っただけで、前後の文脈と無関係に軍国主義者の烙印を押されかねない。

息子が通う、ネグロス島シライ市内の小学校、聖テレシタ学園で、小学校6年生向けの課題として出されたのが「愛国心についてのプレゼンテーション」。金曜日にお題をもらって、土日の間に準備。週明けの月曜日に、先生やクラスメートの前で発表するそうです。

日本の小学生に同じ内容の課題を出したら、それこそ右からも左からも、総攻撃を受けることでしょう。実際、ここ最近は、愛国心を教育するべきか否かの議論が、あちこちで聞こえてきます。しかし、私が感じる限り、フィリピンで愛国心を語るのは、それほど政治的でもなければ、過激なことでもない。

ご存知の通りフィリピンは、まだ一つの国としてまとまってもいない、16世紀後半からの300年以上に渡ってスペインの植民地となり、19世紀末にやっとフィリピン共和国としての独立を果たしたと思ったら、すぐにアメリカ、日本によって立て続けに占領されました。

つまりフィリピンでの愛国心とは、他国の侵略や、自国民を死に追いやる道具として使われたことはなく、支配者への抵抗と同義の言葉。今でも、対テロリスト戦争の犠牲になった兵士たちを悼むために、愛国心という言葉を使うのは当然で、誰もその言葉尻に引っかかったりはしません。

「お国に命を捧げる」みたいな、極端な状況は別にして、ここで言う愛国心とは、もっと自然な感情に根ざすこと。誰しも自分の生まれた街や地域には、愛着があるもの。日頃はそれほどではなくても、隣街や他の地域の者から、故郷のことを悪し様に言われれば、ムキになって反論するでしょう。少なくとも嬉しいとは思わないはず。

我が街や村、日本ならば生まれ育った都道府県を愛するのは、そんなに不思議なことではありません。私だって、塚口大好きだし、尼っ子(尼崎出身者)と呼ばれて嫌な気はしない。フィリピン移住後でも同じ兵庫県の人と会えば、それだけで意気投合し、関西人としての誇りは人一倍持っている。以前に投稿した、阪急電車の話にしても、やっぱりこれは一種の郷土愛に他なりません。

ただし、私にとっては顔を思い浮かべることのできる人とか、街並みや山河など、具体的な対象抜きで、抽象的な愛国心などは持つことは無理。象徴としての国旗・国歌には敬意を払うし、人間である天皇陛下の人柄に親しみを覚えても、色も形もない「国家」には、忠誠心などカケラも感じない。

この辺りが、一般のフィリピン人の感じる愛国心とは、微妙に色合いの異なる部分。想像するに、シライ市民が自らをシライノン(シライっ子)と自認し、ネグロス島出身者ネグレンセであることに誇りを持つことの延長で、フィリピン共和国と国家そのものに、愛着を感じるのかも知れない。分けて考えることは難しそう。

さて、日本・フィリピンの両方にルーツを持つ息子の場合は、どうなのでしょう。日本で生まれて小学校1年生までは完全に日本。見た目もハーフっぽくないし、言葉が早かったので、移住する頃には中学生ぐらいの漢字の読み書きができてました。今でも、私が読んでいる日本語の小説やノンフィクションはスラスラ読みこなしてます。

つまり、母語としての日本語は、息子の頭の中ではほぼ完成しているし、日本に住んだ記憶もちゃんとある。いじめられたり差別された経験もない。自分は日本人だというアイデンティティが確立しているのは間違いないでしょう。

その一方、今では母の国フィリピンに住み、フィリピノ語はまだ怪しいけれど、英語はネイティブ並み。こちらでも差別はなく、もう人生の半分はネグロス暮らし。もちろんフィリピン国籍も保有してます。

ということで、息子が「愛国心」をテーマに、一体どんな内容のプレゼンするのか、親の身としては大変気になるところ。母親に促されて、英語で原稿を書いているようですが、完成したら発表前に読んでおきたいところです。


2018年6月22日金曜日

たった四日で辞めちゃった

フィリピン経験があまりない人には、ネタで書いてるのかと思われそう。やっと見つかった新任メイドのジャジャが、今日辞めてしまいました。月曜日の昼前に来て、金曜日の昼過ぎまでの、たった四日間。我が家のメイドの最短就労期間の記録です。

誤解のなきよう、念のために書いておきますが、虐待もセクハラもしてませんよ。それどころか、仕事を与えすぎて疲れないか、反対に暇になって退屈しないか、この四日間、それはそれは気を遣ったんですから。実のお父さんでも、ここまでは心配しないんじゃないかと言うぐらい。

やっぱり高校卒業して、山の中の実家から出てきて、いきなり住み込みはキツかったんでしょうね。こういうケース、フィリピンではよくある話。ジャジャの場合は、ちゃんと自分から「家族に会えず寂しいから、もう辞めます」と意思表示して出ていったので、まだマシかも知れません。

前任二人のアミーとネルジーは、休暇を取って帰ったっきり。ネルジーは一応戻らないとメールして来たけれど、アミーなんて梨の礫。一応フィリピンの成人年齢は過ぎてるんだから、もう少しやり方もあるでしょうに。

家内の逆鱗に触れて解雇された、最初のカトリーナを除くと、これで3人連続でホームシックが原因の辞職。26歳のネルジーですらそうなので、フィリピン人って、どんだけ家族を恋しがる国民なんだろう。

そんな人たちが、家族を置いて大挙して海外に出稼ぎに出てると思えば、これは相当な難行苦行とも言えます。

それはともかく、ちゃんと1日の業務計画を考えていたのが、いきなり出て行っちゃたので、段取り総崩れ。終わらせるつもりだったことが、ほとんど明日以降に繰り越し。ジャジャが四日間を過ごしたゲストルームには、安コロンの香りだけが残りました。キツい匂いなので、抜け切るまではかなりの日数がかかりそう。

さて、またまた元の黙阿弥で1ヶ月前の状況に逆戻り。ジャジャを紹介してくれたジュンジュン君には、もう一度お願いしたし、その他の友人・知人にもメッセージ送信。もう若い方がいいとか、できれば美人なんて、罰当たりなことは言いませんから、ちゃんと居ついて仕事してくれる人を切に希望します。



2018年6月21日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 阪急マルーンのドレス

私がフィリピン人の家内と一緒になってから、合計14年間を過ごした茨木市を含む、大阪府の北部を襲った最大震度6弱の地震から、今日で3日が経過しました。23年前の阪神淡路大震災の時と同様、災害直後からJR、私鉄各社、大阪モノレールの各鉄道網はストップ。

私は、多くの関西出身者がそうであるように、阪急電車に強い愛着を感じる者の一人。阪神淡路大震災では、私の実家からの通勤の足、阪急神戸線が半年に渡って不通となりました。

駅が乗降客で賑わう風景が失われるなんて、子供の頃から一度もなかったこと。線路上を走る電車の騒音が聴こえないだけで、あんなに不安感を煽るとは想像もしませんでした。それだけに、半年後に全線復旧した時の嬉しさは格別。

今回の地震では、その日のうちに阪急京都線を始め、ほとんどの鉄道が運転を再開。ところが、茨木市在住時の最寄である南茨木駅が、駅舎のダメージが大きく、乗降不可の通過駅となってしまいました。

大阪万博の頃に新設された南茨木駅。すでに築50年近くになるんですね。確かに私が住んでいた頃には、もうだいぶ古びた感じ。ネットに掲載された、ボロボロになった駅舎の写真を見ると、胸が痛みます。

ところが翌日、驚いたことに徹夜の作業によって駅が再開。まだエレベーターやエスカレーターは使えないものの、駅としての機能は取り戻したそうです。さすが日本というか、私としては、さすが阪急電車と声を大にして叫びたい。

というわけで、今日のフィリピン美女図鑑は、いつもとは趣を変えて、以前描いた阪急電車をバックに、婉然と微笑む美しきフィリピーナ。はるか南の島から、渾身の阪急愛を込めて、被災地の人々にエールを贈る気持ちで描きました。

ベースとなったイラストは、大好きな阪急電車が、私の故郷、兵庫県尼崎市内の塚口駅から、ここフィリピン・ネグロス島のシライ市まで、3000キロ延伸したという妄想を絵にしたもの。夢の国際特急が、シライ市駅に到着したシーンです。


美女のドレスは「マルーン」と呼ばれる、阪急電車のボディカラーとお揃い。落ち着いた雰囲気の阪急だけに、あんまり若すぎない「お姉さま」をイメージしました。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年6月20日水曜日

血縁社会フィリピン


1ヶ月以上のメイド不在期間を置いて、やっと我が家に来てくれた新任のジャジャ。嬉しくて早速ブログに投稿したら、いろんな人から反響をいただきました。

その中でも驚いたのが、友達付き合いをさせてもらっている日本人女性が「私の彼氏の親戚です」と教えてくれたこと。前回書いた通り、ジャジャを紹介してくれた、日本のNGOスタッフのジュンジュン君も、日本人女性と交際中。それとはまた別の人。つまりジャジャは、私の友達二人と恋人経由でつながりがあったということになります。

さらにジュンジュンの親戚で、プロテスタント教会の牧師さんをしているロジャーという人が、以前から私の家内の知り合い。こちらは、2年前に家内が勤めていたNGOの活動で、研修の名目で日本へ。その際、パスポートやビザの手配で家内がずいぶんと世話をしました。

我が家にも何度か来て、私もよく知っています。牧師さんには見えなくて、気のいい農家のオッちゃんという感じ。ジュンジュンと初めて会った時には、ロジャーの親戚かと驚きました。そんな関係なので、ロジャーとジャジャも親戚。

フィリピンでもマニラなどの大都会なら、滅多にないことでしょうけど、田舎のネグロスで、しかも山間部や漁村だとよくある話。兄弟姉妹が5人とか10人がザラだし、固まって住むもんだから、一つの集落に知り合いができると、芋づる式に、ぞろぞろ「友達の親戚」が現れる。

こうして見ると、フィリピンの地方は、本当に地縁・血縁で何重にも人同士が結ばれてるんだと実感します。シライで、メイドを仲介するエージェントがないのも、おそらくそれが理由。見も知らない他人からの紹介より、親戚を頼った方が早いし信頼性も高い。

さらに、子供のゴッドペアレンツ(カトリックでの名付け親)、成人式のスポンサー(後見人)、結婚式のウィットネス(立会い人)などなど、親戚や友達の子供や若者を後援する制度が盛り沢山で、繋がりを強化。

これは私の推測ですが、300年以上も外国の支配下で搾取に苦しんできたフィリピンの人々が、自分たちを守るために、血縁で団結した名残りなのかも知れません。それが今でも、貧困や災害など、いざという時の互助機能として働く。

最近では互助というより相互依存みたいになってしまって、身内に成功者が出ると、寄ってたかって金を無心することも多いようです。こうなると負の遺産。フィリピン人と結婚した人の中には、心当たりのある方もおられるでしょう。

というわけで、こんなに親戚だらけの土地で暮らすのですから、ただでさえ目立つ日本人としては、日頃の行いや発言に相当気を遣います。下手すると、いつどこで足をすくわれるか分かったものではない。

見方を変えると、人に親切にしておけば、すぐにその評判が自分に戻って来る。今回ジャジャがメイドとして我が家に来てくれたのも、結果的には地元の人との付き合いを大事にしたから、とも言えますね。


2018年6月19日火曜日

四代目メイドは19歳


先代のメイド、ネルジーが突然離職して1ヶ月が経過して、四代目となる待望の新人さんが、昨日ようやく就任。やって来たのは、この3月に高校を卒業したばかりで19歳のジャジャ嬢。本名は、デイジー・メイ・ペンドン・ソンブリアなのに、なぜか渾名がジャジャ。本人に由来を訊いても、よく分からない。

生まれ育ちは、ここネグロス島のシライ市内。と言っても市街地から車で小一時間はかかる、山間部のランタワン地区。最近でこそ道路が舗装整備されて、ずいぶんと往来が楽になりましたが、ジャジャが幼い頃は、相当不便な場所だったそうです。

紹介してくれたのは、我が家の近所に活動拠点を持つ、日本の某NGOの現地スタッフ、ジュンジュン君。以前ガールフレンドとツーショットの似顔絵イラストを描いたことがあって、このブログの「美女図鑑シリーズ」で投稿しました。

なかなかの男前で、温厚だし時間もきちんと守るジュンジュン。ネルジーを紹介してくれたティンティン同様、なぜか私の周囲には、フィリピン人離れした生真面目な性格の人が集まります。実に有難いこと。

ジャジャは彼の従姉の娘。日本ではあんまり使わない言葉ながら、ジュンジュンの従姪(読みは「じゅうてつ」)になります。ちなみに男の子なら従甥(じゅうせい)。こんな呼び方知りませんでした。

それはともかく、ジュンジュンがいいと思って連れて来るぐらいだから、真面目な子なんだろうと思ってた通り、いかにも「田舎育ちの娘さん」で純朴そのものな感じ。私の頭の中では、谷山浩子さんが歌う「カントリーガール」が無限ループ。よく日に焼けた顔つきは、ちょっと子供っぽ過ぎて、すぐホームシックで帰っちゃうんじゃないかと、心配になるぐらい。


全然仕事の経験がないわけでもなく、最近急に開発が進んだランタワンにできた、観光客向けのカフェで、バイトのウェイトレスとして働いてたそうです。人件費を抑えるために、すぐ解雇は日常茶飯事のフィリピン。あえなく失業して職探し中に、我が家からの誘いがあったという次第。

気がかりだった家内の反応も悪くないようで、お昼前の面接で即決。早速お昼を一緒に食べて、後片付けに掃除はお任せというスピード雇用。ジャジャも、ちゃんと着替えやらの荷物はバックパックに詰めて持参だったので、ネグロスではそういうものなんでしょうね。そう言えばネルジーも、その前のアミーも、面接に来たその日から住み込み開始でした。

肝心の仕事振りはと言うと、そこはやっぱりまだ素人。6年も他家でメイド経験を積んできたネルジーとは比べるのは可哀想。ただ、包丁の使い方は手馴れていて、昨夜の麻婆茄子の調理では、まぁまぁのアシスタント。料理に興味もあるようだし、これはちゃんと教えたら上達するかも。

ということで、今後どれだけの期間、我が家で働いてくれるかは、まだまだ未知数ながら、できればネルジーの勤続2年3ヶ月の記録は更新してほしいものです。


2018年6月18日月曜日

ネグロスからの安否確認



自然災害の多さでは、世界でも屈指のフィリピンと日本。2013年4月の移住以来、日本にいる親兄弟や友人たちと、お互いの安否確認が必要な事態が何度かありました。

まずは移住最初の年、私たちの住むネグロス島を含むビサヤ諸島を相次いで襲った、ボホール地震とスーパー台風ヨランダ。特にヨランダの時には、数日におよぶ停電のためにネットも電話も不通になって、たくさんの人たちにずいぶん心配をかけてしまいました。

そして、こっちが心配する方に回った中では最大の災害が、今日2018年6月18日の大阪府北部の地震。震源地の高槻市は、まさに6年前まで家族で住んでいた茨木の隣。友達がたくさん住んでいるその場所が、震度6弱の強い揺れに見舞われました。

実家のある兵庫県尼崎市も5弱。82歳の父と81歳の母がいます。フェイスブック経由の連絡で慌ててテレビのチャンネルを合わせたNHKワールド。高槻、茨木、枚方といった北摂各地の懐かしい風景を、英語の解説で、こんな形で見ることになろうとは。本当に胸が締め付けられる思い。

一般の電話はおそらく回線がパンク状態だろうと思って、フェイスブック・メッセンジャーで電話した弟の携帯には繋がらず、もちろん実家も不通。最初に声が聴けたのは、LINE経由での、茨木在住のタイ人の友達でした。

その後、フェイスブックにもツィッターにも、続々と友人・知人の無事を知らせる投稿が続き、どうやら尼崎市内の揺れは強かったけれど、それほどひどい状況でもないことが分かってきました。その後、実家の母とも電話で話すことができて、弟からもテキストで返信。

残念ながら死者が出てしまい、怪我人も多いものの、23年前の阪神淡路大震災の時に比べると、全体としての被害規模はかなり小さかった模様。

日頃、日本とフィリピンは、感覚的・時間的・金銭的にもずいぶん近くなった、いい時代になったと浮かれた投稿をしていても、いざこういう大災害が起こると、その距離感は一挙に昔へ引き戻されてしまいます。

時差がたった1時間しかないフィリピンでもこの焦燥感だったので、アメリカやヨーロッパに住んでいる友人にすれば、その遠さは、歯噛みするほどの苛立ちを伴うことだったでしょう。海外移住で背負うことになるリスクには、こういう精神的な負荷もあるんだと、久しぶりに思い知らされてしまいました。


2018年6月17日日曜日

コンドミニアムには手が出せない

フィリピンと言えばコンドミニアム、とイメージされる人も多いでしょう。英語の Condominium は、日本で言うマンションのこと。そもそもマンション Mansion は共同住宅ではなく「豪邸」の意。フィリピン人に「私は日本でマンションに住んでます」なんて言ったら、正真正銘の大金持ちだと勘違いされること間違いなし。

そういえば、ここネグロス島のシライ市内では、市によって保存されている旧富豪宅を「ザ・マンション」と名付けて、カフェ・レストランを営業してます。確かにすごい家ですね。

そのコンドミニアム。マニラやセブでは、もうずいぶん前から建設ラッシュが続いてます。私のように、フィリピン国籍を持たない外国人は、国内の土地所有は許されませんが、コンドミニアムなら購入可。ひょっとすると、これを読んでいる方にも、オーナーさんがいるかも知れません。

私もフィリピン移住を検討していた頃には、別荘代わりに買っておこうかと、チラっと思ったことも。隣街のバコロドでも遅まきながら、エラい勢いで何棟ものコンドミニアムが建設中。物件によっては、日本の何十分の一ぐらいの価格なので、夢のような話でもありません。


ここは本当にネグロスか?
出典:Shoppers Guide

ただ、実際に住んでいる人の話を聞くと、いろいろ問題があるらしい。何といっても作りが日本ほどキチンとしていない。タイルが少し曲がってる、ぐらいならいいけれど、とにかく水回りのトラブルが多発。大雨が続くと壁から雨水が浸みてきて、そこから漏電したり。エアコンからの水漏れもよく聞きます。

だいたい、こんなに雨の多い国なのに、コンドミニアムに限らず、住宅の防水は杜撰な工事が後を絶たない。我が家の建築中にも、スチール瓦の購入先に紹介された屋根職人が大外れ。屋根ができた翌月には盛大に雨漏りして、ちょっとした騒ぎになりました。

幸い、まだコンクリート打ちが終わってすぐの時期。内装も何もなかったので、損害はなし。瓦メーカーのセールスマンを呼びつけて、無料で別の職人に補修を頼むことができました。

そういうスカタンな工事を間近に見ているだけに、何か不具合があった時に、自分一人では手の施しようがない集合住宅は、とても購入しようという気が起こりません。実際、聞くところによると、新築すぐのものより、数年人が住んでダメ出しも修理も終わった物件の方が無難で価値が上がるケースも。

私のように、向こう何十年も住もうとなると、状況はさらに暗澹たるもの。補修費用の積立など聞いたことがないので、建物が老朽化したり、台風や地震の被害を受けたりしたら、どうするつもりなんでしょう。それでなくても劣化の速いフィリピンの建築物。想像するだけで怖くなります。

投資対象としても、かなり難しいようで、ざっとネットで調べてみても、あからさまな誇大広告を別にすれば、大損したとか後悔してるという話が多い。

実のところ私は、フィリピンだけではなく、大枚叩いて日本でマンションを購入するというのも、厳しいんじゃないかと思っているぐらい。まず平均的な世帯収入に対して、価格が高すぎる。

フィリピン同様かそれ以上に自然災害の多い日本で、支払いが終わるまで何十年もかかるローンを組むのはリスクが大き過ぎ。1995年の阪神淡路大震災の後には、二重ローンの悲劇をいくつも耳にしました。日本での持ち家は到底無理と考えたことが、私のフィリピン移住の理由の一つでもあります。

ということで、今からフィリピン移住を考えておられる同士諸氏には、賃貸ならまだしも、いくら言葉巧みに誘われても、コンドミニアムの購入には慎重になっていただきたい。特に現物を確認せずに支払ってしまうなんて、金をドブに捨てるようなもの。

フィリピン人配偶者名義で土地を購入して、家を建てるほうがまだリスクは小さいでしょう。もちろん夫/妻が信頼できる人だというのが大前提。間違えても、知り合って間もなく入籍した、若いフィリピン女性の言いなりになって...というのだけは止めておいた方がいいですよ。


2018年6月16日土曜日

クリスチャンでも死ぬのは怖い


今日は、当たり前と言えば当たり前のことながら、クリスチャンの私もやっぱり死ぬのは怖いというお話。

そもそも宗教の始まりは、死への恐怖を克服するため、あるいは、誤魔化すためのものだったんじゃないか、というのが私が常々感じているところ。凡そカトリック信徒とは思えない発言ですね。

太古の昔から、人間は死んだらどうなるかを考えなかった人は、物心付く前に亡くなった場合を除けば、まずいなかったでしょう。死ねばすべてが消えるだけ、以上終わり、で思考停止できるのは少数派で、普通の神経の持ち主なら、自分の存在が失われることを突き詰め出すと、恐怖や虚無感で、居ても立っても居られなくなるものだと思います。

そんな時に、死を超越した神が在り、死後も魂は残ると言い切ってくれる「教祖」が現れたら、信じたくなるのも無理はない。もちろんいつの時代も「お前、見たんか?」と突っ込みを入れる疑い深い御仁はいたでしょうが、やっぱり大衆の多くは、神を信じたようです。

さらに自分の死より、年端もいかない我が子を亡くしたりしたら、その子の命が無駄だったと思えないのが人情。神さまの御元で安らかに過ごし、自分があの世にいく時まで待っていてくれると信じれば、どれだけ気持ちが楽になることか。

ところが現代(特に日本)は、そんなシンプルな信仰を持つには難しい時代。宇宙の始まりも、生命の誕生も、自分の体を構成する細胞のことまで、何となく分かったような気になってしまい、少なくとも日常生活で、神さまを介在させないと説明できないことなんて皆無に思える。

(実は、最先端の物理学者や数学者、宇宙飛行士が、神の存在なしに、こんな完璧な世界が創造されるはずがない、と感じるそうです。)

私にしたところで、神の存在やイエス・キリストの復活を信じて洗礼を受けたはずなのに、いざ自分が死んだ後に天国か地獄か、本当に、死後の世界に自分(の魂)が行くのか?と正面切って問われれば、絶対そうだと言い切る自信がありません。我ながら、信仰薄き者ですなぁ。

正直に申し上げて、どうなるかは死んでみないと分からない。なので、やっぱり怖いもんだから、立花隆さんの著書「臨死体験」を始め、その関連書籍を読み漁ったりしております。悟り澄ました信徒のような振りをしても、怖いものは怖い。

そこへ行くと、一般的なフィリピン人の持つカトリック信仰は、ずっと素朴で軽やかに見えます。本人も周囲も、幼児洗礼の信徒が大多数で、幼い頃から刷り込まれているからか、宗教行事への参加は、まったく生活の一部。あまり教養のなさそうな大工さんでも、食事の前のお祈りを頼めば、すらすらと神さまへの感謝の言葉が出てくるお国柄。

生き物として本能的な死への恐怖はあっても、死んだ後のことは、神さまに任せ切っている感じ。たぶん私が何を怖がっているのか、説明してもイマイチ分かってもらえないでしょう。これは心底、羨ましい。

そんな私も、四捨五入すればもう還暦。いくら人生100年になったとは言え、もう若いとは言えない。以前は、この年齢になれば、もう少し性根が座ってジタバタしなくなると想像してたんですけどね。「もう死ぬのは怖くない」と達観したセリフが吐けるまでは、まだ20年ぐらいはかかるんでしょうか?


2018年6月15日金曜日

なぜ悪い方を基準にする?


フィリピンに移住したからと言って、まったく日本に無関心になるわけでもなく、私の頭の中は日本語がメインなので、やっぱり日本語のニュースやら記事をネットで閲覧する毎日。幸せな投稿や、心温まる話はあんまり印象に残らないけれど、引っかかる内容には、しばらく考え込んでしまいます。

このところ気になっているのは、何かと言うと条件の悪い方を基準にしてしまう、日本の変な風潮。例えば、父母のどちらか、あるいは両親がいない子供がかわいそうだからと、母の日や父の日を学校で祝うのを自粛するとか、電話とファックスしか使えない年寄りがいるから、メールやLINEでの連絡は受け付けない...という類のこと。

実は、私が家電製品の開発に従事していた時も、同様なことがありました。有名なところでは携帯電話。ボタンのないケータイなんて使いこなせるのは、よほど先進的な新しい物好きだけで、爺ちゃん婆ちゃんには無理。日本では絶対に主流にはならない。本当に開発現場で多くの人が、そう思ってたんですよ。

結果はみなさんよくご存知の通り。2000年代の中頃には飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが、今では市場から撤退し、オフィス跡地も売却の憂き目。僅かに残ったキー付き携帯も「ガラパゴス」と揶揄される状況。

国際的な競争に晒されるケースでは、遅まきながらも新陳代謝が起こりますが、日本国内に閉じた業界では、絶望的なまでに旧態依然。最近見聞きして唖然としたのは、保育士に義務付けられている日誌記入が手書き必須だという話。紙を使うのも無駄で、こんなものフェイスブックかグーグル・ドキュメントでも使って、スマホからアップするようにすれば、書く方も読む方も楽なのに。

そう言うと必ず現れるのが「できない理由を懇切丁寧に説明」する人たち。表向きは、弱者救済のために古いやり方も必要だとか、まだ早過ぎて受け入れる人が少ないとか、尤もらしいことを言い立てて、実は新しいことにトライするのが億劫なだけ。そのくせ、日本から独創的なアイデアが出ないと、憂国の士を気取る組織責任者の何と多かったことか。

確かに今の日本では、年寄りほどお金を溜め込む傾向があるのは事実。だからと言って、いつまでも一部のシルバー層を守っていれば、国全体がガラパゴス化しますよ。(もうかなりの部分でそうなってますが)

その点フィリピンという国は、出稼ぎ労働が国家財政を支えているだけあって、世界の動きには実に敏感で、早者勝ちや抜け駆けのし放題。スマホやフェイスブックの普及率は言うに及ばす、Grabなどのカーシェアリングも数年前から当たり前。小学校のコンピュータ・サイエンスでは、エクセル・ワード・パワポの使い方を教え、優秀な子供はどんどん飛び級。そもそも子供や若者の人口に占める割合は、日本など遠く及ばない。

もちろん貧困という宿痾は、今なおこの国の重荷だし、取り残されている人が多いのは事実。それでも、まだ習ってない単語を使ったらテストで減点だとか、お弁当を作るのがたいへんな保護者がいるから、運動会を午前中だけに縮小しようなんて、アホなことを言い出す人はいません。

ハンディのある人にも優しい社会を目指すのは大事ですが、なぜ、社会全体をそっちに合わせて不便にしようとなってしまうのか、まったく理解できない。国外から見る最近の日本は、できるだけ多くの人が幸せに、じゃなくて、必要のない人まで不幸せな状況に耐える、壮大な我慢大会をやっているように見えて仕方ありません。


2018年6月14日木曜日

ネグロスおにぎり事情

ご飯を団子状にするだけの食べ物、おにぎり。梅干し入れたり、海苔を巻いたりするけれど、基本は塩味。シンプルな事この上なし。こんな食べ方、米を主食にする国なら、どこだってあるだろうと思いきや、意外と見ないですね。日本食レストランを別にすれば、少なくともフィリピンでは一度もない。

この投稿をするに当たって、例によってウィッキペディアで調べてみたら、おにぎりの歴史は古い。何と、石川県にある弥生時代後期の遺跡から、人の手で握られた痕跡のある炭化した米が見つかったんだそうです。これが「最古のおにぎり」。

海苔を巻くアイデアはぐっと時代が下って、江戸時代は元禄の頃。太平洋戦争中は、兵士の携行食もおにぎりでした。戦国時代ならばともかく、酷暑のフィリピンでも厳寒の中国北部でもおにぎりだったというのは、思慮が足りなさ過ぎですね。酷暑だと傷みも早く、厳寒なら凍る。また炊飯の手間がかかる米食は、どう考えても戦争には不向き。

それはさて置き、なぜ唐突におにぎりの話を始めたかと言いますと、こっちに住んでからもよく握るんですよ。もちろん最初は自分や家族用だったのが、お客さんに出しても喜ばれる。そして今日は、息子の学校で「フード・シェア」という催し物に、おにぎりを用意した次第。

フード・シェアとは、要するに持寄りパーティ。家で作ったものでもいいし、おかず屋さんで買うのもOK。主食・副食・デザート、食べ物をくださった神さまに感謝して、みんなでランチパーティしましょう、という感じ。

ただ残念なことに、ちょうど日本の味付け海苔を使い切ったところ。ネグロスでも韓国産の巻き寿司用のは売ってますが、変に歯ごたえがありすぎて、おにぎりにはイマイチ。一度これを使ったおにぎりをフィリピンの子供に出したら、包み紙と思ったらしく、きれいに剥がしてお召し上がり。

そこで、これまたネグロスで入手可能な、ふりかけを炊き立てご飯にまぶして握りました。冷蔵庫には梅干しもありましたが、さすがにこれは食べられないでしょう。

おにぎりだけでは寂しいので、家内のリクエストで赤いウィンナー。こちらではウィンナーとかソーセージとは言わず、パンに挟まってなくてもホットドックと呼びます。ただ炒めるだけでは芸がないので、端っこを八つに切ってタコ・ウィンナー。


出来上がったおにぎりとウィンナーをタッパーに詰めて、昼前に学校へ配達です。日本だったら朝から持っていかせるところが、こっちは暑いので、通常のお弁当も配達方式。メイドのネルジーはもういないので、自分で自転車漕いでの出前となりました。

後で息子に訊いたら、おにぎりはやっぱり大人気だったそうです。タコ・ウィンナーは誰も意味が分からなかったけれど、元々ホットドック大好きなフィリピンの子供たち。こちらも瞬殺で完食とのこと。良かった良かった。

ちなみにネグロスにも、日本のものに近い食感のジャポニカ米はありますが、最近我が家では、地元産のインディカ米ともち米を2:1の割合で混ぜて炊いています。これなら値段も安く抑えて、おにぎりを作るにも十分な粘り気。

ということで今日は、ネグロス島でのおにぎりの話でした。


2018年6月13日水曜日

メイド不在で家庭不和?


早いもので、メイドのネルジーがいなくなってから、もう1ヶ月経ってしまいました。息子の新学期が始まることもあって、すぐに次のメイド探しの手を打ったけれど、そう簡単には見つからない。

まず私のコネで、友達の教師ティンティンと、週一でマッサージを頼んでいるボラカイ帰りのセラピスト、シェリル。家内は、パタッグとランタワン(シライ市内の山間部にある集落)で、仕事関係の知り合いに、それぞれメイドさんをしてくれそうな人の紹介を依頼。

好景気に沸くフィリピン。ここネグロスも例外ではなく、シライ市内にもショッピングモールができるぐらい。やっぱり社会全体が人手不足なんでしょうね。高校さえ卒業していれば、スーパーのレジ打ちとか、レストランのウェイトレスなど、いくらでも仕事はある。

タチの悪い雇い主だと、満足に食事もできず、扱き使われるかも知れない住み込みメイドなど、あまり割の良くない職種ですからね。改めてネルジーが、どれだけ貴重な人材だったかを実感しております。

と、愚痴ってばかりいても仕方がないので、食事関係と掃除は私、洗濯は休日に家内という具合に分担をして、家事をこなす毎日。それほど厳密に区分けをしているわけでもなく、帰宅時の家内に、食材の買い物を頼んだりもします。これが時々夫婦不和の原因になる。

ちゃんとメモを渡しているのに、安かったからとか、こっちの方がいいとか、微妙に違うものを買って来てくれるんですよ。すっごく甘いトマトソースだったり、大きめの白玉ねぎのはずが、小さくて刻みにくい紫色のものに化けてたり。

もちろん食べられないわけではないし、お願いしている側なので、頭ごなしに怒るわけにもいかず。相手は一応、我が家の稼ぎ頭ですからねぇ。喧嘩にはならないけれど、何とも嫌ぁ〜な雰囲気になってしまうことも。

事ほど左様に、一通りの家事ができる人間が二人いると、料理でも掃除でも、ついついお互いに自分のやり方を押しつけてしまいがち。これがメイドさんだったら、良くも悪くも、言われた通りの事しかしないので、間違えても全責任は自分。その代り変なストレスを溜めることもない。

平等な人間関係がいつも上手く作用するとは、限らないものらしい。う〜ん、家事の分担って難しいですね。完全ワンオペで、家事全部を一人でやれば済む話なんでしょうけど、それも面倒臭いなぁ。(日本の主婦が聞いたら、目を三角にして怒られそう)

早くメイドさんを見つけないと、夫婦間の感情的によろしくないので、先日、たまたま自宅に遊びに来た、別のフィリピン人の友達にも尋ねてみました。すると「私の姪っ子が仕事探している」との返事。

年内には出稼ぎに出る予定で、それまで手が空いてしまっているそうです。できたらずっと働いてくれる人がいいに決まってますが、そんな贅沢も言えないし、繋ぎでもいいからすぐ来てください、となった次第。

そういうわけで、週末には、家内を交えて自宅で面接。住み込みではなく通いになるかも知れない。何より大ボスである家内のお眼鏡に叶わなければ、話は先に進みません。今はちょっとドキドキしながら、この土日を待っているところです。


2018年6月12日火曜日

フィリピン国旗のこと

今日6月12日は、フィリピンの独立記念日。生憎今年は、首都圏では雨模様。それも何日も降り続いて、各地で停電や雨漏りの被害が多発。マニラ在留邦人の方々にはお見舞いを申し上げます。

ここネグロス島シライでは、やや曇りがちながら時々強い日差しあり、早朝から市内の目抜き通りでは車をシャットアウトして、恒例のパレードが開催されました。その様子は以前投稿しましたので、ご興味のある方は読んでみてください。

独立記念ということで、今回はフィリピンの国旗について。
現在使われている国旗の原型は、後に第一共和国の初代大統領となった、エミリオ・アギナルド将軍によって考案されました。1898年5月、独立を賭けたスペインとの戦いで初めて掲げられ、その年の6月12日、独立宣言に際して公式にフィリピン国旗に制定。

白は平等・友愛、青は平和・正義、赤は勇気・愛国心を意味します。フランスの三色旗が俗に言われる、自由・平等・友愛を示すのと似てますね。


そして自由を表す太陽は、現行のものと違って顔が描かれています。これは、フィリピン同様スペインから独立したラテンアメリカ諸国の、アルゼンチン・ペルー・ウルグアイの国旗でも用いられた「5月の太陽」。フィリピン独立を目指して結成された秘密結社、カティブナンのシンボルでもありました。


現行のデザインでは、この太陽と三つの星は、色や形状に変更が加えられていますが、意味合いはオリジナルと同じ。太陽周囲の光条は、最初に蜂起した8つの州(パンパンガ・ブラカン・リサール・カビテ・バタンガス・ラグナ・タルラック・ケソン)。星はルソン・ミンダナオ・パナイの主要な島嶼の象徴。

この光条は、スペイン統治下でも抵抗を続けたモスリムに敬意を表して、9つにする案が検討されているそうです。また現在では、3つ目の星はパナイだけでなく、同島を含むビサヤ諸島全体との解釈が一般的。

フィリピン国旗のユニークな点は、国家が戦争状態に入った時だけ、天地逆に掲揚すること。「平和の青」に替えて「愛国心の赤」を上にします。最近、フィリピン領海内を違法操業していた中国漁船が偽装してフィリピン国旗を掲げていたところ、間違えて「戦時」になっていたため、不審を招いて当局に拿捕されるという事件がありました。

制定から今年で120年を迎えたフィリピン国旗。ずっと国旗の地位を保っていたわけではなく、アメリカとの戦争に敗れ植民地となった1907年〜1919年は、掲揚禁止。その後の日本の占領を経て、国が独立を取り戻したのは1946年になってから。フィリピンの歴史そのものを反映して、紆余曲折があったんですね。

ちなみにこの旗は、広告や、カジノ・ナイトクラブで使ったり、敷物やテーブルクロスとすることが法律で禁じられています。特に外国人である私のような者は、国旗は丁寧に扱わないとヤバいことになりそう。

ということで、もし身近にフィリピン国籍の人がいたら、知識を自慢してみてはどうでしょう。逆に日の丸の来歴を質問されて、答えに窮するかも知れませんけど。


2018年6月11日月曜日

関西人にして完済人


今日は借金のお話。
実は私、今はフィリピン・ネグロス島の片田舎で、悠々自適の生活をしておりますが、30代後半に、ちょっと面倒な借金を抱え込んだ経験があります。

当時は大企業のサラリーマンで、フィリピン人の家内と大阪で賃貸マンション住まい。まだ子供が生まれる前の、比較的気楽だった時代。個人で設計事務所を経営していた父に頼まれて、銀行融資の保証人になりました。

親でも保証人にはなるな、とはよく言ったもので、父は、ビジネスパートナーに金を持ち逃げされ、自己破産。担保に入っていた自宅の土地家屋は、差し押さえのピンチ。たまたま父がお金を借りていた銀行に、私の給与支払い先の口座あって、数百万円あった預金は全部凍結。

父親が事前に何の相談もしてくれなかったので、事が発覚した時には後の祭り。とても手痛い目に遭ってしまいました。

とは言え、タチの悪い消費者金融などではなく、大手都市銀行が相手。中小企業を支援する公的機関が管財人となり、担当者が付いてくれました。その担当者の男性は、ちょうど今の私と同じぐらいの50過ぎぐらいの、たいへん温厚な方。

時あたかも、バブル崩壊後の不況時代。多分、厄介な案件をいっぱい処理してたんでしょうね。お金関係の事務仕事と言うより、まるでカウンセラーみたいな物腰。決して言葉を荒げることもなく、淡々と、しかしながら随分と親身になって、返済方法についての指示をしてくれました。

自宅の方は、弟が引き受けてくれて、私は一千万円の借金対策。ただ幸運なことに、その頃の私は、後から思えばキャリアのピーク。その上、住宅ローンも子供もいない身軽な夫婦二人暮し。収入の半分近くを返済に充てても、まだ余裕があったぐらい。

結局、予定よりかなり早く約2年で完済。担当者が「あなたのように真面目に返済する人は珍しい」とお褒めの(?)言葉を頂戴して、金利分を請求放棄の手続き。これは本当に助かりました。

公的機関の担当者と言うと、融通の利かない冷徹な人物と思われるかも知れませんが、そんなイメージとは全然違う、実に人情味に溢れた対応。相当な裁量権もあったんでしょうね。お陰さまで私は、関西人にして完済人。

あれから約15年。
フィリピンに移住してから、いろんな人が家に来てくれました。よく言われるのが、「引退するのは勿体無い、何かビジネスを始めるつもりはないんですか?」

正直に言って、日式カレーのトロトロ(フィリピンの惣菜屋さん)とか、Tシャツ・看板などのデザイン、あるいはパソコン描画の似顔絵など、特技を活かした起業を考えたことはあります。ただ、年金生活に入るまでの10年間の生活費を、商売の元手につぎ込む度胸はないし、家内名義で銀行から借金なんて、絶対にしたくない。

毎月「返済残高○○○○○円」と記入された催促状が郵便受けに入っているのが、トラウマになってます。家内も同様に感じていたようで「また、金返せメール来たよ〜」と、暗い顔。

やっぱり生半可な金の苦労なんて、するもんじゃないですね。あれ以来、すっかり意気地なしになってしまいました。今ならネット活用のビジネスで、金銭的なリスクは最小限にできるし、クラウド・ファウンディングという手段もあるというのに...。


2018年6月10日日曜日

私的フィリピン美女図鑑 スーパーガール

このところ、立て続けに美女図鑑の更新をしてます。雨季に入って涼しくなったので、昼間でも作業がはかどるからでしょうか。

ところでフィリピン人って、キャラクター物が好きですね。特にアメリカ製の映画やドラマ。日本のアニメ、ドラえもんに、ピカチュウやナルトも人気とは言っても、所詮は単発。ディズニーのプリンセスや、アベンジャーズのヒーローなど、上質のキャラクターを量産し続けるハリウッド資本の威力には敵いません。

子供が学校に持ってくる鞄なんて、ざっと見たところ半分ぐらいがアニメのキャラ付き。最近だとプリンセス・ソフィアとか、アイアンマン辺りが多いようです。男の子の誕生日では、子供に全身着ぐるみでスパイダーマンの格好をさせたり。本人は喜んでいるにしても、フィリピンでそれやったら暑過ぎないか?

女の子なんてもっと派手で、別に誕生日とか関係なくても、王女さまっぽいドレスに、魔法の杖みたいなのを持ってる5歳ぐらいの子供が、お父さんに手を引かれて、ショッピングモールを歩いる。あれは、一種の「私達はお金持ちよ」というデモンストレーションなんでしょうか。

子供だけではありません。二十歳やそこらの若い人だけでなく、どう見ても私と同世代か、ジィちゃん・バァちゃんまで、キャラクター物の帽子やTシャツで決めてたりする。中でも根強い人気を誇るのがスーパーマン。バットマンやスパイダーマンのも見かけますが、やっぱり「S」のロゴはよく目立って視認性抜群。

というわけで、タイトルはスーパーガールなんですけど、ただ単にSマークのTシャツ着用のセクシーなお姉ちゃんを描きたかっただけ。今回は、敢えて有名な女優とかモデルさんでもなく、このシライの街角でも、普通に歩いてそうなフィリピーナをモデルにしてみました。


フィリピン在住だったり、頻繁に渡航される方なら分かると思います。いるでしょ、こういう女の子。もちろんボトムはビキニのパンティじゃなくて、ちゃんとジーパンぐらいは履いているでしょうけど。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年6月9日土曜日

フィリピンに不向きな駐在妻


少し前に投稿した、海外駐在員の帯同家族としてフィリピンに住む、日本人配偶者の就労について。SNSでシェアしたところ、いろんなコメントを頂戴しました。

社員を送り出している会社のリスクを考えれば、配偶者の就労禁止も止むなし。側から見れば楽に見えても、駐在妻は重労働の日々なので、とても就職なんて無理。そもそも就労ビザを取るのがたいへん。とは言え会社も、もう少し柔軟な対応をしてもいいのでは。などなど...。

それぞれ、ご自身の体験や、直接見聞きした話を元にした意見なので、どれも否定しようとは思いません。それよりも気になったのが、海外暮らしなど全然したいと思っていなかったのに、会社の都合や夫の希望で、仕方なくフィリピンに来てしまったという人もいる、というご意見。

当然そういう人だっているはず。むしろ日本人のほとんどは、短期間の海外旅行ならともかく、何年も日本の外で生活したいと思ってはいないでしょう。私にしても、ここネグロス島のシライは、とても性に合っているけれど、例えば、インドや中近東へ行けと言われれば、断固拒否すること間違いなし。

それどころか、同じフィリピン国内でも、マニラやセブですら難しい。あんなに人や車が多い場所には、もうとても住めそうにありません。これはマニラ・セブ在住の日本人を見下しているのではないですよ。単に向き・不向きを言っているだけ。マニラ暮らしを楽しんでいる人からすれば、なんでネグロスのような、不便で刺激のない場所がいいのか分からん、となるかも知れません。

それほど、自分の好みに合致した場所に巡り合うのは、容易ではないのだから、たまたま夫が命じられた赴任先に、すんなり順応できるかどうかは難しい話。実は10年ほど昔、まだ私が日本に居た頃、マニラに住む駐在妻の方とSNSで友達になり、相談相手になったことがあります。

小学生ぐらいの子供さんの育児中だったその方は、残念なことにフィリピンでの生活に向いておられなかった。メイドさんとは折り合いがつかず、日本人会での人間関係に悩み。その上、旦那さまは、あまり奥さんの辛さを実感できていないらしく、「考え過ぎ」「もっと気楽に」と言うばかり。

鬱の経験者である私にすれば、精神的にこれほど追い詰められる環境はないだろう、と心配してたところ、案の定、人に会うことも外出することもできなくなってしまいました。その後、音信が途絶えてしまい、今は一体どうされていることやら。

海外で住む場合、気候・食べ物・言葉や文化の違い、どれが合わなくても苦しいもの。特に清潔感のギャップは致命的になりかねない。私が自宅建設時に重要視したのも、水周りをいかに快適にするか。広くて明るく、窓も十分な大きさで換気も楽に。間違えても床が水浸しになったり、臭気がこもったりしないよう、細心の注意を払ったものです。

日本人との付き合いで頭を痛めるのも嫌なので、日本人会にも入らず。そもそも主夫に徹して、働いていないのが大きい。

また忘れてはならないのが、子供のこと。本人は何とか馴染めても、いつまで経っても、お子さんが学校に慣れなかったり、場合によってはいじめられたり。あるいは、現地に溶け込みすぎて、日本語が怪しくなって心配することもあるでしょう。

私は、元々日本に不適合を起こすような人間で、私も家族も、ネグロス島の生活にすっかり順応しております。そのために周到な準備もしました。なので、このブログでは、つい、海外移住が素晴らしく、人生の特効薬のように書いてしまいます。

でもそれは、私個人がそうだというだけのこと。自分の意思ではなく、諸般の事情でフィリピンに住んではみたものの、どうしても我慢できないというのは、その方の責任でも努力不足でもありません。酒を飲めない私が、毎晩無理やり飲みに連れて行かれているようなもの。そんなことを強要されれば、私だってキレるでしょう。

ということで、配偶者の就労を許可する以前の問題で、家族の帯同というのは、なかなか一筋縄ではいかないようです。


2018年6月8日金曜日

死者の誕生日を祝う夜


こんなタイトルを付けると、ホラーかオカルトと思われそう。フィリピンでは、亡くなった人の誕生日を祝うのは、珍しいことではありません。昨夜は、親戚一同と友人が集い、昨年(2017年)6月1日に亡くなった、家内の叔父の誕生日パーティに出席しました。

愛称ダディ・バートこと、ロベルト・バトーさんは、享年71歳。肝臓癌のため、ネグロス島バコロド市内の病院にて帰天しました。その直後に迎えた72歳の誕生日は、1週間続くお通夜の会場で、身内だけでケーキを用意して行ったとのこと。なんだか、フィリピン人のバースディに寄せる執念を感じてしまいます。

そして昨日、亡くなってから2回目の誕生日は、服喪明けも兼ねて盛大なパーティ。生きている人のお祝いと何も変わらず、中華レストランの2階を借り切って、レッチョン・バボイ(豚の丸焼き)2頭分に、たくさんの料理を準備。未亡人のテレシタ・バトーさんが夫に代わって、バースディケーキに立てたロウソクを吹き消しました。



ちゃんとハッピー・バースディはみんなで合唱するし、陽気な音楽は流れ、涙する人もいません。ただ、さすがに大笑いは少なくて、フィリピン人の集まりにしては、ややしんみりした感じ。

12年前に亡くなった義母の場合、命日だけでなく誕生日にもお墓の前に集まって、ハッピーバースデーを歌ったりしますが、死者のための本格的なパーティに出たのは、私にとっては初めての経験。もちろん、毎年ずっと亡くなった人の誕生日を祝い続けるわけではなく、最初の1年目だけ。

今回は、やや早いとは言っても、故人は孫もいる71歳の老人。悲しみの中にも、順当に送り出したという一抹の安堵感はあります。これが、もし亡くなったのが成人前の子供だったりしたら、いくら1年経っていても、誕生日のパーティなんてつら過ぎる。でも家内に訊いたら、年齢に関係なくお祝いをするんだそうです。一種の「区切り」みたいなものなんでしょうか。

私がフィリピンと関わりを持ってから、かれこれ20年以上で、移住してから5年。もう大抵の習慣や風習は理解したつもりでしたが、遺影を前にして「おめでとう」を言うのは、やっぱり相当な違和感ですね。



2018年6月7日木曜日

楽して暮らして何が悪い


かなり挑発的な、釣りっぽいタイトルを付けてしまった今日の投稿。でも、単なる煽りではなくて、最近私は、本当にそう思っているんですよ。55歳という私の年齢的なものは関係なく、また仕事をしていないからでもない。

ネグロス島で起業した日本の若者と、現地の従業員雇用について話していた時に出てきたキーワードが「だって楽をしたいじゃないですか」。これだけ切り取ると、怠けたいとか、手抜きしたいみたいで、「母に捧げるバラード」の武田鉄矢に「そん時ぁ、死ね」と言われそうですが、そういう意味ではありません。

つまり、優秀な従業員を雇い、現場をできるだけ任せて楽になれば、自分はさらに上の次元にシフトできる。事業のさらなる深化や拡大、多角化などなど。これは、私が勤め人の時代に、直接聞いた経営者の言葉とほぼ重なります。

昇格したい、組織の責任者になりたい、と望むのならば、自分がいかに楽をできるか、部下に任せるかを考えよ。いつまでも自分がすべてを抱え込んで、忙しい振りをするなということ。人に任せるだけでなく、仕事の効率化についても同様。

そんな至極真っ当な意見の人がいる反面、「胃を痛めて、やっと一人前」と無意味な精神論を押し付ける上司がいたのも事実。私の専門だった家電製品デザインで言うと、主力機種のデザインを担当すると、決定までのプロセスが恐ろしく面倒。

デザイン職場の偉いさんだけでなく、企画・技術・営業、そして経営トップまで、気の遠くなるような大小の会議の積み重ね。途中で一回でもリジェクトを食らったら、また一からやり直し。しかも、リジェクトの理由が「ワシはこのデザイン、嫌いや」だったりする。

今思えば、なんて効率の悪い無駄な仕事をしていたことか。どう考えても決定プロセスに致命的な欠陥がある。こんな無限地獄で迷子になっているうちに、ライバルの韓国メーカーは、さっさと新しいアイデアを商品化して、結果的に後追いになる悪循環。近道があるのに、わざわざ歩きにくい荊の道を、傷だらけになって歩かされているようなもの。マゾやなぁ。

もし、仕事の進め方そのものを見直すべきだと提言しても「お前が楽をしたいだけやろ?」と言われたでしょうね。それでも当時は、結構な給料を貰ってたし、今ほど物が売れない時代でもなかったので、あまり深く考えもせずに我慢してました。

時は流れて、フィリピン暮らしの日々。
こっちで生活してよく分かるのは、別に苦労しなくても、少し頭さえ使えば、幸せに生きられるということ。会社勤めが嫌なら、自宅で出来る事を考えればいいし、家事がたいへんならばメイドさんを雇えばいい。(と書くと、メイドに家事を任せるなんて、家族への愛情が足りないと、意味不明なことを言う人もいますが。)

要は、いかに楽に生きられるかを常に考えて、今のやり方、生き方で我慢しない。これは何も私が特別に恵まれていたとか、特殊な才能があったからではありません。自分の生き方なんて、一歩前へ踏み出すほんの少しの勇気があれば、いつだって変えられる。

もちろん、求める生き方を実現するには、準備期間は必要です。前にも書いたように、好きなこと、夢を実現するための努力は、ちっとも苦労とは思わない。むしろ、そのプロセスが楽しくて仕方ありませんでした。もっと早くそれに気づくべきだったと後悔するほど。

これを読んでいる若い方、若い頃の苦労なんて、全然する必要ないですよ。やりたくない事をいくら我慢して頑張っても無駄。それより、やりたい事に打ち込んで楽しんでください。その視点に立つと、今の時代は日本国内に籠ったり、大きな組織に属したりするのは、デメリットの方が大きい。どんどん、外に飛び出しましょう。


2018年6月6日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 ティンカーベルの眷属

とうとうディズニーに手を出してしまった、フィリピン美女図鑑。1923年以来、女の子が憧れる美女や美少女の典型を創り出してきたディズニー。白雪姫から始まって、シンデレラ、眠れる森の美女、アリスにウェンディ(ピーターパン)、ベル(美女と野獣)、人魚姫...。

最近では、白人だけに限らず、ポカホンタス、ムーラン、モアナ、ジャスミン(アラジン)、ティアナ(プリンセスと魔法のキス)など、ネイティブ・アメリカン、アジア、ポリネシア、アラブ、黒人と、ずいぶんヒロインの属性にもバラエティが出てきました。

ならばフィリピーナが、ディズニー映画のキャラクターを演じても、何の不都合もないでしょう。ということで、私の好みで選んだのがティンカーベル。やっぱり持って生まれた天邪鬼な性格のせいか、いきなりアナ姫とかの、ど真ん中にはしたくなかったんですよ。

ピーターパンでお馴染みのネバーランドに住むという、妖精(Pixy)ティンカーベル。妖精は、赤ちゃんが産まれて初めて微笑んだ時に生まれ、「妖精なんていない」と言われると消えてしまうんだそうです。そんなこと口にした覚えはないので、私が赤ん坊の時に生まれた妖精は、もう55歳になってもどこかに隠れているんでしょうか?

いくら長く生きても、外見は年老いたりしないのが妖精。ディズニー映画のティンクも相当な長寿のはずが、見た目はせいぜいティーンエイジャー。それでは美女図鑑に登場してもらうのは若すぎるので、今回のティンク役は、2017年の「世界で最も美しい顔」の第1位に選ばれた女優、ライザ・ソベラノ嬢(Liza Soberano)に扮していただきました。

アメリカ人の父とフィリピン人の母を持つリザ。1998年カリフォルニア生まれなので、まだ今年20歳。10歳の時に家族でマニラに移り住み、13歳でスカウトされて芸能界入り。2014年に主演したテレビのロマンティックコメディ「フォーエバーモア」が大ヒットして、一躍フィリピンの大スター。

最近では、コマーシャル、広告、雑誌の表紙と、至るところで大人気。リザを知らない日本人旅行者でも、空港やショッピングモールなどで、一度は彼女の美貌を見ていると思います。

ということで、描き上げたのは、大人の魅力満載のアジア系の妖精。髪は黒いし、衣装や羽根もかなりアレンジしたので、ティンカーベルそのものではなく、フィリピンに住むその眷属という感じ。


またどこからか「これじゃない」の大合唱が聴こえる...。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年6月5日火曜日

勤労の権利


たいへん唐突ながら、日本国憲法では、以下のように定められています。
すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。(第27条) 
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。(第22条)
つまり、日本国民にとって働くことは、当然の権利・義務であり、どんな職業を選ぶのも、個人の自由だと決まっているわけです。ところが、海外勤務従業員の配偶者が、現地で就労することを禁じている企業は、結構多いらしい。

配偶者と言っても日系企業の場合、従業員は男で、就労禁止の対象となるのがその奥さん、俗に言う「駐妻(駐在員の妻)」となるケースが圧倒的。ネットで調べた限りにおいて、この件に関して、まともに会社へ不満を表明しなくても、やっぱり内心は「なんか変だ」と思っている人もいるようです。

会社側にすれば、家族帯同を海外勤務の条件にして、追加の手当てを支給しているのは、奥さんの全面サポートを期待しているから。それが十分果たせなかったり、不必要なトラブルに巻き込まれたりされては困る、ということなんでしょう。

それも分からなくはないけれど、最初に掲げたように、国民の基本的な権利であり義務だとされるものを禁じるのは、どう考えてもマズい。たとえ勤務地が日本国外であっても、雇用契約は日本の会社と日本人従業員の間で結ばれているのだから、本気で異議申し立ての裁判沙汰になれば、会社側が負けるんじゃないでしょうか。(誰もそこまでしないでしょうけど)

私が新入社員だった1980年代では当たり前のことでも、30年後の現在、こんな古色蒼然とした決まりを墨守しているとは驚きです。

別に、外で働いている方が偉いとか、専業主婦がダメだ、なんてことではありません。その気がなければ、無理に働きに出る必要はない。家事や育児だって立派な労働です。問題は、本人の意思と関わりなく、働くことが禁じられるということ。

フィリピンの場合、日本人が就労するにはそれに応じたステータスのビザが必要で、現地のオフィス勤務となれば、言葉の問題もあるでしょう。しかしネットで調べれば、要求事項はすぐに分かるし、専門能力があれば、いくらでもビジネスのチャンスはある。

もっと言えば、ネットを活用すれば、住んでいる場所なんてまったく無関係。フィリピン在住でも、フィリピン人が顧客でなくて一向に構わない。早い話が、フィリピンで執筆しているこのブログだって、日本人に読んでもらって広告収入を得ているわけです。(僅かな額ですが)

日本で最近やたらと見聞きする「自己責任」という言葉。それが拡大解釈されて、貧困や病気で困っている人たちまで、冷たく切り捨てるような風潮がある反面、本当の意味での自己責任でチャレンジしようとする時に限って過保護な態度。要するに事なかれ主義。

従業員本人の副業を、契約で禁じるのはともかく、違法行為でもない限り、その配偶者が現地で就職しても、会社が口出しすることではないはず。連れ合いが海外勤務だからと、せっかく持っている潜在能力を封印して、駐在期間をキャリアの空白にしてしまうのは、実にもったいないと思いますよ。


2018年6月4日月曜日

エアコン3台 大人買い

一週間ほど前に、エアコン買おうか、という投稿をしました。そこでも書いた通り、直後から本格的な雨季となり、朝は晴れても昼過ぎからは夕立定期便。一番厳しかった午後の暑さがすっかり和らぎ、日によっては夜間、扇風機すら不要な天候に。

それでも日本とは違う熱帯のフィリピン。来年の夏場まで半年以上もエアコン不要、とはならないし、雨季であっても、1日降らなければとても蒸し暑くなったり。家内の「もったいない」攻撃を何とかやり過ごして、ついに買いましたエアコン3台。

私の書斎、子供部屋、そしてゲストルーム。電源は確保してあるし、スペースも大丈夫。先週、隣街バコロドのロビンソンズ(ショッピングモール)内電気店で下見を済ませてあるので、目星を付けておいた機種を買って帰るのみ。

結局選んだのは、中国メーカーではなく、日立製の一体型。見栄を張って高い日本メーカーのものを、と言うなかれ。売り場にならんでいる商品の中で、一番安かったのが日立。中国メーカー製=極安、とは必ずしもならないんですよ。



セパレート型は、一体型の
2〜3倍の価格

他の条件として、オフタイマーは必須。寝入り端は熱帯夜でも、朝方はかなり気温が下がるのはよくあることで、無駄な電気代を使って風邪を引くなんて馬鹿らしい。ところがフィリピンでは、どうやら標準がタイマー無し。冷房を入れるとなると、一日中とか一晩中、なんて使い方をする家庭が多い。こういうところが理解に苦しむ。

機種を決めて、在庫を確認して、家内がイロンゴ語(現地の方言)で値引き交渉の、我が家の大物買いではルーチンワーク。元々がかなり廉価だったせいか、3台まとめて大人買いの効用も薄く、おまけで卓上扇風機を付ける線で交渉がまとまりました。総額閉めて約8万円也。


3台とも梱包を開けてのテスト運転


おまけは、原産国表示も何にもない
謎の扇風機「アシモ」

いくら一体型でも、3台とも自家用車に積むのはたいへんなので、翌日の配達を依頼。一応「午後」と時間指定。そして翌日、驚くことに12時きっかり、自宅前にデリバリーのトラックが。午後と言っても、連絡無しに翌日になったりするのが珍しくないフィリピンでは、僥倖というべき出来事。


ゲストルームに取り敢えず保管

ということで、今は涼しい書斎で、このブログを書いてます...とは残念ながらなっておりません。これから各部屋の壁に3つのバカ穴を開けないと。さすがにDIYでは無理なので、大工さんに頼むことに。実は数日前から別件で連絡済みの大工さんは、雨天を理由になかなか来ない。

やっぱり、電話一本で、その日のうちにすぐ涼しい、となるのは日本だけのようです。そして、まるで意地悪するように、今朝はギラギラの太陽が戻ったネグロス島。また暑くなってしまいました。



2018年6月3日日曜日

ネグロスの隠れ家的レストラン

日曜日の今日は、日本からのお客さんをお連れして、シライ市内で昼食。フィリピン人の家内が、つい最近、友達から教えてもらった、プノン・ギャリーズ・プレイス(Punong Gary's Place)という名前のレストランに行ってきました。

市の中心部から車で約15分ほど北へ。幹線道路のリザール・ストリートから、海側へ入った、対向車とすれ違えないほどの細い砂利道だけが、唯一のアクセス方法。あまり目立たない看板を見逃せば、まず辿り着けないようなロケーション。本当にここで大丈夫かいなと、少し心配になってくるぐらいのタイミングで、ようやく見つけた小さな扉が、レストランへの入り口でした。




扉を開けると、そこは、まったくの別天地。フィリピンというより、バリ島かどこかで大富豪が建てた別荘の庭園という趣。オーナーが建築家で、自ら設計を行い、娘とシェフである娘婿に経営を任せているとのこと。







ウェートレスではなく給仕長という佇まいの、なかなか知的な感じの女性スタッフに導かれてテーブルへ。完全予約制なので、ちゃんと名前を呼んでくれます。レストランに食事をしに来たのではなく、プライベートで、ランチパーティにお呼ばれしたみたい。

かなりの広さがある敷地内は、自由に散策ができて、ウェルカムドリンクを片手に、食事の用意ができるまで、好きな場所でリラックス。幸いにも雨季の中休みのような天候で、薄曇りながらも雨は降らず、暑すぎもせず。




こんな場所がネグロス島のシライにあったんですね。シライ生まれの家内もびっくり。シライっぽくないどころか、フィリピン離れしていると言っても良いぐらい。セブやボラカイなどの有名リゾートでも、これほどの洗練された場所は、ちょっとないんじゃないかと思うほど。

料理も素晴らしい。「多国籍アジア料理」と銘打たれたコースメニューは、味付けも盛り付けも、都会の高級レストランで出されてもおかしくない内容。オーナー直々に訓練したという、3人のコックが中心となって調理。





帰宅してから調べていると、地元の雇用を促進し、貧困を減らそうというオーナーの思いから、材料は専用のオーガニック農場と、裏手にある養殖池から調達されているそうです。しかも既にオープンして3年も経っている。全然知りませんでした。


これだけの雰囲気、料理、サービスだと、さぞやお値段も凄いことだろうと思いきや、一人の料金が700ペソ(約1500円)。1000ペソも出せば、地元のレストランで家族4〜5人がお腹いっぱいになることを思えば、決して安いとは言えないけれど、リーズナブルに過ぎるコストパフォーマンス。

これは病みつきになりそう。お客さんがいなくても、家族だけで時々利用したくなりました。次のタイミングは8月、息子の誕生日辺りでしょうか。早めに予約しておかなくっちゃ。


宿泊設備もあります