2018年3月25日日曜日

枝の主日に思うこと

今年もイースター1週間前の「枝の主日」が巡ってきました。英語では「Palm Sunday」椰子の日曜日。イエス・キリストのエルサレム入城の際、群衆がナツメヤシの枝を手に持って迎えたことが起源。

フィリピンではカトリック信徒が、椰子の葉で作った十字架を自分たちで作ったり、買ったりしたものを教会に持ち寄り、ミサの最初に神父さまから、聖水による祝福を受ける習わし。この十字架は、ミサ後自宅に持ち帰り、翌年まで玄関や祭壇に飾ります。一種の魔除けみたいなものと言えば分りやすいかも。


チャペルで購入した椰子の十字架 50ペソ(約100円)


この日からが「Holy Week」聖週間の始まりです。お祭り好きのフィリピン人も、例外的にこの1週間は、歌舞音曲を自粛。ここシライでも、夜な夜な週末になるとどこかから必ず聴こえる、野外ディスコやカラオケ大会の騒音も、お休みとなります。

さらにはFMからの音楽番組も取りやめるほどの徹底ぶり。移住最初の聖週間の時は、いつも聴いている、80年代のアメリカポップス専用局が突然静かになったので、カーオーディオが壊れたのかと思いました。

例年、フィリピンでは夏の始まりに当たるこの時期。今まで晴れた日ばかりで、暑い印象しかないけれど、今年は珍しく朝から曇天で時折小雨。枝の主日のミサは、聖書朗読と、それに続く枝への祝福が、屋外で行われます。土砂降りになったりしないかと、ちょっと心配でしたが、何とか天気は持ちこたえて、ミサが終わる頃には薄日が。


枝の主日に関してはこれぐらいで、実は今日の本題はここから。
このブログは、カトリックの宗教行事の解説が主目的ではありません。ただ、カトリック信徒が人口の8割を超えるフィリピン。その生活や文化には、カトリックの影響が色濃く反映されています。なのでフィリピンでの生活を描写するには、宗教に関しても自然と書く事に。もちろん、私自身が信徒だというのも大きな理由。

かと言って、宣教や勧誘をする気もなく、キリスト教には無縁の人に分かりやすく、敢えて表面的な行事に関してのみ記述。ところが、それをまったく理解せず、鋭利な刃物で切り込むようなコメントをする、ガチガチの信徒さんがいるんですよ。

例えば、少し前に投稿した「偶像崇拝」の話。私が洗礼を受ける前に、不思議で仕方なかったことを素直に書いたら「文化面からしか見ていない。第二バチカン公会議のことに触れないから、心に響かない」みたいなコメント。

いや、普通の人には、そっちの方が心に響きませんよ。というか、何のことやらさっぱり分からんでしょう。もちろん私は「第二バチカン公会議」で話し合われた議題のアウトラインぐらいは知ってます。でも、このブログでそれを持ち出すと、それだけで、相当な文章量を費やしての説明が必要。しかも、興味を持つ人がごく限られてしまう。

私が日本の教会に通っていた頃にもいました。神父さまでもないのに、何かというと、「典礼にふさわしくない」とか「第二バチカン公会議の精神を忘れてる」とか言い出して、周囲を凍りつかせてしまう人が。こういう気難しい爺さんのお陰で、どれほど若い信徒さんが、教会離れするか、考えたこともないんでしょうね。

ということで、今後もこのブログでは、時々カトリック関係の投稿をしていくと思いますが、意図的に、信仰についての深い話は書きません。それを書けるほど敬虔な信徒でもないし、そういう話を聞きたければ、こんなブログは相手にせず、修道院か神学校へ行っていただきたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿