2018年3月8日木曜日

偶像崇拝

カトリックについての素直な疑問。
信徒さんでなくても、旧約聖書に出てくる「十戒」は知っている方も多いでしょう。これは、奴隷となっていたユダヤ民族を率いたモーゼが、エジプトから脱出した後、シナイ山上で、神から授かった石板に書かれていた10の戒めのこと。

ハリウッドで2度映画化されていて、1956年(昭和31年)版では、名優チャールトン・ヘストンがモーセを、エジプトのファラオをユル・ブリンナーが演じました。


映画「十戒」より

ちなみに、この十戒。ユダヤ教の聖典である旧約聖書に記されているので、当然ながらユダヤでは極めて重要な戒律。さらにユダヤ教を母体とするイスラムも同様です。

1. 主が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと
3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと
9. 隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の財産を貪ってはいけないこと

5番以下は、現代の法律でも禁じられていたり、常識として守るべき内容なので、キリスト教の信仰の有無に関係なく、なるほどと思われる。ここで引っかかるのが、2番の偶像崇拝の禁止。それなら、カトリック教会に安置されている、十字架上のキリストや聖母マリア、その他の聖人に聖書の場面と登場人物描いたものは、どう理解すればいいのか?

カトリック大国フィリピンでも、キリストの彫像は大切にされていて、先日このブログでも紹介した、ブラック・ナザレサント・ニーニョなどの祝祭では、像を乗せた山車が町中を行進し、それを一目見ようと何千、何万という信徒が沿道を埋め尽くします。

旧約の教えを守り、偶像崇拝を厳しく禁じるユダヤやイスラムの信徒からすると、ありえない光景なのかも知れません。

ところがこれは、カトリックの公式な見解では、偶像崇拝には当たりません。像そのものを信仰の対象にしているのではなく、キリストや聖母マリア、聖人たちの記憶をたどるための方便。この解釈は2000年がかりで強固な理論武装が施されて、神学的に疑問の余地はないとされています。

ただ、信徒でなければ、こじ付けの感が免れないのが正直なところ。カトリックの洗礼を受けたとは言え、全然信仰の足りぬ私など、部外者に説明して納得してもらう自信がありません。

実は、冒頭に掲げた十戒は、プロテスタントの諸派や正教会が採用しているもの。カトリック版は少し違うんですよ。

1. 私の他に神があってはならない
2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
3. 主の日を心に留め、これを聖とせよ
4. あなたの父母を敬え
5. 殺してはならない
6. 姦淫してはならない
7. 盗んではならない
8. 隣人に関して偽証してはならない
9. 隣人の妻を欲してはならない
10. 隣人の財産を欲してはならない

口語訳されているのは別としても、偶像崇拝の部分がなく、隣人の妻についての記述が別項目になっています。もちろんカトリックとして、偶像崇拝を認めているのではないけれど、なかなか微妙な違い方。

だからと言って、フィリピンのカトリック信徒や神父さまに、議論を吹っかけるような真似をしてはいけません。神学をちゃんと学んだ人なら、理路整然と反論してくるでしょうが、むしろ危険なのは、素朴な信仰心を持っている人たち。

生まれてすぐに洗礼を受けて、家族、親戚、友達がみんなカトリックという環境で育った人にすれば、信仰は理屈ではない。マリアさまの像に向かって手を合わせることを非難されたりしたら、一発や二発、殴られても文句は言えない。私だってキレるかも知れない。

まさかそんなことをする人がいるのか?と思いますが、ブラック・ナザレの記事へのコメントに、「フィリピン人は偶像崇拝するからバカだ。イエスさまも悲しんでおられる」という意味のことを書き込んだ日本人がいたんですよ。

宗教音痴もここまで来ると自殺行為ですね。


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