2017年12月30日土曜日

2017年 10大ニュース


とうとう今年2017年も、残すところ後一日。移住後5回目の年末で、4回目の10大ニュースの投稿です。昨日からの雨模様でずいぶん涼しくなっても、寒さとは無縁のネグロス島。6年目を迎えても、全然「師走」という感じがしません。

さて、昨年2016年に続いて、ドゥテルテ大統領の動向に、フィリピン国内だけでなく、日本からも注目が集まった1年。私もずいぶん投稿しました。

足掛け3年、免許の更新
戒厳令の悪夢
拳銃痴漢
人権侵害
やっぱりやめたネグロス・リージョン
マニラの地下鉄
前日に決まる休日
両陛下、ドゥテルテ大統領と会見
金払えフィリピン航空
ジプニー廃止計画
フィリピン共和国「連邦」

これ全部が、ドゥテルテさんがやった事や、原因を作った事をネタに書いたもの。ほとんど月イチですね。彼の大統領当選以降、フィリピンの政治・経済・社会については、彼抜きには語れないことばかり。これが我が家ではなく、フィリピンの10大ニュースだったら、断トツのナンバーワン間違いなしです。

それ以外で印象に残っていると言うと、相変わらずの台風被害の多さ。特にクリスマス前にビサヤ地方とミンダナオを相次いで襲った、26号台風ウルドゥーハと27号ヴィンタ(Urduja / Vinta)。ヴィンタは、12月30日現在でも行方不明者の捜索が続いているそうで、死者・行方不明者合わせて500名近い大惨事となってしまいました。

家庭での特筆事項は、家内の仕事がずいぶん忙しくなったこと。日本のNGOで働いていた頃には日本出張が2回。今の勤め先はフィリピン教育省なので、さすがに海外はないけれど、セブやボホール、隣島パナイなど、数日から1週間もの宿泊出張が多い。専業主夫の私は大忙しです。

それでは、我が家の2017年10大ニュースです。


第10位 「メンテナンスの季節」



キレるLED
4年目のタイヤ交換
水道周り総点検
発電機は精神安定剤

今年は、車のタイヤと発電機のバッテリーを交換しました。それはまぁ順当なところとしても、フィリピンの建材や電気部品は、本当に寿命が短くて困る。10年以上大丈夫なはずのLEDが1年保たないし、水道の蛇口やシャワーなど、びっくりするような壊れ方をしてくれます。この国ではメンテナンスにも、ずいぶんお金がかかると思い知った1年でした。


第9位 「PV急増 ネグロス島 永住日記」



プロのライター
執筆のすすめ
初めての広告料

これはたいへん嬉しく、ありがたいお話。以前は一つの記事に100PV(ページビュー)もあれば多い方。大抵は50〜80止まりでした。ところが今年の初め頃から、急激にPVが増加。最近では500越えは珍しくなくなり、連続して1000PVの投稿も。お陰さまで、グーグルから生まれて初めての広告料を頂くことができました。


第8位 「人気の日本批判」


英語ができないから諦める?
残業は業務命令
脱・日本並み
暴言
なぜ今、銃剣道?
群れる日本人
命より大事な仕事なんかない
宗教音痴の日本人
民度って言うな
disる日本人
日本語訳は英語教育を殺す
駐在妻というレッテル
日本グルメは生きづらい
アレルギー大国ニッポン
それはセクハラやで

次は喜ぶべきかどうか少々微妙。日本や日本人について批判的なことを書くと、必ずPV数がど〜んと伸びる。PVが増えるのはいいのですが、私にしてみれば、移住前の日本暮らしへの愚痴というか、仕返しみたいなもので、書きながら内心忸怩たる思いがあります。でも、それがよく読まれているということは、私がつらかったり、腹立たしかった思いに、共感される人が多いんでしょうね。


第7位 「ネグロス観光」



3泊4日の西ネグロス観光
安全なシライ市内観光ラカウォン再び
フィリピンの温泉静寂のダンフガン島
ツアーガイドはマーメイド
奇跡のタブレット
シライのカフェ巡り

このところすっかり出不精になり、引きこもりと言ってもいいぐらい。それでもせっかくネグロス島に住んでいるのだからと、今年は例年にも増して、あちこち出歩きました。マニラ在住の日本人ご家族とご一緒したり、十数年ぶりにシカゴから一時帰国した、家内の親戚につきあったり。近場のカフェ巡りをしたり。観光地資源が豊富なネグロス島を満喫しました。ダンフガン島は、また行きたい場所です。


第6位 「今年も一時帰国」



介護移住に向けて
父子二人旅出国審査2時間待ち
海外送金騒動記人相の悪い日本人

昨年3年ぶりの一時帰国で、しばらくは帰るつもりがなかった日本。でも、家族会議やら何やらで、5月に再度の帰国。息子の夏休み(フィリピンでは4〜5月)を利用して、今回は息子と二人旅となりました。移住前に想像したほど、日本や日本食への飢餓感はないけれど、やっぱり生まれ育った場所は良いもの。息子は、大好きな天下一品のラーメンを、二回も食べられて、たいへん幸せだったようです。


第5位 「ダディの死」



故郷の土に還る旅
死者との距離感別離と再会
死後の世界も金次第 
千の風になって in フィリピン

6月1日、シカゴから帰国していた、家内の叔父 ”ダディ” ことロベルト・バトーが肝臓癌のために帰天しました。享年74歳。すでに末期だと知っていたダディ。アメリカで治療を続けるより、動けるうちに故郷のネグロスに帰りたいとの強い希望で、子供や孫たちと連れ立っての一時帰国を果たした直後でした。全世界に労働者を送り出している、出稼ぎ大国フィリピン。その現実の、切ない一面を垣間見た出来事でした。合掌。


第4位 「リノベーション三連発」



そろそろリノベ?
シャワールーム・リノベ大作戦
2階ベランダのリノベーション
ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その1
ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その2
ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その3

第10位にも関連するトピック。自宅完成後4年目に入り、メイド・イン・フィリピンの宿命か、あちこち不具合が出てきました。中でも水漏り対策は、こちらでのライフワークになりそうな気配。シャワールームを改造したり、ベランダの屋根に天井板と照明器具を追加したりと、リノベ関連の出費が多かったこの1年。ところが、その苦労が報いられたかのように、同じネグロス在住の日本人の方から、リノベプラン作成のお仕事を頂くことができました。


第3位 「ゴマとチャコ美」




裏庭の三角関係
仔犬のゴマ
仔犬 vs 仔猫
犬と猫
家猫のチャコ美
ひよこは犬の餌食

タイミングを合わせたわけではないのに、縁あって今年から犬と猫の一頭づつの飼い主となってしまいました。移住後2年目に飼い始めた、仔犬も仔猫も死なせてしまい、もうペットとは縁が切れたと思っていたのに、何が起こるか分からないもの。犬がゴマで猫がチャコ美。二頭とも元気で、しばらくは毎日の餌やりが欠かせません。


第2位 「フィリピン美女図鑑」




王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス
フィリピーナ in キモノ
マニラ・ガール
スーパーの警備員
タクロバンの薔薇
ジュリア・バレット
オフィレニア5人姉妹
ホワイトレディ
メイン・メンドーサ
スーパーの警備員 再び
日比カップル
谷間ガールズ
コスプレ・フィリピーナ
スタートレック・ビューティーズ
プールサイド・フィリピーナ
トライシクル・ガール

7月に突如思い立って描き始めた美女イラスト。実は移住直後から似顔絵を描いておりました。家族や親戚の誕生日や結婚祝いで時々描いては、額に入れてプレゼント。これが結構評判が良くて、ブログでも紹介できないかと考えたのが発端です。

美術系大学を卒業した私。このブログもプロのグラフィックデザイナーや、本物のアーティストの友人が読んでいるので、最初は気恥ずかしさがありました。でもやってみると、楽しみにしているとのお言葉を多数いただき、半年経ってもまだ続いているという次第です。まだまだ来年も続けますよ。


第1位 「ネグロス島の若き日本人たち」


日本女性のフィリピン恋愛事情
お金で苦労しない男女交際もしも就活するならば
爽やか、ネグロス在住日本女子
5年前の自分へ 早期退職5周年

やっぱり実生活で、インパクトが大きかったのがこれ。今年も最後の四半期に入ってから続いて5人、20代男女の日本人と知り合いになりました。全員がネグロス島での英語留学経験者で、それがきっかけとなってフィリピン人の恋人を出会ったり、ネグロスでビジネスを始めたりした人たち。

以前もNGO活動で、我が家に来てくれた若者はいましたが、この島に根を張ろうという人は初めて。中でも我が家と同じサブディビジョン(宅地)内で、日本人向け英語学校を経営する男女お二人は、実に前向きでアグレッシブ。私からすれば息子・娘のような年齢ながら、たいへん頼もしく、できることなら末長いおつきあいを、させてもらいたいと思っています。



それでは、本年も当ブログ「ネグロス島 永住日記」を読んでいただき、ありがとうござまいました。来年も引き続きご愛読のほど、よろしくお願いいたします。どちら様も、良い新年をお迎えください。


2017年12月29日金曜日

5年前の自分へ 早期退職5周年


最近フェイスブックでは、同じ日付の過去投稿を表示する機能が向上し、去年、一昨年、何年前...昔アップした写真や文章をチェックするのが日課のようになっています。

5年前の昨日(12/28)は、私が28年勤めた会社を早期退職した日。転勤先の福岡市内のオフィスで、社章とIDカードを正門の守衛さんに返却し、「ご苦労さまでした」と見送りの言葉をいただいたことを書いていました。ついこの間のような、まるで何十年も前のことのような...。

思えばこの5年間、フィリピン・ネグロス島に移住し、新居を建設、フィリピン人の、そして日本人の友達も増えました。子供の頃を別にすれば、おそらく人生での新しい経験濃度が最高値を記録したであろう日々。50代での5年なんて、生活に大きな変化がなければ、ぶっ飛ぶような速さに感じるはずが、遠い昔のようにも思えるのは、当然かも知れません。

今日は、そんな5年前の自分に手紙を書くつもりで、フィリピン暮らしで考えていたよりも良かったこと、予想より厳しかったことをまとめてみようと思います。

厳しかったこと


やはり生活費は思ったよりかなり厳しい。この5年間だけを見ても、成長著しいフィリピン経済。人件費はそれほどでもないけれど、食材・耐久消費財は確実に高くなっています。自宅建設の際には、設計段階に比べるとコストが高騰し、施工直前、規模を約半分に縮小しました。(それでもできた家は、家族3人には十分な広さなので、最初の計画がデカすぎたとも言えます。)

ただし、移住計画そのものを見直すほどでもなく、ネグロス島内ならば、よほどの贅沢をしない限りは、生活費は月額6〜7万円程度。10万円を超えるようなことは滅多にありません。しかし、銀行預金の利息は、ちょっと少なすぎ。これも日本に比べればはるかに高いのですが、1980年代以前のような、元金が大きければ利息だけで暮らせるなんて時代は、夢のまた夢。

もう一つ厳しいのは、医療関連。風邪ひいたり、ちょっとした怪我ぐらいなら、医療保険を使うまでもなく、格安に診察を受けられるし、ジェネリック専門の薬局もあって、大した出費にはなりません。

ところが入院が必要な状態だと事情は一変。移住後数ヶ月で食中毒にやられて、病院に2泊。生まれて初めて点滴された時は、かなりつらかった。病状のつらさは仕方ないにしても、大きな総合病院で高額な個室なのに、冷房は調節できず寒いぐらいだし、シャワーには給湯設備はないのが当たり前。トイレは壊れて床は水浸し。日本の病院に比べると骨董品のような医療機器が現役。

救いは家内が、家族全員をカバーできるフィルヘルス(フィリピンの健康保険)に加入していたので、支払いが半額で済んだこと。それにしても入院時にデポジット(前金)をキャッシュで払えないと、救急車で搬送された急患でも門前払いだと知った時には、ちょっとショックでした。

フィリピン移住を考えている方のために、少し書き添えておきます。食中毒や感染症のリスクはあっても、生活習慣病については、あまり心配してません。日々のストレスは少ないし、運動も適度にしている。寒い冬もない。酒もタバコも嗜まない。日本在住時に悩まされた鬱病も完治しました。しかも花粉症がない。

良かったこと


一番なのは、予想以上にインターネット環境がまともだったこと。光ケーブル敷設はまだまだ先のネグロス島でも、重たい動画見るとか、大量のデータ送受信をしなければ、ほとんどストレスは感じません。ネットでビジネスとなると、わりと頻繁にある通信障害は少々痛いでしょうけど、リタイヤした私には、あまり深刻な問題でもない。

SNSやこのブログも普通に使えるし、新譜の日本の音楽はiTunes、新刊の日本語書籍はKindleといった具合に、海外移住したことを忘れてしまうぐらい快適。さらには、日本だと厳重なプロテクトがあって閲覧不可能な、YouTubeに違法アップロードされた丸々1本の映画も見ることができてしまいます。「君の名は。」など、フィリピンの若い人が公開間もない時期に、妙に内容をよく知ってると思ったら、そういう事情でした。

もうひとつ、完全に予想外だったのが、日本人の友達が増えたこと。それも私と同世代か歳上のオジさんばかりではなく、若い人たち。しかも若い女性が多い(!)。これは、つい先日も投稿したように、西ネグロスの州都バコロドに、最近多くの英語学校ができて、日本からも長期・短期の若い留学生が来られているからです。

そして、このブログの効用もあって、先方からメッセージやメールを頂けるという、望外の幸せ。もう息子や娘と言ってもいい年頃の人たちが、シライの自宅にまで来てくれるなんて、移住前は想像すらできませんでした。日本語も喋れるし、日本にいた時よりもリラックスできるほど。


ということで、もし本当に5年前の自分に手紙を書けるなら、面倒なこともあるけど、思ったよりずいぶん居心地がいいよ、と教えてあげたい。何より家族みんな元気で、家内は就職して家計を助けてくれてるし、子供は現地の学校に馴染んで、もうすぐ中学生。5年前この移住を決断した自分に、感謝とエールを贈りたい気分です。


2017年12月28日木曜日

ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その3


前回前々回に続き、ネグロスでのリノベーション業務の最終回です。

私が紹介した大工さんや電気屋さんによって始まった、ネグロス在住日本人宅のリノベ。クライアントさんのお話によると、以前仕事を依頼した電気屋がずいぶん酷かったらしい。本来ならば硬い樹脂製のパイプを使うべき、土中のケーブル敷設。これを天井裏などのに使う、ネズミ対策の柔らかいカバーで覆っただけで埋めたりしたそうです。

どうやら電気工事ライセンスのない、便利屋に毛の生えた程度の業者。心配になって配線を掘り返したら、やっぱり漏水して相当危険な状態でした。フィリピンで火災が多発するのは、おそらくこうした安かろう悪かろうの、雑な素人工事が原因だと思われます。

私はこちらの電気工事というと、今回紹介したサルディーの手になるものしか知らないので、それがフィリピンでも当たり前だと思ってました。ところがクライアントさん、まず工具が全部自前というだけで感心。ケーブルを樹脂バンドできちんとまとめるとか、必要な部材をリストアップして説明するとか、感心を通り越して感動の域にまで達したようです。つまり、それをできない人の方が、この国では多数派なんですね。

そんな感じで概ね工事は順調に推移。唯一つまずいたのがソーラーパネル給湯器。お湯のシャワーすら一般家庭ではそう多くないフィリピン。ましてやバスタブにお湯を張って入浴する習慣が皆無で、ホテル以外の施工数はかなり少ない。そういう事情で、普通の水道屋さんや電気屋さんではなく、給湯器を購入した建材店紹介のインストーラーに、クライアントが直接依頼。

運の悪いことに、このインストーラーが典型的な悪質業者でした。子供が病気だとかパーティだとか、果ては悪霊が取り付いたなどの言い訳で、仕事を滞らせる。それだけでなく、作業は進んでないのに、工賃の先払い要求。フィリピン人の大工さんでも呆れ返るほど。

私に比べるとずっと忍耐強いクライアントさんも、とうとう堪忍袋の緒が切れて、給湯器の購入元に直談判。責任逃れされると思いきや、意外にも誠実な対応で、無料で別のインストーラーを紹介してもらえました。やっぱり以前の業者は、札付きの評判の悪い男だったそうです。そんな奴を最初から紹介するなよ。

こういう経緯で、給湯器は無事設置完了。さっそくその日、久しぶりのお風呂ですと連絡が来ました。よかったよかった。ところが収まらないのは悪質インストーラー。奥さまの携帯に脅迫紛いのメールを送りつけてきました。突然ご夫婦でお昼時に我が家に来られたので、驚いて事情を聞くと、押しかけられると困るので、宅地の警備員にチップを渡してブロックを頼み、念のためしばらく避難してきたとのこと。

日本ではちょっと想像しにくいですが、こういう話はフィリピンでは時々聞きます。日本人が被害者になる殺人事件は、些細なことから逆恨みを買ってしまったことが原因の場合も少なくありません。後で聞くと、案の定やってきて宅地のゲートで警備員に止められていました。お一人ならまだしも、奥さまもおられるので、賢明な措置だったと思います。

ということで、来年(2018年)の1月中には完成見込みのリノベーション。状況が落ち着いたら、私たち家族も、お風呂を使わせていただこうと楽しみしております。


ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その2


今日も、ネグロス在住日本人宅のリノベをお手伝いしたお話。前回の続きです。

それほど高額ではないけれど、報酬を頂いてリノベーション・プランを考えるお仕事。現場で実測したり、家を建てた時の図面を見ながらの作業。クライアントさんとお話しながらイメージを膨らませて、パソコンに向かうときには、だいたいのアイデアが頭の中でできています。それを取り出すだけ...なんですが、これがそう簡単でもない。

実際の寸法の中に当てはめると、狭すぎたり、動線の辻褄が合わなかったり。これは家電製品のデザインでも同様で、手描きのラフ・スケッチでは上手くできそうでも、機構部品を収めて実寸の三面図に起こすと、「あれぇ〜?」なんてことは日常茶飯事。

それでも数日で、3案のアイデアを捻り出しました。松・竹・梅、費用の観点から選択できるようバリエーションを三つ用意。奥さまがフィリピンの方なので、図面への注釈は日英併記。Idea Pine(松)、Bamboo(竹)、Plum(梅)と各案にタイトル。内容はともかく、タイトルだけは、奥さまには何のこっちゃさっぱり分からんかったでしょうね。

話を伺っていた時には、できるだけ出費は抑えたいというニュアンス。でも、図面になったものを見ると、やっぱり快適なものが欲しくなるのは人情。結局「松案」で行こうとなりました。

松案のポイントは、台所の外側にあるダーティ・キッチン(日本の土間のような空間で、魚などを焼く時に、煙や臭気が室内に入らないよう作られた、半分室外のような炊事場)を、完全に室内化。そのスペースをうまく使って、奥さま念願の対面式カウンターを設える。

そして旦那さまご要望の日本式浴室は、庭に張り出す形で設置されたトイレを潰して、大きな窓のついた浴室を作るというもの。フィリピンの一般家庭では、まずお目にかかれない、ソーラーパネル式の給湯システムも導入。

それ以外では、ダイニングの隣にある小さなベッドルームとの壁を取り払う。壁の代わりにアコーディオンカーテンで仕切り。こうすることで、前述のカウンターと相まって、キッチン〜ダイニングがとても広く使えるようになり、風通しも改善するという狙い。

図面をご覧いただいて最初のお言葉が「お願いして、よかった」。これは嬉しかったですね。昔、デザイナーをやってた時は、最初にケチがついて何回もやり直したりすると、だいたいできた商品の仕上がりもイマイチ。やっぱり筋のいい仕事は、初めから関係者に気に入ってもらえるようです。

ということで、松案ベースにさらにご要望を盛り込み、少し手直しした図面を最終納品。しかしフィリピンの場合、ここからが本番。今回の仕事は、図面と大工さんの紹介がワンセットです。4年前に苦労して自宅を新築した時の人脈が生かされたという次第。

つい数ヶ月前にも、我が家の2階ベランダの工事を済ませたばかりの、大工のアントニオと、電気工事担当のサルディ。この二人は私の知るなかでも一番腕もよく、何よりお金や時間に関して信頼できる人材。フィリピンでこのレベルの人を見つけるのは、本当に至難。

それ以外の、家具職人や塗装工も、日頃アントニオ、サルディと一緒に仕事をしている人で固めることになり、我が家の新築工事のスタッフ再集結みたいな感じに。11月から工事が始まり、バスタブも無事購入。これでハッピーエンドかと思われた矢先、意外なところからトラブルが発生してしまいました。

一体何があったのか...。次回の完結編に続きます。




2017年12月25日月曜日

ビフォー・アフター、ネグロスでリノベ その1


ひょっとして私には、建築家の才能があったのでは? と言うのはもちろん冗談。このブログを読んでいる友達の中には、本職の建築関係者もいるので、本気で書いたらまさに噴飯物。何を勘違いしとんのやと、お叱りを受けそうです。

ただ、かつての私の専門だった家電製品のデザインは、頭の中でイメージしたアイデアを、スケッチや図面で具体化して、最終的には現実の形あるものに落とし込む作業。スケール感が全然違うとはいえ、仕事のプロセス自体は似通った部分も多い。

数ヶ月前、ネグロス島在住のある日本人の方に頼まれて、ご自宅のリノベーションプランを作りました。なぜそんな身の程知らずなことを?

この方、もうかなり前からリノベを計画されていて、すでに現地の建築・施工業者に図面まで描いてもらっていたそうです。ところが今ひとつ内容が気に入らないのと、ネグロスならば、普通に新築一軒を建てられるほど高額の費用見積もり。コストダウンの案を頼んだら、さらに高くなったりして、すっかりその業者への不信感が募っていました。

考えた挙句に、4年前に完成した我が家を参考にしたいということになり、間取りの一部や内装デザインを、私が自分でやったという話から、今回のお手伝いに発展したいう次第。自宅ができてからも、2階ベランダの屋根を追加したり、浴室を改造したりで、素人なりに経験を積んだので、何とかなるでしょうと有償で引き受けました。

とは言っても、建築士の免状があるわけでもなく、構造計算など当然無理。なので、柱や梁の位置を変更するような大規模なリノベではなく、せいぜい壁の一部を剥がしたり追加したり、窓や扉の増減で済む範囲で、アイデアを作成。

最大のご要望は、日本式の湯船に浸かれる風呂場の新設と、台所を広く快適にしたいとのこと。現状では、かなり狭いシャワールーム兼トイレ(フィリピンでは「CR」 Comfort Roomと呼びます)がなぜか3箇所。マスターベッドルームは、そこそこの広さだけど、狭いベッドルームが2つ。日本の感覚で見れば、余裕の総床面積なのに、無意味に小割りの、実にもったいない間取り。

こういうレイアウトは、こちらではよく見ます。フィリピンではベッドルームとCRの数が、一種のステータス。転売する時には、この数が多いほど値段も上がる。平均して子沢山で、3世代同居、親戚が一緒に住むことも珍しくないこの国では、分かる気がします。しかも、この家は、もともとサブディビジョン(住宅地)のオーナーが、宣伝用に建てたモデルハウス。

新築で設計・施工からに比べたら、おそらく格安だったんでしょう。しかし、今お住まいなのは夫婦お二人。小割りで設えたサブ寝室二つがデッドスペースの物置状態。そして必要以上に壁で区切られているため、風通しが悪い。周囲はそれほど建て込んでいるわけでもなく、海も近い。晴れた日に外に出れば、気持ちのいい風が吹き抜けているのに、これまた実にもったいない。

ということで、使い慣れたイラスト専用のパソコンアプリで、用途違いの建築平面図を描き起こすところから仕事を始めました。これも自分の家の間取りを考える時に、散々使った手法なので、私としては手馴れたもの。そして最初のアイデア提示。こればかりは、デザイナー時代から変わらない、ちょっと緊張する瞬間です。

さて、その結果は...。次回に続きます。


2017年12月22日金曜日

爽やか、ネグロス在住日本女子


少し前に、フィリピン人男性と恋愛中の日本人女性について投稿。だからというわけでもないのでしょうけど、立て続けにネグロス関係の日本人女性お二人と友達に。最初はカフェでお話しして、日を改めて我が家にお招き。それぞれのパートナー同伴の、ちょっとしたパーティになりました。

二人とも二十代で、一人はネグロス暮らし。もう一人は日本でバイトして渡航費を稼ぎながら、年に数回のネグロス通い。なぜフィリピンの中でも、決して観光地として有名でもないネグロス島?と思われる読者諸氏もおられるでしょう。

最近ではかなり知られているように、ネグロスは安く英語が学べる英語留学のメッカ。最初は韓国系の企業が目をつけて、現地の英語教師を雇って宿泊セットの英語学校を続々と開設。その後、多くの日本人も英語の勉強でネグロスへ。今では西ネグロスの州都バコロドのショッピングモールや飲食店に行くと、かなり頻繁に英語留学の学生と思われる、日韓の若者を見かけるようになりました。

恋愛が目的ではなくても、言葉を学びに若い人が来れば、地元の人と交流するし、ロマンスの花が咲くこともあるでしょう。新たな日本の友人は、そんな流れでネグロスと縁ができた人たち。

同じように、フィリピン人と恋に落ちたケースでも、中年以上の日本人男性の場合、暗い過去を背負っていたり、変に悲壮感のある人が散見されます。日本にいる妻子を捨ててきたとか、フィリピンの家族を養うために苦労をしているとかいう話。かく言う私も、きっちり離婚歴のあるバツイチ日本人。

そこへ行くと、若い人たちは、初恋とまでは言わないけれど、話していて疲れるような、重たい男女の話題になることはありません。また、相手を経済的に面倒をみる義務感もない。真剣に付き合いながら、思い詰めず、対等の関係を築いている。

女性であっても、相手の稼ぎを当てにせず、自分の生活は自分で維持するのが当然という態度。私からすると、実に軽やかで爽やかに見えます。まぁこれは、現代の若い日本人ならば普通の感覚なのかも知れませんね。

そもそも日本から飛び出すこと自体、それほどの重大事でもない。マニラ・セブと違い、直行便のないネグロスでも、朝のフライトで日本を立てば、暗くなる前に空港に着けるし、時期をずらせば、国内旅行と変わらない費用で済ますことも可能。悲壮感を持てという方が不自然。

もちろん、彼女らがお気楽で、何の悩みもないはずがありません。将来への不安もあるだろうし、親との確執があったりもするでしょう。でもそれは、フィリピンとの関わりは無関係の、20代の若者の多くが抱えているもの。

私には、「自分を大切にしろ」とか「もっと慎重に行動しろ」なんて、オッさん臭い説教を垂れる気は皆無。年齢的には父親と言ってもいい世代ですが、私自身が母親の大反対を押し切ってフィリピン人の妻と一緒になり、同僚や上司の否定的な意見を尻目に、早期退職、フィリピン移住を決断しました。偉そうに説教できる身分ではありません。やらなかった後悔よりも、やった後悔の方が何十倍、何百倍もマシ。

とは言え、似たような道を歩んできた者としては、しなくていい苦労や失敗は、避けられるようにアドバイスしたいというのも本音。もっと言えば、若い人と話しているのは単純に楽しい。日本語を喋れる嬉しさもあります。

そういうことで、今後ネグロスに来る若い世代の日本人に期待しつつ、この新しい交友関係を大切にしたいと思っています。


フィリピン通いは献血不可?

日本に住む私の友達で、献血への協力を惜しまない人が何人かいます。採血後に、お菓子や飲み物が貰えるとは言っても、基本は無償奉仕。年に1回や2回ではなく、表彰されるほど頻繁に献血してるなんて話を聞くと、まったく頭が下がります。

フィリピンでもボランティア献血は奨励されていますが、需要の100パーセントを満たすことができず、まだ民間血液銀行では有償での採血、いわゆる「売血」があるらしい。日本でも1950〜60年代には、売血が横行。その結果、医療現場で、薬物中毒者や感染症患者の血液が使われることもあり、輸血後、肝炎の発症が多発。暴力団の資金源にもなり、1969年に日本での売血制度は廃止に。

半世紀前の日本と同様のことが、現在もフィリピンでは起こっていて、つい数年前も衛生上の問題から、マニラ首都圏で複数の血液銀行が閉鎖されたとの報道がありました。

ところで現在の日本では、フィリピンなどの海外渡航歴があると、場合によって献血を断られることがあるのをご存知でしょうか? 実は私、フィリピン人の家内と結婚し、年に1〜2回フィリピンへ渡航していた時期に、そういうことがありました。

性病の疑いでもかけられたのかと、少しムっとしたり。しかしそういうことではなくて、輸血によるマラリアなどの感染を防止するための措置。マラリアは、マラリア原虫を持った、雌のハマダラカに刺されることで感染する病気。2013年の統計によると、全世界で年間約2億人もの罹患者を出し、死者は62万人以上。現代の人間にとって脅威になるのは、肉食の猛獣や毒蛇ではなく、蚊だと言われる所以です。

厚生労働省検疫所のホームページによると、マラリア感染リスクのある地域として、フィリピンを含む東南アジアのほぼ全域、インドなどの南アジア、アフリカのサハラ以南、南米の一部となっています。日本でも1年間に、こうした地域への渡航者約100名が感染しているとのこと。


日本赤十字社の基準では、フィリピンはマラリア感染リスクはあっても、たいへん低い(Very Low)B地域。リスク行動(森林地帯などでの滞在)がないと判断され、帰国後4週間以上経過していれば大丈夫。でも実際の献血現場では、1年以内にフィリピン渡航歴があったというだけで、断られることもある。私が引っかかったのはこれです。

そして、滞在期間が1年以上、つまり現在の私ですが、帰国して3年以上の時間が必要となります。これはマラリアが、症状が治まったように見えても、数年間も血液中に潜伏する可能性があるからでしょう。

正直に白状すると、最初は気分を害したものの、それ以降は献血を断る口実に使わせてもらいました。と言うのは、私が所属していた会社では、毎年ほとんど強制的に30代以下の社員に献血を指示。今思えば、もう人権侵害。それでなくてもヘソ曲がりな私は、微力ながら会社への抵抗として、フィリピンをダシにしていた次第。

ということで、今日はフィリピンと献血のお話しでした。

【追記】
1年以内にフィリピン渡航歴がある人、すべてが献血できないわけではなく、リスク行動の有無、滞在期間などで、担当者が判断するものです。私の場合、たまたまちょっと厳しい方だったので、断られたのでしょう。以後は、私が会社に対して断るための方便にしただけで、毎回ダメだったという意味ではありません。
読者の方から、誤解を招くとのご指摘がありましたので、追記させていただきます。


2017年12月21日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 トライシクル・ガール

10日ぶりの美女図鑑です。
このシリーズはとても楽しく描いていて、アイデアはいくらでも湧いてくる。しかし、如何せん、毎回どんどん凝ってしまって、なかなか週1枚のペースにはなりません。

今日のお題はトライシクル。"Tricycle" を英和辞典でしらべたら、第一義は三輪車と出てきます。もちろん子供用の小さなものではなく、フィリピンではもっとも身近な移動手段である、バイクの右側にサイドカーを付けた三輪タクシーのこと。

ここネグロス島のシライでも、トライシクルは大活躍。自治体毎の登録制で、どれにも市長名で発行された登録番号が車体に大書され、お客さんから見える位置に、証明書のステッカーが貼付。また、隣町であっても、登録地域以外の営業走行が禁止されていて、警察に見つかれば罰金。このルールは、かなり厳しく守られているようです。

シライ市内の場合、一人分の料金は、住宅地から市の中心部に向かうと8ペソ(約18円)。逆だと10ペソ(約23円)。その他、大荷物だったり、距離が長いと5ペソ〜10ペソの追加。追加料金に関しては明確な決まりはなく、ドライバーの言い値、もしくは客の気分次第。まぁ、チップみたいなものでしょうか。

朝の7時頃にもなると、教科書満載の大きな鞄と一緒に、4〜5人の子供や、洗い髪も乾かない通勤女性を乗せたトライシクルが、道から溢れそうに走っています。

思うに、フィリピンで肥満が多いのは、このトライシクルのせいだと言っても過言ではない。歩いて10分の距離で、別に荷物がなくても、トライシクルを使う人が多い。特に暑い日は、見えているぐらいの場所でも歩かない。私がたまに日中散歩していると、変人扱いされるほど。

そして、ドライバーはなぜか判で押したように男ばかり。タクシーだとたまに女性もいるのですが、このトライシクルとジプニー(ジープを改造した乗り合いバス)は、フィリピンに関わり始めて20年以上なのに、ただの一度も女性が運転しているのを、見たことがありません。稼ぎは安いし、女性ならばもっと割のいい仕事があるから、敢えてこんな仕事をしなくてもいいということなんでしょうか?

そこで、私の妄想です。
料金は10倍増しでもいいので、美女が運転するかっこいいトライシクル、きっと大人気になるだろうなぁ。ビキニのお姉さんが、真っ赤な車体のバイクで自宅に迎えに来てくれるのなら、専属で雇いたくなります。まぁ実際は、女性ドライバーがいたとしても、排気ガスやら日焼けやらで、肌の露出は最小限になってしまうんでしょうけどね。


ということで、すごく久しぶりにメカニックを描き込んでみました。私が愛用しているパソコン用描画アプリ、アドビー・イラストレーターは、元来、こういったテクニカル・イラストレーションを描くのに向いています。でも、ある程度の迫力を出すには、相当な細密描写になるので、やっぱり時間はかかってしまった。

人物とバイクのバランスや、パース合わせに苦労して、実はまだ気になる箇所を残したまま。でも、こだわると永遠に公開できそうにないので、見切り発車の美女図鑑となりました。

それにしても、バイクに超グラマーな女性の組み合わせは、私の世代だと「峰不二子」を連想してしまいます。お子様向けになったしまった第二シリーズ以降ではなく、1971年放送で、二階堂有希子さんが声を演じた最初の不二子ちゃん。当時、小学生だった私には、強烈に刺激的でした。




2017年12月20日水曜日

ひよこは犬の餌食


我が家には、毎日餌を与えている生き物が三種類。鶏7羽に犬と猫が1頭づついます。

鶏は、自宅ができた時に貰ってきた3羽のうち、雌鶏1羽はいつの間にか、いなくなり(多分逃亡)、雄鶏1羽は鶏肉になって食卓へ。結局残った1羽の雌鶏「ポチョラ」(家内の命名)が、隣の闘鶏場に逆夜這いをかけて、身ごもった有精卵から生まれたひよこが6羽育って、現在に至っています。

鶏が逃げたり、隣にデートに行ったりと、穴だらけのフェンスかと思われるかも知れません。実はネグロスの地鶏は、相当な距離と高さを飛べるんですよ。2メートルのフェンスなんて余裕で飛び越えるし、夜間は裏庭の木の枝、地上から約4メートルぐらいの場所に止まって休んでます。(ちなみに、値段の高い隣の闘鶏たちは、片足をつながれて、逃げられないように飼育)

さて、このポチョラ一家、犬猫との関係はあまり良好とは言えません。特に犬。生まれたての仔犬から育てて半年。まだ成犬とはではいかないけれど、ずいぶん大きくなった飼い犬の「ゴマ」。放っておくとひよこを追いかけ回すので、フェンスの外に隔離しました。


気になったので「犬」「ひよこ」でググってみたら、普通の犬は鶏を襲ったりすることはない、とありました。どうやらウチのゴマは普通ではないらしい。実は数ヶ月前に、フェンスの隙間から侵入したひよこを捕まえて、頭からバリバリ食べてしまった前科があります。

家内に知らされて私が庭に出た時には、小さなひよこは羽一枚残さず消滅した後。一度味を占めて、食べられると分かってからは、ゴマの視界に鶏が入ると、やかましく吠えるようになってしまった。ただ鶏側も警戒するようになって、ゴマのテリトリーには絶対に入らない。

ところが先日、兄弟を食われたことを忘れてしまったのか、またもやポチョラの子供がフェンスの内側に侵入。なまじ飛べるようになったのが災いしました。いつになくゴマが激しく吠えて興奮してると思ったら、ほぼ成鳥になった1羽が餌食に。

今度は獲物としてはかなり大きく、ガリガリと骨を噛み砕く音を立てながら「凄惨」と形容すべきような光景が。なんだか先祖返りして、まだ野生動物だった頃の血がたぎっているような感じ。

こうなってしまっては、ゴマを叱りつけても無駄。結局その日、ゴマには餌をやらず、鶏の死骸を放置。気が済むまで食べさせました。生存競争の厳しさを垣間見た気分。どもうフィリピンの家畜は、日本のものより、本能を色濃く残しているようです。


2017年12月19日火曜日

雨台風ウルドゥーハ

12月なのに台風被害です。
移住して5回目のクリスマス。例年、この時期は台風さえ来なければ、比較的安定した天候で、晴れたら最高気温は30度を少し上回るぐらい。それでも日陰に入れば涼しいし、朝夕はエアコンどころか、扇風機さえも不要な快適な日々。台風さえ来なければ...。

一昨年(2015)も、12月14日に「非常に強い」27号台風ノナ(Nona フィリピン名)が、サマール島に上陸。洪水などにより、42名もの死者を出しました。そして今年(2017年)、12月16日、26号台風ウルドゥーハ(Urduja)が2年前と同じサマールに上陸して、フィリピン中部を横断しました。

今回は、洪水に加えて地滑りも発生し、今日(12月19日)の発表によると、死者41名、行方不明者45名という大惨事。台風の勢力はそれほどでもなかったものの、上陸前からフィリピン東沿岸に台風が停滞。何日間も強い雨が降り続いたことが、被害を大きくしました。

ここネグロスでも、1週間近く雨模様。豪雨というほどではないけれど、ほぼ終日の雨で、時折雨脚が強まる天候が続きました。まるで日本の梅雨時。

サマールやレイテでは三日以上も停電した地域もあったそうです。この年末、クリスマス直前に、家族を亡くしたり怪我をしたり、住む場所を失ったりなんて、本当にお気の毒としか言いようがありません。


洪水に見舞われたレイテ島タクロバン
4年前のスーパー台風ヨランダでは、
高潮で壊滅的な被害を受けました。

出典:ABS-CBN News

毎年、台風被害が出るたびに思うのは、同じ場所で、同じようなことが繰り返し起こるのに、なぜ本気で対策を講じないのかということ。日本からの援助で、地下鉄や空港施設を作るのもいいけれど、下水を整備して都市部の洪水被害を軽減するとか、植林して地滑り防止に努めるとかに、もっとお金を使えないものなんでしょうか?

私の住むネグロス島の州都バコロドにしても、大雨が降って道路が冠水するのは、いつでも同じ場所。台風そのものを抑え込むことは無理にしても、何年も(あるいは何十年も)同じパターンでひどい目に遭っているのだから、いい加減、何とかしろと言いたくなります。


2017年12月18日月曜日

ハッピーバースディの二番



日本でもフィリピンでも、誕生日パーティで歌うというと「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」。フィリピンの友達のお祝いに招かれても、違和感なく歌えます。これを知らない日本人は、まずいないでしょう。

あまりにも有名で、今更調べるのも気恥ずかしく感じるほど。ところがウィッキペディアを見ると、意外な事実が。元々はアメリカの歌、これはいいとして、ハッピー・バースディは替え歌だったんだそうです。元歌のタイトルは「グッドモーニング・トゥ・オール」で、1893年に発表されました。

Good morning to you,
Good morning to you,
Good morning, dear children,
Good morning to all.

へぇ〜って感じですね。今となっては、替え歌バージョンがあまりにも耳に馴染みすぎて、声を出して歌ってみても「グッドモーニング・トゥ・ユー」ではしっくり来ない。その後1920年代に、ハッピー・バースディの歌詞がついたらしいのですが、作詞者や、その経緯など詳しいことは分かっていません。

来歴はともかく、ケーキに歳の数だけロウソクを立てて、この歌をみんなで歌ってから、その日の主役がロウソクの火を吹き消す、という光景は、日本でもフィリピンでも同じ。ところが、ちょっと違う部分もあるんですよ。

Happy birthday to you,
Happy birthday to you,
Happy birthday, dear ◯◯◯,
Happy birthday to you.

◯◯◯の箇所に、誕生日を迎えた人の名前を入れるのが当たり前だと思ってたら、フィリピンでは、ディア◯◯◯のところを、ハッピー・バースディ、ハッピー・バースディ...と繰り返しにしてしまいます。つまり名前を歌わない。

Happy birthday to you,
Happy birthday to you,
Happy birthday, happy birthday,
Happy birthday to you.

同じ東南アジアのタイでも、こう歌うそうです。私が初めてフィリピンで誰かの誕生日パーティに出た時、こんな微妙な違いがあるとは知らなくて、思いっきり大声でディア◯◯◯と歌って、一人だけ浮いてしまいました。そしてそれだけではなく、フィリピンではハッピー・バースディの二番の歌詞があるんです。

How old are you now?
How old are you now?
How old are you now?
How old are you now?

これこそ、へぇ〜〜〜と思ってしまいました。即興で歌っているのではなく、フィリピンでは、ちゃんとCDになったものまで売っています。ウィッキペディアには二番の歌詞のことは書かれていませんでした。これはフィリピン・オリジナルなのでしょうか?

こちらを最初に聞いた時は、何を言っているのかよくわからず、「あ〜ほ〜と〜ゆ〜な〜」と聴こえてしまいました。昔々の漫才で、「お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜じゃ〜」という、横山ホットブラザーズのネタがありましたが、それを思い出してしまった。


2017年12月17日日曜日

フィリピン共和国「連邦」


もう半年前のことになりますが、今年(2017年)の7月、任期の2年目を迎える、フィリピンのドゥテルテ大統領による、施政方針演説が行われました。これは大統領に毎年義務付けられているもの。その2時間に渡るスピーチで取り上げられたトピックの一つに、連邦制導入があります。

それ以外には、対ドラッグ戦争の継続や、汚職撲滅、マニラ首都圏の渋滞緩和、リプロダクティブ・ヘルス(性・生殖に関する健康)の法整備など。しかし私には、他のすべてが枝葉末節に感じられるほど、連邦制は最重要案件。

フィリピンへの連邦制導入は、急に言い出したことではなく、選挙の公約としても掲げられていたし、ドゥテルテ氏の独創でもありません。正確な時期は分からないけれど、もうかなり以前からアイデアとしてはあった話。

日本でも、昔から度々政治家やマスコミが取り上げては消える道州制。基本はそれと同じことでしょう。日本の場合は、北海道・東北州・関東州・中部州・近畿州・中国州・四国州・九州・沖縄州などのブロックに分割し、中央省庁から各道州に、予算と権限を大幅に移譲するという構想。

これは東京からの遷都と並んで議論される、行きすぎた東京一局集中の是正と、地方の再生への根本的解決案。また震災被害などによる、日本全体の政治・経済へのダメージを最小限にすることにもつながります。

私がまだ新入社員だった1980年代、堺屋太一さんの遷都や道州制に関する本を読んで、大いに感化されました。通産省の官僚で、1970年の大阪万博のプロデュースを手掛けた堺屋さん。有名な著書「油断!」で、オイルショックを予言して話題になり、その後経済企画庁長官などのポストを歴任。

日本では、目立った進展もないまま現在に至る道州制。フィリピンでも似たような経緯のようです。メリットは誰にでも理解できる分かりやすい提案なのに、政治家や官僚の既得権益が失われるため、まったく議論が進まない。

ところが、ドゥテルテ大統領が言い出すと、まったく事情が違います。当選時に比べると陰りは見えたとはいえ、過去の大統領に比べれば、いまだに圧倒的な国民の支持を受けるドゥテルテ氏。対ドラッグ戦争では国内外からの批判を物ともしない。日本からの支援を受けてマニラ地下鉄プロジェクトは始動し、渋滞の一因とされるジプニー(乗り合いバス)の廃止を推進。中国との領土問題は棚上げ。マラウィでのイスラム系過激派との戦いでは、力づくで相手を押さえ込んでしまいました。

前政権までが、公約なんて忘れたかのような無為無策ぶりだったのに対し、効果がどこまで上がっているかの評価は分かれるにしても、少なくとも国民の目に見える具体施策を実行しています。連邦制についても、彼がここまで明言している以上、何らかのアクションを起こすことは間違いないし、当然水面下では手を打っていることでしょう。

実際に連邦制となったら、私たち家族の住むネグロス島はどうなるか。現在所属のリージョン(日本の関東や近畿などの地方に相当)がベースだと仮定するなら、ネグロス島の西半分と隣島パナイを含むリージョンⅣは、西ビサヤ共和国となるのかも。首都はイロイロ(パナイ島)かバコロド(ネグロス島)か。


そんな細かいことの心配より、まずは国民投票にまで持ち込めるかどうかが大問題。ドゥテルテ本人も選挙中の演説で「連邦制移行への準備ができれば、大統領の任期6年を待たずに辞任してもいい」と語ったほどの難事。素人で部外者の私でも、反対勢力との熾烈な戦いが待っているんだろうと容易に想像できます。

息子が社会人になる頃には、「フィリピン共和国連邦」が実現しているのでしょうか? ここ数年はフィリピンの政局から目が離せません。


2017年12月15日金曜日

イロイロ最新情報


出典:ILOILO TODAY

友人の還暦お祝いパーティで、丸3年ぶりに訪れた隣島パナイのイロイロ市。ずいぶんと変わってました。私の住むネグロス島、西ネグロスの州都バコロドとだいたい同規模のイロイロ。数年前には、年に一度選ばれる、フィリピンで最も住みやすい街として、バコロドと相前後して選定を受けました。

国内でも認められるほどいい街。好調なフィリピン経済の追い風を受けて、商業施設が続々とオープン。前回滞在時には、だだっ広い中に一軒だけの高層ビルだった、私たちが滞在したホテル。今では、それを取り囲むように、他のホテルやオフィスビルが数棟。さらに建築ラッシュが起こっていました。

市内を南北に貫く片側4車線の大通り(通称ハイウェイ)は、朝夕にはかなり混雑するようになり、ハイウェイの両側には、最大手のSMシティを始め、大小のショッピングモールが立ち並ぶ。それでも建物間に十分な空間があるので、マニラやセブの市街地には言うに及ばず、バコロドと比べてもゆったりとして、フィリピンというよりもシンガポールかクアラルンプールの目抜き通りを思わせます。

パーティはランチタイムで、4時前頃にはお開き。そこで、家内の学生の頃からの友人で、私たちの結婚式では家内のメイド・オブ・オナー(花嫁の付き添い女性で、フィリピンでは未婚の姉妹または、近しい友人・知人から選ばれます)を務めてもらった間柄の、グロリアと連れ立って、ちょっとした市内観光に出かけました。


真ん中が友達のグロリア、右が家内

まずは家内の強い希望により、会員制の巨大ディスカウントショップS&Rへ。アメリカ資本の小売チェーンで、日本にも進出した、同じくアメリカ発祥のコストコと同様のお店。でっかい倉庫みたいな店舗に、天井まで届く棚に商品を積み上げて、大量に安く売るという商売。フィリピンには、マニラ首都圏やセブ、ダバオなど、すでに10軒以上も出店しているそうです。



品揃えは、まるでアメリカが引っ越してきたよう。組み立て式の物置やマウンテンバイクなど、心惹かれるものがいっぱいでしたが、残念ながら持ち帰りは無理。家内は、ハムやクッキーなどの食料品を買い込んでいました。

夕食は、以前からある、市内最大規模のショッピングモールのSMシティ。建屋は変わらなくても、レストランはかなり入れ替わっていて、特に日本と韓国料理の店が増えました。バコロドにもあるラーメンの一康流に、来来軒。近日オープンの大阪たこ焼き(なんちゅうダイレクトな名前)に、とんかつ屋さんのキムカツ、KOGI-Qという韓国焼き肉屋さん。「日韓料理」なる、日本でも韓国でも絶対あり得ないコンセプトのYaki Mix、などなど。







当然のごとくユニクロもありました。

ということで、一康流のラーメンで満腹になった後は、SMシティの近くにできた、モール巡り。クリスマスシーズンの週末なので、どこも大賑わい。新しいモールは、バコロドでもあちこちにあるけれど、イロイロのものは、頭一つ抜きん出た感じで、どこも垢抜けていて、センスがよく見えます。隣の芝は青いか?



なかでも最新の「タイム・スクエア」は、店舗よりもイルミネーションが秀逸。小ぶりながら、いかにも話題を呼びそうな設え。皆さん熱心にセルフィー撮影されてました。「インスタ映え」しそうなものは、今後の主流になっていくのかも知れませんね。







2017年12月12日火曜日

フランチェスカの還暦祝い

先週の土曜日、前々から予定されていた、家内の友人フランチェスカ・イングレスの60回目の誕生日パーティ、日本風に言うと還暦祝いに家族三人で出席しました。

フランチャスカは、家内が以前勤務していた、フィリピン大学ビサヤ分校の元教授夫人。旦那さんは転職して、別の大学の教授をしていますが、今でも昔の交友関係は途切れなく続いていて、見覚えのある、家内の友達がたくさん招待されていました。

元々が、相当な資産家のイングレス・ファミリー。分校のあるパナイ島(ネグロス島の西隣)の州都、イロイロに敷地約1000平米の邸宅を構えています。自宅を計画中の約10年前、設計を依頼した日本人建築家に同行していただき、フィリピン住宅の参考に、この家を見せてもらったりしたほど。

ネグロス島とパナイ島は、フェリーで約1時間の距離。天候さえ荒れなければ、シライ市内からイロイロ市内のドア・ツー・ドアで3時間程度。旅客鉄道がないネグロスのことなので、島内の移動よりもずっと便利。島の反対側とは言葉が違うのに、海を隔てたイロイロと同じ方言なのも当然だと実感します。


イロイロ港の風景


バコロド〜イロイロ間のフェリー

当日、朝7時半に家を出て、パーティ会場のイロイロ市内のホテルに着いたのは、お昼前の11時。相当な広さのボールルーム貸切で、プロの司会が付いての本格的なもの。日本の感覚で言うと完全に結婚式のレベルです。



とは言ってもやっぱりフィリピン。開始時間はズルズルのダラダラ。11時と言われていたのに、時間通りに会場入りしたのは、私たち家族だけ。まだ設営が終わっていなくて、フランチェスカの息子三人と、その中の一人と婚約中のお嬢さんが、忙しそうにしてました。お金持ちのパーティでも、まぁ、そんなものです。





さて、フィリピンでは「還暦」に相当する言葉はありません。ただ誕生日祝い、特に10年毎の節目には盛大なパーティをすることが多く、フィリピンでも60歳で定年退職が一般的なことから、いつもより大掛かりなお祝いになるらしい。

パーティの主役フランチェスカは、昔から明るくて、声が大きくて、すっごいお喋り。大阪の嬉しがりのオバちゃん、と言った感じの人です。60歳の誕生日ともなれば、さらに輪をかけてのハイテンション。また旦那さんが、大学教授のイメージとは懸け離れた、これまたお喋りで始終ジョークを飛ばしている陽気なオジさん。最初からパーティは盛り上がりまくってました。

フランチャスカのお祝いと言うより、もう一回結婚式するんか?というほど夫婦で大はしゃぎ。また本人とその家族だけでなく、ノリの良いことでは世界屈指のフィリピン人の集まり。冒頭の「ハッピーバースデー」など、いきなり全員で大合唱です。


イングレス夫妻

さらに大騒ぎなのは、写真撮影。会場の一角には撮影ブースが設けられ、友達や親戚同士で、いつでも写真取り放題。その場でステッカーに印刷してくれれます。また、帽子や王冠などの小道具が用意してあって、参加したお客さんたちは、まるで子供みたいに楽しんでました。



そして正面に設えた、フランチャスカが座るベンチ。プログラムの合間には、順番に主役と並んでの記念撮影。パーティの半分ぐらいの時間は、写真に使ってたんじゃないでしょうか。

忘れてはならないのが、バースディプレゼント。入り口脇に、プレゼントを置くテーブルが用意されいて、来た人が順番に並べていきます。私からの贈り物は、フランチェスカの似顔絵イラスト。還暦だからと、赤いちゃんちゃんこを着る習慣はないフィリピンですが、赤系の画面にまとめてみました。お陰さまで、喜んでもらえたようです。


それにしても、フィリピンのお祝い事やパーティというのは、実にリラックスして楽しめる。多少時間にルーズでも、私の性に合っています。こういうところが、フィリピン暮らしの醍醐味なのかも知れませんね。


2017年12月11日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 プールサイド・フィリピーナ

2013年の12月30日、私の敬愛するシンガーソングライターにして、音楽プロデューサーである大瀧詠一さんが亡くなりました。私たち家族がフィリピンに移住して、半年余りの頃のことです。

今50代前後の世代の人なら、大瀧詠一さんの名作、1981年発表の「A LONG VACATION」を知らない人はいないでしょう。「君は天然色」「恋するカレン」「さらばシベリア鉄道」など、ごく最近になってもテレビCMに繰り返し使われ、文字通り時代を超えた楽曲の数々。私が美術系大学に入学する直前のリリースでした。

私の青春時代のBGMとでもいうべき、このアルバム。どの曲も、当時の友人やガールフレンド、学園祭や卒業制作の風景などを思い出させてくれます。アルバイトして買ったウォークマンで、カセットテープが擦り切れるまで聴きました。そして36年経った今でも、スマホのプレイリストには、ちゃんと入ってます。

音楽だけでなく、永井博さんが描いたレコードジャケットのイラストにも、ずいぶん影響を受けました。永井さんにとってもこのアルバムは、あの独特の爽やかでクリアな世界観を世に知らしめた代表作。やっぱり「典型」の創出はすごいこと。大瀧サウンドと同様、今でもその存在感は圧倒的。

ということで今日のフィリピン美女図鑑は、大瀧詠一さんの4回目の命日を半月後に控え、アーティストお二人に敬意を込めて描きました。

美女図鑑では珍しく、背景のイメージを先に決めての描画。いつも女性を先に描き上げて、どんなバックにするか頭を悩ませてるのが、今回は、近景は南国のプールサイドで、遠景は青い海と空は、完全固定。それに似合うビキニのフィリピーナのイメージを探すのに、時間を費やしました。


プロポーション抜群で、褐色の肌。ロングの黒髪に真っ白な水着。そして、出来上がってから気がつくと、まるでアグネス・ラムさんみたい。「A LONG VACATION」の頃に活躍されてたモデルさんです。真上からの直射日光を浴びる女性を描いたのも初めて。これは思ったよりも難物でした。

折しも日本では、12月にしてはかなり厳しい寒波が到来しているんだとか。ネグロスは雨季も一段落したようで、ここ数週間は、安定した晴天の連日の夏日。南国の日差しを少しでもお裾分けできればとの願いを込めて、このブログをお届けします。