2018年9月30日日曜日

NHKワールドのお天気お姉さん

今月(2018年9月)初旬に、西日本を中心に甚大な被害をもたらした、台風21号。それに次ぐ台風22号、フィリピン名オンポン Ompong は、フィリピン・ルソン島北部を直撃し、地滑りなどで100名近い死者。

そして、今回の台風24号。
今、このブログ執筆中の時点(9月30日フィリピン時間午後8時)、まさに私の実家、兵庫県尼崎のすぐ南を通過中。フェイスブックでは、関西在住の住む友人たちが、台風に備えての準備をしている様子が投稿。被害が最小限で済むことを祈るばかり。

やはり日本の皆さんが心配しているのは、停電や断水。
先日の北海道の地震でも報道された通り、医療設備が使えなくなったり、酪農に深刻な影響が出たり。真っ先に困ったのは、携帯電話が充電できないこと。トイレの水が流れないとか、入浴できないのもたいへんですが、情報の遮断や連絡が取れないことほど、精神的にキツいものはないでしょう。

5年前、私たちの住むネグロスを含む、フィリピン・ビサヤ地方を、スーパー台風ヨランダが直撃した時のこと。丸二日間に及ぶ停電を経験しました。それに懲りて、自宅の新築時には、発電機と水タンクを設置したほど。

発電機はディーゼル式で、10リッターのオイルがあれば、約20時間は保ちます。温水器もエアコンも使える、家庭用としては十分な電力。また水タンクは、本来水圧を十分に上げるためのポンプとセットで購入したもの。盗水の影響で、十分な水圧がなく、時々水が出なくなるのを防止。副次的な産物として、断水しても、節水すれば数日程度は大丈夫。

つまり、それなりの投資をすれば、電気と水道に関しては、個人住宅でも、ある程度のカバーができるということ。これほど日本で災害が続けば、発電機や水タンクを取り付けようと考える人が増えるんじゃないでしょうか。住設関連ビジネスとして、ブームになりそう。

それにしても、このところ、私のNHKワールドを視聴する時間がずいぶん増えました。以前は、あまり興味を引くような番組がなく、たまにNHKスペシャルや、鴻上尚史さんが出演している、クール・ジャパンを見るぐらい。契約しているネグロスのケーブルTV局には、NHKの日本語チャンネルがないんですよ。

ところが、日本で台風やら大雨となると、NHKワールドのテレビニュース注目度が急上昇。最近は夕食時に、子供が気を利かせてチャンネルを変えてくれたり。気象担当のお姉さんの顔と名前まで覚えてしまいました。

流暢な英語で日本や世界の天気を伝えてくれるのは、気象予報士の森さやかさん。しっかりメイクの美人です。たまに(NHKにしては)ちょっと大胆な服だったりすると、彼女の胸元が気になって、肝心のお天気が上の空になることもあるぐらい。


出典:YouTube

調べてみたら、ブログも書いておられるし、ツィッターフェイスブックなど、かなり幅広く情報発信しておられます。ということで、まだしばらくは続く台風シーズン。24号の後を追いかけるように、台風25号が来ているし、森さんの天気予報やサイトからは、目が離せません。


日本史の先生になれば良かった


我が家から歩いて10分くらいの範囲に、日本NGOの活動拠点と、日本人向けの英語学校があります。と、サラっと書きましたけど、同じフィリピンでも、マニラやセブなどに比べて、知名度が海面すれすれの超低空飛行並みに低いネグロス。しかも州都でもないシライですよ。これはもう、偶然とかたまたまどころではない、私にとっては、ほぼ奇跡。

そんな奇跡のおかげで、50代も半ばを過ぎたオッさんの家に、やたらと20歳前後の人たちが来てくれるのは、このブログで何度も投稿した通り。日本食レストランなど、ほとんどない場所柄なので、あの家に行けば、日本の味にあり付ける、とばかりに、お腹をすかした若者たちが集うわけです。

ただ最近は、食事目的だけではなく、あのオっさんの話が面白い、ということになっているらしい。まぁ、相手がこれから就活しようかという学生さんがほとんど。自然と、自分の学生時代や勤め人時代の経験をベースに、ちょっと説教っぽいことになりがち。それだけで止めておけばいいものを、つい、太平洋戦争中の日本とフィリピンに話が飛んで、気がつけば、これは日本近代史概論の講義か?という状態になってしまう。

もし私が大学生だったら、こんな鬱陶しい話を聞かされるなら、もう二度とこの家の敷居はまたがないと思うでしょう。ところが驚くべきことに、勉強になりましたとお礼まで言われ、しかも同じ人が、二度三度とリピーター。

持ち前のサービス精神と関西弁で、何事も面白可笑しく話すことには、多少の自信はあるけれど、どうやら背景には、最近の大学生ぐらいの人たちが、年長者とじっくり話す機会に恵まれていないことがあるらしい。

考えてみれば、私が同じぐらいの年頃には、親戚の叔父・叔母、日曜学校ので先生役の方々に、なぜか近所の散髪屋のオッちゃんまで。20〜30歳ぐらい年上の人の話は、本当によく聞きました。なるほど、そういう経験が珍しいわけだ。

そして話題が日本史。
高校で選択しなかったとか、習っていても、無味乾燥な暗記事項を羅列した教科書しか知らない。そんな状態で、講談師張りに、渾身の思い入れと、山あり谷ありの、独自解釈を盛りまくった歴史を語られたら、面白く聞こえてしまうんでしょうね。これはデザイナーなんか目指さず、高校で日本史でも教えるべきだったか?

そもそも、日本の歴史って、小説にしろノンフィクションにしろ、素材として面白いことこの上なし。比べて申し訳ないけれど、フィリピンの歴史って、侵略者のスペインが徹底的に文化遺産を破壊した結果、せいぜい400年前のことぐらいしか分からない。さらに、ほとんどが他国の占領下。面白いとか言う以前に、フィリピン人としては、勉強していてツラくなりそう。

スペインからの独立、第二次世界大戦、日本からの解放、マルコス圧政にエドゥサ革命と、シンプルなフィリピン史。それに対しての日本史はというと、縄文・弥生から始まって、邪馬台国に大和朝廷、奈良・平安から鎌倉・室町、戦国時代を経て、江戸時代に明治維新。どの時代区分を取っても、フィリピン全史を学ぶのと、同じぐらいのボリュームがあるかも知れない。

私の尊敬する、司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、まさしく「眺めるに足る」歴史。

見方を変えると、他民族による占領から、抵抗運動、独立という、一連の流れで語れるフィリピン史の方が、コンセプトが明快で、そのまま愛国教育にもなる。

その点、日本史は、長い上に登場人物が多すぎて、例えば戦国時代だけでもお腹いっぱい。こんな盛り沢山の内容を1年で詰め込むこと自体、かなり無理がある。だから面白くなくなっちゃうんでしょうね。

ということで、この話は一本の投稿では全然足りないので、次回に続きを書くことにします。


2018年9月28日金曜日

頑張れ、ネグロスのクレープ屋さん

4ヶ月ほど前に、このブログで紹介した、若き日本人起業家タカさん。今日はその続編です。

当初の予定から1ヶ月ほど遅れの8月12日、ようやく開店に漕ぎ着けた、フィリピン初の日本式クレープ屋さん「チバ・スィーツ・ジャパン」。チバは、タカさんの出身地、千葉県のチバ。


本当はすぐにでも、バコロド市内のお店を見に行きたかったんですよ。でも開店当日はこちらの都合が悪く、次の週末と思っていると、今度はタカさんが在店してない。クレープ屋さんだけでなく、英語学校のマネージャー兼務なので、ご多忙の様子。

たまたまタカさんと共通の知り合いが二人、日本から来ていたので、タカさん不在のまま、9月初旬の日曜日、ようやく顔を出しました。

大型ショッピングモールのロビンソンズから、少し離れた場所に、新規オープンした小規模な飲食店中心のフードコートのようなスペース。大通りから脇道に入った一角なので、やや分りにくいのが難点。日曜日の午後の割には閑散といしていて、お客さんは私たちだけ。後で聞いたら、場所柄なのか、週末はこんなものだそうです。どっちかと言うと、勤め人が行き交う平日の方が、商売になるらしい。

ピンクに統一された店内は、想像よりも綺麗ながら、手狭な感じは否めません。詰めても10人入れるかどうか。注文したクレープやパフェは、どれも美味しかったし、値段も手頃。味付けはずいぶん研究してましたからね。


ただ、円錐形の手で持つ形式は、やや食べにくい。クレープの皮は柔らかめだし、中のアイスクリームは溶けてくるし。おそらくコストの問題があるんでしょうけど、正直なところ、お皿に乗せて、フォーク・ナイフで食べたくなりました。

もう一つ改善した方がいいと思ったのは、調理スピード。生地を焼くところから、お客さんに見える場所で実演するのは、いいアイデアなのですが、どうにもスタッフの手つきが怖々やってる感じ。手際よくやれば、なかなか見応えのあるパフォーマンスになる筈が、かなりもったいない。



フィリピンの人にすれば、見たことのないクレープの調理風景で、これだけで大きな売りポイント。もっと訓練しないといけませんね。単純に、待ち時間が長くなってしまうのもありますし。

とまぁ、ごく少額ながら投資した経緯もあるので、スィーツなのに辛口な感想になってしまいました。それにもう4週間ぐらい経ったので、タカさんがすでに手を打ったかも知れません。今度はタカさんがいる時に、もう一度お邪魔しましょう。

いずれにしても、大事な最初の店舗。何とか経営を軌道に乗せていただいて、もっとメジャーな場所に、2号店、3号店をオープンさせてもらいたいもの。頑張れ、ネグロスのクレープ屋さん。


2018年9月27日木曜日

機嫌のいい旅人 〜糸井重里さんのこと〜


糸井重里さんというと、今でも肩書きはコピーライター、と思う人が多いかも知れません。1980〜90年代に青年期を過ごした私にとっては、糸井さんのコピーを見るだけで、その時代に舞い戻った気分になってしまいます。

「よろしく。」矢沢永吉写真集 1979
「今のキミはピカピカに光って」ミノルタ / 宮崎美子出演CM 1980
「君にクラクラ。」資生堂 1981
「不思議大好き」西武百貨店 1981
「おいしい生活」西武百貨店 1982〜83
「僕の君は世界一」パルコ 1986
「4歳と14歳で生きようと思った」映画「火垂るの墓」1988

印象に残っているものを、いくつか並べてみました。やっぱり、いろいろ思い出しますね。当時の街並みや、よく行ったお店やレストラン、大学のキャンパスに、付き合っていた彼女とのこと。

それ以外にも、雑誌ビックリハウスの「ヘンタイよいこ新聞」、週刊文春の「糸井重里の萬流コピー塾」。糸井さん連載ものは、欠かさず読んでました。時代の最先端だった作家やイラストレーター、ミュージシャンとの共同作業も多く、NHK教育テレビの「YOU」の司会、流行歌手のための作詞を手がけたり。有名なものでは、沢田研二さんの「TOKIO」など。

最近では(と言っても、もう20年前から)、「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトの運営を開始。名前とは裏腹に、創刊以来1日も休まず冒頭に掲載されている、エッセイ(のようなもの)「今日のダーリン」。私は、フィリピンに移住してから、今日のダーリンの大ファンになりました。

ずいぶんと前置きが長くなって申し訳ないことながら、ここからが今日の本論。数日前の今日のダーリンで、ちょっといいなぁと思う文章がありました。本当は直接リンクを貼りたいところが、今日のダーリンは、基本的にその日の分だけしか、閲覧できない仕組み。

以下、要約です。

山の向こう側とこっち側に離れてあった二つの村を、旅人が訪れるという寓話について。

「こっち村」を訪れた旅人が、先に行った「あっち村」について、無愛想で不親切だと言ったら、こっち村の村民が、それならここでも無愛想で不親切だと思うよ、と返答。旅人は長居は無用と、早々に立ち去ってしまいます。

ところが、別の旅人は、同じようにこっち村に来て、あっち村のことを、愛想が良くて親切でいい村だったと褒めたら、こっち村の人も笑顔で旅人を迎えた、というお話。

糸井さんは、ちょうどお仕事で大阪にしばらく滞在中。この寓話を例に、そういう姿勢でいたら、嫌な思いをしたことがないし、大阪のことを心から楽しんでいる、と結んでいます。大阪のことを良く言ってもらったから、でもないけれど、これは生きる流儀としては、かなり大事なことだと思いますよ。


私の経験に当てはめてみると、日本国内だけで、実家の尼崎を出て以来、大阪府の茨木市、横浜市、福岡市などに転宅しました。職場環境は良し悪しありましたが、どこも住む場所としては便利で快適。特に福岡なんて、事情さえ許せば、あと10年は居たかったぐらい。

糸井さんほどはっきり意識したわけではないにしても、どうせ住むんだったら、できるだけその土地のいい所を見つけて、機嫌良く住もうと思ってました。そんな視点を持つと、すぐに、散歩に最適な公園や、カフェやレストラン、本屋さんに文房具屋さんといった、居心地のいい、お気に入りの場所が見つかるもの。同様に、気分のいい人たちとの、たくさんの出会いも。

最後にたどり着いたフィリピン・ネグロス島など、終の住処にしようと強く思ったせいか、たった5年ぐらいで、まるで何10年も居着いている感じ。もっと昔から住み始めればよかったと、軽く後悔するほど。

なので、フィリピン人をパートナーに選んで、自分の意思でわざわざ日本から移り住んだ人が、この国の住み難くさや、人々の悪いところばかり、あげつらっているのを見聞きすると、たぶんどこへ行っても、愚痴ばかりなんだろうなぁ、と思ってしまいます。

気取った言い方ですが、人生を旅に例えるなら、私も糸井さんに倣って、いつまでも機嫌のいい旅人でいたいものですね。


2018年9月26日水曜日

フィリピン女性はなぜ強い 〜養老孟司さんのこと〜


私には、その著作を通じてのみの出会いで、一方的に人生の師と仰ぐ方が、何人かいます。フィリピン移住に際しても、たくさんの蔵書を持ち込み、折に触れてお師匠たちに教えを乞う日々。

最近は、養老孟司さんの本を順番に再読中。その中の一冊、阿川佐和子さんとの対談「男女の怪」(オスメスのかい なんちゅうタイトル!)で、「なるほど、だからフィリピンの女性は強いのか」と、目からウロコ落ちまくりの話がありました。もう2〜3回は読んでるのに、以前はまったく気づいてなかったんですよ。

養老さんが、自著で繰り返し書かれている「都市化」という概念。私なりの解釈で説明すると、人間が住んだり働いたりするのに、便利で快適な環境をとことん追い求めるのが、都市化。蛇口をひねれば、きれいな水が出て、スイッチを押せばいつでも家電製品が作動。家も職場も冷暖房完備で、交通機関も定刻通り。

やってる仕事にしても、理詰め一辺倒。来年の事業計画やら次期商品開発やら、将来を理屈で先読みすることがメイン。それがいかに妥当かという、論理的説明のための資料作りに、忙殺される人も多いでしょう。これらすべての事象を、養老さんは、「ああすればこうなる」の一言で表現されています。脳の中でこしらえた理屈が実現する、すべて「想定内」がお約束の社会。

その対極にあるのが田舎。特に「自然」相手の農作業は、「ああすればこうなる」が通じるとは限らない。今年のように風水害が多かったり、山が崩れるような地震でもあれば、1年がかりの労働がすべてパー、ということがいくらでも起こる。忘れてはならないのは、こうした予測困難な自然に、都会の人々は食料その他を依存しているということ。都会だけでは生きられない。

そして、いくら都市化を進めても、どうしても残ってしまう自然がある。端的なのは、女性の体。つまり生理と妊娠・出産だと養老さんは指摘します。個人差が大きいので、一概には言えないけれど、やっぱり月に1回、問答無用で、出血に伴う痛みや体調不良などが、1週間前後も続くのはたいへんなこと。

ところが、それが当たり前だと表立って言えないのが今の日本。生理休暇は取りにくいし、出産前後、長期に休むと、その後のキャリアにマイナスになる職場も多い。妊娠=退職、となることもあるぐらい。そもそも生理中だと、パートナー以外の男性に悟られるのが、恥だと言わんばかり。

先日の熊本地震の際に、被災地への支援物資にあった生理用品を、不謹慎だと送り返したオっさんがいたと話題になりました。デマだとの意見もありますが、本当にありそうだと思われたので、こんなに拡散したんでしょうね。

さらに自然そのまんまなのが、子供。これほど「ああしてもこうならない」存在は、他にないぐらい。どんなに愛情を注いだつもりでも、泣く、喚く、病気にはなる、言うこと聞かない。親がこうなってほしいと思った通りになんて、まずならない。だいたい、これを書いている私が、今までどんだけ親の期待を裏切り続きてきたか。(別に後悔はしてませんが)

なので、都市化された場所では、女性が差別され、子供が疎まれ、その結果出生率が落ちる。養老さんに言わせると、都市化すると当然起こることで、経済の好不調とか男女意識の変化なんて、まったく無関係なんだそうです。なるほどなぁ。

だから放置していいということではなく、養老さんは大真面目に、都会人の定期的な田舎暮らし、現代の「参覲交代」を提言されています。


ずいぶんと長い前置きのあと、やっとフィリピン。
日本に比べると、「ああしてもこうならない」は実に多いこの国。停電・断水は日常茶飯事だし、交通機関のお粗末さは、今更書く気にもならない。ネグロス島なんて電車が走ってないし。

仕事についても、計画性の無さというか、予測どころか、未来時制で考えるのがカラッきし苦手。たまに時間厳守されると、こっちが驚くぐらい。フィリピンで経営者をやってる人は、苦労が絶えないでしょう。

フィリピン社会そのものが、「ああしてもこうならない」への強い耐性を持っている。そういう意味では、フィリピンの人って忍耐強くて、お店での接客態度が悪いとブチ切れてるのを、見たことがないですね。

フィリピンが都市化してないなんて言ったら、家内に怒られそうですが、まるで養老さんの説を実証するかのように、そんなフィリピンでは女性が強いし、子供がうじゃうじゃ。フィリピン女性は、家庭でも職場でも自信に満ち溢れ、実際に有能な人が多い。特に金勘定については、男には危なくて任せられない。フィリピンの子沢山・子供好きは、もう説明不要のレベル。

そして声高に言いたのは、逞しく生活力の塊のような女性に依存している、少なくない数のフィリピン男性について。彼らが惨めで不幸な存在かというと、全然そうは見えません。むしろ毎日楽しそう。私がネグロスで主夫をやっているのも、それを誰も不思議に思わないのが大きい。

ということで、参勤交代もいいけれど、例えば3年に1度ぐらい、数ヶ月でもいいから、定期的にフィリピン暮らしをすれば、都市化し過ぎた日本人の脳も、多少バランスを取り戻すかも知れませんよ。


2018年9月25日火曜日

タガログ混じり文


フィリピンに住み、ブログを書いたり、ネット上のフィリピン関係コミュニティに入ったりしていると、とても頻繁に目にするのがタガログ語。それも、全文タガログ語で綴られた文章ではなく、日本語のあちこちにタガログ単語が散りばめられた、タガログ混じり文。

当然ながら、読む人がタガログ語を理解する前提。数行の投稿のキメ文句で、上手に入れるのはいいと思うし、センスよくやれば、フィリピン生活のリアルな感じがよく伝わります。時には大笑いすることも。

ただし、これも程度の問題。
フィリピン暮らしの長い人のコメントやブログには、やり過ぎが散見されます。特に多いのが、「アサワ」Asawa(配偶者)の連呼。最初から最後まで、繰り返し「アサワ」「アサワ」で、とても鼻に付く。私の場合、勤め人時代の同僚、「浅輪くん」の顔を思い出して仕方がない。

これ以外にも、ディバ(でしょ)、アヨコ(いや)、ババエ(女)、ポ(「です、ございます」の丁寧表現)...などなど。いかにもフィリピーナと付き合うと、最初に覚えるような言葉がずらりと並ぶ。こういうこと書くと、フィリピン在住のオジさん全員を敵に回しそう。

別に、一切タガログ語を混ぜるな、とか、美しい日本語を守れ、なんて堅苦しいことを言いたいのではありません。何事にもやり過ぎは禁物で、度を過ぎると、とても幼稚に見える。センスも知性も感じられなくなるんですよ。

例えで分かりやすいのが、ルー大柴さんが操る英語混じりの「ルー語」。本当は、若い頃にヨーロッパやアメリカを歩き回って覚えた、実戦で使える英語を身につけておられるそうです。あれは飽くまでも、ネタとしてやってる芸のひとつ。

笑わせるのが目的なので、意図的に「大袈裟で空回りするキャラ」を演じているのを、地でやってしまったらダメでしょう。それではただの「痛い人」。仮にユーモアのつもりで書いていても、そこは素人の悲しさで、どうしても同じネタを繰り返してしまう。

それでも、フィリピンのことを多少でも分かっている読者なら、微笑ましくも思うかも知れません。ただ、公開コミュニティやブログになると、誰の目に触れるか分からない。関係者にしか理解できない「符丁」ばかりの文章は、冗談にすらならず、知らない人には疎外感が募るばかり。意地悪い見方をすれば、仲間内だけの専門用語で遊んでいる、鼻持ちならない集団に見えてしまう。

さらに言うとフィリピン国内でも、タガログ語圏外に住む人にとっては外国語に近い。公用語なので、ほとんどの人はタガログを解しても、日常生活ではまず使わない。イロンゴ語では、「ポ」と言わないし、「アサワ」は妻のみで、夫は「バナ」。

私の推測ながら、タガログ混じり文って、耳で覚えた拙い日本語を、タガログ語で補いながら喋る、フィリピン女性の真似から来ているように思います。魅力的な女の子が実際に目の前で話せば、可愛いいと思うのも分かりますが...。

ということで、ネット上の日本語文にタガログ語を混ぜるなら、濫用せずに、ここぞというポイントでセンスよく使ってほしいもの。また、文末に意味の説明を加えるなど、フィリピンの知識が少ない人への配慮も必要でしょうね。


2018年9月23日日曜日

ネグロスで聴く交響詩ウルトラセブン


「私的フィリピン美女図鑑」で、ウルトラ警備隊の女性隊員を描いて投稿したのが、7月1日。かれこれ3ヶ月も前になります。それ以来、頭の中でウルトラセブンのテーマ曲が脳内無限ループ状態。料理しながら「は〜るかな、ほしが〜」と歌って、メイドのライラに「?」な顔されたり。


私と年齢の近い、現在50代から40代後半ぐらいの人なら、この気分は共有できるはず。フィリピンでは自転車に乗っていて雨が降ってきたら、シャツを「ジャミラ」状態にすると言ったら、そのビジュアルを思い浮かべることができる。つまり、ウルトラマンやウルトラセブンを、刷り込まれて育った世代。



出典:ミックスじゅーちゅ

ジャミラとは、ウルトラマンに登場する怪獣。子供の頃には、その独特の形態を真似して、シャツをちゃんと着ずに顔だけ出す「ジャミラごっこ」をしたものです。母に「シャツが伸びる」と、叱られたものでした。

それはさて置き、昔見た特撮・アニメの曲が、耳について離れなくなるのは、よくあること。ただ、今回は妙にしつこく続くもので、つい魔が差してiTunesで「ウルトラセブン」を検索してしまった。するとあるんですよ、「交響詩ウルトラセブン」なる曲が。オリジナルスコアを書いた冬木透さんが、編曲・指揮をされた「冬木透 CONDUT ウルトラセブン」という、2009年収録のコンサートをアルバム化したもの。


出典:Amazon

実はこの曲については、ずっと前から知ってました。1979年にレコードで発売された、交響詩ウルトラマンとのカップリング。これって、宇宙戦艦ヤマトのBGMをベースに作られた、宮川泰さん作曲の「交響詩 宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットを受けたもの。ただ当時、中学生だった私にも、さすがに二番煎じの感じがしたのと、ヤマトの方を買ってしまって、立て続けにLPレコードを買うほどお小遣いもなく、購入には至らず。

それが40年の時を経て、しかもフィリピンに住んでいるのに、大人買いをしてしまいました。インターネットの威力、恐るべし。

ステレオでウルトラセブンの音楽を聴くなんて、小学生の頃に買ってもらった、ソノシート以来じゃないでしょうか。改めて気づいたのは、元々フルオーケストラで作曲・演奏されたものだったということ。無理にオーケストレーションしたのではないから、昔聴いたイメージそのまんまなのに、ちっとも貧相ではなく、むしろ驚くほどのクオリティアップ。

特に冒頭。暗くミステリアスなオープニングから、懐かしい「ウルトラセブン」の題字が現れるシーンの伴奏に続き、ホルンによるファンファーレも高らかに響く「セブン・セブン・セブン」の旋律。これは泣きまっせ、ほんま。



ライブ音源なので、拍手やら歓声も入ってますが、私としては全然気になりません。逆にウルトラセブンの歌に観客が手拍子していたり、終わりに「ブラボー!」の叫び声が聞こえると、もう共感の嵐。たぶん私と同世代のオっちゃんやオバちゃんなんでしょう。

子供の頃に興奮して聴いたという共通体験がなければ、何がいいのやら分からん内容。周囲にほとんど家がないのと、騒がしい音楽にはきわめて寛容なフィリピンにいるのをいいことに、窓を開けて大音量でウルトラセブンの世界を満喫。たまたま家の前を歩いていた人には、まったく理解不能だったと思われます。

ウルトラセブンなくて、ボルテスⅤ(ファイブ)の歌だったら、一緒に歌う人が現れたかもしれませんけどね。


2018年9月22日土曜日

姪っ子の憧れ イケメン警備員


我が家がある宅地、セント・フランシス・サブディビジョンに、日本人向けの英語学校、アクティ・ラボ、が開校してもうすぐ1年。なかなか経営は好調なようで、日本からの生徒さんが途切れることがない様子。特にゴールデンウィークや、日本での夏休みの頃は予約が殺到して、断らないといけないほど。

正直なところ、短期間でここまで盛況になるとは、私も予想していませんでした。つい最近、この学校のお世話になった姪っ子によると、英語留学先と言うより「ボランティア」「フィリピン」で検索した結果、英語も勉強できるんなら...という流れで申し込んだ人が多いらしい。

1日屋内に閉じこもって座講、ではなく、マンツーマンで付いてくれる先生と話し合って決めたテーマを元に、授業時間の半分は外へ出て、フィールドワークというスタイル。毎週金曜日には、その成果をみんなの前でプレゼンテーション。なるほど、これならボランティア希望の人でも、やってみたいと思うでしょうね。

テーマは、フィリピンでの環境教育の実態、みたいな、比較的硬いものもあれば、フィリピン人は日本人と韓国人の違いをどう認識しているか、なんてものまで多種多様。私だったら「シライでは第二次世界大戦を、どう教えているか」を調べるために、高校生やその先生に、グループ・インタビューをしてみたい。

そんなこんなで、街中を歩いていても、アクティ・ラボの生徒さんと思しき、若い日本人を時々見かけたり。先方にすれば、変な日本人がこっちをジロジロ見てる、と気味悪がられているかも。

また、フェイスブックで友達になった、学校経営者ユーキさんとサヨさん。そのタイムラインには、シライ市内で撮影された、生徒さんたちとの集合写真が頻繁にアップされます。当然ながら、ここセント・フランシスでのものあり、最近では日本女子に囲まれた、サブディビジョンの警備員の姿が。

中でも、人気のイケメン警備員のレイモンド君。FBのプロフィールによると、1990年生まれとありますから、今年28歳。今までそんな目で見たことがなっくて、まったく気付かなかったけれど、確かに若くて男前だし、ゲートを通る人には、いつも爽やかな笑顔で挨拶。もっともこれはレイモンドに限らず、人懐っこいフィリピン人には、普通にいるタイプ。


ご多分に漏れず、我が姪っ子もレイモンドのファンになったようで、いつの間にやらフェイスブックで友達になり、セルフィのツーショット写真を投稿してました。こら、レイモンド、デレデレ笑うんじゃないっ!

ちなみに姪っ子には、もう一人のお気入り警備員が。こちらは男前というより、可愛いベビーフェイス。私は勝手に「アンパンマン」とか「ジョリビー」と呼んでおります。

まぁ、男が制服女性に心をときめかせるのはよくある話なので、女の子が警備員のユニフォーム着用の男性に憧れるのも、分からないではない。しかも制服を着てるということは、プー太郎ではなく、ちゃんと仕事してるわけですからね。

ということで、ボランティアや英語留学といった、やや肩に力が入るアプローチより、こういう出会いの方が、血の通った国際交流で、いい感じだと思いますよ。


2018年9月21日金曜日

私的フィリピン美女図鑑 ヴィクトリアズ・シークレット

前回の「バスケのリナ」から、ずいぶんと間が空いてしまった美女図鑑、約1ヶ月半ぶりの更新でございます。毎週のようにお客さんは来るし、姪っ子の4週間の滞在があったりで、なかなか落ち着いてイラストを描く時間を捻出できなかったもので...。

ということで、今日のお題は、ヴィクトリアズ・シークレット(Victria's Secret)のモデルさん。

まず、ヴィクトリアズ・シークレットについての薀蓄を少々。1977年にサンフランシスコで創業。カタログ通販を中心に業績を伸ばし、今では世界で最も有名な女性下着ブランド。私でも知ってるぐらいですからね。

そして何と言っても、ここまで知名度を高めたのは、1995年から始まったファッションショー。これに出場してランウェイを歩くことは、超一流モデルの地位を約束されたのと同義というほど、モデルさんにとっては最高のステータス。

それだけに、選出されるには超難関の狭き門。まず、すでに活躍中のプロ・モデルであることが必須条件。身長176.5センチ以上(私より高い!)、ウェスト61センチ以下、体脂肪率18パーセント以下。でも痩せ過ぎはダメ。

重要視されるのは、女性が見て、あんな人になりたいと、思われることなんだそうです。セクシーじゃないと選ばれないけれど、それは飽くまで女性視点の魅力。しかも、インタビューを受けても、ヴィクトリアズ・シークレットのイメージを落とさないように、知性も品格も要求されるし、何より性格の良さが決め手なんだとか。

約2000名の応募者から、2018年のファッションショーに出場が決まったのは42名。その中で、フィリピン人モデルとして初めて選ばれたのが、今日の主役、今年22歳のケルシー・メリット嬢。(Instagram / Facebook)さすがに、ヴィクトリアズ・シークレットの選定基準を満たしただけあって、プロポーションの良さや美人であることは当然ながら、たいへん印象的な容姿。

実は、美女図鑑の描くために、「Filipino 」「Beauty」「Sexy」などのキーワードで、画像検索して見つけた写真が記憶に残り、それを辿った結果、ヴィクトリアズ・シークレットのモデルになる人だと分かった次第。やっぱり一流の人は、素人目に何気なく撮ったように見える写真でも、何かしら光る物を表現するんですね。

ということで、今回はあまり道具立てや衣装に凝らず、サラっと描いてみました。いががでしょうか?


ちなみに、ミランダ・カーって、このショーで有名になった人だったんですね。彼女は、その後、ヴィクトリアズ・シークレットのスポークスウーマン、いわゆる「エンジェル」に選ばれました。ケルシーも、フィリピン出身のエンジェルになってほしいものです。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年

2018年


2018年9月20日木曜日

孤独の三重苦


今日は同じ東南アジアながら、フィリピンではなくタイについて。と言っても、楽しい話題ではありません。先週の9月12日、タイ・バンコクに住む35歳の日本人女性が、コンドミニアムから転落死したという、痛ましい事件に関する投稿です。

タイと言えば、東南アジアではダントツで在留日本人が多い国で、その数7万人余り。(2018年版 外務省による海外在留邦人数調査統計による)フィリピンに住む日本人が、1万7千人と言いますから、ざっと3倍以上。世界中を見ても、アメリカ(42万6千人)、中国(12万4千人)、オーストラリア(9万7千人)に次ぐ、第4位の多さ。

首都バンコクの永住者・長期滞在者に限っても、3万人の日本人がいるとのことで、これまたマニラの3倍。さぞや層の厚い日本人コミュニティーが形成されていることでしょう。

このバンコク在住の、亡くなった日本人女性。夫の海外駐在に伴って帯同した、いわゆる「駐妻」らしい。4歳と生後3ヶ月のお子さんを残して、自殺の可能性が濃厚。ちょっとググっただけで、多くの記事やブログがヒットしたところを見ると、現地日本人の間では相当なインパクトがあった模様。

ちなみに、私がこのニュースを知ったのは、スニさんのブログを通じて。ご興味のある人は、そちらをぜひ読んでいただくとして、私なりに、その背景について考えてみました。

思うに、日本生まれ日本育ちの奥さんが、ある日突然、それまで縁も所縁もない国で暮らし始めたら、どうしてもある程度の孤独は感じるもの。

まず、気候は異なり、食事も違うという生活に加えて、日本語を使える環境が極度に限定される孤独。昔に比べればネットはあるし、国際電話だってほとんどタダ同然。それでも、リアルで一緒に出かける友達や、直接会って愚痴を聞いてくれる人がいないのは、やっぱりつらい。勤め先を辞めてまで夫に同行した人だったら、この寂しさは尚更でしょう。

個人差は大きいものの、気の置けない友人とのお喋りで、ストレスを解消し、大袈裟に言うと生き甲斐すら感じる人もいるようです。今年82歳の母は、フィリピンの我が家で同居という話もあったものの、やっぱり友達と気軽に会えなくなることがネックで、移住計画は沙汰止み状態。

また言葉に関しては、英語が通じるフィリピンに比べると、タイは本当に苦労します。私も以前、何度か仕事で渡航しましたが、大きなホテルのフロントや空港を除けば、タクシーの運転手も、レストランでも、ちょっとした英語が通じず、難儀した記憶が。

次に難しいのが、日本人コミュニティの中で感じる孤独。日本人が何万人いても、自分の周囲の日本人と馴染めないと、これは相当厳しい。私には経験はないけれど、同じコンドミニアムに住んでるとか、夫同士が同じ会社だとか。他に付き合う日本人が限られているので、馬が合わなくても絶縁することもできず。

言ってみれば、一種の閉鎖されたムラ社会。私など、これが怖くて、バコロド(西ネグロスの州都)の日本人会には近づかないほど。人間関係が良好ならば居心地はいいんでしょうけど、一旦こじれると、距離を置くのも難しくなりますから。

そして一番耐え難いのは、頼みの綱の家族が、孤独の元凶になってしまうこと。そもそも家族帯同で来るのは、お互いに支え合うことが目的のはず。なのに、夫は早朝から深夜まで仕事。土日もろくに休めず、日本から出張者でもあれば、フル・アテンド状態。

実は私が企業の海外担当社員だった頃は、タイでもフィリピンでも、駐在員にお世話になった側。始業の1時間以上前から、宿泊ホテルに迎えに来てもらったし、仕事中はもちろん、夕食やその後のナイトライフの面倒まで。正直、夕方の定時以降は放っといてもらった方が気は楽だし、酒が飲めないので、バーやクラブに連れて行かれても...という感じ。駐在員だからって、そこまでする義務があるんでしょうか。

これでは奥さんからすれば、単身赴任と変わらない。何のために、無理して海外生活しているの分からないし、浮気を疑われもするでしょう。その上、幼いお子さんがいるとなったら、駐妻にかかる心身の負担はいかばかりか。言葉や習慣の違いで、メイドを雇っても却って負担が大きくなると感じる人もいて、こうなると、助けようがなくなってしまいます。

おそらく、海外暮らしで心を病んでしまう人って、こういう孤独の三重苦に落ち込んでいるんじゃないかと推測。さらに追い討ちをかけるのは、会社から各種の手当など、金銭的補助を受けている負い目。そんなもの義理人情じゃなくて、単に会社の規則で決まってること。それでも、やっぱり、こんなにしてもらってるのに、文句は言えない、となってしまうんでしょうね。

と、ここまで書いてきて思うのは、これほど追い詰められたら、駐妻じゃなくても、精神に変調を来さないほうが不思議なくらい。私だったら、1ヶ月と保たない。その上、3年なのか5年なのか、終わりがはっきりしてないのは、致命的。

鬱を患った私の経験からすると、はっきりと残り何年何ヶ月と時間を限ってしまえば、つらい職場も何とか耐えられました。50歳到達と同時に早期退職でフィリピン移住というのが、暗闇に見える、唯一の灯台だったと言ってもいいぐらい。それすらない状況だと想像すると、それはツラい。ツラ過ぎる。

海外生活を楽しめるかどうかなんて、その人が持って生まれた資質や、育った環境に大きく左右されるもの。性格の良し悪しや、精神力の強弱と結びつけたりするから、話がややこしくなって、自分を追い込んでしまう。

結局のところ、現地で暮らしてみないと、合う合わないは分かりません。なので、海外生活のお試し期間を設けるべき。最長で1ヶ月ぐらい現地に住んでみて、無理なら単身赴任に切り替えるとか、駐在そのものを見直すとか、できないものなのか? 社員やその家族が、深刻な病気になったり、最悪、命を落とすことに比べれば、決して高いコストではないでしょうに。

これって、海外赴任の家族帯同に限らず、進学や就職、転職、結婚などなど、あらゆることに失敗を許さない、日本社会の不寛容さのあわられのような気がします。本当は少々失敗したって、敗者復活の機会は、何度でもあるんですけどねぇ。生きてさえいれば。


2018年9月19日水曜日

フィリピンは災害対応先進国?

数日前ぐらいから、フィリピン関係のことがツィッターで話題になってますね。2枚の写真を比較して、「左がフィリピン右が...。毎年繰り返し起こる災害。日本政府、自治体は何を学んでいるのか...」、とするツィート。もう、まとめサイトまで出来て、さんざん叩かれているので、ご存知の方も多いと思います。


あっさりネタをバラしてしまうと、左は先月(2018年8月)に、マニラ首都圏のマリキナ市を中心に、洪水で大きな被害が出た、モンスーン(季節風)豪雨の時で、右は2004年の新潟県中越地震の際、避難場所となった小千谷市総合体育館

フィリピンにお住まいの方なら、容易に想像ができると思いますが、こういう仮設の間仕切りを支給されるのは、かなり幸運に恵まれた状況でしょう。4000世帯近い住民が避難した中で、大部分はザコ寝状態だったと思われます。(下写真は、同じ時にケソン市内の避難所で撮影されたもの)



出典:News 4 Europe

私は、その少し前、たまたま一昨年(2016年)の熊本地震の避難所に、簡易式の間仕切りが設置されたという記事を読んだばかり。ツィートを見た瞬間に、これは炎上狙いのネタやなと、ピンと来ました。



それ以外にも、写真の撮影時期や場所などのデータは皆無だし、日本の避難所写真が妙に古い。最近のスマホなら素人が撮っても、もっと鮮明な画像になるはず。まさか14年も前のものだとは思いませんでしたが。

案の定、ちょっとネットで検索したら、すでに上記のようなことは、だいたい書かれてました。やっぱり脊髄反射的に反応しちゃいけませんね。この手のSNS上の素人投稿は、反論するにしろ拡散するにしろ、最低でも元ネタを確認する程度はしないと、デマの片棒を担ぐことになりかねません。

とは言うものの、今回の件にしても、日本がフィリピンよりずっと進んでいて、素晴らしい国だ、印象操作で日本を貶めるなんてケシカラン、などと騒ぐ気にもならない。

現状の日本で、すべての災害に完璧に備えている自治体はないだろうし、そもそも、あらゆる自然災害を詳細に予測することなんて不可能。つい先日の関西空港を閉鎖に追い込んだ台風や、北海道全土が停電になった地震など、誰が事前に被害想定をしていたでしょう。

まぁ、これほど同じ地域で、洪水が度重なるフィリピンの場合は、何とかならないものかと思ってしまいますけどね。フィリピンに関しては、もっとポジティブな話題で、ツィッターやフェイスブックを賑わせてほしいものです。


2018年9月18日火曜日

忘れがたき日本名


出典:Amazon

前回、台風が上陸した日に生まれた我が子に、その台風の名前をつけちゃったという投稿をしたところ「フィリピンの台風は、人の名前ですから」と、わざわざ本文に書いてあることを、コメントした方がいました。

これって、タイトルしか読んでないのか、それともよほど日本語の読解力に難があるのか。いきなり勘違いで、怒りの暴言をぶつけられるよりは、すいぶんとマシとは言え、コメントをするんなら、もう少しちゃんと読んでいただきたいものですねぇ。

それはさて置き、今日も名前のお話。

日本人の名前は、どうやら日本人以外の人には発音しづらいものが多いらしい。例えば、タカハシ、ワタナベ、ヤマモト、サイトーなどなど。子音だけの発音がなく、TA-KA-HA-SHI のように、いちいち母音がくっついた音を3つ4つと続けるので、慣れないと言いにくいし、覚えにくだろうと思います。

なので、ファーストネームの場合は、マサヒロだったら、MasaとかMacなどのニックネームにしたり。私が勤めていた会社では、海外業務が多い社員の場合、英文の名刺裏書に、ニックネーム併記をすることが奨励されていました。特に営業さんだと、名前を覚えてもらえないのは、ビジネス上好ましくないですから。

最近は、キラキラネームとまでは行かなくても、マリナやサヤ、カイト、ショーなど、そのまま欧米でも通用する名前も多く、ファーストネームに限れば、発音が難しくない人も。息子のケンは、最初からそれを狙ってました。

私のようにカトリックの洗礼名があると、さらに便利。フランスコ・ザビエル(Francisco Xavier)なので、Francis X. と印刷すると収まりもいいし、何より初対面の人が珍しがって由来を質問したりするので、そこから会話の糸口になることも多かった。

ところが例外的に、百発百中で覚えてもらえて、まず忘れない日本名もあります。ホンダにトヨタ、カワサキ、スズキ。本田さんや川崎さんは、海外旅行の度に、これら有名日本企業の創業者に、感謝されているかも。

そう言えば、前のアメリカ大統領が就任した直後に渡米した、会社の同僚、小浜さんは、イミグレーションで人気者になったんだそうです。女性だったので、判で押したように「ファースト・レディ」と呼ばれたとか。

そういう意味で、フィリピンで大抵の人が知っている日本名の一つが、マキタ。あの電動工具を作っている会社。

フィリピンでは、家を建てたり修理したりする時に、業者や大工に任せっきりにせず、施主自らが建材を品定めすることが多く、場合によっては電動ドリルなどの工具まで購入。そんな時に、ホームセンター(こちらでは、ハードウェアの名称)で頻繁に見かけるのがマキタ。ドイツのボッシュ(Bosh)などと並んで、フィリピンでも電動工具のトップブランド。

また、Makita はフィリピノ語で、Kita「見る、会う」の未来形。西ネグロスの方言、イロンゴ語で「Makita Anay Kita(マキタ・アナイ・キタ )」と言えば、「また会いましょう」になります。偶然ながら意味のある言葉なので、地元の人にも覚えやすい。

実は私の苗字も、フィリピノ語でほぼ同じ発音の言葉があるのですが、「安く買う」とか「値切る」の意味になってしまいます。フィリピン在留邦人の間では、わりと有名なネタなので、暇な人はネットで調べてみてください。


2018年9月17日月曜日

オンポンとオンピン

今日は、少し遅くまで残って、夕食の用意をしてくれた我が家のメイド、ライラおばさん。魚スープを料理しながらイロンゴ語でお喋り中、家内がエ〜と素っ頓狂な声。

一体、何の話からと思ったら、ライラの親戚が双子の男と子を出産。その二人に「オンポン Ompong 」「オンピン Omping」と名付けちゃったんだそうです。出産当日の先週土曜日に、22号台風オンポン(Ompong/フィリピン名)が、フィリピンに上陸したから。同じ話を、もし日本語でツィートしたら、不謹慎だと大炎上間違い無し。

フィリピンでは、日本でも採用されている通し番号や、各国持ち回りの国際名とは別に、フィリピンの観測担当領域に入った台風や熱帯低気圧に、独自名/パガサ・ネーム(PAGASA フィリピン気象庁の略称)を付けるのが習わし。今回の22号(国際名マンクット)は、フィリピンではオンポンと命名。

これは事前に、アルファベット順の名前が用意されていて、今年2018年のリストは、以下のようなもの。


出典:Rappler

人の名前を付ける決まりなんだそうで、こういうのが4セット。つまり4年毎に同じ名前が巡ってきます。ただし、2013年のスーパー台風ヨランダや、今回のオンポンのように、甚大な被害を出したものは、それ以降の使い回しは控える。

それにしても、私の義母ヨランダのように、偶然台風の名前になってしまうことはあっても、わざわざ多数の死者を出した台風と、同じ名前を我が子に付けるって、ちょっと理解できない感覚ですね。ニックネームと言ってましたが、家族や親戚、友達は、間違いなく本名よりもニックネームを多用するフィリピン。

ちなみに、こういうミーハーな名付け方って、実は私たち夫婦にも身に覚えがないでもない。もちろん台風の名前ではないけれど、一人息子のケン。家内は歌手の平井堅さんのファンで、私のヒーローは、俳優の高倉健さんに、緒形拳さん。この3人のケンさんにあやかりました。(漢字は違いますよ)

ただ好きな有名人の名前というだけでなく、日本でもフィリピンでも、違和感がないようにとの配慮もありましたけどね。

さらに、今日まで4週間、我が家に滞在していた姪っ子の名前がミナミ。これはその父(私の弟)が、あだち充さん原作の人気コミック「タッチ」に登場する女の子「南」の大ファンだったから。当のミナミ嬢は、従弟のケンの命名も同じような経緯だと知って、「揃いも揃って、なんちゅう兄弟や」と呆れておりました。


「タッチ」の浅倉南


月曜朝の悪夢


昨日は久しぶりで温泉に浸かって、全身マッサージしてもらっての、ほどよい疲労。夜10時ぐらいには、早々と就寝。

ところが、もう50代の半ばも過ぎると、こんな寝方したら大抵早朝に目が覚めてしまうもの。今朝も案の定、4時過ぎぐらいに半覚醒状態。まだ真っ暗だし、もう一度眠りにつけなくても、ベッドから起き上がる気力もなし。いつのまにかウトウトして、嫌ぁ〜な夢を見てしまいました。

大学を卒業後入った会社に28年。早期退職して、もう6年目だと言うのに、未だに見るサラリーマン時代の夢。楽しかったり、充実した日々もいっぱいあったはずなんですが、夢に見るのは、退職直前の辛かった職場や、最悪だった上司のことばかり。

夢のことなので、ちゃんと筋が通ったストーリーがあるわけではなく、いろんな場面が断片的に次から次へ。わりとはっきり覚えているのは、通勤のシーン。雨の降る月曜日の朝、なぜかいつも乗る電車が、目的とは反対方向に走り出し、焦りまくっているというもの。

その上、乗り換えた大きな駅(梅田?)では、乗ろうとする列車のホームが見つからず、またもや焦る。そのくせ、自分はもう退職したことは意識にあって、どうしてまた、通勤しようとしているのか訝しむという、実に疲れる夢でした。

ようやく明るくなった窓から、朝日に照らされた椰子やバナナの葉っぱを見て、ネグロス島の自宅にいると気づき、安堵のため息を吐く始末。我ながら、よっぽど深いトラウマになっている。

今にして思えば、勤め人時代最後の5年間ぐらいは、羽化に備えた蝶が蛹になって、自由に飛び回れるようになるのを、ひたすら待っていたような時期でした。抑鬱と小康状態を繰り返し、何度も休職。50歳を機にフィリピンに移住する、具体的な計画がなければ、最悪の選択をしていたかも知れません。

また、会社にとってもお荷物以外の何物でもなかった。曲りなりにも5年余り、放り出さずに様子を見てくれたことを考えれば、決して悪い会社でもなかったんでしょう。

それにしても、もう出社拒否をする必要もないというのに、やっぱり悪夢は月曜日の朝。人生の半分以上を、このライフスタイルで通してしまったので、バイオリズムのパターンが、刷り込まれてしまったようです。まだまだ南国でのメンタル・リハビリテーションが、終わってない感じですね。


2018年9月16日日曜日

姪っ子帰国前夜


早いもので、8月下旬から短期英語留学のため、我が家に滞在していた姪っ子が、明日(9/17)に帰国します。長いと思っていた4週間も、過ぎてみればあっと言う間。

とは言え元々身内だし、私が結婚した時に生まれたので、フィリピン人の家内もよく知っている。家族が増えたようなものだから、明日以降の「姪っ子ロス」が心配になるほど。最初は恥ずかしがって喋らなかった息子も、ようやくお姉ちゃんに慣れたんですけどね。

この週末は、ネグロス滞在の最後ということで、かなりギッチリ予定を詰め込みました。最近シライ市内にできた、超オシャレなレストランで食事をしたり、英語学校でのクラスメイトを自宅に招いて、ちょっとした送別会を開いたり。

昨日の朝は、射撃体験を計画。ところが、台風22号の影響で生憎の土砂降り。練習場が屋外なので、残念ながらキャンセル。その代り、拳銃を貸してくれる予定だった、家内の従弟ラルフ、その美人妻エリアンと一緒に、バコロドのSM(ショッピングモール)でランチ。フィリピンに来て会った人の中で、一番可愛いと、ちょっとお姉さんのエリアンが気に入ったようで、ずいぶん楽しそうな姪っ子でした。

そして最終日の今日、日曜日。車をチャーターして1時間半ほどの場所にある、温泉リゾートのマンブカルへ。親元を離れて大学に通い、今は一人暮らしの姪っ子。シャワーばかりで、日本でもたまにしか湯船に浸からないとのこと。久しぶりの温泉にすっかりリラックス。お風呂の後は、全身マッサージ。これで4週間の疲れも癒されたでしょう。

実は、私が日本にいる時には、姪っ子との会話は、ほとんどありませんでした。お正月に実家に集まって、軽く挨拶してお年玉を上げるぐらい。まぁ、叔父と姪なんて、どこでもそんな感じの関係が多いと思います。叔父や叔母の家に、それも海外の家に長逗留するのは、かなり特殊なケース。

それが今回、たまたま私も姪っ子も、よく喋るタイプだったこともあって、今まで知らなかった祖父母(私の両親)や、父(私の弟)の若いころの逸話を語ったり。それだけでなく、最近の若い人って、年長者からいろいろ聞くという経験自体が少ないらしい。姪っ子のスクールメイトも一緒になって、私のようなオっさんの言うことに、こっちが驚くほど真剣に耳を傾けてくれました。

ということで、大学の授業にアルバイトなどなど、忙しい学生生活を送っている姪っ子ですが、来年の夏休みにも是非また、ネグロスの我が家に来てもらいたいものです。叔父ちゃんは、待ってるで〜。


2018年9月15日土曜日

我が街シライにジョリビーがオープン


出典:Soxially

本日9月15日。ついにネグロス島の我が街シライに、フィリピンで最も人気の高い外食チェーンのジョリビーがオープンしました。

フィリピンに住んでいたり、頻繁に渡航する人なら説明するまでもない、フィリピン人のジョリビー好き。マクドナルドやケンタッキーフライドチキンと、それほど大差がないようなメニューに、これまた他チェーンと同じような店舗。強いて言えば、いかにも地元受けしそうな、極甘トマトソースのスパゲティが特徴。

日本人の感覚からすれば、一体何がそんなにいいのかと、首を傾げたくなります。ところが、こちらでは老いも若きも男女を問わず、ファンが多い。1975年、マニラ首都圏のケソン市内に、アイスクリーム店として商売を始めたジョリビー。

その後、フィリピン人のテーストに合わせて、ご飯メニューに、サンドイッチやハンバーガー、フライドチキンなど、野放図と言ってもいいぐらいに、提供する食事の幅を広げ、今では国内外合わせて1200店舗以上。圧倒的な集客力を誇ります。

そんなジョリビーなので、まだシライに進出していなかったのが不思議なくらい。ご当地生まれの家内によると、シライの地主たちはファーストフード嫌い。また、商業施設として土地を売ることに難色を示す人も多いんだとか。そのため、シライ市内にある、全国チェーンの飲食店と言えば、チキンバーベキューで有名なマン・イナサル(Mang Inasal)と、アイスクリーム/フライドポテト限定の小さなマクドナルドぐらい。

流れが変わったのは、2015年のセーブ・モア(フィリピン最大手のスーパーマーケット)のオープンから。その後、郊外にアミューズメントパークの誘致が決まったり、リゾート開発が始まったり。極め付けが今年3月、シライ初のショッピングモール、ガイサノの開店。今日オープンしたジョリビーは、そのガイサノ内テナントの一つ。

ということで、早速行ってきました、ジョリビー・シライ。まだ「ソフト・オープン」のはずが、店舗は完全に出来上がっているし、ぱっと見たところ、メニューも限定なしのフルサービス。予想通り、店内に入りきれないほどのお客さんで、ごった返していました。






さらに、週末でも閑散としている、ガイサイのスーパーや他の店舗が、見違えるほどの盛況ぶり。もうジョリビー効果とでも呼ぶしかない。すごいですね。



これほどの人気に加えて、プロモーションも怠りなし。シライ市内の名所・旧跡をジョリビーのキャラクターが歩き回り、新店舗に案内するという、シライノン(シライ市民)なら、思わず微笑んでしまうようなビデオが、フェイスブックに投稿されてました。

まぁ正直に言うと、静かでのんびりした田舎町の風情が、ここ数年で徐々に失われている感じがしないでもない。これも時代の流れなんでしょうね。


2018年9月14日金曜日

猛烈な台風が接近中



これを書いている、フィリピン時間の9/14午後9時現在。中心気圧905hPa、中心付近の最大風速秒速55メートル、最大瞬間風速が竜巻並みの秒速80メートルの、「猛烈な」勢力の台風22号(フィリピン名 オンポン Ompong)が、ルソン島北部に接近中です。明日9/15(土)未明には上陸の見通し。

これは、2013年11月、私の住むネグロス島を含む、フィリピン中部のビサヤ地方を直撃し、6000人を超える死者を出した、スーパー台風ヨランダとほぼ同じレベル。(最低気圧895hPa 最大瞬間風速90メートル)

ヨランダでは、レイテ島タクロバンなど、上陸地点に近い沿岸部での大規模な高潮が発生。高潮を意味する英語のストーム・サージ Storm Surge という言葉で警告が出たものの、住民の多くが理解せず。それが避難の遅れを招き、大惨事となった一因とも言われています。Tsunami (津波)が来ると言ってくれたら、との声も。

今回は、その教訓が活かされているようで、テレビニュースでCGを使って、低気圧と強風が、いかに潮位の上昇を招くかを解説。沿岸住民への早めの避難を呼びかけていました。

すでにマニラ首都圏を始め、ルソン島やその周辺では、学校は臨時休校。ニノイ・アキノ国際空港の発着便は、9/16(日)まで、多数のキャンセルがすでに決定済み。

ただし今回、大きな被害が予想されるのは、上記の地域。
ここネグロス島では、すでに台風は遠ざかって、夕刻降った雨も上がり、やや強めの南風が吹く以外は、普段通りの平穏な夜を迎えています。

ということで、今日は速報ベースで、台風についての情報をお知らせしました。


2018年9月13日木曜日

誰が「甘ちゃん」やねん


「あまちゃん」と言っても、少し前に流行ったNHKの朝ドラではありません。(私は観たことないですけど)

姪っ子が先週まで通っていた、日本人向け英語学校の生徒に、「甘ちゃん」と呼ばれたそうです。フィリピンに滞在しているのに、叔父(つまり私)の家に泊まり、車で送り迎えしてもらってるから、ということらしい。

姪っ子を甘ちゃん呼ばわりしたのは、まだ20代ながらもう学生ではなく、世界各国をバックパックで旅するようなタイプの兄ちゃん。おそらくパスポートに押された、出入国のスタンプの数を自慢にしてるんでしょうね。

まったく勘違いも甚だしくて、もし私がその場にいたら、怒鳴りつけていたでしょう。まず、姪っ子(に限らず、他の生徒さんも)が、わざわざネグロス島までやって来たのは、異国暮らしの訓練を受けるためではなく、ただ単に英語が安価に学べるから。別に、地元の人の生活を体験するのが主目的ではありません。

せいぜい英語学習のついでに、せっかくここにいるんだから、観光旅行では触れることのできない、リアルなフィリピンを感じましょう、ぐらいの事。それに、姪っ子の場合は、夏休みを利用して、親戚を頼ってのネグロス渡航。その親戚の世話になって、何が悪い。

また送り迎えも、夜遅くなったり土砂降りだったり、本当に危ない時に限ってます。若い女性が、深夜に一人でトライシクル(オート輪タク)に乗って帰宅するなんて、ネグロスに生まれ育った人でも避けるもの。もっと言えば、車に乗れるだけの経済的余裕があれば、フィリピン人でもそれを贅沢だなんて思いません。万が一事故や犯罪に巻き込まれたら、責任を取れるわけでもなし。

一番腹立たしいのは、その張本人が、ほんの2週間ほど前に我が家で、私の料理したものを喜んで食べたこと。フィリピンに滞在してるのに、日本人の家でタダメシ食うのは、甘ちゃんとちゃうんか? 言ってる事とやってる事が、全然違うやんけ。そんな大口叩きたければ、極貧の人たちに混ざって、電気も水道もない場所に、2〜3年住んでからにしろと言いたい。

以前にも書いたように、こういう何の意味もない、不便さや貧乏暮らしを有り難がるメンタリティの持ち主って、フィリピン在留邦人にもたまに見かけます。自己満足で、いかに安上がりに暮らせるかの追求は、好きにすればいいけれど、同じことができない(あるいは、敢えてしない)人を見下す態度は、側から見ても嫌な気分になりますね。




2018年9月12日水曜日

ネグロス旧跡巡り

前回前々回に引き続き、またもや姪っ子のネグロス滞在日記です。

英語の勉強が終わった後も、大福を作ったり、豚の屠殺を見に行ったりと、いろいろ行動している姪っ子。昨日の午後と今日は、予てからの本人希望で、太平洋戦争に由来する旧跡を、自宅のあるシライ市内から、車で1時間程度の範囲内で巡りました。

最初は、ルーインズ(The Ruins)。
ずばり「廃墟(または遺跡)」と名付けられたこの場所。20世紀初頭、サトウキビ栽培で財を成した富豪、ドン・マリアーノ・ラクソン所有だった、イタリア様式による住宅建築。別名マンション(邸宅)と呼ばれ、妊娠中に不慮の事故で他界した、妻マリアを偲んで建てられました。

その後、戦争が始まり、日本軍によって利用されることを恐れた、アメリカとフィリピンのゲリラ兵により放火。火災は3日間続き、現在、保存・整備されているのは、焼け残ったコンクリート部分のみ。そこから「ルーインズ」の名称が定着したのでしょう。

つい最近、屋根だけは新たに補修され、内部には常設の説明パネルや、土産物店も開設し、西ネグロスの代表的な観光スポットとして、空港にもおおきなポスターが貼られているほど。


このように、日本による侵略の記憶を留める遺構ながら、広大な庭園は美しく手入れされ、洒落たカフェやレストランもオープン。各種イベントや結婚式などにも利用可能。戦争の悲惨さを伝えるような面影は、ほとんど見ることはできません。これには姪っ子も、少々当てが外れたようです。

とは言え、そこは何事も楽しんでしまう性格の姪っ子。平日の昼間で閑散としたカフェの、一番いい席に陣取り、ルーインズの風景を眺めながら、贅沢な午後のお茶の時間を過ごしました。


翌日は、シライ市内の山間部、ランタワンとパタッグ。
戦争末期の1944〜45年(昭和19〜20年)の戦闘で、海岸から迫る米軍の砲撃を逃れ、敗走する日本兵の多くが、ここで戦死・戦病死しました。その数、およそ8000。


こちらも、当時の状況を彷彿とさせるような遺構はほとんど残っておらず、最近、道路は舗装され、マンダラガンの山腹から山頂にかけては、キャンプ場やコテージ、レストランにカフェなど、すっかり観光地の様相。最初に立ち寄ったリゾートでは、ハート型のプールが作られていました。



唯一、古戦場を意識させるのは、パタッグにある旧病院。戦時中は、日本軍の司令部が設置され、現在は多目的施設として使用。家内もここに宿泊したことがあります。真偽のほどは定かではありませんが、夜半、正体不明の白い人影を目撃したんだとか。本人は幽霊だと信じている様子。

その旧病院に隣接する森の中には、日本人によって建立されたジャパニーズ・シュライン(日本神社)があります。神社と言っても社殿はなく、おそらくは現地の大工さんが作ったと思しき、奇妙なバランスのコンクリート製鳥居と、御神体を模した石棺のようなものが安置されているだけ。


出典:DEVIANT ART

案内してくれた、施設の管理人のおばさんによると、現在、敷地内は撮影禁止。やたらとフェイスブックに写真がアップされ、観光地でもないのに、マナーに欠けた物見遊山の人々が押しかけるから。

それにしても、日本本土から何千キロも離れた外国のこんな山の中まで、現地の人にとっては迷惑千万な戦火を撒き散らし、しかもほとんど見殺し同然に、兵士たちを無残な死に追いやったとは。なんと愚かなことをしたのかと、今更ながら溜息が出てしまいます。

ということで、5年以上ネグロスに住む私も、何箇所かは初めての場所。しかも、戦争の跡を追うという、今までにない視点で旧跡巡りができたことは、姪っ子に感謝しなければなりませんね。


2018年9月11日火曜日

姪っ子と過ごす日々


前回に続いて、我が家に滞在中の姪っ子の話題。
合計4週間のシライ滞在も、残り1週間を切りました。昨日は、午前中に大福作りをした後、午後から豚の屠殺場見学と、普通の観光旅行では有り得ないような、スプラッタなスケジュール。

実は、メイドのライラが屠殺場の近くに住んでいて、姪っ子の要望を話すと、快く案内役を引き受けてくれました。以前、私も行ったことがある、シライ漁港に隣接する施設。詳しくは、こちら(黄昏時の屠殺場)をご覧ください。

豚をさばくところは、移住早々の頃に一度見学したし、何回も見るようなものでもなし。これ幸いとライラにお任せしてしまった私。神経の細い人ならショックを受けて、豚肉を食べられなくなるケースもある。どうなることか、ちょっとだけ心配して帰りを待ちました。

昼食後に出かけて約1時間。特に顔色が変わるようなこともなく、姪っ子姫のご帰還。やっぱり多少は動揺したみたい。詳細の報告は割愛しますが、生まれて初めてみるシーンなだけに、何かしら感ずるものがあったんでしょうね。

でも、夕食の献立をポーク・アドボ(フィリピン風、豚肉の酢醤油煮込み)にしていいかと尋ねたら、アッケラカンとOK。「だって豚肉、美味しいもん」なんだそうです。その上、食べるだけでなく、フィリピン料理の作り方を覚えて帰りたいからと、その日は私のアシスタント・コック。屠殺を見た直後に、平気で生の豚肉を刻むって、なかなかエエ度胸してますなぁ。

たまたま、ライラの中学生になる息子が、学校で喧嘩騒ぎを起こして、先生に呼び出し食らって緊急早引き。何ともタイムリーなこと。料理を手伝った後は、出来上がったアドボを豚さんに感謝しつつ、きれいに平らげた、姪っ子なのでした。


一夜明けて、今日の午前中。
昨日、試作した大福を、いよいよ英語の先生に届けようと、またまた早くから台所に。途中でココナッツミルクパウダーが足りなくなって、ライラにスーパーに走ってもらったり。それでも首尾よく20個以上の大福を量産して、同じサブディビジョン(宅地)内の英語学校へ、お昼休み時をめがけて配達しました。

先生だけでなく、すっかり友達になった他の日本人生徒さんにも大受けで、あっと言う間に完食御礼。中には二つ三つとガッツいてる先生もいて、お世辞で「美味しい」と言ってるのではなさそう。やっぱり大福って、フィリピン人とは相性がいいのかも。



ということで、次回も姪っ子のネグロス滞在日記は続きます。


2018年9月9日日曜日

ネグロスで作る大福の味


当初の予定通り、ここネグロス島シライでの、2週間の英語レッスンを終了した姪っ子。今日は朝から、お世話になったフィリピン人英語講師へのお礼にと、和菓子作りの材料買い出しに出かけました。

和菓子の材料と言っても、日本食材があるバコロドのショッピングモールではなく、トライシクル(オート輪タク)で我が家から5分もかからない、セイブ・モアのスーパーマーケット。一体何を買ってくるんだろう。

小一時間ほどで持ち帰ったのは、タイ産のもち粉(Rice Flour)、ココナッツ・ミルク・パウダー、そして金時豆(Red Kidney Beans)の缶詰。へぇ〜、こんな食材がシライで普通に売ってたとは知らなかった。つまり、これで大福を作ろうというわけです。

最初、餡子は、ウベ(サツマイモに似た紫色の芋)を蒸して、ペースト状にしたもので代用しようと思っていたらしい。ところが、姪っ子の言葉を借りると、スーパーの食器棚にいた金時豆と「目が合った」そうです。君、こんなとこにおったんか、とばかりに即購入。

関西に生まれ、今は関東地方の大学に通う姪っ子。生まれて初めての一人暮らしで、1年生の時は頑張って自炊してたのが、プログラミングの勉強はたいへんだし、自分一人のために調理となると、コンビニで出来合いを買って食べた方が安い。その上、バイト先の居酒屋では賄い食もあって、最近ほとんど料理をしていないとのこと。

今回のシライ滞在でも、姪っ子が厨房に立つ姿を見るのは、これが初めて。まぁ、やればできるというのは分かってたし、アシスタントにメイドのライラもいるので、台所仕事は任せて、私は2階の自室に籠もっておりました。

そろそろ、昼食とお弁当作りにかかる時間だと思ったら、階下から「できたよ〜」と嬉しそうな声。大福って、そんなに短時間でできるものだったのか?

降りてみると、ちゃんと大福の形をした食べ物が、お皿に置かれてました。今日は試作なので、数は少なめながら、ファーストトライとしては上出来。昼食後に試食してみたところ、味も食感もまったく違和感なしで、普通に美味しい。小さく刻んだマンゴーが入ってるのも悪くない。これなら、相手がフィリピン人でも日本人でも喜んでくれるでしょう。


作者本人は、まだまだ改良の余地あり、みたいな感じながら、まんざらでもない様子。その後、帰宅した家内や息子も、晩ご飯のデザートに一つづつ、美味しそうに食べてました。

そう言えば、隣街のタリサイにあるアヤラモールで、モチコ(Mochiko)という名前の、変わり大福みたいなお菓子を売ってましたね。そうか、あれは「餅粉」のことだったのかと、今頃気付きました。

調べてみたら、フェイスブック内にもホームページがあるぐらいなので、フィリピンでも大福は、ある程度の知名度と市民権を得ているのかも知れません。マニラやセブでは、人気があるんでしょうか?