2021年12月30日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 アイドルまーちゃん

早いもので、もう今年(2021年)最後の美女図鑑更新です。

今日のモデルは、フィリピン在留邦人のアイドル的存在の「まーちゃん」。アイドルというのは、私が勝手に思い込んでるだけかも知れませんけど。

まーちゃんは、フィリピンのお母さんと日本のお父さんを持つ日比ハーフ。フィリピンの音大を出て今も音楽活動を続け、ボイストレーニングを欠かさない正真正銘音楽のプロ。楽器演奏や歌唱など、ミュージシャンの層が厚いフィリピン。ギターの弾き語りぐらいお茶の子サイサイで、YouTubeにガンガン自分の楽曲をアップしてるアマチュアは私も知ってますが、正規の音楽教育を受けたっていう人のは、あんまり聞きません。

もちろんそれだけではなく、私がモデルになってほしいと思うぐらいなので、そりゃぁ別嬪さんなんですよ。リアルではお会いしたことはないものの、日刊まにら新聞が発行している情報紙「ナビマニラ」の顔。マニラ首都圏のお店やレストランを紹介するナビマニチャンネルのナビゲーター役を務めたり、タガログ語の歌を歌って、その美声を披露したり。


とは言え、決して雲の上の人ではなく、ツイッターで私のくだらないジョークにも返信してくれる、等身大のアイドル。まーちゃんのお父さんと同世代であろう私が、追っかけするのも迷惑でしょうけど、ダメ元で「イラストのモデルになってくれませんか」と尋ねたところ、二つ返事で快諾をいただきました。

でもよ〜く考えてみたら、これって逆にプレッシャーだと気づいたのは後の祭り。そもそも舞台で歌うような人なので、自分がどう見られるかは熟知しているはず。自分の外見に関してもプロ意識を持っている方に、ポートレイトをプレゼントしようというのですから。

女優さんをファンアートと称して、本人の意向関係なしに好き勝手に描くのとは全然違いますわなぁ。

フィリピンの女の子なら、大抵SNSにはアホほどたくさんのセルフィー写真が投稿されているので、比較的容易に頭の中で似せるためのイメージを結ぶことができますが、まーちゃんがシェアしてる写真は意外にも少ない。この辺りは、普通の日本人女性のメンタリティなんでしょう。

久しぶりに描き始める前のイメージ作りに、難渋してしまいました。

もうひとつ悩んだのが衣装。最初はクリスマスに合わせて、サンタさんのコスチュームか?と思ったものの、あまりにも安直すぎる。クリスマス柄の浴衣なんてアイデアも出したけど、どうしてもマンガっぽくなっちゃうんですよね。

考えに考えた揚げ句、クリスマスには間に合いそうもないので、お正月向けに晴れ着。結局、今まで何度も描いた着物シリーズの続編と相成りました。


とまぁ紆余曲折は経たものの、まーちゃんには喜んでいただけたようで一安心。「画像だけで、ここまで似るもんなんですね」とツボを突いたコメントも頂戴しました。

さらに嬉しかったのは、最近までナビマニチャンネルでまーちゃんの相方役だった、日本人芸術家のあつこさんが「すご〜い、まーちゃんそのまんま」と評してくれたこと。実物のモデルさんをよくご存じで、しかも現役のアーティストにお褒めいただくとは、これこそ望外の喜び。

ということで、来年にはぜひまーちゃんにお会いして、サラ・ブライトマンとアンドレア・ボッチェッリの「Time to Say Goodbye」をデュエットで歌うのが、目下の夢でございます。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2021年12月22日水曜日

まだら模様の被害状況

 フィリピン中部のビサヤ地方とミンダナオ北部に、甚大な被害をもたらした台風22号、フィリピン名オデット襲来から一週間が経過しました。連日テレビのニュースでは、被害の大きかったスリガオやボホール、セブ、そしてネグロス南部のシパライなどの、惨憺たる街並みの映像が流れています。

このブログで度々触れているように、私たち家族の住むネグロス島シライ市では、各所で樹木や電柱が倒れて送電線が寸断。トタン屋根を飛ばされる家屋も多く、市民の避難先だった市立体育館も天井が崩落、人々はさらに市内の高校へと再避難を余儀なくされました。

それでも他の被災地に比べると、幸いにも死者はなく、台風通過後24時間以内に一部の電力が復旧し、まだ完全ではないものの、大部分で通常の生活が戻っています。

自宅向いの空きロットから、我が家の塀に倒れ込んできた樹木は、数日前に宅地のメンテナンススタッフによって枝が除去。台風4日後に出勤してくれた、メイドのライラおばさんにも手伝ってもらい、路上に散乱した小枝と大量の落ち葉を清掃。翌日には腰や腕が盛大に筋肉痛になったけれど、取り敢えずは車両は通行可能になりました。


ゴミ回収車は無理ですが
普通の自家用車なら大丈夫。


台風通過直後はこんなでした。

まだ時々、1時間程度の停電があったり、ネットが不安定になるといった後遺症はあっても、敢えて意識しなければ、たった一週間前に「猛烈な台風」の直撃を受けたとは思えないほど。

それに比べて隣島のセブでは、依然として厳しい状況が続いています。

電気と水道は完全にストップしたまま。発電機と貯水槽をそなえたビルが林立するビジネス街ITパークでは、最初は明かりも空調もあり、飲食店も営業。それも数日経つうちに、燃料切れや発電機の故障などがあって、現在では真っ暗な状態とのこと。

日本では自宅で発電機を使っている人はほとんどいないと思うので、我が家の発電機について少し説明しますと、発電量3.1キロワットのガソリンエンジンのものを2台使用これで照明器具に冷蔵庫・洗濯機、電子レンジなどが稼働できますが、エアコンはちょっと厳しい。電気給湯器はオーバーキャパシティでエンスト。価格は1台4万円程度。

満タン10リッターで、連続12時間ぐらいは保ちます。ちなみに現在のガソリン価格はリッター160円ぐらいで、就寝中はオフにするとして1日1,600円。

ここシライでは、台風が来なくても毎週のように停電があるので、頻繁に発電機を回してますが、電力事情の良い大都会セブだと、おそらくあまり使ってなかったと思われます。

車のエンジンと同じく、定期的に動かさないと不具合が出やすいのが燃料式の発電機。しかも不慣れな人が操作や給油となるといろいろ不安があります。今回のセブでは、何を勘違いしたのか、ガソリンの代わりに水を入れて故障したなんて話を聞きました。

それは論外だとしても、ディーゼルオイルとガソリンを間違えると異常燃焼が起きて、エンジンをダメにしてしまうことも。

セブの現状に話を戻しますと、故障はしなくても、燃料入手はかなり困難なようで、ガソリンスタンドでは連日長蛇の列。当然のように価格も高騰。中にはこれを商機に変えて、自宅の発電機で携帯電話の充電サービスを始めた人もいるとか。

さらに飲料水購入や生活用水を探すだけで、1日走り回ってクタクタになったり、ネットがなかなか繋がらずイライラしたり。聞くところによると、フェイスブックのメッセージが着信しているのは分かるのに、内容を読めず返信不可という現象も多発。これはストレスが溜まると思います。

そんな状況でセブ在住邦人の方々は、何とか情報を交換しつつ、助け合いながら過ごされているそうです。当初に比べると多少はネットは繋がりやすくなり、一部ではカードが使える場所もちらほら。今はどこもATMが激混みで、唯一の決済手段である現金が手に入らないので、これはかなり助かるでしょう。

ようやく日本国内でもフィリピンの台風被害が報道され始め、日本政府も支援物資を送り届けることで、動き出しました。初動の遅れは否めないものの、そのニュースを聞くだけでも嬉しい。

ということで今日の投稿のセブに関する部分は、主にツイッターでフォローしている方々のつぶやきを元にしております。私の誤解や、すでに状況が変わっている箇所もあると思いますので、間違いに気づかれた方は、ご指摘ください。



2021年12月19日日曜日

SOSセブ


出典:ABS-CBN

 先週木曜日(2021年12月16日)午後から翌金曜日未明にかけて、フィリピンのミンダナオとビサヤ諸島を駆け抜けた、台風22号フィリピン名オデット。上陸直前に「強い」から「猛烈な」に急成長して、まるで不意打ちのように甚大な被害をもたらしました。

前回の投稿でも書いたように、ここネグロス島シライでも市内でも樹木が根こそぎになったり、電柱そのものが倒壊して各所で電線を切断。ネグロス中央電力管轄の州都バコロドやシライ、タリサイ、バゴ等々西ネグロス州の主要部が広域停電のブラックアウトに見舞われました。

電力の復旧には数日が必要とのことで、我が家では発電機用のガソリン20リッターを新たに買い込んで備えたところ、信じられないことに台風通過の当日夕刻、つまり前回の投稿をアップした数時間後に電気が戻りました。配電盤のグリーンのパイロットランプ点灯に気づいた時には、我が眼を疑うほど。

もちろん全カバーエリアで一挙に...というわけではなく、できるとこから少しづつだったようで、我が家と周囲の数軒は、その最初だったらしい。それでもその後二日で、順調に電気が回復して、昨夜(12月18日)には、2階の窓からは台風前とほぼ同等の灯りを見ることができました。

断水はまったく無かったし、やや繋がりにくくなったもののネットも無事。当初は稼働しているシステムが限られていたため、大行列だった銀行のATMも翌日には混雑が緩和され、家内はキャッシュを下ろしてスーパーで買い物することができました。

しかしこれは、今回の被災地域の中では、極めて幸運だったことが次第に明らかに。

まず、最初にオデットが上陸したミンダナオの北スリガオ州や、ボホール、ネグロスの反対側の東ネグロスや、同じ西ネグロスでも南部では、わずかに台風の中心に近かったためか、桁外れに大きな被害。

中でも大惨事になってしまったのが、フィリピン第二の大都会にして、数千名の邦人が住むセブ。貧困層の住むような簡素なトタン葺きの家だけでなく、しっかり作られたはずの立派な家屋や、規模の大きな商業施設でも屋根や門扉が吹き飛ばされる被害が続出。

セブ在住のユーチューバー、いくぴーさんが被災直後のセブ市街地の様子を、バイクで回って記録された貴重な映像によると、シライが受けたダメージをはるかに超える惨状。何度も旅行したことのあるセブなので「え、あの場所がこうなっちゃったの?」と驚きました。

深刻なのは、停電に加えて水道が使えなくなったこと。しかも何週間なのか何ヶ月なのか、復旧の目処が立っていない。ツイッターでのセブに住む日本人の方々からは、発電機の燃料がなくなった...飲料水を買うのに長蛇の列が...と言った悲痛なつぶやき。

日本でも東日本大震災や大規模な水害を知っている人は実感できると思いますが、何日もの停電は何とか凌げても、水が出ないのは本当に危機的状況。私も阪神淡路の地震で僅かに経験があります。ただあの時は、私がいた場所では数日で電気も水道も元に戻りました。

災害時ではなくても各種インフラが脆弱で、日本の自衛隊のように迅速な災害救助も期待薄なフィリピン。この状況がいつまで続くか分からないことほど、精神的に堪えることはありません。

それにしても、ここまでの被害が出て、たくさんの日本人が追い詰められているのに、日本では大して報道されていないのが驚き。8年前に、同じくビサヤ諸島を直撃したスーパー台風ヨランダの時は、高潮で壊滅したタクロバンの映像や、死者6,000名以上という、パッと見のインパクトが強かったため、連日大きく報じられたそうですね。

ネットが回復した時に、メールの受信箱やフェイスブックのメッセンジャーがパンクするかと思うほど、大量の安否問い合わせが届いてました。

それに比べると、特にフィリピン関係者とか、家族や親戚・友人がセブに住んでいるとかでもない限り、ほとんど日本では災害そのものが知られていないようです。私がヨランダの時に、日本からの励ましで元気づけられたことを思うと、これは逆に辛い。

フィリピン国内ですら何もできないので、日本で知ったところで、無力感に苛まれるだけかも知れませんが、せめて日本政府は早急に何らかのアクションを起こしてほしい。それこそ自衛隊の船舶を派遣して、港に停泊してシャワーだけでも提供するとか。

セブの日本領事館のホームページを見ても、月曜日(12月20日)から相談窓口を開設するとあるだけ。もう絶望的な気持ちになってます。


2021年12月17日金曜日

台風直撃ネグロス島

 年末のクリスマス一週間前という時期、またもや台風がやってきたフィリピン。昨日(12月16日)午後、急激に勢力を増した22号台風「オデット」は、猛烈な強さとなってスリガオ島付近に上陸後、南部ミンダナオと中部レイテの間をすり抜けるように私たちの住むビサヤ諸島を直撃。ボホール、セブ、そしてネグロスの各島を横断して、今朝スールー海に出ました。

ここ西ネグロスのシライ市では、最接近直前の午後10時頃に停電。これは局所的なブラウンアウトではなく、CENECO(ネグロス中央電力)管内の州都バコロド、近隣のタリサイ、バゴ、など人口100万を超える全地域が電力喪失のブラックアウト(広域停電)。CENECOの発表によると、復旧には2〜3日程度を要するとのことです。

幸いにして、自宅では断水もなく、電話線とインターネットは無事。前日満タンに給油しておいた発電機を稼働させているので、こうしてブログへの投稿ができています。

8年前に同様にビサヤ地方を横断したスーパー台風ヨランダの時には、ネグロスでの被害は主に洪水によるもの。その時の鉄砲水で家を失ったシライ住民のために、建設が続けられていた宅地、通称「ヨランダハウス」が竣工したのが、ほんの去年のこと。

シライでは、オデットによる目立った水害がなかった代わりに、秒速50メートル(推定)の暴風が吹き荒れ、市内各地で倒木が送電線を切断する事故が多発。加えて、トタン板を葺いただけの貧困層が住む家屋では、屋根が吹き飛ばされるケースが多かったようです。

メイドのライラおばさんとその家族は、当夜は近所の小学校に避難していて無事だったものの、自宅の屋根が壊れたそうで、先ほど家内に「修理のために脚立を貸してください」と連絡が。

鉄筋コンクリート二階建ての我が家は、幸い特に大きなダメージもありませんでしたが、向かいの空きロットに自生していた樹木が倒れかかってきて、道を塞いでしまいました。

それにしても今回は油断してました。

前述の通り、直前まではそれほどの強さでもなかったので、飲料水や食料は特に用意せず。幸い今朝も近所の水屋さんが営業していたので、後付けで1週間分程度の水は確保できたから良かったものの、おそらく前日、水屋さんが多めに用意していた備蓄水。電気が止まってしまうと、新たに精製することができない。よく通常の値段で売ってくれたものです。

午前中に、市内中心部を自転車で見て回ったところ、水だけでなく、市場や銀行、マクドナルドのハンバーガー店も店を開けていて、車も思ったより多くの量が走ってました。お陰さまで家内の弟や父、甥っ子、姪っ子もみな元気。

ということで、しばらくはお湯のシャワーが使えないとか、毎日発電機のためにガソリン購入など、若干の不便や手間はかかるとは言え、ほぼ平常通りの生活ができそうなのは、ほんとうに神さまに感謝です。


市役所前広場に設置されたツリー
倒壊は免れました




2021年12月14日火曜日

バンビはギターの先生

 先週の土曜日(2021年12月11日)、フィリピン教育省の地方分室勤務の家内からの紹介で、やって来ました新しいイロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のバンビさん。もちろんこれはニックネームで、本名はヘラ・ゴレツといいます。

8年前の移住当初、最初にイロンゴ語を教えてくれたティンティンことクリスティーナは、当時30代。その後20代の先生が3人続いて、今回のバンビは39歳。歳のわりにはずいぶん可愛らしい名前ですが、フィリピンではそんなに珍しくはないらしい。

私にとっては5代目となる家庭教師のバンビは、その中でも一番のおしゃべりで明るい性格。もちろん語学の教師やるぐらいだから、今までも無口だったり暗い性格の人はいなかったものの、もうブッチ切りのフィリピナ気質満載。

前回投稿した通り、家内の同僚で、教育省勤務。学校所属ではなく公務員として、病気や貧困などの理由で学校に通えない子供のために、家庭訪問して授業をしたり、刑務所に収監されている囚人を対象に教えたりする先生。ふ〜ん、そういう仕事もあるんですねぇ。

そして家内によると「子供っぽい」とのこと。まだ独身なんですが、何回か恋人と同棲して失恋。その度に上司に怒られるほど職場で号泣したりするらしい。子供っぽいというより、隠し事ができないストレートな性格。確かに実際に会って話してみたら、その通りの天真爛漫さ。

ただ、教師としての心構えはしっかりしているようで、わざわざ約束の時間を遅らせて、私のイロンゴ語力チェックのためにイロンゴ例文を用意してきました。私としては最初なので、30分ぐらい面接っぽく喋っておしまいのつもりだったのが、終わってみれば2時間ガチのレッスン。

全教科の教員資格はあるし、ギターとピアノも教えるというオールラウンドなバンビ。ちょっと雑談しただけでも、話題はずいぶんと豊富だし教養も感じさせます。やっぱり或る程度の年齢と経験を積んでる人ですね。

これはメイドさんの雇用でも感じたことで、最初は高校卒業したてのティーンエイジャーから、20代中ば、そして現在のライラおばさんと、歳を重ねただけスキルは上がるし、それだけ仕事を続けているだけあって、腰が据わってる。

女性とかフィリピン人に限った話ではなく、若いと体力はあるけど、自信が伴わない分、仕事を任せても危なっかしいし、なかなか長続きしない。メイドさんが5人目、セラピストが3人目で、結局バンビ含めてほぼ40代で揃いました。

もちろんこの先バンビが、3年5年と定着するかどうかは未知数ながら、教師としては10年以上のキャリアがある人。今までの先生たちと比べると、第一印象での安定感は抜群です。

何より気が合ったのは、音楽大好きな点。ただ好きなだけなく子供に教えるレベル。フェイスブックに投稿された動画を見ると、ギターはプロ並みの演奏です。それならばと、嬉しがりの私が早速英語とイロンゴ語の歌を披露したところ大喜びのバンビ。

実は、最初の頃に歌でイロンゴ語を覚えようと、私の好きな日本語を歌をイロンゴ訳してもらって歌うという取り組みをやってまして、そのトライアルを約2年ぶりに再開できそうな運びに。1曲だけあるのが「上を向いて歩こう」。そして未完だった「シクラメンのかほり」(どっちも古くてすみません)をバンビに完成させてもらうことになりました。

ということで、次週はギター持参でイロンゴレッスン。まったく予期せぬ展開ながら、これは面白くなりそうです。



2021年12月10日金曜日

新しい家庭教師

 2013年の移住以来、私にとっては4人目だった、イロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のアン嬢。先月(2021年11月)のイロンゴ語によるビデオログの提出を最後に、休講が続いておりました。理由はシンプルで、徐々に通常に戻りつつある本職の高校教師の仕事が忙しくなってきたから。

コロナ禍真っ只中の時には、就業日が週4日。土日は実家のあるカディスに帰るので、最近は木曜日の午後がイロンゴ・レッスンでしたが、週5日に戻って上に新たな学位修得が必要になったらしい。ここシライ市内の感染者数も一桁台になって、やっと日常生活が普通になったと安堵したんですが、それで忙しくなる人も増えるわけです。痛し痒し。

思い起こせば、初代先生で近所の私立高校に勤務するティンティンにアンを紹介してもらったのが、シライのロックダウン解除直後の昨年6月。(「本気でプロの家庭教師」)かれこれ1年半もお世話になりました。ティンティン以降の前任者二人は、プロの教師ではなかったこともあり、私のイロンゴ力はあまり変化しなかったのが、現役英語教師のアンに就いてからは、自覚できるぐらいに学力向上。

アンはいろいろ工夫してくれましたからねぇ。

現地小学校で使われている、母語(マザー・タング)用の教材を使ったり、自分で録音した聴き取りテスト。或る程度私がイロンゴ作文できるようになってからは、毎週の出来事をA4一枚にまとめた「ジャーナル」や、前述のビデオログなどなど。

何より明るいアンは、私のくだらないジョークにも大笑いしてくれる、関西芸人風に言うと「ええお客さん」。教師としてはもちろん優秀だし、一人の女性として実にチャーミングなアンなので、週一回会えなくなるのは寂しい限り。最近も似顔絵イラストをプレゼントしたところなのに。(「アン in キモノ」)

アンも含めて、4人すべての家庭教師さんは、私の都合で辞めさせたことはなく、どの人も止むを得ない事情ばかり。家庭教師だけでなく、我が家に出入りするワーカーは、メイドとマッサージ・セラピストがいますが、だいたい辞める時は先方の理由ですね。なので、しばらくは軽い喪失感が伴います。

とまぁ、残念がってばかりもいられないし、折角だいぶ上達してきたイロンゴ語会話を諦めるのも勿体無いので、早速後任探し。またもやティンティンにメッセージをしたら、気立の優しいシライ小町の彼女は、二つ返事で引き受けてくれました。ただシライの学校教師は、アンだけでなく、どこもこれから多忙になりそうで、ちょっと難しいかも。

そう言えば家内が、教師の総元締めであるフィリピン教育省勤務。私がイロンゴ語を少しは喋れるようになって、家内も喜んでいるので、頼まない手はない。結果的にはこっちが当たりで、数日で候補をピックアップ。

家内の話によると40代の女性。学校勤務ではなく教育省に籍を置く教師。病気や家庭の事情、遠隔地に住むために学校に通えない子供や、刑務所に収監されている刑務者を対象に、巡回授業をしているとのこと。英語だけでなく全教科見てるので、かなり経験豊富で教養がありそう。

しかもギターを弾くのが得意で、それも教えているんだそうです。これはひょっとして私の歌でセッションできるかも?

ということで、明日の土曜日朝、家内を交えての面接を控えて、いやが上にも高まる期待。結果はまた投稿しますね。



2021年12月8日水曜日

或るフィリピン系日本人の死

 今日は一種の懺悔か告白みたいな内容で、書くのが少々気の重い投稿です。

先月(2021年11月)の末、家内の叔母の夫がマニラ空港で亡くなりました。この人、戦前にフィリピン・ネグロス島に渡って来た日本人男性と、現地の女性との間に生まれた日比ハーフで、仮にMさんとします。享年91歳、死因は末期癌でした。

このMさん、以前にもこのブログで少し触れたことがあって、実は私とネグロス島生まれの家内の出会いのきっかけを作った人。四半世紀前の1996年、兵庫県の私の実家近くにあるカトリック教会で、Mさん夫婦と知り合いになり、お盆休みを利用してネグロスの別荘に遊びに行くことになったのか発端。

最初からMさんは、姪っ子の花婿候補として、私を家内に紹介してくれたので、言ってみればお見合いみたいなもの。まんまとこれに乗った私と家内は、2年もしないうちに国際結婚となったわけで、Mさんとその連れ合いである家内の叔母は、私にとっては恩人。

ところが事は、かなりの紆余曲折を経ていて、まだ私たちが交際中だった時期に、何が気に入らなかったのか急に絶縁。大工の棟梁だったMさんは、以前から結婚相手がいなくて困ってる大工さんに、ネグロスの伝手でお見合いを世話していて、それまではフィリピンはおろか、海外旅行もしたことがなく、英語も全然ダメな人ばかり相手にしていたらしい。

幸か不幸か私は、フィリピンを含む東南アジア諸国が仕事の舞台。言葉は問題ないし、すでにフィリピン女性との恋愛も経験してました。何よりも私と家内は話も合ったし、双方一目惚れに近い状況だったので、初対面以降はMさんの助けはなくても、勝手に話が進んだのが面白くなかったようです。

後から聞いたところでは、家内の両親、特に義母は「紹介だけしてあとは放ったらかしってどういうこと?」と怒り心頭。仕方がないので、Mさんとは没交渉のまま、私と家内はゴールイン。

それでも結婚が決まってからは機嫌を直したMさん。披露宴にも出てくれたし、その後の日本での結婚生活でも、家内の手前もあってか、普通に付き合いが続きました。

やれやれ、これで一件落着かと思ったら、久しぶりに教会で会ったMさん夫妻になぜかシカト。挨拶しても目も合わさない子供のような完全無視。この時も理由は全然分かりません。

時を同じくしてMさんと義両親との関係も悪化。電話で義母と話をしたら「仲直りしてほしければ、娘をあの男と別れさせろ」と言われたと憤ってました。もう何様のつもりなんだか。

どう考えてもここまでの仕打ちを受けるような落ち度があったとは、まったく心当たりがない。いくら恩人とは言え理不尽に過ぎる。それ以来の約20年、絶縁状態が続きました。結局義母は、仲違いしたままその4年後に死去。私たち家族がネグロスに移住してからは、親戚の葬儀で一度顔を合わせたものの会話はなし。

これだけのことがあっても、家内やもう一人の叔母はさすがに血縁者なんですね。何度か私とMさんの間に入って関係改善を働きかけてくれましたが、こちらから詫びを入れる道理がない。そうこうしているうちに、日本に帰国していたMさん夫妻は、コロナ禍のためフィリピンに戻れなくなり、Mさんは癌にかかったという次第。

そして癌が末期になり、死ぬのなら生まれ故郷のネグロスでとの本人の強い希望で、叔母に付き添われたMさんが、マニラ空港に到着したのが11月の半ば。2週間のホテルでの隔離にも耐え、ようやくネグロスへの国内便に搭乗というタイミングで力尽きたそうです。

棺桶に入れられたMさんの亡骸がネグロスに戻った日が、何の因果か家内の誕生日。そして先週行われた通夜〜葬儀には、申し訳ないことながら家内だけが参列。どうしても叔母にすら会う気にならなかったんですよ。

「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。」とは、カトリックで最も重要とされる「主の祈り」の一節。私もカトリック信徒の末席を汚す者としては、この言葉の実践者になるべきなのは百も承知なんですが、やっぱり無理でした。

ということで今日は、心に溜まった澱を吐き出す気持ちでの投稿です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



2021年12月3日金曜日

日本もフィリピンも迷走する感染対策


出典:Inquirer

 もう今年(2021年)こそは、長引くコロナ禍も収束に向かうのかと思ったら、やっぱり一筋縄ではいきません。新しい変異株の出現は予測されていたものの、またも各国がヒステリックな対応になってしまった12月。

伝え聞くところによると今回のオミクロン株、あたかも南アフリカが発祥みたいな報道されてますが、これはたまたま最初に確認されたのがそこだと言うだけで、騒ぎ出した頃にはすでに世界各国で感染者が見つかっていたそうです。

しかも、感染力は高いものの、それまでの株に比べて重症化率が高いわけでもないのに、正直に報告した南アフリカを罰するような完全渡航禁止策。これは将来に禍根を残すでしょうね。

在フィリピン邦人として衝撃だったのが、岸田新政権による「鎖国」。当初の外国人の一律入国禁止でもやり過ぎぐらいだったのが、続いて日本への航空便の予約停止要請で、事実上の在外邦人の締め出し。どうやらこれは勇み足だったようで、すぐに撤回されたものの、それでなくても海外の同胞には冷たい印象だった日本政府。残念を通りこして、呆れてしまいました。

SNSで知り合ったフィリピンに住む日本人の方々にも、動揺や怒りが広がってます。タイミング悪く、日本とフィリピンに恋人や夫婦が離れ々れになってしまい、1年以上も会えなくなったり、2年ぶりのクリスマス/年末年始の里帰りを諦めたり。

かく言う私も、コロナがなければ昨年には年老いた両親を日本から引き取って「介護移住」する予定で、そのために裏庭に離れを建て増し。やっと来年(2022年)には何とか動けるかと思った矢先ですから、かなり落ち込んでおります。

考えてみれば、100年に一度の世界的な感染爆発。今生きてる人は経験のないことだし、完璧な対応を政治家に求めるのは無理。本当の発祥地である中国が、下手に隠蔽しようとしたから、どの国の政府も初動の遅れは仕方ない側面もあったでしょう。

また、当初はうまく処理して、感染を抑え込んだかに見えた国でも、デルタ株による感染者急増が起きたりして、自然相手の戦いがどれほど厄介な事かを改めて実感。まぁ、こういう前例のない大規模な規制って、戦争と似て、始めるのは意外に簡単でも、それを緩めたり撤廃するのって、タイミングやさじ加減がとても難しいようです。

とは言うものの、祖国日本も、第二の故郷フィリピンも、どう控えめに見たって打ち出す対策が科学的・合理的な見地ではなく、気分や雰囲気で決めてるとしか思えない。

特にここフィリピンでの検疫。一応警戒レベルがあるんですが、どのレベルで何がダメで何がOKなのかがイマイチ不明瞭。人や場所によって言うことがコロコロ変わるもんだから、せっかく久しぶりに家族全員で外食できると思ったら、子どもだけ門前払いだったりする悲劇が頻発。

そもそも、2年近くも未成年者に学校はおろか外出もさせない国って、他に聞いたことないし意味が分からない。フェイスシールドも然りで、あまり効果も期待できない割に、鬱陶しいことこの上ないのに、なぜかフィリピンのお役人はこれにご執心。

やっと解除されたかと思ったら、オミクロン騒ぎに乗じて、また着用義務を復活させると保健相が発言したらしい。よくこれで国民による暴動が起きないものだと思ってしまいます。

ということで、12月に入ってカトリック的には待降節(アドベント)。師走&本格的クリスマスシーズン到来の時期ですが、来年もまだまだコロナ禍は続きそうですね。