2024年10月21日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 お誕生日の家庭教師

 このブログ自体がずいぶん間が空いてしまいましたので、そのオマケみたいな「フィリピン美女図鑑」も、当たり前のようにお久しぶりです。

今日のモデルさんは、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の家庭教師バンビ。(バンビはギターの先生)過去の投稿を見返してみたら、初めて我が家に来てくれたのが2021年の12月初旬なので、もうすぐ3年が経過。私にとっては5人目の家庭教師で、先代のアンを抜いて、在任最長記録(というほど大層なものでもないですが)を更新中です。

教え方に関しては、なかなかおだてるのが上手く、親子ほど歳の離れた私でも、まるで初めて自転車に乗れた子供に対する親のような褒め方。これはALS(Alternative Learning System / 代替学習システム)の高校教師として鍛えた、バンビの専門能力なんでしょう。なにしろ成人男性の受刑者や、貧困のために教育機会を逸した老人が生徒。最高齢の卒業生が80歳の老婆なので、62歳の私などまったく苦にならないと思います。

しかし、そのバンビ先生。女性特有の体調の不安定さがあって朝が苦手。授業時間の遅れや翌日順延があるのが玉に瑕ですが、それも笑って許せる愛嬌があります。一応は事前に連絡はありますし。

ただ人が良すぎて損している感じがするのは、なかなか難しいところ。6人兄弟姉妹の末っ子なのに、ずいぶん前に亡くなったお父さんの借金を未だに返済していたり、以前のパートナーのバイクのローンが、なぜかバンビ名義だったり。

そして可哀想なことに、長く同棲していたボーイフレンドとの仲がつい最近破局。職場の同僚である家内によると、事実婚ながら、ずっとプロポーズを待っていたんだとか。私の家にも何度か一緒に来て、食事をご馳走したこともあるので、てっきり安定した関係だと思ってたんですが、バンビはもう待ちくたびれて、とうとうお別れになったそうです。日本のアニメ大好きな、気の良い兄ちゃんだったんですけどね。

ということで、先生には何とか元気なってほしいという願いを込めて、たまたま近づいていたバンビの誕生日向けに、例によって似顔絵イラストを描いた次第。今回の衣装は着物ではなく、浴衣にしてみました。

すごい美人...というわけではないバンビなんですが、フェイスブックに上がっているどの写真も、穏やかな笑顔ばかり。こういう表情を見ていると、やっぱり教師が天職なんだろうなぁって気がします。実際よく笑うし「神さまに感謝」が口癖のようなバンビ。

さて、誕生日当日にタグつけしてフェイスブックにイラストをアップしたところ、間髪置かずに嬉しさ大爆発のリアクション。さっそくケータイの待受に使ってます。こういう超素直な喜び方をしてくれるので、つい何かしてあげようと思ってしまうんですよね。

我が家庭教師に幸多からんことを。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2024年10月17日木曜日

フィリピンでもネットでテレビ

 ここ何年かで、インターネットで配信される映画やドラマをテレビで観るのは、フィリピンでも当たり前になりました。そして我が家でも、とうとうケーブルTVの契約を打ち切って、テレビはネットだけに。もともとケーブルTVの画質はイマイチだし、NHKの日本語放送もない。かろうじてあった存在理由の、家内がGMA(フィリピンの放送局)で観るニュース番組でさえ、YouTubeでサイマル配信されていることが発覚。

これでテレビは、電源以外はワイヤレスでコンテンツ視聴ができます。NetflixとAmazonプライムで、映画とドラマは日本を含めて世界中の番組が観られるし、アンプとスピーカーを繋げば、スマホからの音楽も楽々高音質。何よりもテレビの置き場所がケーブルTVとの接続から解放されて、自由に模様替えができるのが大きい。

実はリビングのメインテレビであるの42インチ。うっかり西向きに設置するような配線にしてしまい、夕方になると、吹き抜けを通じて2階のステンドグラス状の窓から直射日光が画面に入ってしまう。まぁ午後4時から6時前にテレビを観ることは稀。それほど困ったわけでもないんですが、やっぱり竣工以来ずっと気になっていたので、晴れて模様替えができてホっとした気分。

なんて書くと、まるでフィリピンの家庭ではテレビのネット視聴が全面的に普及しているみたいですが、実際には、まだまだ地上アナログの低品質の画面を小さなブラウン管テレビで観るしかない人もいっぱい。貧乏で大画面のスマートテレビを買ったり、自宅にインターネット回線を敷設できない家庭も多い。ついこの間も、近所の散髪屋さんに行ったら、愚にもつかない(失礼!)タガログ語の地上波バラエティ番組を大音量で垂れ流してました。

ただ、この辺りのテレビ事情は、日本も似たようなものなのかも知れません。さすがにアナログではなくデジタルになったとは言え、相変わらず放送時間に縛られたニュースや低予算のバラエティが主流なんだとか。ヘソ曲がりな私は、10年以上前日本にいた頃からWOWOWとNHKスペシャルしか観なかったので、正直「まだそんなの観てるの?」と思ってしまいます。

すでにドラマでは、最近、世界的にヒットしている「地面師たち」や、エミー賞の主要部門を総なめにした「将軍」のように、スタッフも俳優も日本人で、資本はアメリカというスタイルが幅を利かせている時代。アニメに至っては、日本と同時かジブリのように日本未配信でもフィリピンで観られる人気コンテンツもあるぐらい。一昨日「君たちはどう生きるか」を観ましたよ。

こうなってくると、ジリ貧の日本の放送局からは、俳優を含む優秀な映像クリエータの方々がどんどん海外に流出してしまいます。最近、日本のお笑い芸人が「アメリカズ・ゴット・タレント」で爆笑を取っている姿や、Spotifyでサブスク解禁された、竹内まりやさん等の80年代ポップスに人気だとか言う話を見聞きすると、本来グローバルに活躍できる潜在能力がある日本人が、日本国内の様々な規制のために、どれだけブレークの機会を逃してきたのか?とちょっと考えこんでしまう。

ということで、テレビが完全にネット化すると、今まで見えなかったことが、フィリピンの片田舎に住んでいても、いろいろ見えてきたというお話でした。



2024年10月16日水曜日

再開、ネグロス島永住日記

 約3ヶ月のご無沙汰で、「ネグロス島永住日記」を再開させていただきます。

再開と言いましても、何かしらの理由があって投稿しなかったわけでもなく、ただ何となく書かずにいるうちに気がついたら3ヶ月経っていたというだけ。気分が落ち込んだりとか、健康を害していたわけではありません。

最後の投稿が7月末で、こちらでは雨季の真っ只中。今はフィリピンに大量の雨をもたらす季節風の時期「ハバガット Habagat」も終わり、暑過ぎず、もちろん寒くもならず、台風さえ来なければ、1年で一番過ごしやすくて穏やかな日々。そしてここ西ネグロスの州都バコロドでは、10月の中旬から11月まで、恒例のマスカラ祭が開催されています。

まぁ私は大の人混み嫌いで、特に祭事が好きなわけでもないので、この時期は、できるだけバコロドには近づかないようにするのが常。何しろ、やらたパレードをするもんだから、あちこちで通行止めやら一方通行。週末に車で突っ込んだりしたら、とんでもない渋滞に巻き込まれてしまいます。

本来なら「ネグロス島永住日記」なんてブログを書くぐらいですから、期間中にバコロド市内に宿泊でもして、読者のみなさんにレポートをお届けするべきなんでしょうけど、そっちの方向には全然好奇心が湧かないもので...。

そんな感じなので、私の住んでいるシライ市内の、ごく狭い範囲の話題で恐縮なんですが、今回はまたもやご近所さんとの騒音トラブル。ただガチで喧嘩になったわけではなく、突然お向かいさんが飼い始めた雄鶏の鳴き声に、こちらが一方的にストレスを溜めていたというお話。

数年前にもお向かいさんは闘鶏用の雄鶏を飼って、あまりの煩さに苦情を言って止めさせた経緯があります。今回は普通のネイティブ・チキン。しかも雄鶏は一羽だけのようなので、騒音レベルはずいぶんマシですが、それでも明け方の暗いうちから、10メートルも離れていないところで「コケコッコー」はツラい。それでなくても還暦過ぎの私。朝方に起こされてしまうともう二度寝ができず、一日中眠気がつきまとう羽目に。

一応は高級住宅地である、私たちの住むセント・フランシス・サブディビジョン。養鶏は禁止なんですよね。完全に無視して大量に飼っている人もいますけど。それに、カラオケと並んで、この手の騒音に対する寛容度が高いお国柄。何週間かは我慢したものの、遂に忍耐の限度を超えて、家内に頼んで苦情を入れてもらいました。

実は前回の時、相手の対応に家内も不愉快だったようで、それ以来完全に没交渉。先方の家庭の事情は全然知らなかったんですが、実は今回の雄鶏、オーナーのオバちゃんの再婚相手が持ち込んだものだったそうです。

どうやら手広く養鶏業を営んでいるらしく、たまたま余った(?)雄鶏を自宅で飼っていたとのことで、こちらからの苦情に別段腹を立てるでもなく「あっそうですか?」とばかりに、即日で鶏肉にされて、夕食のおかずに食べられちゃいました。私は、バランガイ訴訟も覚悟していただけに、肩透かしを食らった格好ですが、まぁ事が荒立たず良かった。

ちなみに向かいのオバさん。前の旦那さんが「サトウ」という名の日本人で、そのお金でセント・フランシスに土地を購入して家を建てました。その旦那さんはとうの昔に亡くなって、日比ハーフの娘さんも高校を卒業。いかにも「田舎の婆ちゃん」風の母親も同居。

おそらく決して裕福ではない山間部の生まれで、日本に働きに行って日本人と結婚したという、フィリピンあるあるの一種のサクセスストーリーが背景。立派な家に住んでも、生まれた場所ライフスタイルを、そのまま高級住宅地に持ち込んだということなんでしょうね。

ということで、相変わらず半径数十メートルか、せいぜい数キロの範囲でのネタで、申し訳ありません。


2024年7月31日水曜日

騒音の内憂外患

 もう7月も終わって明日からは8月。フィリピンでは、学校にもよりますが、8月から新学期がスタート。本来の夏休みは、乾季で一番暑くなる4〜5月だったはずが、4年経ってもコロナ禍の影響で2ヶ月ずれたまま。かわいそうに学童・学生たちは、体感温度が40度前後だった猛暑の中を登校させられて、せっかくの休みは連日の雨。これはアカんと気付いたのか、来年から元の日程に戻しますと、教育省からのお達しがありました。

高校三年生の息子の通う、ネグロス島シライ市内の私立高では、一足早くこの月曜日から新学年。最近、ヒョロっという感じで背が伸びた息子も、以前と変わらず飄々と毎朝登校しております。

さて今日の本題は、フィリピンに移住した多くの日本人が悩まされるであろう、近隣からの騒音について。もうすぐ62歳になる私より一回りぐらい先輩の、ある邦人女性は、フィリピンで悠々自適の引退生活を楽しむはずが、連日の隣近所からの大音量音楽に悩まされて、残念ながらの帰国に至ったとのこと。そこまでいかなくても、ストレスを抱えながら日々を過ごしている人も多いでしょう。意外とフィリピン人でも、そいうい人は一定の割合でいるようです。

移住11年を迎えた私の場合、騒音を出さないことがルールの宅地内に家を建てたはずが、そんなことお構いなしの住民たちの騒音との戦いの連続。最初は、夜な夜な、宅地では禁止されている闘鶏を開催してた裏の大金持ち。そのオーナーが病気で寝たきりになって静かになったと思ったら、隣で新築工事が始まって、大工が大音量の音楽を流しながらの作業。何度苦情を入れても元の木阿弥で、ついに現場監督相手に大喧嘩。

工事が終わったら、次は向かいのオバはんが、これまた禁止されてる養鶏場を始めました。それもただの雄鶏ではなく、闘鶏用のを多数。深夜の2時3時に一斉に時を告げるもんだから、こちらは毎日寝不足。私が出るとまた喧嘩になるので、家内に間に入ってもらい、何とか養鶏は断念させました。

そしてコロナ禍。養鶏オバはんとは反対側の隣家の小学生の兄弟二人が、毎朝私の寝室の前を絶叫しながら自転車遊び。その次は、その隣の空きロットで、オーナーのオっさんが畑を始めました。ただ畑仕事するなら構わないんですが、野外ディスコに使うようなでっかいスピーカーで、終日大音量の音楽。宅地の警備員経由で苦情を入れたら、バランガイ訴訟に。いや、話が逆でしょ?

さすがにこれは、オッさんの言い分に無理があって、軽くバランガイ・キャプテン(町内会長みたいな役職)にいなされて、事無きを得ました。

直近が、新築工事の時に揉めた家。引越してからオーナーと直接話したことはなく、何となく嫌な感じながら平穏だったところ、わざわざ私の寝室の前の路上で、子供二人とバスケットボール。まだバトミントンなら良かったんですが、あのドリブルの音と振動って、頭に直接響くんですよね。それも1回だけじゃなく、二日続けてだったので「頼むからやめてくれ」と言った瞬間に、オーナーの男性(多分30代後半ぐらい?)がいきなりのブッチ切れ。

「ここはお前の道路じゃな〜い」と叫び出しました。一緒に遊んでた女の子二人はドン引き。まるでダダっ子。このまま怒鳴り返したら、拳銃でも持ち出しそうな勢いだったので(フィリピンでは民間人でも銃所持OK)、努めて冷静に「もちろん私の道路じゃないけど、あなたのバスケットボールコートでもないでしょ?」と理詰めの説得モード。しばらく話して、最後は握手で別れることができました。やっぱり子供みたい。

ここまでなら「またか」なんですが、さらに今回は、先月から介護移住で同居している高齢の父が、戦線に加わってきました。88歳のこの爺さん、若い頃から建築現場で仕事をしていてやや難聴。加齢で拍車がかかって、テレビを見る時の音量が半端ではありません。日本にいる頃から、ネットフリックス用にと買い与えたクロームキャストが、思いの外お気に入りで、こっちでも毎日「大谷選手」と「嫌韓・嫌中・日本すごい」番組のユーチューブ。わざわざ一軒家の離れまで用意したのに、それでも全開した窓から、フィリピン人もびっくりの大音量。

前回の投稿でも書いた通り、元々あまり仲が良いとは言えない親子の私たち。うるさすぎるからテレビ見るんなら窓閉めてエアコン使えを言ったら、例によっての逆ギレ。

実は、これ以外にも、ネガティブな出来事が立て続けだった7月。2週間ぐらい雨ばかりで気圧も低かっただろうし。かつて日本のサラリーマン時代に10年以上も苦しんだ鬱が、またぞろ頭をもたげて来て、一時はちょっとヤバかった。

しかしながら、分かりやすいというか現金なというか、雨季の中休みのように青空が広がり出すと、精神状態は一気に上向き、それとシンクロするように、周囲の状況も少しづつ好転。ということでやっと更新する気になった今日のブログは、愚痴大会になってしまいました。


2024年7月15日月曜日

高齢両親、再びネグロス島へ

 前回の、ネグロスの主峰カンラオン山噴火の投稿から、もう1ヶ月以上の間が空いてしまいました。その末尾にも記したように、私の両親が、昨年11月に続いて再びこのネグロス島の自宅に滞在しております。お陰さまで、その後カンラオンは平静を保っていて、最寄りのバコロド・シライ空港が閉鎖になることもなく、予定通り無事ゲストハウス到着して、かれこれ3週間が経過。

何度か投稿したように、この離れ家は、兵庫県尼崎にあった実家の間取りを再現したもの。小ぶりながら寝室二つとリビング・ダイニング、トイレとシャワーに加えて、湯船のある浴室も用意しました。二人で住むには十分な広さがあります。


到着早々、父のボストンバッグの鍵の紛失騒ぎや、母がまったく着替えの準備をしていなかったことなどが発覚してバタバタとしたものの、何とか当日はぐっすり寝てもらいました。連日猛暑日が続いた6月初旬までの乾季が終わっていて、心配していた暑さもそれほどではなくひと安心。

翌日は、同行した弟の提案で、すでにリビングにあるテレビとは別に、母の寝室専用のテレビと、それを視聴するための安楽椅子を購入。ついでに母の衣類も家内に付き添ってもらって、上から下まで全部調達。下着も靴下もない状態だったんですよね。まるで着の身着のまま難民状態。

一旦は要介護3で施設に入っていた87歳の母。ケアマネージャーさんも驚く、奇跡の回復を遂げて昨年実家に帰宅。入浴や排泄など最低限の身の回りの事は大丈夫で、話しかけたらそれなりの反応は返っては来ますが、認知症の症状はジワジワ出ているらしく、旅行の準備のような、ちょっと込み入ったタスクは、もう無理なようです。

とは言え、88歳の父はまだ頭もはっきりしていて、日本にいた時同様、トーストと卵、ハムの簡単な二人分の朝食の準備は任せています。日中はテレビを見たり、趣味の模型作りで世話要らず。何よりも助かるのは、二人とも年齢の割には旺盛な食欲で、私が作る昼と夜の食事は、毎回完食。それも炒め物や揚げ物、何でも「おいしい、おいしい」と平らげます。

言葉は通じなくても、メイドのグレイスおばさんとも上手くいっている様子で、たまにグレイスのサポートで、母は車椅子、父は徒歩での散歩に出たり。こう書くと、介護移住は順風満帆のようですが、万事順調・めでたしめでたしにはならないのが現実。

実は前回も、誰もいない部屋のエアコン・扇風機・照明の全部つけっぱなしやら、水道の締め忘れなどがあって、何度か注意。今回はさらに輪をかけて、窓を全開にしてエアコン稼働。それが三日続けてあったんですよ。実際にエアコンをオンにしているのは母なんですが、隣室の父はそれに気づかない。それでなくても物価に比べて電気代が高いネグロスなので、再三父に苦言を呈しました。ただ残念ながら、昔から私との関係が良好とは言えなかった父。身内に対して素直に謝るということができない性格。

冷静に考えてみれば、すっかり耳が遠くなった父なので、もうちょっとソフトに対応すればいいのは分かっているけれど、父も「金やったら払う」「そんなに文句言うなら日本へ帰る」と逆ギレ状態。売り言葉に買い言葉で、どうしても私の言い方もキツくなりがち。元気な時は、クッション役をしてくれてた母も今は半分寝たきり。ある程度想定はしてましたが、老齢の親との同居って、肉親であるが故の難しさがあるものです。

しかしながら、さすがに今回は、しばらくして自分の立場に気づいたのか、おそらく私が生まれて初めて、父の方から謝ってきました。かつては家族全員に大迷惑をかけた父。その時も、一度たりとも頭を下げなかったことを考えれば、ずいぶんと変わったとも言えるでしょう。

そして最大の功労者がフィリピン人の家内。図らずも、母に代わってクッション役になってくれています。日本に限らずフィリピンでも、義理の仲は拗れがちなもので、私たちの結婚には大反対だった母。ところが母が足を骨折して入院した際には、毎日病院に通って入浴の介助をした家内。よく言われる「フィリピノ・ホスピタリティ」を体現するような働きでした。それ以来、両親共々、このフィリピン嫁に心酔して、今回の介護移住も「嫁がいてくれるなら」との思いもあったからでしょう。

ということで、孝行息子とは程遠い私ですが、家内やメイドさんの助けを借りながら、なんとか親との毎日を過ごしております。この件は、同じく介護な必要な身内がおられる方々には、何かの参考になるかも知れませんので、時々経過報告しますね。ちなみに両親、観光ビザでの入国なので、年内には一時帰国の予定です。


2024年6月6日木曜日

ネグロスの主峰カンラオン噴火


噴煙を上げるカンラオン山 出典:CNN

 最近あんまり使わない言い回しかも知れませんが、青天の霹靂とはまさにこれ。今週の月曜日6月3日の夕刻、私たち家族の住むフィリピン・ネグロス島。その中央部にあるカンラオン山が突如噴火しました。

ネグロス「島」と言っても、サイズは日本の四国より少し小ぶりな程度だし、自宅のあるシライ市からは、ざっと50kmも離れています。音がしたとか火山灰に気付いて...ということではなく、それを知ったのは、地元新聞のフェイスブックへの投稿を見て。それも最初は、上空5,000mまで達したという噴煙の写真を、またウクライナかガザの記事かと勘違いするほど、まさかカンラオンが噴火とは想像もしていませんでした。

ちなみに50kmというと、関西ならばだいたい大阪〜神戸の距離。風下でもなかったので、報道がなければ、まったく知らないままだったでしょう。

このカンラオンという山、北のシライ山、マンダラガン山、南のタルニス山と並んで、ネグロスの背骨を形成するような島の最高峰。「突如噴火」なんて書いてしましたが、以前から時々軽い水蒸気爆発を繰り返していて、1996年には、たまたま山頂付近にいた外国人登山客を含む3名が亡くなる事故が発生。決して侮れない活火山なんですよ。

今回は水蒸気ではなく、大量の火山灰を噴出する爆発的な噴火で、小規模ながら火砕流も発生したのこと。幸い人的な被害はなかったそうなんですが、翌日の午前中は、近くのバコロド・シライ空港発着の29便が欠航。5段階の下から2番目の警戒レベル2の発令で、火口周辺の2,800名が避難を余儀なくされました。折りからの雨季で、周辺の河川には火山灰が流入して泥流状態。道路にまで溢れて、一時周辺の道路が閉鎖されるという被害も。


出典:Inquirer

さて火砕流というと、奇しくも噴火のあった6月3日は、1991年に長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流で、43名もの方々が犠牲になった日から33年目。当時、長期の東京出張中だった私は、宿泊先のウィークリー・マンションの一室で、小さなテレビの前に釘付けになっていました。

映像を通じてのみとは言え、あの惨状をリアルタイムの報道で見ているだけに、火砕流が発生するような火山がある島に住んでいたのかと、今更ながら空恐ろしくなりました。カンラオンの山頂に登ったことはないものの、山腹にある温泉リゾートのマンブカルには、移住前から泊まり掛けの2回を含めて、家族で何度も遊びに行ったことがあります。

ということで、この投稿を書いている6月6日現在、それ以降の噴火はなく、シライ市内は全く平穏。ただ今月の末には、昨年に続き高齢の両親が半年ほど滞在する予定なので、空港が封鎖されたりすると少々厄介なことになります。島全体の経済や観光へのダメージを考えても、なんとかこのまま沈静化してほしいところです。



2024年5月29日水曜日

待望の雨季

今年(2024年)は、3月の初め頃から厳しい陽射しと暑さが続いたフィリピン。かれこれ3ヶ月続いた旱魃は、5月の最終週になろうかと言う先週末になって、ようやく終焉を迎えたようです。

そのきっかけとなったのが、台風1号、フィリピン名「アグホン Aghon」の接近。フィリピンの気象庁であるパガサ(PAGASA)は、たまたま台風による降雨で、これをもって直ちに乾季の終わりは宣言しないと、慎重な姿勢を崩してません。しかしながら、台風であろうが梅雨前線であろうが、雨は雨。金曜日の早朝、本当に久しぶりの本格的な雨が降り始めた時は、ずいぶんホっとしたものです。 

それと言うのも、今回の熱波。ネグロスでの最高気温の数字だけなら35℃前後で、大阪や東京の一番暑い時期より多少マシなぐらいなんですが、さすがに3ヶ月続くと心身共にダメージが大きい。途中3〜4回は夕立ちはあっても、まさに焼石に水のお湿り程度。5月に入ってからは、胸に圧迫感があったり、しつこい便秘状態だったりで、明らかに体調もおかしくなってました。

ネグロス島に引っ越して12年目で、ここまで連日のエアコン稼働は初めて。就寝時に室内温度が30℃あっては、エアコン無しでは眠れません。しかも最近は、私と家内、息子が別々の寝室なので単純に3台分。2万円越えの電気代請求に、目玉が飛び出そう。

それにしても、室内で話し声も聴き取りにくいほどの雨音が、これほど心地よく感じるとは。何時間でも一晩中でも聴いていられるのは、かなりの倒錯心理ですな。当然ながら、実際の気温も体感温度も一気に下がり、エアコンどころか扇風機さえオフのまま眠れる夜が戻って、ご飯も美味しくて、天高く馬肥ゆる「雨季」。

とりわけ暑さに弱い、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のバンビ。土砂降りの翌日の授業には、「昨夜は本当によく眠れました」と、実に爽やかな表情。バンビだけでなく私の体調も、自分で呆れるぐらいに分かりやすく復調しました。

とまぁ、ここまでなら万事めでたし良かった良かったで終われるんですが、そうは問屋が下さない熱帯気候の極端さ。今度は降り過ぎて、ルソン島の南部辺りでは、洪水被害が出たようです。さらに身近では、バンビの姉で我が家のメイドのグレースおばさん。可哀想なことに、ちょうど二泊三日の予定でビーチリゾートへの旅行が、台風接近にぶち当たってしまいました。

初日はほぼ終日の豪雨で、それ以降も時折陽射しは戻ったものの、楽しみにしてた休暇とは程遠いイメージだったでしょう。尤も、高校時代の親友たちと連れ立っての旅行だったので、宿泊先でオバちゃんトークを楽しんだろうとは思います。

ということで、これを書いている時点で、台風1号はフィリピンから遠く離れ、九州の南海上に。本土への上陸はないとしても、まだ5月なのに日本に大雨を降らせるなんて、異常気象ここに極まれり。

肝心の雨季が来たかどうかは、まだ判断が難しいけれど、少なくとも雨季恒例の羽虫の大発生はあったし、全天雲のないピーカンのカンカン照りはなくなったので、一応普通の天候に戻ったと見て良さそうです。