2025年11月12日水曜日

停電1週間超 台風ティノの後遺症

 先週の火曜日(2025年11月4日)25号台風ティノがネグロス島を直撃して、もう八日が過ぎました。ちょっと驚く事に、私たちの住む宅地は、まだ電力が復旧してません。同じネグロス電力管内のバコロド市やシライ市でも、早い所では翌日の夜には電気が戻り、2〜3日後には、幹線道路沿いの主要部分で元通り。

ところが厄介なのは、中心部からやや離れた地区や、我が家のある宅地のような、世帯数がそれほど多くないサブディビジョン。同時多発的に電柱が倒れたり、大きな倒木のせいで電線が切れたり。電力会社の修理スタッフや交換部品のストックなどのリソースは限られているので、どうしても修理の優先順位は低くなってしまいます。

その上さらに面倒なことに、我が家の直接の停電原因は、この近辺でも一際大きな樹木が根こそぎになって、コンクリート製の電柱2本を巻き添えにぶっ倒しちゃったこと。まず、この馬鹿デカい倒木を小さく切って、修理用の車両が入れるようにしなければなりません。

その間、頼りになるのが、家庭用の発電機。今年の1月に、母屋とゲストハウスに2台の発電機を新調しておいて、本当に良かった。音は静かだし、電子レンジや炊飯器程度なら問題なく使用可。一台がガソリン満タンで10リッター入って、12時間稼働。なので、だいたい起きてる間は、ほぼ普通に電気が使えます。

ただし、1日20リッターのガソリン代は決して安くなく、毎日1,200〜1,300ペソ(約3,200円)がぶっ飛ぶ勘定。数日で通常の1ヶ月の電気代を超えてしまいます。そんなに払っても、温水シャワーやエアコンは、電力オーバーで使えないので、何日もとなると後期高齢者の両親がいる我が家では、なかなか厳しいものがあります。

そして被災後6日後の月曜日、やっと倒木の処理が完了しました。これについては電力会社ではなく、警察が緊急対応したようで、「PULISYA(警察)」と印刷されたTシャツを着た警官たちが、チェーソーをブイブイさせながら、作業してくれてました。

本格的な修理が始まったのは、さらにその翌日の月曜日。ちょうど1週間目に、ようやく待望の新しい電柱や部品を積んだトラックと、何人ものネグロス電力のスタッフが到着。昼過ぎから始まった作業は夕刻には終了。電柱に隣接する世帯では、電気が戻ったとの歓声が上がり、さて次は我が家の番だと思ったんですが、これが待てど暮らせど電気は戻らず。すでに修理は終わって、誰もいなくなってます。


実は、ちょうど我が家への送電ができるようになったのと、ほぼ同じタイミングで、シライ全市の広域停電が発生していたとのこと。まったく「何じゃそりゃ〜」です。そこから、さらに待つこと3時間。夕食が終わって、すっかり暗くなってから、今度こそ本当に、電力会社からの送電が復旧しました。ここまでざっと1週間と半日。

その晩は、久々にエアコンつけて夜更かし三昧。発電機を停めちゃうので、毎晩10時には消灯してたんですよね。さらに息子と二人で夜食のラーメンまで食べて、心安らかに眠りについて、翌朝は爽やかな起床...のはずが、朝になったら、また停電しとる。「何じゃそりゃ〜」

今回のは広域停電でもないし、昨日の修理に何らかの不備があったのか、我が家の周囲数軒のみの停電。当然、ネグロス電力のホームページにも情報は無し。仕方がないので、家内に頼んで通報してもらい、またぞろガソリンの追加購入で、朝のルーティーンの発電機への給油。あ〜あ、元の木阿弥とは、まさにこれ。

ということで、今も発電機の電力を頼りにネットに接続して、この文章を書いている次第。一体いつになったら、完全復旧するのやら。こういうのが精神的に一番堪えますねぇ。


【後記】この投稿をした直後に、まるで「どっかで読んでたんか?」みたいなタイミングで、電気が戻りました。ただ、大喜びでSNSに書いたりすると、またシレっと停められそうなので、淡々とご飯の用意したり買い物いったり。念の為に発電機は2台とも満タンにしておきました。それから10時間ほど経って、久しぶりに熱いシャワーも浴びて。どうやら、今度こそ大丈夫なようですねぇ。やれやれ...。


2025年11月5日水曜日

ネグロス直撃 25号台風ティノ

 前回の投稿が地震で、今回が台風。もう勘弁してくれよって感じです。地震はともかく、昔から台風被害の多いフィリピンなので、最近、中規模程度以下の台風に関しては、ブログで取り上げてませんでした。

ところが今回のTino(ティノ)は別格。いわゆる「スーパー台風」ではなかったんですが、問題は進路。フィリピン中部のビサヤ地方の心臓部を東西に横断した格好で、大都市のセブだけでなく、パナイ島の州都イロイロ、そして私たち家族の住むシライと隣街の州都バコロドを直撃。久しぶりに、台風の目に入って吹き荒れてた風雨が一瞬静まる、というのを経験しました。

11月3日の月曜日、日本では文化の日の祝日に「これはシライ直撃だ」とビビっていたら、瞬く間に接近して、翌日の火曜日の朝から強風と豪雨。ひとたまりもなくネグロス電力管内、つまりネグロス島の東半分が停電し、午後には台風が上陸するという電撃パンチ。ただ動きが早かったので、暗くなる前に風雨が収まってくれたので、一部道路が冠水していたものの、何とか発電機用のガソリン20リッターを買いに行くことができました。

本当なら前日には分かっていたんだから、買い置きしておけって話なんですが、完全に舐めてました。それとつい1週間前に12時間の計画停電があったばかりなので、在庫が払底してたってのもあります。

それでもまだ、翌日には電気は戻るだろうとタカを括っていたところ、ガソリンスタンドまでの道のりで、被害の大きさを目の当たりにしました。いたるところで街路樹が根こそぎになり、それに引っかかる形で、電柱は倒れるはケーブルは垂れ下がるは。確かに風が強いとは思ってたものの、見える範囲の自宅の周囲では、そこまでのエラいことにはなってません。しかも、当てにしてたガソリンスタンドが軒並み閉まってて、やっと営業してるスタンドを見つけたのが5件目。事ここに至って、ようやく事態の深刻さを認識した次第。

ネグロスでも相当な被害だったんですが、セブでは車が流されるほどの洪水だったらしい。前回の地震でもセブ島北部は大被害だったので、つい日本の能登半島の惨状を思い出してしまいました。ちょっと前まで、セブは自然災害が少ないって、言われてたはずなんですけどねぇ。

そして迎えた、台風一過の今朝(11月5日)。本来この日は「シンコ・デ・ノビェンブレ」のネグロスの祝日。1898年、フィリピン全土に先立って単独でスペインを追い払い、ネグロス共和国を樹立したという記念日。なので元々、学校も職場も休み。台風当日は休みだったメイドさんも出勤してくれて、家族で後片付けの1日となりました。

私はの分担はというと、いつものように食事担当に加えて、発電機の運用。どう楽観的に考えても、電力の復旧まで数日はかかりそうなので、まずはメイドさんにお願いして、追加のガソリン購入。これがなかなか帰ってこない。案の定、どこも発電機の燃料用にと、長蛇の列ができてたそうです。幸いにもATMは開いてたので、当面のガソリンと食料には困らない程度の現金はゲット。

とは言え、お金があっても品薄でガソリンを買えなくなる可能性もあるので、3時間稼働して2時間止めるという時間限定で様子を見る事にしました。台風が過ぎて暑くなってきたので、高齢の母にはかわいそうなんですが、扇風機無しで2時間我慢してもらうしかありません。ちなみに家庭用の発電機なので、エアコンやシャワー用のヒーターも使用不可。不便なことです。仕方がないので、解凍した豚肉や封を切っていたベーコン、スパムの類を一気に料理して、今夜は、時ならぬ「お肉祭り」の夕食になりました。

ということで、このブログを執筆中もまだ電気は戻っておらず、もう停電が36時間を超えました。こっちでは停電のことを「ブラウン・アウト」と言って、発電力不足による計画停電やってた時代の呼称が残ってますが、今回のは正真正銘の「ブラック・アウト」。それでも、一部では前日の深夜に復旧してた場所もあるそうなので、何とか明日中には...と思っております。

2025年10月20日月曜日

自然災害大国フィリピン

 前回は...と言っても三週間ぐらい経っちゃいましたが、私が住んでいるネグロス島の東隣りのセブであった地震の話を投稿しました。マグニチュード6.9で、震源近くのボゴ市では震度6弱の揺れがあったそうです。日本に比べると貧弱な建築施工が一般的なフィリピンなので、あちこちで建物が倒壊し、70名を超える死者が出てしまいました。大規模な地震では付き物の余震も頻発。ここネグロスでもベッドに横になって時など、僅かながら揺れを感じたりしました。

そして翌週の10月10日の朝。またセブの余震かなと思ったら、今度はミンダナオ島西の海底を震源とした、マグニチュード7.4の大地震。しかも同じ日の夜に、本震と同じぐらいの規模の余震が発生しました。ただでさえ地震慣れしてないフィリピンの人々なので、さぞや恐ろしかったでしょうね。その後、ネットに大量投稿された地震発生時の防犯カメラ映像などを見ると、日本人でもパニックになりそうな揺れ。おそらくこちらも、震度6ぐらいはありそうでした。

日本ほど地震情報が頻繁に出ないフィリピンですが、唯一速報に近いレベルで発信しているのが、PHIVOLCS(フィリピン火山地震研究所)。実は以前、ツイッターでフォローしたら、沖合が震源で陸地では無感の地震まで投稿するので、タイムラインが地震情報だらけ。鬱陶しくなってフォローをやめてたのを、セブの地震の後は、余震チェックのために再開。つまり、日本ほど毎年のように大きな被害は出なくても、フィリピンは決して侮れない地震頻発国なんですよね。

さて、それ以降は、ネット上での日本語情報としてはほぼ発信がないけれど、今月に入ってからネグロスの西隣にあるギマラス島で、最大マグニチュード4程度の地震が頻発。さらに、昨年(2024年)6月に大規模噴火した、ネグロスの主峰カンラオン火山の活動が、再び激しくなっています。先週の深夜にも火山性の地震があって、夜中に目が覚めてしまいました。

これはまったくの素人の想像なんですが、ビサヤ諸島からミンダナオにかけての、比較的狭い範囲で地震や火山噴火が頻発しているのは、やっぱり何らかの関係があるんでしょうか。

ところがそれだけに止まらないのが、日本と同様の自然災害大国フィリピン。まるで地震とタイミングを合わせたように、9月から10月にかけて、ナンド(Nando)、オポン(Opong)、パオロ(Paolo)、ラミル(Ramil)と立て続けに台風が襲来。そのすべてがビサヤ諸島の西を通ってルソンに向かうパターンで、ネグロス島を直撃はしないものの、毎回、大雨に見舞われています。

特にラミル(台風24号)は、まだネグロスからかなり離れている時期から、ここ西ネグロスに豪雨をもたらし、州都バコロドでは主要な道路が冠水。息子が通うバコロド市内のラサール大学も、ほぼ1週間のオンライン授業となったほど。毎年10月にバコロドで行われるマスカラ・フェスティバルのパレード当日も朝から大雨でした。(それでも延期や中止にならないのが、お祭り命のフィリピン人。)

ちなみに最近、フィリピンの政治家による1兆ペソ(約2兆6千億円)もの洪水対策予算の横領という、信じられないような汚職事件が明るみに出て、下手するとまた革命が起こるんじゃないかというぐらい不穏な情勢になってます。その直後の洪水なので、税金をマトモに使っていれば、もう少し被害もマシになってたんじゃないかとの話も。

とは言え地震と火山噴火に関しては、本格的にキツいのが起こったら、ちょっとやそっとの対策を打っても、どうしようもありません。日本同様の自然災害大国に住んでいる者の宿命ですね。



2025年10月5日日曜日

年度末のセブ北部大地震

 今年度(2025年)もまさに最終日、あと数時間で日付が変わるという9月30日の夜、セブ島最北端に近い海底を震源に、マグニチュード6.9の大地震が発生しました。この6.9という数字、2011年の東日本大震災の9.0という、史上最強レベルの強さに比べれば、大したことないと思われるかも知れませんが、1995年の阪神淡路大震災の本震がマグニチュード7.3でしたから、決して侮れない規模。

地震があった時間は、私は2階の書斎でパソコンに向かっていて「お、久しぶりにちょっと強いのが来た。」という受け止め。震度3かひょっとしたら4ぐらいはありそう...。これ以上強くなったら、デスクの下に隠れようかと考えているうちに、揺れは収まりました。ドーンという揺れではなく、比較的周期の長いユッサユッサという感じだったので、震源はネグロス島内ではなく、ちょっと遠くでかなり強い地震があったか?

ちなみに私は阪神淡路大震災の時、比較的震源に近い兵庫県尼崎市の実家にいました。おそらく震度6以上はあったろうと思われる揺れ。まさしく「ドーン」と来ました。家具はほぼすべて倒れ、ガラスや陶器の食器類は大半が割れる被害。ただ新築直後の鉄骨3階建ての自宅は倒壊を免れ、火災もなく、私も家族もかすり傷程度で済んだのは本当に幸運でした。

そういう経験があるおかげで、今回の地震もパニックになることなく、そこそこ冷静に対処できましたが、地震慣れしていないフィリピン人の家内はそうはいきません。完全に動転して家から飛び出し、私が呼びに行った時は、停電の暗闇の中、庭の隅っこで震えていました。

すぐに発電機を始動して、ネットで情報収集したところ、震源は私たちが住むネグロス島シライ市からは、ざっと100キロ以上はなれた隣島セブの北部。震源に近いボゴという街では相当な被害が出たようで、後になって流れてきたニュースによると70名以上の犠牲者が出たとのこと。

ここまでの震災は、私たちが移住した年、2013年のセブ島の隣、ボホールで発生したマグニチュード7.2の地震以来。この時シライ市内では、今回よりやや弱めの揺れを感じましたが、当時のメイドさんは同じように真っ青になって家の外に飛んで逃げてました。

ところで、今回の地震に伴うネグロス島での停電。地震で設備が破損したりということではなく、ビサヤ地方の広域をカバーしているナショナル・グリッド(電力会社)が、緊急事態で送電を止めたのが原因。約2時間ほどの点検の後、電力が復旧しました。

さて、フェイスブックやユーチューブでは、地震発生直後から続々と被害を伝える動画が投稿。西ネグロスの州都バコロドでは、建物の倒壊を恐れて多くの人たちが路上に溢れいる姿。家内とまったく同じ行動なんですが、これは笑い事ではなく、フィリピンの建築物って、厳しい耐震基準を満たした日本のそれに比べとても脆弱。そりゃびっくりして外に飛び出すのも分かります。実際、2013年の地震でも、多くの建物が倒壊しましたから。

また今回の地震は、観光地として名前の通ったセブということで、日本でもかなり早い段階で報道されたらしく、日本の私の友人からも安否確認の連絡があったほど。ただ、大都市であるセブ市とその周辺は、シライと同じく震源から遠かったので、揺れたとはいっても被害はほぼありませんでした。しかしながら、土地勘のない海外の災害への反応の常として、あたかもセブ全島が大被害だったかのように、勘違いした人も多かったようです。「島」と言っても四国の1/3ぐらいあるんですけどね。



2025年9月17日水曜日

言語ドッキリ

 ここ最近、ユーチューブでよく見るのがKazu Languagesというチャンネル。これは、10カ国以上の言語をネイティブ並みに喋る日本人、カズマさんという20代の若者が主催。OmeTV(オメTV)なる、初対面同士がビデオ通話を楽しむアプリで、いろんな国の人たちの母語を喋って「言語ドッキリ」を仕掛ける趣向。

このカズマさんが、なかなか今風のイケメンで、主に若い女性たち(10代から20代)を驚かせるのが面白くて、ほとんど同じパターンの繰り返しながら、飽きずに何時間も見てしまいます。

10カ国以上と書きましたが、日々新しい言語に挑戦されているそうで、13とか16とか徐々に増えてくる。別チャンネルのインタビューでは、びっくりネタに使える程度の、挨拶プラスαまで含めたら、何十カ国にも及ぶとのことで、これはとんでもない才能の人が現れたものだと感心しております。ちなみに、三つ以上の言語を操る人のことを、ポリグロット(polyglot)と呼ぶそうです。

何がすごいって、勉強始めて数ヶ月とか半年で、ネイティブに褒められるほど(リップサービスがあるとは言え)の発音の確かさと、いきなりスラングで振られても、ちゃんと聞き取って気の利いた返しができてるところ。それも英仏独などのヨーロッパ系のメジャーな言語だけでなく、中国語(マンダリン)、韓国語、インドネシア語、アラビア語などのアジア系、さらには、アフリカの少数言語など、そんな言葉があったのかというレベルの言語までカバー。ちなみにフィリピンの公用語であるタガログ語も、かなりできるらしい。

立場を逆にすれば、中央アジアかどこかの、かろうじて国名を知ってるぐらいの国で、日本に来たこともない若者が、突如、流暢な関西弁を喋り出したようなもの。何しろ標準ドイツ語に加えてスイスのドイツ語やら、エジプトのアラビア語とか、方言まで熟知してます。

ここから急に話のレベルが落ちてしまって恐縮ですが、一応私も三つの言葉を喋るので、ポリグロットと言えなくもない。母語の日本語に加えて、英語と、今住んでるフィリピン・ネグロス島の方言イロンゴ語(別名ヒリガイノン語)。日本語以外は、ちょっと怪しいながら、日常会話には困らない程度には喋れます。

なので、初対面のネグロスの人に、英語からいきなりイロンゴ語にスイッチして驚かせたり笑わせたりする「言語ドッキリ」の醍醐味は経験済み。特に箸がコケても面白い年代の若い女性が相手だと、転げ回るほど笑われたりします。まぁ私の発音が面白いってのも、多分にあるんでしょうけど。

それにしても一般的な日本人の外国語音痴ぶりって、私が子供の頃から言われてました。原因は間違いなく受験英語として言葉を教えるスタイルの旧態依然ぶり。このブログでも何度書いた通り、小学校1年から、ネイティブの教師に会話中心で教えてもらったら、あっという間に新時代到来なんですけどねぇ。

ところがカズマさんの動画を見ていて思うのは、動画系のSNSやアプリの登場で、言語学習の分野で革命が起こっているということ。ただの独学ではなく、初心者でも対象言語のネイティブ話者と、実地で会話練習ができちゃうんですから。カズマさんは桁外れの天才だとしても、彼のやり方は凡人が真似しても得るところが多い。

現代のネット社会では、別に10言語を目指さなくても、そこそこ社交的で変な羞恥心を捨てられる人なら、一つや二つの外国語は、それほど無理しなくても習得できる環境が整っている。さらにすごいのがAIの進化・普及に伴ったネット上の自動翻訳。英語のような超メジャー言語だけでなく、最近はイロンゴ語の充実ぶりが凄まじい。早速、私のイロンゴ学習で活用しまくりで、イロンゴの家庭教師が驚くほどのレベルに達しています。

もう5年ぐらい前から、毎週イロンゴで日記というか週報みたいなA4一枚の宿題を書いて、先生に添削してもらってます。自動翻訳を使う前から、まず英語で書いてイロンゴに翻訳するスタイル。これは言語間の相性の問題で、同じヨーロッパ系のスペイン語からの借用語が多いせいか、日本語に比べると英語で1対1直訳できる単語が多いんですよ。

このやり方はグーグル翻訳でも有効で、出てきたイロンゴ文を読んだ先生が「誰かに代筆してもらった?」と疑うほど。まぁ代筆には違いないんですけど。

ということで、私が20代ぐらいの頃にこの環境があったら、カズマさん並みは全然無理でも、今喋れる3言語に加えて、タガログ語とスペイン語ぐらいはモノに出来てたかもしれません。若い人が羨ましい限りです。



2025年9月16日火曜日

88歳の母 驚異の回復

 前回の投稿で、フィリピンの我が家で介護中の88歳の母が、とうとうオムツ着用になってしまったという話をしましたが、驚いたことにその母が、赤ちゃん状態から戻ってきました。

一時期、施設に入所していた時に、要介護3になってオムツ付けていました。そこから自力排泄できるようになって、フィリピンに渡航できるまでに回復した実績はあったんです。とは言え、あれからもう数年が経ち、確実に老化は進行している母。正直もう最後までオムツは手放せないかと、諦めておりました。

私自身を含めた一般的な感覚として、中高年から老年期にかけて、若い頃できていたことが徐々できなくなった場合、大抵はもう元には戻らないもの。例えば長時間のスポーツとか、途中覚醒なしに8時間以上眠ったりとか。あるいはかつて食べていた量を食べたら、ひどく胃もたれしたり。

記憶力や認知力も同じですね。衰えの速度をがんばって鈍化させられても、残念ながら不可逆的に、できることが減っていってしまう。なので、母の場合も同じで、しかも一度回復したからと言っても、二度三度は無理だろうなと考えた次第。

ところが、元々母がそういう体質だったのか、それとも今のフィリピン・ネグロス暮らしが良い影響を与えたのか、ここ1週間ほどは大人用オムツとも縁が切れてます。私がホッとした以上に、これが分かった時の家内の喜びよう。メイドのグレイスと共に、直接介護をしてくれている家内なので、嬉しさもひとしお。

さて、その老人には良さそうなネグロス島の我が家での暮らし。具体的にどこが良いのか考えてみました。まずは、暑過ぎず寒さもない気候。これを書いているのは9月なんですが、日本はまだ「危険な暑さ」なんて予報が出てます。今回の父母の滞在は、3月からで、4〜5月の乾季は例年並みの暑さでした。それでも、大阪の狂ったような酷暑に比べれば「昔の日本の夏」レベル。緑の少ないマニラ首都圏などに比べても、避暑地と言ってもいいぐらいの涼しさ。7〜8月は雨季なので、日によっては扇風機さえ要らない天気。

次に考えられるのは、父母のために一戸建ての離れを用意したこと。これは介護する側にも大きいポイントで、相互のプライバシーを保てるし、耳が遠くなってテレビを大音量で付けっぱなしでも大丈夫。当事者の父母もかなり気楽だろうと思います。

そしてこれが一番大事だろうと思うのが、毎日の食事。若い頃から食べるのが大好きな母で、風邪ひいて多少熱があろうとも、食欲だけは衰えたことがない。60代の頃に骨折で入院して、退院祝いにと餃子の王将に連れていったら、下痢をするほど食べ過ぎたという人。さすがに今はそれ相応の食事量ながら、キッチリ三度食べてデザートのパパイヤやドラゴン・フルーツも完食。

誠に手前味噌で恐縮ながら、何より、私が食事担当なのは大きい。移住後10年ですっかり食事担当主夫が板につきました。フィリピンに移住して食べ物に慣れずに困っているという話を時々聞きますが、これは自炊すれば無問題。なぜなら、野菜・魚・肉などなど、たいていの食材は日本と同じか近いものが手に入るし、キッコーマンの醤油も味の素も、キューピーのマヨネーズだってあります。

そもそも母の手料理で、育ててもらった私なので、味付けや献立は母譲り。料理を教えてもらったことはないけれど、自然とそうなってしまう。おかげで、毎食「おいしい、おいしい」と食べてもらえてます。考えてみたら、食事自体もさることながら、夕食時には孫の顔をみられるのも、楽しみの一つなんでしょうね。

ということで、何とか元の生活に戻って、住み込み介護士を雇う話もペンディング。この調子で、最後の瞬間まで今と同じぐらいの元気さで、生き切ってもらいたいものです。


2025年9月11日木曜日

おむつの衝撃

 とうとうこの状況が来てしまいました。後期高齢者の母が半分寝たきりになって、かれこれ5年。私のフィリピン・ネグロス島の自宅に、父と一緒に引き取って世話をし始めてからでも足掛け3年になって、母がおむつの常時着用状態に。

きっかけは先月、母が下痢になってベッドで便を漏らしてしまい、自力でトイレに行けないことが発覚。もう来年90歳になろうという人なので、仕方ないと言えば仕方ないけれど、自分を産み育ててくれた母が、ここまで弱ってしまうのを目の当たりにすると、やっぱり衝撃を受けるもの。

ところが、義理の娘である家内と、介護の訓練を受けてきたメイドのグレイスの対応は見事でした。すぐ近所のスーパーで大人用おむつを購入し、嫌な顔もせずにテキパキと処理。まぁ、この状況を見越して父母専用の一戸建ての離れを建てて、介護の経験がある人を雇ったわけなので、想定内ではありました。

さらに年寄りや病人には手厚いと言われるフィリピンの国民性。まだ日本に住んでいた20年ほど前、ゴルフ場で骨折して入院した母のために、毎日病院に通って入浴の介助をした家内の行いは、それを身をもって証明したような出来事でした。なので、この二人には本当に感謝しつつも、ある意味、手筈通りに事が進んでいるとも言えます。

お陰さまで、母の下痢は数日で快癒。一時は家内ともども、デング熱のような厄介な病気だったらどうしようと心配しましたが、比較的早くに食欲が戻ったので、入院についてはせずに済みました。やれやれ。

それでも完全に元には戻らず、おむつは手放せないまま。実は一旦は要介護3で、日本の老人ホームに入っていた母。そこではおむつ着用だったそうなんですが、ケアマネージャーさんも驚く奇跡の回復で、なんとか飛行機に乗れるまでになり、今に至っています。それを考えると、また自力で下の世話をできる状況になるかも知れません。

下痢で寝込んでいる時は、まったく目の焦点も定まらず、完全に「寝たきり老人」だったのが、以前と同じく食事時には、父に支えられながらも、ちゃんと歩いてダイニングまで来て、健常者と同じメニュー(つまり私が用意する家族用の食事)を普通に食べてます。つい先週には、グレイスに散髪してもらって小ざっぱり。表情もしっかりしてきて、もう「呆けた顔」ではありません。

ただ問題は、おむつ必須だと日本への一時帰国は難しくなること。当初の予定では、半年に一回程度は帰国して、医師による健診や薬の処方などと考えてましたが、場合によっては、まだ頭も足腰もしっかりしている父のみ帰国、という選択肢も考えざるを得ません。そうなると、今は通いのグレイスだけではなく、住み込みの介護士を雇う必要もあります。(ちなみにネグロス島での介護士を雇う費用は、高くても月5万円ぐらい)

最近フィリピンでは、観光ビザのルールが変わって、手続きさえすれば3年は延長できるので、まだしばらくは大丈夫。また日本での介護に比べれば、はるかに恵まれている状況なんですが、それでも親が死ぬのを待っているような感じで、気分的は暗くなりがちですね。

ということで、私と同世代の50〜60代の方々には他人事ではない話題なので、この件に関しては、今後も投稿を続けたいと思います。