2020年12月29日火曜日

10大ニュースの時期なんですが...

 長く感じた今年2020年も、やっぱり12月に入ったらあっと言う間でした。そして、残すところはあと二日で、例年なら「10大ニュース」の投稿をしているところなんですが、申し訳ないことながら、この一年の詳細を振り返ろうという気にならないんですよ。

年初には、自宅裏庭に建てたゲストハウスの運営が好調で、大袈裟に書くと、3月の前半ぐらいまでは、イケイケドンドン。さぁ、これからゴールデンウィークに向けて書き入れ時だ〜...というタイミングで一気に暗転。ご存知のコロナ禍が、フィリピンにも日本にも襲いかかり、予定はすべてパー。

4月〜5月は、ほぼロックダウン状態で、海外渡航どころか、隣街にすら行くことができない日々。この2ヶ月って、フィリピンでは雨が少なく一番暑い季節。本来ならば、ビーチへ、温泉へと、リゾートを満喫してたはずなのに。

日本の夏休みの頃になっても、ウイルスの勢いは止まるところを知らず、東京オリンピックは延期になるし、日本からの渡航なんて夢のまた夢。ここネグロス島のシライ市は、一時期の厳しい検疫はかなり緩んで、人数制限付きながら、買い物や飲食店の利用は自由になっても、未成年と高齢者は、つい最近まで外出禁止のままでした。

そして、多分そうなるだろうと思っていた、フィリピンでの治安悪化。

今月(2020年12月)の初め頃に、愛用する遠近両用メガネの部品が破損して、州都バコロドのショッピングモールに出かけた際に、修理の待ち時間中にモール内を回って驚きました。なんと、レストランやカフェがほぼ全滅状態。



レストラン跡では、鉢植えや野菜を売ってました。

大手のジョリビーやチョウキン(超群)、グリーンウィッチなどは営業を続けていたけど、その他のお店は軒並みシャッター街化。つまり、そこで働いていた従業員は、コックもウェイター、ウェイトレスも全員、収入を失ったわけです。

そこだけ見てもはっきり分かる大不況。これはバコロド市だけで考えても、失業者や収入大幅減になった労働者がどれだけいるか、想像するのも恐ろしい。それでなくても、貯金がゼロで、銀行口座すらない日銭暮らしの人が多いので、この状況では、明日の食事すら危ぶまれる家庭が続出しているのは、間違いありません。

案の定、身近でも空き巣に入られた話を聞くことが増えました。幸いにして、私の住む宅地内では、殺人や傷害などの凶悪犯罪はないようですが、庭に植えていたバナナの木から、収穫直前の実を盗まれたとか、洗濯物(女性の下着とかではなく)が無くなったという、なんだか泥棒の方に同情したくなるような内容ばかり。

そして実に悲しいことに、フィリピンで子供の自殺が、報道されるようになってしまいました。その原因というのは、モジュールと呼ばれる宿題形式の学習。テキストの内容が理解できなくても、直接先生に質問することができず、外に出ることもままならない。一人でたくさん抱え込んでしまって、自らの命を断つというパターンらしい。

フィリピンの、特にネグロスのような地方だと、朝から晩まで、友達も家族も周囲にたくさんいるのが当たり前なので、孤独な環境に対処ができない子供もいるでしょう。痛ましい限りです。

ちょっと思い出してみても、気が滅入ってしまう今年。ネガティブな項目ばかり10件も並べたら、読んでる方も鬱陶しい。ということで、この年末は、10大ニュースはスキップさせていただきました。


2020年12月28日月曜日

フィリピン第3の通信プロバーダー

 

今年、フィリピンの通信業界で話題になったのが、PLDT(フィリピン長距離通信)、Globe Telecom(グローブ)に続く、第3の通信プロバイダーとして、2021年にサービスを開始するというDITO Telecommunity(ディト / タガログ語で「此処ここ」の意味)。

PLDTとグローブの寡占状態だったフィリピンでは、インターネット速度の遅さが、長らく問題視されてきました。どれぐらい遅いかと言うと、今年11月の調査対象となった139カ国中の110位。ASEAN(東南アジア諸国連合)でも下から2番目。

マニラでの固定回線ネット速度が、28.69Mbpsで、日本の91.9Mbps(2019年の調査)の三分の一以下。ただし、これは首都圏での数字で、私が住むネグロス島のシライ市では、せいぜい5Mbps。要するにPLDTとグローブの企業努力が、諸外国に比べてまったく不足しているわけです。

この状況を打破するために、第三の勢力として市場参入するディト。2018年、通信業社としてフィリピン政府の認可入札で勝利した、中国資本40パーセントの通信会社です。

国の最重要インフラを司る通信プロバーダーに、外国資本が入っている企業を選ぶのは、かなりリスクが高いけれど、このぬるま湯みたいな環境を変えるには、強力なカンフル剤が必要だと、ドゥテルデ大統領が判断したんでしょうね。

今年(2020年)7月の国民に向けた演説では、年内にネットサービスが改善されなければ、通信会社の資産を没収すると、ドウテルテさんらしい脅しをかけているぐらい。

いずれにせよ、PLDTとグローブが、新しい競争相手に危機感を持って、顧客満足度の向上に取り組んでくれるのは良いことなんですが、実は私が、フィリピンのプロバイダーに一番欠けているのは、通信のスピードじゃないと思うんですよ。

もちろんお世辞にも、現状の速度に満足してるなんて言いませんけど、私の場合、4K動画とか大容量のデータをやり取りしているわけではない。今でもユーチューブやネットフリックスは、それほどのストレスもなく鑑賞できるし、ブログ書いたりSNSへのアクセスも普通にOK。

では何が問題なのかというと、それは安定性。それも通信障害云々よりも、もっと基本的なサービスの。

PLDTもグローブも共通してダメなのが、トラブった時の対応。まず、苦情の電話をしようにも、最初のコールでは、99%サポセンにつながらない。何回、何十回もかけて、やっとつながって修理の依頼をしても、当日に来てくれることなんてほぼ有り得ない。さらに、何日か後に約束した日時には絶対に来ない。連絡もない。

ようやく修理スタッフが来ても「これは私の手に負えません」と、結局何もせずに帰ってしまい、そのまま放置なんて日常的にあったりします。私の知っている範囲だけでも、このために、PLDTからグローブ(または、その逆)に乗り換えた人が何人もいます。

それ以外には、昨年のゲストハウス新築時に新規回線を引こうとしたら、このビレッジ(宅地)には、割り当て回線がもうありませんと、断られたり。ちょっと待ってよ。広大なビレッジで、まだまだ他に何軒も新築工事中なのに、回線がないってどういうこっちゃ。仕方がないので、母屋から有線で引っ張りましたけどね。

一番驚いたのは、家内のオフィス、フィリピン教育省での出来事。

ある日突然、オフィス全部の固定電話が不通。当然ネットも使えず、何週間か、家内は在宅勤務してました。その後、ネットだけは復旧したものの、2ヶ月以上経った今でも、通話ができないまま。家内に聞くと、何度連絡しても、修理しに来ないんだそうです。

まぁ、固定電話が使えなくても携帯があるし、実務はなんとか回るんでしょうけど、政府機関の地方分室にこの仕打ちをするとは、さすがに信じられません。

ということで、新規参入のディトに期待するのは、通信速度でシンガポールに勝つとかじゃなくて、不具合があったら修理できる体制作り。それも日本並みなんて贅沢は言いません。多少時間がかかってもいいから、放ったらかしだけはやめてほしい。

それがきちんとできたら、たとえ速度が今のままでも、フィリピンでのぶっち切りのシェアナンバー1は、私が保証しますよ。


2020年12月26日土曜日

運転疲れのクリスマス

長かった2020年も最後の週に入り、クリスマスも終わりました。ただし、大急ぎでクリスマスの飾り付けを仕舞って、正月の用意をバタバタ始める日本とは違い、ここフィリピンでは、新年のお祝いもクリスマスの続きみたいなもの。ツリーも電飾もそのまま、1月の中旬か月末ぐらいまで、放置するのが一般的。

それでもやっぱり、家族や親戚が集まってのパーティは、クリスマス当日。家内の母方のオフィレニア一族も、昨日の12月25日に西ネグロスの州都バコロドにある叔母の家で、お昼ご飯を一緒に食べました。

このご時世なので、本当に一族が会するわけではなく、私たち親子三人と、叔母、その息子夫婦、家内の弟家族、家内の従弟が二人にその連れ合いと子供、それに加えて叔母の家のメイドさんの、総勢18名。フィリピンだと、かなり少なめの人数です。

それにしても、自分で車を運転して叔母の家まで来るなんて、丸一年ぶり。去年の8月に、後続車に追突される事故に遭って、すっかり運転するのが嫌になり、以降は運転手さんを雇っていました。しかしコロナ騒ぎで自動車を使う機会が激減。さらにクリスマスには、その運転手さんも休むのが普通なので、久しぶりに自分でハンドルを握ったというわけです。

まだショッピングモールや飲食店に入るには、マスクとフェイスシールド着用義務はあるものの、往来の交通量は、ほとんどコロナ前に戻った感じ。運転マナー...どころか、右左折・車線変更時のウインカーを出すといった、超基本的なルールも無視するドライバーが多いのは、ちっとも変わってません。

センターラインをまたいでノロノロ運転したり、交差点でもないのに、対向車がいきなりこっちの進路を遮って左折(フィリピンは車が右側)してきたり。それでなくて緊張してる神経を、さらに逆撫でされるような状況。

案の定、ほんの30分程度の運転で、叔母の家に到着した頃には気疲れでクタクタ。いくらフィリピンにしては人数が少なくても、そんなに広くもなく、リビング・ダイニングにはエアコンのない叔母の家に18人ですから、暑さと疲労で、食後には強烈な眠気が。

今年の後半は、かなり気合いを入れて勉強した、西ネグロスの方言のイロンゴ語も、あれだけナチュラルスピードで喋りまくられては、とても聴き取れず、会話を楽しむこともできない。だんだん頭が痛くなってきて、家内には申し訳ないことながら、午後3時ぐらいには早々に引き上げることに。

帰路の運転は、もうほとんど苦行のレベルで、自宅に着くとすぐに、ベッドに倒れ込んでしまいました。そのまま暗くなるまで泥のような眠り。幸い、叔母の家でたくさんお裾分けしてもらった料理の残りがいっぱいだし、お米はもう炊いてあるので、晩ご飯は電子レンジでチンするだけ。まぁ、お昼は食べ過ぎるぐらいだったので、ほんの少しで十分です。

ということで、3月ぐらいから、ずっと続いてきた規制が緩んで、親戚と顔を合わせられてのは良かったけれど、なんだかひどく疲れ切ってしまい、まるで今年の気分を象徴するようなクリスマスの1日になりました。

変な寝方したもんだから、今度は夜、なかなか寝付けなかったし。


2020年12月24日木曜日

フィリピンのクリスマスは何故「パスコ」?

 9月になると、何となく人々や街の雰囲気がソワソワし始めて、10月末のハロウィン、その翌日の万聖節(諸聖人の日)を過ぎると、完全にクリスマス待機モードに入るフィリピン。1年の三分の一以上が、そのためにあると言っても過言ではないぐらい、老いも若きもクリスマス大好きな人たち。

ところが今年のクリスマスは、今ひとつ盛り上がりに欠けたまま、何となくクリスマスを迎えてしまいました。結局私も、アドベント(待降節:救い主の降誕に向けて心の準備をするクリスマス前の約四週間)の間に、日曜日のミサには一度も与ることができず、子供たちが歌うクリスマスキャロルも禁止。

最近はようやく、新型コロナ陽性患者の数が30名以下で落ち着いて、規制もかなり緩和された、ここシライ市内。今日、12月24日は、たまたま家内の甥っ子アンドレ君の誕生日もあって、すごく久しぶりに、家内の実家に親戚が集まってのパーティとなりました。

今日で18歳になったアンドレ。フィリピンでは18歳で成人となるので、日本風に言えば、今日がアンドレの成人式。本来なら、友達もたくさん招いての盛大な催しになってもいいところが、やっぱりこのご時勢なので、総勢20名ぐらいの、フィリピンにしてはささやかなパーティ。

それでもアンドレの両親が奮発して、豚の丸焼き、レッチョン・バボイが食卓に登りました。これを見ると、ようやくフィリピンの日常が、少しづつながら戻った感じ。

ところで、フィリピンに縁のある方ならご存知の通り、この国ではクリスマスのことを「パスコ」Pasko と呼びます。パスコはタガログ語で、ここネグロスの方言イロンゴ語では、すこし訛って「パスクワ」Paskuwa。微妙に違います。

それをSNSに投稿したら、クリスチャンの友人から、パスクワってイタリア語でイースターのことだよ、と指摘が。調べてみたら、確かにその通り。イタリア語だけでなく、スペイン語でもやっぱりイースターとありました。

あれ?クリスマスはイエスさまの誕生日で、イースターは処刑されてから復活した日。真逆とまでは言いませんが、全然、意味が違いますがな。

同じように疑問に感じた方もおられるようで、フィリピン関係のブログで、投稿もちらほら。ただ、その理由を説明するところまでは行ってないようで、謎は謎のまま。

当のフィリピン人である家内に尋ねてみても、「なんででしょうね〜?」と笑いでごまかす。クイズが大好きな中学生の息子が調べてくれて、スペイン語のパスクワ Pasqua には、イースター以外に、「過越(すぎこし)」の意味があるとのこと。

過越とは、旧約聖書の出エジプト記の中に出てくるお話。エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民が、神との約束の地に向けて出発しようとした時、それを阻んだエジプト王ファラオへの懲罰として、神が下した「十の災い」。その最後である十番目が、エジプトのすべての家の、長男・長女を、一夜にして皆殺しにするというものでした。

ただし、神はイスラエル人に「鴨居に子羊の血を塗った家は、災いを免れる」と事前に知らせていたため、厄災が「過ぎ越した」ことから、3月下旬から4月上旬にかけてのこの時期は、ユダヤ教の祝祭「過越の祭り」となりました。

そして、「過越」を意味する、ヘブライ語の「פֶּסַח」Pesach(ペサハ)が転じて、ラテン語の Pascha(パスカ)。それがスペイン語のパスクワになったとのこと。

さらに、スペイン語のクリスマスの呼び方には、 Pascua de Navidad(パスクワ・デ・ナビダッド)というのがあって、ナビダッドとはクリスマスの意。「クリスマスのイースター」ではなく、「クリスマスの祝祭」。つまり、「パスクワ」には祝祭 Fiesta の意味もあるみたいです。

なるほど〜。400年前にフィリピンにカトリックを伝えたスペイン人は、クリスマスの祝祭の意味で、パスクワ・デ・ナビダッドと教えたんでしょうね。それが縮まってパスクワだけが残り、さらに訛ってパスコになった。パスコがイロンゴ語に訛ったんじゃなくて、イロンゴ語の方が元の発音だったのか。

ここまでのお話、私の推測がかなり混じっております。もし、スペイン語やラテン語に詳しい方がいたら、本当のところを教えてください。

ということで、今日はせっかくのクリスマスなので、それに因んだお話をしてみました。



2020年12月22日火曜日

やっぱり中国製ワクチンには疑問符

出典:ABS-CBN

遂にアメリカやイギリスなどで、ファイザーやビオンテックなどの大手製薬会社が開発した新型コロナのワクチン接種が始まりました。日本でも早ければ2月か3月頃には、接種開始の見込み。

2週間前の投稿(帰国を余儀なくされた人たち)では、あまりの開発スピードの速さに、本当に大丈夫かと書いた私ですが、どうやらアメリカやイギリス、ドイツなどの製薬会社の製品に関しては、大きな問題はなさそうです。

というのは、開発プロセスやワクチンの成分が、誰にでも確認できるようになっているし、各国の検査機関も、いくら急いでも必要な検査項目はスキップしないとの方針が明確。アメリカの場合、トランプ大統領から食品医療品局(FDA)に対して、大統領選の投票前の承認を迫る圧力があったものの、結局承認されたのは、投票の約1ヶ月後の12月11日。

それでなくても、新型コロナの治療法承認(血漿療法)の撤回と謝罪などで、政治介入に屈していると、非難を浴びてきたFDAのハーン長官。もし選挙日程に合わせるタイミングだったら、それが合理的な判断だったとしても、ワクチンの安全性に対する不安を煽っていたでしょう。

今回のワクチンに関しては、私もネット上でかなり調べてみました。その結論として今言えるのは、このワクチン開発は、「幸運」と「莫大な資金」によって成り立っているということ。

まず、新型コロナ・ウイルスは、2003年に流行した重症性呼吸器症候群の原因の SARSコロナや、2013〜15年の中東呼吸器症候群のMERSコロナと同系統だったことから、知見の蓄積があった。まったく未知の、人類が初めて遭遇するようなウイルスではなかったんですよ。

加えて、ここ10年ほど研究されてきた、mRNAという、インフルエンザや癌の治療に向けた技術が、運良く新型コロナのワクチン開発でも使うことができた。(詳しくはこちら

さらに、素人に一番わかり易いのは、従来の開発スピードの足枷になっていたコストを、ほぼ度外視できたこと。つまり、政府が臨床試験の成否に関わらず、すべてのコストを引き受ける約束をしたので、承認が確実ではない段階で、複数テストの同時進行や製造プロセスの先行投資が可能になった。要するに時間を金で買ったんですね。

とは言え、どんなワクチン接種にもある、副反応(ワクチンの場合は「副反応」が正式名称で、「副作用」とは少し違うそうです。知りませんでした。)は、当然ながらゼロではありません。発熱や悪寒、頭痛、関節痛などは、今までのワクチンでもあった症状。

ということで、早くできたからと言って、安全確認が疎かにはなっていないので、少なくともその開発や治験プロセスの透明性が確認できるワクチンなら、私も接種しようと考えております。

ただし問題なのは、中国製のワクチン。

日本に住んでいたら、こんな心配をする必要はないでしょうけど、フィリピンでは中国製ワクチンしか選択肢がなくなってしまう懸念も。一時はファイザー社との交渉が、フィリピン側のエラいさんが癇癪を起こして決裂したとの情報もあり、やきもきしています。一応、交渉は継続中。

今のところ、イギリスのアストラゼネカ社からの260万回分は確保されているそうですが、最速でフィリピンに導入できる見込みなのが、中国シノバック社製の2,500万回分。ところが、シノバックのワクチンは、まだ第三層の臨床試験が終わっていない。

気になったので、ツィッター上で公開質問を受け付けている、日本のバイオ研究者の方に聞いてみたら、中国産のワクチンは承認プロセスの情報が不十分で、疑問符がつくとのこと。

同社からのワクチン第一便がすでに到着しているインドネシアでは、1月からの接種開始に向けて、国民から不安の声が上がり、ジョコ大統領が対応に苦慮しているとの報道もあります。フィリピンでも中国製がメインになれば、同じことが起こるでしょうね。

コロナ禍が1日も早く終息してほしいのは山々なれど、安全性に疑問符がつくワクチン接種は、やっぱり怖いです。



2020年12月20日日曜日

子供と犬と酔っ払い


またもや騒音にまつわる投稿です。

最初に書いておきたいのは、日本人がフィリピンに住もうと思ったら、よっぽどの山奥とか、周囲に宅地のない、田んぼや畑のど真ん中、みたいな立地じゃない限り、近隣からの生活騒音は、ある程度覚悟するしかないということ。

もう、基本的な常識や感覚が違い過ぎて、ゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)で立ち向かったりしたら、メンタルに支障を来すこと間違いなしです。

実は、3ヶ月ほど前に、深夜に向かいの家の酔っ払いが騒ぐのに閉口して、その家に面した2回の居室を、裏側に建てたゲストハウスへ移転したばかり。(プチお引越し)皮肉なことに、苦情申し立ての効果が多少ともあったのか、以前に比べるとずいぶん静かになってます。

それでも、ベッドやでかい書斎机を元に戻すのも面倒なので、そのまま、ゲストハウスに居着いてはおりますけど。どうせお客さんは来ないし。

すると今度は、そのゲストハウスの方でちょっとした問題発生。

隣、というには少し距離がある近所の家。こちらは以前、犬2頭の放し飼いで文句を言った家族なんですが(路上で犬の放し飼い)、最近、親戚と思われる、小学生ぐらいの子供たちが同居を始めました。兄弟らしく、よく似た顔の二人。子供好きのフィリピン人には申し訳ないことながら、この二人がドラえもんに登場する「ジャイアン」みたいな小太りの悪ガキ。可愛くないこと、この上なし。

このガキどもが、なぜか自分の家ではなく、わざわざゲストハウスの前に来て、自転車で行ったり来たり。補助輪付きの子供用なので、普通に走っているだけでかなりうるさいのに、二人揃って絶叫するんですよ。

まぁ、この年齢の子供が大声を出して遊ぶのは仕方ないにしても、ちょっと度が過ぎるというか、まるでテーマパークの絶叫マシンに乗ってるんか?というぐらいの勢い。その上、これを朝の6時とか7時から夕方まで、休憩を挟みながら何時間もやってくれます。

一昨日は、これに加えて、幼稚園ぐらいの女の子が参戦。同じように真似をして、金切声を上げるもんだから、クーラーつけて窓を締め切るしかないという有様。さすがにこれはちょっとひどいので、表に出て「静かにしろ〜!」と英語で叱りつけました。

それからは、ゲストハウス前では叫ばなくなって、一応はホッとしましたが、やっぱりガラガラと自転車遊びは続いて、その度に我が家の飼い犬ゴマが「侵入者接近」とばかりに吠えまくる。あ〜あ。

実は、私は、大の子供嫌い。

こう書くと、リアルで私を知ってる人は、驚くかもしれません。昔は、本当に子供がダメで、満員電車の中で泣いたり騒いだりされると、ものすごい苦痛。それが、よくある話ながら、自分に子供ができた途端、少なくとも赤ん坊の泣き声は大丈夫になり、フィリピンに来てからも、4〜5歳ぐらいの子供なら、抱っこしたり一緒に遊んだりができるようになりました。

ただしこれも相手の出方次第。躾がなっていない「野生児」みたいな子供には、今でも拒否反応が出てしまいます。特にフィリピンの場合、中途半端に裕福な家庭の子供って、周囲から甘やかされているのと、欲しいものは手に入りやすい環境のせいか、我儘が目に余るガキが多い。今回、自転車で暴れ回っている子供たちは、典型的にこのパターン。

ということで、フィリピンでは、子供と犬と酔っ払いとは、まともに喧嘩しても無駄。相手が変わることは、まずあり得ないし、社会的に騒ぐのは当然と見なされいているので、こっちの感覚を変えない限り、フィリピンで生きるのは難しいと、今更ながら悟った次第です。

それにしても、あの子供たち、土日も平日も関係なしで、オンライン授業とか受けてないのかなぁ?



2020年12月17日木曜日

イロンゴ語学習、次のステージへ

 約1ヶ月半ほど前に、ただいま私が勉強中のイロンゴ語の辞典を作ると息巻いて、このブログに投稿しました。(日本語・イロンゴ辞典を作る)思ったより面倒な作業で、意気込みの割には、また尻すぼみかな...との危惧があったものの、意外にもまだ続いております。

新しい家庭教師のアン嬢が来てくれてから、かれこれ半年が経過。初心者に立ち返って、挨拶とか数字、曜日に月、野菜に果物、色の名前などなど、アンが用意してくれた、シチュエーション毎のテキストも、ほぼ出尽くして、今は、毎週の出来事を、イロンゴ語で日記風に綴って、レッスンの時に添削してもらうという進め方に移行しております。

つまり、間違いは多いながらも、おおよその文法はマスターして、ある程度自由に文章を作れるレベルまで到達しました。

例えば昨日のイロンゴ作文。

Na-ngita ko sang mga face mask sa sulod sang shelf drawer. Gin-bakal sila nakon sa Japan nagligad nga walo ka tuig. Syempre indi sila para sa Covid 19. Sa Japan, sa panahon nga spring, naga-lutaw ang damo nga pollen sa hangin. Amo na dako nga tawo ang may allergic rhinitis.

(和訳)きのう私は、棚の引き出しから、マスクを見つけました。8年前に、日本で買ったものです。もちろん、コビッド19のためではありません。日本ではの季節に、空気中にたくさんの花粉が漂って、多くの人がアレルギー性の鼻炎になるのです。


私が知らなかった「見つける」「漂う」などの言葉は、英語で代用して、取り敢えず文章を作ってしまいます。大抵は、それに該当するイロンゴ単語をアンが教えてくれるのですが、英語がそのまま使われるケースも多い。(赤字)

「気がつく」Noticeとか「怪我をする」Be injuredなど、探せばイロンゴ語はあっても、「ディープ・イロンゴ」と称して、若い人はまず使わない、時代遅れな感じになるらしい。テレビを受像機と言ったり、コンピューターを電子計算機と呼ぶようなものなのかも。日本語でも、カタカナ言葉の方が自然な表現ってありますよね。

この例文を見ると、そもそも四季の区別がほとんどなくて、夏一択のフィリピンに「春」がないは仕方がないにしても、マスクや棚の引き出しが英語の方が自然。そして、ちょっとした専門用語や病名などの医療用語の場合は、英語でしか表現できない。

そりゃあ、数学や理科をフィリピンの言葉で教えられないのも、理解できます。日本語に例えるなら、漢字をできるだけ使わず、大和言葉だけで文章を書くのに近い。「鉛筆」を「なまりのふで」みたいに。できなくはないけど、意味が分からんし、すごく長ったらしくなりそう。

さらに概念的な言葉や、比較的新しい事物の場合、英語ではなく、スペイン語をそのまま借用。「重要な」Importante(インポルタンテ)、「問題」Problema(プロブレマ)、「週」Semana(セマナ)、「弁護士」Abogado(アボガード)などなど。

これはおそらく、公用語であるフィリピノ語(タガログ語)の語彙も、似たような成り立ちなんでしょうね。

こんな具合に、毎週20ぐらい新しい単語を仕入れて、その結果をどんどん辞典に盛り込んでいく訳です。当然、すべては記憶できないにしても、後から容易に検索できるので、次に同じ表現に出くわしても文章は書けるし、それを2回3回と繰り返せば、なんとか自分のものにできるだろうとの目論み。

まだ【の】のように単語数が少ないページもありますが、【か】などは、かなり辞典っぽく充実してきました。

ただ、このやり方の弱点は、元の文章を自分で書いているので、どうしても翻訳調になってしまうし、イロンゴ語話者同士の、自然な会話に触れる機会が皆無なこと。そこで昨日のレッスンでは一計を案じて、フェイスブック友達が投稿したイロンゴ語を素材にしてみました。これが想像以上に盛り上がった。

Kanami gale ka feeling kung ang ex bf muh ma licensya cmu nga ma pa kasal. Ahhhh dw ma piangak ko.

略語やら当て字がいっぱいで、イロンゴ語初心者には何のこっちゃ分からん内容。これは、先週投稿した、私が散髪してもらった美しきゲイ美容師、トネット嬢のタイムラインから。

どうやら前の彼氏が、女の子と結婚してもいいかと、トネットに許可を求めているらしい。なので、叫びたい(Piangak ピアンガッ=動物のような声で鳴く)と嘆いている。日本語にするのは難しいけど、実にイロンゴ語らしい言い回しのようで、アンは大笑い。

ということで、ネグロス島移住9年目を迎える来年は、我がイロンゴ語学習における、次のステージを目指せればと思っています。



2020年12月14日月曜日

ダブル目ばちこ

もう先月(2020年11月)になってしまいましたが、右目と左目に、順番で目ばちこが出来てしまいました。 

方言生活者あるあるな話で、私は「目ばちこ」は全国で通じる、普通の日本語だと思ってましたけど、これは関西のみ。関東を含む東日本で言うところの「ものもらい」です。

面白いことに、ネットで調べてみたら、大阪府下の眼科ホームページでは「目ばちこ、または、ものもらいとも言う」となっていて、関東地方だと「ものもらいは、大阪では『目ばちこ』、北海道では、『めっぱ』」と、それぞれ自分の地域を中心に説明してます。

ところで、物貰いなんて名前なので、感染する病気なのかと思いきや、三軒の家から米を貰って食べたら治る、などの伝承から付けられたのが、今まで残ったとのこと。感染はしません。

お医者さんが書く病名では、「麦粒腫(ばくりゅうしゅ)」「霰粒腫(さんりゅうしゅ)」。これを書いているパソコンで、一撃でかな漢変換されたので、私が思っているより一般的な名称なのかも知れません。

さて、私の目ばちこ。

特に寝不足が続いたとか、疲れやストレスが溜まっていたわけでもないのに、ある朝目が覚めたら、右の上瞼、ちょうど涙腺の辺りが腫れぼったい。鏡で見ると、喧嘩して殴られたみたいな顔になってます。と言うのは、ちょっと大袈裟で、眼鏡をしたら分からないぐらい。

それでも、瞬きをする度に違和感があるし、何をしていても右目に意識が行ってしまう。日本だったら、ひどくなれば眼科のお医者さんに診てもらえば、なんとかなるだろうとの安心感はあっても、私が住んでいるのはフィリピンの片田舎。

しかも、一時期シライ市内だけで、何百人も出ていた陽性患者の数は二桁代になったとは言え、まだまだコロナ禍の真っ只中。大きな総合病院だけでなく、こんな地方都市の診療所まで、診察待ちの患者さんが長蛇の列。これは、よほど状態が悪くならない限り、通院する気にもなりません。

それに加えて、ここ最近、なぜか身体の右側ばかりに不具合が出るのも気になってました。今回の右目の目ばちこ以外にも、ちょっとした擦り傷や打撲、調理中の火傷や、原因不明の長引く筋肉痛など、ことごとく右腕や右足。

う〜ん、これは何か変な「霊」が、右肩に乗っているのかいな。と書くと冗談みたいですが、ここネグロス島では、呪い(まじない)で悪霊を祓う「呪医」が、職業として成り立っています。ちゃんとお金を払えば、お祓いをしてくれるんですよ。

こんな具合に、一人でビビっているうちに、右目の目ばちこは数日で腫れが引きました。慌てふためいて、呪医さんにすがらなくて良かった。と思って朝起きたら、今度は、左目が目脂で開かない。うわぁ、またやんか〜。

どうやら右のが霰粒腫で、左は麦粒腫だったようです。症状としては、左の方が厄介で、痛みと痒みがある上に、かなりの膿が出る。これが目脂の正体でした。

さすがにこうなると、悪霊の祟りとか呪いじゃなくて、タチの悪い熱帯特有の感染症じゃないかと、嫌ぁ〜な想像をしてしまいます。上瞼の内側で、それほど目立たなかった右と違い、下瞼の真ん中にニキビみたいなのが一つ。出てくる膿をティッシュで拭ってたら、血が出ちゃった。まるで血の涙を流してるみたいで、見ていた家内もドン引き。

ちなみに目ばちこは英語で、Sty(スタイ)。西ネグロスの方言イロンゴ語では、Timos-Timos(ティモス・ティモス)と言うそうです。どっちも知らんかった〜。

ただし、転んでもただでは起きない関西人なので、フェイスブックでネタにして、「今日の目ばちこ / Stay of the day」なんて、日英併記の目ばちこ日記を付けてみたり。そうこうしているうちに、お陰さまで、一週間ほどで完治いたしました。怖い感染症じゃなくて、よかった。


2020年12月12日土曜日

フィリピンのプロテスタント

 今日は宗教の話を少々。と言っても、ありがたぁ〜い神の教えを信じなさい、みたいな布教目的ではございませんのでご安心を。

日本だと、政治の話題と並んで、宗教について語ると敬遠されたり、あからさまに嫌がられたり。何やら日常から遊離した、七面倒くさい人物だと思われがち。ところが、ここフィリピンでは、政治、宗教、共にとても日常的。特に宗教、つまりキリスト教は、国民の9割以上が信徒。むしろ、信仰がない人の方が珍しい。

とは言っても、誰もが「敬虔な」と形容されるべき、真面目なクリスチャンではありません。信徒でない方々にも知れ渡っている「十戒」の中でも、「盗むなかれ」「隣人を貪るなかれ」「姦淫するなかれ」「殺すなかれ」は、守らない人が多いのが現実。

政治家が率先して、税金を懐に入れるし、隣近所から金を借りまくって、いざ返金を迫ったら貸してくれた相手を「金の亡者」と罵り、浮気した妻を、その愛人共々射殺する。まぁ程度の差こそあれ、どこの国でもありがちな事ですけどね。

つまり宗教があまりにも日常に近すぎて、特別な存在ではない、とも言えます。特にユルユルなフィリピン・カトリック。「許しの神」を都合よく解釈した人は、悪い事しても日曜日のミサで、神さまに謝ったら許してもらえると思ってますから。

ちなみに一括りにクリスチャンと呼びますが、フィリピンの場合、その八割はカトリック。2,000年前の原始キリスト教から転じて、ローマ帝国の国教を経て、現在のバチカンにおられるローマ教皇を頂点とする、人口13億人もの一大宗教です。

国別にカトリックが過半数を占めるのは、ヨーロッパで言うと、イタリア・スペイン・フランス・ポルトガルなどの、いわゆるラテン系の国々とアイルランド、そしてハンガリー・チェコなど東ヨーロッパの一部。

スペインやポルトガルを旧宗主国とする、メキシコ・ブラジル・アルゼンチンなど、サッカーが強い中南米諸国は、軒並みカトリック。そしてアジアでは、ぶっちぎりで最大のカトリック人口を誇るのが、我がフィリピン。

カトリック以外で多くの信徒がいるのは、正教会。英語では「オーソドックス」。元々はカトリックと同根だったのが、東西ローマ帝国の分裂や、十字軍の遠征など複雑な経緯で分かれたもの。現在では主にロシア、ルーマニア、ギリシャに信徒が多く、総数約3億人と言われています。

そして、今日のテーマのプロテスタント。

誤解されている方がおられるかも知れませんが、プロテスタントとは、カトリックや正教会のような、一つのまとまった組織なり信仰で束ねられている単一の教団ではなく、多種多様な宗派の便宜上の名称。「Protestant〜異議を申し立てる者」の名の通り、16世紀の中世カトリックの腐敗に対して、ドイツでの宗教改革を試みて破門された司祭、ルターが興したルーテル教会が最初。

同様にカトリックから分かれた宗派として改革派教会やイングランド国教会などがあります。ちなみにイングランド国教会の場合、教義上の対立ではなく、16世紀の国王ヘンリー8世の離婚問題に端を発しているので、典礼の内容は、カトリックに近いそうです。

さらにアメリカではカトリックや正教会を凌ぐ隆盛を極めているのが、バプティストやメソジスト、長老派、などなどで構成されるプロテスタント諸派。フィリピンのプロテスタントは、フィリピン発祥のイグレシア・ニ・クリストやペンテコスタルなどに加えて、アメリカからやって来た宗派も多い。

シライ最大のプロテスタント教会
イグレシア・ニ・クリスト

我が家の近所にも、結構な数のプロテスタント教会があります。例えば、セブンスデイ・アドベンティストに、ニューホープ・バプテスト、さらには、日本でも知られているモルモン教こと末日聖徒教会やエホバの証人まで、何でもありの状況。

ここからは、カトリックの末席にいる私の主観ですが、ことフィリピンに関する限り、信仰心では、どの宗派であれ、プロテスタント信徒の方が概ね真面目。一般のフィリピン人カトリック信徒が、宗教なんて生活の一部で、空気みたいなものと思っているとしたら、プロテスタントの人々は、溺れかかって、自ら空気を求めているように見えます。

これは、権威的で偉そうに見える、カトリックからの改宗者が多い事と、無縁ではないでしょう。

そのせいか、時間や金銭感覚にルーズと言われるフィリピンにあって、プロテスタント信徒さんは、例外的に時間にもお金にも、きちんとした人が多い。また信徒の数が少なく、誰もが顔見知りで結束も固い。一つの地区が、丸ごと同じ宗派という話もよく聞きます。

その牧師さんは、集まる人の顔と名前が一致していて、各人の家庭環境や交友関係も把握しているから、メンタルセラピストの役割も担っているようです。これは、本来、カトリックの神父にも求められる素養だったのが、フィリピンでは信徒数が多過ぎて、なかなか手が回っていない。

ただその反面、真面目過ぎて、融通が効かないケースもあります。教会の活動が最優先で、遊びに誘っても動きが取れないとか、若い女性の服装に対して、ちょっと行き過ぎなくらい厳格だとか。率直に言うと、仲良くなってもなかなか本心を見せない、壁がある感じ。もし恋愛の相手がプロテスタントだったら、正式に結婚しない限り、かなり窮屈な付き合いになりそうです。

ちなみに、自宅を新築中に住んでいた借家の隣が、日曜日の朝だけ、某プロテスタント教会の集会場。若い牧師さんは、毎週やたら情熱的な説教をして、最後には決まって、信徒さん共々、感極まって号泣するスタイル。ここまで行くと、ちょっと危ないですね。

実は私、中学生ぐらいまでは、日本でプロテスタントの教会に通っていて、その当時の印象は今と真逆。カトリックの方が四角四面で堅苦しく、クソ真面目な人が多いと思ってました。これは国によって信徒さんの年齢構成や地域差もあるので、一概には言えませんが。

ということで、今日は、この国に住んでいても、日本人には馴染みの少ない、フィリピンのプロテスタントについて書いてみました。



2020年12月10日木曜日

発見!隠れ家的美容室

 2ヶ月半ほど前、久しぶりに散髪したら、行きつけの安ぅ〜い床屋さんが「三密」状態でヤバかったという投稿をしました。その教訓を踏まえて今回は、それほど髪が伸び過ぎないうちに、美容室へ行こうと思っていて、それを実行したお話。

日本では大衆理容にしか縁がなく、美容室なんて足を踏み入れたことない私。ところがフィリピンでは、移住前の、家内の里帰りの短期滞在していた頃から、時々美容室で髪を切ってもらってました。

理由は単純で、田舎のシライ市内では、シャンプー用の洗面台がないのは当然で、暗い・汚い・狭いの三拍子揃っている所ばかり。まぁ料金が50ペソ(約120円)なので、文句も言えませんけど。しかもトンデモなく雑な対応で、散髪が終わったら、首筋や腕だけでなく、服の中まで毛だらけ。速攻で家に帰ってシャワーしないと、痒みで発狂しそう。

なので、日本と同等レベルの理髪サービスを受けようと思ったら、州都バコロドまで行くか、シライ市内ならば、美容室しか選択肢がありません。

少し前までは、バコロドの手前のタリサイ市にあるショッピングモール内に、たまに行ってた美容室があったのですが、残念なことに、コロナ禍の煽りをモロに受けて敢え無く閉店。仕方がないので、シライでお勧めの美容室は?と、地元出身の家内に教えてもらったのがバライ・オチョ。(Balay Otso)バライは「家」で、オチョは「8」。セネター・ホセ・ロクシン通りの8番地にある、ゲストハウスの名前。


実は、このバライ・オチョ。私はかなり前から知っていて、日本から英語留学に来た生徒さんが、時々宿泊してました。へぇ〜、そこに美容室があったとは。

早速家内に予約を入れてもらって、行って来ましたバライ・オチョ。一般の家屋としては相当大きく、邸宅と呼ぶべきサイズ。その一階のエントランスからすぐの、客間として作られたと思しき部屋が、美容室になってます。

入ってみると、これは広い。6人はゆったり収容できるスペースで、ベランダには洗髪用のリクライニングシート。美容室の看板は上がっておらず、常連さんからの紹介がないと、美容室だとは分からない。家内曰く、有閑マダムの社交場になっているそうな。ちなみにこの時は、客は私だけの貸切状態。



そして美容師さんは、フィリピンあるあるのゲイ。それも、私が今まで会ったなかでは、一番の美人さん。何と言うか、男が無理して女を装ってる感じがしない。佇まいが普通に女性なんですよ。同じくゲイで、シャンプー担当アシスタントのお兄ちゃんと比べると、その自然さが際立ってました。


フェイスブックのプロフィール写真

彼女の名前はトネット。30歳になるかどうか、ぐらいでしょうか。もうバライ・オチョに店を構えて2年なんだそうです。さすが、富裕層相手に商売してるだけあって、聴き取りやすい英語を喋ってくれるし、話術もなかなかのもの。聡明だけど嫌味がない。

気になるお値段は、「海兵隊みたいに」と頼んで思いっきり短くカット、それからシャンプーしてもらって、所要時間30分ほどで150ペソ(約330円)。アシスタントに渡したチップ20ペソを含めても、400円に満たない。これはリーズナブル!

ということで、場所も人も気に入ったので、これから2〜3ヶ月に一回ぐらい通おうかと思ってます。



2020年12月7日月曜日

帰国を余儀なくされた人たち


 今年(2020年)も12月になってしまいました。中国の湖北省・武漢で、最初に新型コロナウイルスの患者が確認されてから丸一年。いつもなら師走となると、あっと言う間に一年が過ぎたなぁと感じるところですが、今年に限っては、去年の今頃が、ずいぶん昔のことのように思えます。

2019年の12月と言えば、我が家ではゲストハウスが完成し、もう何組かのお客さんが宿泊していました。年末、年明けにかけて、入れ替わり立ち替わりで賑わっていたのが、嘘のよう。最後の日本人宿泊者が退去してから、もう半年が経過します。

私が付き合いをさせてもらっていた、ネグロス島在住だったり、ネグロスを起点にその後職を求めて、セブやアンヘレスへ移った、20〜30代の日本の若者たち。そのざっと半数が、今回のコロナ禍によって帰国を余儀なくされてしまいました。

私のように、貯蓄や年金で暮らしている退職者ならばともかく、彼らは、主に日本からの学生さんを対象とした、英語学校の仕事に従事。海外渡航がほとんどできない状況となっては、到底成り立たないビジネス。

数ヶ月で戻れるとの見通しで、教室として借りていた家屋を、家賃前払いして一時帰国した人もいました。ところが、家主が約束を反故にしたため、結局賃貸契約を解除。あるいは、勤務先が閉鎖の憂き目に遭い、自力で日本食の宅配を始めて頑張っていた人も、10月末には已む無く撤退。

中には、フィリピン女性と結婚したばかりなのに、ロクに新婚生活を楽しむこともなく、新妻を残してフィリピンを離れたという、気の毒としか言いようないケースも。

それ以外で、私が伝え聞くところでは、マニラ首都圏やセブでも、観光や飲食関連を中心に大打撃。多くの日本人起業家の方々が、涙を飲んでの帰国となってしまったようです。

少し前に、SNSでセブ在住の邦人の方が書かれていた投稿によると、一時は隆盛を極めた短期英語留学ビジネスは、コロナの影響で、オンライン・レッスンに大きくシフト。フィリピンへの渡航規制が緩和されたとしても、そう簡単に生徒さんは戻らないとの予測。

私の知るフィリピン人英語教師の中にも、オンライン専門に移って仕事再開した人がいます。確かに、日本でも業務形態や働く人のマインドが変わってきたようなので、まったく同じように復興というのは、難しいかも知れません。

さて、事態終息に向けての決定打と思われるワクチン。このところ、アメリカやイギリス、中国、ロシアなので、驚異的な早さでの開発と治験で、間もなく一般への接種が始まるとの報道がネット上を賑わせています。

でもこれって、本当に大丈夫なんでしょうか? 本来5年から10年は要すると言われるワクチン開発が、いくら各国政府の全面的な支援があったとは言え、1年も経っていません。素人の感情論で申し訳ないけれど、フィリピンではつい数年前、フランス製のデング熱ワクチンの副作用で、何十人もの子供が亡くなる薬害事故が起こったばかり。

しかも今回は、健康被害があっても、製薬会社は賠償責任を負わない条件での緊急輸入だと言います。日本政府は、もしもの場合、国が肩代わりすると発表しているものの、フィリピンでは心許ない限り。

さらに、もし中国製のワクチン接種となったら、ほとんどの人が拒否するか、安全を確かめるまで、様子見をするかも知れません。正直、私だって怖いですよ。

そんな懸念もあって、先日フィリピン国家経済開発庁の関係者が、ワクチン接種が広く普及するのは2021年末の見込みで、検疫の完全撤廃は2022年になるだろうとの述べたのは、現時点でかなり妥当な見解だと思います。(Philippines likely to remain under quarantine until end-2021

ということで、心ならずも日本に去った友人たちがフィリピンに戻り、私が一時帰国できるのは、まだ当分先になりそうです。


2020年12月5日土曜日

Our flower girl will be a doctor Part 2

 Continuing from the last time, this is the story of Zennia, who served as a flower girl at our wedding.

Zennia's mom, Marjorie, has been a friend of my wife since they were in elementary school. They are childhood friends in the neighborhood. In other words, Marjorie, who now lives in the city of Iloilo on Panay island, across the sea, was born here in Silay, Negros. If I replace it in Japan, it's about the distance from my hometown, Amagasaki to Sumoto on Awaji Island. Of course, that was the time when I was on a ferry from around Osaka southern port or Kobe before the Akashi Kaikyo Bridge was built.

My wife and Marjorie's friendships would have been almost uninterrupted. Because Silay and Iloilo were a day trip away, and my wife used to work as a researcher at the University of the Philippines Miagao Campus, a 30-minute drive from Iloilo, before she married me.

Even after my wife moved to Japan, we used to go to Iloilo and Miagao on her annual homecoming. And most of the time, We met Marjorie and her family at the same time, so I had many opportunities to meet Zennia.

So for Zennia, I would have been somebody like her uncle who sometimes came from Japan. She called  me "Tito" and was very friendly. In general, Filipino children call the person who are the same generation as their parents, Tito and Tita, not only to me.

Zennia also loves Japanese anime and is particularly interested in Japan. I'm a foreigner and I am as old as her parents, but we still have a lot of common topic. Recently, when I posted on Facebook that "I'm addicted to this anime on Netflix," she commented, "I've seen it for a long time." In fact, she's a much deeper anime otaku than I am.

In that way, I somehow knew what was happening on Zennia  such as being a college student, having a boyfriend or hoping to get a medical job in Japan.

And eight years ago, I moved to Negros with my wife and son. I think Zennia was studying to become a nurse at that time. However, it seems that the language barrier was too high, and she gave up on getting a job in Japan. It may not be a substitute, but after working as a nurse for a year, Zennia started studying to get a doctor's license.

Just on November 26th, my wife's birthday, she posted a selfie video with delight, saying, "I passed the national exam." Congratulations, my flower girl!

Zennia specializes in Internal medicine. In the Philippines, as same as in Japan, a long education period is essential before taking the national examination. 4 years of university and 3 years of medical school, 1 year of clinical clerkship, and another year of internship. It will take a total of 9 years at the shortest. If you fail the exam, start over the next year. So I can imagine her happiness.

Zennia at the time of college graduation
"Tito" is so impressed because
a small flower girl has grown up.

It took four days for the exam itself. She told me that she made a lot of careless mistakes on the first day and cried disappointedly that night. What a stress she had!

At a medical school in the Philippines, the annual tuition fee is 120,000 to 250,000 pesos. If you simply convert this, it will be 250,000 to 540,000 yen, but considering that the average annual income in the Philippines is about 1/5 to 1/4 of Japan, it is not easy for ordinary households to pay.

Zennia, who is excellent and wonderful daughter, belongs to a government funded school. So the tuition fee was 50,000 pesos a year. Of course, she had to pay for teaching materials and practical training costs in addition to tuition fees, so still it is not cheap in the Philippines. By the way, her mother, Marjorie, is an employee of Phil Health, a state-owned health insurance company, and her father is a sailor. Moreover, both of them are managers.

The income varies greatly depending on where you work. Still the reality of the Philippines is that even if you spend so much time and money to become a doctor, the reward is not enough on average. I heard that many Filipino doctors transfer to the United States for more income. And there, they don't have to learn a new language. Not long ago, it was not rare for a licensed doctor in the Philippines to work purposely as a nurse in US.

As far as I know, my wife's cousins and uncle as a total of three families, work for the hospital in Chicago, and another cousin who was a nurse in Bacolod, quit the hospital because of  too low salary and too risky job due to Corona.

To be honest from my experience of being hospitalized for food poisoning, medical care in the Philippines is far below the level of Japan. And, according to my wife who gave birth at a maternity hospital in Japan, medical equipments in this country are "antiques". This seems to be a result that is simply proportional to the amount of compensation, rather than a problem of the ability of doctors.

On the other hand, although the economy is slowing down due to the influence of the corona, the demographic dividend can still be expected, and it is growing steadily in the long run.

I hope that Zennia and her generation people, who are about to become doctors, will receive more salaries and provide high-quality medical care. And in the not too distant future, if I have the end of my life in a hospital, I definitely want Zennia to be my last doctor.



2020年12月2日水曜日

フラワーガールがお医者さん 後編

 前回に引き続いて、私の結婚式でフラワーガールを務めてくれたゼニア嬢のお話です。

ゼニアのお母さんのマジョリーは、家内が小学生になる前からの友達。家がご近所さんの幼馴染。つまり、今は海を隔てた、パナイ島のイロイロ市に住んでいるマジョリーは、生まれがここネグロス島のシライ。日本の(というか関西圏での)距離感ならば、私の実家がある尼崎から淡路島の洲本ぐらいでしょうか。もちろん明石海峡大橋ができる前の、大阪南港か神戸辺りからフェリーに乗っていた時代。

その程度の、日帰りできる近さだったこともあるし、家内がフィリピン大学の研究員だった頃の所属は、マニラのキャンパスではなく、イロイロから車で30分ほどのミヤガオ市にあるビサヤ・キャンパス。家内とマジョリーの友達付き合いは、ほとんど途切れることなく続いていたんでしょう。

家内が私と結婚して日本に引っ越してからも、年に一度の里帰りでは、イロイロやミヤガオまで足の伸ばすのが常。そして大抵、家族ぐるみで会ってたから、私とゼニアが顔を合わせる機会も多かった。

なのでゼニアにすれば私は、時々日本からやって来る、親戚のオっちゃんみたいな存在だったんでしょうね。昔から私を「ティト(おじさま)」と呼んで、懐いてくれました。まぁ、フィリピンの子供たちは、私に限らず、親と同世代のオっちゃん・オバちゃんは、ティト・ティタと呼びますけど。

また、日本のアニメ大好きで、ことさら日本に関心の高いゼニア。親子ほどの年齢差のある外国人の割には、結構共通の話題がありました。最近では、私がフェイスブックで「Netflixで、こんなアニメにハマってる」と投稿したら、ゼニアから「私なんて、前から見てたも〜ん」みたいなコメントがついたりします。

そんな具合に、もう大学生になってボーイフレンドもいるとか、医療の仕事に就いて日本で働きたいとか、断片的ながら、何となくゼニアの近況は知っていました。

そうこうするうちに8年前、私は家内を伴ってネグロスへ移住。その頃ゼニアは、看護士になる勉強をしていたと思います。ただし、言葉の壁が厚かったようで、日本で就職するのは諦めた様子。その替わりでもないでしょうけど、看護士として1年間働いた後、お医者さんを目指して勉強を始めたゼニア。

そして先週の木曜日、ちょうど家内の誕生日に「国家試受かった〜〜」と大喜びのセルフィ動画が投稿されました。おめでと〜。

ゼニアの専門は内科医。フィリピンでも、日本と同じように国家試験に至るまでに長い教育期間が必須。大学4年と医学部3年、実際の医療に参加する臨床学習に1年、さらにインターンに1年。最短でも合計9年かかります。試験に落ちれば、翌年やり直し。そりゃ、嬉しいのも分かります。


大学卒業時のゼニア
幼かったフラワーガールがすっかり成長して
「おじさま」は感慨無量です。

試験そのものも四日がかりだったそうで、すごいプレッシャー。初日にイージーミスをたくさんしてしまい、その夜は悔しくて泣いてしまったほど。しかも、医学系の学校だと、学費は年間120,000ペソから250,000ペソ。単純に換算すると、25万円から50万円ですが、日本の最低時給が日給に等しいフィリピンでの収入を考慮すると、平均的な家庭では、支払いはかなり難しい。

ただし、優秀かつ親孝行のゼニアは、国立学校の生徒さん。その学費は年50,000ペソでした。もちろん学費以外にも教材やら実習の費用があるので、さすがにフィリピンでは、安いとは言えない金額。ちなみにお母さんのマジョリーは、フィリピンの国営健康保険会社フィルヘルスの従業員で、お父さんは船乗り。しかも二人とも堂々たる管理職で、マジョリーは支店長さん。

そこまでの時間とお金を費やしても、フィリピンでの医師や看護士の報酬は、働く場所によって大きな差があるとは言え、平均すると決して高くないのが現実。英語がそのまま使えて、サラリーの良いアメリカに渡る医師も多いらしい。少し前には、フィリピンで医師ライセンスを持った人が、敢えて看護士の資格でOFW(フィリピン海外労働者)になって働くのも珍しくなかったぐらい。

実際、家内の従妹や叔父の三家族がシカゴで医療関係の仕事してるし、隣街のバコロドで看護士をしていた別の従弟は、今回のコロナ禍で、給料の割には業務がキツ過ぎるとして、退職しました。

私が食中毒で入院した経験から正直に申し上げると、フィリピンの医療レベルは、日本に比べるとお世辞にも高度とは言えない。そして、日本の産科病院で出産した家内によると、医療機器は「骨董品」。これは能力の問題というより、単純に報酬額に比例した結果だと思われます。

とは言え、今はコロナで足踏みしてても、人口ボーナス(総人口に占める労働者の割合が上昇し、経済成長が促進される状況)もまだまだ期待できるし、長期的に見れば経済は順調に成長しているフィリピン。

これから医師になろうというゼニアの世代には、もっと給料をたくさん貰って、質の高い治療提供を期待したいところ。そしてそう遠くない将来、もし私が病院で最期を迎えるのなら、ぜひゼニアに、主治医になってもらいたいと思っております。



2020年11月30日月曜日

Our flower girl will be a doctor Part 1

I and my wife who was born in Silay City, Negros Island, had a wedding ceremony in April 1998 at a church in Bacolod, the capital of Negros Occidental. Shortly before that, many women called "Japayuki" who entered Japan from the Philippines were working.  Some Japayuki were overstayed or forced to work as sex workers by yakuza. Therefore, it became a serious social problem in Japan.

As a result, in the 1990s, it was very difficult to enter Japan from the Philippines with an entertainment visa, and was said that 99% impossible for especially young Filipino women, to obtain a tourist visa.

Moreover, even Filipinos who legally married Japanese were suspected of fake marriage and required very strict immigration. In the case of me and my wife as well, I went through complicated procedures such as translating the marriage certificate issued in the Philippines into Japanese and submitted the necessary documents to the Ministry of Foreign Affairs of Japan. It was like harassment.

And the most stressful thing was that I had no way to know how long it would take from the receipt of the documents to the end of the visa review. I've heard that some couples have been waiting for more than a year or refused to issue a visa for no apparent reason, even though they paid a high fee to the intermediary to complete the paperwork.

Fortunately, less than four months after we got married, my wife got a visa to enter Japan. The people around me who had been married to Filipinos were surprised at the miraculously short period of time. My wife was a researcher at the University of the Philippines, and I was an employee of Panasonic, which may have made the procedure smoother.

The above became clear later. Before we got married, we had no idea what to expect, so we had no choice but to have a wedding in the Philippines first, not in Japan. This meant that few guests from Japan could attend our wedding. This is because the airfare from Japan to the Philippines was very expensive in an era when there were no low-cost carriers yet.

In the end, there were only 7 Japanese attendees, including my family, while my wife had more than 200 relatives and friends. What a big event!

Then, I left all the preparations for the wedding and reception, such as booking church and hotel, arranging meals and photographer, to my wife. Only things I did were to buy my suit and bring the cash for our wedding from Japan.

I did not know what a wedding in the Philippines would look like. Nowadays, the roles of "Made of Honor" or "Best Man" known in Japan were not so common 20 years ago. My wife gave me a lecture on all the setup since I arrived in Negros. She was the perfect wedding planner.

What impressed me most was that white clothing, which only brides are allowed to wear in Japan, is a common costume for wedding guests in the Philippines, regardless of age or gender. And on the day of the wedding, it was the flower girls dressed in such white dresses that soothed my heart. (At last, I reached today's subject!)

To write this article, I pulled a wedding photo album from my bookshelf. How cute our flower girls, who were still in the lower grades of elementary school. They were just angels. In fact, a few days ago, in this photo, the girl Zennia, who is on the far left, told me that she had passed the national examination to become a doctor.


Twenty-two years later, she has become a charming woman who loves Japanese anime and Korean stars. She is not a relative, but the only daughter of my wife's best friend. Now she is with her family in Iloilo, next to Negros. 

So, I was planning to focus on Zennia  who will finally become a doctor, and write in detail, but the prelude had been too long, I will continue to the next article.



2020年11月29日日曜日

フラワーガールがお医者さん 前編


 私と、ネグロス島シライ市生まれの家内は、1998年の4月、西ネグロスの州都バコロドの教会で結婚式を挙げました。当時はジャパゆきさんが社会問題になって間がない頃。一時期は乱発されたエンターティナービザは、極めて厳格な運用となり、若いフィリピン女性の観光ビザ取得は、99パーセント不可能と言われていた時代。

さらに、合法的に結婚して、日本人の配偶者としてビザを取るのも、嫌がらせのように煩雑な手続きがある上に、日本の役所に必要書類を提出してから、どれぐらいの期間でビザが発行されるか、まったく予想ができなかった。

知り合いの話では、1年待っても梨の礫というのが珍しくないほど。不法就労やオーバーステイの記録があったら、散々待たされた挙句に拒否されることもあったらしい。

結果的にフィリピン大学の研究員と、一部上場大企業の社員という組み合わせが良かったのか、6月に書類を出して、家内の来日は9月末。約2ヶ月半で済みました。同じようにフィリピン女性との結婚で苦労した人たちからは「奇跡的に早い!」と言われたものです。

とまぁ、それは後になってからの話で、結婚前は、いつになるか分からない家内の来日を、とても待つことができず、まずフィリピンで入籍、挙式ということに。そうなると、日本側からの出席者は限られてしまうのも当然で、結局日本人は、私と、私の両親および弟二人、お世話になった会社のフィリピン法人の駐在員の方二人の、合計7名のみ。

つまり出席者のほとんどが、家内の親戚や友達となったのですが、それでも200名を超える一大イベントになりました。

教会や披露宴を行うホテルの手配、神父さまへのミサ依頼、車や食事にカメラマン、貸し衣装の手配などなど、一切合切は家内に任せて、私は自分の衣装と必要経費の現金を握りしめて、ギリギリの日程で家族を伴い、ネグロス入りしたわけです。

メイド・オブ・オナーやベストマン(花嫁・花婿の付き人)なんて、今でこそ日本でも一般的になりましたが、当時の私は全然知らず、段取りはすべて私が着いてから聞かされた次第。ちなみにベストマンは、私の弟にやってもらうことになりました。

そんないろんな役割の中で、一番出席者の心を和ませるのが、フラワーガル。

フィリピンの伝統的な結婚式では、老若男女を問わず正装は白が基本。日本だと花嫁だけが許されるのが、所変われば品変わるで、女性だけでなく男性も白いバロンタガログ(麻などで作った礼服)。花嫁の後ろについて、バージンロードに花びらを振り撒くフラワーガールも、当然、真っ白なドレス。

幼稚園とか小学校低学年の女の子が、きれいな白い衣装でお澄ましをしているのは、これはもう天使そのもの。

昔の写真を引っ張り出して見ると、私たちのフラワーガールを務めてくれた、三人の少女と、一人の幼女。実は数日前、ここに写っている向かって一番左の女の子、ゼニア嬢が、医師になるための国家試験にパスしたという知らせがありました。長い前振りになってしまいましたが、本題はここから。

22年も経ったので、小学生だったゼニアも29歳。今では、日本のアニメや韓流スターが大好きな、魅力的な大人の女性。彼女は親戚ではなく、子供の頃からの家内の大親友、マジョリーの一人娘。隣島パナイのイロイロ市に住んでいて、家族ぐるみの付き合いをしています。このブログにも、何度も登場している常連さん。(アニメ大好きフィリピーナ卵焼き大好きフィリピーナ

ということで、遂にお医者さんになったゼニアにスポットを当てて、その経緯などを詳しく書こうと思ってたのが、前振りが長くなり過ぎたので、その話は次回に。



2020年11月27日金曜日

またひとつ美味しいケーキ屋さん

 昨日(11月26日)は、家内の55回目の誕生日でした。

それにしても、この人は老けませんなぁ。身内の贔屓目ではなく、もう反則技レベルの童顔。メイドのライラが、ちょうど10年下の45歳なのに、どう見てもライラの方が「おばさん」然としている。

ライラの名誉のために言っておくと、決してライラが老け顔なのではなく、年齢相応の佇まい。貫禄のある体形も、フィリピン女性の45歳としては、それほど珍しいわけでもありません。そのライラが家内に「Ma'am (奥さま〜)」と話しかけるのを聞くと、ライラを雇い始めて2年半も経つ今でも、そこはかとなく違和感を覚えます。さすがに20代は無理でも、40歳少し前、つまり15年以上の年齢詐称は余裕の家内。

さて、フィリピンでの誕生祝いと言うと、日本人的感覚では、老いも若きも必要以上の大ごとになるのが通例ながら、もともと誕生日に大騒ぎをしない我が家。しかも今は、コロナ禍のせいで、そんな大パーティは出来っこない。

ちなみに昨年は、当日朝から大雨で、私たちの住むネグロス島シライ市の各所で道路が冠水。家内は出勤できず、なんと、職場で用意されていたサプライズパーティは、本人不在のまま、出て来れたスタッフだけでお祝いしたんだとか。(誕生日に床下浸水

おかげで、予期せぬ家族だけの誕生日になったのはいいとしても、ケーキも外食もご馳走もなく、いくら質素な我が家でも、家内にはちょっと可哀想な1日でした。一応、フィリピンでの誕生日の定番メニュー、トマトソースのスパゲティだけは、私が料理しましたけど。

今年は、コロナの影響もあって、週に2日ぐらいは在宅勤務の家内。誕生日ということもあって、昨日は終日自宅にいました。レストランやケーキ屋さんは普通に営業しているので、まずはケーキの調達を...と意気込んでたら、午前中に家内の友達からケーキのプレゼントが届いてしまった。

その友達は、私も何度も会ったことのある家内の高校の同級生。見た目が、ボクサーのマニー・パッキャオに似てるので、よく覚えています。そのパッキャオ君の家族が、最近ケーキ屋さんを始めたんだそうです。

ケーキ屋と言ってもこのご時世。新規にお店をオープンするのではなく、最近流行りの宅配スタイル。飲食ビジネスの衛生管理に関しては、無店舗ならば、ほぼ何の規制もないフィリピン。しかも派手に広告をするのではなく、フェイスブックで集客できる。その気になれば、大したリスク無しに誰でも始められるわけです。

もちろんビジネスを始めても成功するかどうかは、フィリピンでも商品とサービスの質次第。よくあるのが、素人が見様見真似で作ったケーキを、親戚や知り合いに売っている商売。こういうのは大抵、青や紫の派手な色で、ドギツイほどに甘ったるい。言葉は悪いですが、貧乏人相手に小銭を稼げるのが関の山。

ところが、昨日届いたケーキは、どう見てもプロの仕業。まず不自然な色彩はまったくなく、クリームの白とマンゴーのオレンジ色だけ。少なくとも外見は、日本のケーキ屋さんの店先に並んでいてもおかしくない。

味も相当なもので、甘過ぎずしつこくもない。プロのパティシエさんならば、いろいろ指摘するかも知れませんが、私には「上品な」と形容してもいいぐらいの美味しさです。



あんまり美味しそうなので、夜まで待てずにミリエンダ

この何年か、こんなフィリピンの田舎街シライでも、それなりのレベルのケーキ屋さんは、増えています。筆頭はアンコ・ケーキ。それこそ阪急沿線に店を出しても大丈夫、というぐらいの味。ただし値段も「超高級」で、残念なことにスタッフの接客態度にやや難あり。

昔からある全国チェーンのゴールドディロックスは、味は及第点ギリギリぐらいでも、アンコに比べると極安なので、コストパフォーマンスは良い。

そして、ほんの数ヶ月前に、シライ市内の一番繁華な場所にオープンしたのが、バスコン・カフェ。州都バコロドに本店があって、シライ店が三つ目なんだそうです。ケーキは見た目は高級で味はそこそこ、という感じ。ゴールドディロックスと同じぐらいの価格設定なので、選択肢としては十分あり。

今回の「パッキャオ君のケーキ」は、私個人のケーキランキング・イン・ シライで、初登場でトップにランクインしそうな勢い。クリスマスには、ちゃんとお金払って注文しようかと思ってます。

ということで、ケーキの大当たりで、家内の機嫌は上々。夕食は無難なところで、ファーストフード店のジョリビーから、フライド・チキンと特製バナナケチャップのソースで作ったスパゲティ。そして近所の宅配ピザと、もうフィリピンでは定番中の定番を、手堅く押さえました。

今年の家内の誕生日は、相変わらずこじんまりでしたが、なかなか平和な1日でした。




お裾分けでライラも大喜び

2020年11月24日火曜日

What happened on you, Angel ?!

 Recently, I and my family often watch CNN Philippines for dinner to learn about the Corona disaster and the US presidential election. Unfortunately, I don't have enough English proficiency to listen to CNN news and understand everything. However, I have a good understanding of the important news, thanks to reading the Japanese version of CNN online.

One day, I was surprised to hear familiar names such as "DepED" and "Angel Locsin" in the Philippine domestic news. They had never be reported in the Japanese version at all. DepED is my wife's office, and Angel Locsin is a very famous Filipino actress even I know.


With her beauty and outstanding proportions, Miss Angel has been featured on the cover of FHM, a Philippine men's magazine, many times and has been rated as the sexiest FHM model. Actually, I drew her twice in the illustrations I sometimes post on this blog, entitled "Private Encyclopedia of Filipino Beauties".

The news is really terrible.

Currently for covid19, school lessons are conducted online or in distance learning using printed materials called "modules" in the Philippines. A health and physical education material distributed by a teacher on Mindoro Island had the following description.

Angel Locsin is an obese person. She, together with Coco Martin eats fatty and sweet food in Mang Inasal fast food restaurant most of the time. In her house, she always watching television and does not have any physical activities. What would happen to Locsin if she continues her lifestyle?

Oh my! What does it mean "Angel is an obese person"? I was surprised and asked my wife, "Angel Locsin, the sexy actress?" My wife said, "Look at her recent photos."

I was shocked when I googled images with "Angel Locsin recent". I wondered if she was a little chubby, but there were photoes of her morbidly fat, like a different person from her previous appearance.

The cause of her rapid weight gain is said to be a side effect of the medicine she took to relieve back pain. It's a tragic for her. But regardless of her figure, in the photo she looked very happy with her fiancé.

Upon further searching, I found that she had many slanderous defamation from stupid netizens about her fatness. There are idiots in Japan and the Philippines who write badly on the Internet.

By the way, Angel Locsin had a formal education at a design school in London before being scouted and becoming an actress. Even now, she works not only in the entertainment business, but also as a fashion designer. Also noteworthy is her enthusiastic philanthropy.

Recently, the Philippine government did not pay the International Red Cross, so the examination for the patients suspected of covid19 infection was suspended. She made a large donation to support the payment.

As a very natural reaction, DepED formally apologized for the inadequate checking of this material. Many people argue that "Her activity and body shape are irrelevant." Well it would be so.

But I can say that it was her beauty and well-proportioned style that made her a big Filipino star. That's why I became a fan of her, who had never seen a movie or drama in which she appeared. So, it's a shame for me that her body shape has changed. Of course, Angel herself would never be happy with that.

It was a sad post in many ways.


2020年11月23日月曜日

何があったの?エンジェル・ロクシン!

 最近我が家では、コロナ禍やアメリカの大統領選挙などがあって、夕食はCNNフィリピンを視聴しながらのことが多い。CNNを聴き流せるほどの英語力を、持ち合わせていない私ですが、日本語版CNNをネットで読んでいるおかげで、トップニュースについては、だいたい理解できています。

そんなある日、日本語版ではまったく報道されないフィリピン国内ニュースで、「DepED(フィリピン教育省)」と「Angel Locsin エンジェル・ロクシン」という、聴き慣れた名前が出てきて驚きました。DepED(ディプエド)は、家内の勤務先で、エンジェル・ロクシンは、私でも知っているフィリピンの超有名女優。


特にエンジェル嬢は、その美貌と抜群のプロポーションで、フィリピンの男性向け雑誌FHMの表紙を何度も飾り、もっともセクシーなFHMモデルと評されるほど。実は私も、「私的フィリピン美女図鑑」と題して、このブログで時々投稿しているイラストで、2回も彼女を描きました。

そのニュースというのが、驚くような内容。

現在コロナ禍のために、学校の授業はオンラインか、「モジュール」と呼ばれる印刷された教材を使った通信教育で行われているフィリピン。ミンドロ島のある教師が配布した、保健体育の教材で、「エンジェル・ロクシンは肥満です。彼女は自宅で、マン・イナサル(フィリピンの鶏肉ファーストフードチェーン)の脂っこくて甘い食べ物を食べ、テレビばかり見て運動していません。彼女が、このままの生活を続けたら、どうなるでしょう?」という文章が掲載されていたとのこと。

え〜、エンジェルが肥満ってどういうこと? 思わず家内に、エンジェル・ロクシンって、あのセクシーな女優さんのことかいなって、尋ねてしまった。家内曰く、「最近のエンジェル・ロクシンの写真見てみ〜。」

さっそく「Angel Locsin recent」でグーグル画像検索かけたら、これはショック。ちょっとぽっちゃりしたのかな、ぐらいに思ってたら、以前の姿とは別人のような、病的に太ってしまった彼女の写真が...。

どうやら、背中の痛み止めに服用した薬の副作用による、急激な体重増加らしい。それはツラい話。ただ、婚約者とのツーショットは、彼女の体形とは関係なく、実に幸せそうに写っていたのは救いです。

さらに調べてみると、この体形変化に対して、心ない人たちからの誹謗中傷が相次いでいるとのこと。どの国でもアホな奴はいるもんや。

ちなみにエンジェル・ロクシンは、スカウトされてモデル / 女優になる前は、ロンドンのデザイン学校でちゃんと勉強した人。今も芸能界の仕事だけでなく、ファッションデザイナーも兼ねているというし、プロデューサーもしている。さらに彼女のファン層を拡大したのは、熱心な慈善活動。つい最近のコロナ禍では、政府が赤十字に対して支払いを滞らせて、ストップしていたPCR検査再開のために、多額の寄付をしたと報じられたばかり。

極めて当然の反応として、フィリピン教育省は、この教材に関して「チェックが不十分だった」と、正式に謝罪をしたし、誹謗中傷へは、「彼女の活動と体形には、何の関係もない」との非難が殺到している。そりゃそうでしょ。

ただ彼女をして、フィリピンの大スターにしたきっかけは、その美しさと均整の取れたスタイルだったことは間違いない。出演する映画やドラマを見たことがない私がファンになったのも、それが理由。なので、やっぱり彼女の体形変化は、私としては残念なこと。もちろんエンジェル・ロクシン本人も、決して望んだことではないはず。

ということで、今日はいろいろな意味で、悲しくなるお話でした。


2020年11月21日土曜日

私的フィリピン美女図鑑 TikTok ダンサー

 え〜っと前回の美女図鑑が、いつだったか覚えてないぐらいご無沙汰してしまいました。半年近くも間が空いちゃってたんですね。たいへんお待たせしました。コロナ禍で家にいる時間が長いので、イラスト描きに没頭できそうなものだったんですけど、あんまり引きこもり過ぎるのも、アイデア発想には良くないようです。

さて今回のお題は、TikTok(ティックトック)のダンサー。TikTokは、世界中の若者、特にフィリピンでは絶大な人気を誇る(と思われる)動画共有サービス。というと、知らない人は、ユーチューブとどう違うのかと思われるでしょう。

まぁ、オっさんの私の感覚からすると、あんまり変わらない、と言うか、共有できる動画の長さは60秒までだし、基本的にスマホからの投稿にフォーカスされている。(パソコンからは、編集やコメントができない)つまり、ユーチューブに比べるとできることが少ない。

その反面、スマホで撮影した個人のショートムービーに、BGMを付けたり編集したり、それをスマホで見ることに関してだけは、ものすごくお手軽で使いやすい。かつてソニーが、カセットテープをヘッドフォンで聴くだけで、ラジオも付いておらず、録音もできない「ウォークマン」を作って、オーディオ製品の一時代を築いたのに似てるのかも。

最初は私も、TikTokなんて何がオモロいんかいな?と懐疑的でした。中国発のアプリだったことから、ダウンロードすると個人情報が中国に吸い取られるという懸念も。事実、今年の中頃には、アメリカ政府が、国家安全保障やプライバシー保護の観点から、TikiTokの同国内での事業を禁止するとの方針を打ち出したり。

ところが、私の住むフィリピン・ネグロス島でロックダウンが始まった頃、つい魔が差して、手持ちのiPhoneにアプリを入れちゃったのが運の尽き。これは相当な中毒性がありますね。最初はご多分に漏れず、お姉ちゃんたちが、大きなおっぱいやお尻を振りながら踊るダンスばかり見てました。最近は、猫や犬の動画にハマっております。

動画作りの玄人が、細かく作り込んだものもありますが、何と言っても素人の投稿が圧倒的に面白い。それを数秒見て面白くなければ、次々飛ばして見てしまう。何をどれぐらいの時間見たかや、検索傾向を学習して、アプリがどんどんリコメンドして来るのも、中毒性を高めるのに一役買ってます。気が付いたらスマホのバッテリーが瀕死の状態になることも。

さらに、私がフィリピンにいるからなのか、それとも投稿の絶対数が多いのか、TikiTokで際どいセクシーダンスを披露する若い(中には中学生ぐらいかも?)フィリピーナの動画が、やたらと流れてくるんですよ。背景がフィリピンあるあるの、トタン屋根にブロック壁の粗末な部屋が多いのも、妙なリアリティがあります。

その際どさもエスカレートして、見せてはいけないボディパーツやアクションを見せて、投稿やアカウントを削除されるケースも多いらしい。ユーチューブと同じく、フォロワーが増えると広告収入が入るから、過激になるのも分かります。人気のティックトッカーになると、その収入だけで豪邸に住んでる人もいるんだとか。

なので、インドやインドネシア、パキスタンのように、ポルノや宗教を冒涜する内容を拡散しているとして、使用禁止や取り締まりの強化をしている国もあるぐらい。

ということで、私のイラストも、TikTokの規定に反しない程度に、セクシーなフィリピーナを描いてみました。モデルはネットで見つけた、マニラ出身でアメリカで活動している女優、シーラ・フェラーリ嬢。1989年生まれの31歳。あんまり有名ではありませんが、コケティッシュな美貌と超ナイスボディは、私が妄想するTikTokダンサーのイメージにぴったり。


一応、TikTokのロゴマークと、それっぽい効果を入れてみました。ちなみにイラストの縦横比は、私のスマホの画格に合わせております。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2020年11月18日水曜日

25 years since my first trip to the Philippines

 It's been 25 years since I first arrived at Ninoy Aquino International Airport in Manila, Philippines in November 1995. Nowadays, because of the pandemic, I don't have face-to-face interaction, but until about March of this year, people born around that time visited my house frequently.

For example, students who volunteer to participate in Japanese NGOs working on Negros Island and local staff who accept them. Others are Japanese students from an English school, their Filipino teachers, and a young housekeeper when my house was completed. Many of them were born in the mid-'90s, regardless of whether they were Japanese or Filipino.

By the way, my first trip to the Philippines was a complete business trip. At that time, I was a TV product designer working for a vibrant Japanese consumer electronics manufacturer. I was promoted to become the Chief Designer for Southeast Asia / Middle East Markets. My first job as a chief designer was a month-long market research starting from Malaysia.

The reason why Malaysia was the starting point is that there were factories and development bases for markets including India and the Middle East near the capital Kuala Lumpur. The general managers of product planning, engineering, production, sales and human resources were employees from Japan. However, the design department alone did not exist in Malaysia, so they invited designers from Japan at the required time to request design work.

This is because the number of designers in the company was very small compared to the staff in other departments, so it was difficult to set up a design organization overseas.

After arriving at Malaysia headquarters, I also toured Indonesia, Thailand, Singapore, India, and the Philippines for several days each. The purpose was to visit the local production department and mass retailers. In the 1990s, the bubble economy collapsed in Japan, and although the boom before that was lost, the Southeast Asian economy was still strong.

Business owners in each country strongly requested product design tailored to their respective countries and regions. So, designers from Japan, not just me, were invited to gorgeous restaurants and bars every night. However, all I was taken to was a Japanese restaurant. Expecting local food, I wasn't very happy. Moreover, I couldn't drink alcohol.

In terms of work, I was able to give design presentations directly to the CEO in every country. This was a really comfortable working environment compared to Japan, where I had to have meetings so many times to decide on one product design. If my idea was good, it was decided in one meeting, and if it wasn't, they clearly pointed out what was wrong.

It is much more efficient than a meeting in Japan with no specific instruction on how to refine it. Therefore, the designer did not have to feel any meaningless stress. From now on, this was the golden age of my career. But to tell the truth, the first impression of the Philippines was terrible.

It was night when I arrived at NAIA. Of all the Southeast Asian airports I've seen, NAIA was the darkest and dirtyest. At that time, international flights arrived and departed only in the dilapidated Terminal 1. When I left the gate, there were a surprising number of people waiting there. In the Philippines, all airports are off-limits to the terminal except for passengers with tickets and staff. This rule hasn't changed 25 years later.

So, people waiting for family and friends, taxi calls, and even pickpockets for tourists' money are all waiting in the same place. It was my first visit to the Philippines, so I might have been in trouble without picking up by local employees.

Interestingly, after I visited the Philippines many times and made many Filipino friends, I got used to the negative aspects of the country. Two years later, by the time I met my wife, I had adapted to the climate, the food, and the national character of the Philippines. Even for me, who has experienced more than 20 countries, this kind of feeling is only in the Philippines.

Of course, I've had a lot of annoyances and disappointments since I actually started living in the Philippines. Fortunately, they didn't make me give up on the Philippines. Already I spent nearly half of my life with Filipinos. So far, I have no regrets.


2020年11月17日火曜日

フィリピン初渡航から25年


1995年11月、生まれて初めてフィリピン・マニラのニノイ・アキノ国際空港に降りたってから、 もう25年も経っちゃいました。今はコロナ禍のせいで、リアルな交流はないものの、今年の初めぐらいまでは、ちょうどその頃に生まれた人たちが、入れ替わり立ち代わりで、我が家に出入りしていたものです。

ネグロス島で活動する、日本のNGOにボランティアで参加する学生さんや、それを受け入れる現地スタッフ。英語学校の生徒さんに先生、自宅が完成した頃の若いメイドさんなどなど。日本人、フィリピン人に関係なく、だいたい90年代中頃生まれの人が多かった。

さて私のフィリピン初渡航は、ガチの業務出張。当時はまだ元気ハツラツ(古いフレーズ!)だった、日本の電気メーカーで、テレビ専門のプロダクト・デザイナーでした。主任デザイナーに昇格して、東南アジア/中近東担当拝命後の初仕事が、マレーシアを起点とした1ヶ月にわたる市場調査。

なぜマレーシアかと言うと、インドや中近東を含めた市場向けの工場と開発拠点が首都クアラルンプール近郊にあったから。商品企画、技術、生産、営業、人事の各部門責任者と、マネージャークラスは、日本からの出向社員。ところがデザイン部門だけは、日本からの出張ベース。まぁ社内のデザイナーの数が、他部門と比べると二桁ぐらい少なかったので、あちこちに分散させることに無理があったんでしょうね。

そのマレーシア本部から、インドネシア、タイ、シンガポール、インド、そしてフィリピンにも、それぞれ数日程度、地元生産部門や量販店を巡回。日本ではバブルが弾けて、一時期の活況は失われてましたが、まだ東南アジアは絶好調。それぞれの国や地域に合わせたデザインをしてほしいと、私に限らず、日本から来るデザイナーには、社内接待の嵐。酒が飲めない私なので、それほど嬉しくもなかったですけど。

仕事に関しては、日本国内の何かと規制の多い(つまり口出しする人が多い)環境とは違って、どの国でも経営責任者との直談判。持っていったアイデアが良ければ一回の会議で決まるし、ダメならダメでどこがどう悪いのか、はっきり言われる。後にも先にも、あれほど仕事がしやすかったことはなかった。

とまぁ今から思えば、私のキャリアの黄金時代だったわけですが、初渡航時はさすがに緊張しまくり。特にフィリピンの第一印象は最悪でした。

着いたのが夜間で、インドだけは別格ながら、他のどの空港よりもボロくて暗い。その頃、国際便の発着は、老朽化した第1ターミナルだけでしたからね。しかもゲートを出たら、出迎えの人・人・人...。フィリピンって、マニラだけでなくどこの空港も、建物自体がチケットを持っている乗客とスタッフ以外、全面立ち入り禁止。これは今でも変わってないなぁ。

なので、家族や友人を待っている人も、怪しげなタクシーの呼び込みも、全部同じ場所で、ぎゅー詰めで待っている。アメリカとヨーロッパ以外の海外旅行が初めてだった私は、日本人社員の出迎えがなければ、ちょっと途方に暮れていたかも知れません。

ただ面白いもので、それから何度もフィリピンを訪れ、仕事でもプライベートでも、地元の人と仲良くなるにつれて、悪い面はどんどん慣れてしまうもの。その2年後、家内と知り合った頃には、気候も食べ物も、そしてフィリピンの国民性にも、すっかり適応してしまいました。20カ国以上の外国を経験した私にも、こういう感覚はフィリピンだけ。

もちろん、実際に住み始めて、腹が立ったりガッカリすることは、山のようにあるけれど、幸いフィリピンそのものに愛想を尽かすほどではない。ということで、指折り数えてみると、すでに人生の半分近く、フィリピンに関わって来ました。今のところ、後悔はしておりません。


2020年11月15日日曜日

洪水ですべてを失ったら

 22号台風フィリピン名ユリシーズの続報が入る度に、気分がどんどん落ち込んでいくここ数日。マリキナ市を始めとするマニラ首都圏だけでも、2009年の台風オンドイに匹敵する大惨事だと言うのに、今回は、ルソン島北部のカガヤン州やイザベラ州で、前例のない壊滅的な被害が。


ネットの写真やテレビのニュースで見るだけながら、街が丸ごと水没したような惨状には、言葉を失ってしまいます。どうやらこの被害は、ユリシーズの雨だけが原因ではなく、先月(2020年10月)、立て続けにこの付近を通過した、17号ペピート、18号キンタ、19号ローリーによる豪雨での累積雨量によるもの。

8月頃までは少雨で、来年乾季の水不足が心配されていた状況が一転、イザベラ州にあるフィリピン最大のマガット・ダム(Magat Dam)が危険水位に達して、ユリシーズ襲来の数日前から放水をしていたそうです。これはルールに従った措置であり、放水前には下流住民に、テレビ、ラジオ、インターネット、サイレンなどで警告を出していたとのこと。

ダムの放水で河川の水嵩が上がっていたところへ、ユリシーズの大雨がとどめを刺したような格好になったのか、洪水には無縁だったとされるこの地域で、ここまでひどいことになるとは、警告したダム関係者にも、住民にも、まったく予想外だったでしょう。

少し前の私なら、これは治水がまともに行われていない、発展途上国のフィリピンだからこその災害で、日本だったらこうはならないと思ったでしょうけど、ここ数年の日本での水害報道を見聞きする限り、まったく他人事ではありません。


出典:NHK

私が特にそう思うのは、いろんな意味でやり直しが効かない年齢になったことが大きい。実際今回の水害で、私と同年代かもっと上の在留邦人の方の中にも、自宅に浸水するなどして、生活基盤を失った人もいるだろうと推察します。

もし私が同様の被害にあったと仮定したら、これは相当に厳しい。7年前に念願の自宅を建てて、昨年は増築も完了。子供はもうすぐ高校生だし、我が家で唯一の働き手である家内は、残り5年で定年退職。あとは日本の年金がもらえるまで数年頑張ったら、というタイミング。

正直言って、もう一度家を建てる貯蓄も気力も全然足りません。これで家族の誰かが命を落としたり、私自身が大怪我でもしたら、ちょっと立ち直れないんじゃないか?(自分が死んでしまえば、そんな心配をすることもできませんが。)

今回の報道写真で一番身につまされたは、腰まで水に浸かりながら、何かを訴えるようにカメラを見上げる初老の男性。おそらく私より少し年配ぐらいでしょう。この歳になって、一から生活を立て直さなくてはならない彼の心情は、察するに余りあります。


出典:EXPAT MEDIA


2020年11月13日金曜日

台風オンドイの悪夢ふたたび

 ほんの半月ほど前のハロウィンの頃に、19号台風ローリー(フィリピン名)が、ルソン島に接近中との投稿をしたばかりなのに、今度は22号台風ユリシーズが、マニラ首都圏を直撃。猛烈な強さでスーパー台風にカテゴライズされたローリーに比べて、勢力は小ぶりだったとは言え、「破滅的」(Catastrophic フィリピンの放送局、ABS-CBNのネット報道での表現)な洪水をもたらしました。

ローリーの時にもその進路が、2009年に首都圏のマリキナ市を中心に、大きな洪水被害をもたらした台風オンドイと似ていることから、同様の惨事が懸念されたばかり。不幸中の幸いで、ローリーによる被害は、その強さに比例することはなかった。

ところが今回、またもやオンドイの進路をなぞるように、ルソン島の一番くびれた部分を、東西に横断したユリシーズによって、オンドイの悪夢を再現したような状況。テレビのニュースでも、オンドイの再来だと繰り返し報道されるほど。

ネット上に投稿された写真を見ると、確かにこれはひどい。膝ぐらいまでの冠水ならば、ここネグロスでも時々ありますが、平屋の屋根に達する水位は、さすがに未経験。




オンドイの時は、私はまだ移住前ながら、私の10年先輩で、50歳で勤め先を早期退職し、フィリピン人の奥さんやハーフのお子さんたちと、マリキナに住んでおられた日本人の友人が被災。たまたまその翌年に、この方の自宅に泊めていただき、当時の被害について、ご本人から直接お話しいただく機会がありました。

洪水の当日がたいへんだったのは言うまでありませんが、泥水に浸かってしまった家屋や家財道具の片付けや掃除には、本当に苦労されたとのこと。具体的な被害金額までは語られませんでしたが、日本から引っ越して、まだそれほどの年数が経っていない時期だったことを思えば、経済的ダメージは相当に痛かっただったろうと推察。

実はその経験談によって、ネグロス島での我が家の新築計画をかなり変更。元々のプランでも2階建だったのですが、2階部分の面積を大幅に増やして、いざという時に、数日から一週間ぐらいは、そこで生活できるようにした経緯があります。

さて、今回のユリシーズ。まだ、被害の全貌はまったく掴めていないようで、死傷者の数もまだ確定的ではない。そして、これまた少し前の投稿で書いた通り、洪水による感染症の蔓延が指摘されています。

ABS-CBNによると、問題になっているのはレプトスピラ症。日本ではあまり知られていないこの感染症は、犬や牛、豚、山羊など、フィリピンで最もよく飼われている家畜の間で流行し、そこから人間へも感染し、(ヒトからヒトへは感染しない)オンドイの時には、89名もの死者が出たとのこと。

ところで、フィリピンに接近・上陸する台風の日本語でのニュース。結構いつも大雑把なんですよね。まぁ外国のことなので仕方ないんでしょうけど、「フィリピンを直撃」とだけ書いて、フィリピンのどこなのかは、かなり被害が出てからしか報道しません。

この国に住んでいる人には今更説明不要ながら、フィリピンって日本と比べて、面積も人口もそんなに変わらない規模なんですよ。例えば九州に上陸した台風が、関東や東北には影響が出ないことがあるように、マニラが大洪水になっても、ここネグロスでは少し雨が降った程度。せめて、直撃するのがルソンなのか、ビサヤなのか、はたまたミンダナオなのかぐらいは伝えてほしいものです。


2020年11月11日水曜日

長蛇の列でも中はガラガラ

 すっご〜く久しぶりに行ってきました、州都バコロド市内のショッピング、ロビンソンズ。別に封鎖されていたわけではなく、6月ぐらいには、ここシライからも、その気になれば行けたのですが、新型コロナ感染者が多い50万人都市のバコロド。やっぱりちょっと怯みます。

それに、わざわざバコロドまで足を伸ばさなくても、その手前のタリサイ市内には、日本からの輸入食材を入手できる、アヤラモール系のスーパーメトロというスーパーがあるし、最近は、田舎街のシライにも、大型ホームデポに家電量販店がオープン。

それでも、高級時計や宝飾関連、それにちゃんとした眼鏡店の類は、州都でないとダメなんですよね。今回の目的は、その眼鏡屋さん。1年半ほど前にロビンソンズ内のサラビアというお店で作った遠近両用の眼鏡の、鼻に当たる樹脂製のパッドが、経年変化で割れてきて、装着感が著しく悪化。その交換のためでした。

まったく自慢ではありませんが、私の視力は、眼鏡なしでは生活に支障が出るレベル。子供の頃からの本の虫だったのと、1980年代のオフィスへのパソコン導入以来30年、ずっとディスプレイと睨めっこしてきたツケが回った結果です。

その上、数年前からは年相応に老眼が加わって、コンタクトレンズでは矯正できなくたってしまいました。ハードレンズならば、遠近両用もあるのですが、残念ながらハードは受け付けてくれない我が両眼。少し大袈裟に言えば眼鏡の装着感は、生活の質の良し悪しを左右する、重要案件。

例によって運転手さんに来てもらって、家内と一緒にモールの開店時間の午前10目掛けてバコロドの市街地へ。

一時期に比べれば、検疫による規制は緩くなっても、ショッピングモールなど不特定多数の人が集まる場所へ入る時は、名前、住所、連絡先などを記帳して、検温と両手の消毒が必須。多少余分な時間がかかるかなと思っていたけど、予想を遥かに上回る長蛇の列が。え〜っ、何じゃそりゃ〜。


実はこの日、午後からイロンゴ語の家庭教師が来る予定が入って、どうしても午前中しか時間がなかった。それなら早目に終わらそうと、開店時間に到着したわけですが、それが裏目に。

行列の正体は、多くがお客さんではなく、モールの3階にある、各種役所の職員でした。免許更新センターとか、パスポートの発行窓口などなど、結構たくさんあるんですよね。ただ、日本人の感覚だと、従業員なんだから、別のゲートを専用で開けるとかすればいいのにと思ってしまう。4箇所もゲートがあるんだし。ちゅうか、普通従業員は、もっと早く来ないか?

ところが意外にもスムーズに進んで、10分ぐらいで入れたのでホっとしました。記帳は並んでる間に済ませることができるし、人によってはQRコード付きの「追跡カード」を持っていて、記帳すら不要。国家公務員の家内も、ちゃんと携帯してました。ひょっとしてこの分野は、日本よりも進んでいるかも。

ということで、半年以上ぶりに足を踏み入れたロビンソンズ・バコロド。列にいた人の多くは、階上の職場へ直行なので、それ以外の場所はガラガラ。巨大ツリーとか電飾で、クリスマス仕様の店内は、余計に寂しく感じます。開店直後の平日だから、当たり前と言うなかれ。フィリピンでは、こんな時間帯でもコロナ前は、もっと人出があったんですよ。

目的のサラビアにも、やっぱりお客さんは皆無。部品の交換だけなので、あっと言う間に作業完了。新しいパッド代の100ペソ払って、あっけなくおしまい。

ちなみに、各店舗の広さに応じて、同時に入店できる人数が決まっていて、サラビアは4名まで。スーパーや百貨店になると100名ぐらいになります。モール入場時に消毒済みなのに、いちいち各店舗でも「シュー」ってされるので、何軒かハシゴしたら、手が荒れてボロボロになりそう。


とは言え、せっかく来たんだからと、キューピーのマヨネーズとか日本製の焼きそば用生麺など、シライでは売っていない食材をゲット。ついでにゲストハウスに置く、ちっこいツリーなんかも購入しました。人が少なくゆったり買い物できて、レジで待たされないのが救い。

ということで、正午前には無事帰宅。こういう時は、メイドさんがいてくれて本当に助かります。行きがけにお願いした通り、ちゃ〜んと食卓には昼食の準備が出来てました。

かたじけなくお昼をいただいて、早速買ってきたツリーを、いつもイロンゴ語レッスンに使っている、ゲストハウスのリビングに設置。定刻の午後1時にやって来た、家庭教師のアン嬢と一緒に写真を取るなど、関西系嬉しがりの面目躍如なのでした。


なぜかアンは、赤のクリスマスっぽい服を着てました。