2024年12月18日水曜日

激動の2024年12月


出典:CNN World

 あっという間に12月も半分以上過ぎてしまいましたが、何ですかね、この約2週間は? シリアでは、先代から数えると半世紀も続いたという政権がほんの数日で崩壊して、自国民を殺しまくっていた独裁者アサドがロシアへ逃亡。そして前回の投稿で書いた通り、お隣の韓国では、1980年代と間違えたような戒厳令が布告されたと思ったら、一転して大統領が弾劾で失脚。まだ最終決定ではないにせよ、当初の任期を全うすることは、まずあり得ないでしょう。

ウクライナには、なぜか北朝鮮の兵士が大量に実戦動員され、すでに多数の死傷者が出ているらしい。こちらは遠くは日本のシベリア出兵とか、比較的最近でも韓国軍のベトナム戦争への派兵を思い出させるような、前世紀の遺物の如き振る舞い。

武力や強権ではなく平和裡に政権交代するアメリカでも、反ワクチン論者のロバート・ケネディJr.が、トランプ次期大統領によって保健福祉省長官に指名。あろうことか、小児麻痺やジフテリア、破傷風などのワクチンの承認取り消しを求めるとしています。普通に考えて、こんなアホなことをすれば、救えるはずの何万、何十万の命を失うことになりかねません。それこそウクライナやガザに匹敵するか、それ以上の死者が出る大惨事が必至。

さらに、フィリピンや日本の命運に直接関わるのが台湾有事。もはや推測や懸念の域を超えて、90隻もの艦船で台湾を包囲する威嚇を行った中国。最近私が視聴している、青山繁晴 参議院議員のYouTubeチャンネルによると、中国軍部のトップが立て続けで失脚していて、これは、習近平の台湾侵攻の意向に、従わないからだとの見方があるらしい。その裏には、もし台湾を侵略してもトランプ新大統領は動かないんじゃないか、との読みがあるようです。

確かに、ミサイルをガンガン打ち込んで、台湾の全都市をガザのような廃墟にするつもりならともかく、今や世界一の品質と生産量を誇る半導体を始めとする、産業や経済力を奪い取るのが目的なのは明らか。そのためには、決して狭いとは言えない海峡を渡って、大規模な陸上兵力を送り込まないといけません。素人考えでも、中国側の兵士の死傷率はすごいことになるでしょう。軍部が抵抗するのも当然で、それでなくても孫子の時代から、攻めるには守る側の3倍の兵力が必要と言いますから。つまり今回の包囲は、力押しではなく、海上封鎖で兵糧攻めにするぞという脅し。

とまぁ、海外にたくさんの出稼ぎ労働者を送り出しているフィリピン国民にすれば、どれひとつとっても、夜も眠れなくなるような大問題。...のはずなんですが、どうも、一般市民はあまり興味がないらしい。まず、私のイロンゴ語の家庭教師で、高校の先生であるバンビが、そもそもどの事件についても、ほとんど知らない。

考えてみれば、家にテレビはないし、唯一の情報源がFacebook。もちろん情報格差も貧富の差もエゲツない国なので、ニュースに対する感度は人によって千差万別。これをもって「フィリピン人は×××」と断言する気はありませんが、それにしても、もうちょっと気にならんものかと思いますねぇ。さすがに、超ローカルな話題のカンラオン山の噴火活動には、多くの人が注目してますけど。

ということで、心配したからと言って、悪いことが起こらないわけではないし、特にここフィリピンでは選挙権もない外国人に過ぎない私なので、せいぜいこのブログに不安な心情を書きつのるが関の山。本当に来年2025は、どんな年になってしまうんでしょうか。



2024年12月5日木曜日

戒厳令 怖い

 前回、政治向の話が続いたので軽い話題を...と言った舌の根も乾かぬうちに、韓国でたいへんな騒ぎが起こってしまいました。フィリピン人にもトラウマになっている「戒厳令」が、21世紀になって25年近く経った今、再び人々の耳目を集めることになろうとは。

フィリピンでも、Kポップや韓国発のネットフリックスドラマは人気です。さらに、たくさんの韓国人観光客が押し寄せるため、日頃から韓国への関心はとても高い。さらに偶然ながら、ちょうど1960〜80年代に、戒厳令を悪用したリーダーによって国民が苦しみ、80年代の中頃に民主化を果たしたという共通体験があるせいか、この事件もテレビやネットで大きく報道されました。家内も夜中までスマホ片手にニュースを追いかけてましたね。

結果的には、大統領の暴走、あるいはクーデターとも言える戒厳令は、国会によって否決され、一夜明ければ戒厳令解除。おそらく大統領は早晩、その職を追われることになるでしょう。NHKのインタビューに応えた、神戸大学教授の解説によると、政治的に追い詰められた大統領が、周囲をイエスマンだけで固め、現実的な思考ができなくなり、北朝鮮の謀略が背後にあると本気で信じて、今回の暴挙に至ったのではないか、とのこと。これでは、YouTube動画で陰謀論を妄信してしまう、そこら辺のジイさんと同じです。

もちろん大統領一人の思いつきではなく、軍や警察など治安に当たる組織の上層部が同調したのは間違いないんでしょうけど、フタを開けてみてば、現場の指揮官が見事にトップの思惑を裏切り、あっさりと国会に議員を入れてしまったのが失敗の原因。まだ光州事件の記憶も生々しいですから、ある意味当然の結果だったのかも知れません。

かたやフィリピンも、決して他所事ではありません。こっちは副大統領のサラ・ドゥテルテが、大統領の暗殺を仄めかし、弾劾を受ける状況となっているし、10年近い戒厳令で独裁をほしいままにしたマルコスは、現大統領の実父。韓国が、国会でのブレーキはあったとは言え、戒厳令発布の権利を大統領に残したままだったのに驚きましたが、ここフィリピンでは、つい数年前にドゥテルテ前大統領が、ミンダナオ限定ながら戒厳令を出したばかり。こちらも、やろうと思えばできる状態なんですよね。

もし同じようなトップの暴走があった場合、フィリピンではそれを止める安全装置的な法律やシステムはあるんでしょうか? 家内曰く「よう分からんけど、最近はアホが多いから、たぶん止まらんと思う」だそうです。怖ぁ。韓国人と違い、歴史から学ぶのがあまり上手とは言えないフィリピン人。マルコス独裁の苦い経験を、若年層に伝えることに見事に失敗してますからねぇ。

そしてわが母国の日本。高校の日本史で、日本で戒厳令があったのは、関東大震災と二・二六事件だけと習いましたが、今回ネットで調べてみると他にもいくつか例があり、かつ、韓国やフィリピン、その他外国と比べたら、厳密な意味での戒厳令とは違うらしい。ただ少なくとも、今の日本国憲法下では皆無。

しかしながら、隣国でこういうことがあると、やはり気になるのが改憲の動き。一般的な解釈として、現行憲法では国による戒厳令を認める「国家緊急権」は無い、とされているんですが、自民党による改憲草案には「緊急事態条項」が盛り込まれ、私個人としては「これはヤバいんじゃないの?」と思いました。

もし緊急事態条項が実現してしまうと、今回のような衆議院での与党過半数割れがあった場合、総理大臣が血迷って「これは某国の陰謀だ、緊急事態だ!」となる可能性も否定できません。今回の韓国での騒動を見て、その思いを強くした次第。

ちなみに、数年前のコロナ禍による緊急事態宣言を、戒厳令と同じだと勘違いしている人がツイッターなどで散見されますが、まったく違います。本気の戒厳令なら憲法が一時停止されて、国家が危険人物と認定したら、その人は即拘束されて軍事法廷送りですからね。


2024年12月2日月曜日

うちのメイドはお金持ち

 今年も残り1ヶ月を切りました。日本ではそれなりに寒くなり、師走の慌ただしい雰囲気になってるんでしょうけど、常夏のネグロスでは相変わらずの季節感ゼロ。9月からクリスマスシーズンのフィリピンでは、今頃になるとすっかりダレダレで、今更年末と言われてもなぁ、という感じです。ツリーを出すのが周囲に比べると遅めの我が家でも、すでに1ヶ月が経過。例年クリスマス明けどころか、1月第2週ぐらいまでは出しっ放しなので、都合2ヶ月半もツリーを眺めることになります。

ところで最近は、選挙や政治、自然災害などのシリアス・ネタが多い当ブログなので、今日は軽い話題を一つ。

メイドとして我が家で働き始めて、かれこれ2年のグレイスおばさん。私よりちょうど10年若い52歳で、わりと最近まで中近東で10年に渡るOFW(海外フィリピン人労働者)を経験した苦労人。その稼ぎで二人の子供を立派に育て上げ、孫も一人います。娘さんのエイプリルは、何を隠そう私のイロンゴ語家庭教師で、息子さんはマニラで働いていて、もうすぐ結婚されるとか。

さてこのグレイス。長年の出稼ぎでの貯金があるのか、あるいは息子さんの送金額が多いのか、一般的にメイドをやってる人に比べれば、経済的には余裕がある。まず着てるものからして、前任者のライラとは大違い。日替わりで、派手なシャツやらスパッツで登場。バッグや時計も安物ではなさそうだし。

出勤前は市役所前の市民広場で、ママさんズンバで一汗が日課のグレイス。露出度の高めのズンバ・ウェアでやって来て、うちのシャワー・トイレ室でお色直しをします。年齢的にも体型的にも、ちょっとイタい感はあるんですが、グレイスに限らずフィリピンのオバちゃんは、そういうことは全然気にしない。

ちなみに、グレイスとエイプリル、その子供の3人は、シライ市内に同居。一昨年、エイプリルは離婚(フィリピンでは法的な離婚 devorce が不可で、別居 separate と称してますが、事実上の離婚)したので、ひょっとする小学生の子供への養育費も、かなりあるのかも知れません。

そんな、一見有閑マダム的な行動パターンだけでなく、買い物を頼んで、少しお金が足りない時など、自分の財布から建て替えたりもするし、日当350ペソに1,000ペソ出しても、ちゃんとお釣りを持っている。もっと驚くのは、たまに家内がうっかり日当を払い忘れても黙って帰って、翌日すまなそうに「昨日、お金もらってないんですけど...。」

ライラだったら想像もできないんですが、要するに懐に余裕があって、現金への執着があまりないらしい。そう言えば、たまにセブやボラカイにバカンスに行くと言って休みを取るなぁ。さらにエイプリルは、毎日のように隣街の州都バコロドに出かけて、友達とお茶やお食事。(それを全部フェイスブックに投稿)

決して浪費してる感じじゃないけれど、どう見てもメイドとその家族の暮らし向きではないんですよね。そう思うのは私だけじゃなく、グレイスの妹で、同じく私の家庭教師であるバンビも驚くほど。

じゃあなぜ、そんなに高くもない給金でメイド業に勤しむのかと言うと、毎日何もせずに家にいたら精神衛生に良くないから。もちろん「お金持ち」はネタで、実際に住んでる家は狭くて古いし、車もない。せいぜい「贅沢しなければそこそこの暮らしができる」程度なので、1ヶ月7,000ペソ(約2万円弱)でも大いに家計の助けにはなっているはず。趣味で働いているわけではありません。

実際の働きぶりも、元来真面目な性格なのか、頼んだことはキッチリこなします。まぁ、余計なことをしないのは、メイド業の基本なのかも知れません。それに加えて、お金に対して淡白なので、数千ペソぐらいなら任せても安心。

メイドと聞くと、つい貧困層出身者をイメージしがちですが、まだまだ格差は大きいながら、10年以上も続くフィリピンの経済成長。コロナ禍を乗り越えての復調ぶりも確かで、低所得者と中間層の間に、以前には見られなかった幅広いグラデーションがある気がします。たぶん、1960〜70年頃の日本も、こんな感じだったんでしょうね。


2024年11月28日木曜日

マルコス対サラ 危ないフィリピン政局


出典:One Network

 いやぁ驚きました。現職の副大統領が「もし私が殺されたら、大統領とその夫人を暗殺するよう、殺し屋に依頼した」と発言したんですよ。さすがにこの破天荒なニュースは、フィリピン国内だけでなく、NHKを始め日本でもかなり大きく報道されたので、フィリピン在住じゃなくても、ご存知の方は多いはず。当然のように、当のサラ・ドゥテルテ副大統領に対して大統領のBBMことボンボン・マルコスは猛烈に反発。刑事告発に向けて捜査が開始されました。

周知の通り、BBMは、かの悪名高いフェルディナンド・マルコス元大統領の息子。1965年から約20年に渡り大統領の座にいて、途中から戒厳令による圧政で国家を私物化。かつては東南アジアの優等生と呼ばれたフィリピン経済を「東南アジアの病人」と揶揄されるまで落ちぶれさせ、多くの国民を投獄・密殺しました。

極め付けは、反マルコスの急先鋒で一時アメリカに追放されていたベニグノ・アキノ上院議員を、帰国直後に空港で殺害。この事件については、マルコスが直接指示を下したかどうかは、今に至るまではっきりしていませんが、国民はマルコスが殺したと信じても無理がない状況。結局アキノ暗殺が直接の引き金になり、1986年、マルコスとその家族はアメリカへ亡命し、政権は崩壊しました。これが世に言うエドゥサ革命です。

その息子がなぜ大統領になり、マルコス一族が復権したかは、何度もこのブログに書きましたので割愛します。

さてその副大統領として、現政権を支えてきたはずのサラ。こちらも大統領の2世で、前大統領のロドリゴ・ドゥテルテの娘。父の前職であるダバオ市長を引き継ぎ、父同様の政治手腕を発揮。彼女の場合、殺されたアキノ氏に代わって大統領になった未亡人のコラソン・アキノ氏が、まったく政治経験がなく目立った成果を出せなかったのに比べ、少なくともリーダーとしての素養は証明済み。

ちなみにサラさんは、一時教育省長官を兼務。教育省(DepED)勤務の家内のビッグ・ボスだったんですよね。家内が言うには、短い在任期間ながら的確な政策を実行し、地方にも頻繁に顔を出し、職員には人気だったそうです。

次期大統領の呼び声も高いサラ氏ですが、ここ最近はBBMとの関係が悪化。報道によると、父ロドリゴの大統領時代の「麻薬戦争」政策での超法規的殺人の責任追及で、BBMが国際刑事裁判所へ協力する姿勢が原因とのこと。これに関してはサラじゃなくても「お前が言うな」とツっこみたくなりますけどね。

まぁ、正副大統領の不仲は、ロドリゴ・ドゥテルテとレニー・ロブレドの時も起こったことなので、珍しくはなかったものの、殺害予告まで出てくると冗談では済みません。しかも今回は、両方とも父が、そこに至るまでの経緯は別として、「人殺し」を命じた張本人。もっと言うと、合法・違法を問わず銃器が流通し、堅気の市民でも数万円から数十万円程度で、殺し屋が雇えるお国柄。サラ氏の発言がどれだけ物騒なのかは、日本人の私にも想像はつきます。

なので、サラ氏が自分の言葉の重大さに気づかず、うっかり口が滑ったとも思えないので、刑事事件になることは十分予測していたはず。おそらく自分に注目を集めた上で、公の場で何らかの暴露なり、BBMとの対決を図るんじゃないでしょうか?

ということで、年末になろうかというこの時期、日本、アメリカで政治の世界が大騒ぎなのに加えて、ダントツにきな臭い局面に突入したフィリピンの政治から、しばらく目が離せません。


2024年11月23日土曜日

生活保護は困窮者のみの為ならず


マニラ首都圏マカティのビル群 出典:マカティ市HP

 ここ最近、フィリピン、日本、そしてその共通の巨大な隣国である中国で、おそらく偶然ではない、治安の悪化が目立っています。

まずは、私と家族の住むフィリピン。もともと犯罪率は高く、警察や役人までが平然と汚職に手を染める体質のお国柄なので、今更...と思われるかも知れません。ただクリスマスを控えてのマニラ首都圏で、日本人が狙われる強盗が7件連続で発生。(2024年11月19日現在)。深夜一人で、観光客然とした格好で歩いていたら危ないのは昔からですが、最近のケースは、複数で比較的明るく繁華な場所にいても襲われているとのこと。

こっちに住んでると分かるんですが、たとえ無言でも日本人観光客って目立つんですよね。どこが?と聞かれると困るんですが、ちょっとした服装の違いだったり、歩き方だったり。長く住んでいる私のような移住者でも、地元にいる時はイロンゴ語(西ネグロスの方言)で話しかけられるのに、たまにマニラやセブに出かけると、タクシーやレジの人に一撃で見破られます。

日本経済が低迷し、日本人観光客の数自体はずいぶん減ってると思うんですが、いまだに日本人=お金持ちというステレオタイプは健在なようです。とは言え、ここまで立て続けなのは、私もちょっと記憶にありません。

次が日本。少し前の「漫画村」「ルフィー」や、このところネットニュースを騒がしている「JPドラゴン」など、犯罪者がフィリピンに高跳びするの事件は、何十年も前からありましたけど、今では単に逃亡先に選ぶだけでなく、堂々とフィリピンを根城にして、犯罪を重ねる日本人の面汚しみたいな輩もいる始末。

さらに末期的なのは「闇バイト」。まず、このネーミングが大問題で、字面だけ見ると、若者を対象にしたちょっと危険なアルバイトのようですが、捕まれば社会人としての将来は台無しになるし、傷害・殺人となると、十年から何十年にも渡っての服役になってしまう重大犯罪。「共犯者募集」ぐらいの強い文言を当てるべきでしょう。

そして一番恐ろしいレベルなのが中国。9月(2024年)に、深圳の日本人学校に通う10歳の男の子が刺殺される、何とも悲惨な殺人事件があり、その後、これまた立て続けに、不特定多数の人たちを、ナイフで刺したり自動車で轢いたりの事件。中国でこの種の犯罪は「報復社会」つまり社会への報復、と呼ばれるそうで、背景にはコロナ禍での過剰なまでの制限と、それに伴う抑圧があるらしい。日本やフィリピンでは、表向きコロナ禍対応は一段落しているのに、中国では深刻な後遺症が続き、経済的に不遇な人々も多い。何といっても母数がデカいだけに、その怨念の総量たるや、想像を絶するものがあります。

この3カ国で共通するのが、社会的セーフティ・ネットが未整備あるいは不十分なこと。この分野では比較的マシな日本ですら、生活保護の捕捉率はわずか2割程度。これは、保護を受けようとすると、まるで犯罪者か何かのように、受給窓口では尋問され、世間的には後ろ指をさされ、徹底的にプライドを傷つけられる文化が理由なんじゃないかと思います。悪しき自己責任論、ここに極まれりですね。

ちなみにコロナ時に、当時の明石市長の泉房穂さんが取った処置は、可及的速やかに困っている人に現金を支給すること。細かい審査や国の対応を待たず、家賃を払えず閉店を余儀なくされている個人商店に即金で100万(給付ではなく貸付ですが)。いちいち各商店の経営内容の審査などしていたら、店が潰れてしまいますからね。でも、これがセーフティ・ネットの本来あるべき姿。受給者が変な罪悪感を持ったりする暇もないほど、事務的に素早く処理するのが正しい。

こう書くと必ず聴こえてくるのが、不正受給が増える、国民の税金を無駄にするな、という声。この手の指摘は、だいたい嫌中とセットになってることが多いですね。でもセーフティ・ネットは、溺れかけている人に差し伸べるものですから、拙速もやむなし。多少の不正は仕方がないと思います。完璧を期するがあまり溺死者続出では、制度の意味がない。

そしてよく考えないといけないのは、結局のところセーフティ・ネットは、困窮者だけでなく、生活保護の世話になってない人の安全も守っていること。誰にも助けてもらえず自暴自棄になって犯罪に走るような人が減れば、治安は回復します。その逆になってるのが、まさに現在の中国でしょう。

ただ難しいのは、セーフティ・ネットのお陰で安全が保たれているかどうかは、判断ができないところ。起こらなかった犯罪の数は、数えることができませんからね。

ということで、国民民主党が公約に掲げ衆院選で躍進の原動力になった「103万円の壁打破」が、現実に向けて動き出したのを見ると、少なくとも日本では、困った人を助ける方向に風向きが変わってきたようです。この政策が実施されそれなりの効果が出れば、セーフティ・ネットの拡充も注目されると期待しております。



2024年11月21日木曜日

生まれて初めて見た火山灰


11月2日 噴煙を上げるカンラオン 出典:Inquirer

 半年ほど前に、爆発的に噴煙を高々と噴き上げ、フィリピン全国レベルの大ニュースとなった、ネグロス島の主峰カンラオン火山。日本の外務省からの注意喚起も出されるほどで、一時は最寄りのシライ・バコロド空港が閉鎖になり、ちょっとヤバいんじゃないかと心配しましたが、ここ最近は平穏を保っておりました。

ところが先月(2024年10月)ごろから、またもや小噴火が頻発。我が家からは50kmの距離があって、煙が見えたりはしないものの、日本の緊急地震警報みたいに、フィリピン火山地震研究所(略称 PHIVOLCS フィボルクス)という所から、全携帯ショートメッセージが配信されます。メイドのグレイスは、これに大音量の着信音をつけているので、多い時など1日に何度も驚かされるハメに。

まぁ同じ島だし、航空便の離発着にも影響大なので、無関心ではいられないけれど、私たちの住むシライ市に直接の被害はないし、何となく遠い場所での出来事のように感じてました。ところが11月の初旬、以前投稿した再就職の件で、バコロド市内に車で出かけた時のこと。朝からお昼前までのミーティングで、事務所前に3時間ほど駐車していたら、愛車のトヨタ・アバンザのフロントグラスにうっすら砂埃。

少し前まで、街中でも未舗装で地面剥き出しの場所がチラホラだったバコロド。さすがに好景気が10年以上も続き、そんな場所も減って、車に砂埃が積もるようなこともなくなったはずが、どうやらこれはカンラオンからの火山灰。

日本でも鹿児島に住んでる人は、日常的な桜島からの降灰を経験しておられるでしょうけど、私は火山が近くにはない、関西出身。40過ぎるまでずっと大阪近辺で暮らし、ほんの1年だけ転勤で横浜に住んで、真っ黒けの地面を見て「これが噂に聞く関東ローム層か!」と感動する程度の火山知らず。あとは子供の頃、観光で浅間山や白根山に行ったぐらい。

なので、実物の火山灰を見るのも触るのもこれが初めて。

書物やテレビ番組では知っていましたが、ものすごく細かい粒子なんですね。まるで日本から持って来て、時々食べ過ぎで世話になる太田胃散みたい。うっすら積もるぐらいなので、事務所からホウキを借りて、チャチャっと車の掃除すればお終いだったけど、これが何十センチも積もったら、屋内にも入ってきて呼吸器系の病気になったりするのも分かります。しかも雨が降ったらどこもかしこも泥だらけ。実際、半年前の大噴火では、付近の農村が泥流のために大被害。

ということで、他人事と思ってたら、シライよりほんの10kmほどカンラオン火山に近いバコロドでは、日々噴火の脅威を感じずにはいられない状況。こうなると、まったく先が読めない自然災害の恐ろしさ。神ならぬ私としては、ひたすら大事にならないことを祈るばかり。

差し当たっては来月、高齢両親の一時帰国と、年明け早々の私のダバオ行きが控えております。どうか往路も復路も無事飛行機が飛びますように。



2024年11月19日火曜日

ネット化?愚民化?兵庫県知事選

 つい先日、日本の衆院選とアメリカ大統領選、それらと比較して2年前のフィリピン大統領選の話を書いたところですが、性懲りもなくまた選挙のお話。

フィリピン大統領選でBBM(ボンボン・マルコス)が当選した背景には、親の代に酷い目に遭ったばかりの歴史に学ぶ事なく、マルコス陣営が用意したネット上のデマ「父マルコスの時代は、フィリピンの黄金時代だった」に、国民の多数がまんまと騙されました。外国人の私からすれば(あるいは、それなりに高等教育を受けたフィリピン国民も含めて)、なぜこの人物を選ぶ?という結果になったわけです。

ところが、まさか日本ではありえないと思っていたことが、私が生まれ育った兵庫県の県知事選で起こってしまいました。フィリピンの場合は、近代の歴史教育を怠ったことによる、フィリピン教育の敗北だったのに対し、今回の兵庫県では、テレビ・新聞などの大手マスメディアの敗北。

原因は明らかに、約10年前の第二次安倍政権の頃から顕著になった、マスコミの政治や選挙への腰抜けぶり。肝心の選挙運動中に、中立を保つという口実のもと、候補者(特に与党の)のメガティブな側面やスキャンダルなどを報じない姿勢を続けて、投票日にだけ大金をかけて速報、特番の嵐。当落が判明してから、今頃それを言うか?みたいな報道ばかりでした。

立法・行政・司法の三権分立に並び立ち、報道が四つ目の独立権力で、健全な民主主義運営のために必要不可欠なのが先進国では当たり前のはずが、日本では大手新聞社やテレビ局が、完全に与党の番犬状態。少なくとも報道の自由に関しては、後進国とされるフィリピンの方がよっぽど先進的。前ドゥテルテ政権の行き過ぎた対麻薬政策に対して、敢然と反旗を翻しノーベル平和賞を受賞したニュース・サイト、ラップラーの編集長ラッサ氏が、その代表格。(フィリピン国内では、ラッサ氏への批判も多いですが)

もちろん日本にも、比較的経営規模の小さな地方紙では、気骨のある記者もいるようですが、全体的には、大局に何の影響もない政治家や芸能人のスキャンダルの、面白おかしく報道する番組や記事ばかりが目立ちます。これはフィリピンにいてもネット経由でだいたい分かる。これでは普通の人たちが、マスコミ不信に陥るのも無理はありません。私など、朝日や読売などのネット記事は、見出しだけ見て、詳しく知りたい時は、ツイッターなどで日頃から信用してフォローしている人の意見を参照しています。

そこにつけ込んだのが、「NHKから国民を守る党」で、政治を引っ掻き回している立花孝志氏。前知事を擁護するためだけに立候補し、お得意のユーチューブを駆使して、一大キャンペーンを展開。そこへ大手メディアにそっぽを向いた人たちが流れ込んでらしい。

私が危機感を持つのは「ユーチューブで真実を知った」と思い込む人が増えること。これでは陰謀論を撒き散らす悪質ユーチューバーが、一国の世論を乗っ取ることだってできる。今回争点になった、前知事の行動にしても、自殺者まで出ているぐらいなので、問題があるのは間違いないのに、大手メディアからは、「パワハラ」「おねだり」など茶化した見出しのコタツ記事が量産されるのみ。本来なら、係者全員に詳細な聞き取り取材を行い、事実関係を詳らかにしたドキュメンタリーをが作られても不思議ではない事件。例えば、かつての首相を退陣に追い込んだ、立花隆さんの「田中角栄研究」。(おなじタチバナ・タカシなのは、何とも皮肉な)

実は、アメリカ大統領選でも、まったく同じ現象が起こったそうで、こちらの場合に影響力を行使したのが、同じくネット経由のポッドキャスト。選挙運動中トランプ氏は、登録者数1,450万人を誇る、人気コメディアンのジョー・ローガンのポッドキャスト番組で政策を語り、若年男性層に大きくアピールしたと言われています。

さすがに今回の選挙結果を受けて、日本の一部ワイドショーのメイン・パーソナリティの中には、反省の弁を口にする人もいるようです。それでなくても全国紙は発行部数を激減させ、テレビ離れも進む中、「若者の〜離れ」なんて言い訳をしている場合ではありません。こうなったのは単純に、信頼できない・面白くないだけ。ただ各紙・各放送局がそれを真摯に受け止めるとは思えませんが。

おそらくこうしたネット上での政治・選挙活動は、今後ますます過熱し、来年の参議院選では、ネット活用に長けた陣営ほど票を伸ばすのは間違いないでしょう。心配なのは、法整備も有権者のネットリテラシーも、まったく未熟なこと。これでは玉石混交も甚だしく、ネットでの情報収集に不慣れな人ほど、不確かな、あるいは明らかに作為的な虚偽に、流されるリスクが高い。

ここで提案したいのは、かつてのアメリカCNNが彗星の如く報道の世界に現れたように、全国紙の販売網や、地上波チャンネルの既得権に関係ない、ネットに特化した、本当の意味での中立を保ったジャーナリズムの登場です。要するに日本版のラップラー。フィリピンの片田舎で私が思いつくぐらいですから、心血注いだ取材結果を上層部に握りつぶされて臍(ほぞ)を噛んでいる、心あるライターや記者の方々は、当然考えておられると思うんですけどねぇ。



2024年11月14日木曜日

62歳の再就職


 甚だ唐突ながら、来年、再就職することになりそうです。

半年ほど前に、バコロド出身で日本とフィリピンを行き来しながら仕事をしている、フィリピン人の知り合いから連絡があって、日本語の教師をしてくれませんか?とのオファー。こちらは、12年も前に早期退職して隠居生活。まぁ週に1〜2回程度、数人の生徒さんに教えるぐらいかと思って軽く引き受けました。一応私のフィリピンでの永住ビザは、就労しても大丈夫なタイプ。

その後しばらく音沙汰無く、これは立ち消えかと、ほとんど忘れかけた頃にまた連絡。何と、バコロド市内にパートナーを見つけて、本格的に、学校と付随する宿泊施設を建設中。しかも正式に職業訓練学校としての認可を申請中なんだとか。フィリピンのお役所仕事あるあるで、この手続きが実に煩瑣でやり直しが多く、予定より開校が3ヶ月遅れますとのこと。

そこから急に話が具体的になって来て、つい先日は建設中の学校の隣で、第一回目のミーティング。これが、想像よりはるかに規模が大きく、生徒数も何十人規模。しかもかなり短期間でN3(日常的な場面で使われる日本語をある程度理解することができる)まで育成すると言います。そのために土日以外は学校内の宿舎に寝泊まりして、日本語漬けに。それだけでなく、日本の文化も教えるので、畳を敷いた部屋も用意。

一番驚いたのは、報酬の金額。日本円にしたら、せいぜいアルバイトで頑張った、ぐらいなんですが、ネグロス島基準で考えたら、ベテランの管理職でやっと手が届くかどうかのレベル。教師は私だけでなく、他に数名のフィリピン人もいて、そのアシスタント的な位置付けながら、ネイティブは私だけ。なので、とても片手間では済まない業務量。そのために十分な金銭的な動機付けが必要、ということなんでしょうね。

アメリカやシンガポールなどに比べると給料が安く、最近の円安も相まって、OFW(海外フィリピン労働者)には、あまり人気のない日本市場ながら、今回の条件は、オフィス勤務で日本人社員と同じ待遇。30歳以下の4年制大卒にリクルートをかけるそうです。そうなると、欧米に比べれば近いし、中近東で建設労働やメイド業に就くよりはるかに安全。加えて若い世代には、アニメや日本食ブームで、日本への憧れもあります。

冗談じゃなく、今高校生の息子が大学を卒業したら、就職させてもらいたいような好条件。

これだと、オンライン授業ベースで、週一回か二回なんて悠長なことは言ってられません。少なくとも最初の1ヶ月ぐらいは対面授業でみっちりやらないと、とても無理。ということで、来年からは、朝6時起きで家族の弁当作って、毎日車でバコロドへ出勤という、12年ぶりに、かつてのサラリーマン時代の再来となりそうです。そろそろリハビリ始めなくちゃ。



2024年11月13日水曜日

高齢両親の一時帰国

 今年(2024年)の6月から、フィリピン・ネグロス島の我が家に滞在していた88歳と87歳の両親が12月初旬に一時帰国します。父は、耳が遠いものの、日常再活はほぼ問題なくできるのに対して、足腰が弱り認知症の症状が出始めた母は、コロナ禍の時期に日本の介護施設に入っていました。ところがその後、ケアマネージャーさんもびっくりの、要介護3からの奇跡的な回復を経て、フィリピン渡航となった次第。その経緯は昨年の投稿をご覧ください。(お試し介護移住

ただ回復したと言っても、かろうじて自分で歩ける程度。ほぼ終日、テレビを付けっぱなしでベッドでうつらうつらで、会話もなかなか成り立ちません。ところが食事だけは、以前の半分程度ながらしっかり食べる。私が毎日作る料理、炒め物でも揚げ物でも、ラーメン・焼きそば・炒飯などなど、自分の皿に盛った分は、毎回完食。食事時は、表情もそこそこあって、会話は続くかないものの、分かりやすい冗談などには反応して笑顔を見せます。

父に言わせると、日本の実家にいた頃よりは顔色がずいぶん良くなったし、そもそもまったくの無表情だったらしい。手前味噌ながら私の作る料理は、かつての母譲りの味付けなので、食事のおかげで多少なりとも状態が改善しているんしょう。シャワー時など、家内が献身的に介助してくれているのもあるし、平日の昼間はメイドさんもいる。

ちなみに両親が寝起きしているのは、私たちのいる母屋とは完全に独立した、2LDKの一軒家の離れ。つまり、600平米の土地に、丸々2軒の家を建てたわけです。こんな贅沢なことができるのも、フィリピンの、しかも田舎のネグロス島なればこそ。

ところで認知症の件。実際に両親の介護をする前の私の知識といえば、かなり極端な例ばかり。暴力的・攻撃的になったり、出歩けばそのまま徘徊。実際、父の兄(つまり伯父)は、行方不明になったきり。果ては排泄物を全身に塗りたくるなんてことにも。

実際には、いきなりそんな悪夢のようなことになるわけではなく、悪化するにしても段階を踏むもののようです。母の場合、まだ自分でトイレには行けるし歯も自分で磨いている。そして私や家内、孫である私の息子に対しても敬語を使うようになりました。攻撃的なところはカケラもなく、大人しくて扱いは実に楽。

むしろ、まだ頭も身体もしっかりしてる父の方が面倒で、難聴者専用のスピーカーまで買ったのに、それを使わず近所中に響き渡る大音量でテレビ見たり、窓全開でエアコンかけたり。さすがに最近は注意しても逆ギレはしなくなったのは良いけれど、数日もしたらネジが巻き戻るように同じ事の繰り返し。これが老人を相手にするってことなのか。(と書いてる私も、もう62歳なんですけどね)

ということで12月の一時帰国。日本からフィリピンへは、1ヶ月間はビザなし入国可能。さらに1ヶ月、3ヶ月後に、最寄りの入国管理局に行って手数料を払って更新すれば、最大半年までは滞在できます。その決まりに従って、最初から半年で一旦帰国の予定でした。本当はギリギリまで引っ張れば年末までOKなのですが、クリスマスや正月前後にマニラの空港で飛行機乗り換えるのは、どう考えてもたいへん過ぎます。

...と、用意周到に準備したつもりが、つい最近になって滞在可能期間が半年から3年に大幅延長。3ヶ月の更新時に作ったI Card(アイカード)で、そのまま3年間大丈夫になっちゃいました。何じゃそりゃ。

とは言え、本格移住に向けて、父の仕事の整理(まだ仕事やってたんですよ)やら、各種の手続き、実家の整理などもあるので、いずれは帰国しなければいけなかったんですけどね。


2024年11月10日日曜日

日・比・米の選挙


出典:Inquirer.net

 ぼやぼやしてる間にフィリピンでは万聖節・万霊節のお墓参りシーズンが終わり、スーパーやショッピングモールの店員さんが、サンタキャップをかぶり、我が家ではツリーを引っ張り出す季節(と言っても相変わらずの常夏)となりました。普通の日本人なら11月初旬に?と訝しむところですが、9月からクリスマスシーズンだと言い張るフィリピンの人々。どちらかと言うと順当、あるいは、やっと出したか、ぐらいの感覚です。

季節の挨拶はさておき、アメリカではトランプのオッさんがまた大統領に決まっちゃいましたねぇ。前評判では大接戦だ、ハリスが若干有利だなどと、日本のマスコミも煽り大会に加担してましたが、蓋を開ければトランプ圧勝。公然と不倫はするは、あちこちで裁判を起こされるは、移民に対しては事実無根のデッチ上げ発言するは、大統領候補どころか、人間として共感もできなければ、尊敬するべき点が全然ないトンデモない人物だと思うんですが、実際にアメリカに住んでいる人たち、特にお金に余裕のない人たちには、そんなことはどうでも良かったらしい。

実際バイデン氏の民主党政権下の4年間で起こったのが、エゲつないインフレ。円安も相まって、日本からの旅行者がファーストフード食べるだけで、何千円かかったとか、ホテルが高すぎて無理とかの悲鳴。まぁ観光客向けには何でも割高になるのは仕方ないにしても、日本に比べると経済的なセーフティネットが貧弱な、自己責任大国アメリカなので、中間層以下の生活の厳しさは容易に想像できます。

もちろんバイデンさんも指をくわえて傍観していたわけではなく、インフレ削減法を施行するなどして、ある程度の効果はあったようなんですが、食品やガソリンの価格が高止まったまま。平均以下の所得層にすれば「これではトランプ政権の方が、はるかにマシだった」と思うのも仕方ないでしょう。

要するに民衆が最重要視したのが「経済」。平たく言うと「ワシらの生活を楽にしてくれるのはどっちだ?」なわけです。この点、高学歴で弁護士のハリスさんは、イメージでかなり損をしたでしょう。「あんたのような金持ちに、ワシらの苦しさが分かるか?お高くとまりやがって」と反発して層も多かったんでしょうね。女性だから、あるいはインド系だからというのは、大きな問題ではなかったと思います。

と、ここまで書いて、ハタと思い当たったのが、つい先日の日本の衆議院選。マスコミは「裏金議員」をお題目のように唱えてましたが、有権者の心の琴線により強く触れたのが「103万円の壁打破」つまり経済政策を一番に掲げた国民民主党。代表の玉木氏や幹事長の榛葉氏の分かりやすい口調と際立ったキャラクターもあって、まだまだマイナー政党ながら議席は3倍増。与党過半数割れで、おそらく狙い通りの絶妙のポジションと、当初からブレない政策実現一本の姿勢に、私はとても期待しております。

かたや本来なら、もっと脚光を浴びてもよさそうな野党第一党の立憲民主。こちらはイマイチ人気のない野田代表。しかも与党の失点による消極的な選択の側面が大なので、ネットニュースでの注目度は低い。政策もはっきりしないし過去に政権取って大失敗してるし。

つまり、日本でもアメリカでも「国民の暮らし向を良くします」という政策を、分かりやすく伝えた方が、結局は強いということなんでしょう。日本の場合は、この10年以上、与党がやりたい放題だったけど、他に頼れる野党が見当たらなかった。ここへ来てやっと少しはマトモなこと言う人が出て来たという感じ。

そして最後に我がフィリピンではどうかと言うと、やっぱり引き合いに出したいのは2022年の大統領選。なんとなく今回のアメリカと構図が似ていて、かつて20年に及ぶ独裁政治でフィリピンの経済も国家倫理もぶち壊したマルコスの息子のBBM(ボンボン・マルコス)と、才色兼備の女性弁護士レニ・ロブレドの、事実上の一騎打ち。トランプほどのダーティさはないにしても、巨額の脱税疑惑もあって、そもそも大統領候補になること自体が常識外れと思いきや、副大統領候補に据えたサラ・ドゥテルテ女史の圧倒的な人気も相まってか、こちらも圧勝。

アメリカや日本の場合のポイントが「経済」だったのに対して、フィリピンの場合は切り口が全く異なるけれど、やっぱり「フェイスブック」がキーワードだったように思います。これは以前にも書きましたが、ちょっと信じられないことに、父マルコスの治世はフィリピンの黄金時代だったという、フェイスブックに連日投稿された、誰が考えてもバレバレの嘘に、当時を知らない若い世代がコロっと騙されて、雪崩を打ってBBMに投票。もちろんソーシャル・メディアを使うこと自体は違法ではなく、日本の国民民主党など、実に巧みに活用して、玉木氏や榛葉氏の知名度を上げました。

ところがBBMの場合は、明らかに「悪用」。さらにそれを信じてしまう国民にも失望しました。これは対立候補のロブレドの敗北に留まらず、エドサ革命後40年近い、フィリピン教育の敗北じゃないでしょうか。まぁ日本も歴史教育に関しては、お世辞にも成功しているとは言えませんが、例えば戦前〜戦中の軍国主義の時代が素晴らしかったと本気で信じている人は、かなりの少数派でしょう。

ということで、政治向きの話を延々と書いてしまったので「もう二度とこんなブログ読むか!」とブチ切れた方もおられるかも知れませんが、フィリピンにとって、日本とアメリカの政治が大きく変わると、結構大きな影響が出るもの。今後も引き続き、この3国の政局と政策は、注視していこうと思います。



2024年10月21日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 お誕生日の家庭教師

 このブログ自体がずいぶん間が空いてしまいましたので、そのオマケみたいな「フィリピン美女図鑑」も、当たり前のようにお久しぶりです。

今日のモデルさんは、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)の家庭教師バンビ。(バンビはギターの先生)過去の投稿を見返してみたら、初めて我が家に来てくれたのが2021年の12月初旬なので、もうすぐ3年が経過。私にとっては5人目の家庭教師で、先代のアンを抜いて、在任最長記録(というほど大層なものでもないですが)を更新中です。

教え方に関しては、なかなかおだてるのが上手く、親子ほど歳の離れた私でも、まるで初めて自転車に乗れた子供に対する親のような褒め方。これはALS(Alternative Learning System / 代替学習システム)の高校教師として鍛えた、バンビの専門能力なんでしょう。なにしろ成人男性の受刑者や、貧困のために教育機会を逸した老人が生徒。最高齢の卒業生が80歳の老婆なので、62歳の私などまったく苦にならないと思います。

しかし、そのバンビ先生。女性特有の体調の不安定さがあって朝が苦手。授業時間の遅れや翌日順延があるのが玉に瑕ですが、それも笑って許せる愛嬌があります。一応は事前に連絡はありますし。

ただ人が良すぎて損している感じがするのは、なかなか難しいところ。6人兄弟姉妹の末っ子なのに、ずいぶん前に亡くなったお父さんの借金を未だに返済していたり、以前のパートナーのバイクのローンが、なぜかバンビ名義だったり。

そして可哀想なことに、長く同棲していたボーイフレンドとの仲がつい最近破局。職場の同僚である家内によると、事実婚ながら、ずっとプロポーズを待っていたんだとか。私の家にも何度か一緒に来て、食事をご馳走したこともあるので、てっきり安定した関係だと思ってたんですが、バンビはもう待ちくたびれて、とうとうお別れになったそうです。日本のアニメ大好きな、気の良い兄ちゃんだったんですけどね。

ということで、先生には何とか元気なってほしいという願いを込めて、たまたま近づいていたバンビの誕生日向けに、例によって似顔絵イラストを描いた次第。今回の衣装は着物ではなく、浴衣にしてみました。

すごい美人...というわけではないバンビなんですが、フェイスブックに上がっているどの写真も、穏やかな笑顔ばかり。こういう表情を見ていると、やっぱり教師が天職なんだろうなぁって気がします。実際よく笑うし「神さまに感謝」が口癖のようなバンビ。

さて、誕生日当日にタグつけしてフェイスブックにイラストをアップしたところ、間髪置かずに嬉しさ大爆発のリアクション。さっそくケータイの待受に使ってます。こういう超素直な喜び方をしてくれるので、つい何かしてあげようと思ってしまうんですよね。

我が家庭教師に幸多からんことを。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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2024年10月17日木曜日

フィリピンでもネットでテレビ

 ここ何年かで、インターネットで配信される映画やドラマをテレビで観るのは、フィリピンでも当たり前になりました。そして我が家でも、とうとうケーブルTVの契約を打ち切って、テレビはネットだけに。もともとケーブルTVの画質はイマイチだし、NHKの日本語放送もない。かろうじてあった存在理由の、家内がGMA(フィリピンの放送局)で観るニュース番組でさえ、YouTubeでサイマル配信されていることが発覚。

これでテレビは、電源以外はワイヤレスでコンテンツ視聴ができます。NetflixとAmazonプライムで、映画とドラマは日本を含めて世界中の番組が観られるし、アンプとスピーカーを繋げば、スマホからの音楽も楽々高音質。何よりもテレビの置き場所がケーブルTVとの接続から解放されて、自由に模様替えができるのが大きい。

実はリビングのメインテレビであるの42インチ。うっかり西向きに設置するような配線にしてしまい、夕方になると、吹き抜けを通じて2階のステンドグラス状の窓から直射日光が画面に入ってしまう。まぁ午後4時から6時前にテレビを観ることは稀。それほど困ったわけでもないんですが、やっぱり竣工以来ずっと気になっていたので、晴れて模様替えができてホっとした気分。

なんて書くと、まるでフィリピンの家庭ではテレビのネット視聴が全面的に普及しているみたいですが、実際には、まだまだ地上アナログの低品質の画面を小さなブラウン管テレビで観るしかない人もいっぱい。貧乏で大画面のスマートテレビを買ったり、自宅にインターネット回線を敷設できない家庭も多い。ついこの間も、近所の散髪屋さんに行ったら、愚にもつかない(失礼!)タガログ語の地上波バラエティ番組を大音量で垂れ流してました。

ただ、この辺りのテレビ事情は、日本も似たようなものなのかも知れません。さすがにアナログではなくデジタルになったとは言え、相変わらず放送時間に縛られたニュースや低予算のバラエティが主流なんだとか。ヘソ曲がりな私は、10年以上前日本にいた頃からWOWOWとNHKスペシャルしか観なかったので、正直「まだそんなの観てるの?」と思ってしまいます。

すでにドラマでは、最近、世界的にヒットしている「地面師たち」や、エミー賞の主要部門を総なめにした「将軍」のように、スタッフも俳優も日本人で、資本はアメリカというスタイルが幅を利かせている時代。アニメに至っては、日本と同時かジブリのように日本未配信でもフィリピンで観られる人気コンテンツもあるぐらい。一昨日「君たちはどう生きるか」を観ましたよ。

こうなってくると、ジリ貧の日本の放送局からは、俳優を含む優秀な映像クリエータの方々がどんどん海外に流出してしまいます。最近、日本のお笑い芸人が「アメリカズ・ゴット・タレント」で爆笑を取っている姿や、Spotifyでサブスク解禁された、竹内まりやさん等の80年代ポップスに人気だとか言う話を見聞きすると、本来グローバルに活躍できる潜在能力がある日本人が、日本国内の様々な規制のために、どれだけブレークの機会を逃してきたのか?とちょっと考えこんでしまう。

ということで、テレビが完全にネット化すると、今まで見えなかったことが、フィリピンの片田舎に住んでいても、いろいろ見えてきたというお話でした。



2024年10月16日水曜日

再開、ネグロス島永住日記

 約3ヶ月のご無沙汰で、「ネグロス島永住日記」を再開させていただきます。

再開と言いましても、何かしらの理由があって投稿しなかったわけでもなく、ただ何となく書かずにいるうちに気がついたら3ヶ月経っていたというだけ。気分が落ち込んだりとか、健康を害していたわけではありません。

最後の投稿が7月末で、こちらでは雨季の真っ只中。今はフィリピンに大量の雨をもたらす季節風の時期「ハバガット Habagat」も終わり、暑過ぎず、もちろん寒くもならず、台風さえ来なければ、1年で一番過ごしやすくて穏やかな日々。そしてここ西ネグロスの州都バコロドでは、10月の中旬から11月まで、恒例のマスカラ祭が開催されています。

まぁ私は大の人混み嫌いだし、特に祭事が好きなわけでもないので、この時期は、できるだけバコロドには近づかないようにするのが常。何しろ、やらたパレードをするもんだから、あちこちで通行止めやら一方通行。週末に車で突っ込んだりしたら、とんでもない渋滞に巻き込まれてしまいます。

本来なら「ネグロス島永住日記」なんてブログを書くぐらいですから、期間中にバコロド市内に宿泊でもして、読者のみなさんにレポートをお届けするべきなんでしょうけど、そっちの方向には全然好奇心が湧かないもので...。

そんな感じなので、私の住んでいるシライ市内の、ごく狭い範囲の話題で恐縮なんですが、今回はまたもやご近所さんとの騒音トラブル。ただガチで喧嘩になったわけではなく、突然お向かいさんが飼い始めた雄鶏の鳴き声に、こちらが一方的にストレスを溜めていたというお話。

数年前にもお向かいさんは闘鶏用の雄鶏を飼って、あまりの煩さに苦情を言って止めさせた経緯があります。今回は普通のネイティブ・チキン。しかも雄鶏は一羽だけのようなので、騒音レベルはずいぶんマシですが、それでも明け方の暗いうちから、10メートルも離れていないところで「コケコッコー」はツラい。それでなくても還暦過ぎの私。朝方に起こされてしまうともう二度寝ができず、一日中眠気がつきまとう羽目に。

一応は高級住宅地である、私たちの住むセント・フランシス・サブディビジョン。養鶏は禁止なんですよね。完全に無視して大量に飼っている人もいますけど。それに、カラオケと並んで、この手の騒音に対する寛容度が高いお国柄。何週間かは我慢したものの、遂に忍耐の限度を超えて、家内に頼んで苦情を入れてもらいました。

実は前回の時、相手の対応に家内も不愉快だったようで、それ以来完全に没交渉。先方の家庭の事情は全然知らなかったんですが、実は今回の雄鶏、オーナーのオバちゃんの再婚相手が持ち込んだものだったそうです。

どうやら手広く養鶏業を営んでいるらしく、たまたま余った(?)雄鶏を自宅で飼っていたとのことで、こちらからの苦情に別段腹を立てるでもなく「あっそうですか?」とばかりに、即日で鶏肉にされて、夕食のおかずに食べられちゃいました。私は、バランガイ訴訟も覚悟していただけに、肩透かしを食らった格好ですが、まぁ事が荒立たず良かった。

ちなみに向かいのオバさん。前の旦那さんが「サトウ」という名の日本人で、そのお金でセント・フランシスに土地を購入して家を建てました。その旦那さんはとうの昔に亡くなって、日比ハーフの娘さんも高校を卒業。いかにも「田舎の婆ちゃん」風の母親も同居。

おそらく決して裕福ではない山間部の生まれで、日本に働きに行って日本人と結婚したという、フィリピンあるあるの一種のサクセスストーリーが背景。立派な家に住んでも、生まれた場所ライフスタイルを、そのまま高級住宅地に持ち込んだということなんでしょうね。

ということで、相変わらず半径数十メートルか、せいぜい数キロの範囲でのネタで、申し訳ありません。


2024年7月31日水曜日

騒音の内憂外患

 もう7月も終わって明日からは8月。フィリピンでは、学校にもよりますが、8月から新学期がスタート。本来の夏休みは、乾季で一番暑くなる4〜5月だったはずが、4年経ってもコロナ禍の影響で2ヶ月ずれたまま。かわいそうに学童・学生たちは、体感温度が40度前後だった猛暑の中を登校させられて、せっかくの休みは連日の雨。これはアカんと気付いたのか、来年から元の日程に戻しますと、教育省からのお達しがありました。

高校三年生の息子の通う、ネグロス島シライ市内の私立高では、一足早くこの月曜日から新学年。最近、ヒョロっという感じで背が伸びた息子も、以前と変わらず飄々と毎朝登校しております。

さて今日の本題は、フィリピンに移住した多くの日本人が悩まされるであろう、近隣からの騒音について。もうすぐ62歳になる私より一回りぐらい先輩の、ある邦人女性は、フィリピンで悠々自適の引退生活を楽しむはずが、連日の隣近所からの大音量音楽に悩まされて、残念ながらの帰国に至ったとのこと。そこまでいかなくても、ストレスを抱えながら日々を過ごしている人も多いでしょう。意外とフィリピン人でも、そいうい人は一定の割合でいるようです。

移住11年を迎えた私の場合、騒音を出さないことがルールの宅地内に家を建てたはずが、そんなことお構いなしの住民たちの騒音との戦いの連続。最初は、夜な夜な、宅地では禁止されている闘鶏を開催してた裏の大金持ち。そのオーナーが病気で寝たきりになって静かになったと思ったら、隣で新築工事が始まって、大工が大音量の音楽を流しながらの作業。何度苦情を入れても元の木阿弥で、ついに現場監督相手に大喧嘩。

工事が終わったら、次は向かいのオバはんが、これまた禁止されてる養鶏場を始めました。それもただの雄鶏ではなく、闘鶏用のを多数。深夜の2時3時に一斉に時を告げるもんだから、こちらは毎日寝不足。私が出るとまた喧嘩になるので、家内に間に入ってもらい、何とか養鶏は断念させました。

そしてコロナ禍。養鶏オバはんとは反対側の隣家の小学生の兄弟二人が、毎朝私の寝室の前を絶叫しながら自転車遊び。その次は、その隣の空きロットで、オーナーのオっさんが畑を始めました。ただ畑仕事するなら構わないんですが、野外ディスコに使うようなでっかいスピーカーで、終日大音量の音楽。宅地の警備員経由で苦情を入れたら、バランガイ訴訟に。いや、話が逆でしょ?

さすがにこれは、オッさんの言い分に無理があって、軽くバランガイ・キャプテン(町内会長みたいな役職)にいなされて、事無きを得ました。

直近が、新築工事の時に揉めた家。引越してからオーナーと直接話したことはなく、何となく嫌な感じながら平穏だったところ、わざわざ私の寝室の前の路上で、子供二人とバスケットボール。まだバトミントンなら良かったんですが、あのドリブルの音と振動って、頭に直接響くんですよね。それも1回だけじゃなく、二日続けてだったので「頼むからやめてくれ」と言った瞬間に、オーナーの男性(多分30代後半ぐらい?)がいきなりのブッチ切れ。

「ここはお前の道路じゃな〜い」と叫び出しました。一緒に遊んでた女の子二人はドン引き。まるでダダっ子。このまま怒鳴り返したら、拳銃でも持ち出しそうな勢いだったので(フィリピンでは民間人でも銃所持OK)、努めて冷静に「もちろん私の道路じゃないけど、あなたのバスケットボールコートでもないでしょ?」と理詰めの説得モード。しばらく話して、最後は握手で別れることができました。やっぱり子供みたい。

ここまでなら「またか」なんですが、さらに今回は、先月から介護移住で同居している高齢の父が、戦線に加わってきました。88歳のこの爺さん、若い頃から建築現場で仕事をしていてやや難聴。加齢で拍車がかかって、テレビを見る時の音量が半端ではありません。日本にいる頃から、ネットフリックス用にと買い与えたクロームキャストが、思いの外お気に入りで、こっちでも毎日「大谷選手」と「嫌韓・嫌中・日本すごい」番組のユーチューブ。わざわざ一軒家の離れまで用意したのに、それでも全開した窓から、フィリピン人もびっくりの大音量。

前回の投稿でも書いた通り、元々あまり仲が良いとは言えない親子の私たち。うるさすぎるからテレビ見るんなら窓閉めてエアコン使えを言ったら、例によっての逆ギレ。

実は、これ以外にも、ネガティブな出来事が立て続けだった7月。2週間ぐらい雨ばかりで気圧も低かっただろうし。かつて日本のサラリーマン時代に10年以上も苦しんだ鬱が、またぞろ頭をもたげて来て、一時はちょっとヤバかった。

しかしながら、分かりやすいというか現金なというか、雨季の中休みのように青空が広がり出すと、精神状態は一気に上向き、それとシンクロするように、周囲の状況も少しづつ好転。ということでやっと更新する気になった今日のブログは、愚痴大会になってしまいました。


2024年7月15日月曜日

高齢両親、再びネグロス島へ

 前回の、ネグロスの主峰カンラオン山噴火の投稿から、もう1ヶ月以上の間が空いてしまいました。その末尾にも記したように、私の両親が、昨年11月に続いて再びこのネグロス島の自宅に滞在しております。お陰さまで、その後カンラオンは平静を保っていて、最寄りのバコロド・シライ空港が閉鎖になることもなく、予定通り無事ゲストハウス到着して、かれこれ3週間が経過。

何度か投稿したように、この離れ家は、兵庫県尼崎にあった実家の間取りを再現したもの。小ぶりながら寝室二つとリビング・ダイニング、トイレとシャワーに加えて、湯船のある浴室も用意しました。二人で住むには十分な広さがあります。


到着早々、父のボストンバッグの鍵の紛失騒ぎや、母がまったく着替えの準備をしていなかったことなどが発覚してバタバタとしたものの、何とか当日はぐっすり寝てもらいました。連日猛暑日が続いた6月初旬までの乾季が終わっていて、心配していた暑さもそれほどではなくひと安心。

翌日は、同行した弟の提案で、すでにリビングにあるテレビとは別に、母の寝室専用のテレビと、それを視聴するための安楽椅子を購入。ついでに母の衣類も家内に付き添ってもらって、上から下まで全部調達。下着も靴下もない状態だったんですよね。まるで着の身着のまま難民状態。

一旦は要介護3で施設に入っていた87歳の母。ケアマネージャーさんも驚く、奇跡の回復を遂げて昨年実家に帰宅。入浴や排泄など最低限の身の回りの事は大丈夫で、話しかけたらそれなりの反応は返っては来ますが、認知症の症状はジワジワ出ているらしく、旅行の準備のような、ちょっと込み入ったタスクは、もう無理なようです。

とは言え、88歳の父はまだ頭もはっきりしていて、日本にいた時同様、トーストと卵、ハムの簡単な二人分の朝食の準備は任せています。日中はテレビを見たり、趣味の模型作りで世話要らず。何よりも助かるのは、二人とも年齢の割には旺盛な食欲で、私が作る昼と夜の食事は、毎回完食。それも炒め物や揚げ物、何でも「おいしい、おいしい」と平らげます。

言葉は通じなくても、メイドのグレイスおばさんとも上手くいっている様子で、たまにグレイスのサポートで、母は車椅子、父は徒歩での散歩に出たり。こう書くと、介護移住は順風満帆のようですが、万事順調・めでたしめでたしにはならないのが現実。

実は前回も、誰もいない部屋のエアコン・扇風機・照明の全部つけっぱなしやら、水道の締め忘れなどがあって、何度か注意。今回はさらに輪をかけて、窓を全開にしてエアコン稼働。それが三日続けてあったんですよ。実際にエアコンをオンにしているのは母なんですが、隣室の父はそれに気づかない。それでなくても物価に比べて電気代が高いネグロスなので、再三父に苦言を呈しました。ただ残念ながら、昔から私との関係が良好とは言えなかった父。身内に対して素直に謝るということができない性格。

冷静に考えてみれば、すっかり耳が遠くなった父なので、もうちょっとソフトに対応すればいいのは分かっているけれど、父も「金やったら払う」「そんなに文句言うなら日本へ帰る」と逆ギレ状態。売り言葉に買い言葉で、どうしても私の言い方もキツくなりがち。元気な時は、クッション役をしてくれてた母も今は半分寝たきり。ある程度想定はしてましたが、老齢の親との同居って、肉親であるが故の難しさがあるものです。

しかしながら、さすがに今回は、しばらくして自分の立場に気づいたのか、おそらく私が生まれて初めて、父の方から謝ってきました。かつては家族全員に大迷惑をかけた父。その時も、一度たりとも頭を下げなかったことを考えれば、ずいぶんと変わったとも言えるでしょう。

そして最大の功労者がフィリピン人の家内。図らずも、母に代わってクッション役になってくれています。日本に限らずフィリピンでも、義理の仲は拗れがちなもので、私たちの結婚には大反対だった母。ところが母が足を骨折して入院した際には、毎日病院に通って入浴の介助をした家内。よく言われる「フィリピノ・ホスピタリティ」を体現するような働きでした。それ以来、両親共々、このフィリピン嫁に心酔して、今回の介護移住も「嫁がいてくれるなら」との思いもあったからでしょう。

ということで、孝行息子とは程遠い私ですが、家内やメイドさんの助けを借りながら、なんとか親との毎日を過ごしております。この件は、同じく介護な必要な身内がおられる方々には、何かの参考になるかも知れませんので、時々経過報告しますね。ちなみに両親、観光ビザでの入国なので、年内には一時帰国の予定です。


2024年6月6日木曜日

ネグロスの主峰カンラオン噴火


噴煙を上げるカンラオン山 出典:CNN

 最近あんまり使わない言い回しかも知れませんが、青天の霹靂とはまさにこれ。今週の月曜日6月3日の夕刻、私たち家族の住むフィリピン・ネグロス島。その中央部にあるカンラオン山が突如噴火しました。

ネグロス「島」と言っても、サイズは日本の四国より少し小ぶりな程度だし、自宅のあるシライ市からは、ざっと50kmも離れています。音がしたとか火山灰に気付いて...ということではなく、それを知ったのは、地元新聞のフェイスブックへの投稿を見て。それも最初は、上空5,000mまで達したという噴煙の写真を、またウクライナかガザの記事かと勘違いするほど、まさかカンラオンが噴火とは想像もしていませんでした。

ちなみに50kmというと、関西ならばだいたい大阪〜神戸の距離。風下でもなかったので、報道がなければ、まったく知らないままだったでしょう。

このカンラオンという山、北のシライ山、マンダラガン山、南のタルニス山と並んで、ネグロスの背骨を形成するような島の最高峰。「突如噴火」なんて書いてしましたが、以前から時々軽い水蒸気爆発を繰り返していて、1996年には、たまたま山頂付近にいた外国人登山客を含む3名が亡くなる事故が発生。決して侮れない活火山なんですよ。

今回は水蒸気ではなく、大量の火山灰を噴出する爆発的な噴火で、小規模ながら火砕流も発生したのこと。幸い人的な被害はなかったそうなんですが、翌日の午前中は、近くのバコロド・シライ空港発着の29便が欠航。5段階の下から2番目の警戒レベル2の発令で、火口周辺の2,800名が避難を余儀なくされました。折りからの雨季で、周辺の河川には火山灰が流入して泥流状態。道路にまで溢れて、一時周辺の道路が閉鎖されるという被害も。


出典:Inquirer

さて火砕流というと、奇しくも噴火のあった6月3日は、1991年に長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流で、43名もの方々が犠牲になった日から33年目。当時、長期の東京出張中だった私は、宿泊先のウィークリー・マンションの一室で、小さなテレビの前に釘付けになっていました。

映像を通じてのみとは言え、あの惨状をリアルタイムの報道で見ているだけに、火砕流が発生するような火山がある島に住んでいたのかと、今更ながら空恐ろしくなりました。カンラオンの山頂に登ったことはないものの、山腹にある温泉リゾートのマンブカルには、移住前から泊まり掛けの2回を含めて、家族で何度も遊びに行ったことがあります。

ということで、この投稿を書いている6月6日現在、それ以降の噴火はなく、シライ市内は全く平穏。ただ今月の末には、昨年に続き高齢の両親が半年ほど滞在する予定なので、空港が封鎖されたりすると少々厄介なことになります。島全体の経済や観光へのダメージを考えても、なんとかこのまま沈静化してほしいところです。



2024年5月29日水曜日

待望の雨季

今年(2024年)は、3月の初め頃から厳しい陽射しと暑さが続いたフィリピン。かれこれ3ヶ月続いた旱魃は、5月の最終週になろうかと言う先週末になって、ようやく終焉を迎えたようです。

そのきっかけとなったのが、台風1号、フィリピン名「アグホン Aghon」の接近。フィリピンの気象庁であるパガサ(PAGASA)は、たまたま台風による降雨で、これをもって直ちに乾季の終わりは宣言しないと、慎重な姿勢を崩してません。しかしながら、台風であろうが梅雨前線であろうが、雨は雨。金曜日の早朝、本当に久しぶりの本格的な雨が降り始めた時は、ずいぶんホっとしたものです。 

それと言うのも、今回の熱波。ネグロスでの最高気温の数字だけなら35℃前後で、大阪や東京の一番暑い時期より多少マシなぐらいなんですが、さすがに3ヶ月続くと心身共にダメージが大きい。途中3〜4回は夕立ちはあっても、まさに焼石に水のお湿り程度。5月に入ってからは、胸に圧迫感があったり、しつこい便秘状態だったりで、明らかに体調もおかしくなってました。

ネグロス島に引っ越して12年目で、ここまで連日のエアコン稼働は初めて。就寝時に室内温度が30℃あっては、エアコン無しでは眠れません。しかも最近は、私と家内、息子が別々の寝室なので単純に3台分。2万円越えの電気代請求に、目玉が飛び出そう。

それにしても、室内で話し声も聴き取りにくいほどの雨音が、これほど心地よく感じるとは。何時間でも一晩中でも聴いていられるのは、かなりの倒錯心理ですな。当然ながら、実際の気温も体感温度も一気に下がり、エアコンどころか扇風機さえオフのまま眠れる夜が戻って、ご飯も美味しくて、天高く馬肥ゆる「雨季」。

とりわけ暑さに弱い、私のイロンゴ語(西ネグロスの方言)家庭教師のバンビ。土砂降りの翌日の授業には、「昨夜は本当によく眠れました」と、実に爽やかな表情。バンビだけでなく私の体調も、自分で呆れるぐらいに分かりやすく復調しました。

とまぁ、ここまでなら万事めでたし良かった良かったで終われるんですが、そうは問屋が下さない熱帯気候の極端さ。今度は降り過ぎて、ルソン島の南部辺りでは、洪水被害が出たようです。さらに身近では、バンビの姉で我が家のメイドのグレースおばさん。可哀想なことに、ちょうど二泊三日の予定でビーチリゾートへの旅行が、台風接近にぶち当たってしまいました。

初日はほぼ終日の豪雨で、それ以降も時折陽射しは戻ったものの、楽しみにしてた休暇とは程遠いイメージだったでしょう。尤も、高校時代の親友たちと連れ立っての旅行だったので、宿泊先でオバちゃんトークを楽しんだろうとは思います。

ということで、これを書いている時点で、台風1号はフィリピンから遠く離れ、九州の南海上に。本土への上陸はないとしても、まだ5月なのに日本に大雨を降らせるなんて、異常気象ここに極まれり。

肝心の雨季が来たかどうかは、まだ判断が難しいけれど、少なくとも雨季恒例の羽虫の大発生はあったし、全天雲のないピーカンのカンカン照りはなくなったので、一応普通の天候に戻ったと見て良さそうです。



マニラで日本人オフ会3連発

 前回から3週間も間が空いてしまいましたが、引き続き4月中旬のマニラ滞在のお話。

マニラに限らず何泊かするような遠出になるとよくあるのが、SNSで知り合った地元に在住の日本人の方々とのオフ会。もうミクシィ華やかなりし20年以上前から時々やっていて、初対面なのに、長年の友達付き合いのような気軽さで話し始められるのが楽しい。気が合うかどうかは、年単位の交流で確認済みなので、変な緊張感がありません。

今回は、私のフィリピン移住直後ぐらいから、フェイスブック経由で知り合った同年代の男性お二人と、比較的最近やり取りを始めた30代の女性のお三方。

まず一人目は、前回に少し触れた、エルミタでラーメン屋さん「グルメ・ラーメン」を開店したばかりのNさん。Nさんとは、配偶者がフィリピン人というだけでなく、同じデザイナー職出身でカトリック信徒。しかも日常的に料理もこなすという、ちょっと驚くほど私との共通点が多い方。しかもお店のコックさんが、私の住むネグロス島シライの隣町、州都バコロド出身者。ただでさえ、勝手知ったるFB友達なので、話が弾まないはずがありません。

せっかくなので、マニラ初日のお昼時にお邪魔して、ご自慢のラーメンを頂くことにしました。ランチタイムに店を開けてはおられますが、稼ぎ時は夕食から深夜の「締めのラーメン」が中心のようで、私が行ったときは他にお客さんが1組のみ。お味の方は、さすが日本人経営でかつ日本で修行したコックさんの調理なので、近所だったら通うだろうなぁというレベル。

Nさんは、ガンガン経営を広げて...という感じではなく、この一店に集中して行くとのこと。これなら、フィリピンでの日本人経営の飲食店でありがちな、ローカルスタッフに任せきりにするうちに、味もサービスも劣化という心配もなさそう。何より腰の低いNさんの接客ぶりに好感が持てました。こういうところはネット経由だけでは分からない部分。

そして二人目は、同じくフィリピン女性と結婚して、マニラのコンドミニアムにお住まいのMさん。Mさんの暮らしぶりは、ある意味理想的なセミ・リタイア生活で、若干の仕事は日本に残しつつ、日比の両方にあるご自宅を行ったり来たり。SNSで拝見していると、どちらの国のご家族や親戚とも良好な関係を保っておられるし、早朝のジム通いも欠かさないご様子。

私の場合は、マニラのような大都会は人も車も多過ぎて疲れてしまうので、今のネグロス暮らしが性に合ってますが、定年を迎えても、やっぱり便利な都会の方が良いという人ならば、間違いなくこのライフスタイルには憧れるでしょう。もちろんここに至るまでは、いろんな苦労もあったのでしょうけど、少なくとも今はたいへんリラックスされてる印象。フィリピンの友人・知人が、Nさんが実年齢よりずっと若く見えると言うのも「然もありなん」な感じです。

そして三人目は、マカティにあるリトル・トーキョーで、今回唯一の女性と夕食。唯一と言っても、最近は女性の日本人移住者もまったく珍しくなくなったフィリピン。ツイッターでのハンドルネーム、まーさんは、そんな在マニラ邦人の中でもかなり異色の経歴をお持ち。

なんとフィリピン大学の獣医学部を卒業し(ということは、家内の後輩)、格闘技が趣味で、なぜかグラフィックデザイナーとバンドのボーカルを兼務している、超多彩な才能の持ち主。性別も住んでる国も関係なく、こんなにマルチタレントな人物って、そうそうお会いしたことがありません。その上「私、頑張ってます」みたいな悲壮感もなく、実際お会いしたら実に自然体でチャーミングな人。


家内とリトル・トーキョーにて

リトル・トーキョーの「相撲茶屋・関取」で、久しぶりの日本食を堪能した後が、その日のメインのカラオケ。さすがに初対面の女性と二人だけでカラオケはいろいろ差し障りがあったので、まーさんにお願いして他にお二人の日本人に参加いただきました。日本人にもフィリピン人にも、交友関係の広いまーさんに感謝です。お陰さまで何の気兼ねもなく、例によってマイク無しの地声で、大爆唱させていただきました。

ちなみに、カラオケの曲目が無い時のために持って行った、ブルートゥースのスピーカーを店に忘れてきちゃった粗忽者の私。まさーさんが機転を利かせて、バイク便でホテルまで届けてくれました。素晴らしい判断力と行動力。

ということで三者三様、いろんなフィリピン移住のかたちを垣間見ての実感は、それぞれに幸せを成就されてるなぁ、ということ。もちろん皆さん心配や悩みが皆無ってことはないでしょうけど、それぞれのスタイルで生き々きとしてました。お会いできて本当に良かった。



2024年5月11日土曜日

四半世紀ぶりにマニラ・エルミタを徘徊

 もう1ヶ月近く前の4月中頃、久しぶりに家内と連れ立ってマニラに二泊の小旅行をしました。同じフィリピン国内と言っても、マニラ首都圏とネグロス島シライ市。東京と四国とか九州の、しかも県庁所在地でもない地方都市ぐらいの差がある上に、通じないぐらいに方言が違います。心理的な距離感は、ほとんど外国と言ってもいいぐらい。

退職して隠遁生活している私は、一時帰国のフライト乗り換えで空港経由はあっても、フィリピン移住後12年目でマニラに宿泊したのはたったの3回。前回は確か2019年だったので、かれこれもう5年前。(懐かしのザ・ペニンシュラ

今回の目的は、私の事ではなく家内のビザ更新手続き。それも日本ではなくアメリカの入国ビザ。実はまだ日本に住んでいた2000年に、家内とアメリカ旅行をした際に取得したもの。翌年に9.11のテロがあったので、もし1年ズレていたら、フィリピン人がアメリカのビザ取ろうなんて、最初から諦めてたでしょう。

その後、シカゴ在住の親戚を訪ねて再渡米したのが2004年。「来年も来るよ〜」と言って別れたんですが、その年の年末に家内が妊娠して2005年に出産。なんやかんやで、今まで使うことがなかったビザ。放置すれば今年(2024年)中には無効になってしまいます。それは勿体無いので、アメリカ旅行の予定はないけれど、延長申請のために在マニラのアメリカ大使館に予約を入れたというわけです。

前述の通り、何か所用でもない限りマニラに行くことは滅多にない私たち家族。なので私も同行して土日を絡めての二泊三日となりました。ちなみに高校生の息子は学校があるので、お留守番。さすがにちょっと心配なので、親戚やメイドさんに順番で泊まってもらいました。

御上りさん気分で宿泊先に選んだのがマニラ・ホテル。戦前から経営している老舗で、マッカーサー将軍やケネディ大統領、ビートルズが泊まったことでも有名で、日本の占領時代には軍の司令部が置かれていたそうです。ただ、宿泊料で言うとペニンシュラやマンダリンなどの最高級ホテルほどではないし、最近できたオカダ・マニラに代表されるような、ベイエイリアにあるカジノ併設の場所に比べれば、高嶺の花と言うほどでもありません。


重厚で歴史を感じる
マニラ・ホテルの1階ホール

それに何より便利なのが、エルミタ地区にあるアメリカ大使館のすぐ近く。4月はフィリピンの真夏で、特に今年はエル・ニーニョの影響の酷暑なので、さすがに家内はタクシーを使っていたものの、それさえなければ私なら歩こうかという程度の距離。

それにしても、エルミタのホテルに泊まるなんて、四半世紀以上ぶり。実は家内と出会う前の30代になりたての頃の私は、マニラに住んでいた彼女との逢瀬で、数ヶ月毎のフィリピン通い。リサール公園のすぐ隣にあって、今は閉鎖されてしまったホテルを常宿にしていました。そこも決して安宿ではないものの、当時は歓楽街の様相を呈していたエルミタ界隈で、宿泊客は夜遊び目当てのオっさんが多かった。まぁ私も人のことは言えないんですが、ロハス大通りを隔てただけなのに、見るからに「上流階級向け」に見えたマニラ・ホテルは憧れだったんですよね。

さて、マニラ到着翌日の日曜日。ずっとフェイスブックで交流のあったマニラ在住の日本人の方が、同じくエルミタにラーメン屋さんをオープンしたというので、お昼を食べに行く予定を入れていたところ、その前に買い物をしたロビンソンズ(ショッピングモール)で、急に家内が体調不良。病院に行くほどではないけれど、先にホテルに戻って横になるとのこと。仕方がないので、ロビンソンズから数ブロック離れたラーメン屋さんには、一人で徒歩となった次第。

午前中でも間違いなく体感温度は40度前後で、家内が一緒ならタクシーだったであろう道のり。暑さでちょっとふらつきながらも、実に懐かしかった。基本、変わってないんですよね。ちょうどお昼前なので、歩道にまではみ出した椅子やベンチには、トロトロ(一杯飯屋)で食事をする老若男女。心なしか昔の荒れ果てた感じは影をひそめ、庶民的で楽しそうな食事風景に見えました。

実際、この10年ぐらいでフィリピン経済は大成長を遂げ、1990年代の絶望的な状況は、改善されました。まぁこっちもそれなりの年齢だし、将来に対する不安を抱えていた30代と比べたら、心に十分な余裕があるからというのも大きいでしょう。

ということで、ものの30分程度のセンチメンタル・ジャーニーでしたが、どっちかと言うとやや暗めの色彩に塗り潰されていたエルミタの記憶が、南国の日差しがさんさんと降り注ぐ明色に上書きされたような、ちょっと幸せな気分に浸ることができました。

マニラ旅行については、次回も続きます。


2024年5月3日金曜日

暑すぎるフィリピン

 またまた1ヶ月のご無沙汰となってしまった当ブログ。この文章を書いているのは2024年の5月3日で、日本では憲法記念日でゴールデンウィーク真っ只中という頃。そしてフィリピンの4月〜5月は、毎年乾季で暑くなる季節。タガログ語でもネグロス島の方言イロンゴ語でも、乾季や夏を指す言葉は、タグ・イニット(Tag Init)。イニットは、「暑い」だけでなく、「日差し」「直射日光」も意味します。そして、その通りに今年の夏は連日の強い日差しのネグロス島。

実はこの暑さ、もう3月の初旬から続いていて、途中で2〜3回ほど数時間から半日程度の降雨はあったものの、5月に入って時点ですでに2ヶ月も真夏状態。1日の最高気温は33〜36℃程度なので、大阪や東京の都心部の一番暑い時期と同じか、ちょっとマシな程度。ところが、暑さの中休みがなく、ほぼずっとよく晴れて暑いので、さすがにバテてきました。

これは、最近数年毎に発生するエル・ニーニョの影響だそうで、一般的な日本人よりも暑さ慣れしているはずの地元の人たちでも、熱中症と見られる症状でダウンするケースが相次いでいます。バイクを運転中に意識が朦朧として転倒したり、頭痛がひどくて仕事を休んでしまったり。バイクで転けたのは、私のイロンゴ語の家庭教師バンビの知人で、頭痛は週一でマッサージに来てくれてるラケルおばさん。二人とも命に関わるようなことにはならなかったけれど、屋外の仕事や肉体労働に従事している人たちは、本当に大変。

とは言え、緑が多くて土が露出している面積が多い田舎のネグロスは、コンクリート・ジャングルのマニラ首都圏に比べれば、これでもまだ凌ぎやすい。何と言っても、夕方になれば屋外はス〜ッと涼しくなって、早朝は空気がヒンヤリ。先月末に2泊3日でマニラに行ったのですが、日中エアコンの無い場所にはとても居られない、40℃前後の暑さで、深夜になっても蒸し暑い。マニラ滞在については、別途詳しく投稿します。

さて、この異常気象レベルの暑さの中、驚くことに学校は夏休みではありません。本来ならば4月〜5月、子供たちは家にいるはずが、コロナ禍以降、約2ヶ月の遅れが生じたまま。もう4年も経って、さっさと元に戻せば良いものを、海外の(主にアメリカ?)学校に合わせて、このまま行った方が便利だと、教育大臣兼務のサラ・ドゥウテルテ副大統領の強い主張で、真夏に登校させて、雨季と共に夏季休暇。

確かにフィリピンからアメリカの大学に進学するなら、数ヶ月も待つ必要はなくなるけれど、そんな子供は数が知れてるでしょうに。

案の定、暑過ぎて、コロナ時代のオンラインや宿題形式のモジュール授業に逆戻り。息子が通うシライ市内の私立高校では、PAGASA(フィリピンの気象庁)の翌日の気温予測で、体感温度が40℃を目安に、対面授業とオンラインを使い分けてます。その都度、対応が変わる先生たちは、振り回されていることでしょう。

ちなみに、なぜか実測値ではなく、ネット上でもテレビのニュースでも、暑い時には体感温度しか使わないフィリピン。スマホのお天気アプリでの最高気温予測は35℃で、PAGASAの発表は42℃。これって必要以上に煽り過ぎだと思いますよ。まぁ実際、暑いことは暑いんですけどね。

ということで、頑固なサラ女史も異常気象には勝てないらしく、再来年度までをメドに、夏休みを従来の時期に戻すことが発表されました。



2024年4月1日月曜日

日本語が通じない英語学校の日本人スタッフ

 気がついたらもう4月。申し訳ないことに、久しぶりの更新かつ新年度早々の投稿は、とってもネガティブなお話。今日はエイプリル・フールの日なので、嘘でも書いたんじゃないかと思われそうですが、嘘だったら良かったのに...というような出来事。

遡ること3週間。先月(2024年3月)初旬から我が家のゲストハウスを、近所の英語学校に短期留学する日本人の生徒さんに貸し出すことになりました。日本は春休み。この時期に高校生や大学生の方々が増えて、学校の宿泊設備のキャパを超えてしまうから。

この日本人経営の英語学校は、コロナ禍前からのお付き合い。経営者のYさんと知り合って、もう6〜7年越しになります。コロナで一旦は撤退したものの、昨年からここネグロス島シライ市内も戻られて、我が家から徒歩15分ほどの場所の商業ビルのワンフロアを使って業務再開。ピーク時には外部の宿泊施設も借りるほどの盛況というわけです。

ここまでは私にとっても良い話で、臨時収入にはなるし、若い日本人の方々と接点ができて刺激にもなる。学生さんは3名で、一人学校側から面倒見役の女性スタッフが来るとのこと。トラブルの元になったのは、このスタッフ。

20代で、就職して数年の日本の会社を辞めてネグロス島へ。仮にAさんとしておきます。Aさんは学生に先立って前夜からゲストハウス入りというので、大慌てで大掃除。自分で言うのも何ですが、2LDKで家具や食器、家電製品付き。片田舎のシライ市にあっては、日本での宿泊と大差のない居心地だろうと思います。加えて庭も含めて念入りに掃除を済ませて待ってました。

ところが待てど暮らせどAさんは来ない、連絡もない。まるでダメなフィリピン人メイドさんみたい。翌日やっと来たと思ったら、ヘソ出しルックの短パン姿でお出まし。別に就活ではないのでスーツで来いとは言いませんが、この後空港に生徒さんを迎えに行く仕事があるはずなのに。私は上司でもないので黙ってましたが、この第一印象での違和感は、不幸にも勘違いじゃなかったことが明らかに。

そして空港から学生さんが到着し、順調な滑り出しのはずが、いきなり夜間のゲート施錠忘れ。裏庭に建てられたゲストハウスは、建物としては母屋と完全に独立しているものの、同じ敷地内でこちらのゲートから母屋の庭に入ることもできる作り。なので当初は、鍵の開・施錠は私でやろうと思ったんですが「責任をもって管理します」と言うので任せてました。それがこの結果。

追い討ちをかけるように、翌日も施錠してなかったし、さらに昼間は落とし金具も横バーもしないから、季節風に煽られてゲートがフルオープン状態。外から敷地内まる見えで、不審者でも野良犬でも入りたい放題。

どうやら根本的に、フィリピンの治安のレベルが理解できないらしい。ガードマンのいるビレッジ(宅地)内で、長閑で平和に見えるものの、実際に泥棒被害(大した物ではないにせよ)はあったし、狂犬病のリスクだってあります。

もちろんその都度、注意はしてたんですよ。言葉を選んで紳士的に。ところが困ったことに日本語が通じないのか、あるいは異次元の解釈をしているのか、まったく改善の兆しが見られない。別にそれほど難しい事をお願いしてるわけじゃないんですけどね。

さすがに1週間この状況だったので、経営者のYさんに直訴。日本人同士で言葉が通じないようなので、人を代えてくださいと頼んでみました。確か、もう一人インターンの方がおられました。それが無理なら、せめて私に門扉の開閉と鍵の管理を任せてくださいと。

まぁ人は代えられないというのは仕方ないにしても、頑ななまでにスタッフによる管理にこだわって、深夜零時の門限の提案も却下。というのは生徒さんの夜遊び黙認で、午前様の3時頃帰宅ということがあったんですよ。

約1時間弱の話し合いの結果、鍵を学校側が用意するナンバーボタン式のもと交換し、今後は責任を持って(こればっかり)施錠時には鍵が閉まった状態のスマホ写真を、メッセンジャーで関係者と共用する、という対応に。

さてこれで一件落着かと思ったら、舌の根も乾かぬうちに、またもゲート開けっぱなし再発。たまたま見つけたメイドさんが、びっくりして言いに来ました。つまりフィリピン人でも驚く不用心さ。あの話し合いは何だったんでしょうか?

とうとう堪忍袋の緒が切れて、件のスタッフさんに歯に衣着せぬ言葉で注意。それでも怒鳴りつけたり感情的にならないよう自制したんですが、言うに事欠いて「私も暇じゃありませんから」「元々、貸し出すべきじゃなかったんでしょう。」だって。まぁ門扉の建て付けが悪くて、暑いと膨張して外からは閉めにくくなることはありましたが、そんなの私に一声かけてくれれば済む話。ここまで相互理解ができないと、もう出て行ってもらうしかありません。

実は、これだけではなく、室内のドアノブは二つも壊してくれるし、備品の水タンクのキャップを勝手に不要と思い込んで捨ててしまうし。洒落にならなかったのは、体調不良で寝込んでた女子高校生の生徒さんを、半日も一人にしていたこと。こちらには何の連絡もなかったので、もし母屋も留守にしてたら、病人を門扉が未施錠の状態で放置するところでした。

結局、3週間の予定が半分の10日ほどでレンタルハウスはおしまい。追い出した格好になったので、宿泊費も電気・水道代も頂けません。元々、相場の半額ぐらいの良心的な価格だったんですけどね。一応、移動先の手配も考えて「すぐ出て行け」じゃなくて、24時間の猶予は与えたものの、生徒さんには悪いことしてしまいました。とは言え、ストレスで、以前の鬱病の時みたいに、胸の圧迫感や神経性と思われる腹痛が出始めたので、もうこっちもいっぱいいっぱい。今にして思えば、彼女の口からは一度も「ごめんなさい」とか「すみません」という言葉は聞かれませんでした。

ということで、ストレスの元凶が視界から去って、体調は戻ったものの、良好な関係を保っていたはずの英語学校のYさんとは、行き掛かりながら絶縁となってしまったのは、とても残念なことでした。あ〜あ。


2024年3月12日火曜日

差別の話

 この何ヶ月か、たまたま差別に関する話が私の耳目に触れたので、今日は、それについて考えたことを書いてみます。

当たり前のことながら、人種、出自、心身のハンディキャップ、性別、性的志向などなど、どんなことでも差別は絶対にダメです。「それは差別じゃなくて区別だ」なんて屁理屈をコネたってダメなものはダメ。判断するのは簡単で、自分がその当事者だったらどう感じるかを想像してみればよろしい。

日本のように、比較的似たような顔つきで、一応は標準日本語を理解する人が多い国では、白人と黒人、あるいはアジア人との間にある深い溝は、実感として分かりにくいかも知れません。それでも、中国・韓国系の人たちに対する根深い嫌悪や偏見は無くならないし、被差別部落やジェンダーなどなど、厳然と差別は存在します。

それを図らずも顕在化させたのが、今年(2024年)1月のミス日本選出にまつわる一連の騒動。いろんなメディアで報道されたので、ご存じの方も多いでしょう。グランプリに輝いたのが、ウクライナ人を実の両親に持つ、椎野カロリーナさん。確かに見た目は白人女性。ただし父母が離婚し、母親の再婚相手が日本人だったことから、幼少時に日本に移住し帰化。日本語も普通に話されます。


出典:New York Post

さらにミス日本に応募しようというぐらいですから、とびきりの美人さん。美しさを競うコンテストで日本国籍を有する美人が選ばれたんだから、外野が騒ぐようなことではないはずが、批判的な意見...というか完全なやっかみが集中。案の定「純日本人ではない、ハーフですらない云々」なんて馬鹿げた言い草。

そもそも今日本に住んでる人々って、その多くがモンゴルやシベリア、中国・朝鮮半島、あるいは東南アジアや太平洋の島々からの渡来人の末裔。間違いなく全員が雑種。結局のところ日本人の定義は、国籍の有無しかないはずなんですよ。この件に関しては、どんな理屈をこじつけても、ルッキズム(外観至上主義)以外の何物でもありません。

特に在外邦人で、配偶者がフィリピン人、子供がそのハーフという私にすれば、否応なく考え続けてきた問題。それだけではないにしろ、息子がフィリピン人の母を持つことを理由に、謂れなき差別やいじめを受けることが心配で、フィリピン・ネグロス島に移住したとも言えるぐらい。

有難いことに、このフィリピンの片田舎では、日本人だからと、差別的な扱いを受けたことはありません。息子に訊いてみても無かったとのこと。ただそれは、永年に渡る日本政府からの国際援助や、最近のアニメやマンガの影響で形成された、良好な対日感情によるところが大きい。加えて、元々マレー・インド・中国・スペイン系など、いろんな顔つきの人がいますからね。

もちろんフィリピンにだって、私たちが直接被害を受けていないだけで、差別はあるでしょう。例えばムスリムや少数民族への偏見や、絶望的なまでに大きい貧富の差など。差別が皆無のユートピアなんて世界中どこに行っても見つからないと思います。

そして先日の米国アカデミー賞の受賞式での出来事。昨年(2023年)に、主演女優賞と助演男優賞に選ばれたマレーシア出身のミッシェル・ヨーさんと、ベトナム出身のキー・ホイ・クァンさん。このお二人が慣例に従って、今年の同賞の受賞者に黄金のオスカー像を手渡すプレゼンテーター。その受け渡しの際の、二人の白人受賞者の態度が失礼だったと話題になっています。

主演女優賞のエマ・ストーンの場合はちょっと微妙ながら、助演男優賞のロバート・ダウニー・jr.は、キー・ホイ・クァンさんと目も合わさず握手も謝辞もなし。さすがにこれはアカんでしょう。たとえ心の中にアジア人嫌悪があったとしても、仮にも演技のプロなんだから最低限の礼儀と感謝は表現すべき。ヒット作で演じているスーパーヒーロー役が、イメージダウンも甚だしい。

ちなみにツイッターで、欧米に住む邦人の投稿によると、白人からこんな態度を取られるのは決して珍しいことではないらしい。19世紀や20世紀初頭の暴力的人種差別ではないものの、まるでその場にいないかのごとく無視されたり。配偶者の家族からも日常的に同様の仕打ちを受けている人もいるぐらい。

正直なところ、私にだって心の奥底には、一部のフィリピン人への差別的感情がないかと問われれば、絶対に無いとは言い切れません。それどころか、同世代の日本人男性に対しても偏見を持ってしまうこともあります。問題は、それを態度や言葉に出すか出さないか。一番タチが悪いのが、自分でも気づかないまま差別的言動を取ってしまうことでしょう。これは本当に気をつけないといけません。



2024年3月1日金曜日

花粉症ならぬシダ胞子症?

 うっかりブログ更新サボってたら2月が逃げてもう3月になってしまいました。1年の1/6が終わっちゃったんですね。相変わらず光陰矢の如し。今年は閏年で1日多いんですが、まったく何の突っ張りにもなってない感じ。

さて、最近のフィリピン。またもや強烈なエル・ニーニョが起こっているらしく、米生産の落ち込みが懸念される状況。すでに、ベトナムを始めとする東南アジア各国からの米輸出の増強を計画中、という報道も入って来てます。ここネグロス島でも、まだ旱魃という感じではなく、時折の夕立ちがあり、曇りがちだったり小雨の日があるものの、やっぱり日差しが強くなってきて、乾季を先取りしたような天候が多い。

そんな晴れて空気が乾いた日に、なぜか花粉症のような洟水やくしゃみに悩まされている私。ちょうど日本もスギ花粉の飛散が真っ盛りなのは、SNS経由での日本の知人・友人の投稿で知ってます。まさかそれとは関係ないだろうし、こっちの薬局で処方箋なしで買えるデコルジェンという薬でかなり楽になるので、生活に支障が出るほどではありません。ただ、やっぱり服用すると眠くなるし、こんな鬱陶しい症状はないに越したことはない。

実は、日本では花粉症を発症していなかったのに、フィリピン移住後も時々こうなる。今まではてっきり、ネグロス全島を覆い尽くすように栽培されているサトウキビ、その焼畑の煙が原因だと思ってました。ところが数日前、どうやら真犯人らしきヤツの正体を垣間見る出来事が。

発端は昨年末から始めた庭いじり。自分でも何とも爺い臭いというか、年相応とも言えるんですが、そもそもは私ではなく家内の趣味。コロナ禍で外出の機会が減ったので、植木を相手にしたわけです。これは家内だけでなく、周囲の友人や親戚も植木に凝る人が増えました。

まぁそれは良いとして、元来、部屋の片付けとか整理整頓が苦手な家内。案の定、どんどん数を増やして株分けしまくって、気がついたら庭中が「緑の魔境」状態。整然と並んでいれば、緑が多くてリラックスできるんでしょうけど、高温多雨の熱帯気候。場所によっては足の踏み場のないカオス。

ついに我慢できなくなって、鉢植えからはみ出した植物を花壇を作って植え替えたり、ものすごい繁殖力で、ジャングルに戻ったような熱帯植物を大伐採。メイドのグレイスおばさんの協力を得て、裏庭に繁茂したシダの群落をデッカい植木鋏で片っ端から刈っていると、何やら茶色い粉が舞い上がりました。これがシダの葉の裏側に蓄えられていた胞子。

粉の舞い方が、映像でみるスギ花粉にそっくりで、ひょっとしてヤバいかも...と思ったら、その日は、いつになく激しいくしゃみ。24時間で限度の3回もデコルジェンを服用するハメに。翌日は、マスクと帽子着用で、残ったシダを親の仇のように全部刈り上げたら、しつこかった洟水がほぼ収束。やっぱりお前が犯人やったんか?


シダの胞子
出典:Adobe Stock

ネットで調べたら、シダの胞子ってアレルギーを引き起こしやすいものとのこと。もちろん病院に行って検査したわけではないので、焼畑の煙説も否定できないけれど、ここまでタイミングがぴったりだと、断定してもいいように思います。今にして思えば、庭のシダが大繁殖したのと、くしゃみ・洟水が頻繁になったのは、だいたいシンクロしてたし。

ということで、見てくれだけではなく、自分の健康のためという大義名分を得たので、もうしばらくは、私の庭いじりが続きそうです。



2024年2月12日月曜日

アクシデント三連発

 週末金曜日の2月9日は、春節で全国が休日となったフィリピン。それも過ぎてもうすぐバレンタイン・デーという今、やっと今年(2024年)2本目の投稿です。前回は、ネタが無くなってきたので「週刊」にしようかなんて書きましたけど、どうも「月刊」すら怪しくなってきました。正直に言うと、無くなってきたのはネタよりも集中力なんですよね。

このブログだけでなく、リアルの生活でもあちこちで言いまくっている、自分の還暦について。やや白髪が目立ち始めたものの、まだまだ毛染めの必要がない頭髪と、日々の自転車漕ぎや筋トレのお陰で腹が出てないせいか、ここフィリピンにあっては、20年はサバを読める年齢。でも六十余年の歳月が過ぎ去ったのは厳然たる事実のようです。

やっぱり、50代以前と同じ体力ではないので、何をやっても長めの休憩が不可欠。自分で料理して食事を終えると、つい横になってしまって寝落ちもしばしば。気がつくとブログを書く時間もやる気も失せている始末。

フィリピン移住以来の趣味であるイラスト描きと、コロナ禍の外出禁止が契機で始めたボイス・トレーニング、週一のイロンゴ語レッスン及び宿題準備もあります。そして前述の筋トレなどは続いているので、今までがやることが多過ぎたのかも知れません。まぁ、ついSNSやネットフリックスで時間を溶かしたりしてるのも、大きいんですが。

実は、体力や集中力だけでなく、昨年末にはマジで年齢を感じる出来事が連続しました。と言うのは、転倒二回に調理中の怪我が一回。

最初は自転車。何もないところで転んだのではなく、近所の家で放し飼いにされている犬が2頭。朝、私が機嫌良く自転車漕いでると、こいつらが突然吠えながら追いかけて来たんですよ。ただの威嚇なのは分かっていて、そのままやりすごせば良かったものを、ついカッとなって急反転して逆に追いかけてやろうとしたら、バランスを失って派手に転倒。左の肘と膝を擦りむいてしまいました。病院に行くような怪我ではなかったものの、擦過傷ってなかなか治らず、完全にかさぶたが取れるまで3週間ぐらいかかりました。

その後、イロンゴ語レッスンで、家庭教師のバンビに「犬に吠えられて自転車でコケた」と言ったら「狂犬病の予防注射はしましたか?」と真顔で心配されてしまった。もちろん犬に噛まれたのではないんですが、ちょっと話を端折りすぎましたね。

次に転んだのが寝室。最近小用が近くて、時々まだ暗い時間に目が覚めてトイレに行くことがあって、その日も午前3時頃にゴソゴソ起きだしました。いつもと違ったのは、ズボラして枕元の灯りを点けなかったこと。そしたら寝床に戻る際に蹴つまずいて、ベッドサイドに置いたキャビネットの角っこに顔面を強打。まるでパッキャオのパンチを喰らったように、頬骨のあたりから出血して、痛みのあまりそのまましばらく、うずくまるほど。

仕方がないので家内を起こし、赤チンを塗ってもらいました。恐る々る鏡を見たら、案の定そこには、負け試合直後のボクサーが。朝になっても痛みがひどいようなら、病院行きかと心配しましたが、幸いただの打撲で済んだようです。ただ、軽く眼底出血したようで、明るいところで蚊が飛んでいるように見える「飛蚊症」状態。これも次第に薄くなって、今ではほとんど気にならなくなってます。

そして最後が、調理中の怪我。最低でも月に一回は作っているお好み焼きで、キャベツを刻んでいる時のこと。これもいつもと違って、日本のアマゾンで買って配達してもらった新しいピーラー(皮むき器)のデビュー。すごく切れ味が良くて嬉しがってキャベツの千切りを量産中、キャベツを持っている方の手の小指が刃先触れてしまいました。

これが、ほとんど痛みを感じなかった割には、自分でも驚くほどの出血。大急ぎで洗浄して、バンドエイド二枚で止血。そのまま調理は続けましたが、後になってジンジンする痛さ。傷口は小さくて目立たないほどなのに、相当深く切っていたらしい。ただ、擦過傷と違って、数日で傷は塞がりました。

というわけで、いろいろ痛い目にあったので、今年の抱負は「無理をしない」に決定。それでなくても医療面で不安材料の多いフィリピン。いくら若く見えても、不注意からの怪我や病気は避けた方が吉。フィジカルな面だけでなくメンタルも同様。旧正月も早々に、言い訳から入ってしまいました。でもこのブログは、もうちょっと頻繁に更新しますね。1ヶ月以上も放置したので、一応ネタはいくつかありますので。



2024年1月4日木曜日

フィリピン・パナイ島の大停電

 遅まきながら、新年明けましておめでとうございます。

最後に更新したのが昨年の12月14日。かれこれ3週間の放置になってしまいました。一旦間が空いてしまうと、なかなか再開できないんですよね。今年はもう「週間ネグロス島移住日記」にしようかと思ってます。本当に毎日書いてた時期もあったんですが、さすがに10年以上になるし、生活スタイルも安定し切っているので、そうそうネタもないんですよね。

それにしても日本では、年明け早々から地震に飛行機事故。これは驚きました。ここフィリピンでもテレビやネットで大々的に報道。久しぶりにNHKワールド付けっ放しでテレビの前に釘付けになりました。

通常は、アナウンサーもスタジオも海外向けの英語版なんですが、この手の大災害の場合は、日本国内向けの放送が同時通訳付きで配信されます。なのでネットで話題になった、アナウンサーの意図的な感情的で命令・断定口調のアナウンスが背後に聞こえておりました。これも驚きましたね。東日本大震災時の教訓からということで、確かに遠く離れたフィリピンにいても「これはタダ事ではない」感がひしひしと伝わってきて、ちょっと怖かったほど。

そして立て続けの羽田空港での日航機炎上事故。こちらはNHKではなく、たまたま家族が見ていたCNNフィリピンのニュースで知りました。燃えながら着陸する旅客機の映像はあまりにショッキング。でもすぐに乗員乗客が全員脱出との報が入り胸を撫で下ろしたり。その時はまだ海上保安庁の飛行機の乗員についての情報がなく、後になって6名中5名が亡くなり、地震のあった能登半島への救援物資を運んでいたと知りました。実に辛い話ですね。

さらに、これまたネットで騒ぎになった、日航の事故に関する記者会見。普通これだけの事故で乗客を無事避難させたんですから、まずは驚きや賞賛があって、日頃の準備や訓練について深掘りするはず。ところが大手新聞の記者からは、まだ調査も始まってないのに、糾弾じみた質問がばかりだったらしい。おそらく記者たちの頭の中には、まずセンセーショナルな見出しがあって、それに沿った言質を取りたいということなんでしょうね。日本の新聞が軒並み発行部数を減らしているのも、然もありなんという気がします。

それに比べて、ここフィリピンでは例年通りの正月を迎えて...と書きたいところなんですが、1月2日、私たちの住むネグロス島の隣島パナイで、大規模な停電が発生。数時間程度の局所的停電はブラウン・アウトと呼ばれ、多い時には、1ヶ月に数回程度はあります。ところが今回は、広域停電のブラック・アウト。しかも24時間以上も続き、これを書いている1月4日午後も全面復旧には至らず、パナイ島の学校は臨時休校。数百万もの人々に影響が出ていることを考えると、地震や航空機事故に匹敵するインパクトです。


エアコン・扇風機が使えないため
屋外で涼むパナイ島イロイロ市民
出典:ABS-CBN

ここネグロスもまったく影響がなかったわけではなく、停電が始まった時間帯には、突発的な電圧の低下がありました。完全な電力停止まではいかなくても、照明が急に暗くなったり扇風機の回転数が落ちたり。しばらくの間は、いつ停電になるのかとヒヤヒヤ。

厄介なのは、複数の発電所が停止したことの原因が、まだ分かってないこと。西ビサヤのリージョン(日本の近畿や関東のような「地方」に相当)レベルの大停電なので、原因究明できてないということは、ひょっとするとネグロスにも波及するかも知れません。台風や地震があったわけでもないのに、勘弁してほしい。

ということで、気分的には暗くなりがちではありますが、1月2日には、家内が早々の初出勤で、3日からは息子も元気に高校へ登校。今シーズンは二人ともクリスマス前から休みだったので、ほぼ10連休。やっとそれが終わって、私の弁当作りも通常運転に戻りました。12月の一時的な天候不順もすっかり回復し、安定した乾季の夏空が続くネグロス島の年始です。