2023年12月14日木曜日

お試し介護移住 その4「誰にでもお勧めではないけれど」

 これまで3回に渡って投稿してきた、両親のお試し介護移住シリーズ。今回は最終回です。

いろいろあった15日間のフィリピン・ネグロス島滞在ですが、通しで見ると、まぁ上出来だったと思います。暑さには少々文句も出ましたが、父母のために用意したゲストハウスは、居心地が良さそうだし、食事も特に問題なし。毎日、お気に入りの嫁や孫と話ができて、若干の認知症気味の母も、明らかに表情が豊かになり、笑顔が増えました。これは私の感覚だけでなく、日本から付き添ってきた弟もそう思ったようです。

滞在中、たまたま家内の誕生日が重なり、例によって親戚を招いてのホーム・パーティ。ある程度の予想はしてたものの、家内の父、弟とその家族、叔母、従弟、誰もが母を見る目の実に優しいこと。特に比較的年齢の近い、70代の叔母には、数年前に夫を亡くしているせいか、母の食事の介助をする父の姿が、何とも微笑ましく見えたらしい。

ちなみに、一日だけ州都バコロドに出掛けて、外食やショッピングをした際に使った車椅子は、従弟のパウロが手配してくれました。彼は本職の看護師なので、そういう分野でも頼りになります。また、レストランやショッピングモールでも、店員の対応がとても手厚い。やっぱりフィリピンの良さは、なまじっかのお金を持っていたり、若くて元気な時より、他人の助けが必要になってから、実感しますね。

そんなこんなで、帰りの飛行機も遅延や欠航もなく、往時と同じく家内が同行して無事帰国。その家内も、数日の日本観光を楽しんで、12月の始めにネグロスへ戻ってきました。心配していたマニラでの乗り換えもスムーズだったとのこと。

さて、80代になってからの海外移住。一般論としては、もちろん誰にでも勧められるわけではありません。まず、飛行機に乗ることすらできないほど認知症が進んでいたり、完全に寝た切りになってからは、まず無理でしょう。そして、本人たちがそれを望まないことには、何も始まりません。

事の経緯をまったく知らない人からすれば「そんな高齢の日本人が海外移住なんて不可能」と決めつけそうです。実際、この話を日本でしたら、大抵の人はそういう反応。それどころか、高齢者ではない普通の海外移住でも、足下に「不可能」と断じてしまう人が多いのも事実。私も40代の頃に、散々言われたものです。かつての上司など「出来もせんことを吹聴するな」と怒り出したほど。

しかしながら、少なくとも飛行機に乗るぐらいの体力が残っていれば、いくつかの条件をクリアすることで、日本よりも快適な余生を送れそうというのが、今回のお試しを通じての私の感想。

快適な住まい、食事、介護する側との良好な人間関係さえなんとかなれば、寒い冬がなく、社会全体として高齢者に優しいフィリピンは、老後を過ごすには悪くない場所。もちろん経済的な裏付けは重要ですが、現在70〜80代で、それなりの年金を貰ってる世代なら、少なくとも物価の安いネグロス島なら大丈夫。

唯一のリスクは、容態が急変したような場合。残念ながら、生死にかかわるような状況だと、日本には比ぶべくもないフィリピンの医療レベル。両親の場合は、もう十分に生きたから、延命治療など不要と明言しているので、その点は「これも寿命」と割り切れます。そもそも、お金がかかりすぎて、植物状態で生かし続けるなんでできないでしょう。

というわけで、まだ詳細な時期は未定ながら、おそらく来年2024年には、両親の本格移住という運びになりそうです。



2023年12月11日月曜日

お試し介護移住 その3「やっぱりストレス」

 前回からの続きで、両親の介護移住について。

お陰さまで無事、日本からフィリピン・ネグロス島の家に到着した父母。かつて住んでいた日本の実家を再現した、一戸建ての2LDKも気に入ってもらえたようです。再現したとは言え間取りのみなので、木造の安普請だったオリジナルに比べると、鉄筋コンクリートだし天井も高め。建築が仕事の父は、すぐに意図を理解しましたが、それでなくても認知能力がやや下がり気味の母は、イマイチ分かっていないらしく「えらい豪邸や」と感心するのみだったのには、一抹の寂しさ。

さて、住まいに関しては、一応の合格点だったと思いますが、問題は気候や食事、その他の細々とした日常生活について。

寒くなってきた11月の日本から、日中の最高気温が普通に30度を超えるネグロスだし、飼い犬のゴマは無駄吠えが多い。体調崩すんじゃないか、眠れないんじゃないかとの私の心配を他所に、二人ともよく食べるし、睡眠も問題ない様子。もちろん80代の後半なので、食べる量は大したことはないけれど、肉・魚・野菜。皿に取った分はきれいに平らげ、好き嫌いがないのは助かります。さすが子供の頃に食糧難を体験した昭和十年代生まれ。

まぁ食事に関しては不肖の息子である私が、それなりに日本的な献立を毎日用意しているので、大丈夫だろうとは思ってました。食事の次に気になってなのは、NHKを始めとする日本のテレビ放送が視聴できないこと。NHKの日本語放送が受信できるスカイ・ケーブルが来ているのは、隣街の州都バコロドまで。

ところが昨年の私の一時帰国の際、実家のテレビにクロームキャストを接続しておいたのが功を奏して、父はユーチューブのニュースや、ネットフリックスの映画などは、自力で見ることができる。むしろ、同じ機材が揃っているテレビを見て、大喜びしたぐらい。母も最近はNHKの朝の連続テレビ小説も見ないし、紅白にも興味なし。

他には、シャワーで使うようにと、わざわざ日本のアマゾンで購入した、浴室専用の椅子も結局不要だったりで、事前にあれこれ悩んでいた件は、概ね杞憂。危うくトイレに手摺りを取り付けてしまうところでした。

たった2週間余りの滞在だったので、本格的な移住となったら、これ以外の問題がいろいろと顕在化するんでしょうけど、どっちかと言うと大変だったのは、受け入れる側の私の方。よく二世帯居住では、水回りを分けることが肝要なんて話を聞きます。我が家の場合は、水回りどころか、完全に分離独立した家二軒。ここまでやっても、やっぱり私にはストレスがかかりました。

まぁ、ほぼ10年も家族三人だけで、一般的な日本の住宅に比べれば、かなり広い家に慣れてしまったせいでしょうか。実の親であっても、自分のテリトリーに二人が加わるだけで、心理的には負担があるものらしい。さらに、「美味しい美味しい」と食べてくれる食事も「きちんと用意しないといけない」なんて変な義務感が生じてしまい、最後の方はちょっと疲弊気味でした。う〜ん、これは力み過ぎたようです。

このブログの読者の中には、身内の顔さえ分からなくなったガチの認知症や、まったくの寝たきりになってしまった親御さんを、介護されている方がいらっしゃるかも知れません。たとえ健康だったとしても、人間関係が上手くいかず、精神的に疲れ切ってしまうケースもあるでしょう。それに比べれば私の両親は、はるかに扱いやすいと言えそうです。

ただ、子供の頃から圧倒的に接する機会が多かった、元来すごいお喋りだった母は、会話を成り立たせるのが困難な状況。素直に言うことは聞いてくれるし、自分の置かれた状況は理解しているとは思うものの、向こうから話しかけることはありません。

これに対して、身体も頭もまだまだ大丈夫な父。弱ってしまった母を積極的に面倒を見てくれるのは大助かりな反面、若い頃から相変わらずのコミュ障ぶり。例えば、一言「散歩に行ってくる」と言えばいいのに、黙って一人で出掛けて小一時間も帰ってこなかったり。職場ではちゃんと会話していたのに、なぜか家族を相手にすると、コミュニケーション能力が半減しちゃうようです。

こういう状況について、その都度目くじらを立てていては身が持たないし、今頃になって父の性格が変わるはずもないので、こちらの対応を改めるしかなさそうです。つまり、自分でできることはやってもらうということ。独立した台所もあるので、朝食ぐらいは両親で完結してもらうほうが良いでしょう。毎度の上げ膳据え膳では、私も疲れるし両親も居心地が良くなさそう。これは夫婦でも同様で、同居していても、それなりの距離を取るのは、とても大事なんですね。

そして大きいのは、家内の存在。平日の昼間は働いているけれど、夕食は全員一緒。自分から両親へ話題を振る配慮があり、両親もそんな義理の娘に心を開いています。一般的にフィリピンでは、年寄りに優しく介護も自宅でというのが当たり前とされてますが、家内の態度を見ていると、なるほどなぁと感心します。もちろんフィリピンでも、不仲な嫁姑はいくらでもいるので、これは持って生まれた、家内の人徳なんでしょうね。

ということで、まだまだ改善の余地が大有りのお試し介護移住。それでも来年以降(時期は未定)の本格移住に向けて、だいたいの感触がつかめました。次回も続きます。



2023年12月5日火曜日

お試し介護移住 その2「問題は飛行機」

 前回の続きで、今回は高齢両親のフィリピンへの渡航について。

まだ母が元気な頃から言ってたのが「飛行機に乗る体力が残っているうちに、移住してや。」ということ。空港に到着さえしてくれたら、どうにでもなるし、もう両親専用の一軒家も竣工済み。介護士や看護師を、何なら住み込みで雇っても、日本に比べればまだまだ人件費の安いネグロス島。ちなみに今働いてもらってるメイドのグレイスおばさんは、看護学校を卒業してます。

逆に言うと、飛行機に乗ること自体が最大の難関。遅延さえなければ、朝に関空を出発して、夕方には西ネグロスの玄関口バコロド空港に到着までの道のり。健常者ならちょっと疲れる程度でも、長時間ベンチで待たされたり、介助が必要なトイレ使用のことを考えると、なかなか難しいことが想像されます。

そこで最初に弟が出したのが、豪華客船に乗せる案。これなら数泊かかってもホテルに泊まってるようなものだからと思いついたらしい。でも考えてみれば、そんなに便数があるものでもないし、最寄りのバコロド港に着く船なんて、フィリピン国内のフェリーか貨物船ぐらいのもの。おそらくマニラからは飛行機になるので、これではあんまり意味がない。

結局は、当たり前にマニラ経由の飛行機になったものの、せめて少しでも快適にと、国際・国内共にPAL(フィリピン航空)のビジネスクラスを予約。そうすれば、サービスの質が世界最悪レベルのマニラのNAIA(ニノイ・アキノ国際空港)でも、荷物の乗せ替えは楽だし、マブハイ・ラウンジが使える。国内便延着で、とんでもなく待たされたりすることもありますからね。

さらに手厚く、往復をフィリピン人の家内が母に付き添うことに。というのは、トイレの介助となった場合、いくら息子とは言え、私や弟よりも女性の方がいいだろうし、実は以前、母が骨折して入院した際、入浴の手伝いに、家内が毎日病院に通ったという経緯がありました。この時までは「フィリピン人の嫁なんて」と嫌悪感を露わにしてた母が、「うちの嫁は、ええ嫁や」と急転直下の手のひら返し。以降「癒し系嫁」などと呼んで、ずいぶんな可愛がりようなんですよ。

とまぁ、みんなで散々心配しまくって用意した、日本〜フィリピンの往復飛行。最終的には、弟まで同行した気の使いようなのに、蓋を開けてみれば、ほとんどこれと言ったトラブルもなく、あっけなく完遂。何と言ってもどっちの国でも助かったのが、車椅子利用者への優遇ぶり。「いつも最初に乗り降りできるので、楽ちんだったよ。」とは、家内の弁。

トイレも母一人で済ませたようだし、元々食べ物の好き嫌いがまったくない。案ずるより産むが易しとは、まさにこのこと。バコロド空港に車で迎えに行ったら、母は、車椅子に座ってはいても、実に元気そうに笑っていて、ちょっと拍子抜けです。

ただ後で聞いた話では、日本では父以外、誰とも顔を合わせず会話もない生活で、ずいぶんとショボくれてたらしい。それが家内が到着した途端、表情が明るくなったんだとか。有難いというか、分かりやすいというか。

ということで、なかなかいい感じで滑り出したお試し介護移住。さらに続きます。



2023年12月2日土曜日

お試し介護移住 その1

 もう1ヶ月以上もブランクを空けてしまいました。ざっと40日なので、まるで日本の夏休みですね。申し訳ない。結局11月は完全スルーで、気が付いたらもう12月。まぁフィリピンにいると、寒くなるわけでもなく、クリスマスの飾り付けは下手すると9月からやってるので、まったく師走という感じはないですけど。

なぜこんなに長くブログを書かなかったかと言うと、実は日本から高齢の両親が来て、しばらく滞在していたんですよ。執筆の時間を捻出できなかったわけではないけれど、やっぱりいろいろ疲れてしまって、なかなかブログを開けないまま、ズルズルと。

さて、父は87歳で母は86歳。後期高齢者もいいところ。最近の日本では元気な爺さん婆さんが多く、人によっては元気過ぎて「老害」「迷惑老人」なんて呼ばれても、さすがに90が迫った両親は、見た目も振る舞いも正真正銘の老人。

この両親をフィリピンの我が家に受け入れて面倒を見ようという計画は、ずいぶん前から練っておりました。そのための2LDK、通称ゲストハウスを自宅敷地内に建てたのが、もう4年前。ご丁寧にも、両親が新婚当時の60年以上前に住んでいた家の間取りを再現し、少々ボケても大丈夫なように配慮した一軒家。

ところが、皆さまご存じのコロナ禍の襲来。飛行機は飛ばなくなり、移住どころか、日本でもフィリピンでも、高齢者は外に出ることすら御法度。まるでそれにタイミングを合わせたかのように、それまでうるさいぐらい元気で、父と一緒にゴルフを楽しんでいた母が、急激に弱ってしまいました。とうとう歩行さえままならぬ状況になって、介護施設に入所したのが、2年前の冬。

この間、私もフィリピンから出られなかったので、身の回りの世話は、文字通り老老介護で父が行い、その他の段取りはすべて弟に任せっきり。もちろんLINEなどで頻繁に連絡は取り合っていたとは言え、この隔靴掻痒感は並大抵ではありませんでした。だから、足腰の立つ間に、早くフィリピンに来てと頼んでたのに。

このまま寝たきりになって、結局、母のために用意したゲストハウスにも住めないままかと、半ば諦めていた昨年(2022年)、ちょっとした奇跡が起こりました。

何と、要介護3(着替えや入浴、トイレに助けが必要な状態)から、施設を退所しても大丈夫なレベルまで回復したというのです。聞くところによると、ゆっくりながら歩くこともできて、食事の量が足りないと文句を言うほど。これにはケアーマネージャーさんも「こんな人は初めて見ました」とのこと。

その年末、つまりちょうど1年前に、ようやく私は久々の一時帰国を果たし、退所直前の母と面会。まだコロナが予断を許さない時期だったので、ガラス扉越しの再会となりましたが、思った以上の回復ぶり。私の冗談に笑顔を見せる余裕もあって、カップ麺やスナック菓子を差し入れて来ました。

その後、弟の尽力もあって、段差を無くしたり手摺りを設置するなど、自宅のバリアフリー工事を経て、めでたく帰宅した母。食事や洗濯は父が引き受けているものの、これで何とかフィリピン渡航の目処が立ちました。いきなり完全移住は無理でも、まずは「お試し」として11月後半の2週間強、両親にフィリピン・ネグロス島での生活を体験してもらおうという運びになったわけです。

前振りだけで長くなってしまいましたので、以降何回かに分けて、15日間に渡ったお試し移住について、投稿しようと思います。ということで、次回に続きます。



2023年10月19日木曜日

味の素と陰謀論

 何かと槍玉に上げられる味の素。私が子供の頃、つまり60年ぐらい前には、もう普通に日本の食卓に普及していて、私の父など、卵かけご飯にも味付け海苔をひたす醤油にさえ一振り。その影響で、私もいろんな料理に使ってます。

その後、AGF(味の素ゼネラルフーズ)の企業努力の結果、日本だけでなく世界中で味の素は広まって、ここフィリピンでもどんな田舎のスーパーや市場でも当たり前に売っているぐらい。日夜、ネグロス島で日本の家庭料理の味の再現に邁進する私としては、キッコーマンの醤油、キューピーマヨネーズと並んで、台所の必須アイテムとなっております。

それにしても、ここ最近のツイッターなどでの味の素に対する謂れ無き誹謗中傷は止まるところを知りません。マトモなサイトや医師、学者によって、味の素が健康被害を与えたという言説は、ことごとく否定されているし、少なくとも私の知る限り、味の素が原因で病気になったなんて事例は見たことも聞いたこともない。

昔から味の素を摂取し続けている60過ぎの私も、後期高齢者の両親も、とっても元気にしておりますよ。

ちなみにネット上でマトモかどうかを判断するのは簡単で、やたら断言口調だったり、煽り立てるような書き方はまず信頼できない。そして論拠となる調査や統計、論文がないものは、文字通りの論外。

商品名を使えないNHKの料理番組で「化学調味料」なんて紹介の仕方をされたり(現在は「うま味調味料」に変更)、見た目が白い粉末というのも、ずいぶんイメージとして損をしている側面はあるものの、成分自体は、グルタミン酸を始めとする自然の昆布に含まれる物質。砂糖や塩と同じく、よほどの過剰摂取(大量に水に溶かしてドンブリに何倍も飲むとか)でもしない限り、害はありません。

でも最近は、「何となく見た目が体に悪そう」という印象があると、それにつけ込んでYouTubeやいろんなSNSで、まことしやかな「味の素・悪玉論」を展開。なんでそんなことをするかと言うと、アクセス数がたくさんあれば儲かるから。おかげで、味の素を使った料理を紹介した料理研究家が、ひどい誹謗中傷を受けたりする。果ては「悪魔崇拝者」とまで呼ばれて、なんで味の素使ったぐらいで、そこまで言われんねん。

まぁ個人として「何となく嫌いで、私は口にしません」なら理解できるし、それは各自の自由。かと言って、他人さんにそれを押し付けるのは、明らかにやり過ぎ。ただ味の素を目の敵にする人って、それだけでは収まらない怖さを感じます。

というのは、以前から味の素が健康に悪いと決めつけてた人物が、今回のコロナ禍でガッチガチの反ワクチン論者になったのを見てるから。どうも、味の素をどう扱うかと、陰謀論にハマりやすいかどうかって、相関性があるんじゃないかとい気がします。単なる見た目からの感覚を、それらしく説明されると、どんなに胡散臭い情報元でも飛びついちゃうんという点では似ているかも。

特定の食材についてのことなら兎も角、それなりに影響力のある政治家や医師免許を持っている人が「対コロナ・ウィルスのmRNAワクチンが免疫力を弱める」なんて妄言を広めるから、本来ならワクチン接種して無事に生き延びるはずの人が亡くなったり、死なないまでも長くツラい後遺症に悩まされたり。そういう悲劇が実際に起こってますからね。これは日本だけでなく、フィリピンでもコロナ禍は陰謀で、実在しないと頑なに信じてる人が、一定の割合で存在します。実に困ったことです。



2023年10月18日水曜日

フィリピンの梅雨明け宣言


梅雨明けだけど秋のような青空

 またまた前回から間が開いてしまいした。自分の誕生日パーティがあったり、来月に控えた高齢の両親の、2週間に渡るネグロス島滞在に備えてリノベをやったりで、何となくバタバタしておりました。

さて、今日のお題。日本の梅雨明けとはかなり様子は違うんですが、先日パガサ(PAGASA / 日本の気象庁に相当する部門)が、南西季節風の時期が終わったとの発表がありました。つまり、インド洋からの湿ったモンスーンによって、大量の雨雲がフィリピン上空に運ばれる季節が過ぎて、今年の雨季は終了というわけです。

もう10年も住んでる割には、この梅雨明けを意識したのは初めて。そう言われれば、年末頃って比較的涼しい晴天が多い気がしてましたが、こういう理屈だったんですね。とは言え、4〜5月の一番暑い真夏から、急転直下、ある日突然大雨になる梅雨入りに比べると、そこまでのコントラストはありません。10月から11月は、台風も来るし夕立も多い。まぁ、終日の雨がないだけ過ごしやすいし、良い季節ではあるんですけどね。

南西季節風は、フィリピンの言葉でハバガット(Habagat)というそうで、それに対して、これからは北東季節風アミハン(Amihan)が、吹く乾季。要するに方向が違うだけで、年中モンスーンが吹き荒れている。ほぼ毎日、広大なサブディビジョン(宅地)を、健康維持のために自転車漕いでいるので、風向きには敏感になります。確かにここ数日で風が変わり、帰路が向かい風に。トータルの疲れ方は同じでも、帰りがキツい方が余計に体力を使ったような気になります。

遠く離れた日本とフィリピン。季節の変化は無関係なように思えますが、地図で見ると、海を挟んでいるだけの隣国のようなもの。日本でもだいたい時を同じくして、長かった酷暑から、急に冷え込み出したとの話題が。「地球の風」というアプリで見ると一目瞭然で、元々アミハンは、日本に秋をもたらす大陸からの風が、巡り巡ってフィリピンに届いています。なるほど、だからネグロスでも晴れて乾燥した気候になる。

おかげで、サトウキビの焼畑の時期と相まって、時ならぬ花粉症に悩まされているのは、前回の投稿した通り。こっちで入手できる風邪薬で症状は抑えられるし、本物の花粉症の激しい症状に比べれば、全然大したことはありません。

それにしても最近の日本。もはや四季ではなく二季の国になったようです。ネットからの情報だけなので、実感は伴わないとは言え、SNSなどでの友達の投稿を見ると、数日前まで30度越えの真夏日だったのが、いきなり朝晩は長袖のシャツがないと寒いとのこと。こりゃ、風邪も引き易くなるだろうし、メンタルにもあまり良い影響は出ないでしょう。寒暖や気圧が短時間で極端に変わるのが、一番堪えますから。

ということで、年間の温度差があんまりないという点では、日本よりも格段に穏やかで過ごしやすいフィリピンの気候。ごく僅かながらの季節感がある10月です。その10月も半ばを過ぎ、そろそろハロウィンも近づいてまいりました。今年はハロウィン前日がバランガイ(最小行政単位で、町内会みたいなもの)の選挙。18歳になった息子が、投票デビューとなります。



2023年10月9日月曜日

雨季なのに熱波・フィリピンなのに花粉症

 10月に入った頃から、ここネグロス島では妙に暑い日が続いてます。大雑把にフィリピンでは、4〜5月が乾季で真夏で6〜10月が雨季。そしてそれ以外は、比較的過ごしやすい涼しい乾季ということになってます。5月末か6月の初め、乾季から雨季への切り替わりは明確で、うだるような暑さ(最近の日本の酷暑よりはだいぶマシですが)から一転、連日の土砂降りというパターンが多い。これに対して、雨季から涼しい乾季は、これといった線引きはありません。

今年の場合、まるで5〜6月の梅雨入りの逆の如く、10月に突然暑くなってしまいました。唯一の救いは、本本格的な乾季と違って、夕刻や夜間にまとまった雨が降ること。そのお陰で、就寝時には気温が下がり、寝苦しいというほどでもない。ただ、毎日必ず降る保証はなくて、雨のなかった昨夜など、久しぶりにスリープ・タイマーでエアコンを使いました。ちょうど今、体育の日の日本では、ダラダラと続いた残暑から急に冷え込んで、体調崩したりメンタル不調を訴える人が多いとのことですが、気温は逆でも、やっぱり体には良くないパターン。

さて、10月の3日に61歳の誕生日を迎えた私。当日は火曜日だったので、親戚が集まってのパーティは、土曜日のランチタイム。もう還暦祝いでもないし、別にしてくれと頼んだわけではないんですが、そこはパーティ大好きなフィリピンの人々。しかも私が作る「日本っぽい」料理は人気があるので、こんな機会を見逃すはずがありません。

我が家のメイド、グレイスおばさんの勤務日は週三回の月・水・金。本来は休みの土曜日ながら、パーティではいつも大量の料理と、食後の洗い物が大仕事。なので、特別に休日出勤してもらいました。朝から熱帯の日差しが照り付けて前日同様の暑さの中、何と、選りに選って料理が佳境に入った午前11時前に停電。すぐに発電機を起動させて、炊飯器で定番メニューのピラフ(炊き込みご飯)の調理開始。ところが先日の修理以来、イマイチ電圧が安定しません。

困ったことに、まだ米が固い状態で、炊飯器の電源が切れたり入ったり。仕方がないので、生煮えのご飯を鍋に移し替えて調理続行したんですが、そこは慣れない鍋炊飯。炊き上がったら底に焦げついた米がごっそり。何とかピラフは食卓に出せたので、まぁいいか。ちなみに扇風機や冷蔵庫は、問題なく稼働。


発電機の音はちょっと耳障りながら、家族と親戚が揃ってのランチ・パーティは無事に終了。3時頃には電気も戻り、夕刻にはお客さんたちに、満腹・満足で帰っていただきました。やれやれと思ったら、今度は私の体調に異変。ネグロスにいるのに、なぜか花粉症のように、くしゃみと洟水が止まらなくない。

スギ花粉はない代わりに、島全体を覆うように栽培されるサトウキビ。年に2〜3回の収穫後に焼畑をやるんですよ。焼畑の時期になると約一週間ほどは、近くで焚き火をするように、焦げ臭い空気が充満。日本ではほとんど花粉症には悩まされたことがなかった私なんですが、どうもサトウキビの煙とは相性が良くないらしく、数年に一度は、鼻が大洪水。

実は、ちょうど今がその焼畑シーズンで、数日前にも発症。特に今回は、暑くて乾燥しているので、煙の拡散がいつもより激しいのかも知れず、日本から持って来たコンタック600を使い切ったところ。

さてどうしようかと考えて、ダメ元で家内が常備しているフィリピンの薬局で買った風邪薬を服用してみたら、これが意外にも効果抜群。デコルゲン(Decolgen)という、一般的な市販薬。効きめは、コンタックをマイルドにしたような感じ。眠気はそんなに強くなく、1回1錠で1日3回だそうですが、1錠で約24時間は効くようです。薬の効果や副作用は個人差が大きいので、飽くまで私の場合ですが。

翌日の日曜日は、いつものように私のイロンゴ語レッスン。今週はエイプリル嬢が来る予定が、突然の変更で叔母のバンビが。前日の暑さと停電で扇風機が使えず、エイプリルの小一の息子さんが、発熱しちゃったそうです。我が家の周辺では午後3時だったのが、エイプリルの家では、電力復旧が夜までかかったらしく、つい先週、12時間もメンテナンスで電気止めた上に、台風でもないのに長時間停電。エイプリルもバンビも、電力会社への怒りが収まらない。

ということで、予想外の気温の変化は、フィリピン人にも日本人にも、いろいろとトラブルの元になるようです。


2023年10月2日月曜日

日本が動き始める予感

 外国に住んでいる方が日本のことが客観的に見られる、なんて言われますが、国内にいる人のほとんどが感じてるんじゃないかと思うのが、日本の行き詰まり。「失われた10年」だったはずが気がつくともう30年。私やその上の世代なら、失われる前の「行け行けドンドン」の時代を知っているけれど、今の30代前半ぐらいまでの人たちって、物心ついた時から失われっぱなし。この閉塞感が当たり前なんですよね。

収入が増える見込みはないのに、税金と保険や年金の重圧だけはのしかかる。しかも40代以上の、声だけはデカくて異様に元気なオっさん供が、社会全体を牛耳っていて、どっちを見ても良い方向に変わる気配すらない。政治にも期待できない。そりゃ頑張って家庭を持って、子供を産み育てようと思わなくなるのも、無理はありません。少子化は必然。

なので私は、定年を迎える10年前に精神的な限界を迎えてしまい、トットと国外逃亡を図って、家族と一緒にフィリピンに住んでいるわけです。とは言え、母国が没落してゆく様を見て嬉しいはずもなく、移住してからもずっと心の端っこに、魚の骨でも引っかかったような嫌な感じは続いてました。数年後の年金支給も当てにしてますし。

ところがここ数年ほどで、それまで微動だにしなかった状況が、俄かに動き始めました。代表的な例を上げると、まずはただいま大騒ぎ中のジャニーズ事務所の性加害スキャンダル。典型的な「黒船案件」で、イギリスBBCが制作した告発ドキュメンタリーが発端。あっと言うまに火が燃え広がって、遂にNHKやその他の放送局でも番組にジャニーズのタレントを使わない方針を発表。

この件は、大手新聞社や放送局の衰退が背景にあるのは間違いないでしょう。購読者数は激減し、テレビの視聴率も上がらず。企業広告は新聞・テレビの旧態依然たるメディアからネットへ大幅にシフト。

さらに驚いたのが、昨年の元首相暗殺に始まる、統一教会の政治からの影響力排除の流れ。当初は「統一教会」の名称すら報道を躊躇っていたNHKも、さすがに黙殺できなくなったほどで、当の政治家にしても教団との関係を断たないと選挙で負ける、という所まで追い詰められたんでしょうね。とうとう教団に対する解散命令が出そうな情勢。

決定的なのが、元明石市長の泉房穂氏の登場。登場と言っても、明石市政を担って12年で、すでに政治家は引退と表明済みなんですが、退任後の半年ほどで、各地の知事・市長選の応援で、連戦連勝の勢い。そのどれもが、既製政党や業界団体の支持に頼らず、というか敵に回してなお圧勝。従来の、組織票なしでは選挙に勝てないという常識を打ち破って、正真正銘の市民派首長を次々に誕生させています。

それぞれの事象は別々に起こっていても、私の目からすると30年間も押さえつけられ、期待を裏切られ続けた人々の情念が、火山のマグマが地殻を突き破って噴火しているように見えます。正確には、まだ大噴火には至らない、活発な火山性微動の段階かも知れませんが。

ここまで延々と書いた事に共通するのは、無理だ不可能だ、変わるわけがないと考えられていた状況が、実はきっかけさえあれば、意外なほど容易く変化してしまうということ。明治維新もこんな具合に進行したのかと思うほどです。戊辰戦争が起こる直前に、当時の市井の人々に「江戸幕府は無くなると思いますか?」と聞いたら「そんなアホな」と一笑に付されたであろうと同様に、一昨年頃、これらの変化を予測した人は、まずいなかったでしょう。

ついでに言うと、実に時流に敏感な日本人。西郷隆盛さんは、大政奉還の後も何年も戦火が続き、日本が焦土となるだろうと思ってたのが、案に相違して幕府と共に最後まで戦ったのは、会津藩などの少数派のみ。関ヶ原然り、第二次大戦の集結後然り、大勢が決まったとなった瞬間に、コロっと態度が変わる。ディスっているのではなく、犠牲を最小限に抑えつつ社会の大変革が可能な、世界でも稀有な国民性だと言いたいのです。

そして私には、その流れの延長線上にあると感じられるのが、フィリピンを始めとする海外への英語留学者のと海外で働く若者の増加。日本からの転職組だけでなく、大卒から国内就労を経験せずにいきなりフィリピン、という人も結構おられます。もちろん全員が大成功してるわけではないし、やむを得ず帰国するケースもありますが、多くの人が「苦労をしても、日本で働くよりはずっと楽しい」と感じているらしい。すごくよく分かります。

人生の選択肢は日本の外にだってあると、多くの人が気付けば気付くほど、逆に国内の居心地を何とか良くしようとの動きも、出てくる可能性があります。これは予想ではなく、私の願望なんですが。というのも、今は私も家族も健康で経済的にもそこそこの余裕とは言え、さすがに還暦も過ぎると、この先何があるかは分かりません。それを思うと、日本に帰国しても何とかなるという選択肢は、あった方が良いに決まってます。

ということで、久しぶりに(と言うか、このブログでは初めて?)日本の将来に悲観的ではない投稿をしてみました。



2023年9月27日水曜日

運転免許更新の顛末

 行ってきました、フィリピンでの運転免許更新。

マニラ首都圏やセブなど大都市に比べるとまだマシとは言え、身の危険を感じるレベルの運転マナー。隣街のバコロドへドライブするだけでも、すごいストレスで疲れ果ててしまいます。本当はこっちでハンドル握りたくないものの、自家用車を運転できないと、不便この上ないネグロス島。

タクシーにGrab(ライドシェア)、路線バスやジプニー(小型乗り合いバス)、トライシクル(オート輪タク)など、用途に応じた交通機関はあって、最近はジプニーが電動化してきれいになったりもしてるんですが、如何せん、深夜はほとんど運行してないし、スケジュールが至ってエエ加減。雨が降ってたりすると、どれも全然つかまらないので、急いでる時など、本当に困ってしまいます。

ちなみに私のフィリピンでの免許歴。移住直後の2013年に、日本の免許を書き換えました。これが実に面倒で、何日も待たされた挙句、やっとバコロドの陸運局(LTO / Land Transportation Office)に行ったら、最後の受け取りの段になって「日本大使館から許可証が必要」とか、まったく訳の分らない要求。つまり、免許証渡して欲しかったら賄賂を寄越せってことらしい。この時は、関西訛りの英語でまくし立てて、余分な金を払わずに免許を手にすることができました。

その後2回更新したんですが、直近のは、カードのプラスティックが入手困難になるという、これまた訳の分からないトラブル。ネグロスだけでなくフィリピン全土で同様の事態だったそうで、カードができるまでの約1年間は、紙に一部手書きの代用免許証を携帯してました。

そして来月、(2023年10月)私の誕生日で切れる免許有効期間。何と、プラスティック不足はまだ続いている上に、オンライン化して10年間有効になったのは良いけど、なぜかオンラインで適正検査みたいな試験があって、さらに不可解にも、それをプリントアウトして最寄りの陸運局に持っていくというプロセス改変。うわぁ面倒臭ぁ。

こういう時に頼りになるのが、何かとフィリピン人離れした実務家肌の家内。LTO同様に政府機関である教育省勤務のアドバンテージをフル活用して、バコロドのLTOで管理職をやってる、高校の同級生に手を回してくれました。家内だけではなく、オフィスでは常套手段なんだそうです。

その結果が、事前に免許を渡しておいて、2週間ほどで「できたよ〜」との連絡。窓口まで行って携帯メールしたら、間もなく名前を呼ばれ、その場で写真撮影して即日交付。30分ほどで10年免許ゲット。本来必要な各種書類提出やメディカル・チェックもなし。ついでに手数料の支払いもなし。


相変わらず人が多い
ショッピングモール内のLTO窓口

その同級生に直接2,000ペソは払っているので、もちろんタダではないけれど、これはどう考えたって裏取引。まともにやっても1,000ペソぐらいはかかるので、そんなにボラれたわけでもないし、下手すれば早朝から夕刻まで待たされることを思えば、安いとさえ言えるんですが、やっぱりちょっと後ろめたい。実際、よほど待たされてるのか、何人かのオっちゃんたちがブチキレて、窓口で喚いてましたから。

ということで、完全に贈賄側にまわってしまって、偉そうに非難できる立場ではないものの、やっぱりこういう部分が、どうしようもないフィリピンの後進性。特にドゥテルテさんが任期を終え、ボンボン・マルコスが大統領になってからというもの、せっかくの綱紀粛正の流れが止まって、国中が ユルみまくってる感じがします。


3ヶ月で壊れたポータブル・バッテリー

 前回の続きで、やたらとモノがぶっ壊れるフィリピンのお話。今日は電気周りの製品について。まずは、毎度お馴染みの停電時に使うガソリン・エンジン式の発電機。

前回投稿でも触れた通り、今使ってる発電機は2代目。最初のはディーゼルエンジンで、温水シャワーもエアコンも使えるほどの大容量だったんですが、電気式スターターを選んだのが失敗。すぐにバッテリーが上がってしまい、肝心な時に動かない。手動でワイヤーを引っ張って始動もできるはずが、なぜかこれがダメ。しかもフィリピンで(!)近所から苦情が来るほどの騒音。結局、何度も修理した挙句に、5年ほどで安くに転売してしまいました。

それに懲りて、3年前、裏庭にゲストハウスを増築した時に買ったのが、やや小ぶりのガンソリ式。これを母屋とゲストハウスに1台づつ設置しました。小ぶりとは言っても、温水シャワーとエアコン以外はカバーできる程度の電力はあって、冷蔵庫・照明・扇風機・インターネットはすべて同時使用可。音もディーゼルに比べると、静かとまでは言えないけれど、まぁまぁ許容範囲。その時の投稿がこちら。(ダブル発電機・設置完了

ところが使い始めて2年ぐらい経った頃に、まず1台が突然の異音。見に行くと盛大にガソリンが漏れ出してます。慌ててエンジンを止めて、購入したお店に修理依頼。この時は、担当のフリオ君がすぐに来てくれて、部品交換とエンジンオイルの入れ替えで解決。ちなみにフリオ君は、フィリピンではなかなか得難い、信頼できるセールス・エンジニア。専門は配管関係で、加圧ポンプの修理もフリオ君にお願いしました。

そして先月。今度は同時購入のもう一台がまったく同じ症状でダウン。ガソリン漏れって見てて心臓に悪い。ちょうど今、日本で毎日のように報道されている、京都アニメーションのガソリン放火による殺人事件が脳裏をよぎります。

今回は、前に来てくれたフリオ君の同僚で、発電機担当の人が店を辞めちゃったので、自分で車に積んでの持ち込み修理。ちょっと手間はかかりましたが、前回同様すんなり治って、費用も部品代のみの僅かな金額。

と、ホッとしたのも束の間。なぜかこの手のトラブルは続くもの。今年(2023年)5月の初めに購入したポータブル・バッテリーがトラブル。これは、短時間の停電の時、パソコンとインターネットだけ稼働させるためのもの。ソーラー発電にも対応してます。

発電機があれば不要と思われそうですが、どうしてもエンジン回すとうるさいし、雨が降ってる時など外へ出て発電機を始動させるのって、結構面倒なんですよね。さらには、何日も電気が止まるような事態への備えの意味もあります。一昨年のセブでは、台風被害で3ヶ月ぐらい停電が続き、ガソリンも入手困難になったそうで、携帯電話の充電にさえ困ったと聞きましたから。

さて、このポータブル・バッテリー。まだ購入後3ヶ月弱しか経ってないのに、フル充電して扇風機回したら、1分も持たずにストップ。ここまで分かりやすいトラブルなら、新品交換かと思って持って行ったら、交換ではなく修理とのこと。無条件に交換できるのは、30日以内なんだそうです。半年のワランティー(保証)って、メーカーが交換に応じるって意味じゃなかったのか。それでも1週間後には修理完了で、費用はタダ。一応は使えるようになったので、良しとしましょう。

ということで、発電機もバッテリーも、数万円単位の買い物。インフレが進んで諸色高くなったネグロスでも、決して安い買い物ではないのに、次から次へとぶっ壊れてしまいます。特に水回りと電気は、放っておくわけにもいきませんから、困ったものです。



2023年9月25日月曜日

モノがすぐ壊れるフィリピン

 相変わらず、モノがすぐ壊れるフィリピン。10年前に新築したネグロス島の我が家。工事中は、手抜きや質の悪い建材を使わせないよう、ほとんど付きっきりで監視したにもかかわらず、竣工数年にして毎年のようにどこかが壊れて、修理やら建材の取り替えやらが発生。まぁどれも、住めなくなるような致命的なレベルではないし、平均すると数万円程度の出費で済んでいるので、フィリピンにしては上出来と言えなくもない。

その内容というと、覚えているだけでも、まず2階ベランダの雨漏りに伴う大屋根の新規取り付け。これが一番大騒ぎで10万円以上はかかりました。その後、別の箇所で雨樋が腐食しての部分取り替えに、シャワーブースがぶっ壊れたために、二つあるトイレ/浴室のリノベ。配線周りは、電源スイッチの交換は何回もやったし、最初に買ったディーゼル発電機は5年ほどでスターターの不調で修理後に売却。

上記の母屋だけでなく、3年前に増築したゲストハウスも、翌年からトラブル続き。こっちは建材や設備がボロと言うより、大工さんのチョンボが原因。水の加圧タンクは、サイズを間違えて設置したので、2年目に破損。シャワールームの床は傾斜が逆で水溜まりができて、たたみ一畳分ぐらいの広さをタイル貼り直し。

特に昨年は、ゲストハウスにシロアリが湧いて、ベニヤ板製の押入れの中の棚と、扉の木枠を総入れ替え。これは不可抗力としても、数ヶ月で枠を替えた扉の建て付けが悪くなっての再修理は、余計な手間でしたね。

そして今年。最初に書いた母屋の大屋根の雨樋が錆で腐食して、盛大な雨漏り。雨漏りといっても、屋外なのでしばらく放置してたら、その隙間から強風が入り込んで、石膏ボードの軒天井の一部が捲れ上がってしまった。これが外からよく見えて、部分的ながら廃屋のような佇まい。仕方がないので、雨樋の交換と石膏ボードを貼り直すことになりました。

やってきたのが、屋根材メーカーとしてはフィリピン国内最大手の代理店「カラースティール」。母屋もゲストハウスも全部依頼したお馴染みの営業さんが曰く。「これは雨樋が長過ぎ。」つまり、本来両側から排水すべき長さなのに、ズボラこいて片側しか排水パイプを取り付けなかったので、雨水の重みで樋がたわみ、そこに水が溜まって錆びてしまったとのこと。

ちなみにこの仕事は、加圧タンクのサイズを間違えてくれた、大工のトニオ。これでトニオの我が家への出禁は決定的となりました。

ということで、雨樋は新品になり、捲れ上がった石膏ボードはきれいに張り替えてもらって、総額は約3万円程度。ボードを張り替えを頼んだ、カラースティールとは別の大工さんには、部屋の模様替えでベッドの移動なども手伝ってくれたので、かなりお得な買い物となりました。こういう所がフィリピンは気楽なんですよね。


やれやれと思ったら、今度は3年前に買ったガソリン式の発電機と、3ヶ月前に同じ店で購入のパワーステーション(家電製品用バッテリー)が壊れました。そのお話は次回に続きます。



2023年9月18日月曜日

ツイッターで見てるアマゾン・ジャパン

 ここ1年ぐらい、よく使うようになった日本のアマゾン。フィリピンに長く住む日本人でも、意外と知らない人が多いようですが、日本国内からと同様、注文すれば普通にフィリピンまで配送してくれます。これは以前にも、このブログに書きました。

「普通に」と言っても、配送料は数千円程度かかり、小出しに頼むと商品の価格より高くなってしまうので、ある程度欲しい物の数がまとまってから。なので、数ヶ月に1回、年に2〜3回の利用。それでもずいぶんと便利です。

ただし食品と医薬品はフィリピンへの配送対象外。医薬品と言っても処方箋不要の、風邪薬や頭痛薬、下痢止め、胃薬なんかもダメなようです。味噌・麦茶・乾燥わかめなど、日本からの輸入食材は、ラザダやショッピーなど、フィリピンの業者で扱っているので大丈夫なんですけどね。

さて、今月(2023年9月)、アマゾンに発注したのは、フォトフレーム、電子蚊取り器、電動コーヒーミル(コーヒー豆挽き器)、アニメ監督の宮崎駿さんの書籍、そして浴室で使う椅子。

まずフォトフレームなんて、フィリピンでも普通に売ってるんですが、品質に段違いの差があります。私の場合、パソコンで描いた家族の肖像画やイラストを飾るためのもの。ところが近所のナショナルブックストア(フィリピン全土にある書店チェーン)で買ったフレームは、微妙に歪んでたり、すぐに壊れたり。決して安物じゃないはずなのに。


次がフィリピンでありそうでない電子蚊取り。日本ではすっかりお馴染みになった「ノーマット」ってやつです。電圧の違いがあるので、電池式はUSB充電のが欲しかったんですが、なぜかフィリピン配送対象外。仕方がないので変圧器を使う前提で、電源コード式のものを一つ。

この電子蚊取り、蚊避けよりアリ対策。晴れて暑くなると、台所の壁をアリが行列を作って、ありとあらゆる食材を狙ってくる。殺虫剤を撒くと食器などに付着する可能性があるので、やっぱりノーマットが一番有効。案の定、ダーティキッチンに仕掛けたら、あれだけしつこかったアリがまったく寄ってこなくなりました。

そしてコーヒーミル。いつもこのブログを読んでいただいている方の中には「あれ、つい最近買ったはずじゃ?」と思う方もおられるかも。はい、ラザダで買って使ってました。ところがこれ、コーヒー豆を挽く機能は十分なんですが、掃除の手間がすごく面倒なんですよ。水洗いもできないし。とても頻繁に使う道具なので、考えた挙句にアマゾンで再度の購入。

こんなに単純機能のものでも、日本市場向けの製品は実によく考えられてます。USB充電式でどこでも使えるし、挽きの粗さも微調整可能で挽き終わったら自動停止。何よりも掃除しやすく水洗い可。驚くのがラザダで買ったのと同じくメイド・イン・チャイナなのに、値段のそんなに変わらない。やっぱりフィリピン市場って、中国メーカーに舐められてるのかなぁ?


左がラザダ、右がアマゾン

書籍に関しては、特別に語ることもなくて、最後が浴室用の椅子。実は、もうすぐ日本から高齢の両親が来ることになってます。要介護...までは行かないけれど、さすがに80代も半ばを過ぎているので、足腰が弱っている。なので、シャワーを浴びる時には、しっかりした作りで滑りにくい椅子を使ってるんですよ。

さすがにこの手の介護用品はフィリピンでは入手が難しく、アマゾンから購入一択となりました。すぐに組み立てましたが、やっぱりこれもよく出来てます。

ちなみにアマゾンでポチって、実際にネグロスの自宅に届くまでが1週間とちょっと。配送はDHLの担当で、セブ経由で配達されました。アマゾンのサイトから状況は追跡できて、大きな問題はなかったものの、なぜかセブで数日止まっちゃっいました。苦情でもないんですが、ツイッターで「一体いつ届くのかなぁ」と呟いたら、なんとアマゾン公式のアカウントが謝罪と地元配送業者に確認してくださいとのリプライ。DHLのサイトからも、同じ番号で追跡できるんですよね。

ということで荷物が届いて、その箱の写真をもう一度投稿したら、またもやアマゾンから「箱に貼ってあるシールで個人情報が漏れるから、削除してください」とのリプ。すごいなぁ。アマゾンの中の人って、こんな対応までしてるんですね。(添付した写真は、配送関係の情報すべて、ボカしを入れてます。)



2023年9月16日土曜日

海外で感じるタイガース優勝の衝撃波

 リーグ優勝してしまいましたねぇ、阪神タイガース。聞くところによると、1935年(昭和10年)創設で、巨人に次ぐ長い歴史を持つ球団なのにもかかわらず、現在のセ・パ2リーグ制になって以来の優勝回数は10回。まぁ巨人の47回と横浜ベイスターズの2回という両極端の数字を除けば、セリーグの他3球団がすべて9回なので、弱いわけでもないけれど、やっぱり18年ぶりとなると、ファンとしては大騒ぎにもなるでしょう。

ちなみに私は、兵庫県尼崎市生まれのコテコテの関西人なんですが、阪神ファンではありません。父が巨人贔屓だった影響で、社会人になるぐらいまでは、どちらかと言うと巨人ファン。キャリアの晩年ながら王・長嶋がまだ現役だったし、アニメでは「巨人の星」「侍ジャイアンツ」を見て育った世代。意外に思われるかも知れませんが、関西地方でも、一定の割合で巨人ファンがいたんですよね。

ところが私の人生の節目には、なぜか阪神が優勝していて、まず私が生まれた昭和37年(1962年)。21年ぶりの昭和60年(1985年)は、私が就職した年。この時に、熱狂した虎キチが道頓堀に飛び込んだり、ケンタッキー・フライドチキンの店先にあったカーネル・サンダースの人形を「バースや!」と言って川に放り込んだりの事件がありました。そこから18年間、優勝できなかったのは「カーネル・サンダースの呪い」だと言われたものです。

そして平成に入って2回目の優勝時の2005年(平成17年)には、息子が誕生。この当時は、会社生活が一番ツラく鬱を患ってたので、タイガースのことなどまったく記憶に残ってないのですが、後から思えばそういうことでした。そしてその息子が成人した今年2023年、再び18年ぶりにリーグ優勝。

日本からフィリピンに移住してもう11年目に入るのに、いまさら日本のプロ野球のネタでもなかろうとも思うものの、タイガースに限らず、熱狂的なファンの場合、そういう環境でも贔屓チームへの想いは継続するんですよね。私の知り合いの中にも、ハンガリーやマレーシア在住にもかかわらず、「猛虎会ブダペスト支部長」や「ベイスターズファンクラブ・クアラルンプール代表」を名乗っている人がいます。

まぁ阪神にしても横浜にしても、滅多に優勝しないチームなので、何年も実らぬ声援を送り続けるのは、なかなか切ないだろうと推察。私など、巨人には興味がなくなってからは、イチローや松井、今は大谷選手のカジュアルなファンというミーハーな路線を保っていて、精神衛生上はとても楽なもの。要するに特定の球団ではなく、メジャーで活躍する日本人選手全員のファンってことです。

とは言え、フィリピンからネット経由で眺めているだけでも、地元出身者としては、ネタとしての阪神優勝は、極上かつ超レアなエンターテイメント。何しろ経済効果969億円に達するという試算もあるぐらい。そう言えば1985年の時には、大阪府池田市に本社があるダイハツが、ボディサイドに黒と黄色のストライプが入った「タイガース・エディション」のミラを発売したりしてました。調べてみたら、今年もやるそうですよ。




2023年9月15日金曜日

フィリピン親戚ガチャ

 最近の日本では「親ガチャ」なんて言い方が、当たり前のように使われているそうです。あるいは「実家が太い」なんてのも。ガチャは、カプセル・トイの玩具を取り出す時の音「ガチャガチャ」が由来なんでしょう。アメリカ発祥で私が子供だった1960〜70代にも、すでにカプセル・トイは、遊園地などにありました。

つまり、自分が欲しいものかイマイチの玩具か、何が出てくるか分からない。「太い実家」=裕福だったり、優しい親の元に生まれれば、親ガチャがアタリで、貧乏夫婦や毒親だったらハズレというわけ。「毒親」もかなり最近の言葉。

ただ呼び方は変わっても、そういう状況は大昔から同じで、貧乏で子沢山家庭の長女に生まれた母などは、駄菓子屋やってた祖母に代わって、幼い弟や妹の面倒を見てました。毎朝の弁当作りから果ては父兄参観日の代行まで。まさに親ガチャ大ハズレ。「一人っ子でお金持ちの家に生まれたかったなぁ」とこぼしたら、六人兄弟姉妹の末っ子の妹に「私なんか、生まれんかったらよかったんや〜」と泣かれたらしい。もちろん今と時代が違っていて、子沢山は当たり前で、敗戦で日本全体が貧乏だった頃のお話。

それから高度経済成長を経て、私が就職した1980〜90年代はバブル経済真っ盛り。貧困なんて日本からは無くなったと思ってたら、バブル崩壊に続く政治の失態続き。気がついたら給料は上がらないのに、税と保険料は上がり、かつては世界一と言われた技術力も低迷。IT化や男女平等など多くの分野で、明らかな後進国に成り果ててしまいました。なので「親ガチャ」という、前世紀の遺物みたいな概念が持て囃されるんでしょう。

ところで、私が今住んでいるフィリピン。戦前の日本か、ひょっとしたらそれよりエゲつなく、親ガチャで人生が決まってしまうお国柄。運悪く貧困層に生まれてしまったら、まともな教育機会もなく、10代で親になり、貧困の連鎖の歯車の一部になるしか生きる術がない。国民的英雄、ボクサーのマニー・パッキャオや前マニラ市長のイスコ・モレノなど、極貧から身を起こして富裕層の仲間入りできるのは、幸運と才能に恵まれた一握りの人々。

そして、そんなフィリピンの人たちを、配偶者に選んだ日本人にも当てはまるのが「親戚ガチャ」。夫なり妻なりは、自分で選ぶわけですから「ガチャ」的要素は少ないけれど、結婚相手の親戚なんて、一体どんな人がいるのか、結婚するまで分からない。 7〜8名のおじ・おばがいるのが普通で、母方・父方でその2倍、従兄弟姉妹に至っては何十名のオーダーが珍しくない。さらに誰かの誕生日やクリスマスパーティなど、大人数が頻繁に顔を合わせたり。

日本でも義母・義父との関係がギクシャクして、相手の実家とは絶縁になったり、最悪の場合はそれが原因で離縁にもなりかねないほど難しい関係。それに加えてフィリピンの場合、なぜか義理の兄弟姉妹、あるいはおじ・おばが同居していて、事あるごとに理不尽な振る舞いだとか、初対面の親戚からいきなり借金頼まれたりすることもあるらしい。

「らしい」と書いたのは、幸運にも私の「親戚ガチャ」は大アタリ。このブログにも何度か書いた通り、お金や時間を守る感覚は日本人と大差なし。特に行き来が頻繁な、母方の叔母や従兄弟姉妹たちは、気遣いも細やかだし、お金を貸すどころかいつもお世話になっています。少なくともこっちが困惑するようなことは、滅多に起こらない。

さらに、数日前にツイッター見てて驚いたのが「友人ガチャ」。カトリック信徒でもないのに、よほど人数が足りなかったのか、あるフィリピン在住日本人の方がフィリピンの友達から、生まれた子供のゴッド・マザーになってほしいと頼まれたんだとか。

日本のカトリックだとゴッド・ペアレンツ(代父母)は、かなり重い存在で、当然信徒以外には声がかからないし、将来に渡って、その子の信仰を正しく導く「師」であることが求められます。ところが、その辺りが大らかと言うか、エエ加減なフィリピン。一人の子供に何人もの代父母が選ばれるし、それほど深い付き合いがなくても、数合わせで適当に人選。

ちなみに私の家内など、独身時代から親戚や友人の子供のゴッド・マザーになっていて、その数はもう本人も覚えていないほど。と言うことは自動的に、その家内の夫になった私のゴッド・チルドレン。家内から詳しく教わったことがないので、ほとんどの子供は、その名前を知りません。

それぐらい軽いノリなので、ツイッターで「これって引き受けて大丈夫なんでしょうか?」となっている人に、上記のような事情をリプライしたんですよ。ところが、そのチャットににかぶせて、フィリピン暮らしが長そうな別の日本人の方から、代父母になって、その子が学校に入る時にの入学金を払うハメになったとのリプライ。いやそれは、いくらフィリピンでも有り得ないでしょう。カトリックの代父母に、経済的支援の義務はありませんよ。

私が想像するに、代父母だからというのは体の良い言い訳で、金持ち日本人だからダメ元で吹っかけてみるかと、カモにされたんじゃないでしょうか。そもそもフィリピンでは公立学校なら無料で、入学金が必要ということは私学。親が周囲に「日本人のゴッド・ファーザーが入学金を払ってくれた」と、見栄を張るためなのかも知れません。友人ガチャ大ハズレ。

ということで「親ガチャ」だけでなく、「親戚ガチャ」に「友人ガチャ」まで気にしないといけないフィリピン社会。夫や妻の親戚や友人相手だと、無視や絶縁も難しい事情もあるでしょう。やっぱり人間関係に関しては、日本もフィリピンも一筋縄ではいないものです。



2023年9月8日金曜日

復讐するは我にあり

 タイトルに使った文言は、新約聖書の一節。ローマ人への手紙の中でパウロが語った言葉です。あなたを迫害する者のために祈りなさいと諭し、徹底して耐え、悪に対して悪で応えてはいけないと戒めます。さらに、自らの手による復讐を禁じ、復讐は神によって為されると続くわけです。つまり「我」とは神さまのこと。

日本では、昭和38年(1963年)に起こった連続殺人事件に材を取った、佐木隆三さんの小説の題名に使われたことで有名になりました。これは、あまりにも理不尽で理解不能な殺人動機に、佐木さんが被害者側の視点で書くしかないと、考えたからだそうです。ただ、本来の意味ではなく、あたかも復讐を肯定して、強く念じる言葉として理解した人がほとんど。まぁ、聖書に馴染みのない人なら、ちゃんと説明されないとそう思うのも無理はないでしょう。

と、聖書の講釈のような書き出しになってしまいましたが、まるでこの言葉を地で行くような体験をしたというお話。実は私、社会人になった頃から、深刻なトラブルを起こした相手が、それほど時を経ずに、意に沿わない異動や辞職になったり、不測の病になるということが多いんですよ。もちろん喧嘩した相手がすべてそうなるというわけではなく、こっちにも非があるなと思える場合は、何も起こらない。

覚えている範囲で数えてみると、ちょっと異常なまでに指示が細かく、それが原因で深夜に及ぶやり直しが日常茶飯事だった上司が、いきなりの左遷。見方によってはそうかも、ではなく、誰がどう考えたって、なぜそんな地方都市に転勤させるか?という類のもの。

次は、人を怒らせるのが趣味みたいな同僚。吐き出す言葉のほとんどすべてに毒を含んでいて、相手へ皮肉や侮蔑なしに会話ができないという、ある意味天才的な人物。あれほど上からも下からも嫌われた人には、会ったことがありません。彼の場合は、内臓に致命的な病気が見つかり、医師に長生きはできないと告げられたそうです。

一番ひどかったのが、エゲつないパワハラで、私を半年の休職に追い込んだ上司。このオっさんの被害者は私だけでなく、何人もの部下が心を病んだり転職したりが相次ぎました。さすがに事態を重く見たさらにその上の管理職に、辞職を勧告されたんでしょうね。ほどなくオっさんの姿は、社内から消えました。

これ以外にも心当たりはあるのですが、10年以上経っても差し障りがあって書けない人もいます。

そして50歳で早期退職してフィリピン移住。日本でのドロドロの人間関係から逃れて、遠くネグロス島の片田舎までやって来たので、もうこれで終わりかと思ったら、やっぱり続きがあったんですよ。

まずは、たまたま購入した宅地のすぐ近くで活動していた日本のNGO。最初はボランティアで協力してたんですが、このNGOを現地で仕切っていた日本人マネージャーというのがとんでもない人物。公私の区別が全然できず、NGOで雇ったローカルスタッフを飲食店で働かせてその上前をハネたり、部下と肉体関係を持ったり。

仕事の約束は守らないし貸した金は返さない。私は早々に縁を切りましたが、結局はNGOの代表にクビを切られたそうです。またその怨みつらみをSNSに垂れ流したりしてました。

フィリピン人相手でも同様のことがあって、すぐ裏手の豪邸のオーナー。宅地の真ん中で闘鶏を飼育して、鶏を鍛えるためと称して昼夜関わりなく大音量の音楽。数ヶ月に一度は広大な庭で闘鶏大会を開催。迷惑を通り越して災害のレベル。宅地で闘鶏って、フィリピンでも違法なんですよ。

ところが半年もした頃でしょうか。突然、たくさんの鶏がいなくなり音楽もパタっと止みました。どうしたのかと思ったら、当のオーナーがパーキンソン病で寝たきりになってしまったそうです。なので養鶏も闘鶏も廃業。

直近の話題では、コロナ禍の最中にモメた近所のオジさん。これはブログにも書いた通り、買った宅地を畑にして野菜作り。それだけなら良いんですが、フィリピンあるあるで、デカいスピーカーを持ち込んで轟音を響かせながらの畑仕事。警備員に頼んで苦情を入れたら逆ギレされて、バランガイ訴訟になってしまいました。これはバランガイ・キャプテン(町内会の会長みたいな要職)が上手に取り成してくれて、大事には至りませんでしたが。

そのオジさん、しばらく姿を見ないと思って先日その畑の前を通ったら、あれほど通い詰めたご自慢の畑がすっかり草ぼうぼう。もう怖いので詳しくは聞いてませんが、やっぱりどこか具合が悪くなったらしい。

ということで、私が本気で相手の不幸を念じたりしたことはないんですが、なぜか結果としてこうなることが多いという、ちょっとオカルトじみたお話でした。



2023年8月31日木曜日

金のために働いて何が悪い

 もちろん皆さん、お金のために働いてるんですよ。お金のため「だけ」でもないでしょうけど。そりゃ、給料も報酬も利益も何にもなければ、誰も働きませんって。ボランティアっていうのもありますが、あれは飽くまで期間限定の人助け。

そして常識で考えれば、労働の対価が高ければ高いほど、アウトプットは良質になるもの。マカティにある最高級ホテル、ザ・ペニンシュラのスタッフと、シライ市内のセブンイレブンのレジの対応にある差は、もらってる給料の差ということです。当然ながらペニンシュラとセブンでは、就職するのに何十倍・何百倍も難易度が違います。

私の住むフィリピンの場合、この法則が露骨なほどで、それなりに高額な支払いを見込まれる顧客に対しては、こっちが恐縮するほどのサービスぶり。例えば銀行。移住に際して、退職金を全額フィリピンの銀行口座に送金して、キャッシュカードを作るためにシライ支店に家内と二人で出かけたら、支店長自らが、揉み手をせんばかりの丁寧な対応。これは別室で...とかじゃないんですよ。窓口で待っている他のお客さんから見えるところでの話。

日本の銀行でも預金者への態度は丁寧ですが、預金額でこれほどの極端な差をつけるのは、あんまり聞いたことがありません。むしろ、高島屋や阪急百貨店と近所のコンビニのお客さん扱いに、それほど大きな違いがないという事がすごい。海外からのインバウンド客が驚いたり感動するのも無理はない。なので、たまに一時帰国すると逆カルチャーショック。

給料が安くても仕事をキチンとこなすのは、日本人の美徳だとは思うものの、それも度を過ぎると害悪。最近は勘違いした中高年の客、つまり私の同世代のオっさんが、バイトに怒鳴りつけたり土下座謝罪を要求したり。まぁ実際には、それほど多くはないんでしょうけど「日本の常識は世界の非常識」の典型的な事例。

そこへ付け込むのが「やりがい搾取」や「ブラック会社」。すごく高給なら、心身をすり減らすような激務に耐えるのも分かりますが、安月給で過労死するまで働く人が後を断たないのは、日本の社会や教育に構造的な欠陥があるとしか思えません。同じ会社に28年も在籍して鬱を病んだ私が言っても説得力はないけれど、少なくとも業界平均よりは良い給料をもらってましたし。

なぜそうなっちゃうのかと言うと、金は汚いもので、給料の多寡で働きを変えるのは恥ずべき行為、みたいな変な感覚が残っているのが、背景にあるんじゃないか。これをそのままフィリピンに持ち込んだ日本人起業家が、現地従業員を雇ったはいいけれど、せっかく一から仕事を教えて育てたのに、すぐにライバル会社に転職した、と憤慨したりする。

当のフィリピン人にすれば、仕事を教わるのはビジネスの一環で、在籍期間の長短に関係なく、給料が良い会社へ移るのは当たり前。キャリア形成のために転職を繰り返すのが常識なんですから。むしろいつクビになるか分からない不安定な立場だし、そこに義理人情を持ち込まれても困るでしょう。もちろん辞め方がドン臭くて、ちゃんと辞職の手続きしてないのにバっクレて、他で働き始めるのは良くないですけど。

日本では、ごく最近になってようやく、身を守るためにさっさとブラックな職場から退職すべきで、キャリアアップのために転職は罪悪ではないという雰囲気が醸成されているのは喜ばしい限り。ただ、民間企業はそれで良いとしても、問題は教職や医療関係者。特に先生に対する仕打ちは、フィリピンからネット経由で漏れ聞こえる範囲では、相当ひどいらしい。

実は私も知らなかったんですが、公立校の教師には残業手当が付かないですってね。そんな状況で、夜遅くまでクラブの顧問をやらされたり、親からの苦情を対応させたり。ちょうど今も、プールの水道閉め忘れた責任で、その先生と校長に水道代95万円を請求したと、ネットで話題になってます。

こんなことしてたら、若い人は教師を目指そうなんて思わなくなるし、教員不足は当然の帰結。それでも政府は、教員免許がなくても教えられる人を増やすとか、教員採用試験の年齢制限を撤廃するとか小手先の対応に終始。頑ななまでに「労働環境の改善」「給与の増額」と言った、根本的かつ常識的な対策を拒んでます。史上最高額の税収があって、史上最高額の国家予算を組んでいるのに。

同じように、教師・医師を含む高学歴労働者や、公務員・警官の給与を長年ケチったフィリピンでは、能力のある人材はどんどん海外に流出し、公的機関のスタッフは賄賂を要求するのが当然の状況になってしまったのは周知の通り。

日本の場合は、賄賂天国になるとは想像しにくいですが、すでにタクシーや運送会社の運転手さんが人手不足。赤字の鉄道路線を廃線にしたくても、代わりのバス運転手が見つからない地域もあるそうです。若干様相は違っても、かつて「東南アジアの病人」と揶揄されたフィリピンの二の舞になりかねません。

フィリピンでは、お金が無くて満足な医療サービスが受けられないのが、数年後の日本では、医師や看護師の数が足りなくて入院できなくなる、なんて空恐ろしい想像をしてしまいます。

ということで、書いているうちに腹が立ってきて、少々感情的な長文になってしまいましたが、国家としての品格を保つためには、どんな職種であっても、国民が楽に生活できて家族を養えるだけの収入が必須という、当たり前の話でした。



2023年8月30日水曜日

フィリピンで生活費 月40万円?

 少し前のことなんですが、ツイッターで目にした、フィリピン在住邦人の方によると思われる「1ヶ月の生活費が40万円になってしまった」という投稿。マニラやセブなどの物価高騰が著しい大都会ではなく、私の住むネグロス島と同じく地方都市。さすがにこれは驚きました。

ちなみに私たち家族、お役所勤めの家内と私立高校生の息子、一応専業主夫で収入のない私の3人での生活費がだいたい月10〜15万円ぐらい。移住後1年目にざっと1,000万円近くの投資で家を新築し、自家用車を購入したので、月々の家賃は不要。もちろん学費や宅地の共益費、税金などなどは含まれています。

私が酒には無縁、かつほとんど引き籠りに近い出不精なせいもあって、3人揃っての外食は月に1度あるかどうか。南国なので着る物といえばTシャツに短パン、サンダル。唯一、自炊の食材は、味噌や味醂の調味料、インスタントラーメンにキューピー・マヨネーズを欠かさないので、そこだけはかなり贅沢してるぐらい。

引き籠りと表現しましたが、病的なそれではなく、600平米のロットに、日本の一般的な感覚からすれば「豪邸」レベルに広い家。これは、そんな家に住むことが昔からの夢だったし、現役時代の私の稼ぎでは絶対に実現不可能。なのでフィリピンに移り住んだわけですから、そこは大目に見ていただきたい。自宅の居心地をよくすれば、そうやたらと出歩かなくても、QOL(生活の質)は十分保てるとの目論見が当たりました。

もちろん、良い生活を安く上げてるからスゴいと、マウントを取るつもりはまったくなくて、大都会と比べたら仕事はないし刺激も乏しいネグロス島。私のライフスタイルと定年退職という状況があってのQOL。20〜30代の働き盛りで好奇心旺盛な人々にすれば、ほんの1ヶ月もネグロスに住めばすれば退屈してしまうかも知れません。

そしてつくづく思うのが、この10年ほどの間に、短期・長期あるいは永住を問わず、フィリピンに住む日本人のバラエティの幅が大きくなったこと。ちょっと前まで、企業の駐在か、フィリピーナを追っかけて日本から脱出した中高年男性がほとんどだったのが、今では年齢も性別も実にさまざま。親子留学もあるので、若者どころか幼児や小学生までと実に多彩。

フィリピンに来てから、水商売とは無関係にパートナーを見つけ、結婚・出産してママやパパになる人もいるし、本格的に起業してたくさんの現地従業員を雇いバリバリに仕事してる人もいる。もちろん男性も女性も。こういう情報をSNSやユーチューブで発信するのが当たり前なのも、私がフィリピンに初渡航した四半世紀前からすれば隔世の感。

なんてことを勘案すれば、良い悪いではなく、収入がたくさんあって、たとえ地方在住でも一月に何十万円も使う(使わざるを得ない)暮らしの人も出てくるでしょう。その反面、敢えて離島や僻地に根付いて、金銭面だけで見れば実に質素な暮らしの方々もいる。中には計らずも財産を失って「困窮邦人」化してしまう人も。

ということで、月々の生活費の多寡で、勝ち組・負け組のレッテル貼りをする必要もなく、この国で自由に自己実現をする日本人が増えたのは、フィリピン在住邦人の一人としては、ある意味、良い時代になったなぁと感無量です。



穴を埋めるのが下手な人々


冠水したシライ市内の目抜き通り
出典:Digicast Negros

 今年は例年になく、フィリピンに接近したり上陸する台風が多い気がします。一昨日(2023年8月28日)も、9号台風の影響で終日の豪雨に見舞われた、ここネグロス島シライ市。日本の酷暑の原因である、強い太平洋高気圧に行くてを阻まれたのか、ルソン島の東方海上に停滞していたこの台風。驚くことに通常の台風とは逆に南下して来て、ネグロス近辺に逆最接近。

シライでは毎回大雨の度に、河川沿い同じ場所が冠水被害があって、今回もギンハララン、ランタッド、マンブラックなど4箇所でマリスボッグ川が氾濫しました。このマリスボッグ川 は、市域に含まれるシライ山を水源とした2本の川で、海岸近くで合流。その中洲や周辺が、洪水の頻発地帯になっています。

以前にも投稿した通り、ここ10年ほどで台風の頻度は上がっているとは言え、何世代も前から大雨が降ったら市街地が水浸しになるのは分かっている。なので結果的に地代は安く、貧困層が密集することになります。我が家の先代メイドや毎週マッサージに来てくれるセラピスト、以前のイロンゴ語の家庭教師もこの地域の出身者。

もう恒例行事と思うぐらい、大雨→洪水→住民避難が繰り返されているのに、相変わらず市役所がやることと言えば、最寄りの市営体育館や公民館(バランガイホール)への避難者受け入れと、数日分の米の配給。どうして堤防を作ったり、排水設備の整備をしないのか、不思議で仕方ありません。

マニラ首都圏のような大都会は別格としても、他の自治体、例えば近隣のバコロドやバゴなどでは堤防が作られているし、シライが特別貧乏なわけでもない。その証拠に、山間部のリゾートと市の中心部を結ぶ道路なんて、環境保護団体の反対をブッチギりで強行して建設。昨年は、馬鹿デカい新市庁舎を着工。

流域に複数の市町村を含むような川なら、いろいろと調整が難しいかも知れませんが、マリスボッグは市内で完結している河川。市長が決断さえすれば、何とかなりそうなものなんですけどねぇ。しかも現市長のガレゴ氏は、シライ憲政史上初の貧困層出身者。まさに毎度洪水で酷い目にあっている、イーロペス地区の生まれ。

ここからは私の想像ですが、どうもシライ市に限らずフィリピンの国民性として、一から新しい物を作るのは大好きで得意だけど、穴を埋めるようなマイナスの状況をゼロに戻すのは下手なようです。

卑近な例で言えば、公共の場所を清潔に保てないこと。商店街なんて、せめて自分の店の前ぐらい掃除すりゃいいのに、誰も気にしない。もっと酷いのが墓地。市営墓地も、ちょっと値の張るプライベート・セメタリーもゴミが散乱状態。さすがにこの感覚は信じられません。

どうしても人前で喝采を浴びるような、派手な新規事業ばかりが優先されている印象が否めないフィリピン。マニラの鉄道網(LRT、MRT、PNR)にしても、導入はしても、地味にメンテナンスするとかはからっきし苦手、というかまったく重要視していない。なのでおそらく安くあげるために韓国の業者を使って散々なことになり、結局お高い日本の会社に頼ることになる。

せっかくなら、ここで自国の技術者に日本のノウハウを吸収してもらって、将来的には外国に頼らなくてもいいようにするところなんでしょうけど、そういう取り組みをしてるのかなぁ? 今現在は、地下鉄建設が始まっているそうですが、LRTなどと同じ轍を踏まないことを祈るばかり。

ただ、希望が皆無なわけではありません。ドゥテルテ前大統領が打ち出したマニラ湾浄化やボラカイ島の再生は、処理をせずに汚水を垂れ流した施設や業者を問答無用で閉鎖するなどの強行措置によって、ある程度の成果が出たし、ボンボン・マルコス政権になってからも、「死の川」と呼ばれたパシッグの大規模な清掃プロジェクトが進行中。

一見地道で、フィリピンの有権者受けしないと思われてきた、マイナスをゼロに戻す作業も、ちゃんとアピールすれば評価される実績を作ったのは、さすがのドゥテルテさん。コロナも下火になって景気も回復してきたので、これからは地方都市のシライでも「穴を埋める」仕事に脚光を当ててほしいものです。



2023年8月23日水曜日

8月15日を知らないフィリピン人

 もう一週間以上も経ってしまった今年の8月15日。言うまでもなく1945年に日本が先の大戦に敗北を喫した日。戦後17年目に生まれた私も、父母・祖父母の世代から生々しい戦争体験を聞かされて育ったし、戦争を題材にした映画やドラマ、ドキュメンタリーなどを散々見たこともあって、今でもこの日には感慨深いものがあります。

さらに、戦争当事国でもないのに、日本が大変な被害を与えたしまったフィリピンに在住。このブログで何度も書いている通り、ここネグロス島は、マニラ市街戦・レイテ沖海戦に次ぐ第三の激戦地。日本の将兵だけでも8,000名が命を落とし、そのほとんどが病死、餓死だったという悲惨さ。巻き添えで亡くなったフィリピン人も多かったでしょう。

以前は、日本で反戦というと、いかに戦争を「起こさない」ようにするかが主な課題。それを是とするか否とするかは別として、日米安保がある限り、他国が一方的に日本に攻め込むというのは、考えにくいとされてきました。ところが昨年、日本の隣国でもあるロシアが、ウクライナに侵略戦争を仕掛けました。

若かった頃の私は、たとえ紆余曲折があっても、歴史というのは概ねポジティブな螺旋を描くと思っていたんですよ。特にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終わり、差し当たっては核戦争の脅威が去った頃までは。ところが人間のアホさ加減は、そう簡単に矯正できるものではないらしく、21世紀も20年以上経過した今でも、独裁者が自国民の自由を奪ったり殺害したり、隣国を侵略したりの愚行・蛮行は、ちっとも無くなりません。

そして、フィリピンに住んでると、隣の覇権国家からの圧迫を嫌でも感じてしまいます。領有権で揉めている島を平然と埋め立て、滑走路を作っちゃうという暴挙が、すぐ近くで行われている。ニュースでも頻繁に取り上げられてますから、地元の人々にも危機感はあると思います。ほんと、ウクライナは他所事ではありません。

ところが比較的若いフィリピンの人たちって、意外なほど過去の戦争について無知なんですよね。さすがに第二次大戦中は日本に侵略されて、多くの民間人が犠牲になったことは、何となく知っていても、それ以上はまったく興味すらない様子。おかげで対日感情はすこぶる良好で、日本人であることを理由に差別されたり嫌がらせを受けたりしないのは、とてもありがたいんですが、ちょっと複雑な心境です。

そもそも高校でも、系統だったフィリピン近代史や世界史は教えていないらしい。というのは先週のイロンゴ語のレッスンで「日本人にとっての8月15日」みたいなテーマでA4一枚のイロンゴ作文を書いたところ、20代で教員免許もあるエイプリル先生は「へぇ〜、それは知りませんでした。」の連発。知ってたのは、戦犯の判決で絞首刑となった山下大将の名前ぐらい。それも日本軍が密かにフィリピン国内に隠したと噂される「ヤマシタ・ゴールド(山下財宝)」の影響。

まぁ日本だって、歴史教育に関してはお世辞にもきちんとしているとは言えませんけど、フィリピンはそれに輪をかけた状況。太平洋戦争どころか、まだ40年も経っていないエドゥサ革命ですらちゃんと知らなかったりする。なので「マルコス時代は、フィリピン経済が発展した良い時代だった」なんて、あからさまなフェイク・ニュースを信じた有権者が、その息子を大統領に選んだりしちゃうわけです。


2023年8月18日金曜日

猖獗 アフリカ豚熱


出典:Pig Progress

 日常会話ではまず使わない「猖獗(しょうけつ)」なんて熟語を引っ張り出しましたが、私的には、疫病が流行ると、この文字が頭のスクリーンに浮かんでしまいます。この3年余り、人間の世界では、まさに新型コロナが猖獗を極めて、大変なことになり、今もコロナ禍は完全収束とは言えません。そしてほぼ同時期、フィリピンに蔓延しているのがアフリカ豚熱(African swine fever / ASF )。

中国やインド、東南アジアで大流行中のASFの影響で、大量の豚が殺処分となり、フィリピンでも豚肉価格が上昇。「肉」と言えばポークのフィリピン。人間への感染はなく、感染した豚の肉を食べても大丈夫とは言え、インフレで食材が高くなっているところへのASFは、まさに泣きっ面に蜂状態。

以前は「豚コレラ」なんて名称だったASF。人間のコレラが細菌感染なのに対して、ASFはウィルスが原因で全然無関係だったのに、たまたま最初に確認された時、コレラも流行っていたので混同されたんだとか。さらにややこしいのが、日本でも発生が報告されている豚熱は、また別の病気。幸い日本は、今のところASFの清浄国です。

さて、ここネグロスはと言うと、意外にもAFSに関しては無風状態。感染マップを見てみると、セブ、パナイ、ネグロスなどの中央〜西ビサヤは、流行を免れています。スーパーでは、ハムやベーコンなどの豚肉加工品が、まったく流通しなくなったのとは対照的に、地元の豚肉は以前と変わらず。なので、日常の家庭料理にはほとんど影響は出てません。

それでも、朝食にはハムやベーコンが食べたいので、この半年ぐらいは、チキン・ハムにビーフ・ベーコン。不味くはないので、我慢してる感覚はありませんが、やっぱりポークのハムやベーコンが恋しい。

ちなみにネグロスでは、普段からあまり良い牛肉がなく、我が家のカレーもハンバーグも全部ポーク。もし豚肉が買えなくなったら、かなり痛い。代替品の鶏肉も、値上がりするのは見えています。

今回のポークについては、因果関係がはっきりしているのでまだマシなんですが、昨年大騒ぎになった玉ねぎ不足。結局何が原因だったのか分からないまま。一応、ローカルマーケットで普通に玉ねぎは買えるようになったものの、今だに白玉ねぎはやや品薄。

それだけでなく、フィリピンでの食材って、イマイチ供給が不安定なんですよね。おそらく地方のネグロスだからって言うのも大きいんでしょうけど、よく欠品になるのが、毎朝、息子が飲んでるヤクルトと私のトマトジュース。中華料理に欠かせない胡麻油に豆板醤。餃子の皮とちょっと大きめの春巻きの皮。最近ではセーブモア(SM系列のスーパー)から、缶入りのドッグフードが消えてます。

ここまでは、一般のフィリピン人の食生活に欠かせない...わけでもないけれど、驚くことに、フィリピン人のソウルフードのスパゲティ用のトマトソースが、たまに無いことがあるんですよ。急にホームパーティやることになって、慌ててスーパーに走ったら、甘い甘い「フィリピノ・テースト」しか残ってなかったりすると、日本人としては暴れたくなります。

ということで、前回の代替食材で春巻き作った話にも通じるんですが、フィリピン暮らしで、こと食事に関しては「⚪︎⚪︎じゃないとダメ」みたいな拘りを持つと、なかなか苦しくなります。豚肉がダメなら鶏肉が、それもダメなら魚があるさ、ぐらいの柔軟性が必要ですね。もっともこれは、フィリピンに限ったことでもないですけど。


2023年8月17日木曜日

美人家庭教師 素麺を食す

 またもや一週間以上も放置してしまった、このブログ。読んでいただいている方でも、前回の投稿(卒業生は80歳)の内容は忘れておられるかも知れません。今日は前回取り上げた、私の家庭教師のバンビ先生のバックアップ要員、バンビの姪っ子エイプリル嬢が登場です。

とても一児の母とは思えない魅力的なエイプリル。実年齢も若いんですが、知らないこと、新しいことに好奇心いっぱいで、イロンゴ語レッスンの合間に、私のくだらないジョークにも大笑いしてくれる、関西風に言うと「エエお客さん」。これは叔母のバンビも同じ。

そして、日本のアニメやカルチャーが好きなフィリピン人あるあるで、YouTubeで見つけた日本関連の動画を、フェイスブックのメッセンジャーで送って来て「これは何?」と尋ねて来る。

しばらく前にエイプリルがシェアしたのが「流し素麺」。なるほど、知らない人にすれば、何とも不思議な食文化。全然背景が分からないもんだから、竹筒に流れているのは熱湯だと思ったらしい。まぁフィリピンで麺類と言ったら、茹でたスパゲティとか熱いスープのバッチョイ(フィリピン風のラーメン)。麺と冷水の組み合わせは、思いつかないようです。

素麺に興味があるのならと、その翌週のレッスンの休憩時間に、素麺を用意しました。さすがに流し素麺はできないので、代わりに卵焼きとセットで出したら、これがバカ受け。日曜日の午後で、昼食は済ませてる筈なのに、美味しい美味しいと完食。まぁ、こっちでは「ミリエンダ」とか「パマハウ(イロンゴ語)」と称して、午後3時頃にかなりの量のおやつを食べたりはしますけど。


ちなみに日本製の素麺や蕎麦は、ロビンソンズやスーパーメトロなどの大手スーパーの輸入食材コーナーに常備されているので、ネグロスでも普通に購入可能。

こんな具合に、日本のアニメ好きの人が日本食に興味津々になるケースが多いらしく、私が作る「日本っぽい」料理にも、こっちの親戚や友達にファンがいたりします。もちろん、本格的な和食ではなく、カレーやトンカツ、オムライスにお好み焼きの類。子供が喜びそうな献立ばかり。日本なら、わざわざお客さんに出すようなものでもない。

そして、バンビの本職、多忙なALS(Alternative Learning System / 代替学習システム)の卒業式が終わったので、ご苦労さんを兼ねて二人の家庭教師をランチに招待した、先週の日曜日。この日は、地元のエビをたくさん使ったエビピラフと、春巻きがメイン。


フィリピンでは、ルンピアという名前で一般的な春巻き。ただし、日本で食されるものとは中身がだいぶ違います。ほぼ挽肉だけとか、トウガラシを巻いた「ダイナマイト」、さらにはバナナを使った甘いもの等々。サイズもかなり小ぶり。

私の場合は、日本で買った料理本がネタ元なので、いろんな野菜を刻んで巻きます。ただ、椎茸やタケノコが、シライの市場ではなかなか見当たらないので、缶詰のマッシュルームやサヤエンドウみたいな緑の長い鞘にはいった豆を代用に。さらに挽肉ではなく、これまた缶詰のコーンツナ。この組み合わせが結構いい感じ。

この日本風と言うか、オリジナルスタイルの春巻きが、またもやバカ受け。バンビもエイプリルも、フィリピン式マナーに則って、素手でバリバリ食べてました。例によって好奇心満々のエイプリルは、その後のイロンゴの授業で、材料を熱心にメモるほどのお気に入り。

ということで、ささやかな日比交流に役立っている、先人が営々と築き上げてきた、日本の食文化に感謝することしきりです。



2023年8月9日水曜日

卒業生は80歳

 先週投稿した、私のイロンゴ語家庭教師のバンビ。彼女はALS(Alternative Learning System / 代替学習システム)で、訳あって学校に通えない人たちに、高校の授業をする先生です。先日、ALSの卒業式が、ここネグロス島・シライの市営体育館で行われました。

その写真が、フェイスブックの市長のページで共有されていたのですが、私が驚いたのは卒業生の数。一般の高校と同じぐらいで、ざっと数百人はいる感じ。こっちの学校って、小中高、どこも生徒数が多い(というか、子供の数が多い)とは言え、普通校に通えない人って、こんなにたくさんいたんですね。

注目すべきは、卒業生の年齢。何と卒業証書を受け取った80歳の婆ちゃんが、バンビに手を取られて降壇する姿が。その後ろでは、同じく60歳の教え子。おそらく、卒業後の就職とか何とかじゃなくて、若い頃に学校を諦めざるを得なかった事への、執念なんでしょうね。昨年還暦の私が、バンビの生徒最高齢と思ってましたが、20年も先輩がおられました。


バンビ先生(左)と最高齢の卒業生


市長をはさんで60歳と80歳の卒業生


ALSの先生たち

もちろん、そうした生徒全員をバンビが一人で教えているのではなく、何人もの教師がいるとのこと。ただバンビの場合、プライベートな時間を犠牲にして「誰一人見放さない」ポリシーを貫いているので、特に多くの卒業生を送り出したそうです。ということは、バンビの担任クラス以外では、最後のチャンスとも言うべきALSを、途中でドロップアウトしちゃう生徒が、少なくないんでしょうね。

先週、久しぶりに私のイロンゴ・レッスンに来てくれてバンビ曰く「頑張ってたくさん卒業できたので、何か美味しいものでも食べなさいって、上司がボーナスくれました。」なんだか、親戚の子供が、予期せぬお小遣いを貰ったみたいで、不惑のバンビが幼い子供のように嬉しそうにしてました。

それにしても、いくら地方分室とは言え教育省勤務の国家公務員で、そこそこの給料があるはずのバンビ。それなのに、パートナーのマイケル君と住んでいるのは、約6畳程度の狭いワンルームで、洗濯機を奥スペースもない。よくよく話を聞いてみると、すでに亡くなった親の借金をまだ払ってるんだとか。あと2年で完済すると話してくれました。

兄弟姉妹はたくさんいるバンビなので、一人で背負わなくてもよさそうなものですが、そこは、収入のある人が家族全員を助けるフィリピン的なメンタリティ。これって一人の出稼ぎ労働者の送金に、親族全員がぶら下がっているのと似てます。それだけでなく、国内でロクに働きもしないのに、送金額をケチってると文句を言われ、それに耐えかねて逃げちゃう人もいるんだとか。たまたま出稼ぎ先で知り合った既婚者同士が駆け落ち、なんて話も時々あります。

バンビの場合は、流石にそんなことはないにしても、兄弟姉妹や親戚には何かと問題を抱えているケースが多い。例えばバンビの姉にして我が家のメイドさんのグレイスおばさん。若くして旦那さんに先立たれ、その後苦労して二人の子供を大学まで卒業させました。その娘が、バンビの交代要員で私のもう一人の家庭教師のエイプリル。

このエイプリルも、昨年、夫が精神の病を患いやむなく別居。すぐに激昂して、家具を壊したり本を焼いたりと、とても家庭生活を営める状況ではなかったそうです。それに輪をかけて、親戚には酒で身を持ち崩す人が多い。実はつい数日前も、バンビの27歳の従弟が、飲酒が原因の病気で亡くなったばかり。

何だか「薄幸なるゴレツ(バンビの苗字)一族に幸あれ」と、本気で祈りを捧げたくなりますね。なので、次週のレッスンでは、バンビとマイケル、エイプリルの三人を昼食に招待することにしました。ということで、卒業式の話題でハッピーにまとめるつもりが、ずいぶんと暗い方向に行ってしまってすみません。



2023年8月4日金曜日

息子が18歳になりまして

 18年前の8月3日、私の息子が生まれました。家内が妊娠したのは、兵庫県・尼崎市の実家で私の両親と同居していた頃で、既に家内と一緒になって6年。なかなか子供ができず、今で言うところの「妊活」も、いろいろ試してみたんですが、一向に懐妊の兆しがなく、ほぼ諦めてた時でした。

石油ファンヒーターの臭いが気持ち悪いと言い出した家内に、買ってきた妊娠チェッカー。それで陽性が出たのが、ちょうどクリスマスの翌日、忘れもしない12月26日。なぜそこまで日付をはっきり覚えているかというと、2004年のこの日、スマトラ島沖地震があったから。長さが1,000〜1,600キロもあるという断層がずれることで起こったマグニチュード9.1の大地震で、インドネシアを中心に22万人もの犠牲者を出した大災害。

何ともすごい日だったわけですが、ほんの少しだけポジティブな思い出は、同じ日に私の母がゴルフでホールインワンを記録したこと。今は足腰が弱ってしまい、もうコースには出ていない母。あの頃はすこぶる元気で、父と一緒によくゴルフをやってました。すっかり気を良くして帰宅したところへ、母にとっての3人目の孫という知らせでダブルで大喜び。

その翌年の4月、私は横浜のオフィスへ転勤となり、生まれて初めての関東暮らし。息子は、住んでいたマンションの近く、新横浜の産科医院で生まれました。横浜は医療事故が多いと知人におどかされ、ネットで探してみつけた産科医。決め手は英語を解する医師がいること。費用は少々高かったものの、言葉も不自由な異国の地で初産の家内。その心情を思うと、ちょっとでも快適な場所をと考えたわけです。

家内の骨盤がやや小さいとのことで、息子は帝王切開で誕生しました。ずいぶんと心配はしましたが特に問題はなく、今まで大病も大怪我もせずに18年。

その間、息子にとって...だけではなく私たち家族にとっての最大の変化だったのが、小学校1年生の時のフィリピンへの移住。かねてより私が50歳で早期退職して移住と決めていた時期が、たまたま重なりました。ただ偶然とは言え、6歳というのはタイミングとして悪くなく、比較的言葉が早かった息子は、母語である日本語が十分固まっていました。

生来、言葉に関心の高かった息子。幼稚園で家の近所にある漢字の看板を、ほぼ全部読めるようになり、家内の英語絵本読み聞かせが功を奏して英語も分かる。小学校高学年になる頃には、ハリーポッターを原書と日本語訳で読みこなせるレベルに到達。言語環境が激変することで、言葉の面で息子に悪い影響が出ないかとの懸念は、杞憂に終わりました。

さらに中学生になった辺りから、俄然他の言語に興味が湧いたらしく、暇さえあればユーチューブでラテン語や現代中国語を「自習」。先日など、旅行で宿泊したマクタン島のホテルで、韓国人観光客向けのハングル表記をスラスラと読んだのには驚きました。

夕食時に家族でタガログ語のニュースを見ている時も、しきりと家内にタガログの語彙や文法の質問をしています。そんな時は、日本語から英語にスイッチして、なかなかのマルチリンガルぶり。なぜか地元のイロンゴ語だけは、イマイチ学習意欲はないようですが。

そんな息子の目下の目標は、大学で言語学を勉強すること。へぇ〜、それはまったくの予想外。イラスト描いたりマインクラフトが大好きなので、エンジニアにでもなりたいのかと思ってました。ソフトにしろハードにしろ技術系の進路ならば、私も多少のアドバイスはできたんですが、さすがに言語学となると皆目分かりません。


フィリピン大学 出典:Rappler

ということで、少なくともネグロスの片田舎では、息子の望む分野で良い学校や教授がいるとも思えないので、やっぱりフィリピン大学(UP)ってことになるんでしょうか。一番近いUPのキャンパスでも、隣島パナイのイロイロ。おそらくマニラ首都圏なんでしょうね。家内は今から、息子の一人暮らしの心配をしてますが、それよりも入試。

何しろフィリピンでUPと言ったら、日本の東京大学の位置付け。家内はUPの卒業生だし、息子はシライやバコロドでは優等生なので、二人ともあんまりそっちの心配をしてないようですが、大丈夫かなぁ?



2023年7月31日月曜日

誰一人見放さない高校教師

 先週投稿した明石市の前市長、泉房穂さんに傾倒するあまり、子供の支援施策や学校教育について考えることが多くなった最近の私。日本だけでなくここフィリピンでも、就学時期の子供たちをめぐる環境には、問題が山積しています。

これは、外国人としての私が感じる諸問題ながら、一つには英語とフィリピノ語という必須言語が二重になっていること。ルソン島や首都圏周辺のフィリピノ語、つまりタガログを母語にしている人でも大変なのに、私たち家族の住むビサヤ諸島のように、母語がそれらとは別のヒリガイノン(イロンゴ)語やビサヤ(セブアノ)語だったりすると、外国語をもう二つ勉強するような状況。

さらには、もっとマイナーな母語を持つ山間部や離島出身者は、地方自治体からの情報を得るために、上記の方言すら追加学習となってしまいます。これでは意図的に落ちこぼれる生徒を増やしているようなもの。実際に英語でつまずいて、学校そのものを諦める生徒もとても多い。2015年 フィリピン統計局の調査によると、小学生の12.5%、高校生の18.4%が卒業できずに辞めてしまうんだとか。

さらに深刻なのは、貧困と早すぎる妊娠・出産。以前は、ちょっとドライブしたら信号待ちで子供の物乞いが集まってきたものです。ここ10年ほどは景気が良くなって、中流層のボリュームがぐっと増え、少なくともここネグロス島の州都バコロドや私の住むシライでは、そういう光景は見なくなりました。とは言え、好景気にも乗れない、底辺の貧困層はまったく放置状態で、相変わらずの世代をまたがる貧困の連鎖は断ち切れていないのが、フィリピンの現実。

国公立のすべての学校で授業料が不要になった今でも、中古ですら制服や教科書が買えなかったり、学校へ行くための往復100円にも満たないトライシクル(輪タク)代が払えない家庭もある。それでも頑張って通学しても、中学生ぐらいで子供ができてしまい、やむ無く退学、あるいは、犯罪に手を染めて逮捕・収監というのも、決して珍しくはありません。

そんな児童・学生を救済するセーフティ・ネットとして機能しているのが、ALS(Alternative Learning System / 代替学習システム)。何を隠そう、私のイロンゴ語の家庭教師のバンビが、このALSに従事する現役の高校教師。

彼女は、生徒の自宅や病院、バランガイ・ホール(公民館に相当する施設)、果ては刑務所まで、求められればどこにでも赴いて授業をやります。生徒の年齢も様々で、もうとっくに成人して働いているオっちゃんや、赤ちゃんを抱いたお母さんまで。

当然のように、頭脳明晰・成績優秀な生徒は少なくて、教科書の内容を理解する以前に、そもそも読み書きができない子もいるそうです。そして、ここからがバンビの偉いところ。そんな他の教師が見放した落ちこぼれや問題児であっても、辛抱強く指導。本人がドロップアウトしない限り、時間外であっても補習を延長。

学年が終わって夏休みのこの時期は、卒業する生徒たちが、バンビの自宅にまで押しかけて、ポートフォリオ(就職などに向けての履歴書)作成の助けを求めている。

元来、本当に「敬虔なクリスチャン」であるバンビ。平日は教義に反する事ばかりやって、日曜日だけ教会に懺悔しに来る、多くのフィリピン人不良信徒(私も同類)からは、最も遠いところにいる存在。

なので、加減ということができず、過労と睡眠不足でフラフラになるまで頑張ってしまう。この私が「あなたが体を壊してしまったら、あなたの生徒も家族も、神さまだって悲しむから、自分の健康のことを第一に考えなさい」なんて、柄にもないアドバイスをしてしまったぐらい。ここ1ヶ月ほどは、土日もかかりっきりなので、私のイロンゴ語レッスンは、姪っ子エイプリル嬢に来てもらっています。

ということで、フィリピンというと、子供好き、子供を大切にする、というイメージを持つ方も多いでしょうけど、社会全体として、とても子供に優しいとは言えないフィリピン。そんな歪みを少しでも正そうと、献身的に子供たちを支えているのが、バンビを代表とするような、ALSの先生たちなのかも知れません。



2023年7月28日金曜日

台風三連発


出典:Philstar

 5号台風フィリピン名エガイ(Egay)が、ようやくフィリピンから去った本日7月28日。今回のエガイを含めて、その前のドドン(Dodong)、フィリピンでは真夏の5月に接近したベティ(Betty)と、この数ヶ月で、私たちの住むネグロス島におおきな影響があった台風が三つも。

この台風三連発、どれも比較的似たようなコースで、ネグロスを含むビサヤ諸島に直撃はせず、ルソン島の北部を掠めたり、上陸するというパターン。台風が最も近づいたルソン島では相当な被害が出たのはもちろん、ネグロスでも激しい豪雨と強風。しかもそれが1週間前後も継続。

今回もその例に漏れず、まだフィリピンの東はるか遠方の海上にある時期から、台風がインド洋からの湿った空気を吸い込むような形で、次々と雨雲がネグロス上空を通過。台風が遠ざかるタイミングで、今度は雨に加えて強烈な西寄りの風が吹き荒れました。

もうこのブログで、何回書いたか覚えてないほどなんですが、強い台風が近づく度に、ここネグロス島のシライ市内では、同じような場所での洪水被害が繰り返されます。以前のメイドさんが住んでいたギンハララン、これまた以前の家庭教師の自宅があるイーロペス、そして今回は、週一で出張マッサージをお願いしているセラピスト、ラケルおばさんの地元のランタッド。

可哀想にラケルは、家が水浸しになっただけでなく、ランタッド地区からの唯一の公共交通手段であるトライシクル(輪タク)が、道路の冠水で運行できず、一週間近くも仕事にも行けない状況に。数千円程度の日銭稼ぎで家族を養っているので、さぞや大変だったろうと思います。ようやく今日、マッサージに来てくれたので、350ペソの料金のところをチップ込みで500ペソ払いました。

さて、これらの洪水が頻発する地区。どこも川沿いで、潮位が高い時にゲリラ豪雨が来たら、あっという間に床上浸水。最寄りのバランガイ・ホール(公民館みたいな建物)や学校に、避難した住民が溢れ、市が備蓄する支援物資を、市長が得意げに配給するのがまるでルーティーンワーク。その様子を撮影した写真が、大量にフェイスブックに投稿されるのも、お決まりのパターン。

もう恒例行事みたいになってるんだから、とっとと、排水溝なり堤防なりを作ればいいのに、と私が何度も投稿したのが聞こえたのか、ようやく最近になって、ギンハラランでは堤防工事が始まったらしい。ただ例によって、迅速な作業は望むべくもない。やっぱりギンハラランでも各所で冠水したようです。

繰り返されるのはそれだけではなく、相変わらずの停電もその一つ。特に強風時の停電は、理由がはっきりしていて、周囲の樹木の枝が電線にかかってショートしたり、木製の電柱が風で倒れちゃうから。これまた最近になって、木製からコンクリート製に電柱の入れ替えが進められてるようなんですが、いつになったら終わるのやら。

ただ、私がフィリピンという国と関わり始めた1990年代に比べれば、ここ10年ほどは、少しづつとは言え、いろんなことが改善されてはいます。例えばインターネット。まだ不安定さは残りつつも、ネグロスの田舎ですら光ケーブルが敷設。山間部への道路もずいぶんと整備されました。少し前に投稿したように、日本からの輸入食材が宅配便で届いたりもします。

1960年代生まれの私は、高度経済成長期に、周囲のインフラが次々と整備されたのを子供の頃に目撃した世代。私が小学生の頃ってテレビは白黒だし、家に電話もなかったんですからね。それを思えばフィリピンは、当時の日本ほどスピーディに、というのは無理にしても、これからどんどん良くなっていく可能性は大きい。

ということで、ようやく風雨がおさまったネグロスで、取り止めもなく考えた事を書いてみました。ちなみに次の台風ファルコン(Falcon)が、太平洋を北上中とのことです...。



2023年7月27日木曜日

泉さんは日本のドゥテルテ

今年(2023年)4月に3期12年に及ぶ明石市長の職を退いた泉房穂さん。遠く日本を離れた、ここネグロス島からも、その動向を注目しておりました。先日はアマゾン・ジャパンで購入した彼の書籍「社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ」と「政治はケンカだ! 明石市長の12年」の二冊を読了したばかり。

市長を辞めてからは、満を持したようにインタビューやテレビへの出演、執筆活動にツイッターと、インターネットで見ている限り、ちょっとした「泉フィーバー」が起こっている感じです。現職時代には、どんなに明石市政での実績が上がっても、ほとんど無視かネガティブ報道しかしなかった大手の新聞や放送局さえ、まるで手のひらを返したような持ち上げぶり。

この騒ぎ方って、何となく既視感があると思ったら、1972年(昭和47年)に田中角栄さんが総理大臣になった時に似てるんですよ。当時私は小学校4年生だったので、それほど詳しく覚えているわけではないものの、連日テレビや週刊誌で、あの特徴的な風貌を頻繁に目にしたものです。極め付けは、日頃政治など興味を示さなかった私の父までが「人間・田中角栄」なる書籍を買い込んで読んでいたこと。半世紀の時間差で、親子で同じようなことしてますね。

角栄さんの首相就任時と泉さんが大きく異なるのが、すでにリーダーとしての確固たる実績。何と言っても、全国的に少子化と経済的な閉塞感の横溢の真っ只中にあって、各種の無料化などに代表される改革で、10年連続の人口増を成し遂げました。本人さん曰く、人口増は結果であって、ポイントは「誰一人取り残さない政策」が功を奏したから。

そんな姿を、フィリピンの片田舎から眺めていてフと思ったのが、フィリピン前大統領のドゥテルテさんとの類似。こう書くとすぐに「暴言」と思われるでしょうけど、そういう表層的なことではありません。まぁ、確かに両者とも暴言や舌禍の類は多いですが。

まず、二人とも社会の暗部を実体験として知っている点。泉さんは貧しい漁師の家庭に生まれ、弟さんが障害者。子供の頃に散々差別と偏見にさらされ、それを見返してやろうと、何と10歳で市長を目指したと言います。そして柔道3段で、学生時代には喧嘩に明け暮れていたんだとか。

方やドゥテルテさん。父親は市長や知事を歴任し裕福な生まれでしたが、幼少時に神父からの性的虐待を受けたり、どうやら若い頃には殺人にも手を染めたらしい。もちろん後者については、逮捕も訴訟もされてませんし、本人はジョークとして語ってますが、本当にやったようです。

その後二人とも弁護士になります。つまり両者とも、虐げられた人や犯罪に走ってしまった者からの視点を、共有できる立場にあったこと。その上、フィジカルな喧嘩も強い。加えて法律にも詳しいとなったら、これは鬼に金棒ですね。生半可な脅しぐらいには動じないメンタリティは、こうして培われたものと推測されます。

そして圧巻の市長時代。明石市長の泉さんは、子育て支援の財源を捻出するために、不必要かつ数百億もかかる下水工事を中止したり、完全に年功序列で決まっていた部長職人事を適材適所に改めたり。当然のように、市議会、市役所職員、そして長年、市からの発注を受けていた建設業者から猛烈な反発。殺害予告までされたのは、よく知られた話。

さらに激しいのがドゥテルテさんのダバオ市長時代。こちらは22年以上も市長を務め、喧嘩相手は犯罪者。今ではほとんど伝説と化してますが、禁煙に従わない観光客がいると飲食店からの通報を受けて、警官ならぬ市長自らが現場に赴き、銃を突きつけて喫煙を止めさせた、なんてこともあったらしい。容疑者の射殺黙認の対ドラッグ戦争は、改めて書くまでもありません。

やり方はあきらかに違法で、人権侵害も甚だしいとの批判は今も根強いものの、とにかく最悪の治安だったダバオに平和をもたらしたのは、紛れも無い事実。大統領になってからも、同じ手法を貫いた彼は、常に暗殺のリスクを意識していたと言います。

何よりも強調したいのは、二人とも市民・国民の方を向いた政治家だったこと。どれほど市役所内で四面楚歌の状況になっても、子育て中のお母さんたちを始めとして、二期目以降の市長選では圧倒的な市民の支持で再選された泉さん。マニラのタクシー運転手や、娼婦たちにまで親しまれたドゥテルテさん。任期切れ直前まで高い支持率を保った大統領は、フィリピン史上初めてなんだそうです。

そんな泉さんの話を、先週のイロンゴ語レッスンで、家庭教師のバンビにしたところ、もう身を乗り出さんばかりの共感。貧困から身を起こして、利権政治のジャングルを超人的に切り拓くのは、ひょっとすると日本人よりもフィリピン人に響くストーリーなのかも知れません。特に子沢山のフィリピンで高校の先生をしているバンビには、子供の給食や医療費、おむつの無償化が、激しく心の琴線に触れたようです。



2023年7月24日月曜日

選ばれない国 日本


出典:Asia Media International

 昨日(2023年7月23日)付のNHKの記事によると、マニラで開催された、日本で看護師として働きたい人への説明会に、応募者が17人だけだったとのこと。わざわざ記事にするってことは、NHKの記者は、驚くべきことだ思ってるんでしょう。しかし私を含めてフィリピン在住の日本人にすれば、当たり前やないかというのが正直なところ。

ブログを書くに当たってちょっと調べてみたのが、看護師の給料。厚生労働省の発表によると、2022年の看護師の平均年収は約508万円。話に聞く重労働かつ長時間労働の報酬としては、決して高いとは言えません。10年前、ヒラのサラリーマンだった私ですら、もう少したくさん頂いておりました。

それに対して2021年のアメリカ。全米の平均で正看護師の平均給与が82,750ドルと言いますから、余裕で1,000万円超え。もちろん日米とも地域や病院、役職などで金額には幅があるし、日本の看護師でも高額報酬を受け取ってる人もいる。さらに円安の影響を勘案したとしても、平均で倍の差というのは、ちょっと大き過ぎます。フィリピンで医師として働いている人が、敢えて看護師として渡米するぐらいですからねぇ。

加えて決定的なのが言語の壁。フィリピンで医学を学ぶようなレベルの人なら、普通にネイティブ並みの英語力があるので、アメリカで本職の知識・経験以外に求められるものは、基本的にありません。ところが日本は、医学用語のほとんどが日本語で、それを解さないと看護師として認められないというスタンス。ひょっとすると日本人が日本で看護師資格を取得するより、難しいんじゃないか?

身も蓋も無い言い方をすれば、医療技術があって高度な日本語を理解するような頭脳の人材なら、たかだか年収500万円ではまったく割に合わない日本での看護師職。

という程度のことは、フィリピンに何年も暮らさなくても、ちょっとググれば分かる話。NHKの記事では「人材の獲得競争が激化してる」とか「フィリピン当局の協力が必要」なんて、的外れな結びになってますが、単に労働の場としての日本が、給料が安過ぎて魅力がないってだけ。この説明会を企画立案した人の頭は、1980年代の、ジャパゆきさんが日本に押し寄せた頃から、まったくアップデートされていないらしい。

日本を訪れるフィリピンからの観光客は、今や毎月5万人。韓国人の50万人余りに比べると1/10ながら、労働力を売りに来るより、お土産を買いに来る人の方が多いぐらい。いい加減に、日本が安い国になったことを、骨身に染みて理解するべき時。

当たり前に考えて、人手不足をなんとかしたいなら、給与を上げて、労働環境を改善するのが先決。フィリピン人だって「Karo-shi」という言葉を知ってますから。成り手が少ないと売り手市場になり、給料上げないと人が集まらないなんて、別に経済の専門家じゃなくても分かります。

これは看護師だけでなく、教師やタクシー運転手もまったく同じ構図。結局のところ政治家が、医療・教育・タクシー業界を牛耳っている圧力団体の方しか見てないから。これはもう9割9分政策の失敗だと思います。好き放題やっても与党が選挙で圧勝するんだから、そうなりますわなぁ。



2023年7月23日日曜日

ラザダで購入 味噌と麦茶

 ここ数年ほどで、フィリピンですっかり一般的になったオンライン通販のラザダ(Lazada)とショッピー(Shopee)。両方ともシンガポールを起点とした企業で、アマゾンのビジネス・スタイルを真似たもの。

ラザダは2012年、ショッピーは2015年に創業されましたが、ここネグロスで目立って利用者が増えた(というか、家内が頻繁に使い始めた)のは、やっぱりコロナ禍の頃。通販だけじゃなく食事の宅配もずいぶんと普及しました。コロナがほぼ収束した今も、一度覚えた便利さはそのままなので、おそらくフィリピンだけでなく、同社がサービスを展開するマレーシアやインドネシアでも成長し続けているんでしょうね。

さて私はというと、昨年までは、あんまり利用価値を認めてませんでした。移住後の私の主な物欲の対象と言えば、今のこのブログを書くのに使っている、アップルのコンピューターやiPhone、およびその周辺機器。テレビ・オーディオ機器などのAV関連。書籍に音楽、日本の食材などなど。どれも隣街の州都バコロドに行けば売ってるか、ネット経由で直接入手できるものがほとんど。

最近では、遅まきながら日本のアマゾンがフィリピンからも利用できることに気付き、ネット通販はそちらがメイン。以前にもこのブログに投稿しましたね。(日本のアマゾンでお買い物)何を買ってるかと言うと、フィリピンで売ってそうで売ってない台所用品、例えばポテトマッシャーや、テフロン加工がしっかりしたフライパン。紙の本に自転車パーツ、テレビでNetflixやアマゾンプライムを見るためのクローム・キャストなどなど。

さすがに運送費が高いので、そう頻繁には利用できず、ある程度数がまとまってからの購入とは言うものの、日本からフェデックスやDHL使うほど高くありません。EMSは比較的安いんだけど、フィリピン国内の配送が全然信用できず、追跡したセブまでは数日で届いているのに、そこからが2週間も3週間もかかるダメさ加減。その上宅配ではなく、最寄りの郵便局まで自分で取りに行かなくてはなりません。さらに受け取り時に手数料を取られるし。

なので私にとっては、オンライン宅配はアマゾン一択だったのですが、唯一の弱点が、食料品と医薬品がフィリピンへのお届け対象外。ちょっと困ったのが、バコロドの大手ショッピングモールの輸入食材コーナーで、いつも買っていた日本の味噌や麦茶の欠品が続いていること。まぁ日本の食材に限らず、パスタ用のホワイトソースとか、トマトジュースと言った、やや需要の少ない商品が、長期欠品になるのは珍しくないんですが。

正直なところ、味噌と麦茶がないと絶対困るってわけでもないんですが、やっぱり日本人としては、ないよりあった方が良いアイテム。そこで考えたのがラザダとショッピー。家内に確認してもらったら、嬉しいことにちゃんとラインナップにありました。価格もロビンソン図やSMと同じレベル。早速注文して先日到着。

ただ、アマゾンなら1週間かせいぜい10日なのに、かれこれ3週間もかかりました。しかもついでに買った電動コーヒーミルの一部が破損しているオマケ付き。やっぱりフィリピン・ローカルの配送業者は、イマイチ信頼できません。惜しいなぁ。


手放しでは喜べない結果だったものの、コーヒーミルは機能には影響ない範囲だったし、何より時間はかかったとは言え、正真正銘の日本食材が、ネグロスの片田舎まで宅配されたのは素晴らしい。この国と関わり出してから30年近く経って、ようやくサービスがここまで来たかと軽い感動を味わっております。



2023年7月19日水曜日

気温が逆転 フィリピンと日本

 今年(2023年)はエルニーニョが発生したそうで、日本ではまだ梅雨が明けてないのに、連日の猛暑日。ヤフーJapanやSNSの日本からの投稿では「暑い暑い暑い」の大合唱。フィリピンでも、雨季なのにルソン島を中心に雨不足で、一時はマニラで給水制限もあったとか。先週の台風ドドンのお陰で、一応は収束したようですが。

それにしても、いくら南北に長くて気候に差があるとは言え、秋田では豪雨で土砂崩れで死者が出て、停電・断水で大変なことになっている同じ日に、関東以西では40度に迫る猛暑で、これまた熱中症による犠牲者が出ている日本。まるで天罰でも下っているのかと思うぐらい。

そして日本だけではなく、ヨーロッパやアメリカ、インドなどでも熱波が襲来。最高気温が40度どころか50度に達する地域も。

ところがここフィリピン・ネグロス島では、たまに土砂降りが数日続いたりするものの、全体的には例年通りの雨季。昼間でも風が抜けてエアコン不要の涼しさで、夜には扇風機つけっぱなしにしたら風邪を引きそうなぐらい。一昨夜も、長袖・長裾のジャージで就寝しました。

盛夏が4〜5月のフィリピンなので、例年7〜8月には、温帯の日本が暑く熱帯のフィリピンは涼しい。この時期は、イメージに反して暑・涼が逆転するのが常なんですが、今年はちょっと極端過ぎますね。この調子では、かつて冬の寒さや春の花粉症から逃れることが、フィリピン移住の一つの動機だったのが、さらに夏の暑さから逃れるのも加わりそう。というか「美しい四季の移り変わり」が売りだった日本が、いつの間にエゲつなく過酷な自然になってしまった。

実際のところ、気温の高低差が良いのではなく、桜などの季節の花や紅葉だったり、旬の食材が美味しい時に四季を感じるんであって、へそ曲がりな私など、真冬も真夏も嫌いでした。特に何が耐え難いかって、陽が落ちても30度を下回らない酷暑。正真正銘の「熱帯夜」であるネグロスの夜の方が、ちゃんと気温が下がるからよっぽど凌ぎやすい。

この温暖化が、排ガスや工場排煙による空気中の二酸化炭素増大に起因するのかどうかは、実は専門家の間でも断定はできてないらしい。それでも1990年代ごろから、世界的に平均気温が上昇しているのは間違ありません。

ところが何事も変化に対応できない、今の日本の政治や社会。気象庁が「災害級の暑さ」と、「外、出歩いたら死んでも知らんで」と同義の表現で警告しているにもかかわらず、高校野球の予選は中止にはならないし、学校では校庭で子供に人文字描かせて救急車が来る。いまだに責任者は「ワシらが子供の頃は、暑かっても我慢するのが当たり前やったんじゃ」とか思ってるんでしょうかね?


2023年7月14日金曜日

もう安くないフィリピン


出典:Lakad Pilipinas

 私がフィリピンに移住した10年前に比べると、ずいぶんフィリピンに住む日本人の数が増えた印象です。これは主に在留邦人によるツイッターでの発信が増えたから。ところがJETRO(日本貿易貿易振興機構)のホームページによると、2013年の約1万8千人から、2018年では1万7千人とマイナス千人。さらにこれはコロナ禍以前の数字なので、2023年現在では、さらに減っている可能性もありそう。

とは言え、マニラやセブの大都会からの日本人によるSNS投稿は、以前より活発になっているのは間違いない。その中には、移住を検討中だとか、最近マニラに引っ越しましたなんてコメントもちらほら。今年(2023年)夏季休暇の英語学校への予約は、相当な盛況になっているとも聞きます。

全体は減ったにしても、私からすると特筆すべきは、若年層の増加。かつてはフィリピン移住=若いフィリピーナを追いかけて来た、日本を食い潰した中高年男性みたいなイメージだったのが、最近では、英語留学を経てフィリピンで就職や起業する若者だったり、親子留学で長期滞在する母子だったり。

そうなると、ネグロスのような地方よりも、仕事を探しやすく便利で日本食も豊富な、大都会に集中するのも分かります。そして気になるのが、生活に要するお金の問題。

活発にやり取りされる情報交換を傍目で見てると、フィリピンの物価が安いということは、もう移住の理由になりにくくなっている。そりゃそうでしょうね。マニラに比べれば遥かに生活費の安い、ネグロス島シライに居てさえ、実感できるレベルのインフレ。メイドさんや家庭教師、出張マッサージのセラピストへの報酬は、すべて値上げしました。トライシクル(オート三輪)の料金が、10年前の倍になりましたから。

さらに追い討ちをかけるのが、昨年あたりからの円安。給料が円ベースだったり、日本の貯金、年金に頼っている人には大打撃でしょう。私はマニラに住んでいないので、イマイチ実感はできませんが、1ヶ月の生活費が20万円は必要という声も。シライでも家族3人で10万円はかかりますから、恐らくそれが現実なんでしょうね。

ただ、一口にマニラと言っても、マカティやBGC(ボニファシオ・グローバルシティ)なんてフィリピンで一番地価の高い場所のコンドミニアムに住んで、日本食レストランでしょっちゅう食事をすれば、高くもつくでしょう。住む人は選びますが、もっと安いアパートで暮らし、ローカルの食事を厭わなければ、5〜10万円は安く上がるかも知れません。

まぁ、フィリピン人目線で考えてみれば、マルコスの汚職と圧政が原因の「アジアの病人」状態から、やっと半世紀前の日本の経済成長レベルに到達したわけですから、そろそろ豊かになってもいいだろうという感じ。

これはフィリピンが高くなったと言うより、日本が何かにつけ安いままだったんだと思います。失われた20年30年の果てに、鳴物入りで始まったアベノミクスも、結局は大企業を優遇するだけで終わり、そもそもの目標だったはずの、一般国民が恩恵を受ける景気回復や賃金アップには効果なし。税収は上がり、一部企業の内部保留が増えただけ。フィリピンだったら暴動か革命が起きてもおかしくないですよ。

ということで、1980年代の夢が醒めない、フィリピンかぶれの爺さんが説く「月3万円で暮らせる」は、いまや夢のまた夢。「フィリピンが安いから移住」が通用するのは、ネグロスのような地方で、さらに住み方に工夫しないとダメな時代になってしまったようです。



ネグロスで実践する健康法

 フィリピン・ネグロス島に移住して早10年余り。お陰さまで、日本でのサラリーマン生活でぶっこわれたメンタルも完全に回復し、50代は大病もなくかなり健康に過ごせました。還暦を迎えてからも、ほぼ問題無い感じ。今日は、そんな私なりの健康法についての投稿です。

わざわざ「ネグロスで」って付けちゃいましたけど、やる気さえあればどこででもできる話。また「秘訣」みたいなものでもなく、当たり前のことを当たり前にやるだけ。怪しげなサプリメントを売りつける気もありませんので、ご心配なく。

大雑把に結論から言いますと、規則正しい生活が基本。睡眠時間は6〜7時間程度で、バランスの良い食事を摂り、毎日適度の運動を心がける。酒は飲まずタバコも吸わない。何より重要なのは、ストレスを溜めないこと。

ここまで読んだ方には「それができれば苦労はない!」と怒られそう。恐らく日本在住で会社勤めをしている人には、なかなか難しいでしょう。毎日定時で帰宅できて人間関係も良好なホワイト職場って、そうそうあるとは思えませんから。残業があって、就寝は深夜。睡眠時間は削られるし、夕食の時間はどうしても遅くなる。

逆に言うと私は、健康な生活を送るために辺鄙なネグロスに移住しました。地方都市で稼げる仕事は少ないので、早期退職が大前提。つまり、最大のストレスの元を断ち切ることから始めたわけです。仮にこっちで就職したとしても、残業が当たり前の職場なんて、あんまりないでしょうけどね。

その次に難しいと思われるのが、飲酒・喫煙の習慣がある人がそれを止めること。たまたま私は、生まれつきアルコールがダメな体質。これは親に感謝しなくちゃいけません。そしてタバコは30代前半のある日「今日から吸わない」と決めて以来、一本も口にしてません。こっちは、禁煙のきっかけをくれた家内に感謝です。

そして食事。ネグロスでの引退生活は基本が暇だし、まともな日本食レストランなんて、州都バコロドにもない。なので日本的な味付けが欲しければ、自分で作るしかない環境が結果的には良かった。積極的に自炊をするので、バランスは自分でコントロールできます。もし外食を主体にしてたら、脂っこくて濃い味付けが多いフィリピン料理。不味いわけではないけれど、毎日これだとちょっとキツい。お金もかかりますし。

最後が運動。移住後2年ほどは、近所の市営コートでテニスをしてたんですよ。これは日本でもやってた運動習慣。ところが、パートナーの地元の友人が大酒飲みで、二日酔いでキャンセルの嵐。連絡もくれないから、朝コートまで行って無駄に待つことも多い。これが度重なって、テニスそのものから縁遠くなってしまいました。ちなみにその友人、私より若かったのに、深酒が祟って数年前にお亡くなりに。

テニスの代わり、というわけでもないんですが、今も続いているのが筋トレとサイクリング。筋トレはしばらくジムに通っていたものの、雨季になると出かけるのが面倒になる。そこでダンベルを買い込んで自宅で簡易ジムを作って、毎日15分程度の軽い筋トレ。

この「軽い」というのが、秘訣と言えば秘訣。いくら暇でも、毎日自分を追い込んで筋肉増量!みたいなことやると、私の性格としては絶対に続かない。そもそも今さら筋肉ムキムキになるつもりもなく、骨が脆くなったり、筋肉の減少で転倒しないため。なので、できるだけ毎日は心がけるものの、2〜3日サボってしまっても気に病まない。最低でも1週間に1回できたらいいやってぐらい、軽く取り組んでます。

このユルユル方式が功を奏して、かれこれ8年ほど曲がりなりにも継続中。サイクリングも同じ。毎日15〜20分程度、近所を流すだけ。間違えても炎天下に何十キロ!みたいな無謀な真似はしません。

おまけは毎日1時間弱のカラオケ。一応ボイストレーニングと称してますが、好きな曲をYouTubeで見つけたカラオケ動画に合わせて歌っているだけ。とにかく気持ちよく歌えることが主眼。

ということで、これだけやれば、夜は日付が変わるころには普通に入眠できます。まぁ、夜遊びとお酒が大好きな人や、仕事が趣味って方には、そんな人生、何が面白いんや?と一笑に付されるかも知れませんね。我ながら「酒もタバコも女もやらず、百まで生きた馬鹿がいる」という都々逸を地で行ってるような気もします。太く短い人生も否定はしませんけど、私には向いてませんね。



2023年7月10日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 姪っ子の成人式

 前回は、長いこと放置して久しぶりに投稿した美女イラスト。描き方を変えたので急にピッチが上がって、十日開けただけで次の作品をアップします。

すっかりシリーズ化した友人や親戚の着物姿で、今回は姪っ子ジャスミンがモデルです。2005年生まれで息子と同い年のジャスミンは、今年(2023年)で18歳。つまり今年の誕生日が日本で言うところの成人式になります。

フィリピンでは新成人を一同に集める習慣はなく、各自の18歳の誕生日を「デビュー / Debut」(こちらでは「デブ」と発音)として盛大に祝うのが一般的。それもなぜか、ほとんど女の子だけ。男の子は21歳でデビューのはずが、あんまり派手なパーティはしないようです。

実はジャスミンのデビューは4月。当然私も出席の予定が、数日前に風邪を引いて咳が止まらず、やむ無く欠席となったのは、このブログでも書きました。(行けなかった姪っ子のデビュー・パーティ)

狭いシライ市のことなので、親戚や知人から「どうして欠席したの?」とやたら尋ねられる。フィリピンでは結婚式の次ぐらいに重要な催事らしく、叔父のような近しい人物が欠席すると、とても目立つ。さすがに人が集まるところで、ずっと咳き込んでたら確実に結核かコロナを疑われるし、欠席は仕方ないだろうとは思うものの、その後もずっと気にはなってました。

そこで、思い立ったのが着物姿の似顔絵での成人式祝い。日本では成人式に着物というのは定番で、当日は着付けやヘアセット、メイクなどなどで美容院が大忙し。フィリピンの場合は成人式がない代わりに、卒業式シーズンで同様のことが起こります。着付けはないけど、卒業生本人だけでなく、母親たちが衣装レンタルやヘアセットに殺到。私も息子の中学校の卒業式前に、行きつけの美容院で散髪したら、予約入れてたのに待たされました。

それはさておき、成人式の着物と言えば袴。調べてみたら、明治時代には女学生の制服だったからなんだそうです。さらにその源流は、平安時代の女官。そう言えば雛人形の三人官女って、赤い袴を履いてましたね。

ということで、パーティ当日から2ヶ月遅れで仕上げたのが、振袖と袴のジャスミン。こっちでは袴の有無の意味なんて誰も分からないし、何なら浴衣でも良かったんですが、やっぱり贈り物だし日本人の友達が見るSNSにも投稿します。たとえ自己満足であっても、納得して描きたかったんですよ。


それなりに気合いを入れた甲斐があって、速攻でジャスミンの母、義妹のジーナから大喜びのコメント。大きく印刷して額装すると大はしゃぎ。ちょっと遅れてジャスミン本人からも感謝コメント。その後は例によって親戚や友人から「いいね」の嵐。ほんと、フィリピンの人たちって、こういうのが大好きですね。コスプレが大人気を博すのも分かります。

そして、家内の幼馴染の友人マジョリーから「次は私のイラストも!」とのリクエストが入りました。こちらは成人式ならぬもうすぐ還暦の大御所ですが、謹んで承りました。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

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